春日神社
和歌山市松江中3-1-23 地図


鳥居


交通案内

南海電鉄加太線中松江駅 南へすぐ



祭神
武雷命、齋主命、天兒屋根命、素戔嗚命、姫大神、櫛稻田姫命、豐玉姫命、藤原戒藏

社頭掲示板には事代主命、妙見神の名が見える。摂社の祭神であろう。

由緒
 当松江の地は出雲の松江に似ているとのことで、上古、大伴の臣らが出雲の大神を勧請して、近くの湖水の中の小島の松林の中に鎮祭し、代々この村の産土神として崇敬してきた。
 当時の祭神は素戔嗚命、櫛稻田姫命、豐玉姫命であった。池明神などと呼ばれた。

 元弘の役(1331年)の兵火で本殿、社伝、旧記類はことごとく焼失、創建当時の由緒は口伝によっている。
 南北朝の頃、大塔宮護良親王の武将であった藤原高隆が吉野没落後、一族を率いて当地に落ち、名を戒蔵と改め、閑居していた。松江は海に臨み、紀ノ川岸にあり、津波・高潮・洪水の被害が続いていた。そこで戒蔵は長く荒廃していた神社の復興を企画し、正平五年(1350)、己が祖神である南都春日大社の神霊を勧請して、 元の三神と合祀し、春日神社と改称し、今日に至っている。
 戒蔵なきあと、村人は彼の業績を称えて、その霊を合祀した。


拝殿


お姿

 境内をブロックの壁が取り巻いており、濃密な社叢を形成している。楠・樫など木々が密集しているのか、紀の国らしい雰囲気である。
 本殿の東西に妙見社、恵美須社を配して鎮座している。


本殿


摂社 西側恵美須宮 東側妙見宮




お祭り
10月15日  秋季大祭

紀伊續風土記 巻之八 名草郡 貴志荘 中松江村から

○春日明神社  境内  東西二十一間 南北七十二間
 村の北にあり 社伝に曰 正平五年(1350)南都の春日を勧請す 松江三村の産土神なり 末社六社あり 手力雄命・天太玉命合祀 一言主命・梅本明神合祀 椙本社 岩本明神 辛榊明神 青榊明神

○小祠三社
 大神宮 村の東にあり  榎本社 社地周十八間 村の巽の方にあり
 若 宮 春日ノ社の巽ノ方半町許にあり 春日ノ社の旧地といふ 境内周四十間 寛文雑記に大明神并辨天恵美須二社其の外に天王妙見天神山王八王子若宮の六社今廃すとあり 今は辨天恵美須も廃し今の若宮は近頃再建したるなり



『平成祭礼データ』

 参拝のしおり 御由緒

 当社が元弘(一三三一年)の役の兵火に遇い本殿は焼失し、社伝、旧記悉く烏有に帰して、創建当時の御由緒を詳(つまび)らかにするよしもないが、当松江の地形が雲州の松江に酷似しているところから、上古大伴の臣等が出雲の大神を勧請(かんじょう)して、現在の社頭から東南へ百余メートルの湖水の中の小島の松林の中に御鎮座して、代々この村の産土神として崇敬してきた。当時の御祭神は、素戔嗚命、櫛稲田姫命、豊玉姫命の三神で、南海神社、南海水底神社、池明神、池宮神社などと称された。
 ところが、冒頭に記した兵燹(へいせん)に焼かれた本社は再建する人もなく、空しく歳月が流れた。たまたま、大塔宮護良親王の部将藤原高隆(京都の人)が吉野没落の後、一族を率いてこの地に落ちて来て、名を戒蔵と改め閑居していた。
 当時、松江は滄海に臨み、度重なる津波に襲われ、また紀ノ川の洪水にも遇い民家の泯(びん)没することが屡々であった。また、漁を業とする者、農を業とする者の嘆きは目に余るものがあった。 戒蔵はこれを目のあたりにして、南海神社の復興を企画し、正平五年(一三五〇年)巳正月、己が祖神、南部の春日神社の神霊を勧請(かんじょう)して春日神社と改称し、現在の地に合祀して今日に至っている、戒蔵なき跡、村民彼の業績をたたえ崇めてその霊を合祀した。
   以上


古代史街道 紀ノ国編
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