御歳神を祀る神社一覧


御歳神の総本社 葛木御歳神社
延喜式内社 名神大。月次新甞。


葛木御歳神社 「御歳神 (配祀)大年神 高照姫命」奈良県御所市東持田269 大和国 葛上郡
リンク 葛木御歳神社 公式 神奈備
由緒
御本社の背後に御年(みとし)山という美しい神体山があり、古く御祭神は御年山にお鎮まりになって、金剛山 の扇状地にひらけた稲田を御守護された神であります。

御神名のトシは穀物、ことに稲をさす古語で、稲の神として古くから知られ、朝廷で豊作祈願のために行われた 年頭の祈年祭(としごひのまつり)には、まず本社の御歳神の名が読みあげられました。
その由緒について、『 古語拾遺』には下のように記されています。
むかし、神代に大地主(おおとこぬし)神、田つくりましし日に、 牛のシシをもて田人に食わしめたまいき。
時に御歳神の子、その田に至(き)まして、饗(みあえ)に唾(つば )きて還りまして、ありさまを父に告げましき。
御歳神、いかりまして、イナゴをその田に.....ちた、 苗の葉たちまちに枯れ損なわれて、篠竹のごとなりき。
ここに大地主神、片巫(かたかんなぎ)・肱巫(ひじか んなぎ)をして、その由を占求(うらな)わしめたまいしに、御歳神たたりをします。
宜しく白猪・白馬・白鶏 (しろかけ)を献りて、その怒りをなごめまつるべしともうすに、教えのまにまに謝(の)り奉(まつ)ります ときに、御歳神答えたまわく、実(まこと)に吾が意(こころ)ぞ。
宜しく麻柄(あさがら)をもてカセをつく りてカセぎ、すなわちその葉をもて掃い、天押草(あめのおしぐさ)もて押し、烏扇(からすおおぎ)もて扇ぐ べし。
もししかして出で去らずば、宜しく牛の宍をもて溝口におき、男茎(おはせ)の形を作りて加え、(ここ でいう「牛の宍」「男茎」とは、男・女の性の印を意味する古語であって、これは、その神の怒りを鎮め、陰陽 の和合を、称えたものである。
)ツスダマ・ナルハジカミ・クルミ、また塩をもてその畔(あ)にまきおくべし とのたまいき。
すなわち、その教えのまにまにせしかば、苗の葉また茂りて、年穀豊稔(たなつものゆたか)な りき。
これ今、神祇官に白猪・白馬・白鶏もて御歳神を祭ることの縁(もと)なり。

以上のことの意味は、人々が、「土」とのかかわりあいにおいて、稲作する時、その耕作に役立つ午(うま)等 (農耕器具等の生産手段)を大切にし、心を清くして、農耕等(如何なる仕事においても)をすべきことを、教 えたものであります。
このことを、別に解釈すれば人と「土」(自然)とのかかわり方の方法等を、教えたもの であり、自然との結合、人と人との結合(陰陽和合)をたたえたものであります。

古代における朝廷でも、祈年祭には、この御歳神社にだけ、白猪・白馬・白鶏を、献じられたのも、上のような 意味あいにおいてであります。

この御歳神社では、昔は、祈年祭の前日の二月二日、今では、五月三日に、御田祭りが執り行われ、諸々の神事 と共に参詣者には、杉葉を守札に包んだ蝗除け等の護符を配布しています。

なお、古書の記録では、仁寿二年(八五二年)には、大和国では、最高の神とされ、正二位の神位を授かり、延 喜の制では、名神大社に列した神社として尊ばれた古社であります。
以上


一覧
日高神社 「天之御中主神 (配祀)火産靈神 水波乃賣神 御年神 大年神 若年神 倉稻魂神 大國主神」 岩手県水沢市日高小路14番地 陸奥(陸中)国 胆沢郡

日高神社略記
呼称
日高未(ひつじ)の妙見宮、お日高さん、おぶつなさん、産土神又は氏神として尊崇されている。

社歴
人皇五十二代嵯峨帝弘仁元年(八一〇)に勧請、創建される。
奥州三ヶ所の一(日本国内二十四ヶ所ありと いう)
後冷泉帝康平四年(1062)鎮守府将軍源頼義、義家、安倍貞任と闘う。
この地に大雨頻に降り雌雄を決 せんとして、妙見宮に祈願し、未の刻に大雨止みて、戦勝せり。
依って神鏡一面を献じ、未の妙見堂と尊堂す。
社地黒印地たり。
社堂、源義家筆という請願文、社存す。
「未の妙見宮」額一面(式部権大輔菅原長親の書)そ の他多数あり。

嘉応二年(1170)藤原秀衡公社殿を再建し、社領を寄進す。

応永十一年(1404)社殿烏有に帰す。

正長元年(1428)柏山伊勢守、建立、神領十七貫匁を寄進す。

文亀三年九月(1503)柏山家より二十三貫匁、日高妙見社へ寄進。

永禄八年六月(1565)同家より太刀、笈外七品奉納。

寛永六年、水沢城主留守宗利公城主となる。

寛永九年七月、日高本殿改築、現存す。
祭日には、警固のため御武頭二人足軽十人を出人奉仕す。

胆沢郡総鎮守社と定められる。
明治四年九月、胆沢県郷社となる。
祠官一名、祠掌三名を置く。

胆沢郡郷社となる。
水沢市鎮座
社家
多宝院清徳・佐藤守百岡二郎胤広の四男、別当となり七百年、累代山伏修験道をもって仕う。
明治年代、古 神道をもって奉仕する。

現三十八代
寛永年間国主社参の節には、名物「ごぼう」を献ぜりという。

境内
千五百十八坪
氏子数
三千戸
崇敬者
五万人
例祭日
現在八月二十二日(元は明治四年三月二十二日という。
四月二十二日変る。

火防祭四月二十二日(元陰暦正月二十三日)町印(六台)内ばやし(六台)はやし屋台(九台) 昭和四十五年十月、日高ばやし天覧。

昭和四十八年十月大銀座祭にはやし屋台二台出場。

日高ばやしの碑、昭和四十九年記念碑建立。
(冬至入日に、昔は豊穰祭ありという)
社傍
太刀洗川(勝負川)南方より流る。
(古戦場に、太刀洗いしと伝う)
境内社
住吉社、住吉大神を祀る。
白山社、白山姫神を祀る。
氏子社、神社功績者を祀る。

心の字の池
心の字に型どって造る。

姥杉
周囲七米一〇糎、六米五十九糎。
昭和三十三年三月水沢市文化財指定。

以上

遠野郷八幡宮 「譽田別尊 (配祀)大國主神 事代主神 少彦名神 御年神」岩手県遠野市松崎町白岩23-19 陸奥( 陸中)国 閇伊郡


参拝のしおり
当神社のご祭神は譽田別尊・大国主神・事代主神・少彦名神・御年神の5柱の神様をお祀りし、遠野郷八幡宮と 申しております。

八幡宮の由緒は詳らかではないが、文治5年(1189)奥州平泉藤原氏を追討した源頼朝から遠野十二郷 を賜った阿曽沼広綱が一族の重臣宇夫方広房を代官として送り松崎村駒木の堀合に「舘」を築き、源氏の氏神で ある八幡神をまつり、遠野郷を統治したのに始まる。

建保2年広綱の次子親綱に引き継がれ、堀合の舘に居住して横田城を築き、城の東北(鬼門)に当たる宮代 に城の鎮守として八幡宮を勧清し崇敬した。

慶長5年(1600)阿曽沼氏衰退後南部利直の所領に属す。
寛永4年南部直栄が八戸から転封し、領内巡 検の際に社領10石を賜った。
八幡宮は古来から源氏の氏神であったので南部家の厚く崇敬するところとなり、 直栄は更に社地を踊鹿山(現八幡山)の現在地に求め、寛文元年遷宮した。
以来祭事を盛大にし、武士は遠祖源 頼義が鶴ケ岡八幡宮で行った祭式にならい流鏑馬を、町方には南部ばやしを、在方にはしし踊り外の芸能を奉納 させた。
現在も欠く事なく毎年9月15日に行われる「流鏑馬神事」郷土芸能総参加の「馬場めぐり神事」がそ れである。
特に馬場めぐり神事は、祭り本来の形を現在に遺す行事と言われ、民俗学的にも興味深い祭りである と言われている。

明治維新後社格が決められた際当神社は郷社に列し、遠野郷(旧上閉伊郡の西半分)の住民を氏子とした。
昭和25年八幡神社を「遠野郷八幡宮」と改称し、翌26年には、出雲大社のご分霊外3柱の神を合祀する。
昭 和42年には創建780年・現地遷宮300年を記念して幣殿・拝殿を新築し境内を整備した。
昭和62年「遠 野郷八幡宮創建八百年誌」を刊行し、創建八百年大祭を盛大に執行して現在に至る。

以上

岡山神社 「石神大明神 御年神」岩手県下閉伊郡岩泉町釜津田第14地割字中居村36番地 陸奥(陸中) 国 閇伊郡

櫻岡大神宮 「天照皇大神 豐受大神 (合祀)大歳神 御歳神 若歳神 事代主神 蛭兒之命 大國主神 少彦名神 奧津 彦神 奧津姫神 手置帆負神 彦狹知之神 表筒男命 中筒男命 底筒男命 保食神 柿本人麿」宮城県仙台市青葉区桜 岡公園1番1号 陸奥(陸前)国 宮城郡

桜岡大神宮由緒
仙台藩祖 伊達政宗公、元和七年(一六二一)に伊勢神宮より御分霊を勧請し、宮城郡荒卷に祀り神明宮と称し、 伊勢堂山と号した。

伊達綱村公、天和二年(一六八三)に伊勢堂山の規模を拡張して社殿を改築し、社領二十貫文の地を加美郡 四竈村に於いて寄進され、更に祭祀料玄米五石、小豆一石一斗を寄せ、惣頭一名、足軽四十人、人夫十人を派し て祭典を執行し、神事を衛守せしめ、殊に奉行職をもって代拝とし広く人々に参拝せしめ、累代の藩主継嗣の折 に参拝することを例とし、大小の造営は悉く公費をもって修築なされるなど、伊達家累代崇敬の社であった。

明治維新の神仏分離令により神宮寺を廃止し、明治五年(一八七二)伊勢堂山より、広瀬川の清流に臨み、 前面に青葉山や亀岡を望む景勝の地(公園内)に御遷座、大正十五年十月十七日(一九二六)、現在の場所に社 地を変更し、社殿を造営遷座、現在にいたる。
以上

須賀神社 「素戔嗚命 (配祀)大年神 御年神 若年神」宮城県本吉郡志津川町字天王山81 陸奥(陸前)国 本吉郡

沢目神社 「天之御中主神 高皇産靈神 天照大神 水波能賣神 速素盞雄命 大歳神 御歳神 加句知知神 火産靈神 倉稻魂命 大山祇神 中津綿見大神 受持神 譽田別命 菅原道眞」秋田県山本郡峰浜村水沢字寺ノ後54 出羽 (羽後)国 山本郡

神明社 「天照皇大神 譽田別大神 大山祇大神 御年大神」秋田県横手市猪岡字長瀞4 出羽(羽後)国 平鹿郡


金峰神社 「大名持命 (合祀)天照皇大神 宇迦御魂神 御年神 手力男命」秋田県平鹿郡平鹿町醍醐字明沢嶽 平地嶽沢3 出羽(羽後)国 平鹿郡

水無神社 「御年大神 (配祀)八幡大神」山形県鶴岡市大字三瀬字越戸壱番ノ内6-1 出羽(羽前)国 田川郡

三歳神社 「大年神 御年神 若年神」山形県飽海郡遊佐町大字白井新田字二本松流1 出羽(羽後)国 飽海 郡

旭宮神社 「火産靈命 澳津彦命 澳津姫命 大國主命 事代主命 稻倉魂命 大年命 御年命 若年命」福島県須賀川 市旭町5番地の5 陸奥(岩代)国 岩瀬郡

八坂神社 「素盞嗚神 (配祀)熊野速玉神 歳徳神 稻倉魂神」福島県いわき市鹿島町御代字赤坂32ー3 陸奥(磐城 )国 磐前郡

鹿島神社境内社歳徳神社「歳徳神」 福島県いわき市小名浜南豊岡字北ノ内11 陸奥(磐城)国 磐前郡

温泉神社境内社歳徳竃處社「大歳御祖神 火産靈神 (配祀)御歳命 若歳命 奧津彦命 奧津姫命」福島県いわき市常 磐湯本町三凾322 陸奥(磐城)国 磐前郡

温泉神社由緒沿革
佐波古神社とも称す。
延喜式内社であり、社家に伝わる「神幸由来記」など古文書参考書によれば、神代の昔、 湯の岳が神体山であって信仰の山である。

上古逸早く少彦名命鎮座あり、後に日本武尊当地進駐の折、大和国現在奈良県三輪大社の主神、大物主大神 「大巳貴命」が合祀されて、以来二神が郷民によって祀れた。

白鳳二年九月九日、湯の岳より下山して里宮として遷座され、三遷して現在地に遷ったのが延宝六年である と記録さる。
尚、例大祭には、泉下川浦剣の浜より汲み来た潮水を供え、神事を行う各戸は五月の山野の花を「 カザシ」て神を迎へ祝う。
これすなわち、花祭であり、三枝祭であり、古来「サツキ」祭と称している。

以上

大年神社 「大年神 御年神 若年神」福島県双葉郡富岡町字夜ノ森北三丁目1ー2 陸奥(磐城)国 楢葉郡

塩竃神社境内社田神社「大年神 (配祀)御年神 若年神」茨城県北茨城市磯原町上相田622 常陸国 多賀郡

八幡神社 「譽田別命 (配祀)宇迦之魂命 大年神 御年神」東京都大田区久ケ原1丁目 武蔵国 荏原郡

氷川神社境内社八王子神社「(合祀)御年神 東照宮 建御名方神」東京都葛飾区堀切5ー38ー10 武蔵国 葛飾郡

氷川神社
創立つまびらかならざれど口碑に據るに正治元年(一一九九年)参月武州一の宮氷川神社を勧請して下千葉村( 現在地)の鎮守として奉祭明治五年十一月十四日社格を村社に列せらる。
以上

水神社境内社歳神 「歳神」 神奈川県川崎市川崎区殿町2ー1ー20 武蔵国 橘樹郡

神明神社境内社歳神 「歳神」 神奈川県川崎市川崎区川中島1ー12ー12 武蔵国 橘樹郡

漆宮神社 「大年神 御年神 大地主神 田心姫命 市杵嶋姫命 宇迦魂大神 思金命」新潟県西蒲原郡潟東村大字大 潟村古新田17番地 越後国 蒲原郡

柏崎神社境内社稲荷神社「倉稻魂命 大年神 御年神」新潟県柏崎市西本町1丁目5番3号 越後国 刈羽郡

稲荷神社「倉稻魂命 大年神 御年神」新潟県柏崎市桜木町26番17号 越後国 刈羽郡

鵜川神社境内社歳神社「和久武須比神 大年神 御年神 若年神」新潟県柏崎市大字新道5127番地 越後国 刈羽郡


白山神社境内社十二神社 「御年神」新潟県上越市大字西横山311番地 越後国 頚城郡

白山神社由緒書
本社は霊亀二年、加賀国石川郡白山神社より勧請、古記録等紛失し不明なれども蘇民將来の極楽寺彫の版木も現 存す(牛頭天王)。
祓いの神事として小正月行事が今も行われている(上越市文化財)。
以上

十二神社 「大年神 若年神 御年神」新潟県上越市大字丹原77番地 越後国 頚城郡

氣比神社境内社十二神社 「大年神 御年神 若年神」新潟県上越市大字中ノ俣223番地 越後国 頚城郡

十二神社 「御年神」 新潟県上越市大字東吉尾354番地 越後国 頚城郡

十二神社 「大年神 御年神 若年神」新潟県中頚城郡頚城村大字下三分一170番地1 170番地2 170番地3 越後 国 頚城郡

水舞神社 「御年神 (合祀)少彦名神 天照大神 譽田別命」富山県富山市牧田878 越中国 婦負郡

御田神社 「大年之大神 伊邪那岐大神 天兒屋根命 伊邪那美神 (合祀)御年大神 (主神)譽田別命」富山県氷見市 婦仏生寺495 越中国 射水郡

亀田神社 「(合祀)市杵嶋姫命 (主神)天照大神 御年神」石川県河北郡宇ノ気町谷ト1 加賀国 河北郡

布戸神社境内社御年神社 「御年神」石川県輪島市町野町徳成ト7 能登国 鳳至郡

石瀬比古神社境内社御年神社 「御年神」 石川県輪島市町野町東口4 能登国 鳳至郡

十五所大神社 「稻倉魂神 天照大神 大年神 水分神 津長井神 庭高津日神 生井神 大物主神 御年神 大國主神 稚産靈神 保食神 神進雄神 大食津日神 波比岐神」山梨県西八代郡下部町三沢970 甲斐国 八代郡

十五所大神社 「倉稻魂神 榮井神 廣高津日神 大年神 若年神 素盞嗚神 水分神 御井神 御年神 波比岐神 稚産 靈神 津長井神 宇氣持神 大地主神 大倉澤神」山梨県西八代郡下部町三沢4483 甲斐国 八代郡

伊勢神明社 「大日ルメ尊 素盞嗚尊 譽田別尊 倉稻魂神 稚産靈神 大年神 若年神 保食神 御井神 阿須波神 波比 伎神 津長井神 御年神 水分神 大倉澤神 廣高澤神」山梨県西八代郡下部町上田原2243 甲斐国 八代郡

神明社 「天照大御神 御歳神」山梨県北都留郡上野原町新田1183 甲斐国 都留郡

諏訪大社境内社荻宮社 「大歳神 御歳神」長野県諏訪市大字中洲字宮山1 信濃国 諏訪郡

諏訪社の由緒は省略
飛騨総社 「御歳皇神 大荒木之命 國之水分命 彌都波能賣神 大山津見神 高皇産靈神 大彦命 高魂神 大歳御祖 神 五十猛神 大歳神 水波能賣大神 須佐之男命 和加宇加乃賣命 道後大神 大國主神 本母國都神 日本武尊 別雷 大神 大八橋大神 (合祀)菊理姫命 伊邪那美命 伊邪那岐命」岐阜県高山市神田町2丁目114番地 飛騨国 大野郡
飛騨総社延喜式内八社国史所載十社飛騨国総鎮座飛騨総社概記           
平安時代に国史巡拝の制度が廃れると、国府の近くに神籬を立てて国内の式内社を始め諸神を勧請し神事を行う ようになったのが総社の始まりとされます。
当神社の確かな創立年代は不詳ですが、朱雀天皇の御世承平元年( 九三一)という言い伝えがあり、飛騨国延喜式内社八社(大野郡三座・荒城郡三座)及び六国史に記載の国史現 在社十社を合祠し、国司自ら奉仕されたと言い伝えがあります。

当初は神籬式祭礼で、十八社の各神社の神々の降神を仰いで、毎月の行事として国司巡拝の礼を省き祭場を 総社としました。
その後、後鳥羽天皇文治二年(一一九一)五月に初めて社殿が造営され、後深草天皇建長四年 (一二五二)四月朝廷より幣白供進の令宣を賜り、後醍醐天皇建武元年(一三三四)五月神領地を定められまし た。
時の国司は姉小路頼綱といわれ、歴代の国司は総社は篤く尊信し、飛騨国内の人々もこれに従い崇敬の誠を 捧げてきました。
時代の変遷と共に幾度か盛衰があり、室町時代から安土桃山時代には衰退しましたが、その中 でも本殿・拝殿の再建がありました。
江戸時代明正天皇の寛永五年(一六二九)八月、飛騨国守高山城主金森出 雲守重頼によって総社の再計が計られ、寛文五年(一六二九)五月大改修が行われました。
元禄年間頃からは、 総社大菩薩宮と呼ばれ修験者や浮図によって奉仕され、天明の大飢饉(一七八一)頃より荒廃著しく、光格天皇 天明二年(一七八二)八月営繕されましたが、文化元年(一八〇四)には境内地僅かに二畝十歩(二百五十u) という惨々たる状態になりました。

この様子を嘆いた時の国学者田中大秀(本居宣長門弟)は文化三年(一八〇八)丙寅「飛騨総社考」を著し て再興を願い「国の内の神坐せいつかしし昔にかへす時をこそまて」と詠んで飛騨の人々にその志を伝えて勧進 に勤め、仁孝天皇文政二年(一八一九)己卯六月釿始祭を行い、棟梁古田与兵茂年、与次兵衛茂成親子に任せて ん造営に着手、翌三年庚辰三月上棟竣工をなして造営を成し遂げて、境内の拡張と御祭神の考証を行い、今日の 御祭神列座の因をつくりました。
この時の遷座祭の斎主は、飛騨一ノ宮水無神社大宮司平君が勤め、大秀翁は祝 賀して「いにしへのあとのまにまに国都神集へまつれるけふのとふとさ」と詠み、更に飛騨国中の人々に幸せを 願い「御代やすく御年豊けくとこしへにみたみ恵ませおおみかみたち(境内歌碑)」と詠みました。
大秀翁の志 は、飛騨の人々の心を揺さぶり、神徳の高揚と社頭の興隆に現在までつながっています。
弘化二年(1845) 直孫弥太郎田中正民は祖翁の総社記を呈して進学を奉献、その志を継承しました。
以来、本殿及び付属社等順次 整い、「霊威高山より高く、神徳名田より広し」と飛騨総社の名声は益々高くなりました。

明治十四年(一八八一)二月久邇宮朝彦親王染筆の社号を賜り、同二十年から二十三年にかけて大造営が行 われ、南向きだった社殿を東向きにし、社頭七日町筋までの参道が整備されました。
同四〇年五月に五日間臨時 大祭斎行、昭和五年、昭和三二年、昭和六十三年に飛騨国中の三百余社の神社の神々を招請して式年大祭を斎行 。
現在の外拝殿及び社務所は昭和五十九年に造営したものです。
以上。

八幡神社境内社御鍬神社 「御年神」 岐阜県羽島市小熊町東小熊字新地3171番地 美濃国 羽栗郡

剣神社境内社少彦名神社 「少彦名神 菅原道眞 大年神 御年神 若年神 譽田別神」岐阜県加茂郡白川町広野 743番地 美濃国 加茂郡

白山神社境内社稲荷神社 「倉稻魂神 大年神 御年神 若年神」岐阜県加茂郡白川町水戸野95.96番地 美濃国 加 茂郡

大宮神社境内社稲荷神社 「宇迦之美魂神 御年神 若年神 菅原道眞 山神」岐阜県加茂郡白川町河岐 1892.1893.1894番地 美濃国 加茂郡

大縣神社 「大年神 御年神 若年神」岐阜県可児市坂戸196番地 美濃国 可児郡

白山神社境内社洲原社 「大年神 御年神」岐阜県土岐市肥田町浅野610番地 美濃国 土岐郡

飛騨一宮水無神社 「御歳神 (配祀)大己貴命 三穗津姫命 應神天皇 高降姫命 神武天皇 須沼比命 天火明命 少 彦名命 高照光姫命 天熊人命 天照皇大神 豐受姫大神 大歳神 大八椅命」岐阜県大野郡宮村字石原5323番地 飛 騨国 大野郡

参拝のしおり
古来、飛騨国一ノ宮として名高く、創始年代は神代にありと社伝にもあるが詳らかではない。
史上にあらわれる のは平安初期、貞観九年(867年)神位を授けられた記事にはじまる。
中世鎌倉時代には社領は付近十八 ケ村 に達し、社家十二人と社運が隆盛であったが、戦乱にかかわって荒廃をみた。
江戸時代に入って歴代の領主、代 官、郡

代(天領時代)の尊崇をうけ、また、一般の厚い信仰にささえられ、明治四年五月十四日、太政官布 告によって国幣小社に列せられ、昭和十年より国費をもって十年の歳月を要する造営がなされ今日の社殿が完成 した。
昭和二十一年二月官制廃止後は神社本庁に所属し現在におよぶ。
社名の水無は『みなし』(水成)または 、『みずなし』とも読み、俗に『すいむ』と音読することもあるが、水主の意味である。
社前を流れる宮川の川 床があがり、流れは伏流して水無川となり、水無川、水無瀬河原、鬼川原(覆ケ川原)の地名となっている。
こ の宮川の源流位山は日本を表裏に分ける分水嶺になっており、水主の神の坐す神体山として当神社の奥宮と称し ている。
この霊山には一位(櫟)の原生林があり天然記念物とされ、平治元年(1159年)には飛州一宮神主 から位山の一位の御笏を献上したことがみえるのをはじめ、一宮神領、位山の一位をもって謹製した笏を歴代天 皇御即位に献上するのが例となって今日に至っている。

桂本神社 「葛原親王 御歳大神」岐阜県吉城郡神岡町打保490番地 飛騨国 吉城郡

天地神社境内社淡島神社 「不動尊 (合祀)歳の神」静岡県田方郡函南町平井1124 伊豆国 田方郡

大井神社境内社春日神社 「建御賀豆智神 伊波比主神 天之子八根命 須佐能男命 奧津彦神 火産靈神 奧津姫神 御年神 倉稻魂神」静岡県島田市大井町2316番地 駿河国 志太郡

神神社境内社田明神社 「大年神 御年神 大市比賣神」静岡県志太郡岡部町三輪1290番地 駿河国 志太郡

稲荷神社境内社大歳神社 「(配祀)大宮姫命 (主神)大年神 (配祀)御年神 若年神 」静岡県浜松市飯田町929 遠 江国 長上郡

有玉神社 「天照意保比留賣貴命 (配祀)天手力男命 萬幡豐秋津姫命 (合祀)譽田別命 息長足姫命 大鷦鷯命 猿 田彦命 菅原道眞 國狹槌命 彌都波能賣神 金山彦命 稻倉魂命 事解男命 速玉男命 大年神 御年神 志那都比賣命 須佐之男命 大物主命 大山祇命 伊邪那岐命 伊邪那美命 志那都比古命」静岡県浜松市有玉南町 遠江国 長上郡
御由緒・沿革
明治40年、当時の有玉村は世帯数380戸あり、地域内には郷社神明宮を初めとして村社、無格社合わせて1 2社があり、そのうち村全体で祭典を行う神社が3社、小部落で行う神社が9社あった。
神社の多くは境内、社 殿共に狭く神社の尊厳を保持しがたく、加えて祭典の繁雑さを訴える世論が台頭してきたので関係者協議の結果 、1村1社に合併し、宏荘・尊厳なる社殿を建築して氏子の信仰と高の社会教化の中心にしようとして、明治4 0年9月10日、郷社神明宮を八幡宮境内に移転し併せて11社を合祀し、郷社有玉神社を称することにした。
新社殿は大正2年に完成し、同年9月10日に御遷宮された。
昭和27年8月20日宗教法人有玉神社の認証を受け、静岡県神社等級規定により6等級神社と承認された 。
以上

屯倉水神社 「豐受比賣大神 倉稻魂神 罔象女命 大年神 御年神 若年神」静岡県引佐郡細江町気賀 遠江国 引 佐郡

屯倉神社は往古伊福の郷の(気賀の庄)屯倉神社の遷座所なり、屯倉とは古皇室の御料の田又はこれにより収穫 した米穀を収むる倉と云い、官舎、官宅、御宅とも云い、御田とも併せて云う、垂仁天皇の27年の条に(興屯 倉〓来目邑)とあるを始めとし、それ以後代々天皇は各国毎に屯倉を定め、天皇にあらざれば領し得なかったの である。
このような歴史をもった屯倉は大化の改新によって廃止せられ、その跡屯倉神社のみ遺る。

遠江国引佐郡では伊福の郷本所(堀川城の跡が本所という所で今にその地名が残る)に屯倉を置いた。
遠江国引 佐郡は、元都田、刑部、伊〓、伊福の四郷であった。
しかし伊福の郷だけその地名を失う。
(後蹴川となり気賀 となる年代不詳) 建久元年(1190年)源頼朝上洛の際、屯倉神社の再興を願う頼朝は、遠江守義定に命じ水田八町歩(8ヘク タール)を寄進せしめ再興をはかった。

後建武2年(1335年)足利尊氏都へ攻め登る、このとき弟直義は引佐山越を登る。
引佐郡は官軍方にて足利 勢を所々に喰止め防禦きびしく通過出来なかったので、道筋に放火して社神民屋悉く焼〓し、屯倉神社も亦廃亡 に期す。
延文5年(1360年)より永正7年(1510年)まで地震、洪水十度余、分けて永正7年の大地震には、当 地の湖水南岸崩れ湖海となる。

永録10年(1567年)社地を俄に城郭となす。
(新田喜斉、山村修理、竹田高正、 尾藤主善等、 徳川の侵略 を阻まんと堀川城を築く。

このとき屯倉神社は油田東岩崎(現在の岩脇)水神社に移す。
これより屯倉水神社と改む、 旧社跡は水田となり 今に大鳥居の地名残る。

永録12年(1569年)堀川城落成により徳川家の領地となり奉行本田多作左衛門重次の命により社中並びに 社領を定められ、油田の氏神として五穀成就、川方守護神として崇敬すべく、竹田、尾藤、斎藤、三家に社家( 神職)を命じ、屯倉水神社を守護せしめ毎年の例祭には三家交代で年番を勤め祭主となって祭礼を執り行ない、 明治2年(1869年)まで続く。
その後神社総代制となり、総代によってまつりごとを行うようになった。

明治13年(1880年)野末梅三郎氏の〓力により、井伊谷村より神楽の舞をとり入れ、井伊谷村、野沢定吉 氏に師事し、お神楽の舞を修得、神社例祭にはお神楽を奉納することとなる。
尚細江神社の祭礼にも奉納し今日 に及ぶ。
以上


御器所八幡宮境内社総社宮 「熱田大神 津嶋大神 秋葉大神 (配祀)熊野大神 美都波能賣大神 三寶荒神大神 大 國主大神 惠比壽大神 市寸嶋比賣大神 木之花咲耶姫大神 磐長比賣大神 歳徳神大神」愛知県名古屋市昭和区御器 所4−4−24 尾張国 愛知郡

田縣神社 「御歳神 玉姫命」愛知県小牧市田県町152 尾張国 春日井郡

御由緒
世に名高い小牧長久手の合戦に、豊臣秀吉が陣取ったといわれる久保山。

そのふもとに続く俗称「縣の森」に当社は鎮座します。

御創建年代は古く、遠く弥生時代にさかのぼります。
太古この地方一帯にすんでいた豪族が、「母なる大地は、 父なる天の恵により受胎する。
」との古代日本の民族思想により、五穀の豊穣、万物の育成、国土の発展を神に 祈ったのにはじまります。
醍醐天皇の延長五年(九二七年)に編纂された「延喜式」には、田縣神社と記載され、また貞治三年(一三六四 年)の「尾張国内神名牒」にも、従三位上田方天神とあって、古くから格式の高い神社であったことがわかりま す。
以上

八劔神社境内社斎穂社「大年神 御年神 御食津神 事代主神 大宮賣神」愛知県名古屋市守山区大森2−1721  尾張国 春日井郡

八剱神社
由緒
 延暦2年(793)に、この地方を支配していた豪族山田の連によってね大森字北八剣の地に創建されたと伝 えられますが、当時は五十代桓武天皇平安京を京都に遷都され、武内宿禰を大臣とされた時代でした。

 また応永元年(1393)百代後小松天皇の頃、南北朝統一、幕府の支配権確立、足利義満京都に金閣寺建立 の時代の棟札が宝物と古書に記されています。

 その後宝暦10年(1393)116代桃園天皇、徳川家治10代将軍となる。

江戸大火、佐渡奉行を置く時代に、大森元郷に近い字中町田の地に遷宮されるとき、本殿も新築されたと伝えら れています。

以来度重なった地震、盗難、特に風水害よる被害を受け神社の孤立があったので、昭和2年当弁天洞の山頂に、 務んしの本殿そのままの姿で遷座されましたが、昭和54年220年経過した本殿も老朽化が甚だしく、改体調 査し、原寸のままの本殿を総桧造りで新築し、これに合わせ34年の伊勢湾台風で拝殿その他の建物、また樹木 に大被害を被り、祭文殿は鉄筋で建設しましたが、この屋根を銅板葺に改修し、祝詞殿も今回新築し年々氏子の 増加とともに大森の産土神として崇敬される八剱神社になっています。

「八剱神社」の名称は熱田神宮の別宮で宝剣をご神体とする八剱宮に由来すると思われますすが、当社がいつご ろからこのように呼ばれるようになったかは明かではありません。

当社には須佐之男命、大和武尊、天之火明命の三柱の神が祭られていますが、そのうちそのうち前二柱は熱田八 剱宮の祭神と同じです。

天之火明命は尾張氏の祖と伝えられる神で当社の摂社尾関社の祭神でもあります。

 したがって古代尾張氏の一族である山田の連が祭った祖霊を、中世は大森城主尾関氏が受け継ぎ、それが熱田 八剱宮の信仰がとりいれられたものと想像されます。
以上

一之御前神社 「大山祇命 國之常立命 (合祀)譽田別命 御年大神 保食大神 菊理姫命 天照皇大御神 伊弉那美大 神」愛知県尾張旭市稲葉町3丁目164番地 尾張国 春日井郡

田之社 「御年神」 愛知県海部郡大治町大字西条字土井之池48 尾張国 海東郡

熊野神社境内社洲原社 「御歳神」 愛知県大府市吉田町中ノ坪脇67 尾張国 知多郡

熊野神社概要
一、社名 吉川熊野神社
一、鎮座地 大府市吉田町
一、祭神 事解之男神
伊邪奈美命
速玉之男神
一、由緒 明治5年村社に列せらる
明治四十一年幣帛供進指定神社に列せらる
沿革
当神社社の起元については詳ではないが應永四年吉川城の築城と共に創建されたものと思考される。
棟札によれば享保三年十一月改修遷宮の 弥勤寺住職宣悔とある延享元年十一月改修宝暦五年七月改修、文化十 三年四月改修天明五年七月改修、文化十三年四月改修、安政三年二月吉日改修、明治十年改修、明治三十三年改 築、造営、遷宮、大正四年社務所新築、昭和六年四月祝詞殿、渡殿新築、昭和三十一年玉垣神殿修理、芸能殿新 築、昭和四十九年本殿、渡殿、祝詞殿、向拝、透塀、社務所、渡り廊下敷地造成一切の造営なり四月吉日を卜し 遷宮の大祭を執行す。
以上


老津神社 「正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命 (配祀)天之菩卑能命 天津日子根命 活津日子根命 熊野久須毘命 多紀 理毘賣命 市寸嶋比賣命 田寸津比賣命 須佐之男命 天照大神 大山祇神 (主神)戸田實興 戸田光忠 菅原道眞 倉稻 魂命 豐受姫命 伊佐波登美命 玉柱屋姫命 蛭子命 大山祇神 八衢彦神 八衢姫神 久那斗神 伊弉諾命 速玉之男命 事解之男命 磐裂神 根裂神 罔象女命 大綿津見神 大年神 若年神 御年神」愛知県豊橋市老津町字宮脇14 三河 国 渥美郡

香良洲神社 「稚日女尊 (配祀)御歳神」三重県一志郡香良洲町3675 伊勢国 一志郡

由緒略記
稚日女尊は天照大御神の御妹神にあらせられ、第二十九代欽明天皇の御宇(今よりおよそ1,400年前)、生 田の長峡(現在の神戸市生田神社)から勧請申し上げおまつりした神社です。

そもそもこの神様は神功皇后(第十四代仲哀天皇の皇后)が三韓御征討凱旋のみぎり、難波の海(今の大阪湾) が荒れて船先がみだれた時、この神、その軍船を御導き給い無事御上陸になられたので、住吉、長田の神と共に この神を生田におまつりにになられたのが今の生田神社であります。

降って欽明天皇の御代にいたって一志の須で(浜洲)夜な夜な御神火が見えるので、地人(里人)神意を畏れ、 騒ぎも一通りでなく、これを知った一志直青木といえる人が一夜神のみこころを仰がんものと海辺に出て御神誨 を乞い奉ったところ、吾は生田の長峡に坐す稚日女神である、姉神の在す、神風伊勢のこの地に鎮まりたいとの 御告げがあり、青木恐懼直ちに生田より御勧請、祠を造営し祭祀を行い、長くこの地に奉斎することになりまし た。

この神、姉天照大御神の御意により機殿にまして、きぬを織らせ給うおり素神が天班駒の膚をはぎその機殿に投 げ入れ給うたため傷つかれ神去り給うた。
その時の御言葉により婦人の守護神としての信仰厚く、尚機殿にまし て機織のことに従事せられたことにより、後世紡績界にもその信仰深く、また神功皇后の軍船を守護せられお導 きになられたことをあがめ航海の神、海の守りの神としての信仰もまた非常に厚いのである。
以上

相生神社 「須佐之男命 多紀理毘賣命 市寸嶋比賣命 多岐都比賣命 天忍穗耳命 天菩卑命 活津日子根命 天津日 子根命 熊野久須毘命 天手力男命 宇迦之御魂神 御年神 木花之佐久夜比賣命 金山彦命 菅原道眞」三重県多気郡 多気町大字兄国25 伊勢国 多気郡

多爲神社 「天之穗日命 (配祀)菅原道眞 (合祀)木花咲耶姫命 譽田別命 天津日子根命 熊野久須毘命 顯仁命 倉 稻魂命 大年命 御年命 大日ルメ貴命 若年命 迦具土命 猿田彦命 大山祇命 天火明命 苗女靈命 」三重県津市大里 睦合町1525 伊勢国 安芸郡

八幡神社境内社農神神社 「御年之大神」 滋賀県坂田郡山東町小田664 近江国 坂田郡

賀茂別雷神社境内社賀茂山口神社 「御歳神」 京都府京都市北区上賀茂本山339 山城国 愛宕郡

神代の昔、本社の北々西にある秀峰神山に御降臨になり、天武天皇の御代(678年)現在の本殿に御鎮座にな った。
御鎮座以来広く庶民の信仰を集め、皇室の御崇敬は歴代にわたり、行幸啓は枚挙にいとまあらず、国家の 重大事には必ず奉幣、御祈願があった。
嵯峨天皇は皇女有智子内親王を斎院と定め、天皇の御杖代として御奉仕 なさしめ給い、以来三十五代、約四百年続いた。
「延喜式」では名神大社に列し、のち一ノ宮として尊崇せられ た。
又摂関賀茂詣、武家社参相次ぎ、特に徳川家は家紋の三ツ葉葵が、当神社の神紋二葉葵に関係があるところ から、特別の信心を寄せた。
明治以後終戦まで、官幣大社として伊勢の神宮に次ぐ、全国神社の筆頭に位した。
以上

賀茂御祖神社境内社澤田社 「御年神」 京都府京都市左京区下鴨泉川町59 山城国 愛宕郡

御祭神は、日本のれい明期において、早くから京都地方を開拓し農耕殖産の道を教え、更に正邪を糺して裁判の 基を開かれた。
かの神武天皇の御東遷に際しては、金鵄・八咫烏としてその霊徳を現され、建国創業をたすけ、 民生の安定に貢献されたことは古典や伝承の示すところである。
また玉依媛命は、賀茂別雷神社(通称上賀茂神 社)の祭神「別雷神」の御母神であり、婦道に御功績が多かった。
かくて当神社に対する信仰は往古から甚だ根 強いものがあり、特に王朝時代に隆盛を極め今日に至っている。
千数百年の伝統を誇る葵祭は、勅祭として、今 もなお昔ながらに継続斎行されている。
殖産興業、五穀豊穣、馬事安全、縁結び、安産、育児、方除け、印鑑守 護等、多方面にわたる御神徳は、今日の賀茂信仰の根底をなしている。
また観光部面においても、王朝の昔を偲 ぶ十二単衣の着付と王朝女人の雅楽舞、舞楽等があり、毎日、京都市観光バスのK・Nコースによって好評を博 している。
以上

二宮神社 「大歳神 御歳神 若年神」京都府綾部市有岡町志庭垣16 丹波国 何鹿郡

由緒
(祭神)大歳神 御歳神 若歳神
二宮神社の創建について 二宮神社創建についての記録は残されていない。
資料によると亨保元年(1716年)建替。
「上家 鳥居」が いずれも安永五年(1776年)に建替になり、更に資料によると「内陣、上三間半二二間天和改」となってい るところから1680年代には既に改造がなされているし、資料によると御神体に「明応八年三月三日」(14 99年)の銘がある。

二宮神社の占める位置
隋身壱対勧進録資料によると当社は霊験あらたかで、参拝人多く、有名な神社であったことが想像される。
即ち 「高倉天一大明神御祭礼御出輿之式」を見ると、金幣も鉾も天一大明神のあとには、いつも二の宮(有岡)、三 の宮(多田)が随ってしっかり守っている。
1550年代、即ち宝暦年間になるとムラ(この場合は有岡村)が 大きく力をもってきて、これまでの攝社としての二宮神社のみならずムラの氏神としての地位を強固にし、社格 を上げようとする動きが出て、山家藩主谷蔵之進に宛願書を出した資料が残っている。

「ヒヤソ」踊り
治承四年六月九日、以仁王は杉山政国(有岡城主)の先導で吉美郷へ落ち延びられ、由良川を渡り里村(現里町 )へ入られた。
村人は田植真最中で一行をお迎えし、御君を勇気付けんと政国自身笛を吹き村人と共に囃し立つ れば以仁王自ら鼓を取って「いやそう、いやそう」と宣い喜ばれた。
「いやそう」とは戦いや敗走の疲れを癒そ うとの意味で、これがなまって「ヒヤソ踊り」になったという。
以仁王はしばらくして戦いで受けた矢傷が痛み 出し急死された。
その笛は青葉の笛と称し古来から伝わる品と言われ、高倉神社例大祭の笛吹も有岡から出るこ と等以上の理由による。
以上

日吉神社境内社年徳神社 「歳徳神」 京都府宮津市宮町1408 丹後国 与佐郡

大山咋命 大己貴命
災難除去の神々
宮津の町では昔から「山王さん」の名で親しまれています。
神社ができたのは平安期と伝えられ、江戸時代より 歴代宮津藩の守護神として城主の深い信仰を受け、お殿様、ご家中を始めとした城下町宮津の総氏神とされて参 りました。
そのため当神社の例祭(山王祭)に限り特に宮津祭の名で呼ばれています。

山王宮に鎮まります神々は、昔より「災難除去の神」とされ、不幸をもたらす悪霊(まがつび)を遠ざけ災難よ り万物を守る非常に強い力を持つ神と言われています。
そのため古来数多くの信仰を集め、季節を通し行われる 数々の御祭では、古式に定められた儀礼の中で、災厄は祓われ幸福が祈願されています。

今日「厄除祈願」「交通安全祈願」等に遠方からの参拝者が多いのも、そうした御神力によるものと言えます。
以上

歳本神社 「歳本神」 京都府竹野郡弥栄町等楽寺谷地岡220 丹後国 竹野郡

天神社境内社八王子社「須佐之男命 歳徳神」大阪府大阪市東住吉区桑津3-4-17 摂津国 住吉郡

参拝のしおり
由緒
大坂陣の時に資料を失い、由緒は詳らかではない。
しかし口伝によると、髪長媛が病にかかられた時、少彦名神 に祈願され全快された。

古来毎年九月二日に、新米を以て「しんこ」を作り神前に供えるのは、媛の本復祝いに供えられたことによる。

後に「桑津のしんこ」として名物となつた。

髪長媛がこの桑津の地に召された記事は、「日本書紀」の応神天皇の条に 「十三年春三月、天皇専使を遣わして髪長媛を徴さしめたまふ。
秋九月中に、髪長媛日向より至れり。
便ち桑津 邑に安置らしむ」
と記されている。

即ち、髪長媛は神として、神の資格を持った采女として、宮中の新甞祭に奉仕するために、日向の国より召され 、(現在の宮崎県都城市が髪長媛生誕の地と言われ、同地の早水神社には髪長媛をご祭神として奉祀されている )仁徳天皇妃となられ、桑津にお住みになった。

後に、髪長媛の住まい跡に金蓮寺が建立された。
同寺については、古記録によると
「文禄三年浅野弾正の検地以来その境内四百九十三坪は徐地となり、宝暦七年住職洞空の再建す」
と記されている。
ところが次第に廃頽し、無住のため明治六年、廃寺となった。
神仏分離の際、八幡宮(応神天 皇・髪長媛)を天神社境内に遷し末社となる。

尚、当社は明治五年、村社に列し、同四十一年三月二十五日、生野村大字林寺新家の村社、林神社(須佐之男命 ・奇稲田比売命・野見宿禰)を合祀し、同四十二年六月、神饌幣帛料供進社に指定される。
以上

奈加美神社 「譽田別命 (配祀)比賣命 息長帶比賣命 (合祀)豐受保神 水久萬利神 美刀志神 蛭子命 天兒屋根命 市杵嶋姫命 菅原道眞 素盞嗚命 八衢彦命 八衢姫命 久那斗神 篇吾大神 子守大神」大阪府泉佐野市中庄834番地  和泉国 日根郡

由緒書
当奈加美神社の旧社である、大宮神社の勧請については、その年代等は詳らかにされていませんが、平安朝の初 期、あるいは平城時代にかゝるものではなかろうかと、古文書等から、年代推測がなされているものの、それを 知るに確たる資料は残されていません。

しかしながら、その沿革は極めて古いとされており、普通には、大宮神社、また略して単に大宮と称され、本郷 中庄の惣鎮守として、本郷はもとより、近郷の住民からも、崇敬を一手に鐘めていたと徴されています。
本地の 平松家、佐野の藤田家所蔵の古文書等によると、其の后、近郷地氏子中から、自からの地の守護神として、大宮 神社の分霊を勧請する声が起り、人皇八十八代後深草天皇の宝治二年(一二四九)、佐野領域である近郷の大武 家村(現在の大引分町)の地に、大引分神社(市内大引九一一)が、大宮神社の分社として、造営建設されたと あります。
ここに今を去ること実に七二〇余年前に、すでに分社をなし、末社を持っていたことからしても、本 大宮神社の創建の年次が極めて古いものであったことを物語るものであり、平城時代ないし、平安朝の期に、そ の創建を求めても、あながち無理な推測でないと考えられます。

その后にあっても、大宮神社の御神霊の分祀は、次々と近郷地から求められ、北朝の貞治三年(一三四六)に、 近郷田出村(明治の初め佐野村から中庄村に編入)に中宮神社が、応安二年(一三六九)に市場村に、射手弦神 社が、同じく文正元年(一四六六)に、西村に西村神社(市内車町四九二一)が、いずれも大宮神社の直接の分 社として、各々の近郷地にその分霊が分祀されています。
、また、大宮神社の直接の分社ではないが、分社から の分社、すなわち孫分社として元亀三年(一五七二)に、大引分神社から新引分神社(市内東千振一一六四)が 、西村神社から今村神社が年を同じくして分祀鎮祭が行われたことが記されており、大宮神社は、その本郷地も 併せ七ケ村にわたる惣鎮守社であったことが窺知せられます。
尚、藤田家所蔵の古文書には大宮神社の直接の分 社(初末社)として若宮神社が室町期文明二年(一四七〇)に分祀創建されたことが触れられているが、本地の 平松家の古文書には、その記載がなく、当時の七座七社という表現は、大宮神社と、その分社の大引分神社、中 宮神社、射手弦神社、今村神社の四社と、それに孫分社の新引分神社、今村神社、二社を併せた七社を指してい ると思われます。
その后、明治四十一年一月九日に、これら六分社は、現在佐野春日神社に合社されてしまい、 大宮神社のみが現在の奈加美神社の前身として存続している訳であります。
これら一連の分社からも本大宮神社 が近郷地にも稀な宏壮な、文字どうりの大宮であったことを推知するに難くはないのです。
「今大宮様七膳づつ する也」と御神前へ七座の神饌を供へる神事が、明治四十一年の合祀まで厳かに執り行われていたことも、七座 七社の縁由によったものでしょう。

また古くは、当大宮神社は、大宮大明神とも称され崇められていましたが、神仏混淆に則って、真言宗の社僧が 神社の祭祀にあたり、その往時には神社を庵と呼称され、大宮神社のことを大宮庵と称されていた時期もあり古 記にも、佐野大引分寺、遊観寺、遍照寺等の僧職が、神社祭祀を預った由とあります。
もっとも神職による神明 奉仕についての証についても多く残されていますが、すべて江戸期以降のもので、それ以前のものについては何 ら資すものが残されておりません。
本地湊町の教蓮寺古文書の徴するところに依りますと、大宮大明神は、紀州 根来寺の触下で、社領三千石を有していましたが、天正四年(一五七六)四月から始まった織田信長の石山本願 寺の攻略策に対しこれに抗すべく、本願寺光佐(顕如)は全国の一向宗門徒に檄を発したのですが、これに応え ていち早く紀伊雑賀(和歌山市)の一向宗徒達が立ち上り、これに呼応して根来寺も信長の社寺焼討等の非道非 理な社寺に対する政策を忌み、本願寺側にくみすることとなった訳ですが、この戦いについては「後太平記」に も詳しく見られるように、織田勢の一方的勝利に終始して、翌天正五年(一五七七)三月、根来寺は破却される とともに、寺領八十万石が奪い取られましたが、その折り、信長は、京都にたち帰る途中、本大宮大明神を焼払 ったとのことであります。
この信長との戦いには、本願寺側にくみした雑賀一揆、根来寺衆のみでなく、多くの 地元の一揆も参加したとのことであり、このため多くの民家が焼討され、逃げ遅れたもの二〜三百人もが討取ら れたとあり、本地もこの石山合戦のあおりにより忌々しい災厄を蒙ったことは事実のようです。
そして大宮神社 の建造物が悉く鳥有に帰したことは誠に惜むに余るものがあります。
只、往時偲ぶ遺物としては、現在境内地に 保存されている高さ六尺五寸(約二米)永徳三年(一三八二)十二月十八日の日付銘記のある石燈蘢(春日式円 形柱六角火袋)一基があるのみです。
もっとも、その他の遺物として原形は止めてはいませんが、境内地より出 土の赤焼の屋根瓦片があります。
これら瓦片は、行基瓦とのことで、その当時としては、この行基瓦を使用した 建造物は極く限られた有力な神社、仏閣、豪族達らであり、府下に於いても稀にみられるものとのことであり、 これら瓦片からも本神社が有数の建造物であったと推察され、その規模に至っても宏壮なものと、戦禍前のすな わち、中世戦国時代前の俤がここにも偲ばれます。
天正年間の戦災后、慶長十五年(一六〇一)八月社殿造営の 議が氏子衆から出、時の中庄村長新川宮内大輔盛喜、沙門松室坊頼真法印等がこれに尽力し大工長滝住人藤原貴 兵衛にこれを請わせ社殿造営をみた訳ですが、戦火荒廃后のことであり、わずか二十五年して復興されたことは 当時の関係者の並々ならぬ苦労があったことと感銘深いものがあります。

その后、二十年毎をもって、大宮式年造営をなすことを神社の則と定め、第一回を中御門天皇の享保元年(一七 一六)に始めとし、桜町天皇の元文元年(一七三六)、桃園天皇の宝暦六年(一七五一)、後桃園天皇の安永七 年(一七七八)、光格天皇の寛政十年(一七九七)、仁孝天皇の文正元年(一八一八)、同皇の天保十一年(一 八四〇)、孝明天皇の万延元年(一八六〇)、明治天皇の明治十三年(一八八〇)、同皇の明治三十三年(一九 〇〇)、大正天皇の大正九年(一九二〇)とそれぞれ十一回にも及ぶ式年造営が行われています。
もっともその 間、時々多少の事由により多少の年次の早遅があると云われるものの、永々として式年造営が執り行われて参り ましたが、昭和の戦時体制がしかれるに及び、歴史と伝統をもつこの式年造営も中止の止むなきに至った訳であ ります。
そして戦后の造営としては昭和三十九年(一九六四)に社殿の修覆、彩色が実施されており、この時同 時に社務所改築が併せ行われていますが大正九年の式年造営から過ぐること実に四十四年の星霜歳月を経てのこ とであります。
又、これら一連の式年造営とは別に、社殿を始めとした建造物の築造、修覆、改善等も幾度かな されており、記録に残されているものとしては貞享五年(一六八八)、舞台、明和元年(一七六四)には神殿修 覆があり、その棟札が残されています。
更に明治、大正、今上天皇の即位等に際し大典にして厳粛な儀式とも併 せ神苑の整備がなされ、その石碑が境内のあちこちに建立されています、舞台については大正六年(一九一七) に破損甚じるしき事由で撤去が行われています。
一方こうした大宮神社動向とは別に、明治三十九年八月、当時 の大阪府からの神社併合整理の指令が出され、これにもとずき明治四十一年(一九〇八)四月十四日中庄在のも っとも湊町(明治の初め頃まで湊村として中庄村とは別れていた)も含めての中庄在の神社の合祀が行われる運 びとなり村社、若宮神社をはじめ、無格社戎神社、村社八坂神社(祇園社)、村社市杵島神社、村社菅原神社、 村社藤原神社の六社が大宮神社に合祀され、更に続いて、村社中庄牛神社、無格社篇吾神社、無格社子守神社の 三社の併合も認められるところとなり、同年十月十二日動座祭が行われ神社名称も大宮神社から「中庄神社」に 改められています。
これら神社社格は合祀時のもので大宮神社が明治五年に村社となった以外他の神社について は、その社格付与された年次は詳らかなものがありません。
また、これら被合社九社の中で、その創建が明らか とされているのは湊の戎神社一社のみで元和七年(一六二一)氏子、半太夫、小右衛門、重右衛門の三名が西宮 戎神社より勧請したとありますが他の八社については全くその創建は不明となっています。
他方、上瓦屋に於い ても、府の神社併合整理の指令にもとづき、村内神社間の合祀が進められており、上瓦屋全村の惣氏神である佐 野川稲荷神社(村社)本宮として、山出の村社稲荷神社、村社牛神社(二社)村社奥宮神社、村社塞(財)神社 の五社の合社が、中庄の六社合社と全く時を同じくする。
明治四十一年(一九〇八)四月二十日に動座祭を行っ ています。
社号は本宮の稲荷神社名をとり改めて、「稲荷神社」として発足しています。
本宮稲荷神社をも含め 、各神社の創建の年次は詳らかにされていないのは中庄神社同様残念です。
只、佐野川の稲荷神社を単に稲荷神 社と呼ぶのに対して、山出の稲荷神社を小稲荷神社と呼ぶことは、山出の稲荷神社が山出のみの、氏子数も少な い氏神であり、また同時に、山出稲荷神社の氏子が佐野川稲荷神社の氏子でもあったことから、恐らく山出の稲 荷神社は佐野川稲荷神社から勧請されたその末社であろうかと思われます。
このようにして中庄には「中庄神社 」、上瓦屋には「稲荷神社」と一村一社に神社の併合整理がなされたが、翌明治四十二年(一九〇九)二月二十 日再び「中庄神社」と「稲荷神社」が合社する声が両氏子中から起り、これを機に、中庄、上瓦屋、湊、の三地 区の氏子より新社号への改称の議が出されて、これによりは三町がともに和合協力の精神をもってこの合併神社 の護持発展を図ろうとする意味合から、各三町の字地名の頭仮名文字を一字づつ採り合せ「奈加美神社」と社号 を変更しました。
尚、緑の林の中に朱色もあでやかな大宮稲荷神社の新社殿造営は、一篤志の多大の浄財の寄付 を得、加えて多くの氏子崇敬者の積極的な寄進により、奥の森林の中の、とかくすれば見失なわれがちに石祠の まゝ祭祀されていた。
白玉稲荷大明神と奈加美神社の配神、豊受保神、水久萬利神、美刀志乃神(いずれも旧上 瓦屋稲荷神社の御祭神)を合せ四柱の神々を迎え、さらに神々の御神威を高きものとするため、境内余地を利用 し大宮の字名を冠しその名も大宮稲荷神社と称して昭和四十六年二月二日に遷座祭を執り行い奈加美神社境内神 社として現在地に奉鎮したものであります。
従いまして大宮稲荷神社の御祭神は豊受保神、水久萬利神、美刀志 乃神、及び白玉大明神の四柱を奉祀してあります。
以上

塩田八幡宮 「應神天皇 神功皇后 玉依姫命 御年神」兵庫県神戸市北区道場町塩田3238 摂津国 有馬郡

御由緒
当宮はこの地を塩田の庄と総称する以前の創建にして、創立年月は不祥ではあるが大同年間には既に御年神を奉 祀する大歳神社として存し、後、山城国石清水八幡宮より応神天皇、神功皇后、玉依姫命の御霊を勧請合祀する に至り、石清水八幡宮の別宮として(塩田)八幡宮との名称を号す。

社歴を顧みれば、平安の仁和、寛平年間には、度々在原行平卿の参拝を見、又、七十四代鳥羽天皇の御代美濃局 の庄園から土室園、磐若田、澄油田、御供田、西山等を寄進され、保元三年石清水八幡宮宿院極楽寺領の庄園と なり、その管理下に置かれるに至り、ここに神宮寺としての体裁を成す。

戦乱の中延元元年摂津守護職、赤松範資より社領若干寄進される。
その後約百三十年後の応仁の乱により、社殿 その他を焼失するが、明応八年別当寺の社僧谷の坊玉蔵院宝詮大深大夫と協力して社殿再建を計り、享禄元年別 当職玉蔵院は男山石清水八幡宮に登り、霊代を拝戴して再び奉斎する。

戦国の世永禄元年には赤松氏一族の畑山利忠この地を攻略の折当社を祈願所となし、梵鐘寺領を寄進す。

徳川幕政下、明歴三年三田藩主九鬼隆昌は社殿を再建するが当八幡宮坊寺院が御室御所仁和寺の直末寺となるに 至り、その支配を受け、これより別当恵日山蓮台寺宝蔵院と改称し、当社を鎮守とした。
以後歴代三田領主九鬼 氏よりの寄進奉納は絶えず、藩主自身の作品も挙げれば枚挙にいとまなく、崇敬を受け続けた。

明治維新の神仏分離により、神宮寺が廃されたが、石清水八幡宮の別宮として、北摂地域の守護神として、厄除 開運、交通安全等の御神徳高く御神威も益々昂揚して今日に至る。
以上

豊歳神社 「豐受大神 御年大神」兵庫県神戸市北区大沢町市原字月方631 摂津国 有馬郡

駒林神社 「譽田別命 (配祀)猿田彦大神 歳徳神」兵庫県神戸市長田区駒ケ林町3-7-3 摂津国 八部郡

御由緒
当神社は、創建上古に属し、加へて当地は源平兵乱の巷となりました爲、旧記の存するもの甚だ稀でありますが 、当地は昔の務古(武庫)の水門輪田の泊で浪華に設けられた鴻臚館(外人宿泊所)の玄蕃寮の役員が来駐して 我が国に来る高麗唐土人はすべて此地で先ず検問し、陸上を帝都に行かせるものと水路浪華に行かせるもの、或 は入国を禁止し本国へ帰還又は退去せしめるか等を取調べる玄蕃の役所に祭祀せられた神社であります。
(唐人 畿内に入るべからずという厳制が室町時代に厳存した事が古記録にあり。
)延元元年足利利尊氏が京師に破れ西 国に下る時、当社に参詣して、「今むかふ方は明石の浦ながらまだ晴れやらぬ我が思ひかな」と詠んで社前の浜 より乗船した事実が伝はって居ります。
文政十三年高井山城守石原清左衛門が規模狭小の一祠宇を改築寄進し、 明治二十六年一月、氏子で拝殿新築、是亦荒頽しましたのを、大正十三年九月、現在見る社殿並びに附属舎、境 内末社完成、昭和三年十月村社に昇格、幸ひ戦災にも御無事を仰ぎましたが、昭和二十七年都市計画に依る道路 拡張に已むなく一切の建造物を引移し、昭和三十九年五月、御社殿内外汚破損甚しき爲、氏子及び崇敬者によっ て御社殿及び調度品、附属舎の奉修を了し昭和四十三年五月明治維新百年を記念に御社殿御屋根悉銅板葺。
昭和 五十九年秋、御社殿改築六十周年記念に境内排水整備並びに向拝石畳舗設参道石畳改修しました。
以上

大歳神社 「大年神 御年神」兵庫県神戸市西区神出町宝勢7 播磨国 明石郡

大年神社 「歳徳神」 兵庫県神戸市西区玉津町居住字前田155 播磨国 明石郡

大歳神社 「大歳大神 御年大神 若年大神」兵庫県三田市東本庄317 摂津国 有馬郡

御由緒
この村は田中村と称え土地平坦なれども何故か五穀が稔らない。
その頃村民は二十四戸あったが村人皆樵夫薪炭 を業としていた。
然るに極めて敬神に篤い村主吉右衛門、年寄治五右衛門、又左衛門が大歳神は五穀に幸する神 であると聞いてから年々山城国乙訓郡

大歳御祖神社へ参詣して、村内の五穀豊穣を祈願すると、不思議にも 大歳神の霊夢を得た。
その霊夢によって田畔の境に溝を掘り悪水泥を除くと漸く五穀豊かに稔るようになった。

それで村民大いに感激して山城国乙訓郡

大歳御祖神社の分霊を勧請して神殿を造り、祭祀し二十四戸で御堂 講を設け、右三人を大頭として篤く崇敬したので、特に霊験著しく数年ならずして五穀豊穣の土地となった。

寛永年間に不幸火災に罹って神殿及び宝物、旧記等悉く焼失したが、直に再建し、嘉永三年三月に至って神殿及 び末社長床に至るまで皆改築した。


大歳神社 「稻田比当ス 若年命 御年命」兵庫県多紀郡篠山町矢代字宮ノ下ノ坪534 丹波国 多紀郡

二村神社 「伊弉諾尊 伊弉冉尊 (合祀)大年命 御年命 若年命 表筒男命 中筒男命 底筒男命 神功皇后 五男三女 波多野秀治 磐長比当ス 稻倉魂命 大己貴命 大田命 大宮比当ス 保食命 神武天皇 瓊瓊杵尊」兵庫県多紀郡丹南 町味間奥字松本280 丹波国 多紀郡

大年神社 「大年神 御年神 若年神」兵庫県多紀郡今田町下立杭字森ノ坪189-3 丹波国 多紀郡

大歳神社 「大年神 (配祀)御年神 若年神」兵庫県多紀郡丹南町不来坂1 丹波国 多紀郡

大歳神社 「大年神 (配祀)御年神 若年神」兵庫県多紀郡丹南町犬飼284-1 丹波国 多紀郡

大歳神社 「大歳命 (配祀)御年命 若年命 (合祀)八幡大神」兵庫県多紀郡丹南町栗栖野108 丹波国 多紀郡

奴々伎神社 「高皇産靈神 (配祀)譽田別命 御年神」兵庫県氷上郡氷上町稲畑字泉山210 丹波国 氷上郡

御由緒
創立年月不詳初め高見山に鎮座せしも其山麓に大沼ありしかば沼池大神と尊稱す仁和三年の地震に社頭破損し同 年七月十四日大雨にて社殿倒壊す故に假殿を建て寛平五年社殿を再建す延長四年神社古跡調査の際由縁を上申し 嘉暦二年當社境界に仁木越後守城郭を築き高宮城と云ひ當社を守護神とす其後建武二年仁木伊賀守久下時重と計 り足利高氏に應ず江田義行之を攻めて同四年落城せしむ時に社頭悉く焼失せしも幣及び鏡矢等は稲畑村東方へ降 るにより其所を矢降塚と云ひ泉山西の麓に幣矢を勧請して矢降塚と名付け社殿を造り矢降大明神と號す天和二年 再建の時大年神を祭る明治六年十月村社に列し同四十一年十一月二十五日本殿の位置を境内の山腹に變更し拝殿 を新設す合祀神社には同三十五年五月二十七日佐田神社同四十一年十月一日大年神社同四十二年五月二十六日無 格社八幡神社なり
以上

矢降神社 「高皇産靈神 (合祀)御年神 稻倉御魂神」兵庫県氷上郡氷上町佐野字前山15-1 丹波国 氷上郡

御由緒
創建は不明ですが、今から約三百年前の貞享三年に改修された事が記録にあり、境内八百二十三坪、氏子五十七 戸と記されている。
昔、佐野、稲畑、新井の人々が高見山に小さな社を建てて産土神として崇敬、弓の神事を行 っていたといいます。
応保元年(一一六一年)には、平清盛の祈願所になったという伝承が残っている。
しかし 、今から六百五十年前、高見山の山頂にあった佐野城が落城し、その時、社も炎上してしまったので現在地に社 殿を造営したと伝えられている。
矢降神社という名も、昔、弓の神事をしていたことから起こったといわれ、ま た、佐野城落城の際、山頂から矢が降って来たからだとも伝えられている。
昭和八年には境内を拡張し、本殿も 改築、参道に石橋をかけるなど総工費七千二百円、氏子三十八戸、人夫のべ千二百人を要して改修された。
以上

大年神社 「御年神」 兵庫県氷上郡氷上町朝阪字諸目1-1 丹波国 氷上郡

大年神社 「御年神」 兵庫県氷上郡氷上町朝阪字宮ノ谷4-1 丹波国 氷上郡

御由緒
創立年月不詳にして江戸時代大歳大明神と称し地方民の崇敬厚く米麦作の守護神と仰がれたり明治以後大年神社 と改め昭和十一年四月村社に列せらる。
以上

御年神社 「大山祇神 (合祀)御年神 譽田別命 事代主神 火産靈命 大國主神 武内宿禰 市杵嶋姫神」兵庫県氷上 郡春日町稲塚字西山850 丹波国 氷上郡

大歳神社 「大年神 御年神」兵庫県三木市口吉川町馬場11 播磨国 美嚢郡

大年神社 「大年神 御年神」兵庫県美嚢郡吉川町湯谷496 播磨国 美嚢郡

大歳神社 「御年神 天照皇大神 大物主尊」兵庫県小野市天神町1131 播磨国 加東郡

鍬渓神社境内社大歳神社
 「彌都波能賣神 伊豆能賣神 御年神 大歳神 若年神 田心姫命 湍津姫命 奏勝川靈神」  主神 御年神 兵庫県小野市下来住町字宮ノ口661 播磨国 加東郡

大歳神社 「御歳神 (配祀)素盞男神」兵庫県小野市黍田字西ノ山996 播磨国 加東郡

大歳神社 「御年神」兵庫県小野市大島町818 播磨国 加東郡

大歳神社 「歳徳神」 兵庫県西脇市上比延町前田西127 播磨国 多可郡

大歳神社 「御年神」 兵庫県加古川市上荘町見土呂487 播磨国 印南郡

廣峯神社 「素盞嗚尊 五十猛尊 (配祀)奇稻田媛命 足摩乳命 手摩乳命 田心媛命 湍津媛命 市杵嶋媛命 正哉吾 勝勝速日天忍穗耳命 天穗日命 天津彦根命 活津彦根命 熊野杼樟日命 (合祀)大年神 御年神 若年神 久久年神 八 衢彦神 八衢媛神 久那斗神 稚産靈神 級長津彦神 級長津媛神」兵庫県姫路市広嶺山52 播磨国 飾東郡

御由緒
平野庸修の撰にかかる「播磨鏡」に「崇神天皇の御代に廣峯山に神籬を建て、素盞嗚尊、五十猛命を報齋し」と あるが如く、西歴元年前後と説いている。
其後、聖武天皇の御代天平五年(七三三年)吉備真備公に勅して、廣 峯山に大社殿を造営、新羅国明神と稱し、牛頭天王と名付けられたと述べている。
「峯相ノ記」に「播州峯相山 鶏足寺(姫路市石倉西脇廃寺)参詣ス」と書き初めて「広峯山ノ事、利生揚焉ニ賞罰厳重ナル間、自国他国歩ヲ 運テ崇敬スル事、熊野御嶽ニモヲトラズ万人道ヲアラソイテ参詣ス、結縁の為ニ是モ一度詣テ候之」と広く崇敬 されている事を記し、次に吉備公が広峯の神を崇め奉り、牛頭天王稱した経緯を次の様に記している。
元正天皇 御宇霊亀二年、吉備大臣入唐ス。
在唐十八年・所学十三道・殊に陰陽を極芸セリ・聖武天皇御宇天平五年帰朝云 々・吉備公於当山奉崇牛頭天王也。
年数ヲ歴テ平安城東方守護ノ為ス祇園荒町ニ勧請シ奉ル当社ヲ以テ本社ト為 ス也」とあり。

吉備真備公は永い外国留学の末帰朝したのであるが、その修学の内、陰陽暦学を世に広めたいと考え、唐ノ国の 暦書にはその国の歴神天道天徳歳徳八将神等、歴法家の造成した神であるので、彼の国の故事を取り入れ素盞嗚 尊を牛頭天王・天道神とし奇稲田媛命を頗梨・采女・歳徳神とし八王子の神を八将神などと配して日本暦の歴神 とし、薬師如来さえ立て五節或は年中の神事。
佛事も法例としたもので、「こよみ」は現代の慶弔建築等に重要 されるもので当時中国文化を初めて取り入れた公が、広峯社の祭神を歴神とした事で今迄も農耕を中心とする国 民の生産として崇める上に生活指針とする歴学の根源の社とされたので、生産の神の上に建築方位方崇除の神と して、又、牛頭天王としての故事による病気、海陸交通厄難除の神として尚一層の広範囲の庶民の信仰を亨けた ものと考えられる。
又、神威として後白河法皇の御撰による「梁塵秘抄」に、関より西なる軍神として美作の中 山、安芸の厳島、備中の吉備津、播磨の廣峯が挙げられ、矢野信景の「牛頭天王辨」に廣峯(播州)祇園(京師 )津島(尾張)大宝牛頭(近江)と延喜以前にあるも式撰之日之を神名帳に載せずとあり近世では、広峯・祇園 ・津島を日本三大天王と稱されている。

斯くの如く歴史と伝統とを保持し国の重文社殿を持つ広峯社は当地方一円の誇りであり、牛頭天王総本社として 自他共に認められ、皇室国家の疵護もなく唯、大衆の崇敬を得て維持されて来た神社は全国でも少ないと思われ る。

当社は、京都元官幣大社八坂神社(祇園観慶寺感神院)と本社・末社の争いを永い間続けた歴史を持ち、現今で は、天下の祇園社と本・末の争いをした事実は、当社の昔日の人民に支えられた繁栄を伺えるものであるが、永 仁元年(一二九三年)に大火に罹り社殿をはじめ総てを鳥有に帰したのでわずかに残る古文書の一書、鎌倉将軍 (源實朝)御教書に「播磨国広峯社者 祇園本社也云々、自今後可停止守護使乱入之状、依鎌倉殿執達如件」建 保四年八月二十九日(一二一六年)信濃守(行光)この文章に続き貞応二年(一二二三年)北条義時下知状にも 祇園本社とある。
官社に列せられた祇園社に対し、当広峯社を祇園本社と認めた事は重大である。
室町時代、浪々に身で広峯社を信仰する黒田重隆夫妻と子息兵庫助夫妻(その若い妻には黒田官兵衛孝高がみご もっていたのである)が、或る日参詣し、当社神主の種々の指導支援により財を得て御着城主、姫路城主となり 黒田官兵衛は豊臣秀吉の軍師として活躍した事は有名である。
以上

若宮神社 「御年神」兵庫県姫路市花田町上原田字星谷608 播磨国 飾西郡

大年神社 「大年神 御年神 天照皇大神」兵庫県姫路市飾東町佐良和字北垣内963 播磨国 飾東郡

大歳神社 「大歳神 若歳神 御歳神」兵庫県神崎郡大河内町鍛冶395 播磨国 神西郡

大歳神社 「大歳神 御歳神 若歳神」兵庫県揖保郡新宮町香山字宮の下840 播磨国 揖東郡

矢原神社 「建速須佐男命 天照皇大神 (配祀)御年神 大年神 若年神 奇稻田毘賣命 御食都神 」兵庫県宍粟郡山 崎町矢原60 播磨国 完粟郡

大歳神社 「大歳神 御歳神 若歳神」兵庫県宍粟郡一宮町生栖797 播磨国 完粟郡

御由緒
当大歳神社は文献によるに今より四百三十五年前、即ち永正元年九月三日当時農作は非常なる凶作続出せしによ り村民等憂慮し五穀豊穣の農神として大和國より勧請し奉り当境内に鎮祭せしものにして爾来氏子は申すも更な り一般近郷の信仰厚し、然るに時世の進展に伴い諸建築物並びに境内地狭少となりしかば、吾等氏子相謀り応分 の浄財を寄進し社殿地上げ拝殿新築、境内地の拡張等ノ模様替をなせり。
時恰も昭和十五年は皇紀二千六百年に 当り、日支事変は戦乱の渦中にあり依って皇国の隆昌と国家の安泰とを祈念し茲に皇紀三千年迄据置二千六百年 記念郵便貯金を敢行し以て後世子孫に是れを伝えんとす。
以上

越年神社 「御年命」兵庫県朝来郡生野町真弓253 播磨国 神西郡

御由緒
創立年月不詳にして初め末戸の地に鎮座せられしも正保年間今の地に遷座せらる元禄年間地頭三島道宴崇敬の誠 を捧げ明治六年十月村社に列し同三十一年社殿に大修覆を加へ同三十八年本殿を建築し大正十一年拝殿を建立せ り。
以上

平野神社
 「御年神」 兵庫県朝来郡朝来町佐嚢字平野北山138-2 但馬国 朝来郡

三柱神社 「大年神 (配祀)若年神 御年神」兵庫県朝来郡朝来町岩津字小谷37 但馬国 朝来郡

大歳神社 「大年神 御年神 若年神」兵庫県津名郡五色町鳥飼浦字倉掛2208-1 淡路国 津名郡

夜支布山口神社境内社御年神社 「御年神」 奈良県奈良市大柳生町3089 大和国 添上郡

大柳生の氏神で、平安時代の延喜にあらわれている古い社です。
境内にある摂社立盤神社の本殿は、春日大社の 第四殿を、延享四年(1747年)に、ここに移したものです。
この神社には、一年交代で集落の長老の家に神 様の分霊をむかえる「回り神明」と言う、珍しい行事が伝えられており、700年の伝統をもつ大柳生の太鼓踊 りが奉納されます。
以上

大和神社 「日本大國魂大神 八千戈大神 御年大神」奈良県天理市新泉町星山306 大和国 山辺郡

大和神社御由緒略誌
当神社の主神は、日本の全国土の地主神に坐します。

上古伊勢神宮に坐す天照大神と共に宮中にて親祭され給ひしが、第十代崇神天皇は御神威を畏み給ひ同6年(二 千数十年前)当神社の主神を市磯邑に遷御遊ばされ、皇女渟名城入姫を斎主として祀らしめ給う。
延喜式に大社大和坐大国魂神社3座とある。

斯様に尊い御由緒は類まれなところで御神威は伊勢神宮に次ぎ、御神封も亦大和を始め尾張、武蔵、常陸、安芸 の6カ国に於いて327戸に及び境内も64ヘクタールの広大なりし由にて久しい間御社頭も隆盛を極めたと、 古記録に見ゆる。
以上

大和神社境内社御旅所坐神社 「日本大國魂大神 八千戈神 御年神」奈良県天理市新泉町星山306 大和国 山辺 郡

三十八神社 「御年神」奈良県天理市南六条町223 大和国 山辺郡

國津神社境内社歳徳神社 「歳徳神」 奈良県山辺郡都祁村南之庄485 大和国 山辺郡

国津神社社記
円融天皇の天録3年(972年)2月初午の日、伊賀国二位峯国津大明神神主・則清庄司と則元大夫の両人、年 来争論のところ、則清庄司相負け兄弟3人は、国津大明神の御神体を奉じて、家郷をいで立ち則清の親族の多い 河内の国高安に赴かんとして、南殿庄字上田の柏木の下に一夜を明かした。

翌朝出立せんとしたところ、御神体の白石は樹下に沈んで上らない。
兄弟困りはてているとき神のお告げがあっ て、此の地に社殿を作り崇め奉った。
この年4月8日のことである。
其の後160年を経て、則清庄司の子孫も たえ、国津大明神の社殿も崩壊した。

南之庄の下司百姓は興福寺二階堂院主に陳情し、南殿庄の反米で造営することを許され、長承3年(1134年 )9月8日、手斧はじめ21日上棟、25日造立したとある。
これが今の国津神社である。

国津大明神は都祁の国の神として古代より祀られ、祭神大国主ノ神は万物育成、五穀豊饒、病癒法を司る神とさ れ、中世、山内7庄と称された村々に祀られた国津神の根元の神社である。
以上

戸隠神社 「建御名方神 (合祀)御年神 天手力雄神」奈良県桜井市横柿419 大和国 高市郡

三神社 「大年神 豐受姫大神 御歳神」奈良県北葛城郡新庄町山田305 大和国 忍海郡

葛木御歳神社 「御歳神 (配祀)大年神 高照姫命」奈良県御所市東持田269 大和国 葛上郡

由緒
御本社の背後に御年(みとし)山という美しい神体山があり、古く御祭神は御年山にお鎮まりになって、金剛山 の扇状地にひらけた稲田を御守護された神であります。

御神名のトシは穀物、ことに稲をさす古語で、稲の神として古くから知られ、朝廷で豊作祈願のために行われた 年頭の祈年祭(としごひのまつり)には、まず本社の御歳神の名が読みあげられました。
その由緒について、『 古語拾遺』には下のように記されています。
むかし、神代に大地主(おおとこぬし)神、田つくりましし日に、 牛のシシをもて田人に食わしめたまいき。
時に御歳神の子、その田に至(き)まして、饗(みあえ)に唾(つば )きて還りまして、ありさまを父に告げましき。
御歳神、いかりまして、イナゴをその田に放ちたまいしかば、 苗の葉たちまちに枯れ損なわれて、篠竹のごとなりき。
ここに大地主神、片巫(かたかんなぎ)・肱巫(ひじか んなぎ)をして、その由を占求(うらな)わしめたまいしに、御歳神たたりをします。
宜しく白猪・白馬・白鶏 (しろかけ)を献りて、その怒りをなごめまつるべしともうすに、教えのまにまに謝(の)り奉(まつ)ります ときに、御歳神答えたまわく、実(まこと)に吾が意(こころ)ぞ。
宜しく麻柄(あさがら)をもてカセをつく りてカセぎ、すなわちその葉をもて掃い、天押草(あめのおしぐさ)もて押し、烏扇(からすおおぎ)もて扇ぐ べし。
もししかして出で去らずば、宜しく牛の宍をもて溝口におき、男茎(おはせ)の形を作りて加え、(ここ でいう「牛の宍」「男茎」とは、男・女の性の印を意味する古語であって、これは、その神の怒りを鎮め、陰陽 の和合を、称えたものである。
)ツスダマ・ナルハジカミ・クルミ、また塩をもてその畔(あ)にまきおくべし とのたまいき。
すなわち、その教えのまにまにせしかば、苗の葉また茂りて、年穀豊稔(たなつものゆたか)な りき。
これ今、神祇官に白猪・白馬・白鶏もて御歳神を祭ることの縁(もと)なり。

以上のことの意味は、人々が、「土」とのかかわりあいにおいて、稲作する時、その耕作に役立つ午(うま)等 (農耕器具等の生産手段)を大切にし、心を清くして、農耕等(如何なる仕事においても)をすべきことを、教 えたものであります。
このことを、別に解釈すれば人と「土」(自然)とのかかわり方の方法等を、教えたもの であり、自然との結合、人と人との結合(陰陽和合)をたたえたものであります。

古代における朝廷でも、祈年祭には、この御歳神社にだけ、白猪・白馬・白鶏を、献じられたのも、上のような 意味あいにおいてであります。

この御歳神社では、昔は、祈年祭の前日の二月二日、今では、五月三日に、御田祭りが執り行われ、諸々の神事 と共に参詣者には、杉葉を守札に包んだ蝗除け等の護符を配布しています。

なお、古書の記録では、仁寿二年(八五二年)には、大和国では、最高の神とされ、正二位の神位を授かり、延 喜の制では、名神大社に列した神社として尊ばれた古社であります。
以上


須賀神社 「素戔嗚尊 櫛稻田姫命 五男三女八柱神 蛭兒神 大國主神 事代主神 櫛八玉神 大歳神 御年神 若年神 」和歌山県日高郡南部川村西本庄242 紀伊国 日高郡

大歳神社 主神 御年神 和歌山県日高郡印南町印南原3551 紀伊国 日高郡

御由緒
当社は印南町印南原3551に鎮座しており、大歳神を主祭神とし、昔、中若大夫というもの信濃なつみが原よ り勧請し、累代奉仕というが、くわしくはわからない。

「名所図絵」に祀神三座として、大歳明神、御年神、大市姫命を挙げているが現祭神はこれに伊邪那岐命、伊邪 那冉命、素盞嗚命、の6座を祀っている。

永禄6年、本殿を造営したが天正12年、社地の背後の猪内川山林の火災に類焼し、同14年仮殿を営む。

爾後、寛永14年天保2年、嘉永4年慶應3年等の屋根替えを経て明治19年、本殿を再建す。

昭和35年屋根替え、昭和40年長床改築、同年大鳥居を造営、昭和58年祝詞殿、拝殿改築、社務所屋根替え 、明治41年区域内小社を境内神社として6社を合祀する。
以上

稲荷神社 「御年神 建甕都智命 天兒屋根命」和歌山県西牟婁郡白浜町椿977 紀伊国 牟婁郡

稲荷神社由緒書
創祀 椿稲荷神社は鎌倉中期嘉禄元年九月藤原朝臣吉田少将範盛勧請と伝えられ七百六十年の歴史となり、徳川 期に幾度の神社の修理がされていることが、棟礼に記録しています。
稲荷山から黒潮流れる、紀伊水道を眼下に 、椿の里の氏神として、万民求済、五穀豊穣、漁運隆昌、商売繁昌の守護神として、熊野灘補陀落信仰の一端と して崇拝され、境内の犬槙、樟、椎、椰の常緑樹に囲まれて、御神徳は高く子孫繁栄の理想郷農漁民の生活安定 、世界人類の平和を根底に日々ご祭祀しています。

御神木椰(竹柏)正面左側に大空高くそびえる、椰の木は榊、椿等の光沢のある常緑樹で熊野の各神社では、御 神木としてその葉や実種は凪なる平和守護として、家内安全、交通安全、縁結びの信仰から神霊神符用に、授与 している。
藤原定家は、千はやぶる熊野の神のなぎの葉を、からぬ千世のためしにぞ引く、と詠まれ、又和訓栞 に熊野椰の葉や種を尊ぶのは、伊弉那伎命よりの出典なると記す。
以上

堅田八幡神社 「應神天皇 神功皇后 大年神 天忍穗耳命 御年神 市杵嶋姫命 武内宿禰 事代主命 奧津姫命 奧津 彦命 火産靈命 素盞嗚尊 天佐加留向津姫命 弁財天」和歌山県西牟婁郡白浜町堅田2731 紀伊国 牟婁郡

隼神社 「下照媛神 都味齒事代主神 高照光媛大神 建御名方神 木花開耶媛神 大屋都媛神 葛木一言主神 倉稻魂 神 大物主神 大年神 御年神 猿田彦大神 須佐之雄神 奇稻田媛神 羽明玉神 伊弉諾神 伊弉册神 天照大御神 月讀 神 大己貴神 天穗日神 三穗津媛神 市杵嶋媛神 味耜高彦根神 瀬織津媛神 速秋津媛神 氣吹戸主神 岐之神」鳥取 県八頭郡船岡町大字見槻中132 因幡国 八東郡

松尾神社 「大山咋命 御年神 (合祀)天照荒魂神 天穗日大神」鳥取県西伯郡会見町田住225 伯耆国 会見郡

賣豆紀神社境内社歳徳神社 「歳徳神」島根県松江市雑賀町1663 出雲国 意宇郡

六所神社境内社歳徳神 「歳徳神」 島根県松江市大草町496 出雲国 意宇郡

六所神社案内
御当社はもと佐久佐の社といい「延喜式」(延長2年927)の神名帳にも「出雲風土記」(天平5年733) にも記載されている由緒の古い神社である。
出雲風土記の載っている意宇郡大草郷(今の松江市大庭町、佐草町 、大草町、八束郡八雲村)内の神社は八社で、当社の外の七社は熊野大社を始め皆八雲村内の神社である。
これ らの神社は、千二百数十年前から御鎮座になっていたことは、風土記に載っていることでも明らかだが、御創建 の年代は、それよりはるかに古くて知るべくもない。
大化改新(大化2年646)によって氏族政治が廃止され 、諸国には国庁(今の県庁にあたる役所)が置かれ、中央政府から派遣された国司によって、戸籍、班田、徴税 、国防その他一般の政治が行われるようになったが、その頃から当社は出雲の総社となり、一層重きをなす様に なった。
総社とは、国内の総べての神社を代表する神社の意である。
延喜10年、国庁の官人への宣(命令)に 「国中の政は神事を先となす、専ら如在の厳典をいたし、すべからく部内の豊穰を期すべし」と見える様に、一 国の政治は神事を第一にすべき旨示されている。
したがって国司が任国の命をうけてその国へ行けば、神社に参 拝し政道の基をたてるのが例となっていた。
又、国内の神社に国から奉る幣帛を班つ班幣式も、出雲国内の神主 を当社に集め、国司が属僚を率い、神祇官に準じて行い、その他祈願等も当社で行われていた。
後代、佐久佐社 は、総社佐久佐社、総社六所社と併称される様になった。
総社で六所社と称される様になった神社は、武蔵国総 社六所社(今は大国魂神社と改称)を始め全国27社に及んでいる(梅田義彦博士の調査による)「六社縁起」 に「大草郷六所大名神は出雲の総社にして、雲陽第二の名社なり」とあり、朝廷を始め国守、領主、守護等の崇 敬も厚く、旧暦3月5日(現4月15日)の御田饌祭には勅使の御参向があったが、観応元年(1350)2月 、熊野大納言に勅代の宣旨があってからは、熊野大納言が代参して祭事を行ったことが古文書に見え、その行列 図、儀式等を書いた壁画(県文化財指定)を蔵している。
又、庁宣をもって数多の田地を寄せられたので、鎌倉 期にあっては、灯油田、八朔幣料田、御神楽田等四町一反余りの神領が将軍や守護等の保護をうけていた。
大草 地頭の代官が、一時当社の社領を横領したことがあり、源為朝将軍が厳重な下知を下して地頭代官の横暴を禁じ たことが北島国造家の文書にみえている。
戦国時代となっては戦乱の影響をうけ、多少の変動は免れなかったが 、毛利元就が出雲を領するに及び、富田城督毛利元棟は、当社の祭事を復興し、かつ社領を旧に復して国家平安 の誠を捧げ、吉川元春は鳥居、神馬を寄進して報賽の誠を捧げている。
松平家になってからも、当社に対する崇 敬と保護には変わるところがなかった。
当社の造営、修復等は、王朝時代にあっては国費をもってせられたこと は申すまでもなく、鎌倉期になってからも幕府は造営料として出雲三刀屋郷、乃白郷等の年貢を寄進して工を竣 えている。
天文11年(1542)大内義隆当地へ侵入の時兵災にかかり、社殿等を失ったが、尼子家が造立し た。
松平家となってからも、造営等すべて藩の御作事方が直接工事にあたっており、遷宮祭等重要な祭儀には国 守の代参があり、又出雲国造が参向する例になっている。
大正14年県社に御昇格せられた時は、島根県知事を 始め松平家、千家、北島両国造等御参向のもとに盛大な報告祭に併せ例祭が斎行された。
出雲の豪族である国造 が此の地に住み、熊野大神(今の熊野大社)に奉仕し、出雲国内の祭政一切の権を握っていたことを見ても、出 雲風土記にゆう、この大草郷は、文化、経済、交通等の中心地として栄えていたことであろうし、そうした環境 の地であったが故に、出雲の政治の中心となる国庁や郡家(郡役所)もここに置かれたのであろう。
熊野大神に 奉仕していた国造(千家、北島の祖)が、いつごろ、この地から杵築へ移住したかは明らかでないが、千家尊統 前出雲大社宮司は、その著「出雲大社」で「いつ杵築へ移住したかについては国造家にもしかとした伝承はない が、解明の手がかりとなるものは「類聚三代格」巻7、郡司の条の太政官符で、慶雲3年(706)出雲国造は 意宇郡大領を携帯して延暦17年(798)に及ぶとある。
とするならば大領兼帯という政治的権威を失った平 安初期に、意宇郡には、熊野大神を遥拝する神詞(神魂神社の前身)ならびに国造館を残して、大国主神御鎮座 の杵築へ移住したものであろう」と述べている。
当社は、意宇六社(熊野大社、真名井社、揖夜社、六所社、八 重垣社、神魂社)の一の宮であり、古くから六所さんとも称され崇敬されている。
この意宇六社を巡拝する六社 まいりと称する行事は古く明治以前から続いている。
陰暦十月出雲へお集りになる全国の神々は、先ず当社へお 集まりになってから佐太神社へおいでになる旨佐太社の記録にもあり、当社では18日に神在祭が行われていた が明治初期から絶えている。
当社の神紋「有」もそうした意味をあらわしている。
陰暦10月は神無月とゆうが 、出雲では神有月といっている。
これは十月は全国の神々が出雲にお集まりになるので、出雲以外の国には神様 がいられないとの信仰にもとずくものであり、この神々のお集まりになる十月の二字を組みあわせると有の字に なるので当社の神紋にしたものであろう。
当社に参拝された清水真三郎出雲大社権宮司は「国司袖うちはへてま つりけむかみの斎庭のおもほゆるかな」と詠じられた。
今、社頭に立って、色とりどりの衣冠束帯に身をととの えた国司等が、長い装束の袖をうちはえつつ、心をこめてお祭りしたであろう天平の昔におもひをいたすとき、 うたた感無量である。
以上

山狹神社境内社森口年神社 「大年神 御年神 若年神」島根県能義郡広瀬町上山佐598 出雲国 能義郡

山狹神社境内社中口年神社 「大年神 御年神 若年神」島根県能義郡広瀬町上山佐598 出雲国 能義郡

湯野神社 「大己貴命 少彦名命 迩迩藝命 事代主命 (合祀)三保津比賣命 大年神 御年神 若年神 香香背男命 素 盞嗚命 國常立命 國狹槌命 豐斟渟命 武甕槌命」島根県仁多郡仁多町大字亀嵩1284 出雲国 仁多郡

由緒・沿革
創立年代は詳らかでないが、六国史及び出雲風土記所載の神社にして、亀嵩温泉の医薬の主護神として創建され た神社である。

社名は「中湯野、西湯野、湯野の小川」など出雲風土記関係や雲陽誌・出雲神社巡拝記・出雲国神社考にあるがご とく、亀嵩温泉に関する地名から「湯野神社」となったものである。
古文書、古記録、棟札によれば、温沼神・湯 野社・大森大明神・湯野社大森大明神・大森社・大森神社・亀嵩大社・中湯野村社・亀嵩神社とあり、又亀嵩の各集落に あった神社(村社)の総氏神であったことは、棟札に総本願のほかに各部落の神社の氏子中より村本願がで、遷宮 費もその全集落が負担していることが明記されており、又天保十三年の祭礼神事当人組帳や第二の鳥居の柱と額 に「亀嵩大社」と記されていることからも、総氏神であったことを知ることができる。

宸旨をいただく祈願社であったことは、三代実録に清和天皇の貞観十年秋九月二十一日に従五位下、同十三年冬 十一月十日に従五位上を授けられていることで知ることができる。

社地は往古字「宮地」と称するところに出湯があって、その地に四間四方の壮大な宮殿があったのを、北条時頼 の特命を以てより以上の社殿を改建しようとして、約百米西の現社地に奉遷したのであるが、建立を果たさずし てついに仮宮が本社となって現在にいたっている。

当社には正神主・御權神主・下職・巫職が奉務し、又社の南西に接して常連寺があってその僧とともに祭祀をつかさ どり、二十四石四斗ニ升の社領があった。

百六代正親町天皇の頃と思われるが、正神主の千原某が神社領地を専らにしようとして権神主と常連寺を焚殺す 。

そのため天正の頃に現社家の祖先恩田大和(職名祝宇江衛門)が神主となって、新らしく神社の寺となった青龍寺 の僧とともに祭祀にあたった。

巫職は世襲にして八乙女舞を奉納していたことは雲陽誌に記載されているが、その家系は中絶した。

文久辛酉の年になって、正神主恩田生男と青龍寺の僧寛開とが祭祀を争ってついに青龍寺の僧は祭祀にあずから ないこととなる。
その後、正神主は家系が「新宮」と改姓して祭祀にあたっている。

下職は明治四年郷社に列せられるまで勤務し、仁多町下阿井の加納六大夫がその家系である。

天正八年己卯三沢の城主三沢少輔八郎為虎にいたるまで、三沢氏が大檀那となって修めて、当時の棟札には氏子 や職人の氏名が全くない。
神主も三沢に仕えていたことは、天正二年十二月八日に三沢左京為清より当時の神主 恩田大和正が猪子狩の手柄により土地を授けられていることからも知ることができる。
三沢氏以前のことは判明 しないが、三沢氏以後は氏子の修むるところとなっている。

亨和元年辛酉の日に亀嵩町が全焼し、その火がたまたま御修造中の工匠小屋に移り、本殿をはじめ全社殿を消失 するも玉殿は無事に奉遷した。

慶応三年丁卯十二月晦日に正神主の家に火災があり、多数の文書や宝物が焼失した。

明治四年七月四日太政官達「郷社定制」により同年十二月十二日付を以って郷社に列せらる。

明治三十九年勅令第九十六号に依り、明治四十一年一月五日島根県告示第三百六十一号を以って「神饌幣帛を供 進することを得べき神社」と指定せらる。
又昭和六十一年七月一日島根県神社庁特別神社に指定される。

明治四十一年七月二十日村内字上分に鎮座春田神社・字梅木原鎮座鹿島神社・翌二十一日字西湯野鎮座星神社・字久 比須鎮座久比須神社の各村社を、許可をえて合祀した。

境内神社「玉作神社」は古来玉作社・玉造社・玉上大明神と称し、出雲風土記所載の社である。
往古は玉峰山上 に大杉一株を神木とし、百間四方の社地を有して、同山より産出した水晶を以って玉を作った人々の祈願社であ った。
元文元年丙辰三月、三沢三郎左衛門為清が、隣接の鬱峰山に築城のため字原谷に遷座した。
その後明治四 十二年十月十四日、許可を得て同年同月二十二日に境内神社として遷座した。
以上

海潮神社境内社歳徳神社 「大歳神 御歳神 若歳神」島根県大原郡大東町大字南村424 出雲国 大原郡

御祭神 宇能活比古命
当社の創立は遼遠にして不詳なりといえども、御祭神のことは「出雲風土記」に見え、「延喜式」には神祇官社 として「国幣小社」の列に入り、「出雲風土記」に得塩社として載せられている。
それより降って「出雲国式社考」、或は「雲陽誌」等には大森大明神と称され、天正九年十一月造営の棟札があ り、以来十六回の社殿造営の記録がある。
武将武門を始め一般の崇敬者篤く中でも当地地頭職の三笠弾正はこの 社を祈願社として社領社地の寄進をし、祈願神事に用ひし舞獅子頭を今に社蔵している。
明治維新迄は年々お札下げにて社領米の寄進が続いたが維新後廃止された。
然るに王政復古により明治五年一月郷社の社格に列せられ、同四十一年神饌幣帛供進の神社に指定された。
創立以来千数百年社地社殿の移転・合祀等更になく現在に至る由緒正しい神社である。
以上

世利太神社境内社歳徳神社「大歳神 御歳神 若歳神」主神 御歳神 島根県大原郡大東町大字清田67  出雲国 大原郡

大歳神社 「大年神 御年神 若年神」島根県飯石郡三刀屋町大字乙加宮1219 出雲国 飯石郡

兎比神社 「足名椎命 手名椎命 (合祀)天之御中主神 譽田別天皇 天手力男命 大名牟遲命 大山津見命 大年神 御年神 若年神 仲哀天皇 神功皇后 八重事代主命」島根県飯石郡吉田村大字吉田1021-2 出雲国 飯石郡

創立は不詳なるも今から千二百三十年前の天平五年二月に勘造された。
古典「出雲風土記」に兎比社、多加社、 葦鹿社と明記されているのは即ちこの神社である。
以上

兎比神社境内社多賀毛利神社 「大山津見命 (合祀)大年神 御年神 若年神」島根県飯石郡吉田村大字吉田1021-2  出雲国 飯石郡

波多神社 「波多都美命 (合祀)中津嶋比賣命 熊野奇比神 稻蒼魂命 大山祇命 大己貴命 邊津嶋姫命 猿田彦命 素盞嗚命 大歳神 御歳神 若歳神 金山彦命 金山姫命 譽田別命 伊弉册命 事解男命 早玉男命 軻遇突智命 事代主 命」島根県飯石郡掛合町大字波多344 出雲国 飯石郡

出雲大社境内社神大穴持御子神社 「事代主神 (配祀)御年神 高比賣命」島根県簸川郡大社町杵築東195 出雲国 神門郡

出雲大社の由緒
八雲立つ出雲の国が神の国、神話の国として知られておりますのは神代の神々をまつる古い神社が今日も到る処 にあるからであります。
そして、その中心が「だいこくさま」をおまつりした出雲大社であります。
だいこくさ まは「天の下造らしし大神」とも申しますように、私達の遠い遠い親達と喜びも悲しみも共にせられて、国土を 開拓され、国造り、村造りに御苦心になり、農耕・漁業をすすめて人々の生活の基礎を固めて下され、殖産の法 をお教えになりましたし、医薬の道をお始めになって、人々の病苦をお救いになる等、慈愛ある御心を寄せて下 さったのであります。
だいこくさまは救いの親神さまであると共にすべてのものが自然の姿にあるように護って 下さる親神であります。
また、だいこくさまといえば出雲の神さま、出雲の神さまといえば縁結びの神さまと申しますが、この縁結びと いうことは、単に男女の仲を結ぶことだけでなく、人間が立派に成長するように、社会が明るく楽しいものであ るようにすべてのものが幸福であるようにと、お互いの発展のためのつながりが結ばれることであります。
だい こくさまが福の神と慕われ、すべての人々から広く深く信仰をおうけになっているのも、この「むすび」の御神 徳、即ちいいかえますと、我々に愛情を限りなく注いで下さる神さまであるからであります。
だいこくさまは私 達の家庭の親が、子供の幸福を願って教導保護するように、人間の幸福の「縁を結んで下さる」親神さまであり ます。
このような御神徳をおもちになっている「だいこくさま」には多くの御別名があります。
大国主神と申しあげる 外に、大己貴神・大物主神・大地主神・大穴持神・八千矛神・葦原醜男神・大国魂神・顕国魂神・奇甕魂神・広 矛魂神・所造天下大神・三穂津彦神・伊和大神・幽冥事知食大神等と申し上げます。
これらの御神名にはそれぞ れの御神徳があるわけで、大国主神の御神徳が如何に広く深いものであるかがわかり、福の神として、日本の永 い歴史にあって変わらない信仰をおうけになっていることが知られるのであります。
大国主神は多くの御別名が ありますように、人々のために数限りない「むすび」の御霊力をおそそぎになって、住みよい日本の国土を築い て下さいました。
豊葦原の瑞穂国と呼ばれるような、あらゆるものが豊かに成長する国を造り上げて下さったの です。
この国造りの大業が完成すると、日本民族の大親である天照大神に、その豊葦原の瑞穂国をおかえしにな って隠退されました。
そこで天照大神は国造りの大業をおよろこびになり、その誠に感謝なさって、これから後 は、この国の政治のことは私の子孫があたることとし、あなたは人々のために「むすび」の霊力を与えて幸福に 導いて下さい。
また、あなたのお住まいは天日隅宮と云って、私の住居とおなじ様式にして、柱は高く太い木を 用い、板は厚く広くして建築しましょう。
そうして、私の第二子の天穂日命をして仕へさせて末長くおまもりさ せます。
(日本書紀)と、申されました。
そこで天照大神の御命令で諸神がおあつまりになって、宇迦山の麓に 壮大なる宮殿を造営され、ここに大国主神は永久にお鎮まりになって、人々の幸福のために愛情をそそいで下さ ることになり、今に至るまで厚い信仰をおうけになっています。
そうして天穂日命の子孫は代々一系に大国主神 のおまつりを司っています。
この天日隅宮の外に出雲大神宮・巌神之宮・杵築大社・杵築宮・石kuma之曽宮と称 へられていますが、今は出雲大社と申します。
本殿は大国主神の御事蹟に対して建てられた宮であり、御神徳にふさわしい比類のない日本一の大規模な木造建 築であったと古事記・日本書紀という日本最古の書物にしるされています。
九五〇年頃(平安時代)に出来た口 遊という本によりますと、高さは東大寺の大仏殿十五丈をこえる一六丈にも達した日本最大の建物であったよう であります。
一二〇〇年頃(鎌倉時代)になってからは規模を小さくし、現在の本殿は高さ八丈六間四面で、一 七四四年(延享元年、江戸時代)再建されたのであります。
各神社の本殿中、最古の甚だ特異な様式であり「大 社造」と呼ばれています。
本殿の白木造りで簡素な直線的気高い姿は、今日でも壮観で圧倒的に印象を与えてい ます。
今よりも更に高大であった鎌倉時代以前の偉容は想像をこえたものであったでしょう。
「雲にわけ入る千 木」とか「この世のこととも覚えず」と当時の参拝者は驚異の眼をみはっています。
以上
(注)文中のmikaは、「 」
   文中のkumaは、「 」

加毛利神社 「天津彦火火出見命 豐玉毘賣命 天津彦瀲武鵜草葺不合命 (配祀)大歳御祖命 御年神」島根県簸川 郡斐川町大字神守1779 出雲国 出雲郡

富神社境内社大歳神社 「大年神 (配祀)御年神 若年神」島根県簸川郡斐川町大字富村1 出雲国 出雲郡

熊野神社境内社大歳神社 「御年神 經津主神 武甕槌神」島根県簸川郡斐川町大字三分市397 出雲国 出雲郡
由緒
当社は、天正年間(1573年)以前に紀州熊野(和歌山県)より勧請され、現存する最も古い棟札には、天正 12年(1584年)12月13日社殿造営の記載があり、当時は三分市、坂田と中原の惣社氏神として、明治 以前まで続き、維新後は区の改正により三分市、坂田の里の産土社として今に至り、現在の本殿、通殿、拝殿は 昭和6年の造営によるものです。
先年までは、高々とそびえる老松の風景が松江大橋からも眺められ、その生い茂れる枝は悉く逆枝となり、実に 天正年間以前からの社地と見受けられる。
以上

御津神社境内社歳徳神社 「歳徳神」 島根県平田市三津町1593-続-1 出雲国 盾縫郡

川跡神社 「譽田別天皇 足仲彦天皇 氣長足姫尊 奧津日子神 宇迦之御魂神 佐田彦大神 天宇受賣命 稻背脛命 大年神 御年神 若年神 須勢理毘賣神 須佐之男命」島根県出雲市荻杼町344 出雲国 神門郡

大土神社境内社大年神社 「大年神 御年神 若年神」島根県出雲市平野町184 出雲国 神門郡

由緒・沿革
当社は日御碕神社上ノ宮の御分霊を勧請創立されたもので、その詳しい年代は、寛永十年の斐伊川洪水に古記を 流失の為明らかでないが、傍証により、凡そ鎌倉時代の末期と推定して大差ないであろう。
爾来斐伊川の沖積になる新生村里の産土神として奉祀、特に農耕の守護神として崇敬されて来たことは、明治年 代頃迄の主な祭日が、今日の祈年祭・新嘗祭と夫々相通ずる、春如月”お種祭り”及び秋霜月の”初子祭”でぁ つたことからも窺われる。
素より今日では独り農業のみに限らず、広く殖産興業の神として信仰され、更には家 運長久・家庭円満の守り神とも称え崇められている。
当社は創立の由来から、明治初年に神社制度が改革される迄、久しく日御碕神社の摂社であった。
それ故に寛永 以前迄は、上ノ宮の古材を以て三間社の社殿を営んだとの記録があり、現本殿も宝暦八年日御碕より新材の供与 を仰いで成ったものである。
そして当社の修覆遷宮に際しては、その都度本宮より、金銀の幣を始めとして数々 の調度装飾具等の寄進と、検校職名代として上官の参向あるのを例とし、又毎年の幣持供進も、明治の制度改革 迄は続いていたのである。
当社は又藩政時代には、往時の粟津・堀江両村の惣社でもあった。
素より各郷の惣社とは別格のものであったが 、それでも猶、蓋し数少ない例と云うべきであろう。
相殿神は建武二年宇佐八幡宮より勧請。
爾来社頭は年と共 に繁栄、応永・永享・嘉吉・文安の頃既に多くの社領があったと云う。
その後延徳・天文の各造営を経て、天正 十四年には小早川隆景による社殿再建の棟札がある。
参道左右の松並木は、京極の家老斎藤彦右衛門が国内巡視の砌り当社に参拝、命じて植えさせたものと伝え、貞 享年間には藩主より社領五石有余の寄進を受けている。
旧村社。
昭和二十一年宗教法人となって神社本廳に所属 、今日に至る。
以上

大歳神社 「大年神 御年神 若年神」島根県出雲市大塚町804 出雲国 神門郡

由緒(御鎮座の由来沿革)
大歳神社は創立年代不明なるも尼子時代鳶巣城主佐々木完道の勧請鎮祭せし御社と傳ふ。
当時大塚村は同城主の 諸両なりしが天文年間(年月日不詳)三ヶ年不作が打続き穀物不実らず貢米を納むる事能はず城主之を深く痛み 憂ふ此時城主霊夢あり場内鎮守の大歳神社を大塚村に奉遷し祀るべし乃ち勧請して此の村の産土大神として齋奉 りしに霊顕著しく其の年より五穀は云も乍不乃果実の未に至るまで不実は無く之に依り城主の信仰愈々厚く村民 の歓び限り無く、尚附近の村落に至る迄不信の者無く尊崇年と共に厚く御神徳は次第に四隣に及び今日に至りぬ 。
之吾産土大神の起源なり。
爾来社殿の造営及年中の神事は領主の直営する処なりしが毛利氏の為落城せし以後は氏子の経営奉仕する処とな り今日に及ぶ。
参照 雲陽誌(享保二年編)
以上

日吉神社境内社社日社 「御歳皇大神」 島根県出雲市今市町1765 出雲国 神門郡

大年神社 「大年神 (配祀)若年神 御年神」島根県出雲市荒茅町1175 出雲国 神門郡

大歳神社 「大歳神 (配祀)御歳神 若歳神」島根県出雲市野尻町690 出雲国 神門郡

上大歳・下大歳と古傳
勧請年暦は不詳と雖も往古、上大歳・下大歳と申して村の中央より未の方距離凡そ七丁にして一社あり、是れを 上大歳と名つけ、町中央より寅卯の方距離凡そ八丁に当りて一社あり是れを下大歳と称し奉れり。
享保五子の年 に至り、上下両社中央の地を選び移し奉り、後合殿し大歳明神と称し奉りぬ。
以上

火守神社 「櫛八玉命 迦具土命 闇オカ神 伊邪那岐命 事解男命 速玉男命 (合祀)譽田別命 息長足姫命 武内宿禰 命 大歳神 御歳神 若歳神 木花咲耶姫命」島根県出雲市宇那手町1314 出雲国 神門郡

高田八幡宮境内社大年神社 「大年神 御年神 若年神」島根県大田市三瓶町池田2090 石見国 安濃郡

城上神社境内社天満宮 「菅原道眞 (合祀)建御名方命 大歳神 御歳神 若歳神 」島根県大田市大森町イ1477 石 見国 迩摩郡

御参拝のしおり
御祭神大物主神又は、大黒様の御名で広く知られている国土開拓の神様でありまして、詳しくは倭大物主櫛瓱魂 命と申し上げます。
この神様は神代の昔、少彦名命と協力して、この国土を拓き、農・工・商すべての産業開発 ・方除・治病・禁厭・造酒・製薬・交通・航海・縁結び等、世の幸福を増進することを計られた人間生活の守護 神であらせられます。
当神社の社伝によりますと、もとは石見国東海岸にある馬路(まじ)の高山に鎮座。
航海安全と海防の神として 信仰をあつめていましたが、永享六年(1434)に大内氏が銀山を手に入れると彼の守護神として大森の香語 山に遷し、天正五年(1577)に毛利氏が銀山を手に入れるや現在鎮座の地に遷して城上神社大森大明神と申 し上げていました。
大森の名は此の地に一本の大樹が森をなす如く大きく繁茂していて、この大樹を中心として 大いに信仰をあつめたもので、この名が付けられたといわれ、一方大森町という地名もここから称えられたもの と伝えられています。
おしくも寛政十二年(1800)の大森町の大火で社殿と共に類焼してなくなりました。
年に一回行われます秋の大祭の御幸祭の御幸地は一キロメートル程離れた長砂(たかさご)という飛地境地内で ありまして、ここは少彦名命をまつる天真神社長砂大明神がありまして、大物主大神が世の幸福を増進するため に少彦名命と御相談される御幸祭とされて現在も続けられています。
以上

御嶽神社境内社大歳神社 「御年神 大年神」島根県邑智郡桜江町大貫218-1 石見国 邑智郡

高原神社 「應神天皇 神功皇后 姫大神 賀茂別雷命 御年神 玉依姫命 菅原大神 崇徳天皇 大物主大神 少名彦命 金山彦命 金山姫命 瀛津嶋命」島根県邑智郡瑞穂町高見3029 石見国 邑智郡

八幡宮 「應神天皇 神功皇后 湍津姫命 (配祀)天照大神 宇迦之御魂神 (合祀)大年神 御年神 大物主命」島根県 那賀郡三隅町井野681 石見国 那賀郡

入野神社 「大事忍男神 天兒屋根命 (配祀)大年神 御年神 宇迦之御魂神 大元神 妙見大明神 大國主命」島根県 那賀郡金城町入野イ1042 石見国 那賀郡

天満宮 「菅原道眞 (配祀)大國主命 御神本國兼靈 (合祀)天穗日命 大山祇命 少彦名命 事代主命 宇迦御魂神 崇徳天皇 大歳神 御年神 金山彦命 水波能賣神 火産毘神 」島根県那賀郡旭町丸原1308-2 石見国 那賀郡

櫛色天蘿箇彦命神社 「櫛色天蘿箇彦命 (配祀)大年神 御年神 護國の英靈」島根県浜田市久代町1559 石見国 那賀郡

由緒掲示板
御祭神 櫛色天蘿箇彦命 大年神 御年神  元大字久代字稲葉に鎮座、延喜式石見国34座の内式内神社にて 重要な古社である。
櫛色族の祖である天足彦国押人命の御子を祭神とし益田市久城鎮座久城賀姫命神社と関係が 深い。
大年神御年神伊二神は大字久代字庵の上に鎮座大年神社称していたが明治44年11月22日櫛色神社に 合祀し櫛色天蘿箇彦命神社と称す。
大正7年7月3日全焼、大正9年11月再建現在地に遷座鎮祭した。
以上

八幡宮 「應神天皇 仲哀天皇 神功皇后 (配祀)大年神 御年神 大國主命 菅原道眞 宇迦之御魂神」島根県浜田市 佐野町イ4342 石見国 那賀郡

八幡宮 「譽田別命 息長足姫命 玉依姫命 (配祀)大己貴命 稚産靈神 稻魂命 菅原道眞 速須盞嗚命 國常立尊 大 山祇命 埴安命 金山彦命 中將殿 吉祥女 伊邪奈岐命 伊邪奈美命 加具都知神 北海武塔神 御年神 五源神」島根 県益田市柏原町812 石見国 美濃郡

八幡宮 「譽田別命 息長足姫命 比女神 (配祀)事代主神 宇賀之御魂神 大年神 御年神 綿津見神 市杵嶋姫命 ( 合祀)應神天皇」島根県益田市喜阿弥町イ1039 石見国 美濃郡

小野神社 「小野天大神之多初阿豆委居命 (配祀)日本武尊 應神天皇 神功皇后 比賣大神 須佐之男命 武内宿禰 少彦名神 彌都波能賣神 金山彦神 倉稻魂神 猿田彦神 宮比神 大年神 御年神 若年神 事代主神 綿津見神 大己貴 神 天射若子神」島根県益田市戸田町イ857 石見国 美濃郡

参拝のしおり
本社は小野村大字戸田字小野山に鎮座宇多天皇の御宇寛平三年勧請慶應四辰年五月六日式内神社たるにつき津和 野藩主亀井茲監公より大宮司を置かれ祭典料を供進せらる。
明治四年三月十五日藩主より本殿及び神楽殿御再建藩臣后阿正多良福羽美静をして其の任に当たらしめ同年八月 藩主より八ッ花形の御神体及び四つ目御紋幕の御奉納あり時に八庄屋二十ヶ村二千有全戸の崇敬神社たり。
明治五年十月浜田県知事佐藤氏大屬高島氏参拝幣帛を供せられ明治六年五月に村社に列せらる。
然るに本社は境内地狭益なるを以て明治三十九年十二月二十九日同村大字同所松雲山元村社八幡宮境内地へ移転 し其の建物全部使用の件出願自四十年三月二日許可を得て同四十一年九月二十五日移転を行う明治四十四年三月 四日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
昭和五十年四月吉日千二百年式年大祭を奉祝す。
以上

八幡宮 「應神天皇 神功皇后 多岐理毘賣命 市寸嶋比賣命 多岐都比賣命 (配祀)玉依姫命 國常立命 大己貴命 正哉吾勝勝速日天忍穗耳命 天之穗日命 天津彦根命 活津日子根命 熊野久須比命 金山毘古命 金山比賣命 伊弉册 尊 素盞嗚尊 猿田彦命 禍津日命 大山祇命 火遇突智命 水波乃賣命 宇迦之魂命 御歳神」島根県益田市鹿足郡
日原町大字滝元1488 石見国 鹿足郡

八幡宮 「應神天皇 仲哀天皇 神功皇后 仁徳天皇 大中姫命 高城入姫命 弟姫命 (配祀)源頼義 源義家 源範頼 源頼信 稻田姫命 大己貴命 少彦名命 稚産靈神 保食神 倉稻魂命 伊弉那岐命 伊弉那美命 火産靈神 軻遇突智神 吉見頼治 大年神 御年神 吉見三河守頼行 吉見頼直 吉見直頼 吉見弘信 吉見頼廣 吉見成頼 吉見頼奧 吉見隆頼 吉見正頼 吉見廣頼 吉見元頼 吉見廣行 大山祇神 高オカ命 闇罔象神 大仲姫命 天之忍穗耳命 天穗日命 天津日子 根命 活津日子根命 熊野久須毘尊 國常立神 素盞嗚命」島根県鹿足郡津和野町中曽野614 石見国 鹿足郡

彌榮神社 「素戔嗚尊 (配祀)正哉吾勝勝速日天之忍穗耳命 天穗日命 天津彦根命 湍津姫命 活津日子根命 熊野 久須毘命 田霧姫命 市寸嶋毘賣命 奇稻田姫命 大己貴命 多置帆負命 彦狹知命 天豆受女命 野槌神 鹽椎神 八心 思兼神 草野比賣神 菅原道眞 大山咋神 猿田彦神 和氣清麿 國之常立神 天照大神 伊邪那岐神 伊邪那美神 迩迩 藝命 宇氣母知神 天手力男命 龍神 奧津日子神 奧津比賣神 御年神 稚産靈神 彌都波能賣神 宇迦之魂神 譽田別 命 息長足姫命」島根県鹿足郡津和野町大字後田67 石見国 鹿足郡

参拝のしおり
本社は津和野城主吉見氏第四代弘信公がお城の鬼門鎮護を祈念し正長元年(1,428)現地に拝祀した神社と 伝えられている。
鷺舞神事は五穀豊饒、災厄防除祈願の舞にして天文十一年(1,542)に吉見氏第十一代正頼公が山口の祇園 会から移入、坂崎出羽守時代に中絶したが亀井氏二代藩主茲政公が京都の祇園会から移入して正保元年(1,6 64)に復活、爾来正しき伝統を守りつづけて今日に至る。
昭和四十八年に国の無形文化財に指定された最高の芸能神事出ある。
毎年七月二十日彌栄神社例祭の日と同月二十七日還幸の日に町内十一ヶ所の定められた場所に於いて公演される 。
以上

一之森神社境内社客神社 「御年神」 島根県隠岐郡西郷町大字中村198 隠岐国 周吉郡

福田神社 「天照皇大神 倉稻魂命 大國主命 (配祀)綿津見神 御年神」岡山県倉敷市北畝3-14-53 備前国 児島 郡

香々美北神社 「譽田別尊 (合祀)大山祇命 宇迦之魂神 大國主命 櫛御氣野命 瀬織津比賣命 道返神 大年神 御 年神 若年神 須佐之男命」岡山県苫田郡鏡野町真経102 美作国 西北条郡

高盛神社 「御歳命 (配祀)大年命 若年命」岡山県御津郡加茂川町高谷1577 備前国 津高郡

当社は、航弘化三年村方中協議して愛宕山に勧請し、玄猪天王宮と称し奉祀された。
後明治十年四月二日に現在 地東盛山に奉遷し、邑中各社を合祀して高盛神社と改称し、本殿、弊殿、拝殿を造営した。
祭神は御年命、大年 命、若年命なり。
当社は、別称「十力亥の子様」と奉称せられ、五穀豊穣を祈念される作神様なり。
真名井神社縁起 当社は別名「水神様と称せられる真名井は、古語で古き泉の意なり。
祭神は、弥都波能売神と奉称せられる女神 なり。
創建年代は不詳であるが、按ずるに盡きる事なき霊泉を奉戴して祀ったものと思われる。
現在の社殿は江 戸末期の造営で、本殿は江戸時代の建築様式の華麗な彫刻であり、拝殿の通り様式と共にその美を称賛せられる 。
匠長は、備中国賀陽郡菅谷村大字上野藤原朝臣遠部光五郎督重なり。
例祭は、四月十六日に行われていたが昨今は、八月十五日に改められた。
当社は吹出物、眼、秘尿、婦人病等の 病に御加護あり。
御祈念並びに平癒の参詣者多し。
以上

八幡宮境内社荒神社 「火産靈神 奧津彦神 奧津姫神 火具都智神 神速須佐之男命 奇稻田姫命 八衢日子命 八衢 比女神 來莫所神 大年神 御年神 若年神 大山祇神」岡山県久米郡旭町江与味1191 備前国 津高郡

八幡宮境内社地神塚 「大年神 御年神 若年神」岡山県久米郡旭町江与味1191 備前国 津高郡

石長姫神社境内社虫除社 「大歳神 御歳神」岡山県備前市香登西276 備前国 和気郡

八幡神社境内社地神社 「大年神 御年神 若年神」岡山県倉敷市上東341 備中国 都宇郡

参拝のしおり 当地方往古は海面であったが、一条天皇正暦の頃より次第埋もれて干潟となり後一条天皇、万寿年間の頃より開 墾して新田となし、万寿の庄と称し爾来住民稠加し西は馬手島より{天文の頃より松島と称す}東は撫川郷に続 き南は栗坂郷に隣りし、依って万寿上の庄、下の庄と改称する。
村民集議して柁東{鍛冶東と称す}の地に八幡 神社{品陀和気命}を勧請創立万寿二{乙丑}年八月十五日と伝えられる。
此地近傍鳥羽天皇以後正親町天皇永 禄天正年間まで青江鍛冶の祖安次より行次恒次等代々劔工の居住地にして後鳥羽天皇の時、諸国の良工二十二人 を召され更に勅して鍛えしめ給うこれを番鍛冶と云う、其の中に当地万寿青江の劒工三人まで其の列に加はりし を以て其の隆盛なること推して知らる。
是等代々劒工鍛冶の祖に宇佐八幡の神恩あるを以て殊更に八幡神を崇敬 せる由口碑に伝えらる。
以上

大歳神社 「御歳神」 岡山県笠岡市飛島5770 備中国 小田郡

太歳神社 「大年神 若年神 御年神」岡山県後月郡芳井町大字相谷178 備中国 後月郡

荒戸神社 「大綿積命 (合祀)天照大神 大年神 御年神 若年神 事代主命 三穗津姫命 嚴嶋姫命 上筒之男命 中筒 之男命 底筒之男命 少彦名命 猿田彦命 素盞嗚命 稻田姫命 伊弉諾神 火産靈命 天熊大人」岡山県阿哲郡哲多町 大字田渕917 備中国 哲多郡

清谷神社 「譽田別命 息長足姫命 (合祀)素戔嗚命 神素戔嗚命 速素戔嗚命 大年命 御年命 若年命 大山祇命 牛 頭天王 素戔嗚尊 神素戔嗚尊 速素戔嗚尊 宇迦之御魂大神 佐田彦大神 大宮能賣神 田中大神 四大神 天目一箇命 」岡山県真庭郡勝山町大字清谷353 美作国 真島郡

大歳神社 「大歳神 若歳神 實歳神 伏歳神」岡山県真庭郡新庄村1390 美作国 真島郡

由緒概略 本神社は出雲街道国道181号線新庄宿戸嶋に鎮座している。
   作陽誌に、寛永15年雲州北島様国造が上京のとき、暴風雨にあいこれを避けようとしてご投宿された、そのと き神祠の祠門を固く閉ざされてあり逡巡していた際忽ち声あり鎖鑰おち戸扉が開いた、国造様おおいに感じられ 投宿し自ら奠賽し御扉に曰く。
「火をえらひ水をきよむるみつきもの風にまかせてそなへてそおく」と国造様還郷の後に使い人をして斎金をも たらして奉賽させられたと。
以上

茅部神社 「天照大神 御年神 (合祀)素盞嗚命 素盞男命 素盞男命 素盞嗚命 菅原神 多多美比古命 大綿津美命 品陀別命 若日ルメ命 天兒屋命 若日ルメ命 句句廼馳命 武甕槌命 少彦名命 稻田姫命 經津主命 大山祇命 素盞嗚命 荒魂 狹田彦命 豐宇氣比賣命 素盞嗚命 天兒屋命」岡山県真庭郡川上村西茅部1501 美作国 真島郡

由緒書
当社は創立年代詳らかでないが建部、茅部、布施郷の大社で延宝5年(1672年)12月に大工備州奥津高村仁左衛門 の建立といわれている。
     近世に入り十二社権現、岩倉宮、岩倉12社権現と称し文久元年11月17日旧社大社の旨を以て神号許可綸書 を受け天磐座大神宮と称せらる。
明治40年神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
            明治42年氏子東茅部、西茅部、本茅部地内の摂末社を合祀し茅部神社と称し現在に至る昭和16年3月5日郷 社に列せらる。
現本社は昭和31年11月1日旧本社の地が雪害により祭祀不能となったため解体復元したもの である。
     例祭 10月18日
         祈年祭 4月18日
以上

少彦名神社 「少彦名命 (配祀)伊邪那岐大神 伊邪那美大神 大己貴命 素盞嗚命 事代主命 大山咋神 御年神 天 香香背男命 瀬織津姫命 倉稻魂命 猿田彦命 奧津彦命 奧津姫命 綿津見命 大宮賣命」岡山県久米郡久米町油木北 1608 美作国 久米北条郡

船津八幡神社 「 帶中津日子尊 息長帶日賣尊 品陀和氣尊 伊邪那岐尊 伊邪那美尊 瓊々杵尊 多紀津比賣尊 市岐嶋比賣尊 多紀理比賣尊 (配祀)若年神 宇迦之御魂神 天照大御神 大穴牟遲神 天水分神 國水分神 素盞嗚尊 宇氣母智神 大 年神 御年神」広島県呉市広両谷3丁目2-1 安芸国 賀茂郡往昔、船津山の頂上に小祠あり、帯中津日子尊、息長帯日売尊、品陀和気尊を祀る。
享保十七年(一七三二)の 大飢饉に広村の村民も大いに困窮し、さらに疫病が流行して亡くなる村人が五百人に達した。
そこで、享保二十 年に船津山の嶺を拓き境内を拡張して社殿を改築し、三柱の神を奉祭した。
その時に広村字京の上の古祠の伊弉 諾尊と伊弉冉尊、また字町田門松山より瓊々杵尊、字三坂地より多紀津比売尊、市杵島比売尊、多紀理比売尊を 遷座奉祀し、以来広村東組十一ケ所の総鎮守として崇敬す。
明治四十二年、字吉松の吉田神社ほか十二社を本社 に合祀した。
以上

大歳神社 「御年神」 広島県安芸郡倉橋町7374 安芸国 安芸郡

南方神社 「帶中津日子命 品陀和氣命 息長帶比賣命 若年神 (配祀)大山祇命 和久産巣日神 宇氣母智神 大年神 御年神」広島県豊田郡本郷町 国 郡

寄宮神社 「市寸嶋比賣命 品陀和氣命 (配祀)天御中主神 大山津見神 大那牟遲神 天太玉命 御年神 天兒屋根命 豐宇氣比賣神 息長帶比賣神 玉依比賣神」広島県豊田郡本郷町 安芸国 沼田郡

蘇和稲荷神社 「宇迦之御魂大神 大年神 保食神 御年神」広島県尾道市東御所町10-4 備後国 御調郡

八幡神社 「品陀和氣命 帶中津日子命 息長帶日賣命 (合祀)宇氣母智命 大年神 御年神 若年神 須佐之男神 市 杵嶋姫神 多賀大神 吉備津彦神 貴船大神」広島県三次市志幸町106 備後国 三谿郡

田原神社 「應神天皇 仲哀天皇 神功皇后 (配祀)豐磐窗神 櫛磐窗神 猿田彦命 菟道稚郎子 若日媛命 天鈿女命 保食神 迦具都智命 大雷命 高オカ神 大山祇命 綿津見神 水波女神 天水分神 國水分神 津速産靈神 興臺産靈神 市 十産靈神 天兒屋根神 伊弉那岐命 伊弉那美命 大名牟遲命 少彦名神 須佐之男命 稻田姫神 事代主神 大年神 御 年神 若年神 菅原道眞 藤原鎌足 首藤俊道 山内通資 白大夫」広島県庄原市市町1599 備後国 恵蘇郡

艮神社 「伊邪那岐神 須佐之男命 久那斗神 伊耶那美神 (配祀)豐石窗神 櫛石窗神 品陀和氣神 豐受比賣神 天 鈿女命 大田神 大綿津見神 美穗津姫神 事代主神 大山津見神 大國主神 建御名方神 大年神 御年神 若年神 片岡 兵庫靈神 白子靈神」広島県庄原市本郷町292 備後国 恵蘇郡

八幡神社 「品陀和氣命 帶中津日子命 息長帶日賣命 (配祀)伊邪那岐命 水象女神 御年神 大物主神 御年神 伊 邪那伎命 須佐之男命」広島県佐伯郡湯来町麦谷236 安芸国 佐伯郡

八幡神社 「品陀和氣命 帶中津日子命 息長帶日賣命 (配祀)伊邪那岐命 水象女神 御年神 大物主神 御年神 伊 邪那伎命 須佐之男命」広島県佐伯郡湯来町麦谷236 安芸国 佐伯郡

八幡神社 「品陀和氣命 帶中津日子命 息長帶日賣命 宗形三女神 (配祀)國之常立神 水象女神 大歳神 大山祇神 御年神 若年神」広島県佐伯郡湯来町下字川井1457 安芸国 佐伯郡

御幸山神社 「豐受姫神 (配祀)御歳神 少名彦名神 大穴牟遲神 木花佐久屋姫神 彌都波能賣神」広島県佐伯郡佐 伯町玖島4461 安芸国 佐伯郡

光廣神社 「品陀和氣命 帶中津日子命 息長帶日賣命 大歳神 御歳神 猿田彦命 天鈿女命 火之加具土神 菅原神 」広島県広島市安佐南区八木3丁目26-16 安芸国 沼田郡

八幡神社境内社大歳神社 「大歳神 御年神」 主神 御年神 広島県山県郡加計町下殿河内12 国 郡

八幡神社境内社大歳神社 「大歳神 御年神」広島県山県郡加計町下殿河内12 国 郡

八幡神社境内社大歳神社 「大歳神 御年神」広島県山県郡加計町下殿河内12 国 郡

八幡神社境内社大歳神社 「大歳神 御歳神」広島県山県郡加計町下殿河内12 国 郡

八幡神社境内社長田神社 「大歳神 御歳神」広島県山県郡加計町下殿河内12 国 郡

八幡神社境内社清所神社 「大歳神 御歳神」広島県山県郡加計町下殿河内12 国 郡

大歳神社 「大歳神 御年神」広島県山県郡加計町下筒架1348 安芸国 山県郡

大歳神社 「大歳神 御歳神 (配祀)石門別神 手力男神」広島県山県郡加計町下筒架2029 安芸国 山県郡

筒賀大歳神社 「大歳神 御歳神 若年神」広島県山県郡筒賀村上筒賀94 安芸国 山県郡

大歳神社 「御歳大神」 広島県山県郡筒賀村大字筒架764 安芸国 山県郡

大歳神社 「大歳神 (配祀)大國御魂神 大己貴神 速須佐男神 奧津彦神 奧津比賣神 水波能賣神 御歳神 (合祀) 大山祇神」広島県山県郡戸河内町680 安芸国 山県郡

河内神社 「水波女神 (配祀)地主神 御歳神 大山津見神」広島県山県郡加計町下筒架1802-1 安芸国 山県郡


大歳神社 「大歳神 御年神」広島県山県郡戸河内町1518 安芸国 山県郡

大歳神社 「大歳神 御年神 (配祀)大山津見神」広島県山県郡筒賀村大字中筒架1168-2 安芸国 山県郡

桑田八幡神社境内社大元社「倉稻魂命 御年神 素盞嗚尊」広島県高田郡美土里町桑田小田本622 安芸国 高田郡


菅原神社境内社大歳神社 「大歳神 御年神 若歳神」広島県甲奴郡上下町松崎甲299 備後国 甲奴郡

大歳神社 「大年神 御年神 若年神 (配祀)下照姫命 建御名方神 大禍津比神 八衢比古神 素盞嗚命 (合祀)大山 神」広島県甲奴郡甲奴町太郎丸612 備後国 甲奴郡

賀茂神社 「賀茂別雷神 (配祀)須佐之男神 御年神 大年神 若年神 事代主神 埴安比賣神 底筒男神 中筒男神 表 筒男神 八衢比古神 市杵嶋姫神 八衢比賣神 天津日高彦火火出見神 神産巣日神 大國主神 大宜都比賣神 豐受比 賣神 倉稻魂神 天津兒屋根神 田心姫神 保食神 武内宿禰神 意加美神 足仲彦神 菅原神 多岐津比賣神 (合祀)應 神天皇」広島県甲奴郡上下町有福宮の谷909 備後国 甲奴郡

大年神社 「大歳神 御年神 若年神」広島県甲奴郡総領町木屋 備後国 甲奴郡

大歳神社 「大年神 御年神 若年神」広島県甲奴郡総領町大字亀谷434 備後国 甲奴郡

八坂神社 「素盞嗚命 (配祀)天照皇大神 中筒之男神 御年神 大山津見神 宇迦之御魂神 」広島県比婆郡西城町 中迫442 備後国 奴可郡

篭守神社 「伊邪那美命 水分神 (配祀)三穗津比賣命 大山祇命 彌都波能賣神 天手力男神 御年神」広島県比婆 郡比和町森脇325 備後国 恵蘇郡

大歳神社 「大年神 (配祀)御年神 若年神 (合祀)天照大神」山口県大島郡大島町大字日見1042 周防国 大島郡


湯原山八幡宮境内社大歳神社 「大年神 御年神 若年神」山口県岩国市大字小瀬851 周防国 玖珂郡

湯原山八幡宮略記
湯原山八幡宮は、御堂原の郷士湯原源左ヱ門常弘という人が、村上天皇の天徳2年9月(958年)京都石清水 八幡宮の御分霊を、勧請して現在地に奉祀したと伝えられ、永録年間(1560年頃)火災に罹り縁起等炎上し た。
社殿は何回も改築され、棟札によると神殿が享保5年(1720)9月、拝殿が安永4年6月(1775) に造営されたもので、約二百数十年たっている。
江戸時代は吉川藩の東方鎮護の社として崇敬されたようである 社家永田家は御勧請の時京都より同道してこの地に下り、初代藤原利正以来御奉仕を続け当主が36代目に当た る。
氏子は旧小瀬村全域で昭和30年岩国市に合併し、岩国市大字小瀬となり、戸数約450戸、八幡宮に対す る崇敬の念篤く、社家との関係も非常に親密である。
社有林は7町歩以上あり、そのうちの約5町歩は先代永田利明が、明治33年より請願をはじめ、幾多の困難を 克服して明治38年漸く官有林の払下げに成功し、明治末期植林し約樹齢七十数年の美林になっている。
2町歩は現宮司が昭和32年市有林の払下げを受け、54年4000本の檜を植林し、400年以上の大木と明 治、昭和の造林などで、近郷に珍らしい檜樹林として成育している珍らしい神事としては、幼児の筋切り(ひき つけ防止)祈祷が、社伝として伝わり、氏子内は勿論、大竹、大野方面よりも参拝者があり、霊験あらたかであ る。
昭和58年8月建之。
以上

大歳神社 「大年神 御年神 若年神」山口県岩国市大字小瀬1570 周防国 玖珂郡

代田八幡宮境内社大歳神社 「大歳大神 (合祀)御年大神 若年神 須佐之男大神 火産靈大神」山口県柳井市大字 柳井1880 周防国 玖珂郡

御祭神 応神天皇、仲哀天皇、神功皇后。
相殿 田心姫命、たぎ津姫命、市杵島姫命
由緒 当社は柳井町の氏神で宇佐神宮より勧請し黒杭の地に鎮座され、人皇54代仁明天皇の御宇天長10年3 月6日(833)現社地の西方2、3町の神和と言うところに遷し、吾田八幡宮または神和の八幡宮とも称して いたが、或る年5月田植えの際自然田の中に幣はく下り、後に現在の社地に遷座して代田八幡宮と改称したとも 言う。
柳井の総氏神として庶民の崇敬厚く桜町天皇の御宇元文3年(1738)正一位の宗源宣示をうけて益々崇敬さ れた。
御神徳 当宮御際神は「龍神さま」と呼ばれ開運、厄除け、安産、家内安全、五穀豊饒、福徳円満、事業繁栄、 商売繁盛、諸病平癒、学業成就。
等霊験有り。
交通安全は殊に御霊験顕著である。
主な祭日 元旦祭 1月1日、星祭追難祭 節分当夜、合社祭 5月5日、湯立神事 夏土用入の日、大祭 1 0月1日より10月15日まで。
月並祭 毎月1日、15日
大祭 神輿御幸があり御旅所までお供をする。
御旅所 往古宮本浦崎一本松にあったが、古開作の築造により元 禄4年今の樋ノ上の御旅所となった。
境内末社 蛭子神社 商売繁盛、事業繁栄の神。
     大歳神社 五穀豊饒、家運隆昌。
      生目神社 眼病の神として広く信仰せられ殊に霊験あり。
以上

春日神社境内社大年社 「大年神 御年神 若年神」山口県柳井市大字柳井218 周防国 玖珂郡

往古大和の国南都より五社の神体並に神鉾一本江の口(現在の江の浦)と申す所へ浮かび来りその所に小山あり この山に影向成給う。
今鉾島と福して影向の霊址と遺れる事歴然たり。
頃は大同2年9月16日の夜里人に御霊夢あり南都春日大明神 海浜江の口に影向す。
汝等来り取上げ祭るべしとの御告に従い海辺に至り尋取見当たり恵美山に安置す。
今の春 日山是なり。
而後此の旨を以て国主に奉訟国主藤原の祖神一国一社の由且は影向の神たる事を知召し御信被遊事 益盛なり。
依て神殿を奉り給う。
以上

土穂石八幡宮境内社琴平社 「(合祀)大己貴命 御年神 豐受大神 須佐之男尊 」山口県柳井市大字新庄2621 周 防国 玖珂郡

白井田八幡宮境内社荒神社「素盞嗚命 大年神 御年神 若年神」山口県熊毛郡上関町大字長島第4030 周防国 熊 毛郡

蒲井八幡宮境内社荒神社 「素盞嗚尊 大年神 若年神 御年神」 山口県熊毛郡上関町大字長島第1306 周防国 熊毛郡

宮戸八幡宮境内社大歳神社 「大歳神 御歳神」山口県熊毛郡上関町大字祝島字宮の脇1571 周防国 熊毛郡

宮戸社由緒略記
(神舞縁起略記)
鎮座地 山口県熊毛郡上関町大字祝島
本島は山口県最南端周防灘に在りて周囲は約五里内海航路の要衝にあり、本州に北面し側背面には周防灘を通し て遥かに豊後、伊予の連山を望み風光殊の外明媚なり、万葉の島、不老長寿の秘島としてその名声はつとに高し 。
祭神 応神天皇、御歴代木像、産土大神
例祭日 十月十五日(大、中、小祭年間約五十会)
由緒 山城国男山石清水八幡宮の御分霊を守友平助久仁安三年に奉祀す。
宝蔵の大棟札によれば、永禄四年式部太夫御殿再建、万治元年拝殿再建。
寛文六年九太夫御殿再建、元禄七年宋女拝殿再建、宝歴三年常陸守御殿再建、天明三年和泉守拝殿再建して今日 に至る。
近郷稀れに由緒深く、霊威又顕著なり。
境内神社
大歳神社(荒神社)大歳神、御歳神 仁和三丁未八月三日勧請
恵比須神社 正保年中勧請
宝物 甕 ニ個 作者伝来不明、 鏡一個 丸形津田薩摩守重永の作、 勧請札及び棟札十二枚、その他多数 参拝順路 山陽線柳井港駅下車定期船にて、約二時間半、 臨時渡海の際は山陽線光駅下車、室積港より最短距 離約五十分
祝島と海上守護の霊瑞
我が国最古の歌集万葉集に
くさまくら旅行く人を祝島幾世ふるまでいわい来にけむ
家人はかへりはやこと祝島いわいまつらん旅行くわれを
の二首見ゆ、天平八年わが朝廷より新羅国(朝鮮)への遣使海路下向の途次これを詠みたり、本島伝統の霊瑞を 寿き且つわが航海安全を祈願せるこの二首は、その昔時の姿を偲ぶに足る。
上り下りの船舶は必ず本島に向かい て航先の吉凶禍福を占い或は海上安全、漁業成就を祈願せり、霊気全島に満々、瑞祥赫灼として内海鎮護の大任 を果し今日に及ぶ現に本島氏子及び当社崇敬者にして海上遭難の災に会えるもの無き事実はゆえなきにあらざる なり。
神舞神事について
縁起 仁和二年八月(約千百年前)大分県東国東郡伊美村代表者一行別宮八幡宮創建の為京都石清水八幡宮より 御分霊を奉じて海路下向の途次風浪荒く本島三浦湾に避難碇泊せり、時に同所に三戸の民家あり、産子何れも体 格不整にしてその生活暗きを嘆き居れば特に神霊を奉祀(大歳祝社)舞楽を奉納して祈願すると共に農耕の途を 授けたり。
爾来氏子の体格整い、生活豊かになり子孫弥々繁栄す、島民深くその神恩に感じ五年毎に神船一艘を艘艤し別宮 社社人二十数名を招き、舞楽を奉納、五穀豊穰、民生安定祈願の大歳神社式年大祭を執行せり(舞楽奉仕者は世 襲継承)これ即ち神舞神事の起源にして爾今連綿として絶ゆることなく古式のままを今日に伝うなり。
内容 八月一日、早朝伊美へ迎船出発、当夜本島三浦湾(古縁地)御一泊、翌二日当社鎮座の本部落への入船神 事を以て一週間にわたる祭典が始る。
海上十三里を距つ両村両社の合同祭祀たる形体及びその規模、神船を中心に櫂伝馬船始め無慮百隻に及ぶ奉迎船 が参加して執行される。
荘厳、華麗なる入船出船の神事、古式豊かな神楽等々、展開さる一大祭典絵巻は正に天 下の偉祭として他にその比を見ざるところ霊気又全島を掩いて参拝者の心気を打つなり。
註 1 昭和二十七年三月二十九日、歴史上、芸術上特に価値高きものとして重要無形文化財に選定され、国家 の保護を受くることとなる。
  2 神舞神事とは、所謂ただ神楽舞を示すものではなく前記一切の諸行事を綜合して斯く呼称する。
以上

石城神社境内社須賀社 「須佐之男神 (配祀)大歳神 御歳神 」山口県熊毛郡大和町大字塩田第2233 周防国 熊毛郡

遠石八幡宮 「應神天皇 神功皇后 田心姫命 市杵嶋姫命 多伎津姫命 (配祀)天水分神 國水分神 須佐之男命 稻 田姫命 大年神 御年神 若年神 天御中主神 伊弉諾命 伊弉册命 表筒男神 中筒男神 底筒男神 埴安神 大山咋神 速玉之男神 倉稻魂神 火産靈神 奧津彦神 奧津姫神 蛭子神」山口県徳山市遠石2-3-1 周防国 都濃郡

遠石八幡宮略記
推古天皇30年壬午(西暦622年)の春末岡直彦、祝部となって宇佐八幡の神託によりこの地に崇祭し、和銅 元年戊申(708年)末岡太郎麿の時、社殿を造営して大社となる。
平安朝以後石清水八幡宮の荘園となり、こ の地を遠石荘とし八幡遠石別宮と称し社領48町歩に及び社坊12か寺、禰宜12家を擁し、本朝4所八幡の1 と称せられるほどの規模であったが豊臣秀吉征韓の際社領を殆ど徴禄となり、一時衰微したが毛利藩分封(16 17年)以来歴代藩主の氏神として造営その他一切を藩費により支弁せられ祭礼も盛んに行われた。
明治6年社 格の制が定められるや県社となったが戦後この制度は廃止せられた。
昭和11年2月火災により社殿炎上し現社 殿は昭和14年再建されたものであります。
かって宮前の旧山陽道一帯は門前町として賑わい、芸娼伎の伎楼が 立ち並び芝居小屋が大芝居、小芝居の2ヵ所常設され、また春秋の大祭には藩庁が臨時出張する等繁盛したが廃 藩後変遷し遊廓は大正の初め徳山市内に移された。
また神社前面の海岸は白浜と称せられ白砂青松が東西に連な っていたが近来その海岸線も様相一変して今では東西交通の要衝となり、また石油化学工場が建設され、背面の 山地は大住宅団地と化して当宮の森だけが昔の面影を残す聖地となりました。
以上

大歳神社 「大年神 御年神 若年神」山口県下松市大字山田987 周防国 都濃郡

繁枝神社境内社大歳社 「大年神 御年神 若年神」山口県防府市大字台道422 周防国 吉敷郡


往古、この土地を大股(オオマタ)と称しておりましたが、当時は鎮守の神として祭るべき神社がありませんで した。
田畠の稔りも悪く、狐狸が作物を荒らし、年々流行病が絶えず里人は大いに難儀を続けておりました。
たまたまその頃、九州地方の戦乱をさけて、大股の里へ移り住んできていた、日津喜麻呂豊国宿禰が守護神を奉 祭しておりましたのでこの里の有力者、下津五郎万正好という方が土地の鎮守の神として申し請け下津令に社を 建て(現在、通称踊り場)初めて祭礼が行われました。
すなわち天武天皇の御代白鳳十三年秋九月(一二八七年 前)のことでありました。
これがわが繁枝神社の創建の由来であります。
(豊国宿禰の子孫は、その後代々神社に奉仕して現在にいたっております)

繁枝神社のご祭神は、応神天皇、神功皇后、厳島神社大明神、住吉大明神他の神様方であります。
その年、大股村で男子が出生した十二軒がお鏡餅、御はなびら餅(おせんべい)を調製し、神に供え神事に奉仕 いたしました。
これが現在迄続いている当屋制度のはじまりであります。

爾来、台道地区の鎮守として尊崇されておりましたが、後世、旧国道以北は八幡宮(小俣)のご守護されるとこ ろとなりました。
建久二年(七八〇年前)には社殿を下津令から現在の繁枝の地へお移しいたしております。
足利時代、時の藩主大内義興公の崇敬特に篤く、遂に公直筆の「額」を賜っております。
(これらのことは、境内の石碑(亀の上)古文書などに記録されております。

わがふるさとは、産土神のご守護によって年々繁栄を続け、土地も広がり(神社創建の頃の海岸線は上り熊、下 津令木床、嶽条のあたりであったと推定される)氏子も増し、産業も発展して今日に至り、なお悠久の未来に向 かって隆昌を続けようとしているのであります。
昭和四十七年四月一日
以上

正八幡宮境内社大歳神社 「(合祀)大年神 御年神 稚年神」山口県吉敷郡秋穂町大字西本郷337 周防国 吉敷郡
平原八幡宮境内社大森荒神社 「大歳神 御歳神 若歳神」山口県宇部市大字際波1757 長門国 厚狭郡

平原八幡宮について
寛和元年(九八五年)、平原の台に夜毎に光るものがあり里人が怪しんでいた。
或る日村の古老に「畑の中に霊 石あり、これ八幡宮なり、この地に祀るべし。
」という神のお告げがあり、掘り起こしたところ、神功皇后が神 に誓われた御産石が出てきたという。
同年九月十二日、社殿をその地、岡の原(現在の宇部商業高校付近)に造 営し、この霊石を八幡の神として祀ったのである。
のち、寛正六年(一四六六年)、社殿が今の平原の地に移された。
慶安三年(一六五〇年)社殿が再建され、現 在、際波と沖の旦地区の氏神となっている。
また、際波の由来には、次の二説がある。
一説は、上古仲哀天皇、筑紫に熊襲征伐のため御船にて行幸なし給いしに、西風烈しく吹きて、御船豊浦の津に 到り難く、此所に繋船し、三筒男神を祀り、順風を祈り給うに、俄に順風に変りければ、天皇曰く「はや波は和 波になりて来るぞ。
」と歓び給いしより、此所を来和波という。
関係地名、洗川(垢離をなし給う所)、岸の旗(供奉の御船の旗などを建て並べし所)、鏡ヶ窪(鏡を磨き清め 給いし所)。
二説は、この村沖海上干潟の地、追々新開になりたれども、昔は此の地の山辺まで海浜にて波打ち際なれば号し て際波という。
以上

菅原神社境内社大歳社 「大歳神 御年神 若年神」山口県下関市大字井田第341 長門国 豊浦郡

豊神社境内社大歳神社 「大年神 御年神 若年神 大歳神」 主神 御年神 山口県下関市大字伊倉第204 長門 国 豊浦郡

旧社格 村社 明治七年二月列格
明治四拾貳年拾貳月拾九日大字伊倉八幡宮に大字稗田八幡宮及大字熊野 熊野神社を合併合祀して神社名を豊神社 と改称す。
以上

大歳神社 「木花開耶姫命 大歳神 御年神 若年神」山口県下関市竹崎町1-13-10 長門国 豊浦郡

大歳神社畧記
当社は、下関市竹崎町に鎮座しており、木花咲耶姫神、大歳神をお祀りし、寿永の昔、長門に兵氏追討の任を受 けた源義経は、壇之浦の合戦に望んで己が武運の守護と頼む富士浅間の大神、即ち木花咲耶姫神の神助を更に祈 請して敵の陣小戸を隔て、呎尺の間にある有明山に至って、小松を植えかがりびわ焚き、七日七夜の斎戒を修め て必勝の祈願を篭め、桑の木を用いて弓を作り神前に捧げしものを以て、対岸の彦島を居城とする平家の陣地に 開戦の矢文を射込んだ。
平家統師知盛これに驚き壇之浦に軍船を進め、源平興亡をかけた合戦の火蓋は切られ義経に戦勝をもたらしたと 伝える。
これ即ち文治二年四月にて有明山麓の地に神祠を祀ったのが大歳神社の起源と言われている。
古くは、西北に離れてあったが、昭和14年関門海底トンネル工事のため境内地を線路敷に接収され現在地に遷 座したのである。
以上

御山神社 「伊弉諾命 伊弉册命 菊理姫命 速玉之男命 事解之男命 (配祀)天照皇大神 豐受姫命 保食神 大年神 御年神 水分神 大國主命 事代主神 級長津彦命 級長戸邊命 經津主命 武甕槌命」山口県阿武郡阿武町大字惣郷 395 長門国 阿武郡

白人神社 「伊邪那美大神 瓊瓊杵尊 天照大神 豐秋津姫命 (配祀)崇徳天皇 源爲朝 (合祀)猿田彦命 大山祇神 御年神 仁徳天皇 大己貴命 譽田別命 息長足姫命 埴安姫命 少彦名命 稻倉魂命 天之御中主神 高皇産靈神 神皇 産靈神 大年神 素盞嗚尊 (主神)猿田彦命」徳島県美馬郡穴吹町口山字宮ノ内2 阿波国 美馬郡

当社は、徳島県美馬郡穴吹町口山字宮の内に鎮座しており、伊弉冉神にに杵尊天照大神豊秋津姫命崇徳天皇源為 朝公をお祀している。
住古は、現地西南の丘に古社があった。
周囲を石堤で築き、三ヶ所に門を作り、所謂磐境であろう。
保元の乱の 後、源為時は、崇徳上皇をお慕い申して讃岐に滞在していた時、阿波にあらたかなる神があると聞き、ここに参 拝祈願した。
その時、為朝は、「この地は狭い故谷川の辺に遷し奉るがよい。
」と言ったので村人は相議って現 地に遷宮し崇徳上皇の霊を併せ祀り、武具をも奉納した。
その後大阪夏の陣に従軍した稲田修理はこの神を祈願 し軍功を奏したのでその後は稲田家の守護神として為を副祭し、斎田を納め、累代、神馬、武具、燈籠、絵巻等 を奉納し、また社殿の改修築寺を行なった。
明治三年(一八七〇)村社に列し、明治四十三年(一九一〇)に口 山村南部十数社を合祀した。
戦前、戦中は、武運を祈願する者が県内外から押し寄せたほど戦の守護神として聞 こえた。
この氏子には、昔から七十五人の「宮人」というのがあって、いろいろと神社に奉仕したが、中世から は、木像を造って社殿の脇に侍らせ、自分は農事に従事して、遷宮、お弓、神輿渡御など祭典には斎戒して奉仕 した。
この歴史ある家は、今尚奉仕し、他家を入れない。
おそらく昔は、神を中心として社地を耕し、一朝事あ るときは氏子一心団結したものであろう。
因みに、その家の屋号に「ネギ」「カンヌシ」などが残っている。
以上

八坂神社 「素盞嗚命 櫛稻田姫命 天忍穗耳命 天穗日命 天津彦根命 活津彦根命 熊野大隅命 田心姫命 市杵嶋 姫命 湍津姫命 大年神 御年神」徳島県美馬郡貞光町大字貞光字辻59 阿波国 美馬郡

三谷八幡宮境内社熊野神社 「御年神」香川県高松市三谷町2218 讃岐国 山田郡

三谷八幡宮由緒
全讃史に延長年間(平安時代)讃岐の朝臣兵庫なるもの当地を領し、火山の南八幡原の地に男山神を迎え鬼門の 鎮めなし厚く崇敬す。
鎌倉時代、三谷氏、弥七朗景晴、当社の霊験を被り、禁中の怪鳥を射落し、主上の御悩平 癒の功により兵庫頭に任ぜられ、賜うところの矢を詞前に献上、別当三谷寺、永正五年、香西氏の王佐山城攻め の戦火にあうも矢のみ逃れ、現存す。
寛永五年、生駒高俊、西島八兵衛をして、三郎池築造するにあたり現在地に遷座、また、松平氏の尊崇あつく、 現存の神輿を寄進せられる。
彫刻の名人「左甚五郎」との右伝もある。
発祥より約1200年、現地に遷座してより352年、三谷一郷の産 土神として鎮座災害、厄難を除き、平和招福、産業文化の振興、就学就職奨励の神として霊感ありと伝う。
 昭 和五十五年一月吉日 宮司謹白
以上

三名神社 「大年神 御年神 若年神」香川県高松市三名町400-1 讃岐国 香川郡

平賀神社境内社柴山神社 「大國主神 (配祀)大歳神 御歳神 事代主神 市岐嶋姫神」香川県高松市香西西町216  讃岐国 香川郡

由緒
昔安原郷守護神に、ダケ八幡又は平賀八幡というのがあった。
これを勧請して鎮座したのである。
毎年八月十五 日祭りに安原村より一両人当神社に詣り、昔の安原守護の神として、御供御神酒を頂いて信敬した。
当社の地は 地蔵院香西寺奥の堂伽藍の山内で末派西泉坊の社辺にあった。
その勧請鎮座の年代は詳かでないが、天正年中仙 石権兵衛秀久が当国の守となり、宇足津聖通寺山に城を構え引田城から引移った。
此の時安原山の百姓が仙石氏 の命に従はず一揆を起して騒動した。
仙石氏は百姓を補へて百余人の首を刎ねた。
天正十三年の事である。
安原 村の住人悲嘆し後難を恐れて、その深く敬う八幡宮の御神体を奉じて香西に来た。
里人等之を聞いて平賀宮は当 平賀有縁の神ならんとて仮宮を建てて、現在の香西寺の境内に祀った。
香西の里人之を崇信し慶長、元和の頃か ら繁栄した神社である。
寛文年中一郷寄宮の命に因り、平賀宮を藤尾宮の境内に移し、其後に地蔵院の堂宇坊舎を建てた。
正徳四年八月 香西寺住職第十八世圭然法印の時又八幡宮を藤尾宮から旧地の隣辺に奉遷して、地蔵院鎮守の神として神の如く 尊信し、平賀、中須加両邑が祭祀を行っている。
(香西記)
以上

廣旗神社境内社長柄神社 「御年神」 香川県高松市円座町1352 讃岐国 香川郡

由緒
天喜元年(紀元1713)の創祀にして、同年本殿造営、天治元年(紀元1784)拝殿を造営すと云ふ。
一説に天治元年当村北原孫太夫の創建、元久五年四月再建せらるとも云ふ。
玉藻集に「治承年間中井右馬允再興 」とあり。
天正年間兵火に罹り、寛永年間再興ありて、元文年間修造せらる。
明治十五年八月大暴風雨のため社殿大破せしを以て、翌十六年九月再建に着工し、同十九年八月竣功せり。
大正十二年九月神饌弊白料供進神社に指定せらる。
以上

宇閇神社境内社稲荷神社 「倉稻魂神 天照大神 大己貴神 少彦名神 埴安姫神 水分神 大山祇神 大年神 御年神 」香川県綾歌郡綾歌町岡田下695 讃岐国 鵜足郡

長柄神社 「國常立命 天津兒屋根命 大山積命 猿田彦命 御歳神」香川県綾歌郡綾上町東分甲2724ー3 讃岐国 阿 野郡

諏訪神社 「建御名方之命 (合祀)地神大神 大年神 下照姫命 御年神」香川県仲多度郡満濃町真野字片山甲1526. 乙1526 讃岐国 那珂郡

金刀比羅宮境内社御年神社 「大年神 若年神 御年神」香川県仲多度郡琴平町892ー1 国 郡

御本宮由緒書
はじめ大物主大神を祀り、古くは琴平神社と称する。
中古仏教の興隆に伴い、本地垂迹説の影響を受けて金毘羅 大権現と改称し、永万元年(一一六五)に至って、御相殿に崇徳天皇を合せ祀る。
明治初年(一八六八)になっ て神仏混淆を廃し、元の神社に復り、明治元年七月、特に宮号仰出され、金刀比羅宮と改称され現今に至る。
御祭神は、大物主大神と申し、建速須佐男尊の御子、大国主神の和魂神に坐す。
当宮は、大神が国土経営の砌、 暫し行宮を営まれた御旧蹟と申し伝えられており、神代の昔より御鎮座せられている御縁深い旧社である。
又、御相殿に鎮まります崇徳天皇は、第七四代鳥羽天皇の第一皇子で御名は顕仁。
元永元年(一一一九)誕生、 保安四年(一一二三)五歳で即位し、第七十五代の皇位を継承、永治元年(一一四一)に近衛天皇に譲位、後保 元の乱にあい讃岐国綾郡松山(香川県坂出市)に配流せられ、世に讃岐院と称し奉られる。
籠居九ケ年の間、金刀比羅宮境内古籠所に御参籠せられ、又親しく御宸筆を納められた由縁が有る。
長寛二年(一一六四)八月二十六日崩御、御寿四十六歳。
讃岐白峰陵(香川県坂出市)に葬り奉る。
翌永万元年 七月、御在世中の御縁故に依り、ひそかに御霊を迎えて御相殿に斎き祀る。
桃園天皇御宇宝暦三年十二月、勅願所仰出され、同十年五月、日本一社勅願所たるべき旨、綸旨を賜り、爾来明 治初年に至るまで、毎年春秋の二季に、禁中より御撫物を当宮別当に下して、宝祚悠久を祈らせる。
そのほか、 桃園天皇、後桜町天皇、後桃園天皇を始め暦朝皇室のすこぶる篤く、御代拝を差し遣わされたり、或いは金品の 御寄付あらせられる事があり、光格上皇には天保十年、臨時御祈祷仰出され、孝明天皇には安政五年、文久三年 の両度臨時御祈祷仰出される。
また明治天皇には、明治十六年、御思召を以って御短刀一口御寄付仰出され、同 二十一年には当宮保存会設立の趣を聞食されて金員を御下賜遊ばされる。
近くは大正天皇、今上天皇の御参拝あ らせられる等皇室の崇敬篤く、武門武将より一般市民に至るまで、広く信仰せられている。
全国津々浦々からの参拝客は、毎年三百万から四百万。
それぞれ深い御蔭を戴かれて居る。

鳥羽分社由緒書
鳥羽のこんぴらさん
伊勢の鳥羽なる樋ノ山に昭和三十一年八月、讃岐金刀比羅宮鳥羽御分社を造営、その竣成を見まして御奉斎せら れました。
国民信仰の寄り処としてこの地に金刀比羅さまの御神徳を崇め且は御本宮を遥に拝する神殿として、諸方の盛り 上がる信仰が鳥羽御分社の建立を見ました。
伊勢志摩国立公園に位置し、古い昔から海の要衝にあたり近時近鉄各交通機関もここに会して年間百八十万人に 及ぶ観光客、幾多の海上生活者、交通に携わる諸方の参集はまさにうるわしい土地柄であります。
神宮の飛躍的復興、また真珠と海女、風光明媚な伊勢湾の景趣と卓越した地として将来を注目されています。
この鎮座の樋ノ山は海抜百二十米余、鳥羽城の御園であり、大地上からは霊峯富士や御獄伊吹の山々を望み、殊 に太平洋上の日の出の荘厳さは言語に絶するものがあります。
来訪の客は日に月に激増し、樋ノ山の平和な麗姿とこの地の風光と民情に必ずや明日への希望を培加し、この神 殿に各々の希望を祈念し、海上・一家の繁栄と国民の隆昌を願うことでしょう。

出雲分社御由緒書
主祭神  大物主神 崇徳天皇
相殿   真名佐神社 八幡宮
「なおえこんぴらさま」は明治十五年、金刀比羅宮崇敬教会直江支教会として発足、明治二十二年、地元直江町 をはじめ近郷の崇敬者の皆様の奉仕により大社殿を建立、松江市東川津町字貝崎鎮座の真名佐神社および八幡宮 を奉移、御本宮の御分霊を迎え金刀比羅宮境外末社金刀比羅神社と改称し社務全般を公執するに至ったのであり ます。
爾来本宮社員が駐在して朝夕の祭事は素より崇敬者の乞のままに祈祷その他、本宮と変らない扱いをいた し、また毎年夏の御例祭には宮司代理が参向、神饌・幣帛を奉るを例として今日に及んでおります。
殊に大正二 年、昭和十年、昭和三十二年の正遷座祭には本宮宮司が多数社員を従えて親しく祭事を奉仕する等、本宮との関 係は頗る密接なるものがあります。
「さぬきのこんぴらさま」の御分社が、山陰の地出雲大社の御膝もと斐川町 に祀られてあることは、一入に有り難さ、親しさを身近に感ずる所であります。

神戸分社由緒書
当社は、讃岐金刀比羅宮直轄六分社の一社にして、其のはじめは徳川末期、讃岐國金毘羅大権現遥拝所として兵 庫の人々により設置せられ、明治二十一年、摂津國八部都池田村鎮座の金刀比羅神社を御移転、讃岐金刀比羅宮 境外末社に御加列、明治四年、門前町として生れた。
福原華街の繁栄にともない、福原こんぴらさんと神戸はも とより姫路に至る山陽路の人々、また阪神間淡路島の人々から親しまれ、古来海の神様として殊に知られている が、御祭神大物主大神の御神徳は広範に及び、農業殖産送薬の神様であられる。

松山分社由緒書
新立金刀比羅神社
海の神様・農業殖産・医薬など国民の平和で豊かな生活向上に御力を注がれた我大神の信仰は古くより「讃岐の こんぴらさん」と全国民に広く親しく崇敬を集めて参りました。
江戸時代にはこの偉大な御神徳を身近に戴き奉らんと全国津々浦々に御分霊が勧請され、当社もその一社で、最 初讃岐街道の出入口のこの地に本宮遥拝所として設立されて以来、藩主から庶民に至る篤い信仰を得、明治に今 日の境内建物が完備されました。
現在全国に千数百社、愛媛県下にも一五〇余社あるという金刀比羅神社中、全 国六社の直轄分社として賀来式高く奉斎されている。
以上

三津歳神社 「御歳神 大歳神 若歳神」愛媛県川之江市川之江町 伊予国 宇摩郡

石鎚神社境内社方違社 「歳徳神」 愛媛県西条市西田 伊予国 新居郡

霊峰石鎚山総本宮・石鎚神社
石鎚信仰の由緒・沿革
石鎚信仰の母体、関西第一の高峰霊峰石鎚山(1982メートル)は、一千三百年の昔、役の行者(役小角)に よって、開山されました。
その後、寂仙菩薩が石鎚蔵王大権現と称えて深く信仰、山路を開き、登拝者を導き、 常住社(今の中之宮・成就社)を創立しました。
その後、上仙大師、光定大師等の高僧が、四国八十八箇所第六十番札所の横峰寺、同じく第六十四番札所の前神 寺を創立、石鎚神社の別当寺となって、幕末、明治維新を迎えました。
と同時に明治天皇の大命により、神仏混 淆が禁止され、別当寺が廃止、純粋な神社と定められました。
しかしながら、現在も永く深い信仰をものがたるかのように、神仏混淆の色が、濃く残っています。
かつて、弘法大師も石鎚山で修行したと伝えられ、桓武天皇、文徳天皇、武将としては、源頼朝、河野家一族、 豊臣家一族の厚い信仰があり、慶長十五年、豊臣秀頼公により、中之宮成就社が御造営されましたが、明治二十 二年の火災により焼失しました。
(現在の成就社は、昭和五十五年十一月十三日、災禍にみまわれ焼失、昭和五 十七年六月二十日に復興、御造営されました。
) また、寛文年間よりは、西条藩主、小松藩主の信仰、特に厚く、社殿の修理、神器、神宝の奉納が数々ありまし た。
明治初年、明治天皇の大命により、神仏混淆が禁止された当時、石鎚神社は、県社の社格に列せられていました 。
その後、第二次世界大戦の終了と共に、全国の神社は、信教自由の見地により、神社本庁に包括される宗教法 人となり石鎚神社は、従来の官国弊社と同格の別表神社という待遇を受けました。
これと共に、石鎚信仰の「神仏混淆」という特殊性等を生かすために、石鎚神社の傘下宗派として、宗教法人石 鎚本教を創立しました。
これにより、神社のみでは、発行できなかった教師免状や、教会設立の便宜を図ること ができるようになり、国内はもとより、遠く海外まで信徒、崇敬者の輪が広がり、神社、本教一体となって発展 し、現在に至っています。
以上

鶴岡八幡神社境内社大気味神社 「大氣都媛命 大年神 御年神 若年神 大國主神 岐神」愛媛県東予市北条 伊予 国 周布郡

皇子明神社 「天津彦火瓊瓊杵命 (配祀)御年神 (合祀)岐神」愛媛県越智郡朝倉村朝倉上 伊予国 越智郡

高浜八幡神社 「應神天皇 神功皇后 三女神 豐玉彦命 豐玉姫命 綿津見命 素盞嗚命 大年神 御年神 大己貴命 金山彦命 崇徳天皇 仲哀天皇 八衢彦命 八衢姫命 久那斗神 底筒男命 中筒男命 表筒男命 大山祇神 市杵嶋姫命 猿田彦大神 猿田彦大神 金山彦命」愛媛県越智郡弓削町上弓削 伊予国 越智郡

十二所神社 「大年神 御年神 若年神」高知県安芸郡芸西村久重字ゴンゲン平 土佐国 香美郡

竃戸神社 「大年神 (合祀)御年神 若年神 稻荷神」高知県香美郡夜須町 土佐国 香美郡

竃戸神社 「御年神」 高知県香美郡香北町奥西川乙3932の2 土佐国 香美郡

琴平神社境内社三豊神社 「豐受姫神 大歳大神 御年大神 淺間大神」高知県南国市里改田2607 土佐国 長岡郡


日吉神社境内社竈戸宮 「御年大神」 高知県南国市長岡1407 土佐国 長岡郡

竃戸神社 「御年大神」 高知県南国市長岡 土佐国 長岡郡

仁井田神社境内社神母神社 「御年命」 高知県南国市中谷308 土佐国 長岡郡

由緒掲示板 勧請年月縁起沿革等未詳古来上倉郷ノ内八京、白木谷、上倉、奈路中谷桑川黒瀧、大改野、中川ノ九ヶ村及び外 山村、才谷村、天行寺村の産土神にして二井田大明神と称す。
古老の口に昔仁井田郷仁井田神社より勧請すと。
明治元年辰三月改称の達により仁井田神社と改称す。
五年始に社格の 定に当たり郷社に列す。
伝来する所の棟 札に天正十三年三月、元録六年二月、安永九年十二月の年号あり。
神社記に云う宮谷西地仁井田大明神右勧年歴不相知 有来りの社也社地弐代宮林の内なり散田無貢」宮林長六拾 五間横四捨間内弐捨代御立薮也 当時竹は無之御山方支配」田地ヲモ田八代三歩本田先年より地下人備え貢物地 下より立之外に米四斗祭事入目なり地下より出之」棟札文日天正十三年三月吉日造立仁井田大明神社國主秦元親 本願珠幸上人」元録六癸西年二月廿一日造立仁井田大明神
以上

大将軍神社 「御年大神」 高知県南国市野田314 土佐国 長岡郡

若一王子宮境内社竈戸神社 「豐受大神 御年皇大神 澳津彦神 澳津姫神」高知県長岡郡本山町 土佐国 長岡郡


竃土神社 「大年神 大土神 御年神 」高知県高知市 土佐国 吾川郡

竈神社 「火産靈神 澳津彦神 澳津姫神 大年神 御年神 若年神 (合祀)應神天皇 建速須佐之男命 大年神」高知 県吾川郡春野町芳原299 土佐国 吾川郡

北川神社 「倉稻魂命 御年神 事代主命 大土御祖神 大國主命 保食神 大宮賣神 (合祀)若年神 久久年神 大山祇 命」高知県吾川郡吾川村 土佐国 吾川郡

三所神社 「大己貴神 大國玉神 御年神」高知県高岡郡仁淀村長者 土佐国 高岡郡

五所神社境内社三所神社 「大己貴神 大國玉神 御年神」高知県高岡郡仁淀村長者丙2143 土佐国 高岡郡

西谷三所神社 「大己貴尊 御年神 大國魂神」高知県高岡郡仁淀村 土佐国 高岡郡

大歳神社 「大年神 御年神 若年神」福岡県福岡市東区下原2-22 筑前国 糟屋郡

八剱神社 「日本武尊 砧姫命 (配祀)稚産靈神 (合祀)高皇産日尊 天照皇大神 大國主命 大物主命 御年大神 御 雷大神」福岡県遠賀郡水巻町大字立屋敷字丸ノ内203 筑前国 遠賀郡

戸明神社 「天手力雄大神 天兒屋根大神 (合祀)事代主大神 素盞嗚大神 高オカ神 御歳神 闇オカ神」福岡県北九州 市若松区大字延虫住866 筑前国 遠賀郡

須賀神社 「素盞嗚神 稻田姫神 興津嶋比賣命 市寸嶋比賣命 多岐都比賣命 天之忍穗耳命 天津彦根命 活津彦根 命 天穗日命 熊野久須毘命 (合祀)闇オカ神 高オカ神 御歳神 猿田彦命 大己貴神 保食神」福岡県北九州市若松区大 字竹並字池田2931 筑前国 遠賀郡

田神社 「御歳神」 福岡県北九州市若松区二島4-2-30 筑前国 遠賀郡

大富神社境内社大歳神社 「大歳神 (合祀)御年神 若年神 稻倉魂神 水波賣神」福岡県豊前市大字四郎丸256 豊 前国 上毛郡

大富神社由緒
大富神社の発祥は遠く上古にありと云われまして社記の伝ふる所によりますれば、崇神天皇の御代以前にあり、 爾来御代々の勅願祈祷を修せられた事は枚挙に遑あらず、已に国史にも現れて居りまして、地名旧跡を存し、或 いは諸書に散見することが少なくないのでありまして、今其の大要を掲ぐれば下記の通りであります。
三代実録 貞観二年冬十月三日巳卯、豊前国正六位上大富神に従五位を授く 和漢三才図絵 上毛郡大宮明神は神郷に在りと書いてある。
大宮は大富の誤書であることを古人も已に説明あり て和名抄に山田郷、上身郷とあって上身とは即ち神の同訓なるによって知るべきである。
本社の記録によります と崇神天皇五年戊子年夏四月天疫が流行したので国主が之を患い神官をして当宮に祈祷せしめたところ、疫癘が 止んだと云ひます。
又神功皇后が当社に詣し御斎物を供し三韓降伏の事を祈ったと云口碑も残って居ります。
本 社祭神の由来記によりますと、古時三女神(宗像)が眞早と云う者に乗り移って、我はこれ天神の分身にして、 神明同体なり、此処は南の山の東西に繞る澗水の中に流れて北海に通ずる清浄の地なり、山田の原の頓宮に住む 、速く宝基を建てよ云々 天武天皇白凰元壬申年九月十九日横武行次に神託があって曰く、我は是誉田天皇、垂 仲彦天皇、息長垂姫命、又、表筒男命、中筒男命、底筒男命、斎主神なり、汝、山田原の中津宮に合わせて祭れ 云々 景行天皇十二年壬午秋七月、豊前国に行宮を建てて、岩屋の土ぐもを征伐のとき、勅して本社に平定を祈 らしめ。
土ぐも平ぐや其報賽として付近の里の田地あまたと、神官あまたと、神官数人に種々のものを賜り、是 によって九月九日始めて秋祭りを行った。
成務天皇八年戊寅五月大に旱がして上下宮に雨を祈って霊顕があった  仲哀天皇三年甲戊五月、虫害で五穀の実りもあやうくなったので国主は神官に令して祈らしめたところ、虫が 去って豊年となった、故に神田を加えられた 仁徳天皇六十年壬申三月、当宮の社殿等悉く破壊して神官や巫祝 の雨露をしのぐ処がなくなった。
因て領主は縣に令し衆人と共に材木を集め大工に命じて数カ月を要し、四面丈 余の宮殿二字、並に拝殿、庫蔵、門、廊下等が出来上がった。
 天平十二年九月藤原広嗣が筑紫に叛した時、上 毛郡擬大領紀宇麻呂等が七十人を率いて出陣し、十一月二十三日広嗣が捕らえられ十二月斬に処せらるるや、宇 麻呂等は無事凱旋し、当宮の神威を尊び勢麻呂、膳東人、伎美麻呂、豊石、豊秋山等と議して宮殿及び神門等を 造立し、八尋ケ浜に二丈二尺南面の神輿安置の仮殿を造り、茅輪神術の行法を勤行した。
此時より五郡の郡主は 、上毛郡山田十五町、同郡上多布原五町、下毛郡西宝院五町、築城郡築城五町、中津郡西郷十町五反、京郡郡稲 光十町、計五十町五反の神領六箇所を寄付した 今毎年行わるる四月三十日、五月一日の祭礼に本社から八尋浜 に発輦する御神幸の行列は、宇麻呂等の凱旋を模したものであると云われる。
以上

貴船神社 「高オカ神 闇オカ神 闇水波賣神 (配祀)仁徳天皇 素盞之男命 (合祀)伊勢大神 御年大神」福岡県築上郡 大平村大字下唐原652 豊前国 上毛郡

大歳神社 「大歳神 若歳神 御歳神 宇迦之御魂神」福岡県築上郡大平村大字原井1740 豊前国 上毛郡

英彦山神宮境内社坂本神社 「大年神 御年神 若年神」福岡県田川郡添田町大字英彦山1 豊前国 田川郡

英彦山神宮略誌
御由緒
英彦山は、古来から神の山として信仰されていた霊山で、御祭神が天照大神の御子、天忍穂耳命であるところか ら「日の子の山」即ち「日子山」と呼ばれていました。
嵯峨天皇の弘仁十年(八一九)詔により「日子」の二字を「彦」に改められ、次で、霊元法皇、享保十四年(一 七二九)には、院宣により「英」の一字を賜り「英彦山」と改称され現在に至っています。
英彦山は、中世以降、神の信仰に仏教が習合され、修験道の道場「英彦山権現様」として栄えましたが、明治維 新の神仏分離令により英彦山神社となり、昭和五十年六月二十四日、天皇陛下のお許しを得て、戦後、全国第三 番目の「神宮」に改称され、英彦山神宮になっています。
御神徳
天照大神の御神勅により、この地に降臨された天忍穂耳命は、農業生産の守護神として、また鉱山・工場などの 産業の守護神として崇敬されています。
以上

黒髪神社 「伊邪奈美命 事解命 御年神 大年神」長崎県佐世保市黒髪町2817番地 肥前国 彼杵郡

稲荷神社 「倉稻魂命 和久産靈神 御年神 (合祀)天照皇大神」長崎県北松浦郡世知原町栗迎免字山中278番地  肥前国 松浦郡

年大明神社 「大年神 御年神 若年神」長崎県諌早市大字真崎本村名字北平1163番地 肥前国 高来郡

年神社 「大年神 御年神」長崎県諌早市久山町2271番地 肥前国 高来郡

年神社 「大年神 御年神 若年神」長崎県諌早市上大渡野町46番地 肥前国 高来郡

猛島神社 「五十猛神 大屋津姫神 抓津姫神 (配祀)譽田別命 大綿津見命 天照大日ルメ命 天津兒屋根命 菅原道眞 沫那藝命 沫那美命 國常立命 彌都波能賣命 猿田毘古命 現仁命 多紀理比賣命 狹依比賣命 多紀津毘賣命 奇稻田 比賣命 神速須佐能男命 八男子命 大國主命 大山咋命 八重事代主神 御年神 大年神 若年神 志賀神 猿田彦神 宮 毘神」長崎県島原市宮の町247番地 肥前国 高来郡

猛島神社の由緒
御祭神は、素佐之男尊の御子、五十猛神、大屋津姫神、柧津姫神を配祀する。
日本書紀一書によれば、五十猛神 が新羅から多くの木の種を持って帰り、それを妹の大屋津姫、柧津姫の2神と共に筑紫の国からはじめて全国に 播いて歩かれたという。
元和4年(1618)年、松倉豊後守重政公が、森岳城(現島原城)を築くまで、森岳 大権現として祭っていた。
その創祀は遠く不明であるが、森岳の森は神を祭る木の茂った聖地の意味で、岳は神聖な高地を意味する。
この 聖なる森岳に迎え祭った神は、森信仰の神であることには想像するにかたくない。
森の神は地主神であり、農の 神である。
その神格は周辺の集落を開き造り始めた住民たちの祖霊と習合する民俗信仰にもとづいたものである 。
島原半島を領した松倉重政公が築城するにあたって、森岳大権現を鷹島(今の高島町)に移し鷹島大権現と改 めた。
さらに寛永2(1625)年に森岳城の鬼門にあたる現在地に神苑を営み社殿を新たに設け遷座した。
そ れから高力氏をへて、延宝3(1675)年8月15日に松平忠房公は社殿を改造したのを機に、かねて考証さ せていた、侍講の伊藤栄治の説を採用して猛島大明神と改めた。
その祭神論は猛島社本記に詳しいが、旧社地の 鷹島は五十猛神に由来すると推論し、木の神、有功の神であると考証した。
伊藤栄治の祭神考の正否はとにかく として、島原の鎮守の神として古くから信仰され、住民に崇敬されていたことは疑いのないことである。
森岳域 の守護神島原城下の氏神、島原領民の総社、島原半島を代表する神社として昭和58年に360年祭も行った。
不知火燃える有明海に臨む聖地は、森岳に再建された島原城を指呼の間に眺め、在りし日の森岳大明神の歴史を 偲ばせ、背後に眉山の優姿、はるかに雲仙岳の霊峰を仰ぐ。
神苑は広荘、白鳥の浮く御手洗池には、神さびた老 松が影をうつし、磯辺に寄する白波のさざめき、そよ吹く松風の音は悠久の歴史をささやき、社殿の荘麗と古雅 とあいまって、森厳きまわりなく、おのずから、鎮守の森にふさわしい霊気をただよわせている。
以上

河尻神宮境内社年神社 「大年神 御年神 若年神 (合祀)沖津彦神 沖津姫神」熊本県熊本市八幡町241 肥後国 飽田郡

河尻神宮
由緒略記
人皇59代醍醐天皇第二の皇子西宮左大臣高明卿8代の孫河尻三郎実明卿の創立なり卿恒に相州鎌倉鶴ケ岡八幡宮 を尊崇せられたるを以て建久7年丙辰11月河尻荘小岩瀬の里に社殿を造営し御分霊を乞はれ同8年11月初卯 の日を以て勧請す相殿には天照皇大神住吉大神春日大神阿蘇大神合祀す中世に至りて若宮五社大明神と称し河尻 荘一円1町87ヶ村の総氏神とし社領33町歩を附せり応永27年実明の孫河尻実照没落より漸以衰微に属した れども加藤清正朝臣の領国となるや天正14年現今の地に社殿造営に着手し同15年に到て落成す依て遷座す時 に清正朝臣自ら群臣及村民を率いを隆盛なる祭式を挙行せられ流鏑馬式風流舞式能式獅子舞傘鉾相撲の儀式の行 はる寛永9年細川忠利卿領国となるや卿は清正朝臣の遺例を襲き役人出張護衛せられたり又1町87ケ村の郡司大 荘屋は氏子村民を引率して参拝し竟りて神酒並守礼授与式等渾にて古格を守り河尻氏創立の古式に基けり然るに 維新以来郷社に列したるが明治31年11月県社に昇格す今日も尚氏子並近郷の信仰特に厚く古式による荘厳な る祭式が行はれる
以上

河尻神宮境内社年祢神社 「御歳神 大歳神 若歳神」熊本県熊本市八幡町241 肥後国 飽田郡

河尻神宮境内社年神社 「大歳神 若歳神 御歳神」熊本県熊本市八幡町241 肥後国 飽田郡

河尻神宮境内社年神社 「大年神 御年神 (合祀)事代主神」熊本県熊本市八幡町241 肥後国 飽田郡

河尻神宮境内社年神社 「大年神 御年神」熊本県熊本市八幡町241 肥後国 飽田郡

河尻神宮境内社惟重神社 「大年神 御年神 (合祀)沖津彦神 沖津姫神 」熊本県熊本市八幡町241 肥後国 飽田 郡

河尻神宮境内社年神社
 「大年神 御年神 (合祀)沖津彦神 沖津姫神」熊本県熊本市八幡町241 肥後国 飽田郡


河尻神宮境内社年神社 「大年神 御年神」熊本県熊本市八幡町241 肥後国 飽田郡

河尻神宮境内社年神社 「大歳神 若歳神 御歳神」熊本県熊本市八幡町241 肥後国 飽田郡

年神社 「大歳神 若歳神 御歳神」熊本県熊本市会富町1562 肥後国 飽田郡

田迎神社 「八井耳玉命 (配祀)蒲池比当ス 沖津彦命 沖津姫命 大年神 御年神」熊本県熊本市田迎2-7-38 肥後 国 詫間郡

貞享元年9月禅林寺境内(現在地)に甲佐宮の御分霊を勧請し、阿蘇甲佐大明神と称え奉り、里人の信仰厚く、 明治になって禅林寺は廃寺となり、田迎神社と改称して田迎地区の氏神となる。
以上

石原年穂神社 「大年神 (配祀)御年神」熊本県熊本市石原町464 肥後国 詫間郡

笛田神社境内社年神(森)「(合祀)大年神 御年神 」熊本県熊本市御幸笛田町2180 肥後国 詫間郡

由緒略記
欽明天皇のころ、笛田村の中園というところで笛をたしなみたもう神がありました。
里人に申されるには、「我 は、神倭伊波礼毘古尊の皇子神八井耳命なり、我を斎まつれば里人を守護すべし。
」と、手にもたれた笛を投げ られ、その笛が、北田(現在の神社境内)にとどまりました。
里人は、ここに神殿を造り、笛を御神体としてお祭りし、笛田大明神と称しました。
祭式は、旧歴9月19日、中園まで往時御神幸があり御幸所とよびました。
当時は社司神楽人など10人以上奉 仕し、神事が厳かに行われました。
流鏑馬の祭式もあり御供田、流鏑田、鏡餅田、土器田などをもち、近郷十数 ヶ村の産土神として、人々の崇敬をうけていましたが、天正年間に肥後の守となった佐々成政が神社領を没収し ようとして神殿に放火しました。
その後、加藤清正が肥後の国守となり入国後社殿を再興し、祭式も執り行われ るようになり今日に到っています。
以上

笛田神社境内社年神森 「(合祀)大年神 御年神 」熊本県熊本市御幸笛田町2180 肥後国 詫間郡

由緒略記
欽明天皇のころ、笛田村の中園というところで笛をたしなみたもう神がありました。
里人に申されるには、「我 は、神倭伊波礼毘古尊の皇子神八井耳命なり、我を斎まつれば里人を守護すべし。
」と、手にもたれた笛を投げ られ、その笛が、北田(現在の神社境内)にとどまりました。
里人は、ここに神殿を造り、笛を御神体としてお祭りし、笛田大明神と称しました。
祭式は、旧歴9月19日、中園まで往時御神幸があり御幸所とよびました。
当時は社司神楽人など10人以上奉 仕し、神事が厳かに行われました。
流鏑馬の祭式もあり御供田、流鏑田、鏡餅田、土器田などをもち、近郷十数 ヶ村の産土神として、人々の崇敬をうけていましたが、天正年間に肥後の守となった佐々成政が神社領を没収し ようとして神殿に放火しました。
その後、加藤清正が肥後の国守となり入国後社殿を再興し、祭式も執り行われ るようになり今日に到っています。
以上

新開大神宮境内社鵜森年神社 「御年神」 熊本県熊本市内田町字伊勢兎1266 肥後国 飽田郡

新開大神宮
由緒
元中の昔、太田黒孫七郎(菊池第6代隆直の御裔にして藤原清澄とも言う)により人皇第102代後花園天皇、 文安2年3月21日伊勢神宮の御神勅を賜わり当地に鎮祭す。
御鎮祭の当時、領主菊池持朝朝臣より数町の神田 (今に伊勢免という)の寄進あり、その後熊本城主佐々成正により社殿は焼き払われ、神宝神器、神領等悉く没 収され社伝記録等皆炎上す。
(炎上月日不詳)
慶長年間にいたり加藤清正公熊本築城の際,城材の一部を宮材に充て当宮を再建され、たびたび参詣された。
( 参詣の道程として伊勢道が今に伝えられている)続いて細川氏に至り越中守宣紀公は神田1丁7反3畝を寄進さ れ、自筆の鶏の絵を賜い更に竜の絵を額面とし、また新しく打たせた白鞘に太刀一振をいずれも奉納された。
慶 応2年には恐くも有栖川宮織仁親王、同三品宮師親王により御名礼に金幣を添えさせられ、密かに御名代として 永沼英之助を差し遣わされ、王政復古の大典速やかに成就すべく、続いて外夷掃攘の大業遂げさせ賜うべく時の 祠官太田黒伊勢守直頼に御祈祷仰せつけられた。
幕末から明治初年にかけて肥後勤皇の祖林桜園大人を始め、そ の門弟の尊崇きわめて厚く、神風連首領太田黒伴雄(太田黒第17代)が同志野口満雄、飯田和平と共に奉仕し た社である。
現在の神殿は明治14年の建築であり、拝殿は文久2年の建築で昭和22年に屋根替えしたものである。
例祭日 は秋10月16日春3月26日にして春秋2季の盛事と成す。
以上

新開大神宮境内社上内田年神社 「御年神」 熊本県熊本市内田町字伊勢兎1266 肥後国 飽田郡

新開大神宮境内社下沖年神社 「御年神」 熊本県熊本市内田町字伊勢兎1266 肥後国 飽田郡

田上神社境内社年神社 「大年神 御年神」熊本県熊本市硯川町364 肥後国 飽田郡

疋野神社境内社池田神社 「御年神」 熊本県玉名市立願寺457 肥後国 玉名郡

疋野神社
疋野神社は2000の歴史を持つ由緒深い神社です。
県内最古の国史現在社である。
六国史「続日本後記」に官社(官弊社)列格の年月日が銘記されている由緒格式高い神社である。
(承和7年7 月27日官社列格) 貴重な式内社である
平安時代の「延喜式」神明帳記載の神社を式内社という。
日本で当時、特に著名であった神社を記載する。
熊本 県では現存三社のみ。
玉名郡市では当社のみ。
(現在熊本県神社総数約3200社、玉名郡市約430社)
玉名地方最高の旧県社である。
明治初年、玉名郡市唯一最高の県社となる。
疋野長者伝説ゆかりの神社である。
境内地に長者の御神陵があり、古くより、特に縁結び、商売繁盛、開運招福を願う参拝者が多い。
すばらしい御社殿と県下にほこる大鳥居
現在の御社殿は、肥後藩主細川綱利公の御造営で、すでに300年を経る。
参道正面には天をつくような堂々た る純白の大鳥居がそびえたつ。
春の桜、秋の紅葉も見事である。
以上

高野菅原神社境内社年の神社 「大年神 御年神」熊本県玉名郡菊水町高野1835 肥後国 玉名郡

焼米熊野座神社 「伊弉諾尊 伊弉冉尊 大年神 (配祀)速玉男尊 事解男尊 御年神」熊本県玉名郡菊水町焼米384  肥後国 玉名郡

小天少彦名命神社 「少彦名命 (配祀)大國主命 御年神」熊本県玉名郡天水町小天1154 肥後国 玉名郡

火の神祭りについて
由来
和銅6年11月国司筑後守兼肥後守贈従四位下道公首名勧請するところである。
その根元を委曲尋ぬれば、和銅 六年秋の末より筑後肥後に疫病流行し、人民の死亡夥しく時も時、道公首名初めて赴任し来りこの天災に逢い、 日夜憂慮百方手を尽し療養せしめたが、さらにその甲斐なく10月末に至れば痛哭の声道路に喧しく死亡国人の 半ばを過ぎ二国の社寺に祈ること既に久しかったが、さらにその験がなかった。
時に首名古典を閲し神武崇神の 二帝が神教を乞い給うた跡を踏んで潔斎して神勅を待ち、その夜御神託あり、教えて曰く「汝自ら吾二神を祭ら ば流行病を治むべし。
肥後国土車荘の山下にて白浪打寄する清地に祭場を定むべし。
大国主神少彦名神なり」と 。
首名は敬って神勅を奉じ早速車荘を尋ねたら今の小天村の地である。
当時人家なく峨々たる大山の麓にて白浪岸を洗い誠に神祭最上の土地であった。
そこで海辺に社殿を設け神壇を 築き11月朔日自ら神祭をなした。
柊の枝を刺立て少彦名神の神籬とし、椎の枝を刺立て大国主神の神籬とし七 日の間山海の美物を献じ祈願したがその験がない。
ここに於て首名大いに奮激し壇前に大小木を剪積せしむるこ と高さ一丈、四方一丈にして七日の夜火を放ち大いに庭火を焼き更に誓って曰く「皇国は神国にして神威赫々人 民を護るといえり、然るに斯くの如き災害ありて祈るも験なきは古伝はいつわり訛にて神世の神も名のみなるか 吾二国の守として初めて任に来る時此の災あるは吾不徳のいたすところか、願わくば光日教うる所の二神実に神 威ありて民の病苦を救い給う力あらば吾此の火中を渡るに焼くることなかるべし。
吾祈る事叶わず皇国神明なければせんかたなし。
眼前民の死を見るに忍びず此の火中に死なん」と祈る時は正に 鶏鳴頃であるそこで神壇を禮拝しその火中をを渡った。
傍らに居た官吏も跡に随い渡った。
首名又引き返して渡 れば官吏も亦随った。
このようにすること三度に及んだがさらに火に焼けることが無かった。
ここに於いて首名 は神光赫躍たるを感じ、前日告ぐる所の神託があって曰く「汝が祈る所深切なり、二国の苦病を救うべし。
又吾 二神長く此地に住みて二国を護らん、一社を営築、今汝が誓いになせる所の庭火を焼き、其火中を渡を以て永年 の祭式とせよ、神威を無窮に人に示さん」と。
首名は大いに歓び、二国の病人を検したところ夢のさめたように治まっていた 。
そこで則奏聞き遂げ社殿の営築 を始め、翌年八月成就し五穀成就を祈るため神慮を伺い、御年神を合せ祭って、二国の守護神と崇敬した。
さて今日に至るまで、高さ一丈、四方一丈に大小木を積み立て、庭木を焼き、その火中を渡るを以て祭式とし、 毎年大陰十一月七日を例祭日とした。
陽暦に改まった後は神慮を伺い地方官の許可を得て十二月七日を祭日と定 め右の火渡りの式を行って来たが、更に明治33年祭典一時変更となり、新暦十月十五にちを例祭として年々行 い来たり、一年不欠の神事である。
以上

板楠熊野座神社 「伊邪那美尊 事解男命 速玉男命 御年神」熊本県玉名郡三加和町板楠3340 肥後国 玉名郡
広住年神社 「大年神 御年神 健磐龍神 (配祀)武甕槌神 經津主神 天兒屋根神 倉稻魂神」熊本県鹿本郡植木町 広住899 肥後国 山本郡

由緒創立不祥。
以上

仁王堂日吉神社 「大己貴命 國常立命 正哉吾勝命 國狹槌命 伊弉諾命 迩迩杵命 惶根命 (合祀)菅原道眞 水波 能女神 若年神 御年神 大山祇神 鵜葺草葺不合命 仁徳天皇」熊本県鹿本郡鹿央町仁王堂71 肥後国 山本郡

仁王堂日吉神社御由緒
明徳二年四月創立と伝える。
明治四十一年十月菅原神社を合併。
同四十二年四月水神社、年神社、山神社を合併 。
以上

中浦菅原神社 「菅原道眞 (合祀)天之御中主神 若年神 御年神」熊本県鹿本郡鹿央町中浦1312 肥後国 山本郡
元文二年創立。
明治四十二年五月打越神社、年神社を合併。
以上

年祢神社 「國龍神 大年神 御年神 若年神」熊本県鹿本郡菊鹿町五郎丸76 肥後国 山鹿郡

乙宮神社境内社年神社 「御年神」 熊本県阿蘇郡産山村2241 肥後国 阿蘇郡

貝洲加藤神社境内社社日さん 「御年大神」 熊本県八代郡鏡町貝洲699 肥後国 八代郡

貝洲加藤神社由緒略記
通称清正公さんの名で親しまれている我が氏神様は、永禄五年(一五六二年)〜慶長十六年(一六一一年)に活 躍された安土桃山時代の武将である。
生まれは尾張(今の愛知県)愛智郡中村であり幼名を虎之助と呼ばれ、幼少の頃より福島正則と共に豊臣秀吉に 仕え、数々の戦功をあげられる。
天正十六年(一五八八年)に肥後の半国を与えられて熊本城主となられる。
その後も文禄、慶長の役(特に蔚山の戦いが有名)等で戦功をあげられ、関ヶ原の戦いでは徳川方に属され肥後 一国五十四万国の城主となられた後にも、秀吉公の旧恩を忘れず豊臣家との関係を断たれなかった。
また、清正公は武勲の誉れだけではなく、更に築城、治水、干拓の名手としても名高い。
特に一六〇一年の熊本城の築城、名護屋城設計はその代表である。
一、御鎮座由来
本社は、飽田郡五町手永鹿子木村の庄屋の家に生まれた鹿子木量平翁が、文化一年(一八〇四年)に野津惣庄屋 に着任されるや、此の地が「御国一の貧地」と云われるのが土地の八分どおりが湿沢田が原因であると知り、新 地びらきを計画し、その当時既に崇敬する清正公の新地築造や灌漑水利の工事等を研究し、「藤公遺業記」や「 水理考」を著わしていた翁が、祈願報賽したに端を発する。
量平翁は文化二年(一八〇五年)に百町新地を、文 政一年(一八一八年)に四百町新地を、更に文政五年(一八二二年)に七百町新地の干拓の始めにあたり、おれ ぞれに清正公に伺いをたて許しを得て、無事大願成就の折りには此の三大新地の氏神さまとして勧請し永世に御 祀り申し上げる誓いをたて工事に取りかかる。
文政五年(一八二二年)に無事完成した事を喜び、同年九月二十四日に本妙寺の渓玉院日■上人以下僧や信者数 十名に守られて、神輿を奉じて神殿に御鎮まりになった。
境内地はその頃新しく社寺を建てる事は禁止されていたので、藩主細川斉茲公の特別御許しにより、「侍屋敷の 鎮守」の邸内産土神として勧請されたが、明治三年(一八七〇年)六月二十四日唯一神社祭祀になり村社に列せ られ、今までの社僧に替わり明治九年(一八七六年)始めて祠掌を置く。
大正十三年(一九二四年)には御鎮座百年祭を奉祝し、神殿、拝殿を現在の形に改築し、その御神徳は益々氏子 崇敬者の崇拝の念を集め現在に至る。
以上

歳神社 「御年神」 熊本県葦北郡芦北町吉尾845 肥後国 蘆北郡

一武八幡宮境内社年神社 「年神」 熊本県球磨郡錦町一武1202 肥後国 球麻郡

京都石清水八幡宮同体を勧請した宮であるが、創立年代は不詳である。
昭和5年時の御大典を記念して現社殿と なる。
神社は高台に位置し、神々しき境地である。
以上

伊邪那岐神社境内社大御年神社 「御年神 大年神」熊本県天草郡苓北町上津深江599 肥後国 天草郡

冨貴社 「大年神 若年神 御年神 素盞嗚尊 稚産靈命 奇稻田姫命 保食神 (合祀)伊邪那岐命 天照皇大日靈貴命 五十猛命 伊邪那美命 月讀命 仁徳天皇 高オカ神 大山祇神 木花開耶姫命 闇オカ神 罔象女命 金山彦命 嚴嶋姫命」 大分県豊後高田市大字蕗2201番地 豊後国 国東郡

大年社 「大年神 御年神 若年神 大己貴命 崇徳天皇 大地主命 埴安姫命 大山祇命 木花咲耶姫命 高オカ神 吉備 聖靈 平景清 彌都波能賣神 菅原大神」大分県豊後高田市大字池部2020番地 豊後国 国東郡

歳神社 「活津彦根命 天照皇大神 月讀神 保食神 大己貴命 市杵嶋姫命 歳大神 天忍穗耳命 素盞嗚命 田心姫命 活津姫命 織津姫命」大分県西国東郡大田村大字俣水1524番地 豊後国 国東郡

大歳神社 「大歳神 御歳神 若年神 奧津姫神 奧津彦神 大己貴神」大分県東国東郡安岐町大字中園765番地 豊 後国 国東郡

年神社 「大年神 若年神 御年神」大分県東国東郡武蔵町大字古市1068番地 豊後国 国東郡

大歳社 「大歳神 御年神 若年神」大分県東国東郡武蔵町大字丸小野456番地 豊後国 国東郡

大年社 「大年神 若年神 御年神」大分県東国東郡武蔵町大字池ノ内403番地 豊後国 国東郡

横手神社 「大歳神 御歳神 若歳神 火産靈神 市杵嶋比賣命 多紀理毘賣命 多岐津比賣命」大分県東国東郡国東 町大字横手2622番地 豊後国 国東郡

熊野社境内社妙見社 「御歳神 若歳神」大分県東国東郡国東町大字岩屋2342番地 豊後国 国東郡

歳神社 「大歳神 御歳神 若歳神」大分県東国東郡国東町大字中田1996番地 豊後国 国東郡

年神社 「稻田姫命 大年神 御年神」大分県東国東郡国東町大字富来浦79番地 豊後国 国東郡

稲田姫神社 「稻田姫命 大年神 御年神」大分県東国東郡国東町大字東堅来178番地 豊後国 国東郡

臼杵神社 「大年神 御年神」大分県東国東郡国見町大字千燈1378番地の2 豊後国 国東郡

山神社境内社年殿宮 「大年神 御年神」大分県東国東郡安岐町大字矢川1098番地 豊後国 国東郡

歳神社 「大歳神 御歳神 若歳神」大分県東国東郡国見町大字大熊毛2906番地 豊後国 国東郡

歳神社 「大年神 御年神」大分県速見郡日出町大字真奈井2184番地 豊後国 速見郡

寶財神社境内社年神社 「大年神 御年神 若年神」大分県杵築市大字片野87番地 豊後国 速見郡

金部神社 「大年神 御年神」大分県速見郡日出町大字大神1829番地 豊後国 速見郡

青莚神社 「大年神 御年神 若年神」大分県杵築市大字杵築15番地の28 豊後国 速見郡

年神社 「大年神 若年神 御年神」大分県杵築市大字熊野4812番地 豊後国 速見郡

早吸日女神社境内社歳神社 「大歳神 御歳神」大分県北海部郡佐賀関町大字関3329番地 豊後国 海部郡

近衛天皇久安元年、神像が海中より出現の奇瑞があり、これを奉斎したのが起源。
のち旧社地古浜より現社地に遷座、社地を拡張した。
以来崇敬を集めて今日に至る。
昭和十一年に郷社に列した。
以上

荒歳神社 「御年神 宇賀御魂神」大分県南海部郡弥生町大字門田1972番地 豊後国 海部郡

山王社 「大山祇命 大名持命 猿田彦命 少名彦命 天照皇大神 素盞嗚尊 天穗日命 菅原神 宇賀魂神 豐受姫神 御年神 崇徳天皇」大分県南海部郡弥生町大字上小倉770番地 豊後国 海部郡

年神社 「大年神 御年神 若年神」大分県大野郡三重町大字秋葉1383番地 豊後国 大野郡

天満社 「菅原道眞 倉稻魂命 御歳大神 仁徳天皇」大分県直入郡荻町大字恵良原2223番地 豊後国 直入郡

天満神社 「菅原神 (合祀)崇徳天皇 大歳神 御歳神 若歳神 中津少童命 市杵嶋姫命」大分県直入郡直入町大字 上田北2453番地 豊後国 直入郡

八幡神社 「應神天皇 (合祀)倉稻魂命 保食神 大物主命 崇徳天皇 高産靈神 菅原神 大歳神 若歳神 御歳神 天 御中主命」大分県直入郡直入町大字上田北4071番地 豊後国 直入郡

萬神社 「天御中主神 (合祀)大直日神 神直日神 菅原道眞 大山祇命 大山祇命 大物主命 崇徳天皇 大年命 御年 命 若年命 伊邪那伎命」大分県直入郡直入町大字下田北4478番地 豊後国 直入郡

山神社 「大山祇命 伊弉諾命 伊弉冉命 菅原道眞 大己貴命 少彦名命 御歳大神」大分県竹田市大字川床1098番 地 豊後国 直入郡

天満社 「菅原道眞 大山祇命 少彦名命 御歳大神」大分県直入郡荻町大字馬背野690番地の2 豊後国 直入郡


年神社 「大年神 御年神」大分県日田郡天瀬町大字馬原2787番地 豊後国 日田郡

津江神社 「國常立尊 國狹槌尊 豐雲渟尊 泥土煮尊 沙土煮尊 大戸道尊 大戸邊尊 面足尊 惶根尊 伊弉渚尊 伊 弉册尊 天照皇大神 瓊瓊杵尊 彦火火出見尊 鵜草葺不合尊 大歳神 御年神 (配祀)吉祥姫神」大分県日田郡上津江 村大字川原字年ノ神4175番地 豊後国 日田郡

箭山神社 「神功皇后 應神天皇 比賣神 (合祀)天之御中主神 大山祇神 高オカ神 闇オカ神 闇水象神 和氣清麿 伊弉 諾尊 事代主命 天照大神 保食神 菅原道眞 新田義氏 大年神 御年神 若年神 市杵嶋姫命」大分県下毛郡三光村大 字田口3567番地 豊前国 下毛郡

御祖神社境内社大歳祇園神社 「大歳神 (配祀)御歳神 若歳神 須佐之男神 稻田姫命 倉稻神 武雷槌神」 配祀  御歳神 大分県下毛郡本耶馬渓町大字落合914番地 豊前国 下毛郡

西秣神社 「高オカ神 闇オカ神 闇水波神 若歳神 御歳神 (合祀)菅原神 大歳神 天照大御神 事代主神」大分県下毛 郡三光村大字西秣1239番地 豊前国 下毛郡

大歳御祖神社 「大年神 御年神 若年神 大己貴神」大分県下毛郡山国町大字守実13番地 豊前国 下毛郡

歳神社 「大歳神 御歳神 若歳神」大分県下毛郡本耶馬渓町大字折元178番地 豊前国 下毛郡

山神社境内社宮地嶽神社 「大歳神 御歳神 (合祀)宮地嶽二柱神」大分県下毛郡本耶馬渓町大字西谷4443番地  豊前国 下毛郡

大歳神社 「大歳神 (配祀)御年神 若年神」大分県下毛郡耶馬渓町大字冠石野262番地 豊前国 下毛郡

大歳神社境内社久留宮 「御年神 若年神」大分県下毛郡耶馬渓町大字冠石野262番地 豊前国 下毛郡

年殿神社 「大年神 御年神 若年神」大分県下毛郡山国町大字中摩4763番地 豊前国 下毛郡

歳神社 「大年神 御年神 若年神 阿須波神 波比岐神」大分県宇佐市大字今成139番地 豊前国 宇佐郡

熊野神社 「伊弉册命 速玉男命 事解男命 (配祀)大年神 御年神 (合祀)高オカ神 闇オカ神 闇罔象神」大分県宇佐市 大字木部1134番地 豊前国 宇佐郡

大年神社 「大年神 御年神 若年神 (合祀)大山祇命 高オカ神 菅原神」大分県宇佐郡安心院町大字山蔵484番地  豊前国 宇佐郡

宇奈岐日女神社境内社御年の社 「御年神」 大分県大分郡湯布院町大字川上2220番地 豊後国 速見郡

宇奈岐日女神社
鎮座地
大分郡湯布院町大字川上字六所二二二〇番地
御祭神
國常立尊
國狭槌尊
彦火火出見尊
彦波瀲武鵜鵜草葺不合命尊
神倭磐余彦尊
神渟名川耳尊
御由緒
創祀は人皇第十二代景行天皇の御宇十二年冬十月。
嘉祥二年(八四九年)六月、「従 位下」(続日本後紀)。
元慶七年(八八三年)九月二日、「正五位下」(三代実録)に叙されている。
延長五年(九二七年)、「延喜式」の「神名帳」に列記された「式内社」である。
明治六年郷社、大正十二年県社に列せられた。
以上

天御中主神「 (合祀)菅原道眞 御年神 日本武尊 大年神」大分県大分郡庄内町大字高岡1592番地  豊後国 大分郡

人皇十三代成務天皇御宇、天穂日命影向峯で山頂光輝沖天山谷震揺動鳴入、土民恐怖し望之赫々たる閃光点々と して◎す。
即ち景況に驚愕し挙て集合し終に二月十三日、祭祀の礼を執行す。
明治六癸酉年、郷社に列せられる 。
(注)文中の◎は、「雲」偏に「康」です。
以上

松坂神社境内社年神社 「歳徳神」 大分県大分市上野丘2丁目12番14号 豊後国 大分郡

人皇第二十九代欽明天皇の時(五三九〜五七一年の頃 約一四〇〇年前)、ご創建。
豊後国風土記の史料によると、「当社は由原以前の垂跡也因って茲に国八幡というご神幸の節は国善神王お迎え しとて祓川迄出行成し給う」とあり、最も古い神社である。
古国府と言う北の台地に松坂神社があり、天正の兵 乱に社殿を破壊し原野となる。
その後寛永(一六二四年)の時に改築し、境内に松の樹数百本植え遷宮される。
以上

天満社境内社作ノ神神社 「御年神」 大分県大分市大字家島下村802番地 豊後国 大分郡

神明社 「大日靈命 (配祀)大歳神 倉稻魂命 御歳神 若歳神 天兒屋根命 大山咋命」大分県大分市大字上戸次 4259番地 豊後国 大分郡

金刀比羅社 「大物主神 (合祀)大山祇命 大年神 御年神 若年神 保食神 」大分県大分郡庄内町大字東長宝1419 の1番 豊後国 大分郡

創立・・・文禄二年四月九日
由緒・・・創祀後陽成天皇の御宇文禄二癸未年、三重野又右衞尉秀元、年々鹿猪等出で田畑を悉く荒廃し被害甚 だしく農民の憂苦一方ならず、茲に於て村中不残相談の上空(地名)に新に社殿を造営。
大物主命を勧請し、往 昔より村内に鎮座の歳大明神及古市霊社を合併合祀村内の鎮守とせり。
造営・・・光格天皇寛政五年癸丑、炎上。
翌寛政六年甲寅年三月二十三日、社殿造立。
寛政六年乙卯年三月九日 、神楽殿建立。
孝明天皇慶應元年乙丑年八月吉日、大庄屋三重野辧衛門・藤原秀種願主となり、當社別當十輪院 験随外惣氏子拝殿一宇建立。
明治三十三年十月十九日、許可を得惣氏子西代の地を相して社殿を造営し空より移 転す。
列格・・・明治六年癸酉、村社に列し、櫟木、東長宝、西長宝の總社とす。
明治四十四年四月十日、神饌幣帛供 進指定神社となる。
以上

天神社 「天御中主尊 (合祀)高皇産靈神 天兒屋根命 神産靈神 大年神 御年神 若年神 保食神」大分県大分郡庄 内町大字西長宝1744番地 豊後国 大分郡

創立・・・文化八年辛未三月十八日。
抑々當所久呂殿と申は佐藤元祖此地落着砌勧請いたし、佐藤一門の氏神と 仰ぎ奉る。
同口の内に小市郎殿の右社あり。
同時の勧請なり。
今の氏神歳神は、其の後建立の神社なり。
此の久 呂有殿御本地は大段石にて社檀の下に御座し給ふ。
然るに、慶安元戊子年、府中御城主日根野織部正様長寶水御 普請の節、泥土神前を汚し寶前の神鏡戊亥の方大なる櫻の木に移り給ふ。
人民恐怖悲哀いたし候に付き、御上よ り御祈祷の御祓に奉納神遊候て、本の社に移し奉る。
夫より神社並に鳥居迄御上より御寄附上遊。
以来度々御修 覆被成下置候然處佐藤秀明神社廃壊の砌御窺も不申上修理を加へ候より以来佐藤氏にて修履致来り候。
寶暦の後 、森の樹木放火致し其の節も神鏡未申の方壱丁斗隔りて田の中へ御移り、御座石と申して今田中に存在せり。
以上

年神社 「大年神 (合祀)御年神 若年神 大物主神 菅原神 大山祇神」大分県大分郡庄内町大字檪木571番地 豊 後国 大分郡

創立・・・天文二十年十一月十日
旧社格・・村社
創祀・・・後奈良天皇の御宇天文二十年十一月十日、東間田松長治左衛門祐光の建立する所なり。
造営・・・霊元天皇の御宇天和三癸亥年十一月吉祥日、氏子息災延命悉地成就の為め小野九郎兵衛尉源昭光願主 となり、宮主三重野弥左衛尉藤時貞税・小野久三亟源正次惣氏子中寄進社殿建立。
東山天皇の御宇宝永戊子年十 一月吉祥日、哀悠衆生神恩報謝の意趣を以て三重野與左衛門、源秀澄、小野太右衛門願主となり小野源助源家継 總氏子寄進造営。
光格天皇文化十三丙子年三月、氏子繁栄の為願主庄屋三重野半右衛藤原秀嘉惣氏子中寄進神殿 一宇造立。
列格・・・明治六癸酉年三月十七日村社に列す。
明治四十四年四月、饌幣帛供進神社に指定。
以上

大午社 「椎根津彦命 御年神」大分県大分郡湯布院町大字川南753番地 豊後国 速見郡

歳神社 「大歳神 若歳神 御歳神」大分県別府市大字浜脇1242番地 豊後国 速見郡

勧請年代はわからないが、崇福寺 長覚寺を含めたこあざが(歳ノ神)であり、その古さが証明されている。
昭和二十五(一九五〇)年頃、ホ−ムレスの焚き火が元で神楽殿が消失し、復旧されてない。
御神木であった椋(樹齢五〇〇年)の切株は昭和六〇年頃の落雷により倒れた。
約四四〇年前の二回崩れの変、天正十九(一五五〇)年二月十日の若き大友宗麟を身近に知っている椋ノ木とい える。
以上。


大塚神社境内社御年神社 「奧津御年神」 宮崎県宮崎市大塚町原ノ前1598 日向国 宮崎郡

大塚神社縁起
神社は第五十五代文徳天皇の御代斉衡年間に宇佐神宮の御分霊を勧請し、其の後第九十代亀山天皇の文永元年藤 原祐時が社殿を再興した。
其の後文禄三年、慶安元年、寛文七年、宝暦二年、安永九年、文化十二年、嘉永四年 、明治二十一年と大小の修理を重ね、現社殿は昭和五十九年に造営されたものである。
ご祭神
品佗和気命(応神天皇)
息長帯姫命(神功皇后)
玉依姫命
以上

加江田神社境内社御年神社 「大年大神 御年大神 若年大神」宮崎県宮崎市大字加江田402 日向国 那珂郡

加江田神社御由緒
大字加江田、大字鏡洲地区の氏神(産土神)。
旧郷社
寛文二年の外所大地震によって、加江田の中程の元伊勢に祀られていたこの神社は、まさに海中に陥ろうとした ので、河野某(河野哲雄の先祖)が、ご神体を奉じ一時上加江田中原の仮宮に祀り、翌寛文三年に現在の地に鎮 座された。
飫肥藩時代は代々の藩主の崇敬厚く、社禄を給し、鳥居等の寄進がなされている。
戦前まではお伊勢 様と称していた。
境内地3234u、周囲は巨杉の鎮守の森を形成。
境内の杉林は名木の指定を受けている。
以上

八幡神社 「足仲彦天皇 息氣長足姫命 御年大神」宮崎県宮崎市大字島之内7599 日向国 宮崎郡

社蔵の由緒によれば、筑前筥崎宮より勧請、解除崎八幡と称していたと伝える。
往時は那珂郡広原120町の大 地主神として尊敬され、領主よりは10石の社領が寄進されていた。
また、『宇佐大鏡』によれば、永保三年( 1083)宇佐神宮領として広原荘が設置されたことから、宇佐八幡を勧請したのが起源ではないかとも思われ る。
当時広原八幡と称されたと伝えている。
慶長五年(1600)伊東島津両氏の戦乱により、社殿財宝ことごとく烏有に帰し古文書等も焼失した。
江戸期 西海大地震後、寛文四年(1664年)十一月再興の記録がある。
紀元書によれば応神天皇は仲哀天皇神功皇后 の第四子に当られ、御年4才にして皇太子になられたが、父天皇早逝のため母后摂政の間老臣武内宿禰がこれを 補佐して政務をとったと伝える。
この故事から、古来幼童の守神、特に痴痢止、七五三の守神として御神徳高く 広く信仰を集めている。
以上

御年神社 「大年神 御年神」宮崎県都城市豊満町1866 日向国 諸県郡

串間神社 「彦火火出見尊 杖立大明神 (配祀)女躰大明神 神花大明神 初熊大明神 泊柱大明神 勿體大明神 聖大 明神 兒之御前 歳大明神 篠大明神 上津杖大明神 下津杖大明神」宮崎県串間市大字串間1410 日向国 那珂郡
御祭神と由緒
彦火火出見尊を主祭神として外に十二柱の神々を祀るので十三所大明神と称していた。
山幸彦と呼ばれる主祭神 が猪・雉などの獲物の多いこの地を狩場として笠狭の宮から通われた仮宮所で、穂KUSI宮と称し、その宮跡を斎 きまつったと「神名録」はつたえている。
「高鍋藩寺社帳」によると桓武天皇の時に平安京の朱雀院に鎮座し、その後順徳天皇の時に当地に安置したとも いうが詳細はわからない。
永保六年(一五六三)領主島津忠親の奏請により神階宣下勅額を賜り、以後藩主、世々、福島総社として尊崇さ れた。
正平十四年(一三五九)には野辺盛房が十三所大明神の社殿を再興されたことが記録されており、その後 、応仁元年(一四六七)には島津立久、永正十二年(一五一五)、天文十三年(一五四四)と相次いで島津氏が 再興、秋月領となっても元和七年(一六二一)から慶応二年(一八六六)まで再興が続いている。
而して明治維新後は専ら福島、北方、大東、都井、市木六ケ町村の氏神として維持運営された。
明治五年(一八 七二)都城県管轄中、神社改革の際、串間神社と改称し郷社に列せらる。
明治四十年旧六ケ町村の出資により社 殿を改築されたが、老朽化し損傷が著しく御接遇出来得ない状態にあり、時あたかも平成元年が串間市制三十五 年の記念すべき年を迎えるにあたり、奉祝記念事業として、昭和六十三年六月改築奉賛会を設立し、平成元年六 月工事に着工、同年十月竣工をなし、農業の神、安産の神、学問の神、商工の神として、多くの崇敬を受けてい る。
以上
(注)文中のKUSIは、「木」偏に「患」です。


御年神社 「大年神 御年神 (合祀)應神天皇」宮崎県えびの市大字西郷1217 日向国 諸県郡

御年神社 「大年神 御年神 若年神」宮崎県東諸県郡国富町大字向高175 日向国 諸県郡

平田神社 「日本武命 御歳神 (合祀)速玉男神 事解男神 菊理比賣神 菅原道眞 瓊瓊杵尊 」宮崎県児湯郡川南町 大字平田1924 日向国 児湯郡

創立年代は不祥なるも古老の口碑によると日本武尊熊襲征伐の為西下されし時、幣田川(現平田川)河口の伊倉 より御舟にて川を上られ川岸の年の森に舟を寄せ給い、現社地の東南の高台(現在も濠跡が存す)の御山に宮居 を定め暫しこの地に留まられ熊襲岨征伐の後再び立ち寄られた。
後の世仁徳天皇の御宇(西暦三百年代)人々は 尊の高徳を慕い、御遺蹟を讃え、宮居の地に向こうて現社地に神殿を建立し、尊を祭神として創始せりと云う。
以前は由緒記古文書等ありしも天正年間(一五七三〜一五九一)大友宗麟この地に乱入せし際、兵火に遭い神殿 及び古文書等焼失せり。
棟札に「奉再興平田大明神一宇文録三年(一五九四)甲午十一月二十五日再興」と記録 あり。
足利将軍義政の時(一四三六〜一四九〇)伊東氏より神領三百石を寄進さる。
現今祭田という地名の田地 あり。
高鍋藩主秋月公に至り神領二石社殿の修理その他祭具等一切の寄進あり。
祭礼には御直参又代参され崇敬 厚きものであった。
明治四年郷社に列せられる。
明治四十三年末社(祭神大年神)熊野神社(祭神速玉男神・事 解男神・菊理比売神)菅原神社(祭神菅原道真公)霧島神社(祭神瓊々杵尊)四社を合祀する。
創始よりこの方 平田郷の氏子より産土神(守護神)の社として崇敬される。
以上

御年神社 「御歳大神」 宮崎県児湯郡川南町大字川南16983 日向国 児湯郡

御年神社 「御歳神」 宮崎県児湯郡川南町大字川南16146 日向国 児湯郡

川南神社 「伊邪那岐命 (合祀)御年神」宮崎県児湯郡川南町大字川南5278 日向国 児湯郡

山神社 「彦火迩迩杵命 大山祇命 御年神」宮崎県児湯郡川南町大字川南6077 日向国 児湯郡

霧島稲荷神社 「迩迩杵命 宇迦魂命 須佐之男命 (合祀)御年神」宮崎県児湯郡川南町大字川南4563-3 日向国 児湯郡

大年神社 「大年神 稻田姫命 (合祀)御年神 若年神 禎嘉王妃」宮崎県児湯郡高鍋町大字持田3762-1 日向国 児 湯郡

美年神社 「美年神 若年神」宮崎県児湯郡高鍋町大字持田426 日向国 児湯郡

桂神社 「品陀和氣命 大鷦鷯命 息長足姫命 天津久米命 菅原道眞 (合祀)大年神 若年神 御年命 天之御中主命 大普日命 國予女命 猿田彦命 天堪野命」宮崎県東臼杵郡諸塚村大字七ツ山2039-2040 日向国 臼杵郡

由緒及び沿革については明らかでないが、古文書及び古老の伝えに依れば、当初は享保九年(一七二四)十二月 十日守護所として甲斐掃部重氏の祈請するところという。
森山の山中に天神社一宇を創建し、秋季大会に奉納さ れる臼太鼓踊りの行事を観音山広場に於いて氏子が盛大に催されたものであった。
その住民の生活や環境の変化 をきたしたるために、村人相謀り現在地高尾山に遷宮鎮座を招請し、例祭に御神幸巡行その他行事も以前に増し て盛儀になった。
寛政五年(一七九二)十二月当国内藤藩の太守内藤能登守源朝臣政昭正八幡宮社一宇奉祭再建 の棟札があり、領内鎮護殖産文化発展向上を祈願したるもので、以来本村内産土神として氏子中の心の拠り所と して尊敬され、郷内はもとより遠近郷土出身者の崇敬の社である。
以上

柚木野神社 「大山祇神 (合祀)大年神 御年神 若年神 菅原道眞」宮崎県西臼杵郡高千穂町大字上野932 日向国 臼杵郡

御年神社 「御年神」 鹿児島県薩摩郡宮之城町船木729 薩摩国 伊佐郡

日光神社 「撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命 (配祀)豐受毘賣命 天小屋根命 (合祀)太玉命 御年神 須佐之男命 大 己貴神 蛭子命 稻田姫命」鹿児島県曽於郡財部町北俣9260 大隅国 囎唹郡

由緒 和銅三庚戌年(西暦710年)京都の神主庶子鴨頼長伊勢大神宮と加茂上下大明神を守り下りて当社を建立し代 々神主となり奉仕す。
住古は有封の大社にて日光神宮と称し禁裏の御官幣武将の御取持ち造営等もあり、明治以降社号を日光神社と改 めらる。
戦前郷社で厄除招福、家内安全、産業繁栄の神、特に武神として霊験あらたかな神として崇敬が高い。
合祀神は夫夫、末社の神々を明治時代合祀す。

大年神社 「大年神 御年神 若年神」鹿児島県肝属郡大根占町馬場2656 大隅国 大隅郡

神奈備にようこそ