平成祭礼データの由緒から
木本八幡宮の参拝のしおり
御由緒
社伝によると、神功皇后が三韓から凱旋された時、大臣武内宿禰が幼帝応神天皇をお守りして、この海口(日本書紀にいわゆる紀伊水門の地)に泊り、この地に上陸して頓宮(仮の宮)を造り、暫く留まられた。(船着の松といわれるものが近年まであったが枯死した。)そこで欽明天皇の勅命で西暦五六二年に今の宮の原の地(木本一一五三番地、頓宮の古跡の碑、権殿(ごんでん)が現存し、例祭はここに仮神輿(かりみこし)で下遷宮をした後に行なう)に八幡宮が創建され芝原八幡宮と呼ばれていた。
それより以前、神武天皇のころ、天道根命が天照大御神の霊代を奉じて淡路の国から加太浦に上陸され、この地の厳橿(いずかし)の木の本におまつりして木ノ本の宮と呼んだのが当宮のはじめで、日前、国懸両大神(和歌山市秋月に御鎮座)の由縁の地として、八幡宮創祀以前から地主神として厳橿山(いずかし)(現在の社地)の別殿にまつられていた。天正十三年(西暦一五八五年)秀吉の紀州侵攻の際兵火にかかり、両宮とも神殿を始め宝物、什器(じゅうき)、古典、旧記等多く焼失したため、しばらく仮殿にまつっていた。
元和四年(西暦一六一八年)、新に神殿を造営し、この際木ノ本の宮と芝原八幡宮を一社に合祀して、木本八幡宮と称するようになった。この神殿は現在に伝えられ、和歌山県指定重要文化財になっている。
聖武天皇(西暦七二五年)玉津島行幸の時当宮で魚鳥を放ち放生祭を行なわれたので、旧暦八月十五日に行なわれた例祭を放生祭と称した。新暦の採用により十月十五日に例祭が行なわれるよう改められた。
なお例祭の両日、木ノ本の青年たちにより獅子舞が奉納される。五百有余年の伝統を持ち、特にダンジリでは地上五メートルの所に渡した青竹の上で獅子舞を行い、まことに勇壮活発なものである。この獅子舞は和歌山県から「無形文化財」に指定されている。
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