名草の神々と歴史 巻五七から

瀬藤 禎祥

名草の神々と歴史 巻一から巻二〇

名草の神々と歴史 巻二一から巻四〇

名草の神々と歴史 巻四一から巻五六


名草の神々−68−

  日高についてもう少し。
 渡来系の人々の中にも豪族となった秦氏のような存在ではなく、テクノクラートとして得意分野での能力を発揮した者もいました。難波吉士(ナニワノキシ)、日鷹吉士(ヒタカノキシ)と呼ばれる渡来人です。なお、紀の国の豪族の紀氏は『記紀』の時代には「キノウジ」であり「キシ」ではありません。吉士が多く居住した所には「キシ」と云う地名が残っています。大阪では富田林市に喜志があります。紀の国では和歌山市に貴志と云う所があります。南海本線難波行きが市内の平地から山間に入っていく所です。昔は今よりは海岸地帯でした。また那賀郡の貴志川町は紀州飛鳥と呼ばれる遺跡の多い地域ですが、両方の貴志は紀の川でつながっています。
 日高郡にも吉士が居たようです。日高の場合にはキシと云う地名は寡聞にて承知していないのですが、日鷹吉士の拠点であったものと思われます。おそらくは紀氏の配下に入っていた吉士の一団であって、神功皇后と応神天皇との再会の場としてはふさわしいものとされたのでしょう。

 さて、話を戻します。宇治に陣取った忍熊王を攻めようとして、神功皇后は更に小竹宮(しののみや)に遷ります。
 この小竹宮について瀬藤でも四箇所の候補地を知っています。他にもあるのでしょうが、寡聞にしてこれだけです。それなりに尤もらしいので紹介しておきます。

 その前に小竹宮での一つの出来事が起こっています。神功皇后が小竹宮に移ったその時に、夜のような暗さになってしまい、何日も続きました。神功皇后は紀の直の先祖、豊耳にこの変事の訳を尋ねました。一人の翁が言うには「このような変事を阿豆那比(あづなひ)の罪と言い、二社の祝者(神官)を一緒に葬ってあるから。」とのことでした。 村人は「小竹の祝と天野の祝は仲の良い友人であった。小竹の祝が病没すると、天野の祝が激しく泣いて「どうして死後異なる穴に入れようか」と言い、屍の側で死んでしまった。それで、合葬した。」と言ったので、棺を改めて別の所に埋めた所、日の光が輝きだした。
 と言う不思議な物語です。

 この物語ではじめて、紀直の祖の名前が、豊耳として初めて登場します。また、天野の祝としては、伊都郡かつらぎ町上天野の丹生都姫神社の存在が『日本書紀』にあらわれたとも理解できます。この話は後で触れることになると思います。

 さて、懸案の小竹宮についてその候補地を紹介します。
小竹八幡神社(和歌山県御坊市薗)
 小竹宮に比定するのは、社名からの推定ですが、天野祝とともに葬られて暗い世にしたとする小竹祝をこの神社の神人とし、ここには祝塚と言われるものもあるとか。

志野神社(和歌山県那賀郡粉河町北志野
 天正の時代に兵火に焼かれていた神社があり、再建されている。地名社名からの推測である。ただ、天野祝を丹生都比売神社の祝とするならば、両祝が仲がよいとする距離感にはあいそうに思う。

波宝神社(奈良県吉野郡西吉野村夜中)
 小竹宮と呼ばれていたことがあります。大山源吾著『天河への招待』には、「神功皇后は紀伊日高に上陸、紀和国境を越えて、吉野丹生の里、銀峯山小竹宮(シヌ)に入ったと、この地の伝承は伝える。」と記している。吉野とは「よ」+「小竹:しぬ」であると言う。ここにも神功皇后にまつわる伝承が多い。地名の「夜中」も暗くなった名残と言う。

舊府神社、小竹宮(大阪府和泉市信太)
 『大阪府全志』には神功皇后縁の小竹宮跡とする。一時、今はやりの阿部晴明生誕伝説の信太森神社(葛ノ葉稲荷神社)に合祀されていたが、現在は近くの伯太神社に合祀されている。伯太神社の祭神の中に小竹祝丸、天野祝丸の名が見える。「丸」は男のことか。小竹祝、天野祝を祭神とした神社は伯太神社しか見つかっていません。

 さて、四箇所の候補地を紹介してきましたが、皆さんはどこだと思いますか。また上記以外の比定地があれば、ご紹介下さい。

 紀直の祖の豊耳と言う名前がここに出てきました。紀氏の系図から見ますと紀氏の祖神の天道根命の五世孫の宇遅比古の三世の孫と言う所に出てきます。宇遅比古の孫(二世孫)が武内宿禰ですからほぼ同年代と言えます。

 この豊耳のミミについてですが、谷川健一氏の名著『青銅の神の足跡』に、「古代史の中で銅や鉄に関連深い人物がミミの名のつく酋長の一族と婚姻を通じていること、またたんに海で漁をするとか、田を耕す程度の海人族ではなく、金属精錬に由縁を持つ」と解説をされています。
 紀豊耳の豊は豊の国に通じ、当時の紀氏の瀬戸内海の航路が、紀の川の河口と九州豊後をつないでいたであろうことや、豊の国と言えば秦氏の拠点であったことを思わずにはいられません。

 神功皇后が豊耳に尋ねた所「一人の翁が言うには阿豆那比(あづなひ)の罪云々」と答えましたが、豊耳は紀直の祖と紹介されながら、この件については知らなかったと言うことです。紀の国ではない所の出来事なら豊耳には尋ねないでしょうから、やはり紀の国での出来事と考えるのが良さそうです。豊耳は紀の国では新参者だったと言うしかありません。この辺りの物語も神話の世界かも知れませんが、更に古くから紀の国の支配者であったとするべく、神武天皇の時代に名草戸畔を誅した話や、天道根命が神鏡を奉じてやって来た話になっていったとも考えられます。で、紀氏はどこから紀の国へやってきたのでしょうか。

 神功皇后が来たのは九州からです。それのお供として来たのでしょうから、やはり九州と考えるべきでしょう。火前国(ひのみちのくに)と呼ばれた肥前国の『肥前国風土記』の藤津郡の條に「紀直らの祖穉日子(わかひこ)」と言う言葉が出てきます。肥前の藤津郡とは今の佐賀県藤津郡のことで、温泉で言うと嬉野温泉のある嬉野町、ここは水銀の産地で、丹生神社も多く鎮座しています。また五十猛命を祭神とする太良岳神社の鎮座する太良町も藤津郡です。すぐ北には五十猛命上陸伝説の杵島郡や武内宿禰誕生伝説を持つ武雄温泉の武雄市があり、実に紀の国の神々とは縁の深い地域です。
 『国造本紀』には成務朝(仲哀天皇・神功皇后の一世代前)に紀直同祖の大名草彦命の児若彦命を葛津(ふじつ:藤津)国造に定めたとあります。紀の国の次男坊を肥前国藤津郡に転勤させたのでしょうか。そうではなく、大名草彦命そのものも九州に居たと言うことを物語っているものと思います。紀国造の祖とされる宇遅比古命と葛津国造の若彦命は兄弟のようです。

 宇遅比古命の曾孫になる豊耳の名は丹生都比売神社に伝わる『総神主系図』に丹生神主家の祖として出てきます。丹生の地(伊都郡)を治めていた国主神の女子の阿牟田刀自(阿牟田:庵田は九度山の慈尊院付近を言う。)の元に名草郡より通ったと江戸時代に作成された『紀伊州続風土記』に記載されています。通い婚は『源氏物語』にも出てくる古代の普通の結婚の形ですが、紀国造の祖とされる豊耳が『総神主系図』に現れる初めての人名とも読める所から、豊耳の頃に紀の川沿いを一挙に支配下においたと見ることができます。豊耳の耳は金属に大いに縁のあった人物と言うことで、丹生の地に大いに関心があったのでしょう。
 



 名草の神々−57−

  神武天皇の次の第二代綏靖天皇から開化天皇までの八代の天皇については、その事績などは『古事記』『日本書紀』にはほとんど記載されていません。欠史八代と言われる所以です。 『古事記』では、第八代の孝元天皇の条に建内宿禰(たけしうちのすくね)の出生と子孫のことが記されています。 これによりますと、「孝元天皇(大倭根子日子国玖琉)が物部の伊迦賀色許売(いかがしこめ)の命に生ませた御子が比古布都押の信(ひこふつおしノまこと)の命。 比古布都押の信の命が木の国の造が祖、宇豆比古の妹、山下影日売に生ませた子、建内宿禰。」と記されています。
 さらに建内宿禰の子孫のことが書かれています。子は七男二女に恵まれました。 それぞれが後々に一家をなし、葛城、波多、許勢、蘇我、平群、木等の氏の祖となったとしています。 この顔ぶれは古来より大和にいた豪族と違い、新参の豪族で、蘇我物部戦争の時には蘇我氏に味方した氏族です。
 『古事記』によりますと建内宿禰は後の十三代の成務天皇のときに大臣の地位についています。
 『日本書紀』ではその前の天皇の景行天皇の時に、東国の巡察を行って、東国征伐を進言しています。 後、棟梁之臣としたと記しています。また成務天皇の条で「天皇と武内宿禰と、同じ日に生まれませり。」と出てきます。 これがどの様な意味があるのか判りませんが、天皇の補弼役として忠義を尽くし、三百歳の長寿と云う伝説上の人物として登場します。 武内宿禰は蘇我入鹿と藤原不比等をモデルに構想された補弼の臣の理想像のようにも見えます。 藤原不比等や藤原氏は外戚として権力はほしいままにふるまうが、決して皇位をうかがったりないがしろにしないことを『記紀』を通じて言っているのかも知れません。

 紀の国との関わりでは、木の国の造が祖の孫として誕生していることと、紀の国の国造の紀直が途絶えた際、武内宿禰の子孫である紀朝臣家から養子が出て後継しています。

 尤も「名草の神々ー45ー」で母親の山下影日売を祭神とする神社は九州にしか見られないので、建内宿禰の出生の地は九州ではなかろうかと言うことと、 その子孫の各氏族と同じ名前の地名が北部九州に分布していることを指摘しておきました。

 余談ですがおそらくは偽書であろう『富士古文書』と言うものがあります。徐福と徐福の子孫が記述したものといわれています。
 この中に「武内宿禰、富士の大神宮へ奉幣にきて、徐福の来朝を聞いて大いに悦び、その門に入って教えを受け、後に一子矢代宿殊をも門人にした。 矢代宿禰は秦人に学んだので姓を羽田と改めた。徐福は武内宿禰の請をいれて、塾を開いて学を講じた。大神宮のほとんど全神官が学生になった。」とあります。

 第二部では神功皇后の物語から入っていきたいと思います。
 
 


 名草の神々−58−

 5世紀に入りますと河内を舞台に大きい古墳が作られています。 また大陸の史書から「邪馬台国」が姿を消してから100年、この期間を松本清張氏は「空白の4世紀」と名付けましたが、その後倭国のことが記載されるのは『宋書』で、いわゆる「倭の五王」が登場してきます。 この100年間、『記紀』では大和の王権の物語や日本武尊の遠征などが語られます。このように『記紀』では神話の世界が続いているようですが、大和では唐古・鍵や巻向から遺跡・遺物が出土しているように、日本列島各地では人々が生活をし、移動し、開拓をおこなっていたはずです。 紀の国名草郡も「空白の4世紀」ですが、邪馬台国の消息が途絶えた頃、名草の大田黒田の住居遺跡の住人の姿がぷっつり途絶えているのです。銅鐸祭祀からの支配者の交代があったのかも知れません。 しかしながら名草全体の住人数は徐々に増えているそうです。祖先達は黙々と地域の開発に勤しんだのでしょう。

 『記紀』で語られる神話・呪術的歴史から人間歴史への過渡期が、神功皇后応神天皇の時代から河内の大王達の活躍の頃へと言えましょう。 「名草の神々」は紀の国の神々について語るのがテーマですが、少しその背景となる列島の様子を見てみたいと思います。

 河内大王家の日の女神・息長帯日売(神功皇后)とその先祖、紀氏と深く関わる建内宿禰、住吉大神辺りから始めていきたいと思います。

 『日本書紀』では、神功皇后の夫である天皇の仲哀天皇(日本武尊の子)が数百人の官人を従えて紀の国の徳ろ津宮(「ろ」は革篇に力)に居た時、熊襲が背いたとの知らせがあり、船で穴門(山口県)に急行しています。 徳ろ津宮とは和歌山市新在家の付近に比定されています。江戸時代に石碑が立てられたそうです。 JR紀伊中之島駅の東側、新在家の南1kmには日前国懸神宮が鎮座しており、神宮領の北限とされていました。 史実とすれば4世紀後半になるのでしょうが、それはともかくとして、古来よりの大和王権の港としての紀の川の河口の重要性、木々の調達と軍船の製造能力、紀氏の水軍能力などが物語られていると理解できます。

 一方、敦賀にいた神功皇后にも知らせが届き、天皇皇后は穴門で落ち合うことになります。敦賀からは塩津へはゆるやかな峠道で、これを越えれば琵琶湖、水運で畿内につながります。畿内から日本海側への良好な窓口で、重要な港でした。瀬戸内への名草の湊、日本海への敦賀の湊がそろいました。 敦賀には北陸道一宮で神功皇后、応神天皇と縁の深い気比神宮が鎮座しています。
 ここには敦賀の語源説話と言える物語があります。『日本書紀』垂仁天皇二年の條に「御間城天皇(崇神天皇)の時代、額に角のある人が越国ke飯浦に泊まる。地名を角鹿と言う。意富加羅国(韓半島の南の国)王子、名は都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)と言う。 (ke 竹冠に司)。都怒我阿羅斯等の都怒我が敦賀となったと言うことです。またこの都怒我阿羅斯等と神功皇后の祖とされる天日矛とはほとんど同一の説話で語られる渡来神で、異名同一神と見ることができます。
 紀の国の国懸神宮の御神体は日矛鏡と言われます。天皇皇后の物語の出発点に現れるキィワード「日矛」から考えて行きたいと思います。 
 
 


名草の神々−59−

    ここで神功皇后の祖とされる天之日矛命について紹介しておきます。日槍、日桙とも書かれます。槍は鎌倉時代以前まではホコと呼ばれていたそうです。
 『古事記応神天皇段』には、新羅国の阿具奴摩[あぐぬま]沼のほとりで女が昼寝をしていた。 そこに虹のように輝いた日光がホトを射した。女は妊娠して赤玉を産んだ。 様子を窺っていた男がその赤玉をもらい受け、腰につけていた。 男は谷間の田の小作人の食べ物を牛の背に積んで谷間に入るときに天之日矛命に出会った。 「お前は牛を殺して食べてしまうであろう」と言って獄舎に入れようとしたので、男は赤玉を天之日矛命に差し出し、許された。天之日矛命は赤玉を持ち帰り、置いておくと、うるわしい乙女になった。そして結婚して妻とした。 妻は色々な珍味をそろえ夫に食べさせた。ところが天之日矛命は心が奢り妻を罵るようになった。妻は「そもそも、私はあなたの妻となるような女ではありません。私の祖先の国に行きます。」と言って、ひそかに小舟にのって逃げ渡り、難波に留まった。これが難波比売碁曾社に坐す阿加流比売神と言う。」と出ています。
 現在、大阪市東成区東小橋に比売許曽神社が鎮座、何故か下照比賣命を祭神としています。
 また、大阪市平野区平野東には赤留比売命神社が鎮座、祭神も赤留比売命神で、元は住吉大社の管轄だったそうです。

 赤い玉の化身である阿加流比売神とは、言うまでもなく太陽・日の神です。日の神を追いかけるのが天之日矛と言うことです。また「色々な珍味をそろえ」た所からは食物の神の要素も感じられます。
 天之日矛命は宇治川、近江、若狭を遍歴して但馬国出石郡(兵庫県出石郡出石町)に落ち着きます。但馬国出石郡の伊豆志坐神社(出石神社)に持参した八種の神宝と共に祭神として祀られています。

 日矛については『日本書紀』に、素盞嗚尊の乱暴狼藉にうんざりの天照大神が天の岩戸隠れますが、これを導き出すための儀式の中に出てきます。 思兼神が「大神のかたちを映すものを造って、招き出しましょう。」と言われ、天香具山の金をとって、日矛を造らせた。また鹿の皮でフイゴを造った。これを用いて造らせた(日像鏡である)神は紀伊国においでになる日前神である。
 とあります。(日像鏡である)は瀬藤が付け加えました。日矛に日鏡をぶら下げたのでしょうか。 どうも日矛と言うものは、日神を運ぶもののように思えます。
 先の天之日矛命も阿加流比売神と言う日神を動かすというか共に動いています。

 少し紀の国に話を戻しきます。紀の国の国造であった紀氏の祖神は天道根(あまのみちね)命と言います。神魂の神の五世の孫とされます。日前国懸神宮に伝わる古記録『日前国懸大神宮本紀大略』によると「昔、天孫降臨のとき、二つの神宝を天道根命に託し、また神武東征の際にも二つの神宝を奉じて名草郡加太浦に至った」とあります。二つの神宝とは日像鏡と日矛でしょう。このように天道根命には日の神を運ぶ役割がついています。

 太陽を「おてんとうさま」と言いますが、白水社『日本の神々1対馬の民俗信仰』には天道信仰について記されています。この一部から。
 対馬にある天道(てんどう)信仰は仏教の影響を受けていますが、元々は古い信仰のようです。 天道法師(菩薩)縁起には対馬の豆酸(つつ)の天道童子は、母が日光に感じて懐妊したと伝えられています。 霊峰竜良(たてら)山に、天道法師の墓所と称する聖地があり、最高の聖地とされ、日ノ神、穀霊、祖霊の信仰があるようです。たまたまかも知れませんが、紀氏の祖神の天道根命と漢字表記は同じで、日ノ神の信仰を持っています。 また日光感精説話は天之日矛命が追いかけた日ノ神を想起しますし、聖地が豆酸と言うのも、住吉の神の名前を思い起こします。謎解きが楽しみになってきます。
 
 


名草の神々−60−

   紀氏の祖神とされている天道根命について若干触れておきたいと思います。
 不思議なことですが、この神の名は『古事記』『日本書紀』には登場して来ません。 これらが書かれた時代、紀氏は中央の紀朝臣(きのあそん)と紀の国の紀直(きのあたえ)に分かれていました。 中央の紀朝臣の祖神は武内宿禰命で、この神は無理矢理にも登場して来ている事と比べますと、地方の国造(大名のような存在)である紀直の力量は、当時にはさほど評価されていなかったのでしょうか。
 『記紀』が書かれた8世紀初頭の瀬戸内海への港湾は、すでに紀の川水運よりは大和川に移り、また木津川から淀川へ移っていたようです。また例えば藤原京造営の用材を供給したのが近江の田上山であるように、木材の産出国としても、その地位が下がっていたようです。
 このような中でも、日前国懸神宮の存在は大きくなり、後に伊勢神宮と共に位をつけるのも憚られるようになりました。聖地、神々への崇敬の念は現在とは比較にならないほどのものだった上に皇祖神を祭っていると思われて来ていたと言うことでしょう。

 これを斎祀ったのが国造家の紀氏でした。その紀氏が祖神とする天道根命、この神の名は平安時代に書かれた『先代旧事本紀』と言う古書に出てきます。この書物は物部氏が自らに伝わる伝承を記して、古代より建国に当たった粗略にはできない一族であることを再確認させようとした意図がある書物とも言われています。 例えば、物部氏の遠祖である饒速日尊が天降する時のお供の中に、時の権力を恣にしていた藤原氏の祖とされる「天児屋根命」を入れてあります。藤原氏への対抗意識か嫌がらせかと言われていますが、まさか嫌がらせとは思いにくい所で、物部氏にはそのような古い伝承が残っていたのかも知れません。

 この『先代旧事本紀』に物部氏の遠祖饒速日尊の降臨に「防衛[ふせぎまもり]として天降り供へ奉る」とされた神々の中に「天道根命 川瀬造等の祖」と記載されているのです。この川瀬造は泉州にいたであろう豪族で、紀氏とは同系列と言えます。
 泉州であるとしたのは、平安時代に作成された畿内豪族の素性を書いた『新撰姓氏録』の抄録によっています。畿内には紀の国は含まれていません。この本文は散逸しているようですが、レジメが残っている貴重な資料です。 この中に、「和泉国神別。川瀬造。神魂命五世孫天道根命之後也。」とあるのです。 同じく「河内国神別。紀直。神魂命五世孫天道根命之後也。」とあります。 紀氏の一部は現在の大阪府八尾市付近にいたようです。

 『先代旧事本紀』には紀国造は神武天皇の時代に設けられたと記してあり、これは史実とは思われませんが、比較的古い時代に大和王権に服属した氏族であったとは言えるでしょう。

 現在の日前国懸神宮には境内の小祠は僅かになっていますが、かっては多くの摂社末社が鎮座していました。その中に先ほど紹介した「防衛[ふせぎまもり]として天降り供へ奉る」神々の名前が並んでいました。 物部氏の影響下に置かれた時代があったことを推測させます。
 同時これは日前宮の祭神にかかわる問題かも知れません。現在の祭神は両宮とも天照大神ですが、皇祖神の天照大神が日の神として最高神になる以前の時代には、一般的には日の神としては天照御魂神と呼ばれた神が知られていたとされます。 松前健一さんは中公新書『日本の神々』で、各地の天照御魂神の多くは皇祖神の天照大神に置き換わっていったのであろうと述べられていますが、現在でもこの神の名前を付けた古い神社が残っています。京都の蚕の社と呼ばれている三柱鳥居のある木嶋坐天照御魂神社が著名です。 この天照御魂神は物部氏の遠祖饒速日尊と同一神と見られたりして、天照国照彦火明櫛玉饒速日尊と言う長い名前の神として『先代旧事本紀』に記載されています。こうなれば、日本海丹後の海部氏の奉斎した籠神社や尾張国の一宮の真清田神社 を祀った尾張氏と物部氏は同族であったと言うことになり、大和王権の地盤が確立される以前のいわば群雄割拠時代の100万石の大名のような存在だったのでしょう。

 神武天皇以前の大和の先住支配者として饒速日尊の名前が『記紀』に記載されています。 『先代旧事本紀』記載の内容を信じるとすれば、饒速日尊に天道根命がお供していたことになり、そうしますと紀氏は思ったより古くから紀の国にいたのかもしれません。
 


名草の神々−61−

   『日本書紀』にそって神功皇后の動きを追いかけてみます。
 神功皇后は多くの魚の協力を得ながら西へ向かいます。日本海側の海人と云われる宗像一族や海部一族などの海人族の協力を言っているのでしょう。また多くの魚が集まるイメージはアツム、安曇と言う海人の頭領となった氏族の協力をも思わせます。
 九州へ入った天皇は筑紫の伊覩(伊都)県主の五十迹手(いとて)の服属儀礼をともなった出迎えを受けます。
 そこで天皇は五十迹手の「いそいそさ」をほめて「伊蘇志:いそし」と言われ、五十迹手の国を伊蘇の国とされ、これが訛って伊覩となったとしています。
 伊覩国の場所は現在の福岡県糸島郡(怡土郡と志摩郡を合併)で、邪馬台国のことが記載されている『魏志倭人伝』に「代々王有り」と紹介されている伊都国のこととされています。 古来より大陸・半島への玄関口だった処です。だから元々から「いと」だったので、「いそ」の説話は別に目的があって語られたのでしょう。
 この伊都国は紀の国にゆかりの深い土地だと言われています。
 一つは丹生都比売を奉じた人々が上陸した地点と、和歌山県の歴史家で丹生都姫神社ゆかりの丹生良広氏が『丹生神社と丹生氏の研究』で述べておられるのです。 氏によりますと、伊都国王の後裔が紀州丹生氏や大分豊後丹生氏になっていったとの見解を示され、和歌山の伊都郡の名はここから人々と共に運ばれていたとされています。
 また別に、伊都国の氏神の高磯比メ神社の祭神を丹生都姫とされる方や阿加流比売神とされる方もおられます。

 平安時代に作成された『新撰姓氏録』には畿内し住む氏族の自己申告で、粉飾もありそうなルーツを記しています。 これに「伊蘇志:いそし」と言う名前の氏族が載っています。 すなわち、「伊蘇志臣 滋野宿禰同祖。天道根命之後也。」と出ています。 滋野宿禰については「紀直同祖。神魂命五世孫天道根命之後也。」とあり、紀の国の国造家である紀直も天道根命の後裔とされていますので、同じルーツだと記していることになります。

 また五十迹手については、『筑前国風土記逸文』に、「高麗の国の意呂山(おろやま尉山(うるさん))に天から降ってきた日桙の末裔」と名乗ったとしています。
 糸井造なる一族がおり、伊都国にルーツを持つと言われています。大和の『日本の神々4大和』の中の糸井神社の項に「糸井造は、考合の結果、三宅連あるいは伊蘇志臣と同祖で新羅国天日槍の後裔と見られる。」と出ています。天日槍とは天日矛のことです。

 一つの結論に近づいています。紀氏は天之日矛命につながる氏族ではなかろうかと言うことです。
 一つの氏族が天道根命の後裔であり、天日矛命の後裔でもある、このことは天道根命と天日矛命とは同一系列の神と言えることになり、これから自然に導かれてしまう結論です。
 これで、日矛鏡を御神体とする国懸神宮の祭神は紀氏の祖神の日矛神であり、同時に天道根命でもあるということになり、これはまさに国懸神宮の由緒の謎の説明にうまくはまります。共に日の神の動きに連動するのです。

 また五十猛命は伊達(いたて)命とも呼ばれており、五十迹手との名前の近さが気になるところです。糸島郡には五十猛命を祀る神社が濃く分布しています。五十猛命は有功(いさおし)の神と呼ばれています。 天道根命と天日矛命の後裔が「いそし」、SAOをSOと読めば同じです。これはどう云うことでしょうか。
 
 


名草の神々−62−

  「伊蘇志臣 滋野宿禰同祖。天道根命之後也。」については「名草の神々の56」で次のように書きました。
 摂津国武庫郡(宝塚市伊孑志)の式内大社伊和志津神社の鎮座地は、伊蘇志臣の居住地であったようです。 また、伊蘇志臣は後に滋野朝臣と改めており、大和国葛上郡(御所市)の駒形大重神社の祭神に滋野貞主命の名前が見え、この辺りにも一族がいたことが分かります。

 さて、神功皇后と天日矛を語る際、どうしても出てくる古代氏族の秦氏のことについて少し触れておきたいと思います。
 『日本書紀』「応神天皇十四年、十六年」から
 弓月君が百済より来朝して言うことには、「私の国の百二十県の人民を率いてやって来ました。しかし新羅人が邪魔をしているので、みな加羅国に留まっています。」 そこで葛城襲津彦を遣わして、弓月の人民を加羅に呼びました。しかし三年たっても襲津彦は帰らなかったのです。

 『日本書紀』「応神天皇十六年」から
 平群木莵宿禰・的戸田宿禰を加羅に遣わした。精兵を授けて、詔して「襲津彦が長らく帰ってこない。きっと新羅が邪魔立てしているにちがいない。 汝等、急ぎ行って新羅を討ち、その道をひらけ」といわれました。 是に、木莵宿禰等、精兵を進めて、新羅の境に臨みました。新羅の王はおそれてその罪に服した。そこで弓月の人民を率いて、襲津彦とともに帰ってきました。

 『新撰姓氏録』の山城国諸蛮に秦忌寸の説明に「弓月王、大和国の朝津間の腋上の地に置かれた」と出ています。

 腋上の地とは上記の滋野朝臣の居住した処です。奈良県御所市です。ここの駒形大重神社の祭神に滋野貞主命の名前が見えるのです。大重神社はシゲノサンとも呼ばれており、これを裏付けているようです。
 何を言いたいか、そうです。秦氏とは天日矛命から出た一族ではなかろうか、と言う事です。

 もう一つ、弓月岳と呼ばれる山があります。大和平野の東山麓に山辺の道と呼ばれる古代を味わえる趣の古道があります。 この途中を少し外れて更に東へ登って行きますと、穴師坐兵主神社が鎮座しています。元の鎮座地は弓月岳の上であったと言います。 この弓月岳とはどの山であったかについては三つの山が候補山とされていますが、問題は弓月の名前です。先に紹介しました秦氏の部民を率いて渡来して来た人物(神かも?)の名前も弓月です。 この兵主神社とは秦氏の祖神を祀ったものか、少なくとも秦氏の斎祀った神社だったと言えます。この神社の神体は国懸神宮と同じく日矛です。 天日矛命を祀っていると考える学者もいます。千田稔氏は『王権の海』の中で同様の考証をされています。氏は更に、天日矛命がおさまったとする但馬には古い兵主神社が多く鎮座していることを指摘されています。

 ここに、紀氏←天道根命=天日矛命→秦氏 の関係がでてきました。(矢印は祖神と氏族を表します。)  
 
 


名草の神々−63−

   さて、仲哀天皇と神功皇后は背いた熊襲を鎮圧するべく、九州にやって来た訳です。以下、『日本書紀』の語る物語です。
 対熊襲戦の軍議を行っている最中に、皇后が神懸かり、「熊襲は戦うに値しない。それよりも金銀の多くある新羅の国を討てと託宣され、神をよく祀ったら戦うまでもなく従う、新羅を服従させれば熊襲も従うであろう。 その神祭りには天皇の御船と穴門で献上された水田ー名付けて大田と言うーをお供えしなさい。」との託宣がありました。
 仲哀天皇はこれを疑い、熊襲を討ちに行きましたが、討てずに帰ってきて、翌日には亡くなってしまいました。大臣武内宿禰は穴門の豊浦宮に仮葬しました。
 豊浦宮とは下関市の忌宮神社のこととされています。いよいよ武内宿禰の登場ですが、その前に「水田ー名付けて大田と言うー」の一文が気にかかります。

 「大田」とは何か、これについて触れておきたいと思います。「名草の神々15」でも概略を書いたのですが『播磨国風土記』揖保郡大田の里の説明に次のような一文があります。
 大田の由来は、かって呉の勝[くれのすぐり」が韓国から渡って来て、始め紀伊の国の名草の大田の村に着いた。その後、分かれて来て摂津の国の三島の賀美の郡の大田の村に移って来て、それがまた揖保の郡の大田の村に移住した。これはもといた紀伊の国の大田をとって里の名としたのである。とあるのです。
 紀伊の国の大田には、江戸時代に作られた『紀伊名所図会』によりますと、弓天神、内天神と云う神社が鎮座していました。普通、天神と云うと菅原道真を祀った神社が多いのですが、本来の天神とは天の神を祀ったもので、これは希望的推測ですが、「弓」は神功皇后を思わせ、「内」は武内宿禰を思わせるような気がします。

 呉の勝の勝姓は秦氏の一族とされ、秦氏の系統の集団が紀伊、摂津、播磨を行き来していっている様を云っているように読めます。紀氏と秦氏の関係を示している物語かもしれません。この大田については、また後述することになると思います。

 神功皇后の物語に戻ります。
 『古事記』では仲哀天皇を葬った後、「この国は、汝の胎中の子が治める国」との神の託宣を受けます。 託宣神の名を尋ねると、天照大神と住吉の三柱の神と名乗りました。 天照大神は皇祖神として固まって来るのはもう少し後の時代のことでしょうからこれは後世の付会、住吉の神が託宣したと考えていいでしょう。 住吉の神は、自らの御魂を船の上に祀り、新羅へ渡るように教えます。

 『記紀』と並ぶ資料に『古風土記』があります。 これは奈良時代に成立した最古の地誌・民俗誌で、各国のものが作られたのでしょうが、出雲や播磨国など五国のものが残っており、それ以外の国の風土記は他の文献に引用された形でしか残っていません。 これを逸文と言います。紀の国の場合には、『万葉集抄』と言う古典に、手束弓、あさもよひについてのも引用文が残っているに過ぎません。

 風土記の中から神功皇后が渡海する以前の事柄について記したものがあります。紀の国に関係ありそうな話を紹介します。

 『播磨国風土記』飾磨郡
 神功皇后が韓国平定のとき、御船の前が伊太代神の在した所だったので、ここを因達里(兵庫県姫路市飾磨区)とした。(伊太代神とは伊達神、五十猛命のことと思われます。)
 この伝承を伝える神社として、姫路市に射楯兵主神社中臣印達神社が鎮座しています。

 『播磨国風土記』逸文
 神功皇后は、新羅を平定しようとするために爾保都比売命に祈願をする。 すると爾保都比売命は石坂比売命に託宣して「私をよく祀れば、赤土を出して、新羅の国を平伏させようと。」と言い、赤土を出した。 その土を天の逆桙に塗ったりした。その効あって新羅を平伏させることになった。そこで神功皇后は爾保都比売命を、紀伊国管川の藤代峰にお鎮め申し上げた。

 紀伊国管川とは和歌山県伊都郡冨貴村筒香とされており、丹生都比売神社の創建譚ともなっています。
 
 


名草の神々−64−

   古風土記には神功皇后の説話は多く出てきます。摂津・播磨・備前・四国・九州です。西日本中心に語られていた伝承だったのでしょう。
 また不思議にも武内宿禰については、どこの風土記にもその逸文にも出てきません。『記紀』に300年も長生きして朝廷に仕え、東国視察まで行ったと記されているにもかかわらずです。 おそらくは『記紀』を記述する前に誰かが設定した舞台回し用の人物としての大臣だったのかも知れません。女帝神功皇后を補佐する大臣ですから、推古天皇を補佐した蘇我馬子や持統天皇を補佐した藤原不比等をモデルにしたものでしょう。 先入観として武内宿禰を固有名詞としていますが、「武:軍事を司る」「内:内裏のこと即ち朝廷」「宿禰:良い霊感を持った大臣」とでも理解すれば、政務神事を司る補佐役と言えます。
 先走りますが、武内宿禰を人格化して共通の祖先とした新興氏族(紀朝臣など)が切り開いた歴史が応神天皇からの朝廷との認識があったのでしょう。

 塩椎神、塩土老翁とか塩筒爺と呼ばれる海の化身のような神様がいます。紀の国では和歌の浦の玉津島神社の隣の鹽竈神社や田辺市の豊秋津神社の摂社に祀られています。この神は天孫の山幸彦(彦火火出見尊)に教えて海神の宮に行かせたり、その孫に当たる、まだ九州にいた神武天皇(彦火火出見尊)に、東の方に良い土地があることを教えています。何か海を支配しているような物知りの神様ですが、この神からも武内宿禰を連想してしまいます。単に翁のイメージだけかも知れませんが。
 塩筒爺の名前から筒男、即ち住吉三神の底仲表の筒男をも連想します。武内宿禰と住吉の神とは、誉田別命(後の応神天皇)の本当の父親ではないかとの説は根強く語られているようですが、収斂するのは塩筒爺だったとなれば、一体何が言えるのか、と話は発展してきます。そうしますと塩筒爺を奉斎していた氏族を探さねばなりません。山幸彦に海神の宮への行き方を教えていますが、海神訪問神話はインドネシア方面にも残っており、南方系の氏族の神話であったとされています。南方系だから単純に南九州だとしてしまうのは危険です。浦島太郎の神話は丹後半島に残っています。しかし仲哀天皇が死ぬ物語の場所は明らかに九州での出来事です。仲哀天皇は熊襲を攻めて敗北します。敗北者は何を差し出したのでしょうか。そうです。皇后を南九州の酋長に差し出したのです。神功皇后の息子の誉田別命とは熊襲・隼人の血をひいているのです。隼人の血が皇室に流れているからこそ、神武天皇以前の天孫は南九州にいたように『記紀』に記載されているのでしょう。邪馬台国に敵対した狗奴国の後裔の国が熊襲・隼人をまとめていたのかも知れません。
 塩筒爺=隼人の酋長=武内宿禰=住吉三神、彼が誉田別命の父親となります。新大阪駅の東に応神天皇を祭神とする八幡系でない珍しい神社である大隅神社が鎮座しています。社伝によればこの地はかっては大隅島と言う島であって、応神天皇が離宮を営んで、これを大隅宮と称したとあります。この大隅島は近畿の隼人の要のような土地、九州の隼人の中継地のような所と『馬.船・常民』の中で森浩一氏が述べています。応神天皇と隼人とのつながりを示しています。

 住吉の神と武内宿禰が南方系の神であることを示す傍証をもうひとつ。
 福岡県の東海岸に八幡古表神社と言う古社が鎮座しています。ここに神相撲の神事が伝わっています。磯良大神とか 伊多手大神とか中には女神と思われる神々も相撲をとるという神事です。そうしていつも「おんくろう神」と呼ばれる住吉大神が全勝して勝ち残ります。西方の神です。所が住吉大神の傀儡子は、他の神々よりも小さく、かつ黒いのです。「黒い」だけで南方系の隼人の神と言ってしまうのはどうかと思いますが、黒いことには違いありません。
 更に、宇佐八幡宮はじめ、幾つかの神社に黒男神社と言う神社が鎮座しており、武内宿禰が祀られています。この黒男と上記の住吉大神の黒い傀儡子とがつながっているとすれば、これほどの確かなことはありません。 
 
 


名草の神々−65−

    『日本書紀』によりますと、神功皇后の軍は新羅を制圧し、金銀財宝を沢山の船に乗せて帰還しました。元々新羅の王子の天之日矛命の血をひいている神功皇后がなぜ新羅を攻める物語ができたのか、これについての大方の見方は『記紀』作成の頃の対新羅との緊張関係が言われています。新羅の使節に対する態度も大きかったようです。

 また実際に丁度神功皇后の物語が年代として想定できるのは4世紀後半となりますが、こにお時代に倭兵が新羅を襲ったことが『新羅本記』に出てきます。『百済本記』や『魏志倭人伝』とともに『記紀』作成時の参考文献だったかもしれません。
新羅本記 364 倭兵が大挙して侵入
百済本記 392 高句麗の広開土王が侵入 多くの領土を奪われる
新羅本記 393 倭軍が侵入 籠城戦を行う
百済本記 395 高句麗の広開土王と戦うも大敗する
百済本記 397 倭国と国交を結び王子の腆支を人質とする
新羅本記 402 倭国と国交を結び奈忽王の子の未斯欣ミシキンを人質に送る
百済本記 402 倭国に使者を送り大珠を求む(大珠の意不明)
百済本記 403 倭国の使者を特に手厚くねぎらう
新羅本記 405 倭兵が侵入
新羅本記 407 倭人が東部と南部へ侵入
新羅本記 408 倭人が対馬に軍備を増強するを知って対抗策を案ずる
新羅本記 415 倭人と戦い勝利
 他に高句麗広開土王の石碑があり、倭軍の侵入を妨げて敗退させたと彫られています。

 皇后は帰還後、後の応神天皇を筑紫で生みます。 皇子を伴い海路、都に向かいます。瀬戸内海を進み大和へ向かったと言うことです。九州でなくなった仲哀天皇の御子の香坂の王と忍熊の王が一戦を交える準備をしつつ待ちかまえます。 神話の中での兄弟そろっての抵抗の話は珍しいと思いますが、香坂の王は占いの最中に猪にかみ殺されてしまいます。

 『日本書紀』では、忍熊の王が待ちかまえているので、武内宿禰は皇子(応神天皇)を抱いて紀伊水門に迂回します。 ここでは武内宿禰が日の神の移動に絡んでいます。
 また、幼児である皇子の東征譚であり、これは童神の降臨のイメージで、天孫の瓊瓊杵尊が赤ん坊のまま高天原から葦原中国への降臨と同じスタイルです。神の子である王者が治めるべき国土に来臨するのは童神のスタイル、これは半島の神話にも見えます。翁神と童神が同時に顕れています。南方系と北方系の結合の神話のようです。
 これに比べると神武天皇の大和入りの物語は、中年の神武天皇の物語となっています。 強いて言えば、年代感は倭人の祖と言われた大陸の呉の太伯の話に似ています。
 この話は、前漢の時代に書かれた史書『史記:呉太伯世家』の「周の太王の息子に太伯、仲雍、季歴の三兄弟の内、季歴とその息子の昌は賢く聖人の資質があったので、太王は後継者にと考えていた。それと察した仲雍と季歴は、南方の地に去り、入れ墨断髪をして後継ぎの意志のないことを示した。太伯は自らを鈎呉と称して、呉の開祖となり、呉の太伯と呼ばれた。孔子から「至徳」の聖人と仰がれた。
 倭は自らを呉の太伯の後裔と信じていたと言います。

 神武天皇の東征の話は、それよりも後の継体天皇や天武天皇が皇位を奪った話の焼き直しなのかもしれません。

 余談はさておき、忍熊王は宇治に陣取りをします。やはり壬申の乱の大友皇子を揶揄しているのかもしれません
 
 


名草の神々−66−

 

 武内宿禰は皇子(応神天皇)を抱いて紀伊水門に迂回していました。
 「名草の神々12」でも書きましたが、武内宿禰が祀ったと伝わる紀伊三所神と言われる神々がいます。
 大和岩雄氏は『日本の神々3住吉大社』の中で「息長足姫命(神功皇后)は日神であり、大八嶋の天の下に日神を船出させた船を紀ノ国で祀ったのが武内宿彌である。その神々とは紀ノ国の志摩社静火社伊達社の三社は船玉神で紀の国の紀氏の氏神であると『住吉大社神代紀』に記すと」とされています。
 この住吉大社とはご承知の南海電車の沿線の住吉大社のことで、昔は神社の近くにまで海辺だったようです。ここに摂社として船玉神社が鎮座しており、紀直が祀る神とのことで、紀伊三所神の元社とされています。

 また、武内宿彌が祀った船は住吉大社の祭祀を司った船木氏が作ったとされます。この船木氏の本貫の地は伊勢国佐那県で、三重県多気郡多気町仁田には佐那神社が鎮座、祭神は天手力男命です。この神は天岩戸から天照大神を導き出した神として著名で、やはり日の神を運んでいます。江戸時代でしょうが、日抱尊として、伊太祁曽神社の祭神となりかかったこともあります。
 余談に近いのですが天手力男命とは岩の扉を開く神で磐押別神などと同じ神格で、内在するそのパワーはもの凄いものがあり、雷神でもあり、密教的には九頭竜神でもあったものと思われます。『紀伊続風土記』の名草郡手五箇荘の出島村(現在の安原の朝日地区)に九頭明神社が鎮座、これは伊太祁曽神社末社からの勧請と書かれており、伊太祁曽神社にも天手力男命のにおいがしていたのでしょう。

 住吉大社に伝わる『住吉大社神代記』には住吉大神を祀る神社として、紀伊国伊都郡丹生川上天手力男意気続々流住吉大神と言う長い名前の神名が出てきます。『紀伊国神名帳』にも紀伊国伊都郡の項に天手力雄気長足魂住吉神と言う神名を あげています。後裔社としては、橋本市胡麻生の本殿がきらびやかな色彩の相賀八幡神社とされていますが定かではありません。同じく、『住吉大社神代記』には、住吉大神を木国管川の藤代の峯に鎮め祀ったが後に針間国に渡ったと記しています。(この辺りの記述は『古代の鉄と神々:真弓常忠』によっています。)
 さて、「木国管川の藤代の峯に鎮め祀られた神」として思い浮かぶのは、丹生都姫神です。『播磨国風土記逸文』に、神功皇后は、新羅を平定しようとするために祈願を行うと国を固めた大神の子の爾保都比売命が征伐の方法を神功皇后に教えるには「私の祭祀を良くしてくれるなら、効験あらたかな赤土を与えよう。赤土を天逆鉾に塗って神の船の前後に立て、兵士の着衣を染め云々」と託宣し、その効あって新羅を征するに至る。そこで神功皇后は爾保都比売命を、紀伊国管川の藤代の峰にお鎮め申し上げた。と記載されています。丹生都比売神社創建の由緒と言えます。

 丹生都比売(爾保都比売)はおそらくは播磨国から伊都郡筒川(筒香)へ、片や住吉大神は筒香から播磨へ、面白い対比です。現在の筒香の付近には住吉大神の姿は見えません。丹生都姫神と入れ替わったと言うことでしょうか。

 さて、住吉大社の祭祀を司った船木氏ですが、住吉大神を播磨に遷すのに関わっているそうです。住吉大神の遷座については真弓常忠氏は丹生川上よりも砂鉄の豊富な播磨へ船木氏が移動していった物語の反映と見ておられます。

 式内社で見ますと、播磨国には住吉神社が鎮座していますが、爾保都比売を祭神とする神社は見あたりません。。『播磨国風土記逸文』に出てくるから播磨国と決めつけずに、お隣の摂津国(神戸市山田)の丹生比売神社ではないかと言われております。
 
 


名草の神々−67−

 「名草の神々」64で、「武内宿禰については、どこの風土記にもその逸文にも出てきません。」と書きましたが、間違いでした。『万葉緯』に引用されている「因幡国風土記逸文」に、御年三百六十余歳で当国でお隠れになった。」と記されていました。お詫びして訂正いたします。

 神功皇后の半島往来に貢献した神々は多くいます。特に軍船の運行に寄与した神をあげておきます。
 住吉三神 荒魂は先鋒として軍船を導く。(『日本書紀』 
 阿曇連磯良丸命 神功皇后御征韓に際しては神裔阿曇連磯良丸命をして舟師を導かしめ給ふ (志賀海神社由緒)
 伊太氏の神 息長帯比売命が韓国を平定しようと渡海された時、「御船前(みふねさき)の伊太氏の神こにおいでになる。(『播磨国風土記』)

 住吉大神が神功皇后に神託をあたえ、自らの名を告げる言葉は美しいので紹介しておきます。
 日向国(ひむかのくに)の橘小門(たちばなのをど)の水底(みなそこ)に所居(ゐ)て、水葉(みなは)も稚(わかやか)に出(い)で居(る)神、名(みな)は表筒男(うはつつのを)、中筒男(なかつつのを)、底筒男(そこつつのを)の神有(ま)す。
 水の澄んでいる様、海草の若芽が揺らいでいる様がありありと目に浮かびます。『古事記』では墨江大神と記していますが、海の水が澄んでいる状態にも神を感じたのでしょう。 森浩一氏は『記紀の考古学』の中で、「住吉の神の最初の登場は摂津の海では想定しにくい」とされています。難波にとっては新来の神とされています。
 おそらくは、西国方面からの勧請でしょう。隼人に頭を押さえられていた安曇氏が奉斎していたのでしょう。「名草の神々59」で天道法師(菩薩)縁起を紹介しました。これには、対馬の豆酸(つつ)の天道童子は、母が日光に感じて懐妊したと伝えられています。 霊峰竜良(たてら)山に、天道法師の墓所と称する聖地がある。と言う内容でした。 住吉の神を筒男と呼びますが、対馬なら現在でも海の水が澄んでいる所です。
 ついでに、又かと思われるでしょうが、竜良(たてら)山に厳めしさの「イ」を付けるとイタテラ、伊達と五十猛命をも思わせます。

 これはさておき、もう一つ又かをやります。阿曇連の祖神は阿曇連磯良丸命で、先に神功皇后渡韓に功のあった神とされています。磯良丸は磯武良とも書かれ、イソタケラと読まれます。五十猛命はイソタケ、イタケルと読まれ、よく似て来ます。 
 阿曇連ー住吉神ー紀伊三所神ー伊達神社ー五十猛命ー磯武良ー阿曇連 とくるりっとつながりました。

 神功皇后に話を戻します。
 神功皇后も紀の国へ行き、皇子に日高で合います。紀の国へ来たのは、仲哀天皇の宮であった徳ろ津宮があったとこ、紀の国の豪族の力が当時の近畿ではずば抜けており、大和侵攻には紀の川をさかのぼるのが常識であったことなどが考えられます。また日高に行ったのは、異境で生まれた小童神である誉田別皇子(後の応神天皇)は天孫日嗣の御子としてこの国の日高に留まる物語は意味があったのですが、次回に述べますが、もうひとつの意味がありました。とにかく天孫の名前には日高が多くついていることは事実です。

 日高は今の日高郡や御坊市のことと思われますが、痕跡は残っているのでしょうか。
 日高郡日高町大字産湯に産湯八幡神社が鎮座、その由緒に「神功皇后帰還後、当地で皇子を分娩、武内宿禰はこれを守護して暫く留まった。」とあります。この神社を以て痕跡とはしにくい所ですが、伝承が伝わっていることには違いありません。
 産湯八幡神社の南西5kmに日高町阿尾と言う所があります。この「アオ」は神武東征の水先案内人の椎根津彦の後裔が祀った青海神社のアオに通じます。要注意の場所と言えます。
 
 

名草の神々と歴史 巻一から巻二〇

名草の神々と歴史 巻二一から巻四〇

名草の神々と歴史 巻四一から巻五六

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