熊野古道、大阪府の王子社
境王子・方違神社・菅原神社


王子ヶ飢公園から南への道


 阿倍野王子から止々呂岐比売神社までは3kmの道のりである。途中、北畠顕家郷之墓がある北畠公園がある。また津守王子社の跡地があったと伝わる墨江小学校が途中、住吉大社の東の行宮の近くにある。 止々呂岐比売神社から更に南へ行き、遠里小野橋を越えて3kmで境王子跡の王子ヶ飢公園。
 南海高野線堺東駅の東側の道を北に1km行くと王子ヶ飢公園である。昭和四年頃までは墓地であり、いかにも熊野古道に相応しい場所。
 また応神天皇の末子の菟道稚郎子が皇位を異母兄の仁徳天皇に譲るため、都からさすらい出て、この地で食を断って絶命したというのが堺の伝承に残る。この皇子かも知れないとなると熊野の王子は疑わしい。
 堺市北田出井町3−46 
ゼンリン に小さい公園があり、熊野本宮大社の鎮座する本宮町寄贈の石碑が立っている。境王子または堺王子は後に熊野神社となったと言う説がある。熊野町に王子址を示す碑があったと言う郷土史家がいたと言う。


神明神社跡の神明町東一丁の樹齢100年以上の楠木

 西律さんと言う方が『熊野古道みちしるべ』と言う本の中で、「昭和十年、竹山真次氏は『難波古道の研究』の中で、王子社は熊野古道に沿う山ノ口神明神社の付近にあったとするのが妥当。」としている。神明神社跡地から南に少し歩くと宿屋町東の駐車場の片隅に祠があった。なにか王子社の名残のように思えたが、証拠はない。
 神明神社は堺市戎之町東の菅原神社内の薬師神社に合祀されている。

 『和泉名所図会』の神明神社 神明町東1丁全体が社域だったと思われる。


宿屋町東一丁の駐車場内の祠

 境王子から南へ1kmで方違神社が鎮座している。




方違神社 堺市北三国丘町2-2-1 南海堺東駅の東500m ゼンリン

 祭神 八十天萬魂神、神速進能男神、三筒男神、息長足日

 崇神天皇の御代、国内に疫病流行し、同床共殿に祀られていた天照大神を笠縫邑、倭大国魂神と大物主神を祀ったと言う。この時、物部大母呂隅足尼(物部氏八世の孫)を遣わして、この地に素盞嗚尊を祀ったと言う。
 また神功皇后の帰還時、住吉の大神の御託宣によって神武天皇が丹生川上神をお祀りの故事にならって、此地において天神地祇を祭り、皇軍の方忌除を祈り、忍熊王等の賊兵を平げたと伝わる。
 この地を堺の三国と呼ぶのは、摂津国住吉郡、河内国丹治比郡、和泉国大鳥郡の境界であるが故である。
 秋季大祭  9月15日 3日間


方違神社

『平成祭礼データ』
 方違神社由緒略記

 崇神天皇の朝、物部大母呂隅宿禰をして此地に素盞嗚命を祭らせ給ふ。神功皇后三韓より御凱旋し給ひし時、住吉大神の御神教に依り神武天皇丹生川上御斎祷の故事に倣はせ給ひ、此神地に於て親しく天神地祇を祭り、皇軍の方忌除を祈り、忍熊王等の賊兵を平げ給ふ。次いで住吉大神を今の住吉の地に御鎮座なし給ふ際、菰の葉に埴土を包み粽となして奉り、方違の祈祷をなし給ひし霊地なり。後、応神天皇の朝、素盞嗚命、住吉大神、神功皇后を合祀し給ひ、方違宮と称せらる。昔より勅願の神社にして維新前迄は毎年禁裏より御撫物御奉納あり、当社よりは御神符に菰の葉の粽及び厳乃真飴を添へて献上せしものなり。 以上の如き御由緒に依り、当社は昔より方災除の神として知られ、崇敬者全国に遍く、普請、転宅、旅行等の場合には当社の神符及び粽を受け、或は方除祈祷の修祓を望む者多し。 以上



「鬼門」と「道教」との関係

 大阪から東北(艮:ウシトラ)の方向に門真、守口という地名があります。鬼門にあたり、戦後まで宅地や工場の少ない地域でした。松下や三洋がここを拠点としたのは、大阪人の鬼門信仰とそれを利用した時のベンチャー精神の持ち主達でした。 京都の町中からは比叡山が鬼門の方向に当たります。院政時代には比叡山には鬼が住むと言われていたそうです。
 余談ですが、この時代の貴族達は都以外には鬼が住む所と思っていたようで、風光明媚な所を和歌に詠んでいますが、下のものに見に行かせて絵を描かせ、これを見ての歌だったそうです。
 比叡山は大きい山で、鬼門を護るように出来ていますが、延暦寺がその影響力を高めるために鬼門にいて都を護っていると宣伝したようです。比叡山の山法師はその後手を着けられない厄介者になってしまいました。

 さて、『山海経』には、「東海の中に度朔山があり、上に大きい桃の木がある。それがかがまったようにひろがっており、その長さは三千里あり、その枝の間の東北を鬼門といい、万鬼が出入りする所である。」と出ている。 これが東北=鬼門の出典となっているのかも。

 日本での鬼門は陰陽道(おんみょうどう)による方違(かたたがえ)信仰が広まったことと関係があると言われる。 陰陽道はチャイナの民間信仰であった。万物を陰陽にわけ、それを五行という基本概念と結びつけてすべての現象を説明しようとする思想であり、道教思想の中に大きい比重をしめている。 陰陽五行説に基づき、占いや祈りが行われた。

 病気になったり災害が起こるのは邪悪なるものが侵入するから、という考えは道教とは関係のない素朴な縄文的信仰であるが、邪悪なものの侵入を入り口で止めようとするさまざまなまじないがあった。 祇園信仰、牛頭天王信仰もそうであり、これらは鬼門信仰と裏腹の関係にある。

          参考 −『日本史を彩る道教の謎』から−
 




菅原神社 堺市堺区戎之町東2-1-38 南海堺東駅の西800m ゼンリン

 祭神 菅原道眞、天穗日命、野見宿禰
 摂津の国北の庄、(大小路以北)の氏神として威徳山天神常楽寺であった。
 道真公の御神体は、御自作木像の一つと伝えられ、延喜年間、海船の浜に漂着したのを民家の傍に奉祀し、後に常楽寺の僧徒等が、此を同寺に移し、社殿を造営し、長徳三年、新殿に遷座し、同寺の鎮守であった春日明神および山王権現を、相殿に合祀されたと伝えられる。 元和の兵火にあったが慶安五年、菅神七百五十年祭に当たり、百方再建につとめ、ついに承応二年四月、正遷宮を見るに至った。 元禄二年の堺大絵図を見ると本社拝殿本堂、大梵天堂、弁財天堂、護摩堂、神楽所、連歌所、鐘楼、隨身門、華表および三か所の門の外に境内に北組総会等を見ることができる。 明治40年近くの熊野町の境王子の後裔であった熊野神社を合祀している。
 神苑には支那より移植の白檀の大木(今次戦火により焼失、枯損木)があり、同木実生の木が生長して今日に至る。
 また、堺の武将小西行長が三韓より持ち帰り奉納した傘松の大木の幹が保存されている。

 京都から東京へ遷都(正式な宣言はされていないようで、京都の人はチョット東へいっておられるだけとの理解だそうだが)、この時に朝廷からの遣いが数日間この神社で祈り続けたそうである。
 秋季大祭  9月13日から3日間 八朔祭15日を田実祭とする。

菅原神社

 

薬祖神社(神明神社と熊野神社が合祀されている。)

 

境王子、方違神社、大山陵古墳 熊野古道は南西方向へ 地図


『平成祭礼データ』
 菅原神社由緒

 堺市戎之町東二丁菅原神社は、菅原道真、天穂日命、野見宿祢の三座を祀る。摂津の国北の庄、(大小路以北)の氏神として威徳山天神常楽寺とたたえられた。常楽寺はその別当であった。道真公の御神体は、御自作木像の一つと伝えられ、延喜年間、海船の浜に漂着したのを民家の傍に奉祀し、後に常楽寺の僧徒等が、此を同寺に移し、社殿を造営し、長徳三年、新殿に遷座し、同寺の鎮守であった春日明神および山王権現を、相殿に合祀されたと伝えられる。 天喜二年、後冷泉天皇の宣旨により、石燈並びに永代燈油料の寄進がなされた。 天文元年十二月、北荘付近の失火により当神社は焼失したが、この所で志ある人々の寄進により翌二年四月、再建された。 天正二年の当神社の配置図を見ると、本社および拝殿、大梵天堂、金殿、観音堂、薬師堂、護摩堂、御影堂、食堂、経堂、連歌所、塔、鐘楼、仁王門および南北の両門がある。これをもってみても当時の規模を想像することができる。后元和の兵火にあったが同二年、本社天満元宮および大梵天社の仮社殿を造営し、翌三年、鐘楼を建てて天文二年に鋳製の梵鐘を懸けた。続いて慶安五年、菅神七百五十年祭に当たり、百方再建につとめついに承応二年四月、正遷宮を見るに至った。元禄二年の堺大絵図を見ると本社拝殿本堂、大梵天堂、弁財天堂、護摩堂、神楽所、連歌所、鐘楼、隨身門、華表および三か所の門の外に境内に北組総会等を見ることができる。 古来公武庶民の崇敬篤く豊臣秀吉は天正十四年、二百二十石の御朱印を寄せ、また徳川幕府も歴代これに習い幕末に至る。特に法楽連歌の会は当時常に行なわれたといわれている。 長徳三年に菅原大神を奉祀して明治に至るが、明治維新后神仏分離の際仏教関係は廃絶された。かくして菅原神社は、明治五年四月、天神社を菅原神社と改め、同六年郷社に列した。同四十年四月、宿屋町の薬祖神社を境内末社の地主神社に合祀し、翌四十一年六月、宿屋町東二丁の事代主神社、神明町東一丁の神明神社、泉北郡三宝村の附島神社、熊野町の熊野神社をそれぞれ合祀し同年十二月、戎之町西二丁の事代主神社及び戎島一丁の恵美須神社を境外飛地末社に遷座合祀した。例祭は古来八月三日(旧暦)であったが、明治維新後九月十三日・十四日・十五日と定め十四日は神輿の渡御がある。しかし今次大戦のために昭和二十年七月、随身門及び末社の金比羅宮を残して完全に建物及び宝物が焼失したことは、誠に悲しいことである。尚今から三百数十年前の慶安年間に建立され、焼失を免れた隨身門は昭和四十一年一月二十五日、大阪府より顕彰文化財に指定されている。斯くの如く一条天皇の御宇、現在地に御社殿を御造営して、このかた摂津、北庄一円の総氏神として崇められ、対宗時代から航海安全学問成就の神様として崇められ、神苑には当時を偲ばれる支那より移植の白檀の大木(今次戦火により焼失、枯損木)があり、同木実生の木が生長して今日に至る。また、堺の武将小西行長が三韓より持ち帰り奉納した傘松の大木の幹が保存されている。以上


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