東照宮
和歌山市和歌浦西2-1302 its-mo
一の鳥居と権現山
交通案内
バス臣和歌浦
祭神
徳川家康(東照大神) 配祀 徳川頼宣(南龍大神)
摂社 弁財天社、稲荷社
由緒
紀州の日光と云われる。 元和五年(1619)紀伊に入国した徳川頼宣は、東照宮造営の地を求め、和歌浦雑賀山に定めた。元和七年に完成、天海僧正を導師としてて正遷宮を行った。式には関東や比叡山の衆徒370人が来紀、法華千部が読誦された。
元々、東照大権現、日吉山王権現、麻多羅神の三神を祭祀していた。この祭神の組み合わせは、水戸東照宮も全く同じで、どうやら麻多羅神は最澄(伝教大師)唐の青龍寺の鎮守の神である麻多羅神が現れたと伝わり、比叡山の鎮守である日吉大神と同体との説もあり、天海僧正の好みの神だったのだろう。
まさか、太閤秀吉を日吉大神、織田信長を麻多羅神になぞらえた訳でもあるまい。
加門七海さんの『東京魔法陣』には、日前宮と伊太祁曽神社と東照宮とが二等辺三角形になるように鎮座していると指摘している。紀の国の大神の気を取り入れて紀州徳川家の治世の順調なこととお家安泰を図ったものであろうか。
石段と楼門
お姿
権現山の山腹に鎮座、お隣の天満天神さんとよく似ている。 参道は木々に覆われ、石段前右手の下方に弁財天社が鎮座、美しい景色である。
社殿は権現造で漆塗りの極彩色、それを見るのには入館料が必要。江戸時代初期の代表的な建築物。これらを含めて楼門までが国重文である。
拝殿
社殿
お祭り
和歌祭 5月 中旬日曜日 1日間
例祭 2月17日 5月1日 9月17日
和歌祭は当社創建以来の祭りで、行列は5月中旬に御籠行列、連尺、母衣、雑賀踊など、和歌山市民の最大のお祭り。
弁財天
紀伊續風土記 巻之二十二 海部郡 雑賀荘下 和歌浦から
○東照宮 境内方八町 宮山周回五十町餘
本社三座 前殿 東西五間 南北二間半
本地堂 方四間本尊薬師如来脇立日光月光四天王十二神将
三重塔 方二間本尊大日如来左右八幡宮愛染明王
鐘楼 護摩堂 方四間本尊不動明王
神輿舎 東西二間南北四間 御供所 東西四間南北七間
寶 蔵 竹 臺
唐 門 東西回廊 神楽雅楽之所
楼 門 随身門ともいふ 東照宮三宇の額あり日光宮守澄法親王筆
慈眼堂 方三間 拝殿 東西五間南北二間
経 蔵 御 橋 日光山管の橋に擬す
御 池 竹生島辨財天勧請の社あり
石 檠 社壇の下より楼門石階の左右鳥居に至るまで総て百餘基あり
別 當 雲蓋院 和歌山天曜寺 天台宗
本 堂 大書院 御装束所ともいふ 駿府より移し給ふ所なり
小書院 上に同じ 新書院 内佛殿
方 丈 外庫裡 内庫裡 表玄関
内玄関 四足門 通用門
以下省略
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平成祭礼データ
「和歌の浦に名所がござる、一に権現さま」と仰がれ、親しまれているのが、当宮である。
もと、東照大権現、日吉山王権現、摩陀羅神の三座を奉祀していた。 東照大権現とは、薬師如来が、日本で顕現したという神号であって、病気を平癒し、請願一切を成就するという信仰厚く、賽者は多い。
徳川家康公は、薬師如来の生れ代りであるという伝承による。正保二年、宮号の宣下により、東照大権現は東照宮と改められた。
元和七年(一六二一)南海道の総鎮護として、紀州藩祖徳川頼宣公によって創建せられた、自ら指揮をとり、造営奉行に安藤帯刀直次、彦坂九兵衛光正を任命し、表の百八段(侍坂)の石組などは武士以上のものに運ばせるなど、鶴岡八幡宮の古例にならい、造営された。御社殿の結構は「権現造り」といって、桃山時代の遺風をうけた江戸時代初期の代表的な重要文化財建造物である。漆塗り、極彩色の精巧な彫刻、狩野・土佐派の絵によって荘厳された豪華さは、関西日光の名に恥じない。左甚五郎の彫刻の多いのも天下稀有である。天下の名勝、和歌の浦波に映ゆる松の緑に覆われた山容と丹青の妙を尽した社殿の調和と破格は、万人に歴史的回想を促がし、伝統への郷愁と魂のふるさとを凝視せしめる。大正六年、南龍大神を合祀されている。
祭典としては、俗に和歌祭といわれる神輿渡御祭が有名である。御創建以来伝承されているこの祭は、紀伊国伝統芸能の集約化されたものが行列に参加しているので、民族的にも貴重な祭典である。
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