東田中神社
紀の川市打田町打田577 mapfan


鳥居


交通案内
阪和線  天王寺→和歌山
和歌山線 和歌山→打田駅 南東1km



祭神
大山咋命、大己貴命、猿田彦命、須佐之男命、天照皇大神、天兒屋根命、倉稻魂命、興津彦命、興津姫命、少彦名命、足仲彦命、譽田別命、息長足姫命、市杵嶋姫命

拝殿



由緒
 日吉神社・一之宮神社・若宮神社・中村神社を日吉神社の社地に併せ祀り、東田中神社と改称した。当時は本殿四殿が並んでいたが、旧中村神社の社殿が焼失、旧若宮神社は台風により倒壊、復旧できず現在は二殿。

 第一殿は日吉神社で山王権現。天長年間(824〜)慈覚大師勅命を蒙り江州坂本より勧請、よって祭礼の式は坂本の如し、又「源平盛衰記」に曰く、嘉保二年(1095)叡山の衆徒訴訟の事に因りて洛中に押来り陣頭へ参る。後に二条関白師道公中務頼治に命じ、法に任せて禦ぐべしと下知せられけば、頼治禦りて疵を蒙る神民六人、死する者二人祢宣友實が背に矢立ければ社司寺官皆逃れ帰りぬ。夫れより一山の衆徒関白殿を呪詛しけるとぞ、此に固りて関白殿山王権現の祟り有りて重痛を受け苦しみ御母并に北政所嘆き給い、様々の御祈願あり、その頃関白殿の荘園なれば日吉山王へ寄進し給う。又或説に此の地に山王を祀り来りしに、嘉保二年より此の荘を叡山に寄付せられしより、社益々繁栄して社殿等壮麗を極め荘中八社の総になるに至る。

 第二殿 は一之宮神社(竹房神社・前の神)。

 第三殿は中村神社で焼失のため社殿跡のみ。

 第四殿は若宮八幡宮、台風のため倒壊、跡地のみ。



お姿
  境内山林は社域の奧にまで長く、社殿の周囲を広く覆い、杉の大樹もあるようだ。竹房神社社殿は様式は室町末期。一間社隅木入春日造 県指定文化財である。

本殿

本殿



お祭り
 10月 10日 例祭

『紀伊続風土記』那賀郡 田中荘 竹房村 から

○一ノ宮  境内除地
 末社雨宮

 村の巽 紀ノ川の巖上にあり 竹房黒土赤尾三箇村の産土神にて荘中八社の一なり 祀る神詳ならす 本地は阿弥陀といふ 按するに本国神名帳那賀ノ郡地祇部に従四位上前ノ神あり 疑らくは一宮は即此の神あらむ 神埼村に鎮りいませるを以て前ノ神といふか延喜式には載せられてされとも本国にありて官知の神にして尊き神にいませは荘中の一ノ宮と称へ来りしなるへし 古は社領二十五石ありしといふ 境内に賓頭廬堂毘沙門堂あり

    別 当    一 宮 寺
 宮の境内にあり 真言宗古義勧修寺末なり

 

『紀伊続風土記』那賀郡 田中荘 打田村 から

○山王権現社  境内周十四町許

 村の東の端にあり 打田上野花野中井坂下井坂阪馬場西大井東大井黒土竹房窪十一箇村ノ産土神なり 田中ノ荘八社の一にして総社といふ 相伝ふ天長年中慈覚大師 勅命を蒙り江州坂本より勧請す 因りて祭礼の式坂本の如し 又「源平盛衰記」に曰 嘉保二年(1095)叡山ノ衆徒訴訟の事に因りて洛中に押来り陣頭へ参る 後二条関白師道公中務丞頼治といふ侍に命して法に任せて禦ぐべしと下知せられたれは頼治散々に禦きて疵を蒙る神民六人死する者二人祢宣友實が背に矢立ければ社司寺官皆逃れ帰りぬ 夫れより一山の衆徒関白殿を呪詛しけるとそ 関白殿の夢に比叡の大嶽己れの身に頽れ壓り又東坂本の方より鏑矢来りて寝殿の上に立つとみて夢さめて青侍をして見せしめらるヽに寝殿の狐戸にしでの付たる榊一本立たり又殿の髪際に悪瘡出来ければ御母儀并に北政所嘆かせ給ひて様々の御祈あり 紀伊ノ国田中ノ荘は殿下の荘園なれとも八王子に御寄付あり これに依りて問答講とて後々まても退転なしとなり 此の事長瀬本平家物語にも出たり
 或説に此の地に山王を祀るは此の時より始まるといへり 今按するに旧より此の地に山王を祀り来りしに嘉保二年より此の荘を叡山に寄付せられしより此の社益々繁栄して社殿等壮麗を極め荘中八社の総社なといふに至りなるへし 社領も四町九段餘なりしといふ 天正の兵火に社堂雑舎神宝文書等悉焼亡して社田神祭も皆廃絶す 其の後氏人等再造営せり 古に復するには足らすといへとも祠宇頗盛なり

   別当   山王寺 法輪山一乗院 真言宗古義勧修寺末
 権現の社地にあり 本地堂釣鐘堂等あり


○若宮八幡宮  境内除地
 村の南二町餘にあり上ノ宮と称す 荘中八社の一なり 打田東大井赤尾黒土竹房窪六箇村の産土神とす 此の社天正の兵火に罹りて旧記を失ひ神の来由詳ならす 此の社を上ノ宮と称へ尾埼村の八幡社を下ノ宮と称へともに若宮八幡宮と唱へ来り 神祭も同日なるとこは同神なるへし 古は上下両社とも社殿も壮麗に神田も多く有りて並々の社にあらす 意ふに古 神功皇后三韓より御凱旋の時 皇子と共に名草ノ郡安原ノ荘より御上陸ありて小竹ノ宮に遷らせ給ひ夫より大和に 還幸ましましし時此の地その御駐蹕の地なるを以て後八幡宮を建て奉祭せしなるへし 上下に別れしは上ノ荘下ノ荘と別れしより神社をも両所に分ちしならむ 古は護摩堂御輿蔵拝殿舞舞台并神宝文書の類多くあり神田も二十二町高七十三石あり 天正の兵火に罹りて灰燼となり社田も廃絶す

   別当   若宮寺 真言宗古義勧修寺末
 八幡宮の社地にあり


○中ノ宮     境内除地
 村中にあり 荘中八社の一にして打田上野窪東大井四箇村の産土神なり 祀神詳ならす 此の社の巽に若宮八幡あり これを上ノ宮といふ 尾崎村にある若宮八幡宮を下ノ宮と称ふ 此の神社その中間にあれば中の宮と称するならむ 上下両社は同神なれとも当社は万事別なれは別神なるへけれとも其の神名いまた考え得す 古は社田三町餘あり 天正の後廃絶すといふ 神主井畑氏なり

 


 

『和歌山県神社誌』

紀の国 古代史街道
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