『平成祭礼データ』津秦天満宮
参拝のしおり 御由緒
紀伊風土記によると。津秦は古、津和田村といって、東西二つに分れ、入海であった。浜辺で津渡の処から津和田と云ったと記している。
昔は知和夜の森、または土俗千早の杜と云ったそうである。数年前迄は数百年もの年輪を持つ緑したたる松の森も次々と松喰虫の被害であとかたもなく、現在千有余年の歴史を持つ県文化財指定の楠の大木、モチの木、桜、梅、ツツジ、萩など参詣人を楽ませている。
○麻為比賣神社(知和夜姫神社) 延喜式神名帳に「麻為比賣神社、本国神名帳従四位ノ上麻為比賣神」、国造家正平二十年検田取帳に「知和夜二段、知和夜姫敷地」とある。
御社は兵乱に廃絶して石銘を建て、「麻為比賣神享保甲辰」の九字をきざむ。この石銘は古は現在の天満宮の南、百メートルの位置にあったものを、いつの時代か現在は天満宮境内本殿丑寅の方にお祀りしている。数年前伐採した松の配置から見ると、周辺一体は天満宮の境内であっただろうと思われる。現在、麻為比賣社跡は松は切られ、小高い草山が残っている。
○天満宮 古、西津秦村中に、筑紫の安楽寺より書像を勧請したが、今は寺が廃去している。昔からこの里の農民は常に天神を敬神していた為、ある信者が北野天満宮に詣で霊夢によって御殿を建て、寛永年中に御神体を納めた、国造家永仁元徳の舊記にこの社の事を載す。また、天正十三年、法楽連歌一軸国造家に蔵むと紀伊風土記に記されている。また、当社古書には、延喜二年二月、道真公筑紫にむかわれる途中、この千草の杜で一子、好寛公と別離し、隣村の神前の郷、中務家に預け自分の御影を残した。
「ふりかえり かへり行くかも別れにし 千草の杜の見ゆるかぎりは」と記してある。
現在、神前には中務家の広い屋敷跡が残っている。また天満宮境内に菅原好名賀氏奉納の古い燈篭一基が現存している。
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