熊野古道、和歌山県の王子社
藤代王子と藤白神社

海南市藤白字王子免448



 祓戸王子から南西方向に行く。大きい楠木の固まりが見えてくる。藤白神社である。JRと阪和自動車道の間で、過去も現在も交通の要衝である。
 熊野九十九王子の中でも籾井、藤代、切目、滝尻、発心門を五体王子と称し、重要視されていた。ここ藤代王子では参詣者は必ず宿泊したと言う。 巫女がおかれ、歌会、相撲などが行われた。神域である熊野三山への鳥居の役割の王子社であった。

 藤白神社から阪和自動車道の海南ICへの道をくぐって300mほど熊野古道を行くと有馬皇子の遺跡がある。 万葉歌碑がある。家にあれば 筍に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る 有馬皇子。墓とされる五輪石がある。 白浜にいた斉明天皇にみまえてから都へ帰る途上で扼殺された。熊野の神域を今にも外れる所での扼殺である。神域を汚したくない、しかし霊は熊野に留まって、都に禍をもたらさない土地が選ばれた。

 ここから次の王子社へは峠越えである。ビワの木々が多い。実に急坂が続くが、道筋に丁石地蔵が連綿と続き、かわいらしい顔を見るとほっとする。 途中に筆捨松がある。これにまつわる伝承がある。宇多天皇の御代、高名な画家である巨勢金岡が熊野詣での途中この松の下で童子と絵比べをして敗れ「無念なり」と絵筆を松の根本に投げ捨てたと云う。この童子は熊野権現の化身であって、金岡の驕れる心をいさめるために出現したという。

 もしくは眼下に広がる絶景(または松の枝振り)が金岡の腕ではとうてい絵に描ききれない程の見事なものであったので、筆を投げ捨てたとも伝わる。 今は植林が進み、展望はきかない。

 海南市在住の山本様から「熊野参詣の通行税をかける権利をめぐって熊野と高野山が争っていた」という情報を教えて頂きましたので紹介しておきます。

 建徳三(1372)年、熊野と高野山は名草郡大野郷(海南市)における兵士米=大野関米(熊野参詣道の通行税)を賦課する権利をめぐって争っていた。 この時、熊野は高野山から難癖をつけられ、高野山が「鎮国安民の道場、高祖明神常住の霊くつ」で「上品上生」であるのに対し、熊野は「他国降臨の神体、男女猥雑の瑞がき」から「中品上生」に過ぎない、といわれている。
(「高野山文書」又続宝簡集一七六八号より)との事です。

 藤代王子社は、熊野の名草税務署の機能もしていたのでしょう。

 当社の吉田宮司は故松原右樹さんと共に熊野古道に関する調査・復元に力をそそがれた功労者である。語り部の総大将と言うべきか。



戦後の創建:有馬皇子神社


筆捨松


紀伊国名所図絵から


わかやま観光情報 街道マップ



藤白神社


松阪王子から藤代王子への地図


藤代王子から山口王子への地図



前の王子社、祓戸王子
次の王子社、藤白搭下王子


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