熊野古道、大阪府の王子社
郡戸王子 高津宮  
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高津宮 大阪市中央区高津1-1-29

拝殿



祭神 仁徳天皇
配祀 仲哀天皇、應神天皇、神功皇后、葦姫皇后、履仲天皇
摂社 比売古曽神社、高倉稲荷神社ほか
大阪府誌に記載された祭神 仁徳天皇、仲哀天皇、応神天皇、神功皇后、華(正しくは葦)姫皇后、履中天皇


社伝によれば、天正11年(1581年)、現地に鎮座していた比売古曽神社の敷地に東高津宮から遷座、比売古曽神の赤留比賣命を地主神とした。
清和天皇は貞観8年(866年)旧都の遺蹟を尋ねさせ、社地を選定して社殿を創建したという。
 崇徳天皇の天治元年(1124年)に社地を石山より東高津に遷した。

 仁徳天皇が都したのは現在大阪城のある石山であったとされるが、遺跡は見いだせていない。当地も古来より丘陵地であり、南は住吉大社付近まで続いている。

本殿



 玄松子さんから教えて頂きました『和漢三才図会』摂津の項の高津社についての説明です。
 高津社(高津宮) 生玉社の北(南区高津一番丁)にある。
  祭神 比売古曾神〔本名、下照姫命(高比売命とも)〕大国主命の女〔味耜高彦根命の妹、天稚彦命の妻である〕が始めて天盤船に乗って地上に降られた〔摂州東生郡高津がこれである〕。 その船の祠を磐船大明神と号する〔『延喜式』の当社の祭に、有帛・魚塩等を賜る目録がある。また、磐船社は東生郡にあるとするが今はない。 河州交野に磐舟社があるのがこれか〕。
 (日本紀)あもなるやおとたなばたのうながせるみすまるの玉の(玉のみすまるの)あな玉はやみ谷ふた渡らす味耜高ひこね
 下照姫の歌は文字数が未だ定らない時で、歌の初めとする。そののち人代に至って、仁徳天皇が旧跡を慕ってここに都し、高津宮と名づけられた〔宮とは禁裏の通称である〕。
 飛びかけるあまの岩船尋ねてぞ高津の里に宮作りけり 仁徳帝御製
 思うに、当社の神伝は紛失した。言い伝えによれば、往昔は生玉社に隣し〔今の農人橋広小路の辺〕、天正年中(一五七三〜九二)秀吉公が城を築いた時、社を坤(南西)に移した〔生玉及び森社も同時に移された〕。 今高津町(天王寺区東高津町)という〔人家の裏に古跡がある〕。
 ついでまた今の所に移された。社の所在は東生郡で、その村・田地・人家の多くは西生郡に属す。 当社をもって仁徳天皇の宮とするのは誤りである。
と記されています。

 磐船大明神は比売古曽神の降臨の地とも、また『摂津国風土記』に見える、「難波の高津は、天稚彦が天降ったとき、天稚彦についてくだった神、天の探女が、磐船に乗ってここまで来た。天の磐船が泊まったというわけで、高津というのだ。」とある。

天理教境内にたつ舊蹟



 また、『摂津名所図会』では、磐船舊蹟の項で、垂仁天皇の時代に、神石美麗の天女となりて比売古曽と名乗ったとある。

 当社は仁徳天皇を祭る。堺市の大仙陵で毎年2月8日、宮内庁がお祭りをするのだが、そこへ高津宮や近江の沙沙貴神社が招待されるようだ。ここも仁徳天皇を配祀している上に、仁徳天皇の別名である大鷦鷯尊(大きい墓の意)の沙沙貴につながる。青海の沙沙貴氏一族が陵墓建造に大きい役割を果たしたのだろう。この末裔が栗本慎一郎氏。

 また熊野古道や熊野街道の郡戸王子の場所と推定されている。神社境内にはそれらしい碑はない。また神社の由緒書きにも触れられていない。『摂津志』は高津神社の地主神の比売古曽神社を郡戸王子社に比定している。


高津宮神社地主神・比売古曽神社 を参照して下さい。

たたずまい
 古宇豆太神宮と古典にあり、コウヅが訓。
 高台になっている広い社地に鎮座している。木々が豊富で、殺風景な大阪の町のオアシスとなっている。見晴らしとしては西の方面が見える。落ち行く夕日が美しい土地。往古は西側には民家はなかった。従って民の竈からの煙は東側南側の民家から登る。煙は見えないのでここは宮ではない。



お祭り
2月15日 1日間 献梅祭(けんばいさ)春祭
  7月17日 2日間 夏季例祭
10月17日 2日間 秋季大祭


摂社の高倉稲荷神社

高倉稲荷神を下った場所の磐座群

陰石             陽石
 

摂津名所図会



坂口王子から上野王子への地図

『平成祭礼データ』
 高津宮 御由緒

 当宮は浪速を首都と定め高津宮に御即位あって、我が大阪発祥の因を築かれた仁徳天皇を主神として奉斎するお社である。往昔、聖が破楼から人家の貧煙を望んで、庶民の窮乏を察し諸税を中止して、民衆の疾苦を救済された事は衆知の古伝である。
 その御仁愛御盛徳を仰いで、清和天皇は貞観八年正月十二日、伊予権守橘朝臣良基に詔して旧都の遺蹟を尋ね社地を選定して社殿を創建し、当時河内国古市郡に神田五十町歩を神供料として御寄進された。
 その後村上天皇は、康保三年九月、貞観の例に準じて社殿を造営し例幣を供進された。 崇徳天皇の天治元年に社地を石山より東高津に遷して、年穀祈願のため社頭の御造営がなされた。
 後花園天皇の御宇、征夷大将軍足利義教公旧蹤を貞観の例に習って社殿を再建し祭祀憲録を制定された。 正親町天皇の天正十一年、比売許曽社の境内である現社地に御遷座になってより比売許曽社を地主神として摂社に奉斎する事となった。
 後陽成天皇の文禄三年、片桐東市正検地の際は旧例によって境内は陰地となり、又、慶長十九年十一月二十三日、徳川秀忠公は祈願状を添えて太刀一腰を奉納された。 元和の役には神霊を奉じて、一時大和に立退き同三年御遷座になったが、この戦乱のため社殿、宝蔵の大半は兵火に被り、伝来の旧記等も消失した。
 明治五年、府社に列せられた。
 昭和二十年三月、第二次大戦の戦災に被り宝暦より伝わる神輿庫のみを残し悉く焼失した。昭和三十四年七月、別表神社に加列せられた。
 昭和三十六年十月、氏子崇敬者の奉賛により社殿以下復興完成する。
 かくの如く往昔より歴代皇族を始め国民の深い敬慕のお社として又神威も日々新たに今日に至っている。  以上

公式高津宮
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