天満神社
和歌山市和歌浦西2-1-24 its-mo

石段と楼門


交通案内
バス新和歌浦

 
祭神
菅原道眞

摂社 多賀神社「伊邪那岐神、伊邪那美神」、天照皇大神官,豊受大神官「天照大神、豐受大神」、白山比賣神社「菊理媛神」、高富稲荷神社「宇迦之御魂大神」

楼門


楼門は四本の太い丸柱をもち、一間一戸、入母屋造、本瓦葺の建物である。墨書によって慶長十年(1605)に再建されたことがわかる。
一階の柱間には厚い板扉が釣込まれている。二階は三間二間の建物としているが、このような類例は非情に少ない。軒は二軒扇垂木であるが、軒の反りがのぼやかで全体として秀麗な印象を与える建物である。桃山時代の建築様式を示す美しい楼門であるが、全体に禅宗様式が取り入れられている。

由緒
 『紀伊名所図会』によると、康保年間(964〜968)、橘直幹が太宰府から帰洛の際、当地に立ち寄り、菅原道真が太宰府左遷に際し、和歌浦で歌を詠じたことにちなんで社殿を築いたことの始まると言う。
 また道真が和歌浦へ立ち寄った時、漁民が網で作った円座に休憩したことにより、網引天神とも称された。

 天正十三年(1585)、羽柴秀吉の紀州攻めで焼き払われたと伝え、のち桑山重晴が修造したらしい。
 東隣の権現山に東照宮が建立されると、当社は和歌浦の地主神として崇められたと言う。

拝殿

お姿
 鎮座する山を天神山と言う。
 本殿、楼門、摂社の多賀神社と天照皇大神官・豊受大神官の本殿は国の重文。
 天満神社がこのように華やかなのはあまり知らない。

本殿

多賀神社と天照皇大神官・豊受大神官
 

お祭り
 3月 25日 例祭  7月 25日 夏季例祭



紀伊續風土記 巻之二二 海部郡 雑賀荘下 和歌浦から

○天満天神社
本 社 
東西五間 南北二間  拝 殿 方二間半   唐 門
 楼 門 
二間半高陽門三字の額あり 近衛三藐院信基公筆なり
 左右回廊 
各七間半宛   本地堂 方二間半
 鳥 居 
山の麓御手洗の中にあり
末 社 白山明神・三宝荒神  伊勢両宮・住吉明神  多賀明神・白大夫

 宮山に続きて西の方山の半腹にあり 此地に舊より鎮りませるにより 東照宮御鎮座の時当社を以て地主神とし給ひ社領二十五石を寄給へり 当社舊小社にて社地も狭隘なりしに慶長年間(1596〜)浅野家修造ありて山巖を鑿開し土地を広くし社殿の造営美を盡せり 本社の階左右欄杆攅擬宝珠の銘に紀伊国和歌天満天神浅野紀伊守豊臣朝臣幸長再興之慶長拾乙巳年五月朔日とあり又棟札に本社唐門瑞籬拝殿楼門東西回廊慶長十年浅野紀伊守幸長再興翌年左兵衛佐卜部兼治遷宮とあり 本地堂は桑山治部郷法印宗栄建立の棟札あり 末社三宝荒神社も天正十六年桑山氏造立の棟札あり 然らは当社修造の事桑山氏の時より其初を開きなるへし 寛文記曰和歌大神の縁起并に御輿器械等退転 天正十三年豊臣太閤の軍士に焼払われしといふ 社家ノ説曰橘ノ直幹自太宰府帰京師時泊船於此浦面始奉祭焉林羅山詩集記する所の説これと同し 浅野氏修造の時藤歛夫惺窩先生を招きて菅廟の碑銘を作らしむ 惺窩先生碑文中に曰 今ノ国主豊臣姓浅野氏幸長公就昨土之封之五年相舊制之隘陋面於邑不惜焉神之生先成民面後致力於神鑿開兆域依岸壁畳鋸石■■■■百工子来祠堂不日以落矣刻画華彩丹漆■■延■之宏壮照顔奪目云々全文文集中に載たり 然れとも故ありて建すといふ 或説曰桑山氏の時より菅廟をかく壮麗に修造の事を始めしは豊国明神を合せ祀りしなりといふ 今其事詳ならす 神主安田某 東照宮の神職を兼務せり

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