若宮八幡神社
和歌山市紀三井寺1005 its-mo

鳥居



交通案内
JR紀勢線紀三井寺駅南東1km



祭神
譽田別尊 合祀 火産靈神、庭津日神 配祀 須佐之男命、菅原道真公
摂社 天満宮、八坂神社

拝殿



由緒
 紀三井寺若宮八幡神社と言う。
 『紀伊続風土記』には、紀三井寺村には北に牛頭天王社と南に若宮八幡宮とがそれぞれ鎮座とあり、これらを明治初期に牛頭天王社を若宮八幡宮(現在地)に遷座合併し、さらに明治四十二年には浜宮神社内に遷座してしまったが、昭和二十五年に現在地へ還御し祭祀している。
 紀三井寺村は日前宮の神領地であったが、紀三井寺の金剛宝寺の供僧たちによって形成された村 であったので、金剛宝寺の鎮守神であった若宮八幡神社と牛頭天王を産土神にしたとされる。紀三井寺の金剛宝寺は宝亀元年(770)であり、その当時に鎮座していた可能性もないではない。

拝殿内の磐座




お姿
 紀三井寺正面の石段を左手観観ながら、南へ歩く。さほど立派とは言えない神社が見えてくる。それでも名草山をしょっており、拝殿内から本殿は威厳が感じられる。拝殿の中に磐座がある。これは珍しい建て方。

本殿




お祭り
10月23日にちかい日曜日 秋季例大祭

紀伊續風土記 巻之十八 名草郡 神宮下宮 紀三井寺村から

○牛頭天王社  境内周十八間
 正眼寺の北数歩 山足にあり 社拝殿あり 又境内に秋葉権現社、廳、鳥居あり。宝暦十三年 遠州より勧請すといふ
○若宮八幡宮  境内周三十八間
 村中 街道の東側にあり 釈迦堂の西街道に石橋あり 是を釈迦橋といふ 此橋を村中南北の中分とす 村中の総産土神は金剛宝寺の鎮守三社にして釈迦橋より南は兼ねて若宮八幡を産土神とす 北は兼ねて牛頭天王を産土神とす 然して八幡牛頭両社、古は皆金剛宝寺の鎮守神なり 故に祭礼は皆九月四日なり 紀三井寺村新宮郷に属すれは日前宮を産土神となすへきに別に産土神を祭るものは旧金剛宝寺の供僧一村となりし故、自然に寺の鎮守を以て産土神とせしなり

平成祭礼データ 若宮八幡神社 参拝のしおり 御由緒

 紀三井寺の若宮八幡神社の御由緒について紀伊風土記によると、紀三井寺村は昔、村を二分し南北に神社があり現存する釈迦橋より南は若宮八幡を、北は牛頭天王を祀り共に祭礼は九月四日であったとある。 当地、旧紀三井寺村は、日前宮の神領であったので、本来ならば日前宮を産土神とすべきであったが、もともと紀三井寺の金剛宝寺にお仕していた供僧たちによって、形成去れた村であるため、金剛宝寺の鎮守神であった若宮八幡と牛頭天王を産土神としたとある。
 このことから、当社は紀三井寺金剛宝寺の開創と同時(宝亀元年七七〇)に、或はそれ以前よりこの地の鎮守神であらせられたとも考えられる。
 以上のように紀三井寺村は、若宮八幡宮、牛頭天王社を南北の産土神としてお祀りしていたが、明治初期に牛頭天王社を若宮八幡宮(現在地)に御遷座合併申し上げ、又、明治四十二年十月に国の神社合祀令により両社を浜宮神社境内に御遷座合祀したが、昭和二十五年浜宮神社より現在地に還御祭祀いたしている。 さらに昭和四十九年十二月宗教法人法による宗教法人紀三井寺若宮八幡神社となり、昭和五十年十月、還御二十五周年を記念し幣殿、鳥居、拝殿の増改築を行い現在に至っている。なお、昭和四十七年本殿の屋根葺替えの時に発見された安永二年の本殿新築の棟札、明和六年銘の鳥居の石柱の分部が現存している。
  以上

 



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