刺田比古神社 さすたひこ
和歌山市片岡町2−9 its-mo


交通案内

バス県庁前東南700m 和歌山城の南付属小学校の東すぐ

祭神
大伴道臣命、大伴佐比古命
境内摂社 楠龍発達大神社、永川神社、祓戸神社 など
境外摂社 稲荷神社、弁財天社

由緒
 大古、大伴道臣命十世の孫佐比古命がこの地を所領とし、その二十世の孫大伴武持がこの地に住むに及び、祖神を祀った。 大伴氏と紀の国とのつながりは目立たないが、神武東征の伝承にも大伴氏は登場する。
 この社は延喜式内社である。

  続日本紀の神護景雲3年(769年)の条に、陸奥國牡鹿郡の俘囚であった大伴部押人が申し出て言うには「自分たちの先祖は紀伊國名草郡片岡の里の出身である。 先祖が蝦夷を征討するべく陸奥國小田郡に居を構えていたところ、子孫が蝦夷に捕虜にされて俘囚となっていた。そこで俘囚の名を取り除き調庸の民に戻してほしい。」と願い出、これが許されたとある。
 なんともすざましい物語ではないか。これが紀州の人間の生きざまなのだ。

お姿

 戦後植えられた楠の幹が縦横にはしり、八頭の大蛇が空から降りているような印象である。

社殿

 

お祭り
10月17日
 

紀伊国名所図絵

 
 
紀伊續風土記 巻之四 若山上 若山神社部から

○岡  宮  境内周百三十四間 禁殺生
   祀神刺田比古[サスタヒコ]ノ神大國主合祀
  本 社 方一間 外尾方 三間 拜殿 瑞籬 内外鳥居
   神 厨  齋 館  舞 殿  廐
   寶 蔵
  摂社 八 幡 宮舊[モト]は 聖武天皇離宮の跡にあり事は名所舊蹟ノ部に見はる
  末社  辨財天社舊は辨財天山にあり後こゝに移す
   八幡宮     小祠四社相殿
  延喜式神名帳名草郡刺田比古神社
  本國神名帳名草郡従四位上刺田比古神
岡にあり 岡廣瀬國城吹上鹽道の産土神なり 其岡に鎭り坐る神なるを以て土人相傳て岡宮といふ 又九頭明神といふ 或は國津明神とも書せり 國津明神は大國主神なり 寛永記曰國津大明神は上代より此處に鎭り坐せり 縁起寶物兵亂の時紛失せり 昔の舊宮を喜吉年中氏子等集りて修造すといふ 其後天正十七年(1589年)桑山修現亮重晴本國の城代たりし時當社を修造して棟札に雑賀荘岡村當社國津大明神と書す 是は合祀の神の方を擧しなり 刺田比古[サスタヒコ]は古事記に載る所の刺國大神[サスクニオオノカミ]と一神ならむ 刺國は刺田の誤ならんか 古事記の刺國大ノ神は大國主ノ神の外祖父なり 本國に大國主ノ神の縁あり故に所在多く大國主ノ神を祭れり 當社其外祖父を祭るも其縁なり 式には其主とする所の神を擧け土人傳る所は其神名耳習[ナレ]たるより合祀の方を擧て呼名とするなり 其詳なるは神社考定部に辨せり 當社古は社領四町 神事に猿樂あり舞あり 正月十日十一日地頭方領家方と相分れて坐配あり 天正十二年(1584年)社領悉没収せられ神事坐配等是より絶たり 中世兩部となり別當寺あり 封初以來國城の地主神なれば殊に崇敬を極められ延寶元年(1673年)命ありて唯一に復し祠官を社地に移す  有徳大君の御産土神なるより享保十四年(1729年) 台命を以て名草郡田尻村に於て社領二百石を寄附し給ひ年々一萬度の秡を命せられ御太刀一口を納め給ひ 神主岡本氏五年に一度頭御禮[カハリ]御代替繼目等皆 拜謁を 祭禮二月六月九月十七日なり


 

刺田比古神社公式サイト

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