小竹八幡神社
和歌山県御坊市薗642 its-mo


交通案内
紀勢線  天王寺→和歌山→御坊 紀州鉄道で西御坊


祭神
譽田別命、氣長足姫命、小竹大神

合祀神 天兒屋根命、紀道成朝臣夫婦神靈

由緒
 日本書紀神功皇后摂政元年二月条に、「忍熊王、復軍を引きて退きて、菟道に到りて軍す。皇后南紀伊国に詣りまして、太子に日高に会ひぬ。群臣と議及りて、遂に忍熊王を攻めむとして、更に小竹[これを芝怒といふ]に遷ります」 と記される小竹宮跡とされている。社名からの推定であり、天野祝とともに葬られて暗い世にしたとする小竹祝をこの神社の神人とし、祝塚と言われるものもある。 こちらの説話の場所を和歌山県那賀郡粉河町の志野神社に比定する説がある。 天野祝を丹生都比売神社の神人とするならば、志野神社の方が地の利がありそうだ。

 御坊の当地一帯は石清水八幡宮領であり、勧請されたと思われる。古くは一の鳥居は日高川の左岸にあった程の大きい神社であった。秀吉の紀州攻めの際焼失、宝物は海賊に盗まれたと言う。 

由緒 平成祭礼データCDから
 当社は、御坊市薗642に鎮座しており、譽田別命 息長足姫命 小竹大神を主祭神とし、古くは、現在地の北約1キロの地に鎮座し、その地は、元宮、元八幡と呼び習わされている。
 延宝6年(1678)徳川頼宣侯の別館のあった薗御殿跡に遷宮している。
 当社の起源については「日本書紀」の神功皇后の小竹宮跡とする伝承がある。
 天正13年、秀吉の紀州侵攻により炎上、のち現在地に遷宮したものである。
 近世までは、相当の大社であったことは確かで、古書に「往古一の鳥居は二十町余も南東の北塩屋浦矢熊鼻というところにありて、末社四十九社、経堂一ヶ所、その他社領あり−−」とあり、祭礼には守護職より流鏑馬が奉納されたといわれている。 明治14年郷社に列せられ、明治末年春日神社、船着神社等を合祀、昭和52年御遷宮300年祭を奉仕、社務所の改築等の事業を行い現在に至る。
 祭礼は10月4・5日斎行され「人を見たけりゃ御坊祭」といわれるほどで、紀南地方きっての盛んな祭である。数ある奉納行事の中「けほん踊」は、県指定無形民俗文化財第1号で国の選択芸能にも指定されている。雀踊りは、市指定民俗文化財である。

お姿
 木々が多い社域で、遠目からもよく見える。社には由緒書きはない。

鳥居と拝殿


本殿


お祭り
10月 4,5日 秋祭

紀伊續風土記 巻之六十八 日高郡 薗荘 薗浦から


○八幡宮   境内周百三十四間
     芝回 九十六間    堀回 七十六間
 本社 表行二間半
 末社六社 宿禰社 秋葉社 龍王社 舟玉社 稲荷社 天満社
  神輿舎   拝 殿   長 床
 芝にあり 荘中の氏神なり 当社舊は村の北十町許にあり 延宝六年(1678)此に遷す 此地は旧 南龍公の御殿跡あり 祭礼に戯瓢踊といふ誦すへし 其文中四恩の句に 香厳公御注解の御書あり 太鼓細腰皷鉦にて老人瓢團扇其他種々のものを持ち作り花等を頭にかさして歌舞す老人のかかる踊をなす事奇といふへし 近年 一位老公親筆の小竹八幡宮といふ五字の額を賜ふ

○八幡宮舊社    境内周九十六間 村北にあり


古代史街道 紀ノ国編
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