野上八幡宮
海草郡紀美野町小畑623 its-mo







交通案内
紀勢線  天王寺→和歌山→海南
海南駅からオレンジバスで八幡宮

 
祭神
品田和氣命

配神 息長帶姫命、玉依姫命



由緒 神社の御由緒から
 当八幡宮の縁由は古く、神功皇后が三韓より御帰還なさる途中三年間の頓宮の跡と いわれる。 その後欽明天皇の時代(千四百余年前)に、応神天皇の霊を勧請し、この地に八幡 宮が創立された。 ついで永延元年(九八七)に山城国石清水八幡宮の別宮となり、放生会その他神事一切石清水八幡宮に準じて行うべしとし、熟田二百十町を以て神領とし、神官その他役職が定められた。 中世は神領を中心に荘園統治が行われた。 その後幾多の兵乱をまぬがれたが、天文十年(一五四一)根来の衆徒が襲来、社殿・堂舎を初め文書に至るまで焼失し、神事や祭礼は皆廃絶したが、十六年を経て本殿・若宮社の再建に着手し、天正元年(一五七三)に完成をみた。  徳川時代になると、徳川頼宣公がたびたび社参し、鳥居、灯篭・絵馬等を奉納して いる。  昭和三十二年から三か年にわたり、解体修理が行われた。  本殿・拝殿・武内神社・若宮・高良神社・刀剣(銘真長)は国重要文化財、絵馬殿は県指定文化財。以上神社の御由緒から

 紀伊には神功皇后と武内宿彌にまつわる伝承が多く残っている。武内宿彌の生誕の井戸と伝えられる所が和歌山市内にある。 紀氏の傍流の出であるが、その実績により紀氏や蘇我氏の祖と崇められている。 大化の改新に蘇我氏が敗れなかったら武内宿彌が日本の皇室の祖神として高皇産霊神とされていたかもしれない。



お姿
 野上の町を見おろす高台に鎮座、下は旧高野龍神街道である。社域は広い。朱塗りの本殿や摂社は鮮やかに参拝者の目をとらえる。
 南西2kmに縄文時代から室町時代までの複合遺跡「溝の口遺跡」がある。 ここから貴志の方面に出ることが出来、古代からの交通路であった事を伺わせる。




お祭り
10月15日 秋季例大祭


紀伊国名所図会から



『紀伊続風土記』 那賀郡 野上荘 小畑村 から

○八幡宮  社地方二町 山林周二十八町  禁殺生
 本社 一棟三扉 方三町
  拝殿 三間四間   舞台 二間三間   神楽所 二間四間
  宝蔵 二間四間   神子坐 三間半四間  供僧坐 二間三間
  神輿蔵 二間三間  御供所 二間三間
  東廳 七尺間二間九間  西廳 七尺間二間十一間   中門 二間四間
  西座 二間半五間  護摩堂 二間四間  地蔵堂 三間四間
  多宝塔 二重塔二間四間  鐘楼
   右本殿の前及左右にあり
 末社十六社
  若宮八幡宮  奥行一間半 面行二間半   本社の東東にあり
  武内明神社  玉垣の内にあり
  熊野社    稲荷社   天満官  住吉社
  春日社    大神宮   愛宕社  蔵王社
  字賀社
   右本社の後にあり
  八王子社   宝殿宮   弁財天社  高良明神社
  楠木社
   右社地及宮山の内にあり
   八王子ノ社は宮山の嶺にあり 相伝ふ今八幡宮鎮坐の地は往昔国狭槌尊鎮まり坐しゝ地なり 八幡宮今の地に御鎮坐の時其御社を山上に遷し奉りやや後に八王子と崇め奉れるなり 地主の神なれは六月十五日八壬子の祭礼ありといふ
  本願寺 聖仙山別宮院 真言宗古義京勧修寺末 本社の東にあり
  神宮寺 聖仙山萬寿院 天台宗海部郡和歌浦雲蓋院末 本社の西にあり
  鳥居 高一丈三尺内の鳥居といふ 中門の南十二間許にあり
  鳥居 高一丈五尺外の鳥居といふ 内の鳥居の南三町許にあり
  宿居堂 二間に三間外の鳥居の側にあり これを遊覧所といふ
当社御鎮坐の原由を考ふるに 神功皇后三韓御征伐の後筑紫りり御凱旋の時 皇子は武内大臣護奉りて紀伊国日高ノ郡衣奈浦に着せ給ひ 皇后は難波をさして御船を進め夫より又紀の海路に趣き日高ノ郡に至りまして 皇子に合はせ給ひ 皇子と共に御船にて都をさして 還幸の御時名草郡安原郷へ着かせ給ひ 夫より御上陸ありて小竹ノ宮に遷らせ給ふ 小竹ノ宮は長田荘志野村にあり
 其道路御経歴の地 頓宮の御跡に祠を建てゝ斎奉れるなり 安原郷よりここに至りて三里居一日の行程なり これより貴志荘宮村八幡宮まで又三里にして近し 一日の行程なり 宮村より志野村まで又三里許一日の行程なり 今其所各八幡宮を祀れるは皆頓宮の御跡なるへしと相伝へて 欽明天皇の御宇 詔ありて諸国御経歴の地に八幡宮を造営なし給ふといふ 当社御創立も此時の事なるへし 然るに此地猶異なる御由緒もおはしましけむ

 後一條院萬寿二年(1025)乙丑 仙洞より阿波の国司に詔ありて紀国三分一を似て本社末社雑舎に至るまで御造営あり 凡造建する所本社より末社まて十九社中門回廊舞台神楽殿棟数すへて二十二屋同四年 詔ありて石清水の別宮と定め給ひ 放生曾其余神事皆石清水の如く執り行ふへしとて熟田二百町を以て神領とし給へり 七十町は公田 七十町は社頭神田 七十町は荘官ノ給
 下司公文田所目代図師を置きてこれを五荘官ビ称す ヌ石清水の神職より検知職を分ち命し当初に任して代々神事を勤むへき旨 年中神事七十五度 内大祭十六度 仰せ定らる これに因りて神人合せ三十六人本供僧六人新供僧二十人神子託宣一人神子十七人厳子十人其余總追捕使刀禰番頭沙汰人を定め置かる
 これより後当社の隆盛石清水と相並ひて巍々たる神社にて幾多の兵乱を歴れとも凌奪の憂なく古の姿を失はさりしに応仁以後海内の戦争甚しく萬の制度皆蕩蓋して神官補任の事行はれす社法頽廃して衛護やゝ怠慢なりしにや 天文十年(1541)根来の衆徒不時に襲ひ来り所々を放火し社殿堂舎悉く灰燼となる これに因りて神宝文書に至るまて一も遣る物あることぎな しれよろ神事祭礼皆廃絶す 後十六年を経て弘治三年(1557)始めて本社若宮を営造す 後叉十三年を歴て永禄年間(1558〜)近江ノ国の産真賢といへる僧此地に来り霊跡の廃頽を嘆き荘中を誘ひ諸国を勧進して社殿堂舎を建立し別当寺を本舎の左右に造建す
 東を本願寺と号し真賢其身開祖となり 永禄十三年庚午八幡宮造営 棟札には本願真賢上人藤原神主則光藤原?知吉光武部總別当神主久光と書す 此棟札今現存す 本社鰐口の銘に八幡宮鰐口 紀州那賀郡野上郷本願江州真賢上人敬白永禄七年甲子八月十五日とあり 此鰐口今多宝塔にあり
 西を神宮寺と号し古別院五箇寺の社役此両寺にて執り行へり 其再建する所全く古に復する事あたはすといへとも大抵十分の七を得たり 後天正十三年豊臣氏本国を平くるに至りて古の社領悉く没収せらるる 浅野家本国に封せらるゝに至りて社領三石を寄せ鳥居并に神輿等を再建す 我 先君元和の制社領はこれを襲用られ種々の神 具を寄附せられ今に至りて社殿雑舎塔の規制大抵真賢再建の制を備ふといふ これを古に求むれは大に未滅すといへとも国中他の八幡の神祠に較れは其髣髴たるを望む者あることなし 盛なりといふへし 今一歳の大祭三度二月初卯 八月十五日 十一月十五日 内八月十五日を最大祭とす 流鏑馬馳馬の事あり

  八幡宮膀示四至
 隈東應神山并櫟木    限南チャウガ峰并石方事
 隈西薦池并黒岩大榎木  隈北星河并神ノ曲河
今齋の札を立る所も此傍示を用ふ 大抵方五十町の地なりといふ 是即古二百十町の熟田を以て神領と定め給ふ地なるへくして今の野上ノ荘これなり 限南ちゃうが峰并石方今その地名なしといふ 按するに長峰をいふなるへし 音にて呼びてちゃうが峰といふなり 今忌を立るに在田口といふ 即此處なり 石方は中田峰笠石のことならんか

 神宝の類兵燹に焼亡するとも猶遺りし 今に存せる者鳥居の額は 後一條ノ院の 勅額御太刀三振吉野の 帝の御寄附といふ 何の帝なること今知られかたし 
 其除社家の方にて残りたる文書数通あり 各其家の條下に書す又御託宣ノ記と称するもの三巻あり 嘉慶三年(1389)僧別峯の書す所建治四年(1278)当所の下司寺中木工ノ亮入道信智の家婦及女子二人へ八幡宮憑らせ給ひ由良興国寺の法燈図師と問答の事を書せるなり 其言多く佛家の説にして鄙俚怪誕浮屠氏の偽造なるへし 按するに建治四年は嘉慶の前百有余年にあり 百有余年の後に当たりて新たに謎妄の説を書し 往年此の如く事ありといふ 最も疑ふへし 大抵今を去ること四百有余年の 前神を借り佛を罔(シヒ)て?[言壽]張の説をなす者浮屠氏の風習と思はる 小倉の荘光恩寺に蔵する所の高田の神書山東ノ荘伊太祁曽ノ社に蔵る縁起皆同種の物にて時代も紙も一様と云へし 人或いは伝ふる所の舊きを以て信する物あり弁せさるへしやは

 天正中社領悉く収没せられ神官供僧皆変して農となり後叉漸く衰頽してして終に断絶に至る者あり 今猶存する者?知職の家 葛葉氏小畑にあり 
 別当 武部氏動木にあり 供僧 辻ノ坊 上ノ坊 小畑にあり 西ノ坊 下津野にあり 金剛編寺別院にあり 沙汰人 山本氏溝口にあり 番頭六人 中村の藤山氏 溝口の土屋 下佐々の田淵 原野の中原 木津の山本 東上谷の小林これなり
 其余社家存する者二十五家皆農家となれとも今猶神事を勤むる者十六人 其余神子二人他は皆亡絶すといふ

 古荘中皆神領なりし故神官の者に非るも荘中専ら神に奉するを業となせり 其遺風猶残りて今は皆農民となれとも神を敬し祭を重んし神に奉仕すること他荘と異なり 此條舊記文書に因りて書す
 


古代史街道 紀ノ国編

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