熊野古道中辺路、和歌山県の王子社
鮎川王子 住吉神社

田辺市鮎川1512 JRバス鮎川新橋 mapfan



住吉神社内の鮎川王子社



 一ノ瀬王子の祠の前の車道を更に北上すると鮎川王子が合祀されている住吉神社が見えてくる。その手前に鮎川新橋があり、これを渡り、右岸に出ると鮎川王子跡の碑が建っている。「いやの谷」の山裾の古道沿いに当たる。熊野詣は秋に行われたようで、藤原定家は川面を見て、「紅葉浅深の影、波に映ず」と記している。

 隣には大塔宮劔神社の石碑がある。足利尊氏に幽閉された後、この地に身を隠した重臣の平賀三郎が宮の劔を祀ったと言う。やはり住吉神社に合祀されている。

 鮎川王子は『御幸記』には「アイカ」の王子とある。『紀伊続風土記』には「鮎川は合川の義にて、小名愛賀川の流、岩田川と合流するより起これり」としている。明治初期に住吉神社へ合祀されて、その後は田畑となり、王子田と呼ばれていた。河川巾拡張で現王子跡より数拾米下流の川の中が王子田となる。

大塔宮劔神社の石碑と鮎川王子の碑


紀伊続風土記 巻之七十三 牟婁郡 岩田郷 鮎川村

 小祠二社
 玉置山権現社 社地山周二十間 村の東三十町にあり
 王 子 社  社地山周一町四十間 いやの谷といふにあり 拝殿あり

 



住吉神社 西牟婁郡大塔村鮎川1512 its-mo

鳥居と社叢



祭神 上筒男命、中筒男命、底筒男命、伊邪那岐尊、伊邪那美尊、息長帶姫命、日下大神(村祖)
由緒 社伝によると宝永年間(1704〜1711)の勧請と言う。明治初年に住吉神社と改称した。 明治九年から四十年までに近隣の小社を多く合祀した。

 オガタマノキの巨木は県天然記念物。暖地性の常緑樹が繁茂、クスノキ、イチイガシ、ホルトノキ、シイ、クロガネモチ、イヌマキ、ムクロジ、スギなどの大きい木々が社叢を形成している。神奈備山の中腹まで伸びている。まさに神の降臨される道筋を形成しているようだ。

向かって右が剱の宮 剱の宮の本殿
 

摂社
熊野剱の宮「武甕槌男命、大塔宮護良親王」
若宮神社「天忍穗耳命、神倭磐余毘古命、品陀別命」
権現神社「天照大御神、櫛玉饒速日命、大國主命、火雷命、金山彦命、大山祇命、猿田彦命、大物主命、竹洞兵庫頭」
祇園神社「素盞猛命、高倉下命、經津主命、菅原道眞」

祭礼  3月31日 春祭(春の剱さん)   10月10日 例祭

王子跡から眺めた住吉神社の神奈備山


平成祭礼データ
今から約六百年ほど昔、摂津(今の大阪)の住吉大社から分霊し牟婁郡の郷社でしたが、明治の初めから鮎川の守護神として、お祀りしています。交通安全・武勇・安産の神様として古くから崇められています。上筒男命・中筒男命・底上筒男命・伊邪那岐命・伊邪那美命・息長帯姫命・日下大神(村祖)。

剱の宮 御神体として南朝の護良親王の御佩刀をお祀りし、宮の壮健・聡明さにあやかり、現代では学業成就と健康を願う人々の神様として、近郷近在の崇敬を受けています。

大塔宮物語−餅つかぬ里−今から約六百五十年ほど昔(南北朝時代)、建武の新政で名高い後醍醐天皇の皇子で智略にすぐれ武勇の誉れ高い護良親王が熊野落ちの時、この地に逃げられ小川の谷深く中ノ又にたどりつかれました。空腹のため、民家に食べ物を請われましたが誰一人として食べ物を差し出す者がおりませんでした。すでに敵方のきついお布令が出ていたのです。ちょうど十月の亥の子の日で家々では粟餅をたくさんついて並べておりながら差し上げることが出来なかったことを申しわけなく思い、以後小川の里では一切餅をつかないようにして来ました。
以上


紀伊続風土記 巻之七十三 牟婁郡 岩田郷 鮎川村

 住吉社  境内周百三十間
 末 社  若 宮   拝 殿
 村の東にあり 一村の産土神なり 
 剱明神社  境内森山周一町四十間
 末 社
小川谷にあり 天文二十一年(1552)勧請の棟札あり 剱を祭りて神体とす 戦国の比此地に引き籠りし人の所持の宝剱を祀しならむ 神威霊験有るにより諸人尊信して四方より参詣祷祝するもの多し 小川谷の産土神なり 又愛賀川に鞘明神と云ふ小祠あり

 

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