射矢止神社(いやと)
和歌山市六十谷381 its-mo

鳥居



交通案内
阪和線    天王寺→六十谷
徒歩     西5分



祭神
品陀別命、息長帯姫命、天香山命、一言主命、宇賀魂命



由緒
 神社の説明によると、伊也土は伊也比古の訛で、越後国蒲原郡伊也比古神社と同神で伊也比古天香山命とされる。

 吉田東悟『地名辞書』には、「伊也土神社は大彌彦神を祀るとし、大屋毘古神のこと。」としている。さらに「鳴滝伊久比売も伊也比売の誤にあらずや。」としている。

 神社庁資料では弥彦大神と天香山神(高倉下命)を同一神とは見ていないようであるが、蒲原の神社名と祭神名とからは、同一神とする射矢止神社の説明のほうが納得できる。

 神社側の説明では、天香期山命、一言主神は神代のむかし五十猛命と共に本国に天降り、名草の山路に後を垂れたとある。*1


 その後神功皇后三韓より御凱旋時、日御神一言主神の御宣があり、矢を射させ、この地に落ちたので、この矢を国家鎮護の御神として、射矢止八幡宮と斎き祀られたとある。
当神社から西に数kmの和歌山市本脇260に射箭頭八幡神社が鎮座しているが、矢を射させて落ちた地に宮を造ったというよく似た由緒が伝わっている。

 この神社の由緒の説明の中には、後世の垂迹の思想が入っているが、これを別にしても驚くべき内容が含まれている。

 まず、五十猛命が天降ったのは、素戔嗚尊と妹神の大屋都姫、都麻津姫と共にと日本書紀には記されている。 多くの神社でこの兄妹神が祀られている。ここに天香語山命、一言主神の神の名は出てこない。五十猛命は木種を蒔くのが目的で天降ったとされる。 一方、天香語山命の足跡には薬草が多く、薬草を植えていった神として理解はできるが、一言主神は葛城山の神であり、一願成就の神であり、山の神であるので草木に関係する神かも知れないが、一般的には木に関する神とは理解されていない。 一言主神は雄略天皇の条に初めて登場するのである。

 伝承が神社の形で伝わっている場合、信仰にかかわるものであるから、比較的変形を受けにくく、古来の形を残すものである。 これらの神々が異名同神であるとの伝承であた可能性がある。簡単に検証しておく。


本殿



 関連の考察:熊野
 五十猛命は熊野では熊野樟日神や素盞嗚尊(熊野奇霊御木野命)と同一神とされ樹木神である。高倉下命もまた熊野の古い神である。
 熊野本宮大社の祭神に事解之男神があるが、この神は葛城一言主神社の祭神言離(ことさか)の神と同神と思われる。

 
関連の考察:葛城
 紀州にも葛城山がある。紀ノ川中流域で、泉州との境に当たる。この神が大和葛城山に到る道筋としては、往古は紀ノ川をさかのぼるルートがよく利用されていた。 葛城の神がまず紀ノ川下流域に現れるのは合理的である。「名草の山路に後を垂れた」とはそれを意味している。

 
関連の考察:丹後、能登、越後、佐渡
 丹後には、五十猛命を説明するのに、その妹大屋都姫命が天香山命の妃であったとする文献がある。*2 高倉下は大屋毘古命とも呼ばれた事になる。高倉下は天香山命であり、弥彦神社の祭神である。弥彦に尊称「大」を付ければオオヤヒコである。
  能登の伊夜比神社 の祭神は大屋津媛命であり、越後の弥彦神あるいは佐渡の伊太祁曽神とは夫婦であるとの伝承*3がある事がこれを裏付ける。

 
大屋毘古命=五十猛命 等式の不思議

 また、五十猛命と大屋毘古命が同一神であるとの説明が通例である。古事記では、大国主命が紀伊の国の大屋毘古神の元に避難したとの伝承から、紀伊の大神五十猛命を大屋毘古神としている。
 しかし大屋毘古命と言う神は、古事記によれば、伊耶那岐、伊耶那美の国生の話の次に、大事忍男神、石土毘古神、石巣比売神、大戸日別神、天吹男神についで誕生する神の名である。 以上が家屋成立の神々とされる相当に古い神格とされている。天照大神、月読神、さらには五十猛命の父神とされる素盞嗚尊より先に生まれ出ている神である。
 大屋毘古神を素戔嗚尊の御子神の五十猛命と同一神とする方がおかしいのかも知れない。

 
関連の考察:八柱御子神
 京都の 八坂神社 の八柱御子神の名には大屋毘古神と五十猛神が並んで記されている。単なる間違いではすまされない。兄弟とは言え異なる神との認識である。木から家を造るに当たって役割や呼び名が変わったのであろうか。神格が更新されたのであろうか。

 
関連の考察:父神
  五十猛命を天香山命、高倉下命、弥彦神であるとするならば、その父神は素戔嗚尊であり、また天火明命や同一神とされる饒速日命となる。
 いづれにしろ、この神社の伝承の存在は、五十猛命一座と火明命や物部氏につながりをもたらす。古代史の謎に関わる。

 繰り返すが、また重要なのは一言主命である。葛木坐一言主神社に祀られている神であるが、記紀では雄略天皇が葛城山へ狩りに行った際登場するのであるが、神社の格式、磐座の存在等から想像できる様に、相当古い神格であり、言離コトサカの神と表現されており、この神は紀の国の阿須賀神社や熊野本宮大社の祭神であり、ここにも高倉下命や五十猛命とのつながりが見えてくる。

 
建国の神話
 葛城王朝が大和朝廷に発展したとの説がある。その説の当否は別にしても、葛城地方が建国に大きい役割を果たしている。葛城地方の後背地は紀州であり、五十猛命のおさめるべき国である。 また近くにあって協力したのが高倉下である。笛吹の火雷神である。一言主は葛城の神であり、神社の近くから銅鐸が出土している。



お姿
 拝殿は新しい。本殿は厳かである。木々は多く、特に楠の大木が目立つ。森の密度は高い。

拝殿





お祭り
例祭 10月14日


紀伊国名所図絵から





紀伊續風土記 巻之九 直川荘 六十谷村から

○伊也土神社  境内 
東西二十間 南北四十間
  本 堂 
一間 二間  拝 所  廳  鳥 居
  末社三社
   稲荷社  金毘羅社  秋葉社
    本國神名帳名草郡地祇従五位下伊野土神
村の巽二町半にあり 寛文(1661年−)記にいや大明神とあり 今射矢八幡といふ 一言主ノ神を相殿に祀れり 今按するに延喜神名式丹後国彌刀神社と同神なるへし 此外絶て古書に見えす 村中田地の字に射矢畑といふあり これも此神の坐す故の名にして地名に因て此神名とするにはあらし 伊野の名義詳ならす 祭礼六月廿七日九月十四日 神主三宅氏なり
社傳にいふ 伊也土ノ神は一言主ノ神天ノ香語山命射矢八幡を祀るなり 又神社録に伊也比古の訛にて越後国蒲原郡伊也比古神社と同神なりとあり 何れも臆断の説なれは信しかたし
 


『平成祭礼データ』から 

 本国神名帳名草地祗従三位下、伊野土神村の巽二町半あり、当社射矢止神社と申すには、天香期山命、一言主神は神代のむかし五十猛命と共に本国に天降りまして名草の山路にあとを垂れ給い、その後神功皇后三韓より御凱旋になり、当国雄の湊に御宿をおとりになった折、日御神一言主神の御宣あり、矢を射させ給いし其矢則ち此の地に止りし皇后此の矢をもって国家鎮護の御神として射矢止八幡宮と斎き祀る。
 以上


*1 和歌山県神社誌(和歌山県神社庁)
*2 西丹波秘境の旅(澤潔)かもがわ出版
*3 日本の神々 北陸(白水社)



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