闘鶏神社(とうけい)
和歌山県田辺市湊655


一の鳥居の向こうに二の鳥居




交通案内
紀勢線  天王寺→田辺 南へ徒歩10分 田辺市湊 its-mo


拝殿


祭神
伊邪那美命

配祀神 伊邪那岐命、天照皇大神、宇賀御魂命、、邇々杵命、火々出見尊、天之忍穂耳命、鵜草葺不合命、手力男命、八百万神
西殿祭神 速玉之男神、事解之男神
下殿祭神 稚産霊命、弥都波能売命、埴山比売命、火産霊命

境内社 藤厳神社、玉置神社、弁天神社、戎神社

境外社 稲荷神社、八坂神社「素盞嗚命、稻田比賣命、八柱御子命」、恵比須神社、弁天神社、浦安神社

本殿


由緒
 允恭天皇己未八年九月、熊野権現(現本宮大社)を此の地に勧請し、田辺の宮と称したのが、起源(約1,600年前)で、 次いで白河法皇の御代、熊野三所権現を此の地に勧請し、三山御参詣に替える(約900年前)、 次いで別当湛決(近衛院久安三年己)の時新に天照皇大神以下、十一神を勧請し新熊野権現と称した(約830年前)。 このように当社は三度に亘り熊野三山(熊野本宮大社、那智大社、速玉大社)各社の御祭神を勧請し熊野権現の三山御参詣に替えると云う三山の別宮的存在で、熊野信仰の一翼を負い、 熊野街道(大辺路・中辺路)の分岐点要衝地としての田辺に鎮座し、歴代の上皇、法皇、公達の熊野参詣時は当社に参篭宿泊し、心願成就を祈願したのである。

 闘鶏神社の名前のいわれは、別当湛増が源平合戦の時、紅白の鶏合わせにより源氏に味方する事を決め、壇ノ浦へ出陣したと言う故事が伝わる。弁慶はこの湛増の子であったと言う。

西殿


下殿


 

お姿
 鬱蒼たる森を背景に鎮座する。社殿は古く、荘厳である。

御神木 千二百年 歯痛を癒す神



お祭り

7月24,25日  田辺祭(県指定文化財)
 藤巌神社の大橋的為神社(田辺市)内の藤鹿神社前に大橋がある. この大橋の寧冗に大きな渦があづてここに乞食が住みついていた. ある時、この乞食の失火で木の根元に火がついた.すると不思許なことにこの楠の木が水を噴き、その火を消し止めたと いう。


紀伊続風土記 巻之七十一 牟婁郡 田邊荘 田邊城下 湊村

○新熊野闘鶏権現社    境内周六町十三間  馬場 長百二十七間 幅六 間
  證 誠 殿 前行一間二尺餘
      西 御 殿 早玉社 緒 宮 前行三間
      若   殿 若女玉子 前行一間一尺
        以上 上の四社と称す
      禅 師 宮
      聖   宮
               四社相殿 前行二間二尺餘
      兒   宮
      子 守 宮
        以上 中の四社と称す
      一 萬 宮       十 萬 宮
               四社相殿 前行二間二尺餘
      勧請十五所
      飛 行 宮
        以上 下の四社と称す
      摂社  玉置権現社
      末社三社 弁 財 天  大 黒 天  役 行 者
       萬山宮八百萬神遙拝所<br>        拝 殿  東西三間 南北五間  舞 台  表一丈八尺 奥行二丈八尺餘
       絵馬堂  東西三間 南北五間  経 蔵  方二間半
     村の南にあり 境内山に倚る 社殿壮麗にして近郷の大社なり 田邊城下の総産土神とす 社伝にいふ 熊野別当湛快の時 湛快は藤原實方朝臣の裔 熊野別当泰教の曽孫といふ 三所権現を此の地に勧請して新熊野と称す 此の地その頃は三山の領地なりし故勧請せしならん 湛快の子を湛増といふ 始めて当所に居住す 人呼びて田邊別当といふ 元暦元年()源頼朝卿平家追討の時に当たりて源平二氏の中何れを助けんと疑惑す 此処に於いて此の社地に放ち飼う鶏赤白二色を分かちて両氏の旗色に準へ神前にて闘わしむ 白鶏の方勝ちけれは心を決して源氏を助く 是より闘鶏権現と称すといふ  (以下略)

 


『平成祭礼データ』闘鶏神社由緒

 御創建 人皇十九代允恭天皇己未八年九月、熊野権現(現本宮大社)を此の地に勧請し、田辺の宮と称し奉ったのが、起源(一五六八年前)で次いで白河法皇の御代、熊野三所権現を此の地に勧請し、三山御参詣に替える(凡八七〇年前)次いで別当湛決(近衛院久安三年己)の時新に天照皇大神以下、十一神を勧請し新熊野権現と称し奉る。(凡八二〇年前)此のように当社は三度に亘り熊野三山(熊野本宮大社、那智大社、速玉大社)各社の御祭神を勧請し熊野権現の三山御参詣に替えると云う三山の別宮的存在で、熊野信仰の一翼を負い、熊野街道(大辺路・中辺路)の分岐点要衝地としての田辺に御神威高く鎮座され、歴代の上皇、法皇、公達の熊野参詣時は当社に参篭宿泊し、心願成就を祈願したのである。文明三年(一四七一)より杉若、浅野、安藤各領主の篤い庇護により明治維新におよび鬪鶏神社と改称し現在に至っている。

  社格 明治六年村社、同十四年二月県社、昭和四十六年七月、別表神社(旧官国幣社)に列格、同年十一月二十・二十一日、御創建一五五〇年並別表神社昇格、奉祝大祭斉行。

 社号 現社名、鬪鶏旧社名、田辺の宮、新熊野権現田辺の宮、新熊野鶏合大権現(元録五年建立・石灯篭現存)、田辺の宮に始まり御祭神勧請と故事により四度の社名変遷を経ている。鬪鶏神社は、全国唯一の社名で起源は次の故事に依る。

 ※源平盛衰記(抜萃)『熊野別当堪増は、頼朝には外戚姨聟(母方のおば)なり、年来平家安穏の祈祷をいたしけるが、国中悉く源氏に志を運び堪増ひとり背きても後難あり・・・・・・如何あらんと進退思い煩う。所詮人力に及ぶべきにあらず、神明の冥艦に任すべしとて、田辺の新宮にて臨時のお神楽を始む。神明巫女に託して曰く・・・・・・赤きは平家、白きは源氏とて、七番の鶏を合せけるに、赤鶏は白鶏を見て一番も番わず逃げにけり。この上は、神慮に任せ奉らんとて、熊野三山吉野十津川、死生不知の兵共を語らい集め・・・・・・兵船二百余隻を調へ紀伊国田辺の湊より漕渡り源氏に加わる、云々・・・・・・』

 当時、社領二十八ヶ所十六ヶ国、二十四ヶ庄に及び、その勢力は源平両軍から助力を乞われるに充分であり、周知の壇の浦の戦(海戦)で熊野水軍の力により源氏は勝をおさめたのである。ここに新熊野鶏合大権現の呼称が生れ、明治維新の神仏分離令により鬪鶏神社と改称された。

 特殊信仰及祈願 
一、鶏合権現の社名より武運の神、勝負の神としての崇敬篤く、転じて証券相場、競輪、競馬の必勝祈願は有名である。
二、八方除御祈念(清砂祓い)建築・土木・移転・厄除・開運を祈願。
三、修験者大修法護摩祈祷、例大祭当日斉行。
四、なぎの木祈念、子宝授受、夫婦円満の信仰有。
五、樟(くす)木祈念、樟木の葉に祈祷すれば、歯痛完治の信仰有。
六、縁結びの神として、信仰をあつめ、神前結婚式県下最多数奉仕。
    以上

 

古代史街道 紀ノ国編
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