相賀八幡神社
橋本市胡麻生238 mapfan

拝殿

交通案内
和歌山線、南海高野線 御幸辻


東へ 1.5km

祭神
譽田別命、足仲彦尊、氣長足姫尊

本殿

由緒
 平成祭礼データCDから
勧請年月日不詳。県中の古社で、官知社の一つである。初めは住吉神社の神々を祀っていたが、後に相賀荘領主坂上鷹養が石清水八幡宮を勧請して相賀八幡宮と称した。
胡麻生の地名は「慶長検地帳」に「胡門」とありまた「御門」ともある。 氏神の門のあるところから付けられたのであろう。
天正9年(1581年) 高野衆徒との兵火で消失、 天正14年(1586年)牲川海部によって再 興造営された。 時勢の変遷にもかかわらず氏子や近隣の崇敬を集めている。
社宝として天正21年(1366年)の鳥居の額がある。

住吉大社神代記
住吉大社神代記に記されている丹生川上に天手力男意気続々流住吉大神を鎮めたとある社の後裔とされているが、住吉大社神代記は平安前期以降の偽書と言われている。
 船木氏が神職をつとめていた住吉大社は、息長足姫と密接な関係があり、意気続々流は息長足姫を連想させる。また船木氏は伊勢の出で三重県多気郡多気町大字仁田156に佐那神社があり「天手力男命」を奉じていた。 これらを組み合わして題名の神名を構想したようである。まさか冗談でこんな神名を記すことはないだろうから、本気でやったのだろうが、こんな神名が通用したのか、それとも区切って記したのがいつの間にか一本になってしまったか、と言う名である。

 丹生川の川上には富貴、筒香と言う地がある。タタラのフキの富貴は丹生都比売を鎮め祀った藤代の峯があるとされている所で、筒香は「つつ」が住吉の祭神を連想させるのも不思議である。

 丹生川の川上は赤土の地で水銀や褐鉄鉱が出ていたようで、鉄が作られていたかもしれない。鉱脈が尽きたのか丹生都比売も播磨へ遷っているが、鉄を取る役割の船木氏も播磨へ移っている。 なお、丹生都比売は播磨から、筒川に奉じられたと播磨風土記の記載されており、本家は播磨との主張である。

お姿
 本殿は実にきらびやかである。拝殿やその前の広場もきれいに整備されている。華やかさと落ち着きのあるいい神社である。
 社殿が美しいとは、日本人の感覚ではいくつかある。生の木の魅力、古色蒼然の魅力、檜皮葺きの魅力等があるが、この社はペイントの魅力である。 紀州には、丹生都比売神社や三船神社が、ペイントの魅力では有名である。

本殿側面

お祭り
4月15日 1日間 祈年祭(春祭)
7月15日 1日間 鎮護八幡神火祭(夏祭)
10月14日 3日間 例祭

紀伊国名所図会から

紀伊續風土記 巻之四十五 伊都郡 相賀荘 胡麻生村から

○八幡宮   境内周五町
 本  社 方三間
 攝  社 若宮八幡宮 高良大明神 相殿 熊野三社権現 住吉大明神 牛頭天王
 權五郎宮 三尺 二尺
  拝殿  鐘楼  寶藏  鳥居
村中にあり 胡麻生橋橋谷慶賀野柱本馬塲細川上下妻古佐田橋本小田原等十一箇村の氏神なり 按するに本國神名帳に天手力雄氣長足魂住吉神あり即八幡宮なるへし 境内も廣大に社殿も壮麗にして荘中の大社なり 此神社三神合殿に祭れるを以って神名帳には神名をならべ奉しに今八幡宮と稱するは氣長足姫一座を指していひしより轉して世のく知る所の稱を取て略し唱ふるならん 寛文記雑記に石清水八幡宮を坂上人の勧請する由見えたり 正平二十一(1366)年の鳥居の額あり 表に八万大菩薩と記し裏に正平二十一年丙子六月日とあり 其頃坂上氏此地を領して社殿等壮麗にし神主別當等を置き石清水の祭式を又て神事を行ひしより終に古義を失ひしなるへし 其後文亀二(1502)年に坂上氏人再興す文亀の祭文に因る 天正九(1581)年春高野衆徒贄川氏を責る時當社を焼き拂ひ大に衰微に及ふ寛文雑記 其後天正十四年贄川氏の後裔贄川海部といふもの造営すといふ村民某の蔵むる文書 古は薬師堂楼門別當寺等もありしに天正以後頽廢して今礎のみ存す 又禰宣神主等神子等も昔は八人ありしに今は神主一人禰宣二人神子一人あり 寶庫に文亀二年永禄十二(1569)年の祭文を蔵む其餘行平の脇指小鍛冶の刀等の神寶あり 神主を神垣内氏といふ


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