熊野古道 松原右樹氏講演から

熊野古道の伝承と謎


法楽 神仏を楽しませながら歩く。歌を楽しみ、相撲を楽しみ、素拍子を楽しむ。神事は色事。
九十九王子社への奉幣・経供養・芸能・相撲は熊野荒御霊への鎮魂儀礼。

1.熊野詣での季節はなぜ秋か。
 @農閑期
 A晩秋と古代びとの季節感<擬死再生/律令制下の処刑は晩秋>
 B晩秋から冬にかけての復活儀礼→ヨミガエリ
 C蛇、ヒルがいない。

2.熊野街道と小栗街道
 泉州でのライ病患者の通る穢多道を小栗街道と言う。小栗判官の伝説。

貴族の通る熊野街道より海側にある。おそらくは熊野本宮大社まで二重にあったのではなかろうか。
 古道は国・郡・村の境界・ヘリ・周縁部を通る。従って墓地が多い。死者のケガレ・死穢に満ちた風景。
  ヘリ・周縁・河原・浜・橋・池の堤・坂・峠・辻・境界→神・仏の領域・アウトローの場所。
 古道はフルミチ、「触る道」、死穢や外来魂のみなぎるパワフルの魂に触る。
 道の呪術
  
沓掛王子(日高郡日高町原谷字披喜(びき)845、字新出902)
  (各地に沓掛あり。長谷川伸の小説「沓掛時次郎」で知られる沓掛宿)
 沓掛:峠に差し掛かる所に多い。草鞋を履きかえて松枝等にかける民間信仰
 熊野街道沿いの民家に、縦線五本・横線四本からなる格子模様 和泉市の旧家

 その旧家をさがそうと歩いてみましたが、街道から中を覗ける家は殆どありませんでした。ご存じの方、教えて下さい。

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 九本の線にはそれぞれ、臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前 という呪と魔除けの意味が交互に込められている。
  
 九字を切る呪的な図形。 
 ☆
     木
  水  ☆  火
   金   土

 安倍晴明の用いた星形のセーマン(五芒星) 

 一対をなす祈りの図形呪術ドーマン。陰陽師・蘆屋道満に由来する呪符というがさらに古い呪術習俗
 中西進氏によると、中国の都城、京都の格子縞の整然とした区画構造も実はドーマンの変型と『古代日本人・心の宇宙』NHKライブラリー)、古代からあった呪的デザインといえそうである。なお、この「ドーマンドーマン・セーマン」は、海女の「磯手拭い」や「ヘラ」の柄、戦国時代の陣幕などにも描れた。ドーマンは祝いの盆などの模様に用いられた。

3.狼伝承
 大口真神(おおくちのまがみ)→オオカミ
 狼煙 
狼の糞の煙は真っ直ぐ上る?
奥州平泉の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)が、妻が子種を授かったお礼に熊野参詣した。  秀衡はその旅に妻を伴う。  本宮に参る途中、滝尻で、妻はにわかに産気づき、出産。  赤子を連れては熊野詣はできないと、その夜、夢枕に立った熊野権現のお告げにより、滝尻の裏山にある乳岩という岩屋に赤子を残して旅を続けた。  子は、山の狼に守られ、岩から滴り落ちる乳を飲んで、両親が帰ってくるまで無事に育っていた。  この子が後の泉三朗忠衡(いずみさぶろうただひら)である。  この熊野権現の霊験に感動した秀衡は、
滝尻の地に七堂伽藍を建立し、諸経や武具を堂中に納めたという。

4.源平と熊野信仰
 平治の乱(1159)
 信頼・義朝の挙兵。
 熊野の神霊の宿るナギ
 大鳥大社の平清盛歌碑「かひこぞよかへりいでなば飛ぶばかり育み立てよ大鳥の神」

5.熊野本宮大社(熊野坐神社)と主祭神(家津御子神)
  本宮大社(本宮)(東牟婁郡本宮町本宮)現在は田辺市
  イ 古称 熊野坐神社
  ロ 祭神 家津御子神(古称 熊野坐神、熊野加武呂乃命)≫ 須佐之男命

  
  神々習合 古い神は須佐之男命になっている場合が多い。
  ハ 本地(本体):阿弥陀如来<弥陀浄土、西方浄土>・熊野権現
ケの神
 「み熊野の空しきことはあらじかしむしたれいたの運ぶ歩みは」西行 」山家集下1529
  「むしたれ」で身体を覆った「イタ」(巫女)

6.大齋ノ原(おおゆのはら)(旧本宮社地)
 熊野川と音無川とに挟まれた約3万平方メートルの三角州で、「宇豆の原」、「三津ケ原」、「浮島ケ原」、「巴ケ淵」、「中島」、「新島」などと称されてきた。<死体漂着の聖地>
 パワーがたまる聖地。男は下向き、女は上向きの死体をとり、問答しながらエビスにする。
 洪水があったが、上四社は流されなかった。
 「長寛勘文」(1163年)所載の「熊野権現垂迹縁起」 によると、熊野三神はこの大齋原で犬飼(狩人)の熊野部千与定の前に三枚の月になって降臨された、という。「長寛勘文」長寛元年に記された勘文(諸事を調査して上申する文書)
 ■「
熊野御幸記」:「山川千里を過ぎて、遂に宝前に奉拝す。感涙禁じ難し。」(定家)

7.ケ‥…占・食・稲・酒(ミキ・ミケ)=生命力(パワー・エネルギー)の霊力

   ケ(日常・俗なる空間・[衣の間に執]) → ケガレ(ケ・枯レ ケ・離レ)<忌みごもり・斉篭りの儀礼を 行う>→ハレ(非日常・聖なる空間・晴れ)=現実を生きることで枯れてしまった「ケ」を取り戻ること。ケが元に戻るとハレの状態になる。
  <ケガレには本来、清浄に対する「穢れ・不浄観」はない。>

 ■白不浄(産穢〉、赤不浄(血穢・月事穢・赤穣れ)は命の根源である聖なる血を出すことを伴う→
  生命力(パワー・エネルギー)の消失=ケ・離レ〈ケ・枯レ)→産屋、槻屋に籠る(黒不浄・死穢の場合は喪星た籠る)
  ケヤミ(気病)→ゲンキ(元気)
 「キヨメ塩」・・・シオ(ウシオ・潮)
  <ケガレをキヨメると変化したのが問題>
  <ケ・枯れ>・・・旧いカラを脱する(脱皮)・・原始蛇信仰(吉野裕子)
 「ミソギ」・・・身を削ぐ=皮を剥ぐ=古い殻を払い捨てること→アラハレ(顕現)=ハレ

8.モノモライ・ホイト(→眼疾)
  七軒モライ・・・キをもらう。キを回復する。 
他人のケを貰う。
 
他人の魂がこもっている食をもらうと病気が直ると言う。
 米・食す国の文化 天皇はその頂点に立っている。天皇の重要な儀式に田植えがある。

 ケガレからの祝福
  一般的なケガレ:境界を越えていくもの。身体境界から分泌する大小便・汗・体臭・血・髪なども忌避の対象。
  農業者の定住化・村落共同体 → 漂泊的宗教者(非日常的な呪力)異邦人・ストレンジャー・ヨソモノ・流れ者を警戒。
  非農業者:漁業・塩業・水運業などの漁民。木地師・鋳物師などの山の民。声聞師・唱門師・唱聞師・門付芸人・大道芸人などの雑芸能者。
 非人・乞食・乞者・乞胸・托鉢・物吉・福吉・・・熊野古道の
蟻通神社北方に物吉村があった。物吉・福吉:縁起のよいこと、めでたいこと。「ものようし ものようし」と言いながら各家をまわって米銭を乞うた。 『日葡辞書』(慶長八年 1603)は、物吉を「癩病人」や瘡だらけの人をさすとしている。物吉に唾を吐かれると土地は三寸下がる。
 虚無僧・薦僧・普化宗の僧:有髪で天蓋・深編み笠をかぶり、袈裟を掛け、尺八を携え、草履、草鞋を履き、托鉢する。
 武士の体面を保ちながら米銭を乞う。(幕府の浪人対策)。
 徒然草に出る。「ぼろぼろ」は虚無僧の前身。

 一遍上人の時宗の同朋衆・・・名前の舌に「阿弥陀仏」「阿弥」「阿」を付ける。阿弥衆。
 臨命終時宗 → 「時宗」」「一所不在」を旨として「遊行」。踊り念仏(踊躍念仏。賦算。
 遊業聖・遊業衆(宗)→ 「乞食」「非人」「癩者」「不具」ら最低層を包括。
 時宗 → 高野聖。陣僧(金瘡の手当・戦死者の送葬・埋葬)。
 国家護持を祈る官僧は葬儀・ケガレに関わることは禁じられていた。(東大寺は戦後まで葬儀に従事しなかった。)
  喪家の火:「死火」これで煮炊きをしたものを食すとケガレが伝染する、と。「別火」
 ケガレを忌み恐れる精神風土:公事や神事でケガレがあると政務や祭礼は延期された。

9.熊野のケガレ(穢れ)観 <熊野信仰と伊勢信仰の違い)
 
 伊勢はケガレを嫌う。しかし外宮の鎮座地は古墳。
 
 大齋原(死体漂着地・黒不浄の地・旧本宮社地)と熊野の縁起  三躰月
  <乳岩伝説と白不浄>・<和泉式部伝説と赤不浄>

10.熊野信仰には本来「赤・白・黒の三不浄」は無い。
  @熊野本宮の縁起
  A藤原秀衡と乳岩伝説
  B和泉式部と伏拝の伝鋭…「晴れやらぬ身の浮雲のたなびきて月のさはりとなるぞ悲しき」

 「神道集」に「肉食を以て善縁とし、畜生の苦を救うふ。垂迹は仏菩薩の化現なれば腹の内に満足して広大の善根を成す。生死に沈倫せずして、遂に仏果を得べし。」

11.熊野詣、巡礼は白装束。<「白」は他界・異界の色>
 「会葬者が白い着物(色もの)を着るのは、死人には白い着物を着た人しか見えないからだといわれている.」(高山功「高志路」214号)
 ■ 死者の魂は白くなって西に向かって飛び、やがて蘇ってくる、といわれる。

12.ハシオレ(箸を持たずに行くのが作法。箸は現地調達)
  ヒダル・ダル・ダニ・タニ・・・行き倒れ者の哀しみ。
 大阪 サル・ザル

 
 餓鬼供養。米(←「魂込め」が語源:折口信夫)米の力(振り米。主税)

13.ススキ「(カヤ・萱) 神が宿るという意味がある。
  熊野三党の代表「鈴木」=「穂積」饒速日尊の五世孫「千翁命」が神武東征の折、稲を献じ「穂積」の姓を賜る。(椰の木に鈴を付けて馬印とした、という別伝)
 萱と薄と鱸一神の宿るもの.神の依代。

14.ガキヤミ・ガキアミ(餓鬼病み・餓鬼阿弥)
  
小栗判官伝承と「癩」(ハンセン病)
  「前の世の 我が名は人に ないひそよ 藤沢寺の餓鬼阿弥は、我ぞ」

15.湯の峯:この出湯は、第11代成務天皇の時代、熊野ノ国造・大阿刀足尼によって発見された日本最古の温泉という。四村川の渓流右岸に鎮座する薬王山東光寺は本尊「湯ノ胸薬師」を祀る。昔、裸形上人が湯の花の化石を薬師如来像に見立てたが、その胸のあたりの小穴から湯が涌き出ていたので、「湯ノ胸薬師」といい、出湯をも「湯ノ胸温泉」と呼ぶようになった。それが次第に訛って「湯ノ峯温泉」と称されるようになった。湯垢離の場所。
  @筒(ゆづつ):伊達千広(陸奥宗光の父)の歌
  「朝な夕なもの煮る見れば谷川の湯筒は里のかまどなりけり」
  A壷の湯:小栗判官が難病を全治させることの出来た温/幕末の儒学者仁井田源一郎
  「小栗判官の浴せしといふは、庶人の入浴をゆるさず。」(群居雑誌)/万延元年(1860)、津の藩士斎藤拙堂の「南遊志」に「小栗湯の称あるものは戸を鎖(さ)してみだりに入るを許さず。」とある。
  B一遍上人爪書の名号石(みょうごうせき):上人が熊野本宮に参篭し百日の行を行った時、霊夢のままに南無阿弥陀仏と六字の名号を爪で刻んだもの、という。
  C小栗判官車塚(土車・足弱車・「イザリクルマ」)
   壷ノ湯で全快した小栗判官が、照手姫に乗せてきてもらった土車が不要になり埋めた所と伝える.

16.補陀落山寺(渡海上人らの墓・平惟盛・平時子の墓)
  南の海原の果てに補陀落山と称する観音浄土があると信じ、それに向かって渡海すること。
  江戸前期の渡海僧「金光坊」の伝説あり。那智浜より見える金光島、帆立島、綱切島。人の死骸を食べるヨロリという魚は金光坊の生れ変わりという。

17.浜の宮王子(浜の宮大神社)・神武天皇頓宮址・丹敷戸畔命(ニシキトベノミコト)の墓
  平惟盛はこの浜の宮の前から船出して入水往生を遂げた(「平家物語」「源平盛衰記」)。

18.妙法山阿弥陀寺・応照上人火定址
  開基は空海、尼になって高野の麓の寺で弥勒菩薩と崇められていた空海の母を熊野妙法山に移す。
 「一度此山にあゆみを運ぶともからは、十悪五逆の罪滅し、未来は必ず極楽の上品上生に至るとかや。」(1262年/比丘尼縁起)
  @十悪:身・口・意の三業によって作る十種の罪悪。「身三」/殺生・倫盗・邪淫。
  「口四」/妄語・綺語・悪口・両舌。「意三/・貪欲・瞋恙・愚痴または邪見
  A逆:五逆罪のこと。人倫や仏道に逆らう最も重い罪。無間業(むけんごう)といい、これを犯せば無面地殊に堕ちるとされる。
  @殺母A殺父B殺阿羅漢(聖者を殺すこと)C出仏身血(仏身を傷つけ出血させること) D破和合僧(僧の和合を破り教団を破壊させること。)
  B上品:極楽浄土に往生願う人を罪や修行の程度によって最勝から極悪まで九品(上品・中品・下品など九段階)に分類する中での、上位三者〈上品上生・上品中生・上品下生)
  ■ 応照上人の火定:長久四年(1043年)頃成立の「本朝法華験記」に所載。

 他の死の儀礼
  法華経を唱える死体 法華の壇(養源寺)鹿ヶ瀬峠。髑髏と化した死者がお経を唱えていた。(「元享釈書」)
  法華経を唱える舌(「日本霊異記)。那智の山中。
  『紀伊国続風土記』:「世俗に亡者の熊野参り、といふ事を伝えて、人死する時、幽魂がかならず当山に参詣するといふ。いと怪しき事ど眼前に見し人もあり。」
 熊野地方伝承:人が死ぬとその魂は枕飯(まくらめし)三合が炊(た)ける間に、枕もとに手向けられた樒の一本花を持って妙法山に登り、阿弥陀寺の「一つ鐘」を撞き、山頂(阿弥陀寺の奧の院)に樒を捨てていくという。今も妙法山頂の樒山には、この亡者が落として行くという樒が鬱蒼(うっそう)と茂り、中に枯れた樒があると、それを持って来た亡者の子孫が絶えたからである、といっている。青々と繁る幹の細い樒の林立が、死者の数だけあると見なされている。ここは死霊の集まる聖地であり、奥ノ院には本尊阿弥陀如来が安置されている。
 「おかみあげ」:熊野地方では、納棺の前、死者の頭髪を少し切り取っておき、「おかみあげ」と称して阿弥陀寺に納髪する風習が今も根強く残っている。納骨の場合も、「おかみあげ」といっている。
 阿弥陀寺奥ノ院の御詠歌:「くまの路をものうき旅と思ふなよ死出の山路で思ひ知らせん」
 「亡者の出合」:大雲取越えの山中で、熊野詣での人々や巡礼が、亡くなった肉親や知己とここで出合うことができる「亡者の出合」と称するところがある。妙法山へ行くと、白装束の人と出会った。見ると近くに住む知り合いであり、その人は、握り飯が砂にまみれて食べられないとぼやいていた。家に帰って来ると、その人は死んだばかりであり、葬式に先立って簑笠(みのかさ)とお握り三つを吊るそうとして、その役目の人がお握りを落として転がしてしまった からであった、などという話が伝わっている 〈東牟婁郡本宮町請川)

19.那智大社(結ノ宮)・御滝・青岸渡寺(西国三十三ケ所の第一番札所)
  那智大社祭神:熊野牟須美神(→》伊弉冉尊。事解之男神)
    本地:千手観音<補陀落浄土・南方浄土・観音浄土>
    御滝:女陰のシンボル / 高浜虚子「神にませばまことは美(うる)はし那智の滝
    産霊の神:神とか、人間・山川草木等、およそ生あるものに対して、その霊魂を付与する神格(折口信夫)

20.熊野速玉大社(熊野早玉神社・新宮 新宮市新宮上本町1番地鎮座)
  祭神:熊野速玉神(→》伊弉諾尊)
  本地:薬師如来<東方浄土・瑠瑞光浄土・薬師浄土>

21.神倉神社・ゴトビキ岩(天磐盾・神武天皇上陸地):新宮市新宮1887番地鎮座
   神倉山は魔所なので申の刻(午後3〜5時以後は参らない風習があった(「紀南郷導紀):元禄年間・児玉荘左衛門著)
 アマノイワタテ:「遂に狭野を越えて、熊野の神邑に到り、且ち天磐盾に登る。」

22.妙心寺(熊野比丘尼の本拠地)
  <最明寺・北条時頼の母娘が新宮、那智に山篭り、千手観音の示顕を得て神倉に比丘尼寺、新宮に妙心寺を建立>
  熊野比丘尼(有髪の女性仏教者→尼形の巫女)

     
佐渡 ひしゃく町に定着
 
 熊野那智曼陀羅や六道絵(地獄絵)を絵解きしながら勧進廻国。
     
勧進は乞食と同じ
 
 観客の殆どが女性(地獄を覗いて生きたのは女性)
   「間引き」「お返しする」「お戻しする」<七つ前は神の子>「山へやった」
「川へやった」

講演
熊野古道の伝承と謎 平成13.7.15 アピオ大阪
紀州の伝説を彩る群像2 熊野・死の気配立つ古道 平成18.5.14
同上3 補陀落浄土を目指した人々 平19.7.9

神奈備にようこそ