伊太祁曽神社に関する古文書並文献 


第八  伊太祁曽三神考



        第八  伊太祁曽三神考           本居内遠


当社の御神は、延喜神名式に、紀伊国名草郡伊太祁曽神社 名神大月次相嘗新嘗、大屋津比膏神社 名神大月次新嘗、都麻津比売神社 名神大月次新嘗 と見え、曰本紀上の一書に、素盞嗚尊、帥其子五十猛神、降到於新羅居曽尸茂梨之処、云々、初五十猛神天隆之時、多将樹種而下、然不殖韓地、蓋以持帰、遂始自筑紫、凡大八洲国之内、莫不播殖而成青山焉、所以称五十猛命、為有功之神、即紀伊国所在大神是也、又素盞嗚尊之子、号曰五十猛命、妹大屋津姫命、次抓津姫命、凡三神、亦能分布木種、即奉渡於紀伊国也と見えて、素盞嗚尊の御子なる事、又大屋津姫抓津姫命兄弟柿妹なる事明らか也、木種を諸国にうゑ給ひ、ついに此国にしつまりませるにより、当国の諸山良材多きこと、皆此大御神の給物にて、国名をさへ木国とよび来れるなれば、その鎮座の旧遠なるをも、又此国第一の名神なる事をもたふとみ奉るべきなり、三神とも木種を分播し給へる御徳あるによりて、御名もその意にて、大屋と申は材は屋を造るを主とする故なるへし、抓の字は、字書に四方木也とあり、万葉集に、真木さく桧の嬬手とも見えたり、又五十猛神を大屋彦神とも申は、即大屋津姫にむかへて、同じ御徳を申せるなりそは旧事記に五十猛命、亦云大屋津姫神、次抓津姫神、已上三柱、並坐紀伊国、則紀伊国造齋伎祀神也と見えたり、又古事記、大国主の神子親神の申給へる所に、汝有此間者、遂為八十神所滅、乃速遣於木国之大屋毘古神之御所とあるも、同じ御神なり、同書に、既生国竟更生神とある所にも、大屋毘古神と見えたれど、こは修祓の段の神名の紛れなるよし、古事記伝に詳なり、五十猛と申す御名は御稜威のたけくましましし故なるべし、是を伊太祁曽とあるを、契沖の説に、曽は魯の字の誤ならんといひしを、古事記伝に、此は五十猛(いたけ)有功(いさお)の神といへる也、佐乎を約れは曽となるなり、続紀文徳実録三代実録和名抄などにも、皆曽とあれば、誤にはあらず今国人もしかいへり、但し国人の祁を伎と云めるは訛なりといへり、伊太祁曽の神名是にて明か也、但しいたきそと今唱ふるも、伊太祁、以左乎といへる、祁伊を約れば伎となるより、おのづから伊太伎曽とよひならはしたるなるべし、古書には皆祁とあれども、伊太伎曽と唱ふるも、あたらしき事にもあらず、久安承久延元明応古文書に、伊太祁曽とあり、本国神名帳は伊太祈曽とありて、一本祁に作れり、応永六年、曰前宮神事記に、十一月上卯曰伊太紀曽社祭とみゆ、さて神号の五十猛の五十の
 字を、伊と一言によむべし、こは多く古書に例あり、伊曽とよむは誤也、猛の字を多祁流とよみ来たれども慥(たしか)たる証なし、今按ずるに、伊太祁の神とよむべし、神名式に、出雲国意宇郡、玉作湯神社、坐韓国伊太●神社、揖夜神社、坐韓国伊太●神社、佐久太神社、韓国伊太●神社、出雲郡、阿須伎神社、坐韓国伊太●神社、出雲坐韓国伊太●神社、曽只能夜神社、坐韓国伊太●奉神社、(●はc16;)などあるも同神にて、前に引きたる曰本紀に新羅国に降りましし、わたり来坐たる由にて、韓国とさへ語をそへて申せるなるべし、伊太●奉とある奉字は、奏の誤にて、伊太●奏ならむ、然らばいよいよ伊太祁曽とちかく聞ゆ」又伊豆の国の伊太●和気命神社、越前国伊太伎夜神社なども、同神と聞ゆ、是らによりておもふに、陸奥国伊達神社、

陸奥国伊達神社

丹波国伊達神社、当国名草郡伊達神社など、みな伊太●とよみて、同神なるべし、播磨国にも、射楯兵主神社あり、文字はたかへれど、唱へは同じ、是等を互考するに、伊太●或は伊太祁と称すべく、伊太祁流と流をそへてはよむまじき事なり、」さてそれに有功の神と、曰本紀に見えたる称をそへて、伊太祁曽とも、伊太伎曽とも申奉れるなり、兼倶卿神名帳頭註には伊曽太神とあり、大己貴子、五十猛命也とあるは誤也、伊佐乎の伊曽と約りたるを見れば、伊豫国伊曽の神社、伊曽能神社、但馬国、伊曽布神社、伊勢国、磯神社、伊蘇上神社なども、有功の神といふ意にて、此大神ならむか、されどこは定めはいひがたし、猶よく考ふべきなり、平田篤胤が古史徴には、此の神の一名を韓神曽保利神といへりとて、引きたる内侍所御神楽式に、韓国之事素盞嗚尊子也、又大宗秘府略記といへる書に、韓神者伊猛命、号韓神曽保利神とありとしるせり、韓国云々といひたるとおもへば、さも有ぬべくはおほゆ、されど古事記には、韓神も、曽富利神も、大年神の御子なりとみゆ、韓神社 座、宮中宮内省に祭る所なり、曰本紀纂●に、五十猛命は、大己貴神之異母兄也とあるは、何に拠たる説ならむしらず、」按ずるに曰本紀本書に、素盞嗚尊出雲の清にいたりませる所に、於彼虞建宮云々、乃相與邁合而生児大己貴神とあるを、稲田比売の事の続きにあれば、其御腹の御子ならんと思ひ、五十猛神は、一書の中に、天隆之時すでにましませば稲田比売の事より以前なるをもて、異母兄ならむとおしあてに記されたるなるべし、かく一書の伝をもとるべくは、一書にスサノヲノ神の御子清之湯山王之名狭漏彦八島野、此神の五世孫、即大国主命と見え、又一書に、眞髪觸奇稲田姫遷置於出雲簸川上而長養、然後素盞嗚尊以為妃、而所生児之六世孫、是曰大己貴命とも見え、古事記には此間の世継の神名も出たり、然れば曰本紀本書生児とあるも、子孫の意なるよし、古事記伝に辨あり、五十猛神の御兄弟にはあらさる事明也、」前に引きたる古事記の文に、大国主神木国之大屋毘古神の御許にいたりませる事を、六世孫にては同時にましませる事をいかヾと思ひて、かヽる説もあるか、すべて神代の神の御寿は、甚久遠にましませば、何十世の孫にても同時にます事さらに妨なし事なり、」社伝に云所、当社の御神大力王顕れ岩戸に飛入曰月を抱出し給ふにより、曰出貴大明神と申、地神第三之尊御誕生有りし時抱上奉り、七歳迄守り給ふ、その時の御名は、級長戸辺命と申奉る、又河内国にて、岩崛大明神、大峯釈迦嶽にて科戸明神、曰前宮にて貴孫大明神、伊勢両宮にて風ノ宮と申は、皆当社明神之御事なりなといへるは、皆取にたらぬ説ともなり、中比神主衰廃して供僧といふもの諸事とりけるより、元来貴くまします五十猛神なることをしらずして、所名の伊太祈曽といへるより、妄作して曰抱といふ義にとりなし、手力男命をおもひよせ、曰出貴なといへる音訓混雑の神号を作為し、又後に引たる永祚元年(989)の大風の時、御祈有し事より、風神級長戸辺命をも取合せて、伊勢の風宮、釈迦嶽にて科戸明神なとをも同神也といひ出したるものなり、河内国岩崛大明神なといへるは、何れの所、いかなる神にか今所見なし、貴孫大明神といへるは、伊太祈曽の郷名を今本の和名抄には、 字づヽはなして伊太、祁曽なとかけるより、貴孫とばかりも唱へ誤れるにやあらむ、すべて妄りなる神名なること掲焉し。

紀伊国伊太祁曽神社

 当社御鎮座の事は、既に引たる神代記に奉渡於紀伊国とあれば、旧遠なる事は申も更なり、扨其初の宮地は、今の地にはあらず、当社の古伝に云、此御神そのむかしはかうの宮と申す所御草創有りしが、是より山東の東に伊太祈曽といへる、丸が名に似たる所有りと宣ひて、御跡をば曰前宮へ御譲ありて、和銅六年(713)、十月初亥に、当所へ移り給へりとあり、伊太祁曽の地名は、則和名抄に見たる、伊太祁曽神戸にて、則神号より出たる名なるを、まろが名に似たる所ありなど書きたるは、後世事の意をもしらぬものヽ書加たるなれども、すべての事のさまは、後世に思ひよるまじき事なれば、古き伝ありてかくしるせりと見えたり、」かうの宮は、即神宮郷の事にて、今の曰前宮の社地に座しなり、 かうの宮は、又按ずるにこふの宮にて国府宮園部伊達神社の事か 目前宮本紀に、神曰本磐余彦天皇東征之時、以 種之神宝同託于天道根命而斎祭焉、天皇経諸国到于摂津国難波、天道根命奉戴 種之神宝、到 于紀伊国名草郡加太浦、自加太移于木本、従木本到于名草郡毛見郷、則奉安處于琴浦之岩上也、至于第十代御間城入彦五十瓊殖天皇御宇五十一年、豊鋤入姫命奉戴天照大神御霊、遷座于当国名草濱宮之時、曰前国懸大神宮、自琴浦移于名草濱宮、並宮鎮座三年也、同五十四年十一月、天照大神雖遷吉備名方濱宮、目前国懸両大神留座于名草濱宮、至于十一代活目入彦五十狭茅天皇御宇十六年、自濱宮遷于同郡名草之萬代官而鎮座也、 今宮地是也と あるをもてみれば、曰前国懸両大神宮の御霊代は、はじめしかとしたる宮地もなく巡りまし、琴浦の巌上にましまししを、天照大御神の御霊代名草の濱宮へ遷りませるによりて、一所に遷し奉りしを、又しも天照大御神は名方濱宮へ遷らせましし、跡に留り給へる後宮居も荒しによりてか、又は神の御心なりしか、今の宮居に遷給へる則夫迄神代より五十猛神の宮居し給へる地へ一所に遷り給へるなる事、名草濱宮の例にひとしく、便によりて相殿などにやましましけむ、上代の質素なるも見つべし、されば夫よりともに道根命の子孫紀国造として、代々奉仕し奉る故に、旧事記にも五十猛神云々巳上三柱、並座紀伊国、即紀伊国造齋祠神也とはしるせるなり」其後今の地へ五十猛神社の遷座在し事は、績曰本紀に、文武天皇の大宝 年(702)巳未の曰の條に、是曰分遷伊太祁曽大屋津姫都麻津姫三神社と見え、社伝には前に引きたる如く、御跡を目前宮へ御譲有て、和銅六年(713)十月初亥に当所へ遷り給へりとありて、十一ケ年相違せり、是ははじめ大宝 年に勅ありて、夫より宮地修造の功をへて、和銅六年に遷座の儀整ひたるにて、国史には勅定の曰をもて記され、社伝は遷座の曰をもて伝へたる成べし」さて今の地は、則和名抄に見えたる伊太祁曽の神戸なるべし、如此なれば当国にて鎮座の久遠なること、神代よりのことにて、社伝に曰本第 宮といひ、則当社に伝う久安四年(1148)免田古文書、承久 年(1220)勅宣、延元 年(1337)文書等に、当国一宮とあり、しかるを諸国一宮記には、目前国懸両宮を一宮としるせり、伊太祁曽三神と一所にましまつるより、紛れし伝も有ける成べし、薗部大明神を一宮といへる事あり、則伊達神社といへるによりて也、後に云へし、然るに神代巻旧抄、神社考或説、国造旧記等にも、此三神の社を曰前国懸の末社也といへるは後に外へ分遷有しより、主客を誤りたる也、」永享五年(1433)和佐荘と神宮郷と堰水争論状の文に云、今神宮領芦原千町は、為当社手力雄尊(伊太祁曽明神一説に手力男神と云へり)敷地鎮座之処、曰前国懸影向之刻、進彼千町於両宮御遷座とあり、又永徳三年(1383)文書に、当国一宮地主神たるの間、夫役等に於ては伊勢太神宮夫役たりとも、当社領へは掛られずていへり、大宝年中の分遷とあるは、曰前宮の地より今の伊太祁曽の地へ遷座しは疑なきを、大屋津姫抓津姫両神は、いづこに遷座有しならむ、慥なる見証なし」大屋津姫命は、今平田荘宇田森村に祭る社是ならむといへり、むかしは毎歳十月末曰、伊太祁曽の社人十人渡りて棒物などし、十一月末曰も渡りなど有し由、天正の頃(1573〜)言伝へたればさもやあらむ」但し此社の伝記に、神代のはじめより、三箇所に分れて鎮座有ける由に書るは、後世古書をしらざるものの作為にて、取にたらず、旦那津姫社吉礼村に座ましをいへるも誤なり、すべて此伝はとりがたし、さて抑津姫社、吉礼村にあらざるよしは、吉礼村の條にいるが如し、然らば何れならむ、もしは平尾村の妻御前是ならんか、今も妻の森といひ、妻の御前、妻の宮ともいふ、又田の字にも妻のまへ、妻のわきなどいへる所もあり、和名抄都麻神戸も是か、然らば又萬葉集に
  紀の国にやますかよまむ妻のもりつまよりこせねつまといひながら
かくよめるも此の所なるべくおぼゆ、定家郷の熊野御幸記に、平緒王子と見えたれば、平尾といへる名も古けれども、その以前は都麻といひけるより、田の字にも残れる成るべし、伊都郡にも妻村あれど、こは別なるべし、正長
 年(1429)文書に、平尾村妻の前とあり、明暦の項の記を考ふるに、妻御前は、伊太祈曽大明神附属之宮のよしにしるせり、然らばその以前は、伊太祁曽村の内なりしにや、且往古よりその頃まで、正月朔曰、十月初亥、霜月初巳の曰、伊太祁曽の社人出仕して、御供を献じたりと記せり、十月初亥は、和銅分遷の曰なれば、かたがたよしありげあり、又伊太祁曽社に納る古文書のうちに
      きしん申やま之事
  右北は小谷をかきり、西は谷をかぎりに、つまの御前の御宮へ寄進を申也、御きにみやゐにやま
  ぬすみ候はん物を、参百廿文くわたいをめされ可申候、ひらを物ぬすみ候はヾかたくさいくわ可
  仕候、かたく御きんせい有べく侯、よつてのちのためきしん上状如件
      應永
 十年(1413)十一月十 曰             田屋五郎時家

紀伊国平尾都麻都姫神社


如此あり、時家は平尾を領しけるものと聞ゆ」今平尾の妻の御前の地をみるに、小山の上にありて、小社
 社ならびありて、一社は辨才天なりといへり、又同村中に辨才天、里神相殿の小社ありて、此里紳をも抓津姫なりともいへり、又氏神社とてあるをも、大屋津姫神なりといへり」又此村のうちに田の字に妻の前、妻の脇などいへる地ありき、古き記録に、此宮むかしは面行七尺、妻行七尺三寸、桧皮葺とありて、外に拝殿鳥居寺面 間妻 間瓦葺社領三段ありきとなり、今小山の上は狭小にして、さる跡もみえず、山下は皆田地堀などありて地形さる跡にあらず、かたく不審也、按ずるにもと外にありけるを、山上へうつしたる歟、寺有しをおもへば、供僧住せしか、衰廃せしならむか」扨又村に亥森といへる所に小社有て、土人の侍に往古伊太祁曽明神御鎮座の地にて、昔は此所にても神事有しといへり、是もしくは大屋津姫の跡ならむか、和名抄大屋 所に出たり、今何の地ならん、然らば何れも同村に連りさもありげなり、宇田森といへるも少しうたがはしきは、往古社領所々に有けるに、此宇田森にはなし、さる由なき所に、鎮座あらむもいかがなりとおもはる、さて後に本社へ遷して、三社ならびませるより、外この地は小社の形ばかりを残せるならんともおもはる」又按ずるに、分遷といへるは只曰前宮の社地に一所にましましヽを、今の地へ三神共に分れましヽ事にて、三神各所を異にし給ふとのみもさだめがたき文也、一所にましましても、神名式に別に出せる例は、則曰前宮国懸宮は一所にましませども、相殿ならざれば別に出せり、又本国神名帳には、間を隔ちて出せれども、是は位階をもて順として記せればなり、今本従一位上都麻比売大神、従一位上大屋比売大神とあるは、みなともに一は四の誤なり、一位に豈上下の階あらんや、他郡みな位階の順なるに准へてしるべし。

紀伊国宇田森大屋都姫神社


 当社位階の事は、文徳実録、嘉祥三年(850)、冬十月乙巳朔云々、壬子授紀伊国伊太祁曽神従五位下云々、甲子遣左馬助従五位下紀朝臣貞守向紀伊国曰前国懸云々、同曰遣同貞守於坐伊太祁曽神社曰
 天皇我詔旨爾申給久御冠授奉拝祈申賜比之爾依天従五位下乃御冠乎上奉利崇奉留状乎御位記令持 奉立此須状乎聞食天天皇朝庭乎常磐堅磐爾護幸奉賜倍止申給久止申とみゆ、次三代実録貞観元年(859)正月甲申、従五位下勲八等伊太祁曽神、大屋都比売神、都麻都比売神並従四位下、又元慶七年(883)庚申、従四位下勲八等丹生比売神、伊太祁曽神、並授従四位上とあり、曰本記客、延喜六年(906)
 月七曰、授紀伊国伊太祁曽明神正四位、本国神名帳には、正一位勲八等伊太祁曽神、従一位上都麻津比売大神、従一位上大屋大神とみゆ、此都麻都比売大屋の一位とあるは、四位の誤なること、前にいへるが如し、伊達神社、五十猛神とあれは、始終伊太祁曽神社より上階にまします事不審なり、和佐荘高三所大明神を高宮高神社高御前と云妻都姫かと云伝もあり、此社元弘元応(1331・1319〜)の論旨に、高社とあり、寛文(1661〜)の記に見ゆ、八町三百歩余、後花園永享五年(1433)、神宮と和佐と井水相論の訴状に、就中当宮木市之儀、為井溝可為無益歟、雖然今神宮領芦原千町者為当社手力男尊敷地鎮座之地曰前国懸影向之刻、去進彼千町於両宮、御遷座山東、其後又御遷座和佐高山、以来自神宮、被勤毎年数ケ度神事於当宮、曽自和佐対神宮無社役、若可為本社歟、云々、手力男尊といへるは、伊太祁曽の名目を、曰抱といへるにとりなしたる、中昔の僧徒の妄説なる事、己に論じたり、此所にも妄説をうけていへるしなり、関戸村の内に妻御前と云社あり、

紀伊国関戸妻午前社

五節供に伊太祁曽の社の社人達、まづ此社にわたり、色々神拝有て、後高永へのほり神拝有之云々、是らもよし有て聞ゆ、」されど此永享(1429〜)文書も、専ら五十猛神のことを云へるにて、妻津姫とも大屋津姫ともさたむべきにあらす」 又世俗高御前といへる名目になつみて、女神ならむと思へるも愚なり、御前といへる事、今にてもすべて貴人をさしては、男女をいはす御前といへり、又前を一前 前などいへることも常の事なり、又古くは男に何御前といへる例多し、平維盛の息六代御前、源満仲の息美女御前、宇治左大臣幼名太郎御前などいへる是也、かへりて女には、古く何御前と称たしかなる例をみあたらず、女に何御前などいへるは東鏡などより後の事にて、古く御前の何々御前なる何々などいへるは、皆男女を通じて貴人の上にいへる事なり、尾張国熱田宮五座なる中に、第一座の曰本武尊をさし奉りては、一の御前などいへり、但し社人は是を一の御前(みさき)と称す、されば関戸村なるは、妻の御前といひつたへたれば、その神なるべけれど、此高宮は妻津姫なりとは定めがたし」又高宮高御前などいへる高の字に泥みて、高積比古高積比売神ならむといへるも、 百年来の説にて、古くは証もみえざれど、此のことは次にいふべし、

紀伊国高積神社上宮

按ずるに、此字は伊太祁曽大神三神の荒魂、又は曰前国懸宮の荒魂を祭り奉れる成べし、そは高宮といへる名は、諸国に数所ありておのおのその神々の荒魂を祭れる事くはしく内遠が考へありて、荒和 魂考に記せれば、こヽにいはす」寛文の記に、高三所大明神事、古人申伝候は、大直曰尊と申て、天照大神御一体の御神甲冑を御鎧、魔王と軍を被成たる時の姿を祝申候故、荒神にて軍神とも申侯と見ゆ、此伝もいかヾなれども、女神とはつたへざる趣也、神主も神体は筐の中にありて拝せし事なしといへり、」又同記に、昔はかうの宮郷にも、山東の荘にも、此宮の社領御座候と申伝候、かうの宮曰前宮より、毎年祭礼の次第、正月十六曰に、馬十 騎社人達矛榊をもて、此宮へ御渡被成候、又霜月初の酉曰も、井祭として御渡被成候、又山東荘伊太祁曽大明神より、毎年五郎供毎に社人達此宮へ御渡被成、御神拝色々御座侯といへり、寛文の記にもと三社造りなりといひ、和佐水論の状による時は、伊太祁曽三神の荒魂也ともいふべけれど、」又 神なりといへる説より見れば、曰前国懸の荒魂にて、それをたたへて高津見比古高津見比売といふか、 高積は高つ持の意にて則荒魂の意なり さて夫ならば、曰前宮は御鏡にて、天照大御神の前魂なれば、高積比売とたヽへるは論なし、国懸宮の社伝、御鉾なりといひ、或説同御鏡なりともいへり、鉾といへるに 説ありて、岩戸前にて用ゐたる曰矛也といひ、又大国主神の皇孫命へ譲給へる平国の矛なるべしともいへり、平国の御矛といはんも、国懸といふにはよしありげなれど社伝に目前宮といひ、かたへを国係とむかへいへる事もあれば、さもさだめがたき上に、平国の矛ならば、倭姫命周流の時、御鏡と共に持巡り給はんもいかヽ也、こは岩戸の時よしある矛ならではかないがたくおぼゆ、その時ならずといはヾ、平国の矛何のよしにか当神に祭れりとせむ、大国主当国に来たりましヽ事も、伊太祁曽大神のましヽ事も、皆平神の矛を皇孫へ譲ませるより以前の事なればよしなし、故に今国懸宮は、岩戸の前にて用ひたる曰矛とさだめてみれば、普社或は手力男命なりといひ軍神のかたちにて魔王降伏の姿などいへども妄説ながら、岩戸の古事にはいさヽかより所あるに似たり、されば男神として高積比古神とたたへ申さんもしかるべき事なり」和佐水論の條にいへることは、伊太祁曽をも誤りて手力男命と申せること、又山東曰前宮より社人来たりて祭事あるを以て拠として、井水争論にしひて負じの心より、若可為本社歟などいへる、その時たにたしかならさりけるを、しひて伊太祁曽と同神にてはじめ此地を御遷座ありて、後山東へ遷奉るなどいひくろめたるものなるべし、されば山東の神には縁なし、曰前国懸両宮の荒魂と見れば明白なり」さて関戸村に、妻御前あるは、是本社の曰前宮もと伊太祁曽と一所におはしまし1さまをうつして、此荒魂の鎮座近き所にも是を祭れるなるべし、さる故に寛文の紀に見えたるも、山東の社人祭事の時こヽに来りて、先関戸柑の妻御前に参りて、後山上にて祭事をなすといへるももと目前宮の地主神なれば先に拝する事いにしへよりの遺例なるべし」猶志摩伊達静火の事、此高宮の事、大屋大明神の事各の係にいへる、と互考して、俗習の私心を捨て、古伝を明らめむことを要すべきなり (了)

日本書紀神代上の一説 (岩波文庫)

一書あるふみはく、素蓋鳴尊すさのをのみことのたまはく、韓郷之嶋からくにのしまは是れ 金銀こがねしろがね あり。もし使吾が児の所御する国に浮賓あらずは未是佳よからじ也とのたまひて、乃ち鬚髯ひげを抜き散つ。即ち杉と成る。又胸の毛を抜き散つ。是れ檜と成る。尻の毛は是れまきのきと成る。眉の毛は是れ●樟くすのきと成る。己にして其の用ふべきを定む。乃ち称して曰く、杉及び●樟、此の両樹は以て浮宝と為す可し。檜は以て瑞宮を為るべき材とす可し。●は以て顕見蒼生うつしきあおひとくさ の奥津棄戸将臥もちふさむそなへに為す可し。夫の●ふべき八十木種も、皆能く播し生。時に素蓋鳴尊の子、号を五十猛命と曰す。妹は大屋津姫命。次に妻津姫命。凡べて此の三神、亦能く木種を分布す。即ち紀伊国に渡し奉る。然して後に、素蓋鳴尊熊成峯くまなりのたけに居しまして、遂に根国に入りましき。」と

 本居内遠大人が本宮神社考定巻頭の一説に、此熊成峯クマナスとよみてナスの約ヌなれば、熊野くまぬなる事、古事記伝の説の如し、但熊野を出雲国の熊野ならんとあるは、此神出雲に稲田姫とすみ給へる事などあり、又今もかの国に熊野社ありて、此神を祭れるはさもありげに聞ゆれども、此一書の文は出雲園とは定めがたし。三神によりてなれど、前に紀伊園とありて共つヾきに国名をいはずして熊成峯とあれば、紀伊国ならでいづことかせん、もし出雲ならんには、上に必出雲といふ事有べきに、さはあらで、熊成峯とのみあるは、此国なる事必定なり。さもあらずは、古事記に大国主神の根国に坐す須佐乃男神の御許に出まさんとて、紀国に来りますべき由なく、此神熊野の山よりして根国へ入ませる所山にや中昔より今に死たる人の熊野詣すなどといふ奇譚のあるも、なべては僧徒の妄言なるべけれども、さるよしの有よりいふも出●には実に似たる事もありし成るべし、さて熊成峯といふも何方ならんといふに、今に熊野奥熊野の中間に蟠踞せる大塔といへる大山、即それならん、那智をはじめ三山の地は皆その東北東南の麓なり。その間に村落あるは後の世々にその山の麓をひらきたるにて皆此蟠踞の山根によれる村々なり、又その大塔の山の西の麓にも熊野村といふあり、又今はユサと呼べるは紛らはしければ音読し来りたるなるべく是その一証とすべし。又さてもとの所縁ある国なれば出雲国にも同じ名をよぴて此神を祭れるにてかへりて出雲国熊野は此国にならひたるならむ。クマナスは樹木の鬱蒼とし●●●●せる義なり、又那智山の地主神を大国主の命なりといふも父●●御神の所縁にその麓に祭れるなるべし先是その権輿なり云々と。



☆南紀神社録に載せたる伊太祁曽社のことども
 同書の序に「夫原非
 其鬼而祭之●者輿其祠之為何而徒致敬斯二●皆得失蔦当弁職其祠為何●也亦旦知其神嘗●夫禍乱●人仁世数千載之後尚●作善降福作不善降禍而非牛鬼蛇神之謂而以致神昔顕何今無薇某祀某神今所称名失実者輯而為冊名曰南紀神社録夫神名有帳実肇於往古古先聖王之克尽仁孝誠敬之心者当考知焉我紀元有誌者不免有間失徴証夫故予頃者竊●往牒参之於新得以登載以供参考云。延享三年(1746)丙寅冬十月杉原平泰茂謹序とある。名草郡の章に延書式内之社十九社伊達社加太社ハ今式外ノ社八十五社ノ部に属スルと記す。次に当社に関するものを摘記すると
伊太祁曽神社 在山東庄伊太祁曽村 祀神三座主五十猛命而従祀大屋津姫抓津姫神於左右 延書式神名帳云伊太祁曽神社 名神大月次新嘗相嘗 本国神名帳云正一位勲八等伊太祁曽大神。
神代巻云初五十猛命天隆之時多将樹種而下然不殖韓国尽以持帰遂始自筑紫凡大八洲国内実不播殖而成青山焉所以称五十猛命為有功之神即紀伊国所座大神是也 又云素蓋鳴尊ノ御子号曰五十猛命
妹大屋津姫命抓津姫命凡此三神亦能分布木種即奉渡於紀伊国也
右説二云肥前国西南海二五十猛島アリ蓋シ彼ノ神始メテ下●ノ地ナリ
続曰本紀曰文武天皇大宝二年(702)分遷伊太祁曽、大屋都比売、都麻津比売三神社
次に神位は本書十九頁に記せる文徳実録、三代実録の分は同前曰本紀略の分は扶桑略記を引用する内容に同じ。次に和名抄云名草郡伊太祁曽神戸とあり、次に近衛院久安の論旨順徳院の承久の論旨に紀州一ノ宮伊太祁曽の社と称す伏見天皇正應の請文南朝後村上正平の論旨等後土御門明の論旨等数通アリテ其余ノ記文悉ク載スルニ遑(いとま)アラズ
都麻津姫神社
 在山東庄吉礼村祀神三座主都麻津姫神従祀五十猛命大屋津姫命左右
 延書式神名帳云都麻津比売神社 名神大月次新嘗
 三代実録云貞観元年正月廿七曰奉授紀伊国従五位下都麻都比売神従四位下
 和名抄云名草郡都麻神戸
妻御前社
 在山東庄平尾村 本国神名帳云従一位妻都比売神
平緒王子社    在同村
奈久智王子社   在奥須佐村
 按二凡熊野参道九十余所ノ王子卜杯スル者ハ古法皇熊野御幸ノ時修祓ヲナシ或ハ遥拝ノ地ニシテ元来ノ社地亦其時二臨ンテ所建ノ神詞ヲ以テ悉ク熊野伊弉冉尊ノ御子二准シテ王子ノ神卜称スルモノ歟
須佐神社     在山東庄口須佐村
 祀神ハ速進雄尊也  本国神名帳云正三位須佐太神
丹生神社     在山東庄明王寺
 祀神丹生津姫神而伊太祁曽之摂社也
丹生神社     在同木枕村  伊太祁曽之摂社也
雨宮
 在明王寺村 本国神名帳云雨手力男神ハ蓋此類


☆ 古事記上 大国主神が八十神から迫害を受けられ給ふた條の一節
ここに八十神見てまた欺きて山に率て入りて大樹を切り伏せ茹矢を其の木に打ち立て其の中に入らしめて即ち其の氷目矢を打ち離ちて拷ち殺しき。爾れ亦其の御祖命突きつつ求げば見得て即其の木を折きて取り出で活して其の子に告りたまはく汝此間に有らば遂に八十神に滅さえなむと言りたまひて乃ち木国の大屋毘古神の御所に速がし遣りたまひき。爾れ八十神覓ぎ追ひ臻りて矢刺す時に木の俣より漏き逃れて去りたまひき。云々  (神典より)


第一 鎮座   第
  古文書

第三 享保十年の宝物  第四 神位と祭祀奉幣  
第五  伝来之縁起  第六 南龍公に捧上げたる行事文書


第七 徳川中期の年中行事

第八  伊太祁曽三神考
第九  矢田明王寺について

神奈備