續風土記 伊太祈曽周辺の記事

天保十年(1,839年)に完成した紀伊續風土記は和歌山の歴史、地誌を知る上で紀州名所図会とともに貴重な史料です。和歌山県立図書館(紀の国志学館)、和歌山市立図書館で見る事ができます。
 

名草郡山東荘伊太祈曽村周辺



紀伊續風土記巻之十七

 名草郡第十二

  山東荘  左芸抒宇   總十五箇村

山東ノ荘凡十五箇村東は那賀ノ郡貴志ノ荘に接し西は安原吉禮の兩荘に続き南は多田ノ荘に隣し北は和佐ノ荘と界す
大抵広袤東西一里南北一里半郡の東に在てその區域諸山を以て隔とす故に山東の名あり
荘の名始めて久安年中の文書に著はる 伊太祁曾神社神庫所蔵なり文書群に出せり
按するに此地古の郷名須佐神戸伊太杵杵曾神戸都麻神戸の三郷の地なるへし
三郷は 崇神天皇勅して定め給へるなるへければ古き地なる事明らかなり 須佐神戸は口須佐村伊太杵曾神戸は伊太祈曾村都麻神戸は平尾村の條に詳なり
降りて長承年間に到り院宣にて此地を僧覺鑁傳法大會の供料に充給ふ此に至りて始めて三郷合せて山東ノ荘の名を以て統一す
此より以前 朝政年を追ひて弛ひ上古に定むる所の神領多くは縉紳家の荘園 勅願寺の寺領に變する事諸國其例挙て數ふへからず此地も其一なり
其後荘中伊太祁曾明神の境内に本地佛を安し明王寺村に奧ノ院を建て上古神民の風俗漸々に改まり寺院堂搭荘中に充満せり
天正年間に至りて豐太閤一擧して根來寺を放火し餘煙此地に及ひて數百の神社堂搭一宇も残らず灰燼となりしより一圓公領の形勢を察するに和佐山北へ聳え諸山東南に連亘して川流灌漑の利なく池を處々に作りて田薗の用とす。又荘中小山處々に在て村落の隔をなすに似たれとも平廣の地多く山も用を辨するに足れば沃地に非れとも元より城下に遠からされは諸事近便なるを以て民業乏ならす然れとも山々隔をなし一廊をなしたる故に人民質樸の風ありて村落の姿を失なはす

○熊野古道 矢田越といふ
郡論路程の部に載す
○野上街道
伊太祈曾村より東南に折れて南畑村黒岩村に至り馬路峠を越て那賀ノ郡の貴志ノ荘別院村中村等に出つ
○在田街道
口須佐村より南方奧須佐夙境原二村安原ノ荘黒谷小野田坂井二村多田郷の諸村を歴て東南那賀ノ郡奧野野上ノ荘木津村に至る
○榎山
大河内村に出せり
 

注 久安年中(1,145年〜)、長承年間(1.132年〜)、天正年間(1,573年〜)
 
 
 
口須佐村  久知受左
      中略
○須佐明神社
   祀神 須佐之男命
 本社 九尺 四尺 廰 鳥居
 末社
  里神社 四尺 二尺  牛神社三尺 一尺五寸
 本國神名帳名草郡正一位須佐大神
村の坤山の上にあり 中略
○妙見社 境内周十六間村の西森山といふ所にあり  
      中略
○普門寺 大聖山遍照院 眞言律宗河内國河内郡野中寺末
      中略
○六地蔵堂 村北の入り口にあり
○廢園満寺
      中略
○杉尾皮田 正行寺 浄土眞宗西派田井荘上野村照福寺末

 
 
奧須佐村  於久受左
      中略
○八幡大神秀倉  
      中略
○西光寺 浄土宗西山派木枕村西應寺末 村領山ノ上にあり
○廢阿彌陀堂
村の北小栗街道にあり 中略


紀伊国名所図絵から 伊太祈曽、平緒から口須佐、奥須佐方面


 
 
伊太祈曾村  以陀伎祖
 田畑高 四百三十九石二斗一升四合
 家 數 五十六軒
 人 數 百九十八人

口須佐村の東三町餘にありて村居散在せり 伊太祁曾神社鳥居の邉にあるを小名宮の前といふ 近世伊太祈曾社に参詣の土民多きを以て宮の前人家過半茶店をなせり 此地若山より野上へ出る街道なり 若山の東南二里にありて驛の始とす
○伊太曾祈大明神社 境内 東南九十六間 南北百三十二間 禁殺生
 本  社 二間五尺 二間三尺
  祀 神 五十猛命
 左右脇宮 各七尺八寸 七尺三寸
  祀 神 大屋都比賣神
      都麻都比賣神
 廰 三間 十二間 御供所 六間四間 神楽所 四間 二間半 鳥居 二基
 反 橋  寶 蔵 御太刀寶蔵 瑞 籬 九間 十三間
 末 社  三坐合祀社 恵美須社
 延喜式神名帳ニ云名草郡伊太祈曾神社名神大月次相嘗新嘗
 本國神名帳名草郡正一位動八等伊太祈曾神

注 伊太曾祈大明神社は伊太祁曾の誤であろう 瀬藤

以下、伊太祁曽神社に就いての記事を紹介する。
 

古典の引用インヨウ
續風土記の論述ロンジュツ

  原 由

日本紀神代ノ巻一書ニ曰素盞嗚ノ尊師ノ子五十猛神ヲ降到リマシテ於新羅国シラヒノクニニ居玉フ曾尸茂梨之處ニ云云初メ五十猛ノ神天降リマス之時多ニ将テ樹種ヲ而下リマス
然トモ不レ殖韓地カラクニ盡ク以テ持帰リテ遂ニ始テ自筑紫凡大八洲ノ國之内莫不ト云「播殖セ面成リ青山ヲ焉所以ニ稱テ五十猛ノ神ヲ為有功イサヲ之神ト即紀伊ノ國ニ所ノ在大神也又素盞嗚ノ尊之子ノ號ミナヲ曰五十猛ノ命妹大屋津姫ノ命次ニ抓津姫ノ命凡三神亦能分ニ布シテ木種ヲ即奉渡シ於紀伊國ニ也  舊事紀地神本紀の文も是と同じけれは今畧く但奉渡於紀伊ノ國ニの下に即此國所祭之神是也とあり 舊事記地神本紀ニ曰五十猛握神 亦云大屋彦ノ神ト 次ニ大屋姫ノ神次抓津姫ノ神巳上三柱並坐紀伊国ニ則紀伊國造ノ斎祠ノ神也 按するに五十猛の下なる握の字は誤なるへし
此等の文を按するに五十猛ノ命は素盞嗚ノ尊天に上り坐しゝ時天上にて生れ給ひ大屋津姫抓津姫と兄弟姉妹に坐し父尊に従て新羅国に天降り給へる神なり  但御母は詳ならす日本紀纂疏に五十猛ノ神は大己貴ノ神の異母兄也とあるは此神の生れ給へるは稻田比賣より以前なるを以ていへる事にて論するにたらす殊に大己貴ノ神は素盞嗚ノ尊六世孫にて五十猛命と兄弟にはあらすさて此神天上より降り給へる時に始めて御名見えたれは天上にて生れませりとはいへるなり 此神の亦の名有功イサヲノ神とも大屋彦ノ神とも申せる事も上件の文にて明白なり  神名の義は神號の條に詳に辨す  今天下に樹木繁茂せるも悉此神の播殖し給ひし恩賜なれは神代にも有功ノ神と稱えて尊崇し後來まて 朝庭より相嘗祭にも預らせ給ひて仰き尊ひ給ふは眞に故ある事なり又此神播殖の功畢りて此国に鎮りませる故に他国にも殊に勝れて樹木の暢茂せる国なれは木を以て国の名にも稱し來れり  国の名義提綱建置の條に詳なり  此の如き神に坐せは國中の貴賤上下敦か仰き尊まさらむ

   鎮 坐   

書記神代巻云五十猛命妹大屋都姫ノ命次抓津姫ノ命凡テ三神即奉渡於紀伊ノ國ニ也
續日本紀 文武天皇大寶ニ年二月己未是ノ日分遷ス伊太杵曾大屋津姫命都麻津姫ノ三神社ヲ寛永記ニ曰伊太祈曾明神は和銅六年十月初亥の日当所へ遷り給ふ
寛文記にいふ永享五年神宮郷與和佐ノ荘堰水相論之訴状ノ畧云就中當宮本末之儀為ニ井溝ノ可為ル無益歟雖トモ然今神宮領  神宮は日前國懸兩宮をいふ  廬原千町ハ為リ當社手力雄ノ尊ノ敷地遷坐之處   こゝに手力雄ノ尊とあるのは伊太祈曾神をいふ神號の條に辨せり  日前國懸影向之刻去テ進メ彼ノ千町ヲ於兩宮ニ御遷坐アリ山東ニ其ノ後又御遷坐和佐ノ高山ニ以來自神宮被ル勤毎年數箇度ノ神事ヲ於當宮ニ曾テ自和佐對シ神宮無社役若可 モシクハ 為本社歟
以上の諸文を併せ考ふるに五十猛ノ命下三神出雲ノ國より當國に遷幸し給ひ今の日前國懸両宮の地は宮作りして住給ひ中世今の地に遷坐し給へるなり 猶詳にいはゝ始出雲より遷幸は紀伊ノ國とのみありて委く地名を記さヽれとも永享文書に日前國懸影向の刻去進彼千町ヲ於兩宮ニ御遷坐山東ニとある時は日前國懸兩神の鎮坐以前は三神共に今の日前國懸兩宮の地に遷坐し給へる事疑ひなく日前國懸大神造濱営より今の地に遷幸し給へるは  垂仁天皇十六年なれは此時三神共に今の山東ノ荘へ遷坐し給へる事必せり 日前國懸 兩宮ノ部合せ考ふへし 然れとも其地は今の社地にはあらす 今の社地の南の方四町許にある亥の森といふ所なり 亥の森の條に辨す 亥の森に三神鎮座し給ふ事 垂仁天皇の御宇より 文武天皇の御宇まて凡七百餘年なり
大寶二年 勅ありて三神三所に分れ給ふ時五十猛大神は今の地に遷坐し給ひ其他二神は和佐ノ荘高山平田ノ荘宇田森に遷坐し給へる事各其條に詳なり 寛永記に和銅六年遷坐とあるは大寶二年よりは十一年後なり其は大寶は 勅命の初を書るにて夫より修造の功を畢へて和銅六年に至りて遷坐の儀整ひたるなるへし さて永享分書に其後又御遷坐和佐高山とあるは都麻都比賣ノ神亥の森より高山に遷坐の御事にて伊太祈曽神には預らす 但かく三神三所に分遷の後も三所ともに各其神を中央に祀りて本社となし外二神も猶左右に祀り舊の如く三神一所にいませり 當社の古傳に日前國懸兩宮の地より直に今の社地に遷れりとあるは誤なる事永享文書を引て和佐の荘に辨す

    神  號

五十猛命   日本紀舊事本紀に見ゆ
有功神    日本紀舊事本紀に見ゆ
大屋毘古神  古事記舊事紀に見ゆ
伊太祁曾曽神 續日本紀にに見ゆ
伊太杵曾神  和名妙に見ゆ
伊曾大神   神名式頭註に見ゆ
今是等の神名の義を按するに五十猛は伊太祁 イタケ と訓 よみ五十はいの一音の假名に用ひたる例古文書に多し 此御神御稜威の雄々しく猛く坐しゝを稱へ奉れる御名なり 古來いそたけるなど訓るは誤なり 伊太祁曾と曾の字を添へたるは亦の御名有功 イサヲ の佐乎を約めて曾といふ伊は韻 ヒヽキ の言にて自畧かれたるなれは五十猛有功ノ神の義なり
又伊太祈曾と唱ふるは祁伊の約り伎なれは是又五十猛有功ノ神の義なり 伊曾ノ太神の曾も佐乎の約にて有功ノ大神の義なり
此外に又伊太祁の祁をに通はして伊太ノ神とも申せり其は神名式出雲ノ國に韓國伊太ノ神社又伊太奉ノ神社 奉は秦の誤にて伊太曾の意なるへし ともあり韓國とは此御神新羅より渡り坐せる故添て稱し奉れるなり
式内陸奥ノ國丹波ノ國常當國等に伊達ノ神社とあるも同神なるへし 詳に薗部ノ荘伊達ノ神社の條下に辨す
又式内伊豆ノ國伊太和氣ノ命神社越前ノ國伊多伎夜神社播磨國射楯兵主ノ神社とあるも同神なるへし 内侍所御神楽式に韓神の事素盞雄ノ尊の子也と見え大宗秘府略記といふ書に韓神者伊猛ノ命號韓神曾保利ノ神とあれは韓神曾保利ノ神も此御神の亦ノ名と聞ゆといふ説あれとも古事記に大年ノ神の御子に韓神も曾富利ノ神も見ゆれは此御神の亦の名とするは誤なるへし 古事記舊事紀に見えたる亦名大屋毘古は大屋津比賣に對 ムカヘ たる御名なり 大屋津比賣抓津姫共に都の字あれは大屋毘古も都を添て大屋都比古と申すへきか如し然れとも古事記に都の字見えされは姑く舊訓に従へり 其大屋は抓津姫の抓に對へたるにて三神共に木種を分播 マキ 給ふ其木は屋を造る材なれは大屋とも抓とも稱へ奉れるなり
抓は屋の四方の木にて万葉集に眞木さく檜の嬬手 ツマテ と見えたる嬬に同し

   訛  傳

永享ノ文書に云當社手力雄ノ曾敷地云云 全文上に載す 又中世の社記ニ云天ノ石窟の事を記して云當社の御神大力王と顯れれ岩戸に飛入日月を抱き出し給ふより日出貴大明神と申す 地神第三之尊御降誕ありし時抱上奉り七歳迄り給ふ其時の御名は級長戸邊ノ命と申し奉る 又河内ノ國にて岩窟大明神 大峰迦力嶽にて科戸明神 日前宮にて貴孫大明神 伊勢兩宮にて風之宮と申すは皆當社明神の御事なり
按するに此等の説甚の虚誕にて中世當社衰癈して供僧等執の頃かゝる妄作をなし愚人をあさむきしなり其作意は神名の伊太祈曾を日を抱く義に取なして手力男ノ命をおもひよせ日出貴孫等妄作の御名抱腹に堪さる事なり 然れとも永享年間にも専ら手力男ノ命と心得居たる事ならは今に至りても愚民或は誤り傳ふるものあれは今こゝに辨せり

   社 號

伊太祁曾神社 續紀延喜式及諸書に見ゆ

伊太祁曾神社 
          國造舊記暦應應永等の神事記に見ゆ
伊太・紀曾 

一 宮      久安四年免田文書承久二年勅宣延元二年文書等に見ゆ

按るに伊太祁曾以下神名を社號として一宮の外別に異なる社號なし然るに諸國一宮ノ記には日ノ前ノ大神を一ノ宮とし又弘安八年文書に天野ノ社日ノ前宮と一ノ宮を諍ふ事あり又薗部ノ神社を一ノ宮と稱せし事あり 當社と合せて四箇所一ノ宮の名古文書等に見ゆれとも今四箇所とも一ノ宮の稱なし畢竟一時の稱なるへし 詳に日前國懸兩宮に辨す

   神 位

文徳實録曰嘉祥三年冬十月乙已朔王子授紀伊ノ國伊太祁曾ノ神ニ従五位下ヲ云云甲子遣左馬ノ助徒五位下紀ノ朝臣貞守ヲ紀伊ノ國日前國懸云云同日遣同貞守ヲ於坐ス伊太祁曾ニ神社ニ曰
天皇スメラ 詔旨申給久御冠授奉牟止祈申賜比之爾依天従五位下乃御冠上奉利崇奉マヲシタマハクミカゝフリサツケマツラムノマウシタマヒシニヨリテヒロイイツゝノクライノシモツシナマミカゝフリヲアゲマツリタフトシマツレルサマヲ 御位記 令持奉立此状聞食  天皇朝廷常磐堅磐護幸奉賜倍止申給久止モタセテタテマタスこのサマヲキコシメシテ スメラミカドヲトキハカキハニマモリサキハヘマツリタマヘトマヲシタマハクトマヲス
三代實録ニ曰貞観元年正月甲申授従五位下勲八等伊太祁曾ノ神大屋都比賣ノ神都麻都比賣ノ神ニ並従四位下ヲ
同書元慶七年庚申従四位下勲八等丹生比賣ノ神伊太祁曾神ニ並授従四位上ヲ
日本紀略ニ云延喜六年二月七日授紀伊ノ國伊太祁曾明神ニ正四位下ヲ
本國神名帳ニ云正一位勲八等伊太祈曾神
按するに正位下より正一位を授け給へる年月古書に洩たり諸神増す一階の度々に授け給へるなるへし

  中世之社殿 寛永記所蔵

本社  面行二間半  妻行二間四尺
両脇二社 面行七尺八寸宛  妻行七尺三寸宛
合三社  昔は色々彫物金物  同彩色古今檜皮葺
瑞籬四十間  内十二間玉籬
拝殿  昔は長十一間横二間半  今は七間 二間半瓦葺
御供所  昔面六間妻三間半  今五間に二間瓦葺
護摩堂  二間四方瓦葺
 同寺  昔は面六間妻四間今は坊主の臺所斗堂へ作り懸長日護摩
   以 上           美濃守 再 興
鐘樓堂 二間一間半  瓦葺南向    桑山治郎法院再興
反橋
鳥居二
御輿三丁  大桙三長三間小桙四長九尺
寶蔵  方二間
御輿蔵  長三間妻行  二間瓦葺
神宮寺  本尊阿彌陀 三間四方堂間  四方一間掾
兩廰  長六間横二間
舞臺  二間半  二間
金燈籠  三本
山林  二町四方
馬場  南北二町
按するに上古の社殿其傳を失ふ今こゝに載する所は根來寺領となりて後代造営する處にして天正年間のさまと見へたり

   社 領

和名鈔名草ノ郡郷名伊太祈曾神戸 和名鈔板本に伊太と祁曾と神戸と三郷の如く載たるは誤なり
久安文書云紀伊國一宮伊太祈曾大明神神楽料免田所見事 久安四年十月三上十二郷總之時注文觀喜院御領紀伊ノ國吉禮ノ郷ノ田畠合参拾陸町捌段大四十歩内被テレ除 伊太祈曾ノ御神楽田肆段ヲ之不被向馬ノ鼻ヲ同 久安四年十月三上ノ郷惣注文仁歡喜光院御領紀伊ノ國安原ノ郷田畠合参拾参町玖段大内伊太祈曾大明神也御神楽田陸段被免除万雑公事 夫役等不被向馬鼻在廰ノ官人御荘官等為 後日公文紀之國郡司代散位黒部成眞國使散位泰宿禰御使左辨史生三善支忠等相共被遂事如是 此外金峯山御領小蔵荘壹町五段布施屋郷一所田井荘橋本一町和佐荘漆段中村荘肆段保田荘弐町富安参拾餘町富荘山東伍町捌段皆々被免除万雑公事夫役等畢一年中捌箇度御神楽料處是也
右所注之状如件
          篠原左衛門尉國 書判
 久安四年十月 日 
          左辨官支忠   書判
   伊太曾祈神官中

紀伊一宮伊太祈曾社散在神田事臨時之課以下被皆免者天氣如此悉之以状
 永久二年二月三日   左 少 辨
   伊太祈曾社祠宮供僧中

當國一ノ宮伊大祈曾ノ社散在神田ノ事早任國宣之旨可被致其ノ沙汰ヲ由所侯也仍執達如件
 延元二年卯月廿六日   左衛門尉頼
   紀伊國小目代殿

當國一ノ宮伊大祈曾ノ社散在神田ノ事所々ノ領家地頭等押領云云太タ不可然早止倒之儀為社家ノ進止ト可被全嚴重ノ神役ヲ由國宣所候也仍テ執達如件
 延元二年四月廿五日  左衛門尉 信忠
  紀伊國御目代殿

大日本國南海道紀伊州名草ノ郡山東伊太祈曾大明神本社ノ領任先規之旨案堵不可有相違者天氣如此
 明應元年庚寅六月ニ十一日

注 伊太曾祈神官中(伊太祈曾神官中と思われる。瀬藤)
以上諸文を按するに伊太祈曾ノ神戸の廣袤詳ならす然れとも大抵當村及東南那賀ノ郡ノ堺木枕永山中村大河内南畑黒岩黒谷の數村の地なるへし 抑諸社の神戸は  崇神天皇の御代に始めて定め給へるなれは當社の神戸も此時定め給へるなるへし故に  垂仁天皇の御宇に至りて檜ノ隈ノ宮の地を日ノ前國懸兩宮に奉りて神戸の地に遷坐し給へる事疑なし然して星霜つもりて神戸すたれて荘中にては纔に五町八段となりしかとも亦別に寄附の地も許多ありし事久安四年二通の文書にて知るへし 久安文書を按するに吉禮ノ郷四段和佐ノ荘七段安原ノ荘中村ノ荘四段小倉ノ荘一町五段保田ノ郷二町布施屋ノ郷一段富安三十町餘田井橋本一町山東ノ荘五町八段等合せて四十二町五段餘あり 然るに天正年中豐太閤の南征に社領悉く没収す 然れとも羽柴秀長卿の領となりしより社殿を再建し神田及境内社人の居地まて寄附せられ淺野氏の時に村中にて高五石を寄進し且文安の文書に載する所の山東ノ荘五町八段の地課役を免許す元和以後の制も亦これに因らる

  祭祀奉幣等

延喜式に云相甞祭 七十一坐紀伊ノ國四坐の中あり 伊太祁曽曾ノ社一坐絹二匹絲三調布二端一丈七尺木綿十三兩酒ノ稻百束神税十一月上卯日祭之其所須雑物預申官請受付祝等奉斑酒ノ料ノ稻者用神税及正税ヲ
同書名神ノ祭 二百八十五坐紀伊ノ國十一坐の内 伊太祈曾ノ神社一坐五尺綿一屯絲一五色ノ薄絶各一尺木綿二兩麻五兩裏ツゝミノ料ノ薦コモ廿枚若有大者加フ絶五丈五尺ヲ以テ一端ヲ代絲一
國造舊記十一月ノ條に伊太祁曾ノ祭日限 不定暦應四年日ノ前ノ宮神戸事記に曰十一月上ノ卯ノ日伊太祈曾祭祀其ノ禮如シ四月ノ 按するに神代巻舊鈔に五十猛ノ命者日ノ前國懸之末社とあるは國造より祭祀せし故なるへし
應永六年日ノ前ノ宮神事記に曰十月調庸御祭 下旬撰吉日ヲ 次ニ御捧物土師申御先 御捧物者兩宮中言二社伊太祈曾須佐妻大屋鳴神等分也
又曰十一月上ノ卯ノ日伊太祁曾ノ社ノ祭 近來無之但御稲荷前二石二升本斗也自公文所下行之彼ノ社ノ神人新来請取ノ時布多木 ホタキ 十二若有閏月之歳者十三納之木ノ長サ二尺許
又曰二月六月以布為幣 有四手 彼ノ布一端ノ内半分進伊太紀曾鳴ノ神社
國造舊記に云山東の社のミコトノヲノト一ク 神琴の緒の糸一なるへし
國造昌長ノ記に曰當家ノ傳ニ云國造上古兼祭伊太祁曾大明神ヲ故當宮ノ社人職名大半在リテ于彼ノ社ニ勤仕其投ヲ
寛永記に云九月十五日の祭祀は丹生ノ明神へ出仕し後當社を拜す馬六十六騎烏帽子上下を着し神前を渡る 永祚元年八月八日より同十三日まて大風吹によりて 禁中にて御卜あり當社へ御立願あらは大風静まるへき由奏するに因りて御立願ありしに忽風静まりしより其報賽に國々より馬一騎宛渡りしを中古根來寺へ  勅ありて荘中の舊家に流鏑馬を命せられ其子孫今に是を勤む 此外亥ノ森又高三所ノ大明神妻明神在田ノ郡保田等の渡神は中絶せり
按するに延喜式の外上古の祭式傳はらされは故實詳ならす中世 鳥羽上皇根來へ當荘を寄せ給ひしより覺鑁上人伽藍を建て傳法院と號し伊太祈曾ノ社ノ奥院と稱し觀所 オタビショ となしゝより祭祀専佛家の式に變したり 故に寛永記に社前日参長日ノ講護摩朝暮勤行及正五九月大般若經轉讀の事今に懈怠なしとも見江たり さて後貞享四年復古して佛家の祭典を退け所謂奥ノ院等を癈して唯一に帰せるより今は正月十五日管粥の神祭九月十五日流鏑馬等あり 管粥の神祭は村民社頭に會し炊屋にて粥を煮て管數本を早稻中稻晩稻 ワセ ナカテ ヲクテ の印を附て釜中に入レ粥と共に煎て管中に入たる多少の米量により豐凶を卜すといふ 〇九月十五日流鏑馬祭は是日神輿遊觀所にて渡幸して明王寺村傳法院の境内にて流鏑馬ありて帰御の時數百騎一鳥居より社前を駈るを例とす此日官よりも馬三騎を出さる

    中古神職

國造家舊記に社人十人供僧五人護摩所一人定使一人神頭 コウトウ 一人嚴子一人神子二人鐘撞一人
右合二十二人
   又
神主大禰宜  禰宜  御神楽坐 神子 嚴子 神頭  昔は 神子三人神子男五人  昔社人十人今三人 外祠二人 公文二人 定使鐘撞 供僧六人 九月十五日卯ノ刻觀音經讀誦 家扶 三月一日 九月ー五日  的の役人 番頭 二十四人  正月十五日於神前獻御幣
國造家ノ舊記に云伊太祁曾社役人之名
譽太 ヨタ 一人 大禰宜一人 行事一人 權行事一人 妻譽太一人 御琴引人 權禰宜ー人 火焼く一人 内人一人 案主 アズ 一人 定使一人
按するに上世神職の員數今詳ならす久安の文書に神官 又承久の文書に祠官供僧中又弘安の文書に神主平重政とあり


    當時神職

神王奥氏 社地に住す 大禰宜岩橋氏 口須佐村に住す 行事大河内氏  社地に住す 妻譽太角田氏  永山村に住す  御琴弾瀧本氏 口須佐村に住す 權禰宜赤松氏 社地にに住す  火焼矢野氏 口須佐村に住す 内人井田子 社地に住す  案主 アズ 柳野氏 社地に住す  右九家外に神子二人太鼓打一人
神主奥氏火焼失野氏舊同家にて本国周防なり 弘治天文の頃毛利元就同輝元の兩将に仕へて數々軍功あり 後畠山に仕へて當國に移住す 此時に當りて當荘に南之殿北之殿とて二家の守護ありて當荘を南北に分ちて領せり 南の殿は王家の支族なる故に王孫稱す南の殿嗣子無きに因りて當國ノ守護畠山家の三男三郎といへるを養子とし南之家を繼しめ後又共に南北の兩家を領し嫡庶を分ち兩家を繼しむ 此時畠山家より三郎の屬士として奥矢野林太田等の人數を附屬せり  四人の中矢野臺人は勝れて弓馬を善せり因りて九月祭祀の流鏑馬は此代より初まりて矢野臺人先陣をなす今に於て子孫此式を用ふといふ 天正中岸野上田井ノ荘を領して山東三郎と號す小牧御陣の時社家近隣の士とも御使奉書の旨を受既に泉州へ發向すといへとも程なく御和談となりしかは帰國せり 其翌年豐公南征に前年の譽黨或は離散し畠山三郎の家も没落し其子三郎大夫は熊野尾鷲浦へ引退し農民となる其子 南龍公に召され後本藩に仕ふ
山東三郎の家没落して奧矢野兩家は當社の社家となり林多田の兩家蒙は斷絶せり 以上矢野氏舊記による
以上、伊太祁曽神社の條

  伊太祈曾村 続き

○亥ノ森社  境内周六十六間
小名内村といふ所の東一町許にあり傳へいふ往昔伊太祁曾明神鎮座の地にて舊は此にても神事ありしといふ按するに神宮郷より遷坐の時先此所に移り給ひ其後今の地へ遷宮ありしと聞ゆ亥の森と稱するは十月初亥の日を遷坐の日として神事ありし所なれは亥の森と稱するなるへし

○興徳院  龜屋山延壽寺  眞言宗古義京勸修寺木
村の南にあり中世伊太祈曾社兩部の時の神宮寺本地堂にて社地にありしを 官命ありて社を唯一こ復せらるゝ時當寺には除地を給はりて此地に引移せり 什物金鼓の銘に伊太祁曾明神御本地堂とあり  古寫の大般若經を蔵む又傳へいふ伊太祁曾の神宮寺に長壽院といへり今廢絶す興徳院は伊太祁曾の供僧六人の内明王院轉して清僧となり院號を改めて興徳院となりしといふ因りて明王寺村供僧の株の内明王院の株は絶たり

○佛法寺  浄土宗西山派木枕村西應寺未
興徳院の北に隣る堂 方六間僧坊あり



紀伊国名所図絵 興徳院 下段は佛法寺


 
平尾村  比良遠
      中略
○妻大明神社  境内周二町半許
 本國神名帳従四位下妻都比大神  
村の西山ノ岡にあり  中略
○平緒王子社  境内周三十二間
村中小栗街道の西側にあり  中略
○小祠五社
 産土神社 社地周十二間村の北山上にあり
 辨財天 里神社 社地周二十八間村の艮田中にあり
 妙見社 社地周十二間村の北山麓にあり
 牛神 里神社 社地周三十二間村の北山上にあり
 キシヤウ森明神社 社地周四十間村の北赤坂にあり
○觀音寺   浄土宗西山派木枕西應寺末
村中にあり  中略

 
谷村  志保乃多邇
      中略
○小祠五社
 牛神社 社地周四十八間村の坤にあり
 辨財天社 社地周十六間村東山上にあり
 里神社 社地周三十二間村の坤山上にあり
 住吉社 社地周二十六間村の西山の上にあり
 妙見社 村の西山上にあり
○藥王寺   浄土宗西山派木枕西應寺末
村の西山上にあり  中略

 
明王寺村  美也宇和宇自
      中略
 生部彦神
○生都比賣神 相殿三扉 二間二間半 境内山林共方一町許
 三部明神
明王寺の北にあり  中略
○明王寺 矢田傳法院  境内山林共方五町
   眞言宗新義根奉蓮華院末
 本堂  大日堂  開山堂  鐘樓
 鎮守社 寺家説にては上に出せる生部彦生都比賣ノ神を鎮守神とす殿内に合祀れる三部明神は鎮守神なるへけれとも合せ祀るの原由いかんを詳にしかたし
村の北にあり  中略
○小祠三社
 熊野權現社 社地周二十間村中にあり
 妙見森社 社地周四十間村中にあり
 白山權現社 四尺 六尺 社地周十八間不動寺の東にあり
      中略
○不動寺 中略
○伊太祈曾明神遊觀 オタビ
明王寺本堂の前なる平廣の芝地なり  中略

 
矢田村  也田
      中略
○牛神社 境内周四間大日堂山ノ南ノ麓にあり
○永運寺   浄土宗西山派木枕西應寺末
村の南の山上にあり  中略
○大日堂   境内周四十四間
村南の山上にあり  中略

 
木枕村  古麻久良
      中略
○丹生四所明神社  境内周三十六間 山林 三十三間二十五間 あり  村の東にあり 五尺六尺 
○小祠二社
 里神社  社地周二十間村の山艮にあり昔は社領田二枚ありしといへり
 講庭 コウス 明神社  社地周四十八間村中にあり土人は夷の神を祀ると云ひ寛文記には氏神とのみありて昔は社領一段ありしといへり 今享保記に依る然れとも 講庭 コウス の義詳ならす或はいふ村名小枕のこまの轉して講庭となれるか
○西應寺   浄土宗西山派梶取村總持寺末
村の西ノ端にあり  中略
  末寺十八箇寺
 觀音寺 村中
 西光寺 奧須佐村
 佛法寺 伊太祈曾村
 觀音寺 平尾村
 藥王寺 鹽ノ谷村
 永運寺 矢田村
 東光寺 永山村
 藥善寺 永山村
 西林寺 中村
 常福寺 大河内村
 極樂寺 南畑村
 觀音寺 黒谷村
 安養寺 黒谷村
 藥師寺 黒谷村
 阿彌陀寺 黒谷村
 西光寺 頭陀寺村
 地蔵寺 境原村
 福善寺 吉原村
○觀音寺   浄土宗西山派村中西應寺末
村の艮にあり  中略

 
永山村  奈賀也麻
      中略
○小祠三社
 里神社  社地周十二間天神山にあり
 牛神社  社地周十六間村の艮にあり
 天神社  社地方二町許の北天神山にあり舊社と見ゆれとも社傳なし天満宮とのみいへり
○東光寺   浄土宗西山派木枕西應寺末
天神山にあり  中略
○藥善寺   浄土宗西山派木枕西應寺末
村の中央にあり  中略

 
中村  奈加
      中略
○小祠五社
 牛神社  社地周八間村の東端にあり
 牛頭天王社  社地周二十四間村中にあり
 里神社  社地周二十間西林寺の北にあり
 辨財天社  社地周二十間村の巽にあり
 回 メグリ 社  社の乾田の畔にあり社今廢す
○西林寺   浄土宗西山派木枕西應寺末
村の坤ノ隅にあり  中略
○辻堂  境内周二十四間村の西ノ端にあり
      中略

 
大河内村  於保加布知
      中略
○小祠四社
 八王子社  社地周十六間村の艮山ノ上にあり
 若  宮  村の艮にあり
 八王子社  社地周十六間村の坤山ノ上にあり
 里神社  常福寺の側にあり
○醫王寺   時宗若山湊安養應寺末
濡羅の西櫻山にあり  中略
○常福寺  浄土宗西山派木枕西應寺末村の東端にあり
      中略

 
南畑村  美奈美婆多
      中略
○小祠三社
 里神社  社地周十八間村の坤山足にあり
 大将軍社  社地周十八間村の坤山足にあり
 氣鎮社  社の長山の半腹にあり
○極楽寺  浄土宗西山派木枕西應寺末村の坤にあり
○願成寺  浄土眞宗西本願寺系
村中にあり  中略
○小堂二宇
 不動堂  社地周十二間中川端にあり
 町市地蔵堂  社地周十二間村の北にあり
      中略

 
黒岩村  久呂以波
      中略
○聖御前社  境内周六十間
       蔵王權現
       若宮八幡
  祀神五座 天照大御神
       辨財天
       熊野權現
 末社   若宮  小宮
村の乾聖尾といふ山上にあり末社舊は別境内なりしを山上なれば漸々切開きて自一境内の如くなれり
○小祠三社
 里神社  觀音寺山にあり
 山王權現社  觀音寺山にあり
 天神社  西光寺の山つゝきにあり
○觀音寺  浄土宗西山派木枕西應寺末村の東山足にあり
○寶光寺  楊柳山寶福院 眞言宗新義根來寺律乗院末  中略  伊太祈曾明神の奧ノ院なりしといふはおほつかなし
○安養寺  浄土宗西山派木枕西應寺末  村の南にあり 中略
○西光院  北野山 眞言宗新義村中寶光寺末  村の坤にあり
      中略

 
黒谷村  久呂太邇
      中略
○小祠二社
 天照大神社  社地周十間本村にあり
 牛神 八王子社  藥師寺の側にあり舊は二社別殿なり
○藥師寺  浄土宗西山派木枕西應寺末 本村の東端にあり 中略 
○阿彌陀寺  浄土宗西山派木枕西應寺末  小名井の内にあり  中略
○安養寺  浄土宗西山派木枕西應寺末  村の南にあり 中略
○地蔵堂  本村の南にあり
      中略

 
頭陀寺村  豆太自
      中略
○若宮八幡宮  境内周二十間  西光寺の側の山ノ上にあり  中略
○西光寺  浄土宗西山派木枕西應寺末 村中にあり 中略 
○頭陀寺廢跡  村中字大字大門といふ知にあり  中略
○地蔵堂  本村の南にあり
      中略

伊太祁曽神社
神奈備にようこそ