鞆渕八幡神社
紀の川市中鞆渕58

交通案内
阪和線  天王寺→和歌山 (60分820円)
和歌山線 和歌山→笠田 タクシー30分 its-mo


祭神
應神天皇
配 仲哀天皇、仁徳天皇、姫大神、武内宿禰、千代鶴姫

由緒
 桃山町から高野街道が走る。東から上番、中番、下番と続く。荘園の名残である。石清水八幡宮の荘園であった。 従って、当社は平安時代に石清水八幡宮より勧請された。
 境内の右手に大日堂、正面の本殿ともども国重文である。神仏習合の姿を留めている。 大日堂は神宮寺本堂で5間四方の白木の寄棟造、本瓦葺の室町の様式である。 内陣の本尊阿弥陀如来を安置する三間廚子(国文)は壮麗であるとの事。
 神社本殿は室町期のもので、全面に向拝をつけた流造、檜皮葺である。外陣の蟇股と鹿の彫刻は神社建築の装飾としては最古のものと考えられる。
 神輿は沃懸地鈿金銅装神輿で国重文である。安貞2年(1228年)石清水八幡宮が神輿を新調したので、古い神輿をもらい受けたと伝わる。 平安時代の貴族の輦台[レンダイ]と類似する形と云う。

お姿
 竜門山の裏手の谷間の鞆淵応神山に鎮座する。杉の巨木が多い。 寛正三年(1463年)に現在の三間社流造の本殿が出来ている。


鳥居



本殿


お祭り
 6月30日 1日間 夏越の大祓(輪くぐり)
10月15日 1日間 例祭(秋まつり)

紀伊国名所図会から


紀伊續風土記 巻之三十九 那賀郡 友淵荘 本川村から
○八幡宮   境内森山 
東西二町半 南北三町
 本社三扉 
方三間  馬場 百間
 末社八社
  松戸社
四尺三尺二扉 劒 宮方三尺 高良社一丈五尺三扉
  若宮社
二社一社三扉 弓矢社方三尺   社六尺三尺三扉
  天神社
方三尺    子安社
 本地堂
方七間     御供所方六尺  舞 臺
  神樂所  廰
二間七間  寶 蔵
  供僧坐  番頭坐  經 坐
村の東本川を隔てゝ丸山の尾崎にあり 友淵荘中の産土神なり 此地は上古 應神天皇天野社に寄せ給ふ神地四至の西の限にして後應神山と名つけし地即此地なり 八幡宮を奉斎る事何れの時なるを知らす 此地を鞆淵と稱するも其宮居の在るより稱へ來りしならん
鞆淵の事は荘論に出す 然るに安貞の頃荘司の先祖の妹に鶴千代姫といふあり宮仕して 帝の寵を蒙り後故郷へ帰る時八幡宮は元より産土神なれは更に男山の祭式に象らしめ神輿を送らしめ給ふとなり是より宮居盆壮麗を盡せしなるへし
社傳には此地舊天神ありしに安貞二年(1228年)荘司の家男山の八幡宮を勧請せしといふ 然れとも其元より在せし天神といふは即八幡宮なる事古を考えて知るへし 又荘司の家にては鶴千代姫は下司千楠丸の妹をいふ 千楠丸は應永頃(1394年〜)の人なれは是も亦傳の誤なり
永禄八年(1565年)の御湯釜あり 御供料一石二斗 高野山より寄附す寶物城州八幡より贈る所の神輿
其粧の美麗稠密他に類を見す 屋の四阿毎に滅金にて菊の花葉を鏤む轅も金にて裏む屋下種々の飾物を掛け一面ことに鏡六面を掛く皆金具なり 神輿の重さ百二十貫目といふ大抵男山の神輿と同物なるへし其目録下に出せり
大般若經古寫六百卷
巻末に右嘉禄年中(1225年〜)又は寛喜年中(1229年)河内重正僧琳崇寄附とあり
光嚴帝宸翰額
八幡宮の三字なり南面の鳥居に掛く恐らくは寫なるへし
開山高麗道師木像あり 光嚴帝御願門書同宸筆一幅
八幡宮の三字
文明十九年(1487年)の寄附状其外古文書數通を蔵む 又古き舊縁起ありて書畫ともに古色あり 祭禮八月十五日九月九日なり 供僧坐は林の家に属せり 神宮寺萬年山といふ宮の境内にあり釣鐘堂あり
神宮寺禰宣坐神樂坐は荘司家に属す
 以下略


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