熊野古道紀伊路、和歌山県の王子社
切目王子、切目神社

印南町西ノ地 JRきのくに線切目駅北1km mapfan


 切部王子、分陪支[ブベシ]王子、御所王子と呼ばれた。熊野九十九王子社の内の重要王子である五体王子の一つ。本地は十一面観音とされた。
 中右記には天仁二年(1109年)切部水辺で祓いを行う王子社に奉幣したと見える。
後鳥羽上皇の歌会記録
秋の色は谷のほこりにとどめおきて 梢むなしきおちのやまもと(遠山落葉)
うら風に波の奥まで雲きえて 今日見る月の影のさびしさ

「きな粉の化粧伝説」がある。
 僧を殺して山に帰ってきた切部の王子は、捕らえられて右足を切られ、切部の山に放逐された。 ところが王子は、熊野に参詣し利生をうけて下向する者たちの福幸を奪うようになった。 参詣者が嘆き悲しむのを見た権現は稲成大明神と相談し、かねて仲のよい「あこまち」を王子のもとにつかわし、王子が最も厭う「まめのこ」(きな粉)で化粧する者の福幸は奪わない旨約束させた。 その後、この約束に御託宣があって、まめの粉の化粧が行われるようになった。引用:『日本の神々6 切目神社(橋本観吉氏)白水社』

 この伝承の、「足を切られる」神については、木を切って柱となし、柱を神そのものや依り代とする考え方の反映であろうか。

切目神社と向かって左のホルトの木

切目神社本殿 木造春日造檜皮葺


切目神社 日高郡印南町西之地字東風早328

祭神 天照大神、正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊、彦波瀲武草葺不合尊、天津彦火瓊瓊杵尊

 社伝によれば崇神天皇の頃の創建と言う。旧社地は山の手の高所大塔宮の記念碑付近と言う。
 保元物語上巻に「切目の王子の南木の葉を、百度千度かざゝんとおぼしめししに」とあるように梛は切目王子の神木とされている。
 平治物語上巻に「信西が切目王子の前で短命の相」と言い当てられている。平清盛重盛らの熊野詣での途中の平治の乱の勃発を知らされ、この地で評定を行い、直ちに引き返して戦勝したと言う。
 熊野権現も一時当地に鎮座したと伝える。太平記巻五に「護良親王が切目王子で熊野権現の夢告を受け、大和十津川へと落去する次第」がある。現存しない。

 現本殿は貞亨三年(1686年)再建の春日造檜皮葺である。 

祭り  例祭10月18日

切目神社の元社と言われる 地宗神社「猿田彦神」



紀伊續風土記 巻之六十七 日高郡 切目荘 西野地から

○五軆王子社  境内内方一町 禁殺生
 本社祀神 大日?[霊の皿が女]貴尊・正哉吾勝尊・瓊々杵尊・彦火火出見尊・鵜カヤ草葺不合尊  五座合殿
 末社四社 弁財天社・金毘羅社 牛頭天王・八幡宮・大塔宮社
  拝 殿  五間半 二間   神輿舎

本材の西三町熊野街道にあり 西野地島田宮ノ前古屋羽六五箇村の産土神なり 熊野御幸記に切部王子とある是なり 其全文は御所屋敷の條に出たす
平家物語に平惟盛熊野へ落る時此社前にて湯浅宗先に蓬ひし事見えたり 五軆王子の称は神の御像五ツあるを以ていふ 或は地神五代なるを以て五代王子といふ 代体音近きを以て転するなりといふ 孰れか是なる事を知らす 祝家の伝へに神号は覆天雨宮五体王子と称するといふ 覆天雨宮何の義なるかを知らす 後鳥羽院熊野御幸の御時当社にて歌の御会あり 其時の御懐紙を神殿に納め給ふといふ 天正十三年(1585)兵燹に罹りて社殿神宝の類悉焼亡す 後禁廷に願ひ奉りて其写を賜へりとて今神殿に蔵めて重宝とす 天正兵火の後此丘尼ありて七箇月の間に社殿を再興すといふ 今の法山尼敷といふは 今社地の前街道を隔てて小高き所これなり 其比丘尼の居りし所なりといふ 或いは神道者来りて七箇付きの間に再建し造営終わりて往く所を知らすといふ 
南龍公寛文二年(1662)御戸帳香爐絵馬等を寄附せられ神殿中修飾を加へらる 叉梛の木紅葉の木を境内に樹させ給ふ 今昔生木せり 梛紅葉は当社の事に縁あるを以てなり 太平記に大塔宮の事を載せて曰かくては南都辺の御隠れかも叶かたけれは則般若寺を御出ありで熊野の方へそ落させ給ひける 御供の衆には光林坊玄尊 赤松律師 則祐木寺の相模岡本三河妨武蔵坊村上彦四郎 片岡八郎 矢田彦七賀三郎かれこれ以上九人也宮を始め奉りて御供の者まても皆柿の衣に笈を掛け萌巾眉半に着 其中に年長せるを先達に作り立て田舎山伏の熊野参詣する軆にそ見せたりかる 切目の王子に着き給ふ 其夜はシ叢祠の露に御袖を片敷きて通夜祈ら申させ絵ひけるは南無帰命頂禮三所権現満山護法十萬の眷属八萬の金剛童子垂跡 和光の月明かりに分段同居の闇を照らし逆臣忽に亡ひて 朝廷再耀く事を得せしめ給へ 殿へ承る両所権現は是南新席現は是伊弉諾伊弉册の応作也 我君其苗裔として今朝日忽に浮雲の為に隠されで冥闇たり 豊傷まさらんや玄鑒空しきに似たり 神もし神たらは君盍君たらさらむと五軆を地に投けて一心に誠を致してそ祈り申させ給ひける 丹誠無二の御感応なとかあらさらんと神慮も暗に計られたら 終夜の礼拝に御窮屈有けれは肱を曲げて枕として暫御目睡有ける御夢に髪結ひたる童子一人来て熊野三山の間は尚も人の心不和にしで大義成りかたし 是より十津河の方へ御渡り候ひて時の至らんを御待候へかし 両所権現より案内者に附け進らせられで候へは御道指南仕るへくと申すと御覧せられ御夢は則覚にけり 是権現の御告也けりと頼母しく思召されけれは未明に御悦の奉幣を奉け頓で十津川を尋ねてそ分け入らせ給ひける 其道の程三十余里か間には絶えて人里もなかむげれは或は高峯の雲に枕を欹(ソハダ)で苔の筵に袖を敷き或は岩漏る水に渇を忍んて朽 たる橋に肝を消す 山路本より雨なくして空翠常に衣を濕ほす 向上れは萬仭の青壁刀に削り直下は千丈の碧潭藍に染めり数日の間斬る嶮難を経させ給へは御身の草臥はてゝ流るる汗は水の如く御足は缺損して草鞋皆血に染れり 御供の人々も其身鉄石に非れは皆飢疲れではか/\敷も歩得さりけれ共御腰を推し御手を挽きて路の程十三日に十津川へそ着せ給ひけるとあり親王熊野の方に徒かせ給はす 此所より東北の方に転して大和国十津州に至らせ給へり
 注を略す

 親王かく霊験を蒙らせ給ひしより後人神徳を崇親王を景仰して社殿の東太鼓屋敷と唱ふる所に小祠を造りて大塔宮社と祀れり 近年安藤家より命して本社の側に遷し新に修営あり 且碑を建てて其事蹟を表す 碑文左の如し

有間皇子社
 或人熊野紀行に載す 其地今詳ならず 下文に載す小祠三社の内なりしを土人其伝を失ひしにてもあるへし。
小祠三社
 弁財天社 大畑にあり   玉権現社 高垣にあり   衣美須社 海濱にあり 


 ネットには、郷土史家が、有間皇子は切目海岸で殺されて、海辺には皇子を祀る祠があると言っていたようだ。海岸にあった衣美須社に合祀されており、今は切目神社の境内に遷座している。


 以下略


 

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