伊太祁曽神社の祭礼

伊太祁曽神社の祭礼一覧 すべて1日間で行われます。

月日 祭礼名 通称 特記事項
1月 1日 歳旦祭(さいたんさい)   お火焚き
1月14日 卯杖祭 (うづえさい)   粥占神事
2月11日 紀元祭(きげんさい)    
2月19日 祈年祭(としごいのまつり)    
4月上旬日曜日 木祭 (きまつり)   餅まき
6月30日 水無月祓(みなつきはらい)   ひとがた
7月10日 夏季祭(かきさい、なつまつり)    
7月30日 茅輪祭 (ちのわさい わくぐりまつり 茅の輪
10月15日 例大祭 (れいたいさい 秋祭り 神輿お旅所隔年渡御
11月23日 新嘗祭(にいなめさい)    
12月10日 冬季祭(とうきさい)   お火たき
12月31日 大祓(おおはらい)   ひとがた
毎月 1日 月次祭(つきなみさい)    

  
 当社の主なる神事としてかねてより世に知られるものに卯技祭、茅輪祭、秋季例祭がある。近年、木祭がこれに加わった。

卯杖祭と粥占神事
由来と歴史
 卯杖祭は相当古くから行われたものと考えられるが、その由来は明らかではない。この神事は旧一月十四日の小豆粥の行事、管粥の行事、十五日の卯杖の領布の三行事よりなっている。
徳川時代に於る神事の概要は次の通り。
神職一同が社頭に参詣し斎戒、前夜十四日夕より卯杖及び管を供へ祭典に奉仕し並に管粥を煮る。
卯杖は あせぼ を以て長さ三尺許に作り数本束ねて之を供へ管は小竹を以て長さ尺許に作り之 に豊凶を卜せんが為に早稲、中稲、晩稲二十四種を附し粥中に投じ共に煮其管中入る粥の多量なるものを以て豊作の兆とす粥は白米に小豆を交えて之を煮る。但し粥を煮るに燧火を用うる事社の伝来にして古くより行う所である。其方法は桧杖を以て燧杵を作り以て火を出す。
当日には神餞を供し祭典、次に神楽を奉す。続いて踏歌式を行う。
 神職一同神前に進み立礼し「せんくおくぜん」と唱えつゝ社頭を廻る事三度。
 次に舞子の業あり。舞子は十二、三才の童子で頭に梅花をかざし笏拍子を叩き舞う。
 次に袋持の業あり。末席の神職錦の袋に榊葉を多く入れたるをあせぼにて担い神前に進み神主、大禰宜と問答をなす。
 神主、大禰宜先づ曰く「伊太祁曽神社の袋持ち持ちと袋もちてようともようとも」と云いつゝ三足進出
 神主大禰宜曰く「御飛袋のロ広やかにおしひらき御宝を数え参らせよ袋持袋持」と。
 袋持日く「絹布糸綿白け米まんまん」。
 神主大禰宜歌いて日く「あきれはなくよの袋持」。
 袋持歌いて曰く「いのちちきはひそひそとよ」と。
 又神主大禰宜歌いて「此宮なく梅もや梅も咲草やああ」と詠い初む。
 此の時一同続いて「咲草や咲草やあゝ三葉にならは宮作リしようなう」右三度歌いておわる。
 次に一同神前に進み再拝拍手し次に卯杖を群集の諸人に投じて式を終わったものである。
このように江戸時代までは卯杖は年中の厄払の杖としていたものであるが現在は行われていない。

近年は稲作の豊凶を卜する祭典となっている。
 前夜祭の小豆粥は村の有志等にふるまひ又土地の人々は之を受けて翌十五日正月の朝小豆粥に入れて家族一同は之によって御祝をする。
 管粥の行事は現在篠竹約八寸余に切りたるもの十三本を麻緒にて簾の如く上、下を編み右より順次に定めた稲種名とし之を煮、翌十五日早朝其管を割り其中に入つている粒量の多少で当年の稲作の豊凶を卜する。
 古へは廿四種であったが其後十八種に減じ更に昭和二十六年から、なかて神 力,おくて神力、大和錦、旭、千本旭、九州農林、亀治神力、道海神力、愛国、愛知旭、畿内、高尾もちの十三種としている。
 これを翌十五日拝殿に展示し又山東宮おくだうつしを印刷して之を農家に頒布し種蒔の参考に供している。
 尚お当日は明治四十年前後まで裸参りとて裸体に注連縄を腰につけ参詣したが今は絶えている。

最近時の卯杖祭と粥占神事
 卯杖祭 梅を若枝数本を神前に供える

粥占神事
本殿脇での鼎の中で小豆が煮立す。鼎には天保六年(1860年)の銘。


1.修祓  おごそかなる祓詞[ハライコトバ]
2.本殿報告  宮司が粥占神事の開始を五十猛命の御魂に報告する。
3.鼎前祈願
4.鼎火入れ  洗米や餅を鼎に入れる。


5.管入れ   長さ一尺ほどの竹の筒十七本(あらかじめ米の銘柄記載)を鼎に沈める。


6.管出し   そろそろと引き上げられる。
7.本殿奉奠  竹筒は本殿に供えられる。
8.翌暁の管割り  翌朝、竹筒を真っ二つに割る。
9.拝殿への展示  多くの粥が詰まっている順に豊作となる。


木祭
由来
 木材業界の寄進による餅蒔きが奉納される。記念植樹、植木市で賑わう。華道界から献花と生け花展がある。
木祭の祭典次第
 午前11時 御神徳感謝並守護祈願祭
  修祓
  献饌
  祝詞奏上


  玉串奉奠
  撤饌
  植樹行事


 正午  献華祭
  着座
  献饌
  供花の儀
  献華の儀
  玉串奉奠
  植樹行事
 午後一時  投餅式 
木祭の餅まきの風景



茅輪祭(輪くぐり)
由来
 かっては旧六月三十日(現在は七月三十日)に行われる例祭で拝殿にひもろきを設け竹輪に茅縄を繞らし参拝者この輪をくぐりてひもろぎに設けた祓戸の神を拝せば一ヶ年無病息災におくる事が出来ると云ふので遠近の参詣者で賑ふ。
備後国風土記にも載っているが公事根源祇園御霊会(六月十四日)に依るに「昔し武塔天神南海の女子をよはひにいでます時に日暮れて路のほとりに宿を借り給ふにかの所に蘇民将来巨旦将来といふ二人のものあり、兄弟にてありしが兄はまつしく弟はとめり。
こゝに天神宿を弟の将来に借り給ふに許し給はず兄の蘇民に借りたまふに即ち貸し奉る。粟がらを座として粟の飯を奉る。
その後八年をへて武塔天神、八柱の御子を引具してかの蘇民が村に至り給ひて一夜の宿を借りつる事を悦ばせ給ひて恩を報ぜんとて蘇民に茅輪をつくるべしとの給ふ。その夜より疫病天下に起りて人民死する事数を知らず。その時只蘇民ばかり残りけり。
後に武塔天神我ば素盞嗚神なりとのたまふ。今より後疫病天下にに起らん時は蘇民将来の子孫なりといひて茅輪をかければこの災難を遁れんとのたまいけるにや」とこれ茅輪祭の起源とす。京都祇園神社では旧六月十四日に同じ行事あり。
四条京極で粟の飯を奉るのはこれに由緒するか、近郊では岩橋の高橋神社でこ の行事が行われている。
戸上駒之助氏の著日本の民族中に依ると巨旦将来は支那天山開路のウラン近郊のコタン州の王で蘇民将来はソミ州の王であった。牛頭天王はウラン北方今のタクマラカン砂漠の武塔天神である。天王が印度に行く途中、巨旦王との間に怨を結び蘇民王を徳とする関係生じ後に印度の婚家からの援を得て巨旦王を討伐しこの地を蘇民王に与えたという話が素盞嗚尊に付会してこの伝説が起こったのであろうとしている。

茅輪をくぐる前 大祓い祝詞を配る大宮司



大祓い祝詞をみんなで



茅輪をくぐる



賑わう風景と露店



伊太祁曽大神への祀りではなく、別に祀られた祓戸四柱、瀬織津比賣命、速開都比賣命、息吹戸主神、速佐須良比賣神への祀りである。
7月30日午後六時より大茅輪をくぐり抜け、この一年の無病息災を祈願する。夜店も出る。
人形の紙に願いを書き込み供えたり、また頒布している茅輪のミニチュアを求めて各家庭の門にさして悪病を払う。



秋季例祭(秋まつり) 十月十五日
由来
  元明天皇和銅六年(713年)十月初亥日こゝに遷座してから九月十五日秋祭をとり行われた。
 元々は神主が馬にて五人御社の周囲を三度廻り天下泰平五穀成就国家安全のため御湯、神楽を奉献した。それより三々九度の神盃を戴き祭礼を了したものである。
 渡御は、一条天皇の正歴元年(990年)九日十五日初めて摂社矢田丹生明神へ神輿三体神主、社家、神巫、村々の年寄等供奉し渡御が行われたのにはじまる。 其の由来は西暦の前年永祚元年(989年)八月三日朝日東、西、南三方に現われ四つ頃に一体となる万民之を怪しみ手に汗を握り薄氷をふむ思いなし処八月八日より十三目に至る前代未聞の大風あり死者算なし勅して博士に卜せしに木神の崇なりしとし伊太祁曽大神に奉略を立てゝ祈願せしにたちまち静まりらるにより御礼として九月十五日一ヶ国より馬一騎宛全国六十六騎、風祈烏帽子白張をつけ奉納した。かく多くの馬を以て御社を廻る事至難につき国主に願出渡御に代るこことなったと云う。 (萬治三年(1661年)庚子八月八日頼宣公に捧げたる文書による)
 徳川時代に行われし渡御列は啓行神、榊台、五本鉢、三張の弓箭、太刀、唐櫃、獅子、神輿三其、神主、口須佐の庄官、社家、神楽乙女、官仕の者、流鏑馬、並に馬の順序で還御の後馬場にて行われたのが、最近の渡御は啓行神、獅子、太鼓、幟、弓張鉾さしは、神旗、唐櫃、河汐、神楽座、楽人、神職、神輿三台、神職等の順で行われている。

紀州名所図会の秋祭り


昭和初期の秋祭り


平成十二年秋 神輿


平成十二年秋 神輿への神霊のお遷し 宮司


平成十二年秋 神輿の渡御 二の鳥居の前


 現在は隔年の行事で、御輿一基となっている。平成の偶数年に行われる。午後は子供神輿。
 境外摂社(奥宮)の丹生神社まで神輿の渡御があり、稚児わたり、大漁祈願が行われる。

 あせぼ とは 
   と云う  に似た植物の  である。

参考
伊太祈曽神社の特殊神事 和歌山民俗学会
西山東村史
伊太祁曽神社資料

伊太祁曽神社
神奈備にようこそ