紀の国の民話・昔話・伝承 神々編 和歌山市、海南市、海草郡




木の国の始まり


 はるかな昔、素盞嗚尊は我が瑞穂の国に有功な木らしい木のないのに気がついた。 有功な木とは、家屋などの材料として、また果実のなる木々のことである。 そこで鬢髭を抜いて息を吹きかけ杉の木種をつくつた。次いで胸の毛を抜いて檜の木種を、尻の毛を抜いて槙の木種を、眉の毛を抜いて楠の木種をつくった。 そして、御子の五十猛命、大屋津比賣命、抓津比賣命の三神を呼んでこういった。
「この木種を植え育てよ。杉と楠は舟をつくるのに用い、檜は家をつくるのに、槙は棺をつくるのに用いよ。」
 三神は早速その木種をこの地に植えつけた。これが「木の国の始まり」である。
 何年かたって木の国は樹木が鬱蒼と茂り、良材を多く産する国になった。
 神武天皇が橿原ノ宮を造営する時、天富命が手置帆負・彦狭知の二神と共にこの国に入り、木を伐り出して正殿をつくり、手置帆負・彦狭知二神の子孫はこの地に住みつくことになった。 その後、「木国」は「紀伊国」と書きあらわされるようになり、五十猛命・大屋津比賣命・抓津比賣命の三神はいずれもこの地に祭られ全国的にも珍らしい「木の神様」とされている。 手置帆負・彦狭知の二神も祭られている。
関連する神社 伊太祁曽神社
関連する神社 大屋都姫神社
関連する神社 都麻津姫神社
関連する神社 上小倉神社



筆捨松


 熊野古道の難所、藤白坂(海南市〉にある松。 宇多天皇の御代、有名な画家巨勢金岡が照野詣の途中この松の下で十四、五歳の童子と絵比べをして敗れ「無念なり」と絵筆を松の根元に投げ捨てたという。 この童子は、実は熊野権現の化身であって、当時飛ぷ鳥をも落とす勢いの金岡の驕れる心をいさめるためこのようにしたのだともいう。 また、限下に広がる景色(又はこの松の枝ぷり)があまりにすばらしすぎ、金岡の腕では到底描ききれないので筆を投げ捨てたという説もある。
近くの神社 藤白神社



千種神社の楠


 海南市重根の千種神社境内の楠の傍らに地蔵尊をまつっていたところ、木が大きくなるにつれ地蔵尊は木に巻くき込まれてしまったという。
「行たら見てこら重根の宮の 楠に巻かれた地蔵尊」(俚謡)
関連する神社 名草戸畔を祀る三社



有田蜜柑


 今から二千年程前、垂仁天皇がカグノコノミを御所望になったので、田島守を首班とする二〇余名の若者が海を渡って探しに行った。 幾年かの艱難辛苦末、彼等は常世の国からカグノコノミを持ち帰ったが、その時、垂仁天皇は崩御されていた。 朝廷ではこのカグノコノミを御陵にお供えし、残りの六木を南方の原産地に似た気侯の有田の地(橘本)に植えることにした。 この木が生育し次第に改良されたのが有田蜜柑だという。 「六木樹」という地名は最初に植えた六木のカグノコノミに因んでつけたものといい、「橘本」は橘(ミカン)発祥の地というところからつけられたという。

 天正二年、有田郡糸我庄中番村の伊藤孫右衝門が主命によって肥後国八代へ出張した。 肥後国で栽培されている蜜柑の木を有田地方へ移し殖産したいと思ったからである。 ところが、肥後国では蜜柑の木を他国人に与えることを禁じていた。 そこで孫右衝門は「盆栽として花実の美しさを楽しむため」と偽りて苗木を二本もらつてきた。 そのうち一本は枯死したが、残りの一本が見事に育ち有田蜜柑の元になったという。

 弘法大師が唐より帰国の時、天竺から蜜柑の種子を持ち帰り栽培したのが蜜柑の始まりであるという。
関連する神社 橘本神社



鷺の森の梛


 その昔、和歌山の宇治に大きな梛の木があった。 その太さは三百人が手をつなげばやっと一回りできるほどの太さでその高さは何とも測りようのない高さであった。 梢には何千何万羽の白鷺が住み、この木を遠くから見れば雪に覆われた山の上のようだった。 木の陰は、朝は淡路島を覆いタベには那賀・伊都から吉野の辺りまで覆うので、それらの土地では五穀が実らず百姓は食うに困るありさまだった。 そこで、名草・海部・那賀・伊都の四郡から代表が出て京にのぼり朝廷に奏上したところ、帝は紀国造・宇治彦に命じてこの大木を伐らせたという。
関連する神社 朝椋神社



秤石


 下小倉神社(和歌山市)境内に観音堂が建てられその落慶供養が行なわれた時、五智坊融源という僧が「南無阿弥陀仏」とばかりとなえているので、人々が非難したところ、五智坊は紙に「南無阿弥陀仏」と書き、傍らにあったこの石と重さを比べさせた。 人々はこの石を軽々と持ち上げたのに、六字の名号を書いた紙は重くてどうしても持ち上げられなかったという。
関連する神社 小倉神社



奠具山 てんぐさん


 和歌山市にある玉津島神社の裏山。 昔、聖武天皇が行幸した際、この山に登り、「今後春秋二回ここで玉津島の神、明光浦の笠をまつれ」と命じたので、山頂に祭壇を設け神霊をまつった。そのため供え物をする山という意味で「奠具山」と呼ばれるようになったという。
関連する神社 玉津島神社



ぱくち池


 ある時、春日大明神と且来八幡神社とがバクチをした。 その時、且来八幡が勝ったので約束通り三つの池の一つであるこの池(大明神池)を且来側に譲った。 そこでこの池のことを一名「ぱくち池」と呼ばれる上うになったという。
関連する神社 且来八幡神社
関連する神社 春日神社



春日の板橋


 ある時、春日の宮前にかけられていた一枚板の橋が大水で流され、この板を拾った人が別荘の扁額にした。 ところが、この板は夜な夜な「春日の官へ帰りたい、春日の官へ帰りたい」といって泣くので、早々に春日の宮へ返したという。 また、この坂橋を削って煎じて飲ますと小児の夜泣きがなおるという。
関連する神社 春日神社



高ノ御前


 布施星の高ノ御前に楠正成が籠城し、黄金を埋めたという。
近くの神社 高積神社



梅原


 梅原の金山に甲冑(黄金ともいう)を埋めてあるという。
近くの神社 大年神社「大年大神」和歌山市梅原403



神の化身


 紀の川の河口に一匹の大蛇が流れ着いた。 玉をくわえ腹部は金色に光る杉織状になった輪があり、立派な足もあったという。 人々は、これは神の化身と、小野田に頭部を埋め(宇賀部神社)、坂井に腹部を(杉尾神社)、重根に足を(千種神社)埋めておまつりしたと伝えられている。
関連する神社 名草戸畔を祀る三社



藤白の導き犬


 行基が藤白神社へ行こうとして大野坂辺りへ来て道にまよってしまつた。 その時、藤白の神の遣いである犬が一匹来て、行基を藤白権現に案内したという。
関連する神社 藤白神社



東照宮と雷


 東照宮の社前に大きな金燈籠があって、これに雷が封じこまれたことがあるので、その後、落雷しなくなった。
関連する神社 東照宮 和歌山市和歌浦西2-1302



蛭子神と雷


 昔、大崎の戎の松に雷が落ちた時、蛭子神が雷をつかまえ、再びこの地に落ちないことを誓わせて放免した。 雷は釣竿の先を伝って天へ逃げ帰ったという。
関連の神社 蛭子神社「事代主神」海草郡下津町塩津119



淡島神社


 神功皇后が半島からの帰途、海上で大時化にあい、神に祈ったところ「苫を海に投げ、その流れにしたがって船を進めよ」とのお告げがあったので、その通りにすると一つの島(友の島)に流れついた。 その島には小祠があり、少彦名命、大穴貴命の二神がまつられていたので数々の品を神々に捧げた。 その後、仁徳天皇がこの島へ狩りにきた時、その話を聞き、島では何かと不自由と社を加太の磯間の浦に遷し、神功皇后(息長足姫命)をもあわせてまつったという。
 この淡島神社で少彦名命と神功皇后の男女一対の御神像が並べられたのが男雛女雛の始まりで、御遷官の日が仁徳五年三月三日だったので、三月三日が雛祭りの日になった。 雛祭りの語源はスクナヒコナ祭りが簡略化して「ヒコナ祭り」から「ヒナ祭り」になったともいう。
 また一説(淡鳥願人たちが語り聞かせたもの)では、淡島様は天照大神の第六番日の姫君。 十六才で住吉明神の一の后になったが、下の病にかかり、綾の巻物、十二の楽器といっしょにウツロ船に乗せられ堺の浜から流されたが、あくる年の三月三日に加太の栗島(淡島)に流れ着いた。 淡島様はさっそく巻物を取り出し、雛形をきざんだ。 これが雛遊びの始まりである。その後、淡島様は同病救済の悲願をたて、死後この地に神としてまつられたという。
関連の神社 加太淡島神社



朝椋神社


 祭神・大国主命が伯耆の国から難をさけ、この国の大屋昆古神(五十猛命・伊太祁曽神)の許へきた時、まだ夜明け前でうすぐらかったので、この地を「朝暗ら」と名付けた。 その後ここに社を建てて朝椋神社と称するようになったという。
 また、昔、鎮西将軍が兵を率いてこの神社の前を通った際、下馬しなかったので落馬した。 そこで神をおそれて立派な社を建てたという。 別名「鷺の森明神」
関連の神社 朝椋神社



矢の宮神社


 祭神の八咫烏は神武天皇東征の際、皇軍を先導したり、天皇の使いとして敵の陣営に入りて賊将を降参させたりして武勳をたて、「武の神」としてまつられることになった。 天正五年、織田信長が雑賀を攻めた時、村人たちがこの神に祈願をこめると、神は「敵は潮のひくのを待って攻めるつもりである。わたしは村民のため潮がひかないようにしてあげよう。」といって、いつまでも満潮のままにしておいたので、敵兵は川を渡って攻めてこなかったという。
関連の神社 矢宮神社



三郷神社


 元禄十三年、紀伊藩の家臣・水野重孟が長保寺へ参詣の帰途、この神社の社前を騎馬のまま通過しようとしたが、馬がどうしても動かず、よく見ると社前に燦然と光りかがやくものがあるのに驚き、ただちに下馬し、礼拝して通ったという。
関連の神社 八幡神社 海草郡下津町黒田269



粟島神社


 神功皇后が渡韓の折、この社に勅使を以て祈願をかけ、幣帛を奉ったことがある。 凱旋の折、船中で船板に矢を用いて少彦名命、大国主命の二神の像を彫刻した。 この船板と韓国から持ち帰った陣太鼓をこの神社に奉納したという。
関連の神社 粟嶋神社 海草郡下津町方1101



玉津島神社


 大暴風雨の後、片男波に高波が打ち寄せ、あわや村をのみこもうとした時、玉津島の女神(衣通姫)が水鳥となって波をけると、高波は後へ引いていったという。
関連の神社 玉津島神社



田尻の賽の神


      賽の神は「幸の神」または「ゴンジャの神」といい、醜い男神でみんなに嫌われていたが、ある時、−人の女神と出会い、この女神と結賭した。 このことから、この神に祈ればだれにでも幸はくるという。
和歌山市田尻



高野明神と玉津島神


 高野明神(男神)と玉津島神(女神)が恋仲となり、丹生明神(女神)がこれを快く思わなかったので、高野明神が玉津島へ来る途中、丹生明神の前では轡の音をならさないよう気をくばったという。
関連する神社 玉津島神社



十三神社の大崎太刀


 昔、和歌山藩士に大崎三左衛門長増という人がいた。 ある日、下神野の野中に狩りにきて、十三神社の境内で猪を射とめたが、その後発熟して病床についた。 そこで、これは神社境内を血で汚した神罰だと思い、家伝の宝刀一握りを十三神社に献納して謝罪し、殺生を止めることを誓ったところ本復したという。
関連する神社 十三神社 海草郡美里町野中491



参考文献
 和歌山県史 原始・古代 和歌山県
 日本の民話紀の国篇(荊木淳己)燃焼社

 和歌山の研究5 方言民俗篇(和田 寛)清文堂

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