国主神社
和歌山県海南市多田714 its-mo
神奈備山と左央に復旧した大鳥居が半分
交通案内
和歌山バス95線多田 東へ15分
祭神
大國主之神 配 事代主之神、天照皇大神、天児屋根命
摂社 住吉神社、祇園神社、聖社
拝み楠と長庁
由緒
社殿は建久の頃(1190〜)、多田源氏の一族によって造営されたとする有力な説がある。
『紀伊国神名帳』に、名草郡坐八十八社官知神四十四社(天神十三社、地祇三十一社)の内、従四位上国主神社とあり、『南紀神社録』には、九頭神社在多田村、祭神は磐排別命、或いは多朝臣の祖神八井耳命か、多朝臣の人此の村に居す、因って其の地を多田と称す、社は正に其の廟ならん、とある。
祭神が大國主之神であるのは、『古事記』に「大穴牟遅神(大國主之神)が八十神からの迫害を避けるべく木の国の大屋毘古の神の御所に来た。」とある。大屋毘古の神の御所とは伊太祁曽神社のこと、ここから5km程度の距離、伊太祁曽神社に滞在中にこの地に妻問いに来訪しているのではないか、なぜならこの地は美人が多い地だからと、高木亨氏の講演録に記載されている。ユーモラスなお話だ。
中古は真言宗系の社僧が奉仕した。明治維新時の神仏分離で文献、記録が紛失している。
敗戦後、住民の間に存否の議論が起こり、長年議論が繰り返された結果、昭和四十五年高木亨宮司が着任して混乱は収束した。
長庁 木造瓦葺入母屋造
住吉神社は東約100mの山中に鎮座、かって阿備の七原一帯(名草山の東の平地)が海であったので、山中に住吉神が祀られたとの説明がある。上の宮は「浮気封じの神」として深夜参拝が有名だそうだ。他は八王子神社、聖神社。
上の宮 左から聖社、住吉社、八王子社
お姿
遠目からも分かる神奈備山の姿である。その西麓に鎮座している。楠木は和歌山の木であるが、その木が神々に敬意を表している姿であるのは、まさに稔るほど頭を垂れる稲穂かなのお姿を実践しているようで、この神社で最も神々しく感じるのはこの楠木であった。
燈籠などには九頭神と彫られているようで、それはごく最近のものでも九頭である。九頭に誇りを持っていることがつくづく分かる。また九頭は楠にも通じるのは偶然かも。
多田(おおた)と言う地名であるが、多田源氏は(ただ)であり、冒頭の有力な説はどうであろうか。この付近には、宇賀部神社、杉尾神社、千種神社など所謂名草戸畔、神武東征時に誅殺された名草の女王、にゆかりの神社が多く、当社はその三社と同一円周上に鎮座しているようだ。
紀伊名所図会 国主神社
当社が九頭神社として古い歴史を持っているのであれば、紀の川に近い太田黒田遺跡の太田との共通性も検討を要するところ。ここに名草戸畔の影を感じる由縁である。
また名草の九頭の民の心の拠り所となったのは、古墳群のある丘陵地の端に神社が鎮座し、祖霊を祀っていると感じるからであろうか。
山頂に小さいながらも磐座のような岩がある。聖地の気が満ちていると言う。
本殿
本殿
お祭り
4月 5日 春祭 10月 5日 秋祭
山頂の磐
かっては山頂で祭祀が行われていた可能性がある。
小さい磐だがびくとも動かない。
紀伊續風土記 巻之十八 名草郡 多田郷 多田村から
○國栖明神社 境内 東西三町 南北二町
本 社 方一間 廰 鳥 居
末社五社
住吉社 方三尺 八王子社 方三尺 聖 社 方一尺二寸
右三社並列して宮山の内本社より北一町にあり
春日社 祇園社土人疱瘡神といふ
右二社は南の方春日谷にあり 後ここに移す
神宮寺 真言宗 護摩堂 鐘 楼
本国神名帳名草郡従四位上國主神
村の東五町許山足にあり 一村の氏神なり 本社より三町許西の方に大鳥居の址あり 芝原に礎石あり 郡中國栖神社多けれども当社尤舊地ととおほしければ本国神名帳に載する社なる事著るし
|
参考 和歌山県神社誌 神社寺院大事典 平成祭礼データ 高木亨宮司の講演原稿
古代史街道 紀ノ国編
神奈備にようこそに戻る |