橘について

橘の写真 なら橘プロジェクトHPから)

 上記プロジェクトののりうつぎさんから、興福寺南円堂横の橘について、橘ではなく四季橘(カラマンシー)と教えてもらいました。それ以外にも教えて頂いた情報は最後尾に掲載しました。

万葉集
巻六 一〇〇九
 橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の木

巻十八 四〇六三
 常世物この橘のいや照りにわご大王は今も見るごと

菅原伏見東陵宝来山古墳(垂仁陵)の橘
京都御所から持ってきて接ぎ木をした橘



橘寺の橘の大きい木
 



1.常世の神の依り代、橘

 橘は立花で、これは柱などと同じく神の依り代。
 太古よりこの国に自生している常緑樹であり、美しい実と香しいにおい、さらに神の遣いである蝶の幼虫が育つ樹木であり、神の坐す處と世俗とを結ぶものとして尊ばれてきた。
 『日本書紀』の皇極天皇三年(644年)東国の富士川周辺に住んでいた大生部多と云う者が橘の木に育つ蚕に似た虫を常世の神として信仰を広め、これを秦河勝が懲らしめたと云う。
 秦河勝を揶揄しての歌  太秦は神とも神と聞えくる常世の神を打ちきたますも
 尤も、この話には絹織物業の寡占化を目論んでいる秦氏が競合相手をつぶしたお話だったとか、解釈はにぎやか。

 源平藤橘と云う四姓がこの国には多かったそうで、橘は県犬養三千代が功あって橘姓を貰ったとのこと。和銅元年(708)元明天皇の即位の大嘗祭の後の宴会の席上で
 橘は果実の長上、人の好む所なり、霜雪を凌ぎて繁茂し、寒暑を経てしぼまず、珠玉と共に光を競ひ、金銀に交じって美し。
 と云うことで、発足したとか。
 その後、聖武天皇が三千代の子の橘諸兄に与えた歌
 橘は 実さへ 花さへ その葉さへ 枝に霜ふれど いや常葉の樹
と常世が意識されていたようです。



2.海・橘・常世

 常世は海の彼方にあると云う幻想は古来からのものと思います。
 垂仁天皇の時代のこと、天皇は田道間守に命じて、時じくの香の木の実(『日本書紀』では非時香菓)を持ち帰るように常世国に遣わしました。『日本書紀』では「遠往絶域。萬里蹈浪。遥度弱水。是常世國」と表現しており、いかにも海を越えて遠方におもむいたようです。
 『日本書紀』では他にも「少彦名命は大国主命との国作りの後、熊野の御崎から栗茎にのって、はじかれて「常世郷」に至った。」とあり、やはり常世を海上他界としたお話。
 『古事記』黄泉の国から逃げ帰った伊邪那伎大神は『「吾は御身の禊せむ」とのりたまひて、竺紫の日向の橘のの小門の阿波岐原に到りまして、禊ぎ祓へたまひき。』とあり、これも海。

 『海神宮訪問神話の研究』宮島正人著に筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原として、福岡県古賀市青柳の地を比定。立花山があり、その北の尾東山麓に五所八幡宮が鎮座、墨江三前神も祭神になっています。

mapfan五所八幡宮

 立花−橘、尾東−小戸、青柳−阿波岐と対応しており、青柳川から海に出るのに遠くない所。この説は卓見。

 神武天皇の兄の三毛入野命は熊野で、浪の秀を踏んで常世郷に往ったとある。

 ことほど左様に、海、浪と常世、橘とは密接。

 筑紫の日向の比定地
 筑紫の日向の高千穂の久士布流多気などの言葉からも筑紫を表す逆さ枕詞が日向で、単に筑紫を表すとの理解でいいのかも。
 
 さて猿田彦かおぼれたのは伊勢の海。
 垂仁天皇の時代、天照大神は「是の神風の伊勢国は、常世の浪の重浪帰する国なり。」と、当地に鎮座する託宣を出し、伊勢に落ち着いたのが伊勢神宮の創建譚。重浪はシキナミと訓みます。天照大神が常駐することによって、常世となり、神宮は常宮となった。
 伊勢神宮とその禊ぎ場である二見浦との間の伊勢市黒瀬町に橘神社(祭神不詳)が鎮座、ここは浜郷神社(伊勢市通町)の摂社ですが、海上遥かから重浪にのって寄り来る常世の神の依り代の橘が神木であったものと思われます。現在も柑橘類の木が生えているとのこと。

勢田川ウォーキングロードの橘神社・稲荷へリンク

 天神である天照大神は伊勢の国と橘でつながっている。またの橘の小門の阿波岐原では住吉大神も現れている。この神もまた橘を依り代としている。新羅は常世国と見なされていたのであるのは田道間守の祖の天日矛命の国であり、秦氏の祖の国である。神功皇后に新羅の国に行くように託宣する神に、橘で生成したこの二大神が出てくるのである。

青草話 橘と高千穂 
天神の依り代
 タチバナ 筑紫日向小戸橘之檍原 すくっと立った薫り高き実のなる常緑樹
天孫の依り代
 タカチホ 筑紫日向高千穗クシ觸之峯 高く積み上げられた稲穂。



3.山・橘・常世


穴師兵主神社内のタチバナ神社(塙神社に見える・・。)

 山辺の道沿いにみかんの里があります。穴師。ここに鎮座する兵主神社の境内に橘神社(槁神社)があり、御神紋も橘。この橘神社は田道間守を祭神とするとの説があります。神代の話しではありませんが、田道間守も常世の国から帰ってきた神であり、その依り代としての橘があると云うこと。
 天照大神は崇神天皇六年、磯城(シキ)の大殿を出、笠縫邑を起点として巡幸し、ついに重浪(シキナミ)のよせる伊勢国に鎮座。山のシキから海のシキへの巡幸。この物語も神代と人代の混在。但し大三元さん指摘の言語学では重のキは甲類、磯城の城は乙類。 従って、単なるゴロあわせ。

 磯城の大殿は三輪山の麓、志貴御県坐神社の場所に碑が建っており、遠からずの場所。天神が垂直に降臨するのが山の橘であったと云うことが言えそう。

 シキ、常世からの神霊を受ける場所。三輪山は天上の常世からの神霊、伊勢は海上の常世からの神霊、常世=不変と見れば、頑丈な石城も同じで、シキは常世の窓口と言えます。
 倭建命の有名な国思歌が『古事記』にあります。
 倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし
 命の 全けむ人は たたみこも 平群の山の くま白梼が葉を うずに刺せ その子
 「たたみこも」とは重なり合ってと云う意味で、重浪に通じ、これは信貴山として今に残ります。同じように、三輪山の青垣のほうも、「たたなづく」とは重なっているの意で、巻向−三輪の二重の神奈備の地が磯城のようで、どうやらこれが大切なもの。繰り返しとは山でも波でも不死不老の象徴だった。
 塩筒爺は山幸彦を海の常世に、また磐余彦には山の常世の大和を勧めたと言えます。


境内の『歴史街道』による説明碑



4.橘・常世・道教

 飛鳥に橘寺がある。田道間守が持ち帰った橘を植えたとの伝説があり、現に背の高い橘の木があります。実をひとつ頂きましたが、やはりすっぱい味。なおここの橘の実は春になると落ちてしまうとのことです。


聖徳太子の誕生の地とも云われ、常世との繋がりの深い處。また欽明天皇の別宮である”橘の宮”の跡をこの寺としたと云います。

 橘寺発行の『橘寺と聖徳太子の昔ばなし』から

垂仁天皇から不老長寿の元になるものを探すように命じられた田道間守はあちらこちらの国を訪ねて探し歩きました。どこにも見つかりませんでした。
 所が、不思議な光景に出会いました。それは老人が若い娘に叱りつけられて泣いているのです。田道間守が話を聞いてみると、若い娘が母親で、老人はその息子であるというのです。母親は一つの実を示し「この子だけが酸っぱくて嫌だとこれを食べないのです。だからこんなに年を取ってしまったのですよ。」と云いました。
 それを聞いた田道間守は、おどりあがって喜び、その不老長寿の実のなる木を数本譲り受けて帰国しました。以下は記紀と似たような内容。

橘寺の橘の木。背後の建物は本堂。



 聖徳太子の頃に皇族の名前に橘が多くなったように感じます。父親の用明天皇は橘豊日天皇と呼ばれ、太子の妃に橘大郎女。師木島の大宮に坐した欽明天皇から推古天皇への時代は「橘の京に都す」とされる時代で、天皇制の確立の時代だったのかも知れません。福永光司さんは「天皇」と云う称号も、常世を神仙境とする道教の「天皇大帝」から取ったものと云われています。今は亡き第一人者の言や重し。
 智と徳の聖徳太子と並ぶ皇太子として武と勇の日本武尊がいます。日本武尊の妃に有名な弟橘姫がおり、海神を鎮めるべく入水する役割を担っています。橘姫の真骨頂発揮。

 山上伊豆母著『古代祭祀伝承の研究』に「古典神話の王権伝承においては、天神の系譜をつぐ日嗣尊(太子)の后妃は、海神の女(水の神女)が相応しいという信仰があった」との記述があります。
 確かに『古事記』によれば、山幸彦、不合尊は海神の娘。更に、二代綏靖、三代安寧、四代懿徳と師木県主の祖の系統の女を妃としています。他にも海人系の尾張、物部や丹後から妃を迎えています。常世願望があったと云うことでしょう。
 余談ですが、これは瓊瓊杵尊は石長姫を帰してしまった償い。即ち石長姫を娶っていれば「天つ神の御子の命は、雪零り風吹くとも、恒に石の如く、常盤に堅盤に動かず坐さむ。」だったのです。木花咲耶姫のみでははかないのでした。

 『古事記のものがたり』の宮崎みどりさんから聞いた話ですが「富士山の九合目以上は岩のみで木々はない。ここに石長姫が鎮座、七合目以下は木々と樹海、まさに木花咲耶姫の世界。以下略。」

 道教思想と古来の日本の信仰とを結ぶ絆が橘の木で、道教の霊薬、常世の象徴、海神の女とは常世から差し向けられる天神の娘で、依り代を橘とすると云うことでした。



5.橘・常世・その他

  浦島伝説 
 『丹後国風土記逸文』に「与謝の郡の日置の里の筒川村に、浦島の子と云う者がいました。云々。
この物語は、 オンラインマガジン 浦島伝説 丹後国風土記逸文に、全文が掲載されています。ご覧下さい。
浦島伝説
 京都府与謝郡伊根町の浦嶋神社(宇良神社)では3月17日に削り掛神事が行われます。梅原猛氏の『京都遊行』(京都新聞)によれば、通称福棒祭で、近くの山のコブシとチシャの木が使われ、コブシの木の皮を取った白い枝でカンナで削掛を作り、これを俵形にしてシャチの木にくくりつけるようです。この木のことを「立花」と云うそうです。何故、立花と云うかと云うと、元々橘が使われていたとのこと。昔は丹後半島でも橘が育ったのでしょう。
 ここでは何れにしろ、浦島、常世、橘とセットになっていることを発見。
 浦嶋子の居た筒川とは、山幸彦を常世へ案内し、磐余彦(後の神武天皇)に大和を教えた塩筒之翁や住吉大神の筒之男神の筒を思わせます。常世へ通じるパイプ?。

 また紀の国は高野山の東の山中に筒香と云う地名があり、『播磨国風土記』(逸文)に、「神功皇后が三韓出兵のとき丹生都比売命の神託で勝利したため、同神を「紀伊国管川藤代之峰」に鎮座した。と書かれている“管川”のこととされ、別の名として『住吉大社神代記』に「丹生川上に天手力男意気続々流住吉大神を祀った。」丹生川上のことと思われます。このことは、産物である丹沙は、水銀で不老不死の仙薬と思われ、またこの地域は熊野への通り道、やはり常世への憧憬が偲ばれるのです。

 徐福伝説と道教
 徐福は道教の方士。方士とは祭祀と医薬に通じたプロ。日本各地に徐福の漂着伝承がありますが、明確な物的証拠はありません。
佐賀の金立山へ徐福が行くとされていますが、この時に上陸地を盃を浮かべて占ったと言います。浮杯はより後世のもので、どうも江戸時代頃に作られた伝承のようです。新宮の徐福の墓なども江戸時代に設けられたようです。町民文化が栄え、余裕のあるインテリが登場して来たのでしょうね。
 しかし、道教の影響としては、卑弥呼の鬼道や現在の神社祭祀に通じるもろもろのものに現れています。砂や土で円錐形の盛りあげをつくり、御幣を立てるのは、封禅の内の天を祀る封。大地を清掃し祭壇を造り大地を祀るのを禅と云うとか。
 縄文時代からの自然信仰に道教が加味されて日本の神祭りのスタイルが出来てきたのでしょうが、徐福が影響を与えたとは限らないということ。

 『日本書紀』斉明天皇二年九月 「田身嶺に、冠らしむるに周れる垣を以てす。また、嶺の上の両つの槻の樹の辺に、観(たかどの)を起つ。号けて両槻宮とす。亦は天宮(あまつみや)と曰ふ。」
 これは吉野から来る神仙を待ち受けて不死の仙薬を得ようとしたと、『徐福伝説を探る』で福永光司氏が述べておられます。
 酒船石の下の亀石も道観の跡かも。

亀石

 6.雄略、河内、志紀、橘


 浦島伝説は『日本書紀』の雄略天皇の段に記載があるが、「語は別巻にあり」で、詳細は記されていない。別巻とは『丹後国風土記』だろうか。
『万葉集』一七四〇には、水の江の浦島の子を詠めるとして墨吉の岸の物語として歌われている。筒のつながりか。

 『古事記』では、雄略天皇と引田部の赤猪子との時を越えた物語が記載されている。即ち天皇は年を取らず、赤猪子だけが老女になってしまうのである。一言主神との遭遇も含めてこの天皇は常世的存在と云いたいのかも知れない。
 そう云うこともあって、雄略天皇十二年、「初めて楼閣を起りたまふ。」とある。これも道観か。

 『古事記』雄略天皇が河内に行った際、堅魚を上げている家を見つけた。志幾(シキ)の大県主の家であった。「天皇と同じである、不遜。」として其の家を燃やそうとした。大県主は畏みて白い犬に品物を付けて献上して、燃やされるのを免れたとのお話。

 『日本書紀』にはこの話しは出ていませんが、河内でやはり品物を献上させた話が出てきます。
 十三年、歯田根命が、ひそかに釆女山辺小島子を犯した。天皇はこれを知り、責めた。歯田根命は餌香市辺の橘の木のもとに資財をむき出しで置かしたと云うお話。
 河内、罪、品物で償う、と共通点がある。ここに河内の志幾と橘が出てきます。

 餌香市とはどこか、と云うことが気にかかります。エガ(恵我)の地名は、松原市、藤井寺市、羽曳野市一帯に広がっており、それだけで特定できるものではありません。

 志紀県主神社の鎮座する国府跡付近は、人々の集まりやすい場所のようで、市があったのかも知れません。この東を船橋と云い、大和川と石川の合流する所でもあり、人の行き来も活発、かつ境界でもあり、市の立地にふさわしい所。江戸時代の勧請とする大山咋神社が鎮座、参詣された方、境内に橘の木など生えていなかったでしょうか。

 万葉集の浦島の歌は巻九の一七四〇と一七四一ですが、この次の歌
巻九 一七四二 見河内大橋獨去娘子歌一首 があります。
 しな照る 片足羽川の さ丹塗りの 大橋の上ゆ 紅の 赤裳裾引き 山藍も ち 摺れる衣着て ただ独り い渡らす子は 若草の 夫かあるらむ 橿の実の 独りか寝らむ 問はまくの 欲しき我妹が 家の知らなく 

河内大橋を一人で渡っている赤い着物の娘さん、独り者かいな と聞きたいね どこに住んでんの。

浦島の歌の次に河内大橋の歌、なんでだろう。



7.高千穂と橘 天照大神

 『古事記』天岩戸開きのお話
高御産巣日の神の子思金の神に思はしめて、常世の長鳴鳥を集(つど)へて鳴かしめて云々とあります。常世の長鳴鳥を高天原に連れてきて集めたと云うこと。一体誰が連れてきたのでしょうか。

『古事記』天孫降臨のお供のお話
常世の思金の神、手力男の神、天の石門別の神を副へ賜ひて云々

 そう言うことで、上記二文から、高御産巣日の神、思金の神はどうやら常世の神のようで、高天原に常駐していたのではないのかも知れません。それが、皇祖として高御産巣日の神と天照大神の二神が見なされるようになって、高天原も常世とされていったのかも。

さて、常世から降臨する天神の依り代は橘でした。
 筑紫日向小戸橘之檍原
 すくっと立った薫り高き実のなる常緑樹
小戸橘之檍原で誕生した天照大神は高天原におもむき、その後重波の帰す伊勢の五十鈴川の川上に鎮座、常宮に坐すことになりました。

高天原から降臨の天孫の依り代は高千穂です。
 筑紫日向高千穗クシ觸之峯
 高く積み上げられた稲穂

 邇邇芸命は高千穂の峯から事勝長勝長狭が国主である吾田の笠沙の御碕に行き、そこで秀起つる波穂の上で機経る少女(木花開耶姫)を見そめます。一書第三では、女神は神餞の田を狭名田と名付けています。

 波穂の上で機経る少女とは、やはり常世からの神を待つ棚機姫でしょうが、この棚機とは布を織ると云うことでしょうか。稲作には、所謂棚田が水分上でも便利であり、初期には平地ではなく、ゆるやかな山地が稲作の地だったと思われ、棚機姫とは棚陸田姫(たなばた)で早乙女であり、神餞を育てていたとも考えられます。

 阿治志貴高日子根神の降臨と下照比売の歌の「天なるや 弟棚機の 」の棚機もやはり神の依り代なのかも知れません。
依り代一覧
 タチバナ
 タカチホ
 タナバタ
 共通する「何か」があるのでしょうね。何だろう。

 降臨した邇邇芸命は塩筒翁の別名とされる事勝長勝長狭が治めていた国に行ったようです。塩筒翁とは天照大神とは橘仲間の住吉大神。その所。そこには長狭の国とか狭名田が登場します。

 高天原で天照大神が水田種子(たなつもの)を植えたのが、天狭田及び長田で、邇邇芸命と稲作との関わりの深さが見えます。
 また、今日でも住吉大社の御田植祭は重要な祭典。

 さて、前述しましたが、岩長姫は醜いと云うことで、お引き取りを願ったのは邇邇芸命の短慮で、これで天孫の寿命は短くなったとされています。その反動で、海神、海人族の娘への憧憬があり、大王の妃となっていくのです。

 天孫降臨に先導した猿田彦神は、高千穂から伊勢の狭長田の五十鈴の川上に行きます。狭長田、吾田の長屋の笠沙碕に似た名前です。
 それはともかく、猿田彦神の凄いのは、倭姫が天照大神の鎮座地としてやっと探し求めた所にとっくに先導している事です。流石です。

 豊鋤入姫は、吉佐宮、磯城、名草浜宮、名方浜宮と一時的に戻る以外は常世とのつながりの海辺を試みています。判っていたのですね。
 一方、倭姫は陸地に迷い込み、もうすぐ伊勢と云う所で琵琶湖方面へと、遠回り。二人とも母は海人族のようですね。育った地が紀の国か、大和かの海へのなじみの差かも。

常世と降臨の図は下記に


 これを見ていますと、常世は海の向こうで、その海にこの国は囲まれていること、中世の日本地図が龍がこの国を抱くように描かれていたのがありましたが、そのように守られた良い国のはずだとつくづく思います。



8.植物としての橘

 大三元さんの、「橘・考」によると、タチバナのタチとは、タチと云う木のこととされている。
参照 橘・考

 『魏志倭人伝』に、「生姜、橘、山椒、茗荷が 自生しているが 倭人その滋味を知らず。」とあります。橘はこの国自生ですが、『日本書紀』の編纂者は『魏志倭人伝を』知っていたはずですが、卑弥呼=神功皇后と考えていたのなら、景行天皇の代に橘が渡来しても矛盾はなさそう。

植物としての橘の特長

(一)橘の再生と母性原理
 多胚種で、受精による胚、受精によらない胚があり、これを蒔くと多くは受精に依らない胚が芽を出すそうです。母植物そのものを再現するのです。最先端技術ですね。古代の母系社会の象徴的植物。

(二)橘の実の代々のつならり
 橘の果実を収穫せずに置くと、次のシーズンの開花時にも、果実は落ちず、腐らずになっているものもあるそうです。昨年の黄色く色づいた果実と今年の青い果実が同じになっているとのことで、これは代代続く実としての「橙」が縁起物となったのに似ています。福嶋さんご指摘。
なお、田道間守が持ち帰ったのは橘ではなく橙との説もあるとか。

いずれにしろ、常世を象徴するにふさわしい植物との認識はあったのでしょう。

記紀などには道士の来日の記録はなさそうですね。
仮説。
(一)彼らが都市の地図に通じており、海外への出張は認められていなかった。
(二)史記に記された徐福のことが知られており、皇帝は出張を認めなかった。
(三)渡来人は道教の知識を持っており、彼らがこの国に伝達したので、強いて道士を招聘する必要はなかった。

道観らしいものを作ったのかもい知れませんが、道観と云う表現もありませんね。

一体、この国の固有信仰って切り出せるものでしょうか。

ペギラさんご紹介、葛洪著「神仙伝」
 「神仙伝橘中楽」
 中国の伝説「橘中楽(きっちゅうらく。又は、きっちゅうのらく)」(「幽怪録」より)。
 昔、巴きょう(はきょう。きょうは、工へん+おおざと)に広大な橘畑を所有している人がいました。ある年、橘の実を収穫したところ、三斗(一斗は約18リットル)入りの甕ほどもある、非常に大きな実がいくつかありました。その大きな実を割ってみると、どの実の中にも身長が一尺(約30.3cm)ほどで、眉毛も髭も真っ白な二人ずつの老人が向かい合って将棋をさして(又は、碁を打って)いました。そのうちの一人の老人が言いました。
 「橘中の楽は商山(しょうざん)の四皓(しこう)に比べても劣らぬ。ただ木の根やへたが弱かったので摘まれてしまったのだ。」
  そして、老人達は白竜に変身して空高く飛んで見えなくなりました。
  商山の四皓は、秦の時代に戦乱を避けて商山に隠遁した4人の隠士のことで、4人とも眉毛も髭も真っ白だったそうです。
 この故事から、「橘中楽」とは、将棋や囲碁の楽しみを表すようになりました。

 長寿の老人の楽しみのお話で、常世らしい物語。

 『古事談』と云う書籍に「南殿桜樹者、本是梅樹也、桓武天皇遷都之時、所被植也、而及承和年中枯失、仍仁明天皇被改植也、其後天徳四年内裏焼亡ニ焼失了、仍造内裏之時、所移植重明親王家桜木也」とあり、左近の桜は元は梅であったと記している。
 何故、梅から桜に変更したのか。吉野の桜が使われたそうだが、神仙境吉野を象徴する木であることが重要だったのだろう。海の橘、山の桜、となったのかも知れない。また共に国産種。

 三輪明神の若宮社の奈良時代の柱五本使用されている本殿(寺院のお堂)の前に、「飛鳥からの右近の橘、吉野からの左近の桜」との内容が記されて植えられています。
飛鳥の橘 多分、橘寺(門前に若木が数本植えられている。)
吉野の桜 神仙境吉野を象徴する木ですが、役小角が植えたのは伝説で、実際には、マルヤさんの「吉野の桜」によりますと、「吉野の桜が登場するのは10世紀初頭の「古今和歌集」が始め」と云うことで、神仙境吉野と桜との関係は想像するしかありません。
 で、縄文遺跡があるように古代から開発されていること、段々畑で稲作を行い、所々に桜木が植えられていたのでしょう。
 
 吉野に桜木神社 日本では18社、うち2社は木花開耶姫命が祭神。
神仙境の象徴の丹生、その色は桜?。

宝来山古墳に植えられている京都御所の木を接ぎ木した橘

 橘の機能  香りの木


 「時を翔る少女」と云う物語。ラベンダーの香りで時間を超える少女のお話です。かくの如く、匂いは人間の脳を刺激し、時には攪乱し、神懸かりにします。
 また、橘の香りは遥か昔、祖先が生まれ育った土地の香りでもあるように錯覚をもたらし、なつかしい思いをもたらします。常世への憧憬。
 魚が生まれた所に帰る、これは嗅覚の仕業、言ってみれば原初の状態に戻る−神祭りの原点−は匂いですし、日本人の故郷は橘の匂う所だったといえるかも。
 神道の禊ぎも原初に戻る為におこなわれます。従ってイザナギの命は橘の小門の阿波岐原で禊ぎ祓へを行ったのです。
 『古今集』夏歌 139
 五月まつ 花橘の 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする
 説明抜きで理解できる歌。母性にも繋がる。乾燥橘の実を濯ぎの時に洗濯機に入れて下さい。
 また、現在の真榊は無臭ですが、往古には樒、タブ(イヌグス)、黒モジ、そうして橘などの香木が祭事に使用されたとか。  

橘の再生  母性原理


 多胚種で、受精による胚、受精によらない胚があり、これを蒔くと多くは受精に依らない胚が芽を出す。母植物そのものを再現する。古代の母系社会の象徴的植物。あらゆる文化の発展は女性から始まる。

 橘の実の代々のつならり
 橘の果実を収穫せずに置くと、次のシーズンの開花時にも、果実は落ちず、腐らずになっている。 昨年の黄色く色づいた果実と今年の青い果実が同じになっているとのことで、これは代代続く実としての「橙」が縁起物となったのに似ている。田道間守が持ち帰ったのは橙との説もある。
  

浪速の橘 記紀万葉



(1)雄略天皇一三年三月条に「天皇、歯田根命をして、資財を露に餌香市辺の橘の本の土に置かしむ。遂に餌香の長野邑を以て、物部目大連に賜ふ」
(2)顛宗天皇即位前紀に「旨酒餌香の市に直以て買はぬ」
(3)崇峻天皇即位前紀は蘇我氏が物部守屋を攻めた時の記事中に「餌香川原に、斬されたる人有り。計ふるに将に数首なり」と記す。
(4)天武天皇元年(六七二)七月条の壬申の乱の戦を記すなかに「 財等、高安城より降りて衛我河を渡りて、韓国と河の西に戦ふ」とある。

衛我河とは石川の下流(大和川への合流付近)のようで、餌香市は、餌香川左岸の国府にあったとする説が有力です。
国府とは、藤井寺市惣社にあたり、ここには志紀県主神社が鎮座。
 かの雄略天皇が生駒山日下越えの道から「志畿の大県主」の大邸宅の屋根上の飾り木を見て焼き払えと命令したと伝えられている所。日下とは直線距離で10km以上。

 巨大な伝応神天皇陵を延喜式では恵我藻伏崗陵と言います。そのほかにこの古市古墳群は恵我XX陵と呼ばれる物が多いようで、古市というのも古来よりの”市”と言うことで、餌香市だったのでしょう。

 志紀県主神社鎮座地の東を藤井寺市船橋と言います。石川(衛我河)が流れ、対岸の竜田道につながっています。

 万葉集巻一 一二五 作者は新婚の病人
橘の 蔭踏む路の 八衢(やちまた)に 物をそ思ふ 妹に逢はずて
 やはり橘の木や実には病魔退散の効能があったのかも知れません。

 藤井寺と柏原とは、船で対岸を行き来していたのでしょう。それを船橋と称したのかも。『続日本後紀』には恵賀川借橋とあります。次の万葉歌の河内大橋も、ここでしょう。
 万葉集巻九 一七四二
 見河内大橋獨去娘子歌一首
 しな照る 片足羽川の さ丹塗りの 大橋の上ゆ 紅の 赤裳裾引き 山藍も ち 摺れる衣着て ただ独り い渡らす子は 若草の 夫かあるらむ 橿の実の 独りか寝らむ 問はまくの 欲しき我妹が 家の知らなく
  訳:河内大橋を一人で渡っている赤い着物の娘さん、独り者かいな と聞きたいね どこに住んでんの。

野中寺の心礎 橘の実と葉か?

橘寺の心礎。

 羽曳野市野々上にお染め久松の野中寺があります。聖徳太子の創建と伝えられ、太子縁の河内三太子の一つで「中の太子」と呼ばれています。寺伝によりますと、物部守屋との合戦時、聖徳太子が休憩をしたところにこの寺を建立したとあります。現在は大和川で守屋の本拠の八尾とは遮られていますが、当時は地続きでした。
 寺院は旧竹内街道に面しており、かって建っていた塔の塔の心礎が当時の状態で配置されています。
 この塔の心礎は大きな円の孔に半円形の支柱孔が三つ(花びら形)と舎利孔あいている珍しいもので、礎石そのものは亀の形に刻まれています。ようは亀に乗っている。
 明日香で、酒船石の下で亀石が発見されていますが、道教の影響や神仙世界への憧憬が感じられます。
 同じように明日香の橘寺にも同じ花びら形の石礎が残っています。橘寺は聖徳太子誕生の地とも言われています。
 これらの心礎の形は橘の花か実と葉のイメージかも知れませんね。


 大阪市平野区鎮座の旭神社摂社若宮八幡宮の由緒
 天平勝宝六年(754)八月、風雨月を越えて止まず、八幡宮の神託に、櫛司と橘を水上より流し、其の止まりたる所に神を祀りなば、水難を止め農民を安穏ならしめんとありしかば、大和・河内の国境より其の二品を流させ給ひしに、智識寺の山上より西北に分れて流れ、櫛司の止まりし所に神社を祭りて玉櫛明神(津原神社)と称し、川名を玉櫛川と呼べり。又、橘は渋川郡に流れて此の賀美郷の川中なる小島に止まりければ、其の地を橘の小島と呼び、東大寺の八幡宮を勧請して若宮と仰ぎしもの即ち当社にして、橘を神木と定められ、当時太上天皇も御幸ありしとの伝説あり。爾来雨を祈りて霊験ありければ、雨乞の宮と唱へて崇敬せられ、神前の橘も常磐の色を変えず子葉孫枝繁茂して芳香を放ちしとならん。
  
 櫛と橘、共に神の依り代。この組み合わせは何だろう。

 住吉大社の三神は橘の云々で生成。対馬の豆酸(ツツ)にも橘がある。

神社と橘

 大和の広瀬大社の創建譚に橘が出てきます。
 崇神天皇九年(前八九年)、広瀬の河合の里長に御神たくがあり、一夜で沼地が陸地に変化し橘が数多く生えた事が天皇に伝わり、この地に社殿を建てまつられる。
 『丹後国風土記』逸文の天女の物語が思い出されます。真名井に天女八人が舞い降り、水浴びをしており、帰れなくなった天女がおり、当社の祭神の若宇加能売命はこの天女のことと思います。橘が生えるのは真名井をを再現したものといえましょう。

橘−中島
忽那島八幡宮(愛媛県温泉郡中島町大浦)の由緒
 遠く上代の昔、吾が祖族、萬里波を踏みて海を渡り、この忽那の島に至り住て、相慕ひ、その母の神稲田姫命を祀り、常世の郷と定め給ひき。
(中略)
夫れ、天に神あり、地に霊あり、神霊鎮まりて祖霊相寄るの聖地、千古斧入らしめぬ森茂り、子孫永く相享けて、願はしき常世の郷はときじくの橘の花の香ぐはしき島と栄えて、大和の中の美はしき中島と讃へまつる。

 この中島とは、瀬戸内海の中の島の意味でしょうか、または積極的に”中心”と言う意味なのか、良くわかりません。

中島−田道間守
内藤湖南の『卑彌呼考』
橘良平氏の日本紀元考概略に「垂仁天皇ノ末年ニ田道間守、常世(遠國ノ稱)ノ國ニ使シ、景行天皇ノ元年ニ至テ歸朝セリ、魏志此事ヲ記シテ曰ク、景初二年六月倭女王遣二大夫難升米等一詣レ郡求下詣二天子一朝獻上。倭女王ハ倭奴王ノ誤ニシテ、難升米は田道間守ヲ訛レルナリ」とあり、倭女王を倭奴王とするは、殆ど取るに足らざるも、田道間守を難升米とするは從ふべし。

 難升米とは中島のこと。田道間守を祭神とする式内社で兵庫県豊岡市三宅に中嶋神社が鎮座、しかしここの由緒書きによれば、「田道間守命の墳墓が垂仁天皇御陵域内 の池中に在りて島をなせるに因りて中島神社と称す。」とあり、眉唾。



橘と偽書


『東日流外三郡誌』の「荒吐族戦乱録」
 垂仁帝の壬子年、田道間守使者となりて、荒吐一族との和を謀れども、当世国に荒吐宇止利彦 是を聞き曰さず。景行帝辛未年、田道間守責務成らざるを悔いて、先帝の陵前に自刃せりと曰う。
 尾崎神社社伝からの写しと言う

『秀真伝』橘のこと多(サワ)に記載あり。

      




資料

戦前の小学唱歌

1.香りも高い橘を 積んだお船が今帰る
君の仰せをかしこみて 万里の海をまっしぐら
今帰る 田道間守 田道間守

2.おはさぬ君のみささぎに 泣いて帰らぬ真心よ
遠い国から積んで来た 花橘の香と共に
名は香る 田道間守 田道間守



古事記の多遅多摩毛理

『古事記』時(トキ)じくの香(カク)の木(コ)の実(ミ)

 また天皇(スメラミコト)三宅連(ミヤケノムラジ)等(ラ)の祖(オヤ)、名は多 遅多摩毛理(タヂマモリ)を以(モ)ちて常世国(トコヨノクニ)に遣はして、とき じくのかくの木(コ)の実(ミ)を求めしめたまひき。かれ、多遅摩毛理(タヂマモ リ)、遂(ツヒ)にその国に到(イタ)りて、その木(コ)の実(ミ)を採り、縵 (カゲ)八縵(ヤカゲ)・矛(ホコ)八矛(ヤホコ)を以(モ)ちて将(モ)ち来た りし間に、天皇すでに崩(カムアガ)りましき
 ここに多遅摩毛理(タヂマモリ)・縵(カゲ)四縵(ヨカゲ)・矛(ホコ)四矛(ヨ ホコ)を分けて大后に献(タテマツ)り、縵(カゲ)四縵・矛四矛を天皇の御陵(ミ ハカ)の戸に献り置きて、その木の実をフ(ササ)げて叫(サケ)び哭(オラ)びて 白(マヲ)さく、「常世国(トコヨノクニ)のときじくのかくの木(コ)の実を持ち て参(マヰ)上(ノボ)りて侍(サモラ)ふ」とまをして、遂に叫び哭(オラ)びて 死にき。そのときじくのかくの木の実は、これ今の橘(タチバナ)なり。
 この天皇の御年(ミトシ)、壱佰伍拾参歳(モモチアマリイソヂアマリミトセ)。御 陵(ミハカ)は菅原の御立野(ミタチノ)の中にあり。

 縵八縵・矛八矛 縵とは橘を冠状にしたもの 矛とは直線的にぶらさげたもの。(角川文庫)
橘は田間花(たぢまはな)の説がある。



日本書紀の田道間守

 巻六垂仁天皇 九十年春二月庚子朔。天皇命田道間守。遣常世國。令求非時香菓。〈香菓。此云箇倶能未。〉今謂橘是也。
 九十九年秋七月戊午朔。天皇崩於纒向宮。時年百四十歳。
 冬十二月癸卯朔壬子。葬於菅原伏見陵。
 明年(景行天皇元年辛未七一)春三月辛未朔壬午。《十二》田道間守至自常世國。則賚物也非時香菓八竿八縵焉。田道間守於是泣悲歎之曰。受命天朝。遠往絶域。萬里蹈浪。遥度弱水。是常世國。則神仙秘區。俗非所臻。是以往來之間。自經十年。豈期獨凌峻瀾。更向本土乎。然頼聖帝之神靈。僅得還來。今天皇既崩。不得復命。臣雖生之。亦何益矣。乃向天皇之陵。叫哭而自死之。群臣聞皆流涙也。田道間守。是三宅連之始祖也。

 遥度弱水 玄中記に「天下之弱者。有崑崙之弱水、鴻毛不能戴」。史記に「弱水在大秦西」。ほかに「西域絶遠之水」とある。岩波文庫。日本書紀編纂局の貴族が常世国をどこだと考えていたかのこと。 橘はこの国が原産とされる。



日本書紀の常世

   『日本書紀』神代上にスクナヒコナミコトはオホナムチミコトとの国作りの後、熊野の御崎から「常世郷」あるいは淡島(鳥取県か)で栗茎にのって、はじかれて「常世郷」に至ったとあるのも、いずれも海上他界としての「常世」である。また『日本書紀』の神武東征伝承にミケイリノノミコト(神武の兄とする)は、熊野で浪の秀(ほ)をふみ「常世郷」に向かったとある。同じく『日本書紀』垂仁天皇二十五年条にはアマテラスの鎮座する伊勢の地を「常世の浪の重浪帰する国なり」と記している。さらにすでにみた同天皇崩後年条における田道間(たぢま)守(もり)が出むいた常世国は「遠くより絶域に往(まか)る。萬里浪を踏みて遙に弱水を渡る」ところにあったと伝える。この表現からも海のはるかかなたの地に常世国があったというイメージをいだかせる。



万葉集の田道間守

  巻十八 橘の歌一首、また短歌 四一一一
   かけまくも あやに畏し 皇祖神(すめろき)の 神の大御代に
   田道間守(たぢまもり) 常世に渡り 八矛(やほこ)持ち 参ゐ出来(こ)しとふ
   時じくの 香久(かく)の木(こ)の実を 畏くも 残し賜へれ
   国も狭(せ)に 生ひ立ち栄え 春されば 孫枝(ひこえ)萌いつつ
   霍公鳥 鳴く五月には 初花を 枝に手折りて
   をとめらに 苞(つと)にも遣りみ 白妙の 袖にも扱入(こき)れ
   香ぐはしみ 置きて枯らしみ 熟(あ)ゆる実は 玉に貫きつつ
   手に巻きて 見れども飽かず 秋づけば しぐれの雨降り
   あしひきの 山の木末(こぬれ)は 紅に にほひ散れども
   橘の なれるその実は ひた照りに いや見が欲しく
   み雪降る 冬に至れば 霜置けども その葉も枯れず
   常磐なす いや栄(さかは)えに しかれこそ 神の御代より
   よろしなべ この橘を 時じくの 香久の木の実と 名付けけらしも

反し歌一首 四一一二
   橘は花にも実にも見つれどもいや時じくに猶し見が欲し
   閏五月(のちのさつき)の二十三日(はつかまりみかのひ)、大伴宿禰家持がよめる。

 一年中楽しめ、香りの良い橘、常世の国から持ってきた常磐の木だと感嘆している歌。



常陸国風土記

 夫 常陸国者 堺是広大 地亦緬積 土壊沃墳 原野肥衍 墾発之処 山海之利 人人自得 家々足饒 設 有身労耕耗 力竭紡蠶者 立即可取富豊 自然応免貧窮 况復求塩魚味 左山右海 植桑種麻 後野前原 所謂水陸之府蔵 物産之膏腴 古人云常世之国 蓋疑此地
 昔の人が「常世の国」と言ったのは、常陸の国のことか。と言うこと。

 行方郡
 郡家南門 有一大槻 其北枝 自垂触地 還聳空中 其地 昔有水之沢 今遇霖雨 廳庭湿潦 郡側居邑 橘樹生之

 香島郡
 前郡所置 多蒔橘 其実味之

万葉集巻二十 四三七一
 橘の下吹く風の香しき筑波の山を恋ひずあらめかも
 矢作幸雄著『古代筑波の謎』によれば、防人の詠める歌とされるが、橘郷造神社(行方郡玉造町羽生)の奉祀する占部の神人を作者として推定されている。この書で、筑波山西録の気温の逆転現象について述べている。平均気温が中腹が麓より2〜3度高いと言う。中腹の地面近くで冷えた空気が重くなり、麓に下る。その後に上空の暖かい空気が降りてくると言うこと。柑橘類の飛び地となる。



神社と橘 あれこれ

廣瀬神社 奈良県北葛城郡河合町川合
 崇神天皇九年(前八九年)、広瀬の河合の里長に御神たくがあり、一夜で沼地が陸地に変化し橘が数多く生えた事が天皇に伝わり、この地に社殿を建てまつられる。

忽那島八幡宮 愛媛県温泉郡中島町大浦
 遠く上代の昔、吾が祖族、萬里波を踏みて海を渡り、この忽那の島に至り住て、相慕ひ、その母の神稲田姫命を祀り、常世の郷と定め給ひき。茲に藤原の長者、八幡大神の神託を畏み、應徳四年春、その神々(誉田別尊、大帯姫命、市杵島姫、湍津姫、田心姫)を氏神と斉き奉りて、明光霊徳、七島に及び、忽那七島総鎮守として、祖孫相励みて水軍の至誠南朝に薫り、色変えぬ巨松連なりて、栄光に輝く。夫れ、天に神あり、地に霊あり、神霊鎮まりて祖霊相寄るの聖地、千古斧入らしめぬ森茂り、子孫永く相享けて、願はしき常世の郷はときじくの橘の花の香ぐはしき島と栄えて、大和の中の美はしき中島と讃へまつる。

若八幡神社 福岡県田川市夏吉
 昔、岩窟が百あまりもあったそうですが、今もあるのは五十あまりです。京都郡黒田村にあるのを橘墳とよびならわしていますが、これは大変大きなものです。夏吉村の岩窟は実に神代からのもので。人力では出来ないものです。夏磯姫命の廟だった事、疑問がないわけでもありませんが、大行事の神として祭ってよいのです。

竃門神社 福岡県浮羽郡吉井町大字橘田
 往古、天智天皇朝倉の木の丸殿より此の地を見そなわし、「橘の広庭」とのたまわせてより「橘田」の地名起れりと伝ゆる。

江田神社 宮崎県宮崎市阿波岐原町産母
 本神社は太古の御創建にして、その創立の年代は詳らかならざるも、此の地一帯は古来所謂日向の橘の小戸の阿波岐原として、伊邪那岐の大神禊祓の霊跡と伝承せられて、縁起最も極めて深き社ならむ。

東霧島神社 宮崎県北諸県郡高崎町大字東霧島
 御神宝十握の剣は別に「十拳剣」「十掬剣」といって、この剣は伊弉諾尊が佩刀したもの。性空上人が参篭し苦行中に神児が現われて神剣のありかを告げたがどうしても発見することができなかった。一羽の鳩が神社の庭の橘の木にとまり、そのあと数回木の上をまわり、同じようなことを三回くりかえしたので上人は神のお告げと橘の木の所を掘ってみると地中に石の梢に納まった剣が発見された。

大井神社 亀岡市大井町
 8月19日の夏祭りで各町内から1.2mの大松を主体にした立花が奉納される。十月十六日の例祭には、古く貞観八年(866)に始まったという勇壮な競馬が当社の馬場で武者姿の氏子によって奉納される。大陸風。 大井川開拓は秦氏の手になる。


大陸の古典の橘

 恋川亭さんご提供
 屈原の『楚辞』から橘の詩を写しました。既出でしたっけ?

 『 橘 頌 』(きつしょう)

 后皇の嘉樹、橘来り服す。
 命を受けて遷らず、南国に生ず。
 深固にして徙し難く、更に志しを壹にす。
 緑葉素栄、紛として其れ喜ぶ可し。
 曾枝〔エン〕棘、圓果摶たり。 ※1
 青黄雑糅して、文章爛たり。
 精色内は白く、道に任ふるに類す。
 紛〔ウン〕として宜脩にして、〔クワ〕にして醜からず。 ※2、※3

 嗟、爾の幼志、以って異なる有り。
 独立して遷らず、豈喜ぶ可からざらんや。
 深固にして徙し難く、廓として其れ求むる無し。
 世に蘇して独立し、横にして流れず。
 心を閉じ自ら慎み、終に失過せず。
 徳を秉りて私無く、天地に参はる。
 願はくは歳の〔ナラ〕び謝するまで、與に長しく友たらん。 ※4
 淑離にして淫ならず。梗くして其れ理有り。
 年歳は少しと雖も、師長とす可し。
 行は伯夷に比す。置いて以って像と爲さん。


漢字変換できなかったもの。
※1〔エン〕炎扁に、りっとう旁。エンキョク:するどいトゲ。
※2〔ウン〕蘊の草冠がないもの。フンウン:橘の果実の香気が盛んなこと。
※3〔クワ〕女扁に夸の旁。色よく美しいこと。
※4〔ナラビ〕併の人扁を取り旁だけの部分。並と同様な意味。

明治書院・新釈漢文大系『楚辞』星川清孝著より抜粋。ただし漢字は新しい字体にしています。

 道教ではありませんが、屈原の『楚辞』から橘の詩を写しました。既出でしたっけ?
恋川亭さん ありがとうございます。皇后陛下の紋章が橘ですが、これに依るのかも。
以下、ご紹介の詞の翻訳しているものを発見。↓
http://www.h3.dion.ne.jp/~china/book7.html
橘頌
橘(密柑の類)の香ばしい花実を賛美して、その徳になぞらえて、自分の身を持していこうと歌ったものである。

皇天后土の生じためでたい樹、橘がこの地に来て風土に適し、
天の命を受けて他国に移らず、南国に生ずる。
根は深くて移し難く、その上その志は専一で動かない。
緑の葉に白い花、数多く入り乱れて誠に可愛らしい。
重なる枝、するどい棘、円い果実はころころとしている。
青と黄とが交じり合って、色取りが輝いている。
外皮はすぐれた色で、内部は白く、才は美わしく心は潔白で、正道を行うに堪える君子に似ている。
その実は香り高く宜しく、美しくて醜くない。
ああ、お前の幼時の志は、他のものと異なっていた。
何物にもたよらず、独立してうつらない。なんと好もしいではないか。
志が深く固くて移し難く、心はむなしくて何も求めない。
世俗の中で目醒めて、ひとりで立って、行いにかど目を失わない。
心を閉じて自ら用心して、終に過失を犯さない。
天性の得性をしっかりと取り守って私心なく、天地の徳に参加する。
どうか年歳がすべて過ぎ去るまで、お前と末長く友達になろう。
淑やかで俗を離れて、みだらな行いもなく、固いようでも条理があり、
年は若くても、師とも目上とも仰ぐことができる。
その行いは伯夷にも比べられる。お前を立てて手本にしよう。
翻訳引用以上


疑似歴史・古史古伝等

『東日流外三郡誌』の「荒吐族戦乱録」
 垂仁帝の壬子年、田道間守使者となりて、荒吐一族との和を謀れども、当世国に荒吐宇止利彦 是を聞き曰さず。景行帝辛未年、田道間守責務成らざるを悔いて、先帝の陵前に自刃せりと曰う。
 尾崎神社社伝からの写しと言う

『秀真伝』二紋
 常世神   木の実東に
 植ゑて産む ハゴクニの神
 日高見国や 高天原に祭る
 ミナカヌシ 橘 植ゑて
 産む御子の タカミムスビお
 諸人讃ゆ  キのトコタチや

『秀真伝』三十七紋
 勅         「香久お求めに
 タジマモリ     トコヨに行けよ
 わが思ふ      クニトコタチの
 御世の花」

 タシマモリ     時じく香ぐつ
 二十四篭 香ぐの木四竿
 株四竿   持ち来たる間に
 君罷る   土産半ばを
 若宮え  中ばお君の
 御稜に   捧げ申さく
 「これ得むと  遥かに行きし
 トコヨとは  神の隠れの
 及びなき  振りお馴染むの
 十年ぶり  豈思ひきや
 凌ぎ得て  更帰るとは
 天皇の  奇し霊によりて
 帰る今  既に去ります
 臣生きて  何かせん」とて
 追ひまかる

 『卑彌呼考』 内藤湖南
 難升米
  雜誌「文」第一卷第十二號、橘良平氏の日本紀元考概略に「垂仁天皇ノ末年ニ田道間守、常世(遠國ノ稱)ノ國ニ使シ、景行天皇ノ元年ニ至テ歸朝セリ、魏志此事ヲ記シテ曰ク、景初二年六月倭女王遣二大夫難升米等一詣レ郡求下詣二天子一朝獻上。倭女王ハ倭奴王ノ誤ニシテ、難升米は田道間守ヲ訛レルナリ」とあり、倭女王を倭奴王とするは、殆ど取るに足らざるも、田道間守を難升米とするは從ふべし。紀によれば田道間守は垂仁天皇の崩じ給ひし翌年、常世國より至り、往來の間、十年を經たりとあり。倭人傳によれば難升米が景初三年(二年とあるは誤なり説下に見ゆ)に始めて使を奉じ魏に赴きしより、中間歸國の事明らかならず、其の確かに歸りしは正始八年以後魏の使張政等と偕にせし時に在り、而して其時卑彌呼以(スデ)に死せりとあり、其の往來に九年乃至十年を費せるは明かなり。一は垂仁天皇とし、一は倭姫命とするの差はあれども、使者の境遇は略ぼ相似たり。

なら橘プロジェクト のりうつぎさんとHPから頂いた情報の一部

 橘は、記紀では不老不死の妙薬として出てくるのですが、最近、柑橘類に含まれるノビレチンという物質の薬効についての研究が進んでいます。東北大などの薬学部が手がけているのですが、脳細胞を活性化させて認知症の予防や治療に効能があるとい うことです、近いうちに認知症に効く漢方薬として世に出るのではと期待しています。

 その、ノビレチンが橘とシークヮーサーには特に多く含まれていますので、橘に不老不死の薬効があるという言い伝えは、まんざら嘘ではないように思っています。

 なお、明日香の橘寺にも橘に混ざって四季橘が植えられています。

 橘(たちばな)の実の大きさは直径約4センチ前後でピンポン玉より小さなカワイイ姿をしています。元々、お正月の鏡餅の上にのせる「みかん』は『橘」であり霊果であったのです。

 橘は、ヤマトタチバナとも呼ばれ、日本に古くから自生してきた唯一の柑橘類です。

 「大和橘」は、日本列島における柑橘類の唯一の固有種である。太平洋岸の暖地に今でもごくわずか自生しており絶滅危惧種に指定されている。古代では食用よりも漢方として珍重され、特に芳香を放つ花や葉が親しまれ万葉集などに数多く詠われている。文様や家紋のデザインにも多く用いられ、近代では文化勲章のデザインに採用されています。樹高は2メートルから4メートル、枝は緑色で密に生え、若い幹には棘がある。葉は固く、楕円形で長さ3センチメートルから6センチメートルほどに成長し、濃い緑色で光沢があります。 以上

参考
神社本庁 平成祭りデータCD
白水社 日本の神々

2005/06/27
2009/11/28
2015/ 9/ 1

神奈備にようこそ