紀の川の衆へ


 和歌山にゆかりの方々が参加をされているメーリングリストがあります。九度山の松本さんの主宰になるものです。

九度山の紹介 に「紀ノ川メーリングリスト案内」があります。
 神奈備は挨拶代わりのエッセーをメール中でしたが、ヤメテクレと悲鳴があがり、従ってここへ時々追加することにしました。下方にログをまとめました。

 ご承知の事ですが、古事記によりますと於能碁呂島に降り立ったイザナギ、イザナミが国生みを行います。 この「オノゴロシマをはどこに比定するか」と言う事が真面目に論議されています。 この神話の発祥の地にかかわるからでしょう。
 比定地は、淡路島そのもの、沼島、友が島があります。これらはいずれにしても、紀の国に近い所です。
 もう一つの比定地は九州です。邪馬台国九州説、高天原九州説、九州王朝説、九州の神話が大和に盗まれた云々と、九州説も賑やかです。 私は九州説はあまり勉強していませんので、こと細かくはよう紹介しません。どなたかお詳しい人がおられましたら、お願いしたいですね。博多湾に能古島と言う島があります。確かにオノゴロシマの名前の一部が遺っているようですね。この島を比定している方がおられます。

 イギリスが植民地を支配する際、拠点を近くの島に置きました。安全を確保しつつ観測拠点としたのでしょう。 印度のセイロン島、マレーシアのペナン島、大陸の香港島などです。 それから類推しますと、日本列島にやってきた進んだ文明を持った人々が拠点を置いた島がオノゴロシマだったと言えるのかも知れません。
 古事記ではオノゴロシマから順に淡路島、四国(伊予、讃岐、粟、土佐)、九州(筑紫、豊、肥、熊曾)、壱岐、対馬、佐渡、本州と国生みが進んでいます。
 日本書紀では、淡路島は最初ですが次に、本州、四国、九州、隠岐、佐渡、越州、大州、吉備子州の順位なっています。

 さて、皆さんがオノゴロシマを比定されるとしたら、どの辺りにされますか?



(1)h12.5.30発信
 さて、神様って子供に乗り移るんですね。逆に言えば、子供って神様に近いんですね。子供時代に伊太祁曽ここを離れたので、私はこの地を子供のままの目で見てるんでしょうね、新鮮に感じるんでしょうね。
 普通、人間、死んでしまったら、故郷の鎮守の森にかえってくるといいますね。幸いにも、私は、生きたまま、故郷の神社へ帰ってきた気持ちを持っています。 ここの土地が私の遺伝子を造ったのですから、時々は足がこちらの方へむかうんでしょうね。

 そんな事で私なんかは伊太祁曽の事を思い出しもしなかった半世紀に近い間も、やはり氏子崇敬者の皆様方は、営々と神社を祭り守ってこられていた訳ですね。 子々孫々からの長い営みの一部なんですが、やはり、私のように忘れている者もいるなかで、大変な事だったとおもいます。 敬意を表すべき事だと思います。同時に、神祭を続けてこれると言う事は、流れ者の目から見ると、幸せなことだと思います。今後ともよろしくお願いいたします。
 私も、別の形で、伊太祁曽と伊太祁曽神社のお役に立てればと思っています。
 滅多に伊太祁曽には来ませんので、まだまだマレビトなんでしょうね。


(2)h12.6.1発信

 まほろばの国大和に鎮座する大神神社(三輪明神)は、三輪山そのものを祀るとも言われ、また神の遣いとして蛇が現れたりしています。 蛇の好物は、そう、お酒ですね。この神社はお酒の神でもあります。少し北側に狭井神社があり、おいしい水がこんこんと湧き出しています。 おいしいお酒はおいしい水からできます。
 神と酒、原始の神はシャーマン(巫女)に入神して託宣を下すのですが、神懸かりに酒を用いるのは世界共通の現象です。 古代の酒は「酒を醸む(かむ)」事により作りました。口の中で醸むのです。そして壷の中で発酵させるのです。口の中で醸むのは若い娘が当たりました。
 この神酒(みき)は、わが神酒ならず、倭成す(やまとなす) 大物主の醸(か)みし神酒
「酒を醸む」が神の語源でした。神様のお話はお酒のお話そのものと言う事です。


(3)h12.6.3発信
 かつらぎ町三谷に丹生酒殿神社があります。丹生都姫が紀の川の水で酒を醸み、崇神天皇に献じたと伝わります。 酒の倉庫跡でしょうか。紀の川沿いには酒は豊富だったのですね。後は頂くだけですね。
 酒屋さん、喜んでください。大酒神社がありますよ。場所は京都太秦広隆寺の東北にくっついています。
 古代豪族秦氏の頭目秦酒公は聖徳太子のスポンサーでした。 秦酒公は聖徳太子から弥勒菩薩像を賜りました。これを安置した広隆寺を建立しました。 広隆寺の鬼門を守る神社として大酒神社が造られたんでしょう。 秦氏はお酒の神様の松尾大社を作っていますが、どうもこの神社は残念ながら、お酒とは関係なさそうです。大酒神社の元の字は大辟神社と書くそうです。
 それより「大辟」とは「ダビデ」を漢字にしたと言う事で、ユダヤの神を祀っているのではと想像されています。ユダヤと日本、古代史の面白い謎の部分ですね。
 広隆寺の西1kmに木島坐天照御魂神社(蚕の社)があります。大酒神社の元の社と言われます。 ご承知の方もおられましょうが、ここに三角鳥居があります。三つの鳥居を△に組み合わせてあります。ユダヤのダビデの星はこれを組み合わせたものです。 またまたユダヤの登場です。
 神社名の「木島」とは何でしょうか? 付近の地形からは島のようには見えません。「島」とは支配する地域の意味があるんですね。 ヤクザさんの言う「島」はそうですね。「木島」そう木の国、和歌山の事になってきます。
 和歌山とユダヤ、どう結びつくんでしょうか。心当たりありませんか。


(4)h12.6.5発信
御神酒の酒はキ。紀の国とは酒の国。キ一本、アラーキ等
  三輪の大神神社の大神は「おおみわ」と読まれます。元々は、神々の親分の意味があったのでしょうね。 所で、動物の親分は何でしょうね。アフリカでは百獣の王はライオンですが、日本では、既に絶滅したとされる狼ですね。 紀伊半島の奥深い山中にも生き残ってくれていればいいんですが・・
狼は田畑を荒らす鹿や猪をやっつけてくれて、動物界のバランスを取っていました。人間は恐怖のあまり狼を退治してしまったので、 今度は鹿や猪をも人間が狼の替わりに退治しなければならなくなったそうです。
 所で、狐の形は狼に似ているそうです。お稲荷さんは狐の姿とされていますが、元は狼だったのでは。 稲荷で有名なのは京都の伏見稲荷大社ですね。今や商売繁盛の神様ですね。
 伏見稲荷と紀伊、そう、大いに関係があります。一つは鎮座地は昔は山城國紀伊郡と呼ばれていた所です。紀氏の所領だったのでしょう。 ここには、紀氏の祖神を祀った藤森神社があります。この藤森神社の社域がそっくり伏見稲荷になっています。
 もうひとつ、伏見稲荷の元の社とされる神社が和歌山にあります。有田市糸我町の稲荷大神社です。 糸我の地に鎮座170年、その後和銅年間に伏見に降臨したと伝わります。山城國紀伊郡の地名の由来譚にもなっています。


(5)h12.6.7発信
 昔の紀伊国のオーナーは紀氏でした。謎の豪族とされる紀氏とは紀伊国の国造でした。紀氏には二つの系統があり、一つはまさに紀の国の紀氏で、この国のまつりごとをしていたのです。 朝鮮半島なんかにも兵を出したりして、紀の川の水運や大和王権の水軍を司っていたのでしょう。この系統は日前國懸神宮の宮司家として現在まで連綿と続いています。80代目だそうです。 紀氏のように古代からカウントできる家系は天皇家、出雲の千家家、阿蘇家等があります。
まー、祖先の名前がわからないと言っても、全ての人は、とほうもなく長い歴史の営みの中で連綿と続いているんですね。一度でも切れたらあなたは存在しえないのです。当たり前の事ですね。
「まつりごと」には政治と祭祀の意味があり、古代には未分化だったのでしょうね。単純化すれば、政治は溜め池を作る、祭祀は祈雨の祭典をする、ですね。
 日本の多くの株式会社の取締役会は祀りに近いほうが多いですね。企業の政治は別の所ですね。
 紀氏の二つ目の系統は中央で活躍しています。伏見を拠点としていたり石清水八幡宮を建立したりしている事から考えると、淀川水系のボスだったのでしょう。所が、藤原氏の謀略によって失脚してしまい、 その後は文学の世界で活躍します。土佐日記で有名な紀貫之が出ています。
 比叡山を坂本の方に降りていったら紀貫之の墓に出くわしたことがありました。


(6)h12.6.11発信
   日本では、なくなった人は、その後、相当の期間、地下で修業をし、穢れを落とし、身を清めてから、祖霊となって、故郷の鎮守の杜に戻るといいます。 人がなくなることをホトケになると言いますね。人が消える。ヒトケなんですね。ホトケは仏教言葉ではなく、もっと古い言葉でしょうね。
 ホトケになった場合、仏教の考えでは、どーなるか。遠い遠い西方浄土へ行ってしまう。西方十万億土の向こうですね。 ヒマラヤ位から天に昇るんでしょうね。オシャカ様は生死の流転から免れる事を教えました。本来の仏教ではホトケの里帰りなんて観念はないんですね。
 さてさて、皆さん、そんな遠い所へ行っていいんですかね。お盆に戻るといいますが、そんな遠い所から戻れるんでしょうかね。輪廻からの解脱と里帰り、平気で矛盾を教えていますね。
 日本仏教はオシャカサマの教え1割、残り9割は日本の古い習俗、日本の神道は道教等1割、残り9割は日本の古い習俗なんですね。実際には似ているんですね。
 宗教を適当に使い分ける国民性、鍛えられていない宗教感、これが、オウムや足の裏にやられちゃう素地になっているんでしょうね。

(番外 1)h12.6.12 発信

 「日本の神道は道教等1割、残り9割は日本の古い習俗」についてもう少し述べてみます。
 無為自然の道教には「荘子」など多くの教典があります。
道教教典「黄素四十四方教」死尸血穢(ししけつわい)の物を見れば、当に目を洗い口を漱(そそぐ)ぐべし。
道教教典「霊賓五符序」左右の目を日月と為す。 と出ています。
 神道の教典らしき物は古事記となっています。
神道教典「古事記」イザナギの大神は亡妻イザナミの住む穢き国から逃げ帰って「禊ぎ祓い」をし、目を洗う。 その時、イザナギの大神の左の目より天照大神が誕生、右の目より月読大神が誕生した。
 丸写しに近いですね。
 神道(古事記)に道教的要素が入り込んだのは次の理由でしょう。 漢の武帝はことの他道教に熱心であり、これを憧憬していたのが、斉明、天武、持統天皇母子三代でした。 まさにこの期間に古事記が構想されており、道教思想が取り入れられたものでしょう。
 また、神官の服装、祭祀の儀礼なども、漢の王室のありようを真似たものと言われています。

 神祭は本来もっと自然なもので、森に神を迎える場を臨時的に設けて、祀ったものとされています。しかし、仏教が入ってきて、寺院を建立し始めると、どうも見てくれが悪い、侘びしいと言う感じで、押され気味になった神道が、対抗上、神社を造り始めたのではとされています。 外来の宗教によって、在来の宗教が鍛えられていく、変化していく事があったのでしょうね。
 ところで、道教の中に仏教的要素が入っている事、新鮮だった仏教の教義が、神道に影響を及ぼさないはずがないとの観点で、 敢えて道教等1割と「等」を入れてみました。
 所で、古代のユダヤ教の神官と服装と日本の神主の服装、神殿に供えるもの、神殿の構造(本殿と拝殿を分ける)など酷似しているそうです。 これも「等」にいれても良いのかもしれません。橋本市の西に「飯降イブリ」と言う地名がありますね。ヘブライの変化したものでは・・なんてね。

(7)h12.6.14発信
   ペルシャ語が日本に来ていたんですね。死者の霊魂をウルバンと言うそうです。盆の語源ですね。
 お盆の風習は推古天皇14年に聖徳太子が始めた盂蘭盆会からと言いますが、元々は日本の古来の風俗ですね。鎮守の杜からおうちへ一時帰宅することですね。仏壇じゃなくて、本当は神棚で祀るものなんでしょうね。

 西方浄土からお盆にだけ戻るんではなく、人によっては、いつも、鎮守の杜に漂よいたい人もいるとおもうんですよ。これが日本人の原点だったんです。 そうです、時折顔を見せる子々孫々の姿を眺める、彼らの祈りをきいてやる、それを留守がちの氏神様に伝える。 なんとかしてやれと神様に圧力をかける。祖霊はそう言う事をやっているんですね。それが楽しみなんですね。
 私は伊太祁曽神社の氏子ですから伊太祁曽神社の話をメインテーマとします。
伊太祁曽の神様はほうぼうに祀られています。伊太祁曽の大神様はそこそこ忙しいのです。 伊太祁曽さんよりもっと忙しい神様がたくさんおられますね。大国主さん、八幡さん、お稲荷さん、恵比須さん等々ですね。田辺市に八立稲神社と言う神社がありますが、八幡様の八、熊野王子社の出立の立、稲荷の稲を合わせた神社ですね。 神社の行政改革でしょうね。
 氏神様は忙しいとは言え、それでもお祭りの日には万障繰り合わせて来てくれるんです。降臨されます。神様は祭が好きなんですね。御神酒も好きなんですね。 年に一回は御輿に乗っかって、近隣を回りたい。神様の慰安旅行ですかね。



(7)h12.6.16発信
  紀の国の神々(8) 

 祭の後に神職や総代が直会(なおらい)をやります。これは和歌山弁の「なおらいしょ」ずばりですね。祭は神も人も気力の乏しい状態(ケガレと言います)から気力の充実した状態(ハレと言います)に直るんですね。それを言祝ぐ宴ですね。

 最近のMLなんかを見ていますと、若い人もそうでない人も神々のことに興味がない方が多くなっていると思います。 そこへ、思慮に欠けた「神の国」発言があり、あれ以来アゲインストが強まったんでしょうね。それでも皆さんは、宗教宗派とあまり関係なく、誕生して7日目にはお宮参りをして、氏子になっている人が殆どですね。 自分に子供が産まれたらやはりお宮参りに連れて行きますね。お祭りには寄付もして、楽しみますね。習慣でしょう。

 私はどっちかと言うと趣味的になるんですが、神社巡りをやっています。そう、神社巡り、なんて・・と思っている人はやはり多いでしょう。 しかし、神社は生きた古墳とも言われます。 その地方の生い立ち等の歴史を語っているように思えてなりません。 地域の歴史や文化は、地域の社寺や、今や失われつつある地名(大字小字、もっと細かい地名など)が語ってくれる部分もありますね。 消えてしまわない内に、地域財産として是非採録しておいてほしいですね。若干デリケートな問題に関わるのかもしれませんが。



紀の国の神々(8) 空海と丹生

 弘法大師空海は讃岐の出身ですね。姓は佐伯氏、蝦夷の血をうけていたのではと言われます。 だから、鉱山や金属採取にも詳しかったのでは、と思われています。 

 神社は昔は「モリ」とよばれていました。日本の神々は森にいるんですね。空海も森の神になったんですね。 あの高野山の奥深い所に一大宗教都市を出現させました。

 資金源は何んだったのか、金属、なかんずく水銀だったのですね。往古、遣唐使の土産や滞在費用に充てるべく、水銀が利用されていました。 古代日本は水銀の輸出国だったのですね。空海は水銀に目を付けまして、高野山を手に入れました。丹生都比売神から譲り受けた事になっていますが、 こんな話が伝わっています。

 借地の契約書に「十年」と書いてあったのを、後から「ノ」を書き加え、「千年」としたとか、借用年数の所を鼠がかじってしまい、わからなくなった、従って永久に借りる事にする。

 こんな話が残る事は、無理矢理取り上げたのか、丹生都比売神サイドには決して快い事ではなかったんでしょうね。。しかし、丹生都比売神社が焼失してしまった際、高野山の坊主が駆け付けて再建をしたりしています。



紀の国の神々(9) 美山村の神社

 美山村一帯には昔はもっと神社が多かったようですが、今は三座の神社を見いだせますね。一番古くから鎮座しているのは上阿田木神社ですね。8世紀の創祀と伝わっています。14世紀に兵火で焼けた後再建されています。その頃に植えた杉檜が現在県が誇る神社の森になっているそうです。

 下阿田木神社は10世紀の創祀ですが、社殿は室町時代の建立で、やはり県の誇りですね。それぞれ昔は上下の愛徳権現と言ったそうです。愛徳山王子社が日高川下流にありますが、 ここの両阿田木神社は本宮大社か速玉大社からの勧請と言う感じですね。熊野権現への信仰が高まりつつあったのでしょう。

 阿田木はアタギと読むんですね。聖なる山を言う、琉球の「ウタキ」、岐阜の御嵩「ミタケ」、木曽の「御嶽:オンタケ」と同じ意味でしょうかね。伊太祁曽の「イタキ」もそうかもしれませんね。 これは、山を神様のおられる所、神様の降臨される所とした昔の人々の思いがあったのでしょうね。



紀の国の神々

伊太祁曽神社の大神様は五十猛命と申し上げます。この神様は全国で少なくとも350〜360社に祀られています。丁度、一つの神社で一日おられて、一年がかりで一回りですね。 五十猛命が鎮まったのは、伊太祁曽神社ですから、紀の国が本拠地ですね、だから普段はここにおられるのかも知れませんね。
 私は五十猛命の祀られている神社を探し出しては参詣すると言う、なんでそんな事を思い立ったのか、自分でも判らない目標を持って、かれこれ半分位までは回ってきました。田舎の山の中が多いですね、緑の中を散策するのは良いですね、心と体の健康法だと思っています。
 若い人は(そうでない人も)神社巡りなんて・・と思っている人は多いでしょう。神社は生きた古墳とも言われます。 その地方の歴史を語っているように思います。
 高野山の麓の天野に丹生都比売神社という水銀の女神様が鎮座しています。松本さんのHPで見て、町石道を歩いた事があります。 ここの女神は、紀ノ川から四国三郎の吉野川、別府、熊本と点々と鎮座しています。中央構造線沿いですね。西方から来たんでしょうね。 水銀採取の足跡ですね。
 和歌山では水銀と関係ない所にも国土開拓の神として祀られています。水銀鉱脈がつきた後は女神を奉ずる集団は農業をやったのでしょうね。 神社を歩きながら、こんな事を考えるのは、実に楽しい事ですね。

神奈備にようこそ