名草神社(なぐさ)
和歌山市冬野2107 ゼンリン


鳥居



交通案内
阪和線  天王寺→和歌山 和歌山バス亀川経由海南藤白行き冬野口下車 徒歩5分、このバスは2時間に一本。
紀勢線  天王寺→和歌山→黒江 北へ徒歩25分、城山中腹。


拝殿



祭神
名草彦命、名草姫命
境内社 祇園社、矢宮社、八王子社、聖社



由緒
 紀伊國造、紀氏の氏神として古くから奉斎されていたとするが、名草彦名草姫は南北朝の頃、吉原より勧請と黒江の中言神社の由緒にある。社伝によれば名草比古命は神産霊命五世の孫の天道根命の五代の孫とされている。 その妻の名草比売命は紀國造「智名曽」の妹と説明されている。

 神武東征紀で賊として殺された名草戸畔との関連については触れられていない。

 万葉集に「名草山事西在吾戀千里一重名草目名國」とある。中世以降は名草郡の地主神としての崇敬を集めた。明治42年、吉原、広原、朝日、出島、本渡の宮宮は冬野の「中言大明神社」に合祀され、名草神社と改称、村社となった。

 

お姿
 名草山の東の城山に東面して鎮座、眺めが良い。社殿は新しい。楠、銀杏、樫が神木であり、それ以外にも木々が多い。


春日造本殿



お祭り
10月14日 例祭  12月14日 火焚祭


向かって左側の池、小島、庚申石

紀伊續風土記 巻之十五 名草郡 五箇荘 冬野村から

○中言大明神社  境内周五十七間
 本 社 方四尺二寸  廳   御供所
  廊  鳥居
 末社四社 
祇園社  矢宮  八王子社  聖社
村中にあり 一村の産土神なり
勧請時代詳ならす 舊は社領三町二段あり 國造家寛永記に見ゆ
 


向かって右側の磐座

紀伊續風土記 巻之十五 名草郡 五箇荘 朝日村から

○中言大明神社  境内周四町餘
 本 社 三尺 四尺  拝所  廳  寶蔵
  瑞籬  鳥居
 末社三社  大神宮  
舞台あり  今熊野社  八王子社
村の坤山の半腹にあり 一村の産土神なり
舊は社領二町七段ありと國造家寛永記に見ゆ
 


紀伊續風土記 巻之十八 名草郡 多田郷 本渡村から

○九頭明神社  社二座 五尺七寸 七尺九寸  境内 東西四町 南北二町
 祀神二坐 國主大明神  
一坐神名不詳
 摂社二社 天照大神宮  塞 神 社
村の山上にあり 一村の氏神なり (以下略)
 


平成祭礼データ 名草神社 参拝のしおり 御由緒

 南海道紀伊之国名草郡五ケ荘冬野村宮垣内二千百七番地に鎮座。
 境内は弐千六百四坪、社領は三町二反(紀伊国造家寛永記にあり)他に燈明田、神楽講田があったが終戦の農地解放で今はない。
 「風雅和歌集」(南北朝時代)に「名草山とるやさかきのつきもせず」とある様に「神の山」名草山を中心に各地にご祭神を祀り、中言大明神と称し、神と大君の中を執り持つ立派な大神である。
 中世以降「名草郡の産土の神」として尊崇厚く各地よりの参拝は、沢山であった由。明治三十九年五月、内務大臣の訓令第一号によって各地の神社を合併せられ、明治四十二年二月二十五日、吉原、広原、朝日南北、本渡東西、石関地区の数十社の神々を全て冬野中言大明神に合祀して、特に名称を「名草神社」と改称され、村社の社格を与えられ、谷口家六十五代、谷口左右衛門源ノ久任久之助を社掌とせられる。旧谷口家は国造紀家の命によって、冬野「若宮城」の城代と神主を兼ね、その命令書がご神殿より数多く出た。
 社宝としてご神霊のお姿五対、火急用「よせがね」大古の御鏡、氏子出生の届出書と、その名付の台帳及び棟札など数多く「東京大学」より調査のあった時は実に驚いた次第である。
 当社の幾多の祭礼神事のうち、特に名高い特殊神事は大祭格として、毎十二月十四日夜の神事は、各農家より稲藁一束を奉納し境内に山と積み、ご本殿にて神主の起こした神の火を名主格の村長、または区長等に下され、それにて藁の山に「火」をつけ、村人達、氏子、参拝者が大声を挙げ火の周囲を廻り、来春の豊作と家内安全を祈る姿は実に盛大であり。主家紀家よりご臨席参拝奉幣あることは有名である。

 以上
 

古代史街道 紀ノ国編
丹生都姫伝承

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