廣八幡神社
和歌山県有田郡広川町上中野206 its-mo




交通案内
紀勢線  天王寺→和歌山→広川ビ−チ 湯浅へ戻る方向へ線路沿いを行き左へ 徒歩30分 


祭神
譽田別命、足仲津彦命、息長足姫命

配祀神 建速須佐之男命 事代主命 磐長比賣命 豐受大神 玉依姫命 三筒男命 白山媛命 國常立命 祓戸四柱神 市杵嶋姫命 大己貴命

由緒
 此の地は往古、神功皇后応仁天皇行宮の地と伝わる。 欽明天皇の時代の創建と続紀伊風土記には記されている。 慶長六年十二月六日浅野幸長が社領を寄附している。 正嘉二年八月五日(一二五八年鎌倉中期)広八幡神社焼失の史料が日高郡由良町里の蓮専寺にある。 嘉禎二年(一二三六年鎌倉初期)に放生会が行われている。

お姿
 広々としており、木々が多い社域。社殿も美しい。


本殿



お祭り
10月 1日 秋祭 古典芸能の田楽祭が継承されている。




『紀伊続風土記』 在田郡 広荘 中野村 から

○八幡宮   境内周五六町半  禁殺生
 本社 表行三間余
 末社  若宮 多賀 加茂 社   熊野権現社 弁財天社 本社の南にあり
住吉 稲荷 祇園 社   高良明神社  熱田 浜宮 社  梅宮 本社の北にあり
 拝殿  舞台  多宝塔  神楽所
 炊殿  神輿舎  鐘楼  僧坐
 廳  楼門  西門  鳥居
 宝蔵  観音堂
 覚言社
 村の北にあり 広中野名島中村柳瀬殿村金屋七箇村の産土神なり 寛文記当社は 欽明天皇の御宇の創建にして古は広荘三箇一を似て社領とす 相伝ふ此神舊は前田村に鎮り坐せるを応永の頃此地の土豪梅本覚言といふ者あり 其領する地 を神地となして社を遷し奉る 今拝殿の側に覚言の祠あるは舊の地主なるを以てこれを祀るといふ 冬前田八幡宮あるはその舊地に跡を遺せしなり 因りて前田の社を本山八幡宮といひ 伝ふ本山は八月十四日を祭日とし中野は十五日を祭日とす 十四日には中野の競馬本山に至り祭事互に通する義あり 又衣奈の八幡宮を勧請せりといふ 然らは本山に祭るは衣奈よりの勧請にて此地の社は本山より遷し奉れるなるへし 今応永廿年葵巳二月造営の棟札あり 此時始めて此地に遷せるなるへし 其他明応二年 永正十三年 天文十年 同十三年 永禄元年亀文録等の棟札あり 棟札の文によるに天文以前は此地門跡家なとの御領なりしに天文の頃より湯川氏此地を領して始めて別当寺を置き其族池永氏を社務とし津守氏を公文とし竹中氏を宮仕として神事を掌らしむ 今猶其故家遺りて神事にあつかれり
 神宝舊記文書の類天正十三年豊臣氏南伐の時兵燹に繋りて皆灰燼し社領も亦没収せらる 慶長六年浅野侯社領十石を寄せらる 元和の初これを襲用られ猶又金燈籠氏石燈籠弓剣書馬戸帳の類 数品を寄附せらる 又神庫に蔵る所古写の紺帋金泥の大般若経あり 巻末に庚暦永徳至徳等の年号を書す 又正応三年の紺紙金泥の法華経全部あり
  社家  野原別当
      久保田大首
      竹中伊織
  社人  竹中源助
        惣市
        道御前
        荘司
        宮内
        右京
        總下
  社僧  明王院 薬師院 真言宗古義京勧修寺末

古の別当を仙光寺といふ 内六坊に分る今の明王院薬師院は六坊の内の二坊なり 其他不動院千光院弁財天院花王院の四坊 今廃す 社地の東小山周七町半余宮村なり その地公文の家津守氏の地なりしに慶長年間故りてその家を亡し其地を 八幡宮に寄すどいふ
 

古代史街道 紀ノ国編
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