武内神社
和歌山市松原97 its-mo


境内


交通案内
阪和線    天王寺→和歌山(60分830円)
バス     安原行き安原下車東600mで東池に当たり南に300m

武内宿彌の際産湯を汲んだとされる井戸 享保年間に囲いを作った。



祭神
武内宿彌



由緒
 近くに武内宿彌誕生井がある。 この当たりで生まれたとされる。紀氏の傍系であったが、本流が途絶えたこともあって本家になった。 数代の天皇に二百年以上仕えたとされているが、子々孫々同じ名前を名乗る事は、商家、役者等にもある。
 日本書記には武内宿彌を祖とする氏族として波多氏、巨勢氏、蘇我氏、平群氏、紀氏、葛城氏をあげている。天皇家以外の大臣の系譜が詳細に記されているのは珍しいとされている。 権力中枢における紀氏の大きい力を証明するものとの説もあるが、それよりも武内宿彌が限りなく大王に近い存在であったと理解しておく方が正しいと思われる。
 武内宿彌を祖とする各氏族と同じ地名が福岡県の中央部の甘木市の周辺と大和(紀氏は肥前基肄郡と紀伊)に分布している。集団での氏族移動のあったことを示唆している。*1



お姿
 本殿は落ち着いた雰囲気である。拝殿などはさえない。

本殿


紀伊国名所図絵から



武内宿彌の誕生の地の神奈備流推測 「名草の神々」に補足

 神武天皇即位とその後の八代の天皇の実在については疑問視されています。妃、子供、宮、御陵が記載されていますが、治世について具体的に記されていないことが主な理由です。 またこの王朝を葛城王朝と名付けて、物部氏の邪馬台国を倒した狗奴国とする鳥越憲三郎氏の説もでていますが、殆ど評価されていないようです。
 各天皇の御子達が各地の氏族の祖となっている様子が細かく記載されています。出自を皇室につなげたい氏族を満足させる役割は果たせたのでしょう。

 第八代の天皇(大倭根子日子国玖琉[オホヤマトネコヒコクニクル]の命)の漢風諡号は孝元天皇と言い、この天皇と物部の伊迦賀色許売[イカガシコメ]との間に比古布都押の信[ヒコフツオシノマコト]の命がいます。 この比古布都押の信の命が木の国の造の祖、宇豆比古[ウヅヒコ]の妹、山下影日売[ヤマシタカゲヒメ]を娶って建内の宿禰[タケシウチノスクネ]が生まれます。

 日本書紀の孝元天皇の項では、孝元天皇と伊香色謎命の子が彦太忍信命[ヒコフツオシノマコトノミコト]で、武内宿禰の祖父と出ています。 また日本書紀の景行天皇の項では、「景行天皇が屋主忍男武雄心命[ヤヌシオシオタケヲゴコロノミコト]を紀の国に派遣します。阿備の柏原で神祇を祭り、住むこと九年、紀直が遠祖の莵道彦[ウヂヒコ]の女子の影媛[カゲヒメ]を娶って、武内宿禰が生まれた。」としています。
 『紀伊国名所図会』によれば、海草郡美里町長谷宮の長谷丹生神社の鎮座地を楮皮杜(ちょひのもり)と言うのは、孝元天皇の時、武雄心命が来て当地の楮の皮で紙を漉く事を教えたと言う伝説によるとあります。 一応の足跡伝承は残っているということでしょうか。

 すこしややこしいので、系譜にしてみます。
古事記  孝元天皇ーー比古布都押の信の命ーー建内の宿禰
日本書記 孝元天皇ーー比古布都押の信の命ーー屋主忍男武雄心命ーー建内の宿禰
母親は、木の国の宇豆比古[ウヅヒコ]の妹、山下影日売[ヤマシタカゲヒメ]であることは共通です。

 神奈備としては、それぞれが祀られている神社を調べて建内の宿禰の生誕の地に迫ってみたいと思います。

【祖父、もしくは父とされる比古布都押の信の命】を祭る神社
福岡県八女郡水田町大字月田字宮脇 玉垂神社
佐賀県伊万里 伊萬里神社
鹿児島県川内市 新田神社摂社武内社
京都府天田郡三和町 梅田神社
の四座です。九州が多く、和歌山では見あたりません。

【父とされる屋主忍男武雄心命】を祭る神社
長崎県東彼杵郡波佐見町井石郷 井石神社
佐賀県三養基郡北茂安町大字白壁 千栗八幡宮
佐賀県武雄市武雄町大字武雄 武雄神社
福岡県宗像郡玄海町大字鐘崎 葛原神社 以上九州
奈良県桜井市谷 若櫻神社摂社高屋安倍神社
滋賀県蒲生郡日野町村井 馬見岡綿向神社
滋賀県蒲生郡日野町上野田 五社神社
滋賀県犬上郡甲良町尼子 甲良神社 以上近畿
新潟県西頚城郡名立町大字名立大町 江野神社
 やはり九州が目立ちます。和歌山では見あたりません。

問題は【母親の山下影媛】だと思います。
福岡県宗像郡玄海町 葛原神社
福岡県小郡市 竃門神社
福岡県八女郡水田町大字月田字宮脇 玉垂神社
佐賀県武雄市朝日町大字中野 黒尾神社
 すべて九州の北部です。残念ながら和歌山には見いだせません。

 武内宿祢誕生の地の有力な候補地は、和歌山と佐賀です。
和歌山市安原にも誕生の産湯の水を汲んだ井戸と言われる武内宿彌誕生井と武内神社があります。
佐賀県の武雄温泉で有名な武雄市に武雄神社が鎮座、やはり武内宿彌誕生の地との伝承が残っています。

 両親は圧倒的に九州が優位です。親が九州で赤ん坊だけが和歌山と言うことにはならないでしょう。 残念ながら、武内宿祢は九州出身としか言いようがありません。正確には武内宿祢や神功皇后、応神天皇の伝承は九州を中心に語られていたと言えるのではないでしょうか。

 地域別に武内宿祢を祀る神社数を調べて見ました。八幡神社が各地に勧請されており、そこに武内宿祢が祭神として入っていることが多いと思われるので、資料としての価値は乏しいとは思いますが、掲載して見ましょう。
福岡 138、島根 82、大分 69、広島 57、兵庫 39、岡山38、鳥取 36、佐賀 32、(和歌山 14) と並びます。瀬戸内海と日本海コースで、近畿にやってきたようです。五十猛命も九州と出雲から来ているようで、紀氏が紀の国へやって来た道か、紀氏が海運で展開した方面を示しているように思われます。

 建内の宿祢の子供を祖とする氏族名が上げられています。
波多の臣、許勢の臣、蘇我の臣、平群の臣、木の臣(中央の紀朝臣)、葛城の長江の曾都毘古、若子の宿祢です。 これらは大和で活躍していた豪族名ですが、九州に同じような地名があります。

『邪馬台国の東遷』(奥野正男著)を引用します。北九州の地図のつもりです。



  博多湾     /
   −−−−−−/
        曾我
    平群    羽田
 背振山地
=======  I      甘木
        ==I基肄
武雄  巨勢   I葛木
    −−−−−+−−−筑後川        
  有明海


 応神天皇、神功皇后、武内宿祢の東征軍の中に、紀氏等もその一翼を担っていたのでしょう。



武内宿彌の有力な誕生地
 武雄神社 佐賀県武雄市 武雄は宿彌の父の名、宿彌の生誕地との説がある。



*1 邪馬台国の東遷(奥野正男)

紀の国 古代史街道
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