国主神社跡地

和歌山県有田郡有田川町長田its-mo


交通案内
きのくに線 藤並駅 北東 3km


吉備名方浜宮の碑



祭神
大己貴命(大穴牟遅命、大国主命)

境内 豊鋤入姫尊 吉備名方浜宮跡の碑


由緒
 田殿荘長田村に当たる。
 有田地域には大国主命を祀る神社が多いように思う。紀の国は山が海にまで迫っており、紀の川やここの有田川などの流域にわずかな平地が広がっており、 治水工事などおそらくは大国主命の国土開拓の姿を彷彿とさせる先人が汗を流したのであろう。 ここの国主神社は田殿丹生神社に合祀されているが、地元の人々は跡地を記念して鳥居と小祠を設けている。

 ここに豊鍬入姫ゆかりの名方浜宮の碑が建てられている。 大阪府神社庁編集の『伊勢の神宮』から引用してみよう。

 名方浜宮は和歌山県にも比定地がある。
 『大日本地名辞書」は「吉備郷」の項で「名方浜宮は名草郡にあり」と書き、伴信友も名方浜宮紀伊説を考証している。

 海南市日方に鎮座する伊勢部柿本神社がそうであり、「紀伊続風土記』にも記載されている。社記には「大和より豊鋤入姫尊に供して来られたと思われる柿本臣の伊勢部の神戸達が、御奉仕して大神をおまつりしたのではなかろうか」と書かれている。

 野上電鉄日方駅東方の町中に、「大神宮遺跡」と刻す碑があり、社記によると、昔この辺りを蘭引(いびき)の森といい名方浜宮のあった所であり、昔時海浜のこの地に神社も鎮座していたそうである。

 有田郡吉備町、有田川に面して田殿丹生神社が、神奈備型の山を背に鎮まっている。この神社の摂社に、長田吉備名方浜神社の名が見え、対岸の長田にある国主神社を元地とする。
 国主神社境内の一角に「吉備名方浜宮」と刻まれた古碑が建っている。『大日本地名辞書』に、「田殿の庄長田村に国主神社あり元文五年吉備名方浜宮と云碑を建て」と記す碑であろう。但し同書は、「吉備郷の名に依れるなれども名方浜宮は名草郡にあれば、此地たるべからず」と否定している。
引用終わり  (注)野上電鉄日方駅は廃線。田殿丹生神社の境内には長田吉備名方浜神社は見つけることは出来ませんでした。もっと探せばあったのかも。


国主神社跡


次に紀伊續風土記から引用してみよう。

紀伊續風土記 巻之六十 在田郡 田殿荘 長村から

○國主大明神社  境内周七十六間

村中内垣内といふにあり 境内に元文五年命ありて吉備名方濱宮といふ碑を立て禁殺生ノ碑を建らる  これ此時古跡を考ふる者建議する所にして下津野の吉備と此長田のとを附會して牽強せるなり 考を失ふといふへし  吉備名方の事は名草郡名高浦の條に辨す


 


 ここの調査にあたっては、吉備町にお住まいの榎下昭和さんにご苦労をおかけしました。有り難うございます。 氏は「ふるさと糸野のホームページへ」を発信されています。 

氏からの報告を転載いたします。
 『各方面で調べました 吉備町史に一部記載されていました。 吉備名方浜の宮は吉備町長田のもと浄教寺の東にあったが水害後「昭和28年7月発生」寺の前保育所の入口左側に高さ約70センチ幅 約50センチの石碑が立っている。皇太神宮をまつっていた。今は田殿神社に合祀されている。昔崇神天皇の54年紀元前44年皇太神宮 を3年間奉祀した古跡といわれる。同神宮はその後和歌山県海草郡の浜の宮の方へ移されたと伝えられている。お国主の命をお祭りして いた。合祀されたが今も名方浜の宮の隣に祭っている。 以上町史からの文献です。』とのことです。
 以上


お姿

 保育所を背景にしてお堂と国主神社跡地が並び、国主神社の祠と吉備名方浜宮の碑が並んで建っている。

お堂、国主神社跡



浄教寺 東から



海南市下津町加茂郷の粟島神社の摂社に浜の宮神社「天照大神」が鎮座、由来など不明。

お祭り

古代史街道 紀ノ国編
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