且来八幡神社[アッソ]
海南市且来1219 ゼンリン


一の鳥居


交通案内
紀勢線  天王寺→和歌山→黒江 バスで亀川 東1km
紀勢線  天王寺→和歌山 バスで亀川 東1km

 
祭神
譽田別尊 配 足仲彦尊、氣長足姫命

摂社 姫神社「姫大神」、住吉神社「住吉大神」、須佐神社「須佐大神」、厳島神社「嚴嶋大神」、稲荷神社「稻荷大神」、恵美須神社「惠美須大神」、影向神社「八大竜王」

熊野王子社の松阪王子を合祀しているが退転している。



由緒
 南北朝争乱の正平八年(一三五三)、根来寺伝法院の堂衆が乱入し、剣・弓・矢・御筆の法華経等の宝物、細川・小俟・石堂ら諸大名から贈られた土地寄進状、その他神主の私物に至るまで、いっさいを奪われた(畠山尾張守「紛失且来八幡宮色々神物等事」)。 このために鎮座年代も不詳であるが、古くは、広大な神領と四十もの末社を擁す近郷随一の大社として、代々の武将や領主たちの深い信仰を集め、ひときわ威光を放っていたという。 その昔、神功皇后が応神天皇を抱き奉り、朝鮮から帰国されたときのこと、里人たちは仮殿を造って皇后をお迎えし、当地への御永住を懇願した。 皇后はいたく感動なさり、「あした(且)来よう。」と約束なされた。 これが「且来」という地名説話である。



お姿
 本殿は木造檜皮葺三間社流造の朱色をベースとした八幡宮としては希有とも言える華美な社殿である。 紀の国でこのような華麗な社殿を見るとつい丹生都比売や名草比売を祀っているのではないかと思ってしまう。
 亀川中学の東側に鎮座、石段は約150段程あり、神奈備の山の中腹に鎮座する。


本殿



お祭り
 3月14日 春季例祭
 7月14日 大祓・夏祭
10月10日 秋季例祭


紀伊国名所図絵から


『紀伊続風土記』 名草郡 多田郷 且来村 から

;○八幡宮  境内 東西四十一町余 南北二町余  禁殺生
 本社 一丈二尺許 八尺許  三扉  玉垣  宝蔵  拝殿
 鳥居  護摩堂  鐘 楼
 末社 秋葉権現  里神  牛頭天王  合殿
 神宮寺 影向山地福院   真言宗古義京勧修寺末

 村の巽 山上にあり 一村の氏神なり 当社は郷中の大社にて古は社壮麗尾にて末社も四十祠ありしといふ
 本社の南にに影向石とて大巖あり 高一丈五尺 又本社の西一町許に岩清水といふ清泉あり 按するに此地         神功皇后皇子とともに安原より都に趣かせ給ひし時御経歴の地にして此處に 聖駕を駐給ひしより祠を建て祀り奉りしにて大抵野上貴志の神社と一例の神に御坐ますなるへし
 因りて世の崇敬も殊に勝れて 綸旨並に諸家の寄進妖其他文書神宝の類数ノ神殿に納めありしに正平八年(1353)荘中合戦の時 根来堂集社頭に乱入して悉盗み去らるといふ 此事正中九年尾張守の紛失状に載たり 
 又伊勢記にも文和二年(1353)癸巳二月六日紀州名草ノ郡且來/荘合戦伝法院堂衆八人八幡宮を焼 同九日為武家椙原被罰云々 文和二年は 南朝正平八年に当たる
 かくの如く見えたり 当社古の盛なりし事見るへし 其文書左に載す

 紛失  且來八幡宮色々神物等事
 右紛失之子細者去正中八年二月六日於当社合戦之時伝法院ノ堂衆等一揆ノ内八人乱入シ社檀捜取色々ノ物御剱一振御弓一張御箭一腰御筆ノ法華経一部往古ノ置文一巻物忌量雙紙一帖綸旨一通細河殿/寄進状一通小俣殿ノ 寄進状一通石堂殿ノ寄進状一通神主私ノ文書等数十通皆悉捜取者也同九日彼ノ八人ノ衆打入山口河野邊致数々ノ乱妨之處行向武家椙原手即日被誅被懸其首於且來ノ山峯畢誠当社眼前之神罰厳重無雙之霊威也爰以自其ノ以来貴賤彌凝仰信道俗致仰依之之岡田ノ郷国衙職一圓所被寄附也所詮於当社ノ御薮地ノ山野并紙田二町陸段者更以不向ヶ馬ノ鼻若背此旨軽神威於社領違乱之輩着併相松 当社八幡宮ノ御神罰者歟仍為後証紛失状如件
 正平九年六月一日      尾 張 守 華押

其他今所伝の文書応長元年(1311)左術門尉秀清永和二年(1376)平実宣同沙彌行西永徳二年(1382)信濃守義数同蔵人大輔藤原弘向前信濃守源朝臣康応十一年(1399)義理明徳二年藤原丹後守同三年散位等の文書あり 全文文書部に載す

○姫大明神社   境内周四町
 社 方三尺   拝殿  鳥居二基
下村の北山の尾にあり 八幡宮の遊覧所(おたびしょ)なり
 



公式且来八幡神社
熊野古道と九十九王子社

紀の国古代史街道

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