紀の国の民話・昔話・伝承 和歌山市編 その二
糸切り餅の話
紀州名物「糸切り餅」の話をしよかの。
どんと昔のことに、神功皇后さんちゅう偉いお方がおられての、そのお側に仕えていた一番偉い家来が紀州出身の武内宿弥という人やったんやと。
この皇后さん、兵士を連れて朝鮮半島まで戦争しに行かはったちゅう伝説もあるんやけど、その帰り道に、加太の田倉崎に舟を泊めはったそうな。
そいで宿弥はんが、何ぞ家来に食べさすもんないやろか・・と本脇の方までやってくると、そこに二、三軒の茶店みたいなのがあって、モチゴメとウルチマイの粉をまぜてつくった餅が置いてあったんや。
こらうまそうやちゅうて、その餅を細長うに引き伸ばし、自分の持ってた弓のツルで、試しに二つ、三つに切り分けて食ってみると、これがなかなかええ味やして。
そいで茶店の人に頼んで、どっさりとそのお餅をこしらえてもらい、丹まで運んでもろたちゅうことや。けど茶店の人らは弓のツルらもってへんよって、その代わりに太い糸を使って、次々にお餅を切っていったらしいわ。
そいで「糸切り餅」と呼ばれるちゅうようになったんやて。
それからあとも、この餅はいろいろと工夫がこらされ、キナコや砂糖をふりかけたりして、二重に並べて竹の皮にくるんで、淡島街道を往来する人の土産もんにしたり、また店先で腰かけて食べてもろたりして、すっかり有名になったんやと。
ある時、紀州の殿さんが加太の淡島さんにお詣りする時に、このあたりを通りかかると何やらええにおいがしてくるんやしょ。
「コレコレ、カゴを止めよ」
いうて、近付いてきた小姓に
「なにやらひどくうまそうなニオイがしてまいったが、あの店では何を商いしておるか調べてまいれ・・」
て命じられたんや。
(えらい食意地のはった殿さんやなぁ・・)と思いながら、ともかく小姓が走っていって、店の主人から由来を聞いてみると、神功皇后さん以来の名物で、ここを通る人は、みな買うて帰るという「糸切り餅」やいうことが分かった。
そいで殿さんに報告したら、早速注文され
「うーむ、余の領内にこのような名物があったとは知らなんだぞ・・」
とかなんとか言ってパクパク食べられたそうな。
この餅は、いまの南海加太線が開通するまでは淡島街道随一の名物やった。
関連する神社 加太淡嶋神社
関連する神社 射箭頭八幡神社 和歌山市本脇260
湊神社の天狗
今の湊神社のあるへんは昔は松林やった。そのはたに、そら大きな松の木があったんやして。
そいでな、その松の木に毎年一回、きまって烏(からす)天狗が飛んできたんやと。
烏天狗って知ってるか?
わしもよう知らんねやけどなんでも大天狗さんの子分らしいわ。
だいたい天狗さんちゅうのは、額が真っ赤で、長いハナをピンと伸ばし、白い髪で白いヒゲを生やしているんやけど、烏天狗の方はまだ修業中やよって類の色も真っ黒やし、ハナも伸びてないし、丁度くちばしのようにとがった口らしいで。
ま、うんと修業したらそのうちに大天狗さんになれるんやろかい。
そいでな、その烏天狗いうのは、年に一回、神様のお使いで村へやってきて、村に住んでる人たちを調べるんやて。
誰それとこに赤ちゃんが生まれたとか、誰とこにお嫁さんが来たとか、誰が死んだとか・・おまけに、どこの子どもがええことしてるか、どこの子どもが悪さばかりしているかもちゃんと調べていくんや。
ところで、烏天狗の笑い声ちゅうたら、そらもうおとろしもんやで。
なんでも風の吹く晩に、烏天狗らが集まって、高い松の木の上で、いろいろと相談するんやそうな。
その時、カラッ、カラッ、カラッちゅうてな、丁度、雷さんの空鳴りみたいな、それでいてお腹の底までしみわたるような声で笑うんやて。
わしも小さい頃に、一ペんだけ聞いたことがあるんや。そらもうおとろし声やど。
あくる日に、わしら子どもが集まった時に
「お前ら、天狗さんの笑い声、聞いたか」
いうて尋ねてみたら、みんな聞いた、聞いた、いうておとろしそに顔を見合わせとったわ。
とくに天狗さんは、ふだん悪いことばっかしやってる子どもの家の屋根へ止まって笑うちゅうて、そらもう風の吹く晩はこわかったもんや。
ひょつとしたら、今でも風の吹く晩は、烏天狗が空を飛び回って、悪い子どもを調べてるかも分からんのう。
なにさま、紀の国は木の国ともいうて、めっぽう木の多いところやよってな、天狗さんが住むには都合がええのやろかい。どこへ行っても天狗さんの話が残されてるわな。
まあ山で修行している修験者のことをいうたんかも知れやんが、やっばし気味の悪い話やの。
関連する神社 湊神社 和歌山市湊2-2193 祭神 高御産巣日神
弓の名人の話
和歌山市和佐中の河南総合体育館の前のとこに「弓の名人・和佐大八郎」の顕彰砕が建てられてるわな。この大八郎さんの話をしよかの。
和佐の出身である大八郎は、紀州の殿さんに仕えてた葛西園右衛門ちゅう人について、若い頃から熱心に弓の修業をやってな、メキメキと腕をあげたんやて。
その頃、日本一を争う弓のコンクール「通し矢」ちゅう競技が、京都の三十三問堂で行われてたんやと。
約一二一・五メートル先の的に、何本の矢を命中させるかの競技で、大八郎の師匠・葛西園右衛門は、一万本の矢のうち七千八百五十九本を命中させて、「日本総一」という額をかけたそうな。
ところが負けん気の強い尾張の殿さんがな、その家来で、やはり弓の名人といわれた堤野星野勘左右衛門ちゅう人に、「ひとつその記録を更新せえ。弓は紀州の専売特許やない。我が尾張藩もこの通りや・・・とひとつ紀州の殿さんの鼻をあかしてやれ」と命じられたんや。
この勘左衛門は、見事殿さんの期待に応えて、今までの記録をあっさりと更新してしもうた。
一万本の矢のうち八千四百四十五本を命中させ「日本総一、葛西園右衛門」の額を引きずりおろし、今度は堂々と自分の名前の入った「日本総一、星野勘左衛門」という額をかかげたわけや。
大八郎はこれを聞いて(さぞかしお師匠さんは残念やろな…)と思て、いつか自分にチャンスが回ってきた時には・・と以前よりも熱心に稽古に励んだそうや。
それからまたたく問に三年の月田が流れて、大八郎は十八歳になった。もちろん腕前の方もグンとあがって、もう師匠以上と評判も高まったわ。
そいで師匠に
「どうか私にも三十三間堂の通し矢に挑戦させて下さい・・」
と頼んだんや。
「まだまだお前の腕で日本一に挑戦はできぬ」
病床にあった師匠はそういうて許してくれやなんだ。友達らも頼んでくれたんやけど、師匠は(腕の方はもう充分やけど、やはり多勢の人の前でやるのには、もうちょつと人間的な修業を積んでから…)と考えたんやろな。
どうしても「ウン」と云うてくれやなんだ。
そいで、とうとう友達三人に副え書きしてもろて、殿さんに願い出たんや。殿さんもびっくりしてな、早速に四人を呼び出して事情を聞いたんや。
三人の友達はみな太鼓判を押すし、大八郎も自信たっぷりやし
「もし日本総一の額をかかげることが出来なんだら、四人とも切腹する・・」
とまでいうんで、とうとう殿さんも許してくれたんや。
さあ、そうなると紀州藩の名誉をかけての挑戦やしょ。
いよいよ大八郎の挑戦の日がやってきた。
大観衆の見守る中、まず第一矢が放たれた。
命中したら、伺う側でド〜ンと太鼓が鳴ることになってるんやが、どうしたことか、その音は時時しか聞こえてこんねや。
そやな、もう五千本から矢を射たんやけど、そのうち五百七十七本も当たらなんだ。
まぁ、打率でいうたら九割弱というところやから、なかなか快調といえば快調なんやけど、自信たっぷりの大八郎にしては心外やったんやろ。
大八郎の緊張は刻々と高まっていき、あまりの緊張からついに失神してしもうた。
病気が治って付き添いに来ていた師匠の園右衛門も驚いて、いろいろ介抱したんやけど、大八郎は完全にのびてしもてな、ピクともせんので、皆は弱り果ててたんや。
その時、観衆の中から深編笠をかむった一人の武士が進み出てな、刀の小柄を抜くと、大八郎の両方の腕にズブッと突き立てた。
みながびっくりしていると、そのあたりに充血していた血をしばりだしたんやと。
たちまち大八郎は意識をとりもどし、繃帯してくれた腕を軽々と打ちふり、「さあ、やるぞ!」と、再び弓を握ったんや。
それからはなかなか快調で、ついに一万本中、八千八百七十八本も命中させたわ。
尾張の記録を抜くこと四百三十三本、再び「日本総一」の額を紀州に取り戻したわけや。
師弟ともに手をとりあっ↑涙を流して喜びあったのも当然やの。
それにしても、あのピンチの時に、手際よく介抱してくれたのは一体誰やったろな・・と思うて、あちこち探してみたがもう見当たらなんだ。
これは後になって分かったんやけど、実は大八郎のライバル、尾張藩の星野勘左衛門やったそうな。美しい「男の友情」やった。
大八郎は殿さんに迎えられて、意気揚々と紀州へ帰ってきてな、三百石に取立てられたんやけど、のちに罪を得て、田辺に幽閉されて死んだんやと。
(大八郎の通し失の数については諸説がある)
和佐の王子社 和佐王子
鷺の森の大木
どんとむかし、今の和歌山市の城北小学校のへんやろと思うんやけど、ここにどてらく大きな木が生えていたんやして。
どのくらい大きな木か・・いうと、東から陽がさしてくると、なんと淡路島まで陰になってしまうんやと。
それから陽が西の方に回ると,今度は伊都郡や那賀郡の方まで陰になってしまうほどやしょ。
そやよって、お陽さんもろくろく当たらんので作物も実りが悪く、みな困ってしもた。
この大きな木は、それ一本だけで森のようになり、おまけにそこにはようけ鷺がすみついてな、あちこちと食い荒らし回るもんやさかい、ほんまにふんだりけったりやった。
村人たちは、何べんもこの木を伐ろうとしたんやけど、そらもう固い木でよう、どないしても刃かたたんねやして。
「こらもう仕方ないで…。こんなとこに住んだわしらが不運やった。どこぞよう日の当たるとこ探して、みんなで引っ越しすることにしたらどうやろな」
ちゅうような意見もでてきてな、一同で考えこんでたとこへ、淡路の人や、伊都・那賀の人からも「早う伐ってくれや・・」と文句を言うてくるし、村の人らはいよいよ弱り果てた。
そしたら一人、知恵者[ちえもん]がいて「こらもうわしらの手におえやんで。ひとつ代表の者が大和の都へ行き、お上の力を借りてなんとかしよらよ」
と言い出したんや。
早速、代表の者が選ばれて、大和の都へ行ったんやが、朝廷でも放っておくわけにはいかず、最新の道具をもたせて、たくさんの人を紀州へ送りこんできたんやしょ。
この人らも、一本で大きな森−−つまり鷺がようけ住んでたんで、これを ”鷺の森”て呼んでたんやけど−−を見て、びっくりしたわ。
そいでも、そこはやっばし新しい道具と、大勢の力やな。
作業は順調に進んで、もうあと一息で伐り倒すところまできたんやけど、どっちへ倒れるかも分からんし、ともかく一里(ほぼ四`)四方の人に立ち退いてもろて、いよいよその大木も最後の日を迎えたんや。
そやけど伐ったものの、その後はどうすることもできず、自然に腐るのを待ったそうや。今でも鷺の森のあたりを深うに掘ったら、大きな木の根っこが出てくることがあるんやとい。
関連する神社 朝椋神社
春子稲荷の話
むかしむかし…そやな今から四百年はども前のことや。
豊臣秀吉がいよいよ紀州征伐することになった時のことやしょ。
その頃の紀州は、根来寺の僧兵や、太田党、雑賀党、それに紀南の方には豪族の湯川一党らが栄えていたんやけど、なにしろ全体をまとめる大名がいてへんもんやよって、めいめいがキバをむいて豊臣の天下取りに反抗しとったんや。
そいで秀吉もとうとうシビレをきらして、十万ちゅう大軍で紀州を攻めることになった。
さて紀三井寺のことやけど、当時は専門のお坊さんがおらんと、村の人たちが交替でお寺を守ってたんや。
ここでも「豊臣のやつらに負けてたまるか…」
いうて、村をあげて戦いの支度を整えたんやと。
そやけど、なんちゅうたて紀三井寺の衆は、戦には素人やろ。そらもう専門にしてる武士らにかなうはずあるかよう。
さんざんに打ち破られて、明日は紀三井寺村が焼討ちにされるか・・ちゅうとこまできたんや。
村の若い衆らは、戦死して運ばれてきたり、あるいはえらいケガで血だらけになって、ぞくぞくと村へ戻ってきて、もうえらい騒ぎやった。
その晩、紀三井寺の本堂へ、村の主だった衆が集って
「あくまでも秀吉の大軍に立ち向って戦うか、それとも誰か使いに行って降伏を申し入れるか、どちらにすら・・」と相談してたんやしょ。
丁度その頃、紀三井寺には春子いう美しい娘がきてたんやけど、いよいよ明日は紀三井寺焼討ちやいう噂がたってくると、もう辛棒たまらず、スツクと立ちあがると、本堂の奥深くこもって、一生懸命にお経をあげはじめたんやと。
それからしばらくたって、夕暮れの本堂から一匹の白ギツネが現われたとみるや、まるで矢のように飛び出していったんや。
不安な一夜が明けて、村の人らが紀三井寺へつめかけていると、突然、豊臣の陣から使いが来て「紀三井寺村の焼討ちは許してやる。一切、兵士たちも足をふみこませぬ…」
という手紙をもってきたんやしょ。
村の人たちは大層喜んで観音さんにお礼いうたんやけど、春子の姿はもう二度と見当たらんよになってしもたんやとい。
村の人らは「春子は白ギツネになり、きっと敵の大将に頼んでくれたんやろ・・」と小さな祠をつくり「春子稲荷」いうて、今でもお祀りしてら。
近くの神社 高皇神社「高御産日神」和歌山市三葛1006 摂社 稲荷神社「宇加御魂神」
和歌山市の民話 その一
参考文献
和歌山県史 原始・古代 和歌山県
日本の民話紀の国篇(荊木淳己)燃焼社