三船神社
紀の川市桃山町神田101 its-mo


鳥居


交通案内
阪和線  天王寺→和歌山
和歌山線 和歌山→岩出 桃山町営バス神田

 
貴志川線 和歌山→貴志 徒歩6km



祭神
木霊屋船神、太玉命、彦狭知命

境内社
   丹生神社「丹生都比売神」合祀 大神宮、蛭児神社、住吉神社、荒神々社、妙見神社、琴比羅神社 
   高野神社「高野御子神」 合祀 愛宕神社、八阪神社、三社神社、稲荷神社、八阪神社、平岡神社、厳島神社

本殿正面 三間社流造



由緒
崇神天皇の皇女豊鍬入日売命の創祀と伝えられている。『崇神紀』崇神天皇の妃の一人に遠津年魚眼眼妙媛の名が見え、荒川戸畔はその親、豊鍬入日売命は妙媛の子。
 木霊屋船神は、木を加工して家や船が作られたが、木の神がそのまま家屋や船の守り神になるとされる古い信仰の神であろう。 太玉命、彦狭知命は忌部氏の祖神である。
 『閉ざされた神々』沢史生著によると「高野山の文書に当社の神職に与太職と呼ばれる者がいたと云う。与太職は『名語記』に「日前宮で、神主の次の位で神殿を預かる役の神官」とあると云う。」 この与太は沖縄のユタ、与止日女神社の祭神の与太姫に通じ、託宣の意味があると云う。
 そうすると東北のイタコとの関連もありそうだ。



お姿
  安楽川桃の産地の産土神社である。三本殿と200Mの参道は見事である。 特に左側の丹生明神、高野明神は極彩色の桃山時代方式の本殿である。天正十九年(1591年)再建されている。 丹生都姫をお祀りしている神社は概してきれいである。
 現在地の3km東の黒川の稲村明神社が元社とされる。


社殿 摂社は一間社隅木入春日造



お祭り
10月16日 例祭 摂社の八幡宮では7月晦日の夜、氏子の親子が麦藁を割り竹で包んだ松明をかざして御旅所まで歩く古式ゆかしい火祭りが今もひっそりと伝えられている。




紀伊續風土記 巻之三十八 那賀郡 安楽川荘 神田村から

○御船明神社   境内森山 東西二十間 南北百八十間 

 本 社 二間三間  祀神 太玉命 木霊屋船神 彦狭知命  合殿
 摂社二 各八尺一丈
  丹生明神社  高野明神社
 本地堂  御影堂 弘法大師  御輿堂
  舞 台  廳    経 蔵  釣鐘堂
  鳥 居  仲 門  馬場東西一町巾九間  神幸所 回六十間
 本国神名帳正一位御船大神
 村中にあり 安楽川荘中の産土神なり 三代実録貞願三年(861)七月二日甲戌授紀伊国正六位上御船神従五位下とある 即此神なり 当社天正の始焼失して伝記等今伝はらす 祀神御姫大神は延喜式神名帳に伊勢国度合郡大神の御船神社と見江たると同神なるへし 其社に延暦儀式帳に御船神社一處称大神之御蔭川形無倭姫内親王定祝とありて倭姫世紀に天照大御伊蘇宮より御船に御し寒川に御船をとどめ給ひて其處に御船神社定給ふ由を記せり 按するに此地は天照大御神の御船代を戴き奉れる豊鋤入姫命の母君の産土なれは此神を祀れるも深き由縁ある事なるへし 天正十九年(1591)木食応其当社の衰廃を歎きて再興せしより社殿等やゝ備はれり 其後宝暦年中(1751)再営に御船は社号と思ひしにや丹生高野の神を祀れるよしの棟札あり 是高野領なるを以て謾に此神とせしなり 又近世其説を非として齊部氏の祖神を祀るといふ説ありて荒川を御木麁香の麁香と一とし御船神を水霊屋船神の叉名とせり 是叉甚しき臆説なり

祭礼 九月十六日 正月十一日 三月三日なり 九月十六日流鏑馬あり 又七月十六日に神舞といひて氏子中神前に集りて一村一村次第に躍ることあり 甚古風なることなり 歌の文句も鄙からすといふ

 当社鐘の銘にに淡州国府八幡宮大工平重吉文明九(1477)暦 丁酉 十二月一日願主社僧等叉傍に紀州安楽河荘三船之宮明應五天 辰丙 五月三日とあり 淡州の鐘転して此地に来り追ひて銘を刻むと見江たり
 御湯釜も古物にて銘に安楽川荘三船御宝前御湯釜永正十一年(1514)戊甲 九月吉日とあり 社の後に蛇松といふ松あり 長十ニ三間 龍鱗の如し
 宮の西馬塲の中程の北に高き芝あり 明神の神幸所所なり 古宮といふ 今に此地を掘るに賽銭白砂のまま出る事ありといふ

 里人いふ 当社古は黒川村にあり 後秘文の瀧の東十町余高野村領中の宮といふに移し夫より古宮に移し天正年中(1573〜)應其再建の時今の地に移すとそ

     神 職    在 井 氏
 忌部氏の末裔といふ 咸状数通を蔵す 古文書の部に出せり
 



『平成祭礼データ』から

 当社は、人皇十代崇神天皇の皇女豊耜入日売命の創祀と伝えられ、鳥羽法皇、美福門院の御信仰もあつく、古くから安楽川莊中の産土神として祀られた社である。紀伊国神名帳には正一位御船大神と記され、神田浦垣に奉祀されたのがはじめといわれる。本殿には木霊屋船神、太玉命、彦狭知命、摂社には丹生都比売命、高野御子神が祀られ、明治の末ごろから、安楽川村四ヶ大字の各神社祭神を合祀している。
 現在の社殿は、天正のはじめごろ社殿が焼失したのち高野山座主木食応其上人により天正十九年(1591)に本殿が再建され、摂社はやや遅れて慶長四年(1599)の造営になるものである。三社殿は全体に保存がよく、各所に種々の彫刻が施されたうえ極彩色にいろどられ、和歌山県下における華麗な桃山時代の形式、手法を示す社殿として価値のある遺構である。
 以上

 

『紀伊続風土記』那賀郡安楽川荘下 神田村 から

○御船明神社   境内森山 東西一町四十八間 南北四町
本 社 二間 三間 祀神 太玉命 木霊屋船命 彦狭知命
摂 社 各八尺 一丈
  丹生明神社  高野明神社
本地堂  御影堂 弘法大師  御輿堂
  舞 臺  廰    経 蔵  釣鐘堂
  鳥 居  中 門  馬場 東西一町 巾九間  神幸所 回六十間
本国神名帳正一位御船大神
 村中にあり 安楽川荘中の産土神なり 三代実録貞観≡年七月二日甲戌授紀伊国正六位上御船神従五位下とある 即此神なり 当社天正の始焼失して伝記等今伝はらす 祀神御船大神は延喜式神名帳に伊勢国度会郡大神の御船神社と見えたると同神なるへし 其社は延暦儀式帳に御船神社一處称大神之御蔭川神形無倭姫内親王定祝とありて倭姫世記に 天照大御神伊蘇宮より御船に御し寒川に御船をとどめ給ひて其處に御船神社定給ふ由を記せり 按するに此地は 天照大御神の御霊代を戴き奉れる豊鋤入姫命の母君の産土なれは此神を祀れるも深き由繰ある事なるへし 天正十九年木食應其当社の衰廃を嘆きて再興せしより社殿等やや備はれり 其後寶暦年中再営に御船は社号と思ひしにや丹生高野の神を祀れるよしの棟札あり 是高野領なるを以て謾に此神とせしなり 又近世其説を非として斎部氏の祖神を祀るといふ説ありて荒川を御木麁香の麁香と一とし御船神を水霊屋船神命の又名とせり 是又甚しき臆説なり 祭礼九月十六日正月十一日三月三日なり 九月十六日流鏑馬あり 又七月十六日に神舞といひて氏子中神前に集りて一村一村次第に躍ることあり 甚古風なることなり 歌の文句も鄙からすといふ当社鐘の銘に淡州国府八幡宮大工平重吉文明九暦丁酉 十二月一日願主社僧又傍に紀州安楽河荘三船之宮明應五天辰丙 五月三日とあり 淡州の鐘転して此地に来り追ひて銘を刻むと見えたり 御湯釜も古物にて銘に安楽川荘三船宝前御湯釜永正十一年 戊甲 九月吉日とあり 社の後に蛇松といふ松あり 長十二三間龍隣の如し 宮の西馬場中程の北に高き芝あり 明神の神幸所あり 古宮といふ 今に此の地を掘るに賽銭白砂のまま出る事ありといふ 里人云ふ 当社古は黒川村にあり 後秘文の瀧の東十町餘高野村領中の宮ビいふに移し天正年中應其再建の時今の地に移すとそ
    神  職    在 井 氏
忌部氏の末裔といふ 咸状数通を蔵す 古文書の部に出せり

 

『和歌山県の歴史散歩』(和歌山県高等学校社会科研究協会)山川出版社

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