四十八所神社
和歌山県海南市下津町下津1605 its-mo

鳥居


交通案内
紀勢線下津駅 南西 1km


祭神
下照姫神
配祀 事代主神、猿田彦神、丹生津姫神 等多数

春日造銅板葺本殿


由緒
 『下津町史』には、加茂谷に早くから浸透した浄土宗信仰の四十八本願に基づく名称とする。当社の南には明治初年まで真言宗古義派の威徳山西光寺があり、その本尊阿弥陀如来の胎内銘から仏像の制作年代が鎌倉時代と考えられており、また西光寺は四十八所明神の別当寺とされてきたので、神社の創始も鎌倉時代と見られている。

 社伝によれば、海岸で漂流している神像を拾い上げて祀り、氏神としたと言う。着した海岸は神出ヶ浦。

 祭神を下照姫神とするのは、村の名が下津浦であることによるようだ。地名も加茂谷と呼ばれており、葛城の加茂神とのつながりが感じられる。摂社に蛭子神社が二社もあり、事代主神を祀る。

拝殿と摂社の丹生神社
 



お姿

 下津駅から線路にそうように南側に歩く。 北向きに立つ鳥居があらわれる。海岸を見ているのかも知れない。 神社は東向き。

神社と桜



お祭り
 
  10月10日 例祭
 

紀伊續風土記 巻之二十五 海部郡 濱中荘 下津浦から



○産 土 神 社   境内周八十間
       本 社   四十八所大明神
        摂 社   旅大明神社  衣美須社

濱辺にあり 一村の産土神なり 大社四十八座を祭れるに因て四十八所大明神と称すといへり 
 或説に四十八所の中下津姫の命を主祭すといへるは村名に付て云う説にして別に稽據なし 又建久元年鎌倉幕府の命を奉して祀るとも云ふ 皆信用し難し 
       神 主   宇 野 主 計


『平成祭礼データ』から


御由緒

 当社伝来の旧記によると、後鳥羽天皇建久元年(1、190)元日の夜、熊野権現の神が白髪の老翁として現われ、鎌倉の右兵衛佐、源頼朝公の御枕上にお立ちになり、「紀伊国海部郡の海上に、一体の御神像が漂流なされている。これを勧請して、その地の氏神としたならば、天下泰平まちがいなし。」とのお告げがあった。頼朝公はこの霊夢を奇とされ、翌朝、北条四郎時政と当地の住人、庄司右近太夫の舎弟左衛門次郎祐重の一子、主馬尉宇野辺時重、杉田太郎成経に命じて、海岸を捜索させると、果たして一体の御神像が海上に漂流なされていた。そこで、これを拾いあげ奉り、さらに幕府の命によって、その海岸に社殿を建築し、この御神像をおまつりして、当地の氏神とした。それ以来、海上発展の神として、氏子を初め各地の崇敬者の信仰厚く現在に至っている。
 なお、当社の南には明治初年まで真言古義派の「威徳山西光寺」があり、本尊阿弥陀如来の制作年代が鎌倉時代と伝えられるところからも当社の由緒は明らかである。
 以上

神社寺院大事典 平成祭礼データ 和歌山県神社誌

古代史街道 紀ノ国編
神奈備にようこそに戻る