石王版「古事記」89 これからは、下つ巻になります。まずは、目次からです。 −−−−− ***** 古事記 (下つ巻) ***** 古事記 目次 古事記下つ巷 仁徳天皇  1 后妃と御子  2 聖帝(ヒジリノミカド)の世(ミヨ)  3 皇后の嫉妬と黒日売(クロヒメ)  4 皇后の嫉妬と八田若郎女(ヤタノワキイラツメ)  5 奴理能美(ヌリノミ)と八田若郎女  6 速総別王(ハヤブサワケノミコ)と女鳥王(メドリノミコ)  7 雁(カリ)の卵(コ)の瑞祥  8 枯野(カラノ)といふ船 履中(リチュウ)天皇  1 后妃と御子  2 墨江中王(スミノエノナカツミコ)の反逆  3 水歯別命(ミズハワケノミコト)と曽婆訶理(ソバカリ) 反正(ハンゼイ)天皇 允恭(インギョウ)天皇  1 后妃と御子  2 即位と政治  3 軽太子(カルノミコ)と軽大郎女(カルノオホイラツメ) 安康(アンコウ)天皇  1 大日下王(オホクサカノミコ)と根臣(ネノオミ)  2 目弱王(マヨワノミコ)  3 市辺之忍歯王(イチノベノオシハノミコ) 雄略(ユウリャク)天皇  1 后妃と御子  2 若日下部王(ワカクサカベノミコ)  3 赤猪子(アカヰコ)  4 吉野の童女(ヲトメ)  5 葛城(カヅラキ)の一言主大神(ヒトコトヌシノオホカミ)  6 天語歌(アマガタリウタ) 清寧(セイネイ)天皇  1 二皇子発見  2 袁祁命(ヲケノミコト)と志毘臣(シビノオミ) 顕宗(ケンソウ)天皇  1 置目(オキメ)の老媼(オミナ)  2 御陵(ミハカ)の土 仁賢(ニンケン)天皇 武列(ブレツ)天皇 継体(ケイタイ)天皇 安閑(アンカン)天皇 宣化(センクワ)天皇 欽明(キンメイ)天皇 敏達(ビダツ)天皇 用明(ヨウメイ)天皇 崇峻(スシュン)天皇 推古(スイコ)天皇 −−−−− 石王版「古事記」90 −−−−− 古事記下巻 大雀皇帝(オホサザキノスメラミコト)より豊御食炊屋比売命(トヨミケカシキヤヒ メノミコト)に尽(イタ)るまで凡(オホヨ)そ十九(トヲアマリココノ)天皇(ス メラミコト) 仁徳天皇 1 后妃と御子 大雀命(オホサザキノミコト)、難波(ナニハ)の高津宮(タカツノミヤ)に坐(イ マ)して、天(アメ)の下治(シ)らしめしき。この天皇(スメラミコト)、葛城 (カヅラキ)の曽都毘古(ソツビコ)の女(ムスメ)、石之日売命(イハノヒメノミ コト)大后を娶(メト)して生みましし御子、大江之伊耶本和気命(オホエノイザホ ワケノミコト)、次に墨江之中津王(スミノエノナカツミコ)、次に蝮之水歯別命 (タヂヒノミヅハワケノミコト)、次に男浅津間若子宿禰命(ヲアサツマワクゴノス クネノミコト)。四柱。また上(カミ)に云ひし日向の諸県君(モロガタノキミ)牛 諸(ウシモロ)の女(ムスメ)、髪長比売(カミナガヒメ)を娶(メト)して生みま しし御子、波多毘能大郎子(ハタビメノオホイラツコ)、亦の名は大日下王(オホク サカノミコ)、次に波多毘能若郎女(ハタビノワキイラツメ)、亦の名は長目比売命 (ナガメヒメノミコト)、亦の名は若日下部命(ワカクサカベノミコト)。二柱。ま た庶妹(ママイモ)八田若郎女(ヤタノワキイラツメ)を娶(メト)したまひき。ま た庶妹(ママイモ)宇遅能若郎女(ウヂノワキイラツメ)を娶(メト)したまひき。 この二柱は御子無かりき。凡そこの大雀天皇の御子等(タチ)并(アハ)せて六柱 (ムハシラ)なり。男王(ヒコミコ)五柱。女王(ヒメミコ)一柱。 かれ、伊耶本和気命(イザホワケノミコト)は天(アメ)の下(シタ)治(シ)らし めしき。次に蝮之水歯別命(タヂヒノミヅハワケノミコト)もまた天の下治(シ)ら しめしき。次に男浅津間若子宿禰命(ヲアサツマワクゴノスクネノミコト)もまた天 の下治(シ)らしめしき。 この天皇(スメラミコト)の御世(ミヨ)に、大后(オホキサキ)石之日売命(イハ ノヒメノミコト)の御名代(ミナシロ)として葛城部(カヅラキベ)を定め、また太 子(ヒツギノミコ)伊耶本和気命(イザホワケノミコト)の御名代として壬生部(ミ ブベ)を定め、また水歯別命(ミヅハワケノミコト)の御名代として蝮部(タヂヒ ベ)を定め、また大日下王(オホクサカノミコ)の御名代として大日下部(オホクサ カベ)を定め、若日下部王(ワカクサカベノミコ)の御名代として若日下部(ワカク サカベ)を定めたまひき。 また秦人(ハタヒト)を○<にんべんに「殳」>(エタ)てて茨田堤(マムタノツツ ミ)また茨田(マムタノ)三宅(ミヤケ)を作り、また丸邇池(ワニノイケ)・依網 池(ヨサミノイケ)を作り、また難波の堀江を掘りて海に通(カヨ)はし、また小椅 江(ヲバシノエ)を掘り、また墨江(スミノエ)の津を定めたまひき。 −−−−− 石王版「古事記」91 新古今和歌集巻第七 賀歌 貢物許されて国富めるを御覧じて 仁徳天皇御歌 707 高き屋にのぼりて見れば煙たつ民のかまどはにぎはひにけり −−−−− 2 聖帝(ヒジリノミカド)の世(ミヨ) ここに天皇(スメラミコト)、高山に登りて四方(ヨモ)の国を見て詔(ノ)りたま はく、「国中(クヌチ)に姻(ケブリ)発(タ)たず。国皆貧窮(マヅ)し。故(カ レ)、今より三年(ミトセ)に至るまで、悉(コトゴト)に人民(タミ)の課○<に んべんに「殳」>(エツキ)を除(ユル)せ」とのりたまひき。ここを以(モ)ちて 大殿破(ヤ)れ壊(コホ)れて、悉(コトゴト)に雨漏(モ)れどもかつて修理(ツ クロ)ひたまはず、○<「減」のさんずいへんが無くて、その代わりに木へんのある 字>(ハコ)をもちてその漏る雨を受けて、漏らざる処に遷(ウツ)り避(サ)りた まひき。後(ノチ)に国中(クヌチ)を見たまへば、国に姻(ケブリ)満てり。か れ、人民(タミ)富めりとして、今はと課○<にんべんに「殳」>(エツキ)を科 (オホ)せたまひき。ここを以(モ)ちて百姓(オホミタカラ)栄えて、○<にんべ んに「殳」>使(エダチ)に苦しびざりき。かれ、その御世(ミヨ)を称(タタ)へ て聖帝(ヒジリノミカド)の世(ミヨ)と謂(マヲ)す。 −−−−− 石王版「古事記」92 −−−−− 3 皇后の嫉妬と黒日売(クロヒメ) その大后(オホキサキ)石之日売命(イハノヒメノミコト)、いたく嫉妬(ウハナリ ネタミ)したまひき。かれ、天皇の使はしし妾(ミメ)は、宮の中(ウチ)をえ臨ま ず、言立(コトダ)てば足もあがかに嫉(ネタ)みたまひき。ここに天皇(スメラミ コト)・吉備(キビ)の海部直(アマベノアタヒ)の女(ムスメ)、名は黒日売(ク ロヒメ)その容姿(カタチ)端正(キラキラ)しと聞こしめして、喚(メ)し上げて 使ひたまひき。然るにその大后の嫉(ネタ)みを畏(カシコ)みて、本(モト)つ国 に逃げ下(クダ)りき。 天皇、高台(タカドノ)に坐(イマ)して、その黒日売の船出(イ)でて海に浮かべ るを望(ノゾ)み瞻(ミ)て歌曰(ウタ)ひたまはく、 沖方(オキヘ)には 小船(ヲブネ)連(ツラ)らく くろざやの まさづ子我妹 (ワギモ) 国へ下らす《53》 と。かれ、大后この御歌(ミウタ)を聞きていたく忿(イカ)りまして、人を大浦に 遣はして追ひ下(オロ)して、歩(カチ)より追ひ去(ヤ)りたまひき。 ここに天皇(スメラミコト)、その黒日売に恋ひたまひて、大后を欺(アザム)きて 曰(ノ)りたまはく、「淡道島を見むと欲(オモ)ふ」とのりたまひて幸行(イデ マ)しし時、淡道島に坐(イマ)して遥(ハロハロ)に望(ミサ)けて歌曰(ウタ) ひたまはく、 おしてるや 難波(ナニハ)の崎よ 出で立ちて わが国見れば 淡島(アハシマ)  淤能碁呂島(オノゴロシマ) 檳榔(アヂマサ)の 島も見ゆ さけつ島見ゆ《5 4》 とうたひたまひき。すなはちその島より伝ひて吉備国(キビノクニ)に幸行(イデ マ)しき。 ここに黒日売、その国の山方(ヤマガタ)の地(トコロ)に大(オホ)坐(マ)しま さしめて、大御飯(オホミケ)献りき。ここに大御羹(オホミアツモノ)を煮(ニ) むとして、其地(ソコ)の菘菜(アヲナ)を採(ツ)める時に、天皇その嬢子(ヲト メ)の菘(アヲナ)を採(ツ)める処に到りまして歌曰(ウタ)ひたまはく、 山県(ヤマガタ)に 蒔(マ)ける菘菜(アヲナ)も 吉備人(キビヒト)と 共に し採(ツ)めば 楽(タノ)しくもあるか《55》 と。 天皇上(ノボ)り幸(イデマ)す時、黒日売御歌(ミウタ)を献(タテマツ)りて曰 (イ)はく、 倭方(ヤマトヘ)に 西風(ニシ)吹き上げて 雲(クモ)離(ハナ)れ 退(ソ) き居(ヲ)りとも 我(ワレ)忘れめや《56》 また歌ひて曰はく、 倭方(ヤマトヘ)に 往(ユ)くは誰(タ)が夫(ツマ) 隠(コモ)りづの 下よ 延(ハ)へつつ 往くは誰(タ)が夫(ツマ)《57》 とうたひき。 −−−−− 石王版「古事記」93 −−−−− 4 皇后の嫉妬と八田若郎女(ヤタノワキイラツメ) これより後時(ノチ)、大后(オホキサキ)豊楽(トヨノアカリ)したまはむとし て、御綱柏(ミツナガシハ)を採りに木国(キノクニ)に幸行(イデマ)しし間に、 天皇(スメラミコト)八田若郎女(ヤタノワキイラツメ)と婚(マグハ)ひしたまひ き。ここに大后、御綱柏を御船に積み盈(ミ)てて還(カヘ)り幸(イデマ)す時、 水取司(モヒトリノツカサ)に駈使(ツカ)はゆる吉備国(キビノクニ)の児島の仕 丁(ヨホロ)、これ己(オノ)が国に退(マカ)るに、難波の大渡に、後(オク)れ たる倉人女(クラヒトメ)の船に遇ひき。すなはち語りて云はく、「天皇はこのごろ 八田若郎女と婚(マグハ)ひしたまひて、昼(ヒル)夜(ヨル)戯(タハブ)れ遊び ますを、若(モ)し大后はこの事聞こしめさねかも、静かに遊び幸行(イデマ)す」 といひき。 ここにその倉人女(クラヒトメ)、この語る言(コト)を聞きて、即ち御船に追ひ近 づきて、状(アリサマ)を具(ツブサ)に仕丁(ヨホロ)の言(コト)の如く白(マ ヲ)しき。ここに大后大(イタ)く恨み怒りて、その御船に載(ノ)せたる御綱柏 (ミツナガシハ)は、悉(コトゴト)に海に投げ棄(ウ)てたまひき。かれ其地(ソ コ)を号(ナヅ)けて御津前(ミツノサキ)と謂(イ)ふ。すなはち宮に入りまさず て、その御船を引き避(ヨ)きて堀江に泝(サカノボ)り、河のまにまに山代(ヤマ シロ)に上(ノボ)り幸(イデマ)しき。この時歌曰(ウタ)ひたまはく、 つぎねふや 山代河を 河(カハ)上(ノボ)り 我が上(ノボ)れば 河の辺 (ヘ)に 生ひ立(ダ)てる 烏草樹(サシブ)を 烏草樹の木 其(シ)が下に  生ひ立てる 葉広 ゆつ真椿(マツバキ) 其(シ)が花の 照りいまし 其(シ) が葉の 広りいますは 大君ろかも《58》 すなはち山代(ヤマシロ)より廻(メグ)りて、那良(ナラ)の山の口に到りまして 歌曰(ウタ)ひたまはく、 つぎねふや 山代河(ヤマシロガハ)を 宮(ミヤ)上(ノボ)り 我が上れば あ をによし 奈良を過ぎ 小楯(ヲダテ)大和を過ぎ 我が見が欲し国は 葛城(カヅ ラキ)高宮(タカミヤ) 我家(ワギヘ)のあたり《59》 かく歌ひて還(カヘ)りたまひて、暫(シマ)し筒木(ツツキ)の韓人(カラヒ ト)、名は奴理能美(ヌリノミ)の家に入(イ)りましき。 天皇(スメラミコト)、その大后(オホキサキ)山代(ヤマシロ)より上(ノボ)り 幸(イデマ)しぬと聞こしめして、舎人(トネリ)名は鳥山(トリヤマ)といふ人を 使はして、御歌を送りて曰(ノ)りたまはく、 山代に い及(シ)け鳥山 い及(シ)けい及(シ)け 我(ア)が愛(ハ)し妻 (ヅマ)に い及(シ)き遇(ア)はむかも《60》 また続(ツ)ぎて丸邇臣(ワニノオミ)口子(クチコ)を遣(ツカ)はして歌曰(ウ タ)ひたまはく、 みもろの その高城(タカキ)なる 大韋古(オホヰコ)が原 大猪子(オホヰコ) が 腹にある 肝(キモ)向(ムカ)ふ 心をだにか 相思はずあらむ《61》 また歌曰(ウタ)ひたまはく、 つぎねふ 山代女(ヤマシロメ)の 木(コ)鍬(クハ)持ち 打ちし大根(オホ ネ) 根白(ネジロ)の 白腕(シロタダムキ) 枕(マ)かずけばこそ 知らずと も言はめ《62》 −−−−− 石王版「古事記」94 −−−−− 5 奴理能美(ヌリノミ)と八田若郎女(ヤタノワキイラツメ) かれ、この口子臣(クチコノオミ)この御歌を白(マヲ)す時、いたく雨ふりき。こ こにその雨を避(サ)けず前つ殿戸(トノト)に参(マヰ)伏(フ)せば、違(タ ガ)ひて後(シリ)つ戸に出(イ)でたまひ、後(シリ)つ殿戸に参伏せば、違ひて 前つ戸に出でたまひき。ここに葡蔔(ハラバ)ひ進み赴きて庭中に跪(ヒザマヅ)き し時、水潦(ニハタヅミ)腰に至りき。その臣、紅(アカ)き紐(ヒモ)著(ツ)け し青摺(アヲズリ)衣(キヌ)を服(キ)たりき。かれ、水潦(ニハタヅミ)紅(ア カ)き紐に払(フ)れて、青皆紅き色に変(ナ)りぬ。ここに口子臣(クチコノオ ミ)の妹(イモ)口日売(クチヒメ)、大后に仕へ奉(マツ)れり。かれ、この口日 売(クチヒメ)歌ひて曰(イ)はく、 山代(ヤマシロ)の 筒木(ツツキ)の宮に 物申す 我(ア)が兄(セ)の君は  涙(ナミダ)ぐましも《63》 ここに大后、その所由(ユヱ)を問ひたまひし時、答へて白さく、「僕(ア)が兄 (セ)口子臣(クチコノオミ)なり」とまをしき。 ここに口子臣(クチコノオミ)、またその妹(イモ)口比売(クチヒメ)、また奴理 能美(ヌリノミ)の三人(ミタリ)議(ハカ)りて、天皇に奏(マヲ)さしめて云は く、「大后の幸行(イデマ)しし所以(ユヱ)は、奴理能美が養(カ)へる虫、一度 (ヒトタビ)は葡(ハ)ふ虫になり、一度は殻(カヒコ)になり、一度は飛ぶ鳥にな りて、三色(ミクサ)に変る奇(アヤ)しき虫あり。この虫を看行(ミソナ)はしに 入りまししにこそ。更に異(ケ)しき心なし」といひき。 かく奏(マヲ)す時、天皇(スメラミコト)詔(ノ)りたまはく、「然らば吾(ア) も奇異(アヤ)しと思へば、見に行かむと欲(オモ)ふ」とのりたまひて、大宮より 上(ノボ)り幸行(イデマ)して、奴理能美(ヌリノミ)の家に入りましし時、その 奴理能美(ヌリノミ)己(オノ)が養(カ)へる三種(ミクサ)の虫を大后に献(タ テマツ)りき。ここに天皇、その大后の坐(イマ)せる殿戸(トノト)に御(ミ)立 (タ)ちしたまひて歌曰(ウタ)ひたまはく、 つぎねふ 山代女(ヤマシロメ)の 木(コ)鍬(クハ)持ち 打ちし大根(オホ ネ) さわさわに 汝(ナ)が言へせこそ うち渡す やがはえなす 来入り参(マ ヰ)来(ク)れ《64》 この天皇と大后と歌ひたまひし六つの歌は、志都歌(シツウタ)の歌ひ返(カヘ)し なり。 天皇、八田若郎女(ヤタノワキイラツメ)に恋ひたまひて、御歌を賜ひ遣はしき。そ の歌に曰はく、 八田の 一本(ヒトモト)菅(スゲ)は 子持たず 立ちか荒れなむ あたら菅原  言(コト)をこそ 菅原と言はめ あたら清(スガ)し女(メ)《65》 ここに八田若郎女答へて歌ひて曰はく、 八田の 一本菅は 一人(ヒトリ)居(ヲ)りとも 大君し よしと聞こさば 一人 居りとも《66》 かれ、八田若郎女の御名代(ミナシロ)として、八田部(ヤタベ)を定めたまひき。 −−−−− 石王版「古事記」95 −−−−− 6 速総別王(ハヤブサワケノミコ)と女鳥王(メドリノミコ) また天皇(スメラミコト)、その弟(オト)速総別王(ハヤブサワケノミコ)を以ち て媒(ナカビト)として、庶妹(ママイモ)女鳥王(メドリノミコ)を乞ひたまひ き。ここに女鳥王、速総別王に語りて曰はく、「大后(オホキサキ)の強(オズ)き によりて、八田若郎女(ヤタノワキイラツメ)を治めたまはず。かれ、仕へ奉(マ ツ)らじと思ふ。吾(ア)は汝(イマシ)命(ミコト)の妻(メ)にならむ」といひ て、即ち相婚(ア)ひき。ここをもちて、速総別王復(カヘリゴト)奏(マヲ)さざ りき。 ここに天皇、女鳥王の坐(イマ)す所に直(タダ)に幸(イデマ)して、その殿戸 (トノト)の閾(シキミ)の上(ヘ)に坐しき。ここに女鳥王、機(ハタ)に坐して 服(ハタ)織らしき。ここに天皇歌曰(ウタ)ひたまはく、 女鳥の わが王(オホキミ)の 織ろす服(ハタ) 誰(タ)が料(タネ)ろかも 《67》 女鳥王、答へて歌ひて曰はく、 高行くや 速総別(ハヤブサワケ)の 御襲料(ミオスヒガネ)《68》 かれ、天皇その情(ココロ)を知らして、宮に還(カヘ)り入りましき。 この時、その夫(ヲ)、速総別王(ハヤブサワケノミコ)到来(キ)ましし時、その 妻(メ)女鳥王(メドリノミコ)歌ひて曰はく、 雲雀(ヒバリ)は 天(アメ)に翔(カケ)る 高行くや 速総別(ハヤブサワケ)  鷦鷯(サザキ)取らさね《69》 天皇この歌を聞かして、即ち軍(イクサ)を興して殺さむとしたまひき。ここに速総 別王・女鳥王共に逃げ退(ソ)きて、倉椅山(クラハシヤマ)に騰(ノボ)りき。こ こに速総別王歌ひて曰はく、 梯(ハシ)立(タ)ての 倉椅山(クラハシヤマ)を 嶮(サガ)しみと 岩懸きか ねて 我(ワ)が手取らすも《70》 また歌ひて曰はく、 梯(ハシ)立(タ)ての 倉椅山(クラハシヤマ)は 嶮(サガ)しけど 妹と登れ ば 嶮(サガ)しくもあらず《71》 かれ、其地(ソコ)より逃げ亡(ウ)せて、宇陀(ウダ)の蘇邇(ソニ)に到りし 時、御軍(ミイクサ)追ひ到りて殺しき。 その将軍(イクサノキミ)山部大楯連(ヤマベノオホタテノムラジ)、その女鳥王 (メドリノミコ)の御手に纒(マ)かせる玉釧(タマクシロ)を取りて、己が妻 (メ)に与へつ。この時の後(ノチ)、豊楽(トヨノアカリ)したまはむとする時、 氏々(ウヂウヂ)の女(ヲミナ)等(ラ)皆朝(ミカド)参(マヰ)りす。ここに大 楯連の妻、その王(ミコ)の玉釧を己が手に纒(マ)きて参(マヰ)赴(オモム)け り。ここに大后(オホキサキ)石之日売命(イハノヒメノミコト)、自(ミヅカ)ら 大御酒(オホミキ)の柏(カシハ)を取りて、諸(モロモロ)の氏々の女(ヲミナ) 等(ラ)に賜ひき。 ここに大后、その玉釧を見知りたまひて、御酒の柏を賜はずて、すなはち引き退 (ソ)けたまひき。その夫(ヲ)大楯連を召し出(イダ)して詔(ノ)りたまはく、 「その王(ミコ)等(タチ)、礼(ヰヤ)无(ナ)きによりて退(ソ)け賜ひき。こ は異(ケ)しき事無くこそ。それの奴(ヤツコ)や。己が君の御手に纒(マ)かせる 玉釧を、膚(ハダ)も温(アタタ)けきに剥(ハ)ぎ持ち来て、即ち己が妻(メ)に 与へつる」とのりたまひて、すなはち死刑(コロスツミ)を給ひき。 −−−−− 石王版「古事記」96 −−−−− 7 雁(カリ)の卵(コ)の瑞祥 また一時(アルトキ)、天皇(スメラミコト)豊楽(トヨノアカリ)したまはむとし て、日女島(ヒメシマ)に幸行(イデマ)しし時、その島に雁(カリ)卵(コ)生み き。ここに建内宿禰命(タケシウチノスクネノミコト)を召して、歌を以ちて雁(カ リ)の卵(コ)を生みし状(サマ)を問ひたまひき。 その歌に曰(ノ)りたまはく、 たまきはる 内の朝臣(アソ) 汝(ナ)こそは 世の長人(ナガヒト) そらみつ  大和(ヤマト)の国に 雁(カリ)卵(コ)生(ム)と聞くや《72》 ここに建内宿禰、歌を以ちて語りて曰(マヲ)さく、 高光る 日の御子 うべしこそ 問ひたまへ まこそに 問ひたまへ 吾(アレ)こ そは 世の長人 そらみつ 大和の国に 雁(カリ)卵(コ)生(ム)と いまだ聞 かず《73》 かく白(マヲ)して御琴(ミコト)を給はりて歌ひて曰はく、 汝(ナ)が御子や 終(ツヒ)に知らむと 雁(カリ)は卵(コ)生(ム)らし《7 4》 こは本岐歌(ホキウタ)の片歌(カタウタ)なり。 −−−−− 石王版「古事記」97 −−−−− 8 枯野(カラノ)といふ船 この御世(ミヨ)に、兔寸(トノキ)河の西に一つの高樹(タカキ)ありき。その樹 の影、旦日(アサヒ)に当れば淡道島(アハヂシマ)に逮(オヨ)び、夕日に当れば 高安山(タカヤスヤマ)を越えき。かれ、この樹を切りて船を作りしに、いと捷(ハ ヤ)く行く船なりき。時にその船を号(ナヅ)けて枯野(カラノ)といふ。かれ、こ の船を以(モ)ちて、旦夕(アサユフ)に淡道島の寒泉(シミヅ)を酌(ク)みて、 大御水(オホミモヒ)献(タテマツ)りき。この船、破(ヤ)れ壊(コボ)れたるを 以ちて塩を焼き、その焼け遺(ノコ)りし木を取りて琴に作りしに、その音七里(ナ ナサト)に響(トヨ)みき。ここに歌ひて曰(イ)はく、 枯野(カラノ)を 塩に焼き しが余り 琴に作り かき弾(ヒ)くや 由良(ユ ラ)の門(ト)の 門中(トナカ)の海石(イクリ)に 振(フ)れ立つ 浸漬(ナ ヅ)の木の さやさや《75》 こは志都歌(シツウタ)の歌返(ウタカヘ)しなり。 この天皇の御年、八十三歳(ヤソヂアマリミトセ)。丁卯(ヒノトウ)の年の八月 (ハヅキ)十五日(トヲカアマリイツカ)に崩(カムアガ)りましき。御陵(ミハ カ)は毛受(モズ)の耳原(ミミハラ)にあり。 −−−−− 石王版「古事記」98 −−−−− 履中天皇 1 后妃と御子 子(ミコ)、伊耶本和気王(イザホワケノミコ)、伊波礼(イハレ)の若桜宮(ワカ ザクラノミヤ)に坐(イマ)して天(アメ)の下治(シ)らしめしき。この天皇、葛 城(カヅラキ)の曽都比古(ソツヒコ)の子、葦田宿禰(アシダノスクネ)の女(ム スメ)、名は黒比売命(クロヒメノミコト)を娶(メト)して生みましし御子、市辺 (イチノベ)の忍歯王(オシハノミコ)、次に御馬王(ミマノミコ)、次に妹、青海 郎女(アヲミノイラツメ)、亦の名は飯豊郎女(イヒトヨノイラツメ)。三柱。 −−−−− 石王版「古事記」99 −−−−− 2 墨江中王(スミノエノナカツミコ)の反逆 本(モト)、難波宮(ナニハノミヤ)に坐(イマ)して豊明(トヨノアカリ)したま ひし時、大御酒(オホミキ)にうらげて大御寝(オホミネ)したまひき。ここにその 弟(イロド)墨江中王(スミノエノナカツミコ)、天皇を取らむと欲(オモ)ひて、 火を大殿(オホトノ)に著(ツ)けき。ここに倭(ヤマト)の漢直(アヤノアタヒ) の祖(オヤ)、阿知直(アチノアタヒ)盗み出だして、御馬(ミマ)に乗せて倭に幸 (イデマ)さしめき。かれ、多遅比野(タヂヒノ)に到りて寤(サ)めまして、「こ こは何処(イヅク)ぞ」と詔(ノ)りたまひき。ここに阿知直(アチノアタヒ)白 (マヲ)さく、「墨江中王(スミノエノナカツミコ)、火を大殿に著(ツ)けたまひ き。かれ、率(ヰ)て倭に逃ぐるなり」とまをしき。ここに天皇歌曰(ウタ)ひたま はく、 多遅比野(タヂヒノ)に 寝むと知りせば 立薦(タツコモ)も 持ちて来(コ)ま しを 寝むと知りせば《76》 波邇賦坂(ハニフザカ)に到りて、難波宮を望見(ミサ)けたまへば、その火なほ炳 (シル)くもえたり。ここに、天皇また歌曰(ウタ)ひたまはく、 波邇布坂(ハニフザカ) わが立ち見れば かぎろひの 燃ゆる家群(イヘムラ)  妻(ツマ)が家のあたり《77》 かれ、大坂の山口(ヤマノクチ)に到り幸(イデマ)しし時、一(ヒトリ)の女人 (ヲミナ)に遇(ア)ひたまひき。その女人(ヲミナ)の白(マヲ)さく、「兵(ツ ハモノ)を持てる人等(ヒトドモ)、多(サハ)にこの山を塞(サ)へたり。当岐麻 道(タギマチ)より廻(メグ)りて越え幸(イデマ)すべし」とまをしき。ここに天 皇歌曰(ウタ)ひたまはく、 大坂に 遇(ア)ふや嬢子(ヲトメ)を 道問へば 直(タダ)には告(ノ)らず  当芸麻道(タギマチ)を告(ノ)る《78》 かれ、上(ノボ)り幸(イデマ)して石上神宮(イソノカミノカムミヤ)に坐(イ マ)しき。 −−−−− 石王版「古事記」100 −−−−− 3 水歯別命(ミヅハワケノミコト)と曽婆訶理(ソバカリ) ここにそのいろ弟(ド)水歯別命(ミヅハワケノミコト)参(マヰ)赴(オモム)き て謁(マヲ)さしめたまひき。ここに天皇詔(ノ)らしめたまはく、「吾(アレ)、 汝(イマシ)命(ミコト)も墨江中王(スミノエノナカツミコ)と同じ心ならむかと 疑へり。かれ、相(アヒ)言(イ)はじ」とのらしめたまひき。答へて白(マヲ)さ く、「僕(ア)は穢邪(キタナ)き心無し。また墨江中王と同じくあらず」とまをし たまひき。 亦(マタ)詔(ノ)らしめたまはく「然(シカ)あらば、今還(カヘ)り下りて墨江 中王を殺して上り来ませ。その時吾必ず相言はむ」とのらしめたまひき。 かれ、即ち難波(ナニハ)に還り下りて、墨江中王に近く習(ツカ)へまつれる隼人 (ハヤヒト)、名は曽婆加里(ソバカリ)を欺(アザム)きて、のりたまはく、「も し汝(ナレ)吾(ア)が言(コト)に従はば、吾(アレ)天皇(スメラミコト)とな り、汝を大臣(オホオミ)となして、天の下治(シ)らしめさむ、いかに」とのりた まひき。 曽婆訶里(ソバカリ)答へて白(マヲ)さく、「命(ミコト)の随(マニマ)に」と まをしき。ここに多(アマタ)の禄(モノ)をその隼人に給ひて曰(ノ)りたまはく 「然(シカ)あらば汝(ナ)が王(ミコ)を殺せ」とのりたまひき。ここに曽婆訶 里、己(オノ)が王(ミコ)の厠(カハヤ)に入りませるをひそかに伺ひて、矛(ホ コ)を以ちて刺して殺しまつりき。 かれ曽婆訶理(ソバカリ)を率(ヰ)て倭(ヤマト)に上り幸(イデマ)す時、大坂 の山の口に到りて以為(オモ)ほさく「曽婆訶理、吾が為には大きなる功(イサヲ) あれども、既に己(オノ)が君を殺せしは是れ義(コトワリ)ならず。然れどもその 功に賽(ムク)いぬは信(マコト)無しと謂(イ)ひつべし。既にその信を行はば還 (カヘ)りてその情(ココロ)に惶(オソ)る。かれその功に報ゆれども、その正身 (タダミ)を滅してむ」とおもほしき。 ここを以(モ)ちて曽婆訶理に詔(ノ)りたまはく「今日は此間(ココ)に留(ト ド)まりて、先づ大臣(オホオミ)の位を給ひて、明日(アス)上り幸(イデマ)さ む」とのりたまひき。その山の口に留まりて、即ち仮宮(カリミヤ)を造り、忽(タ チマ)ち豊楽(トヨノアカリ)したまひて、すなはちその隼人に大臣の位を給ひ、百 (モモ)の官(ツカサ)に拝(ヲロガ)ましめたまふ。隼人歓喜(ヨロコ)びて、志 遂げぬと以為(オモ)ひき。ここにその隼人に詔りたまはく、「今日大臣と同じ盞 (ツキ)の酒を飲まむ」とのりたまひて、共に飲む時、面(オモ)を隠す大鋺(オホ マリ)にその進むる酒を盛りき。ここに、王子(ミコ)先づ飲みたまひ、隼人(ハヤ ヒト)後に飲みき。 かれ、その隼人飲む時、大鋺面(オホマリオモ)を覆(オホ)ひき。ここに席(ムシ ロ)の下に置きし釼(ツルギ)を取り出でてその隼人の頸(クビ)を斬(キ)りたま ひて、すなはち明日(アス)上り幸(イデマ)しき。かれ、其地(ソコ)を号(ナ ヅ)けて近(チカ)つ飛鳥(アスカ)と謂(イ)ふ。上りて倭(ヤマト)に到りて詔 りたまはく、「今日は此間(ココ)に留まり、祓禊(ミソギ)をして明日参(マヰ) 出(デ)て、神の宮を拝(ヲロガ)まむとす」とのりたまひき。かれ、其地(ソコ) を号けて遠(トホ)つ飛鳥(アスカ)と謂(イ)ふ。かれ、石上神宮(イソノカミノ カムミヤ)に参(マヰ)出(デ)て、天皇(スメラミコト)に奏(マヲ)さしめたま はく、「政(マツリゴト)既に平(タヒラ)げ訖(ヲ)へて参(マヰ)上(ノボ)り て侍(ハベ)り」とまをさしめたまふ。ここに召し入れて相語らひたまひき。 天皇、ここに阿知直(アチノアタヒ)を始めて蔵官(クラノツカサ)に任(マ)け、 また粮地(タドコロ)を給ひき。またこの御世(ミヨ)に、若桜部臣(ワカサクラベ ノオミ)等に若桜部の名を賜ひ、また比売陀君(ヒメダノキミ)等に姓(カバネ)を 賜ひて比売陀君と謂(イ)ひき。また、伊波礼部(イハレベ)を定めたまひき。天皇 の御年、陸拾肆歳(ムソヂアマリヨトセ)。壬申(ミヅノエサル)の年の正月(ムツ キ)三日に崩(カムアガ)りましき。御陵(ミハカ)は毛受(モズ)に在(ア)り。 −−−−− 石王版「古事記」101 −−−−− 反正(ハンゼイ)天皇 弟(イロド)、水歯別命(ミヅハワケノミコト)、多治比(タヂヒ)の柴垣宮(シバ カキノミヤ)に坐して天の下治らしめしき。この天皇、御身(ミミ)の長(タケ)、 九尺(ココノサカ)二寸半(フタキイツキ)。御歯の長さ一寸(ヒトキ)広さ二分 (フタキダ)、上下等しく斉(トトノ)ひ、すでに珠(タマ)に貫けるが如し。 天皇、丸邇(ワニ)の許碁登臣(コゴトノオミ)の女、都怒郎女(ツノノイラツメ) を娶(メト)して生みましし御子、甲斐郎女(カヒノイラツメ)、次に都夫良郎女 (ツブラノイラツメ)。二柱。又同じ臣(オミ)の女、弟比売を娶(メト)して生み ましし御子、財王(タカラノミコ)、次に多訶弁郎女(タカベノイラツメ)。并(ア ハ)せて四王(ヨハシラ)なり。天皇の御年、陸拾歳(ムソトセ)。丁丑(ヒノトノ ウシ)の年の七月(フミツキ)に崩(カムアガ)りましき。御陵は毛受野(モズノ) にあり。 −−−−− 石王版「古事記」102 −−−−− 允恭(インギョウ)天皇 1 后妃と御子 弟(イロド)、男浅津間若子宿禰命(ヲアサツマワクゴノスクネノミコト)、遠(ト ホ)つ飛鳥宮(アスカノミヤ)に坐(イマ)して天(アメ)の下(シタ)治(シ)ら しめしき。この天皇(スメラミコト)、意富本杼王(オホホドノミコ)の妹(イ モ)、忍坂之大中津比売命(オサカノオホナカツヒメノミコト)を娶(メト)して生 みましし御子(ミコ)、木梨之軽王(キナシノカルノミコ)、次に長田大郎女(ナガ タノオホイラツメ)、次に境之黒日子王(サカヒノクロヒコノミコ)、次に穴穂命 (アナホノミコト)、次に軽大郎女(カルノオホイラツメ)、亦の名は衣通郎女(ソ トホリノイラツメ)、御名に衣通王(ソトホリノミコ)と負はせる所以(ユヱ)は、 その身の光、衣より通り出づればなり、次に八瓜之白日子王(ヤツリノシロヒコノミ コ)、次に大長谷命(オホハツセノミコト)、次に橘大郎女(タチバナノオホイラツ メ)、次に酒見郎女(サカミノイラツメ)。九柱。凡(オホヨ)そ天皇の御子(ミ コ)等(タチ)、九柱(ココノハシラ)なり。男王(ヒコミコ)五(イツハシラ)、 女王(ヒメミコ)四(ヨハシラ)。この九王(ココノハシラノミコ)の中に、穴穂命 (アナホノミコト)は天(アメ)の下治(シ)らしめしき。次に大長谷命(オホハツ セノミコト)、天の下治(シ)らしめしき。 −−−−− 石王版「古事記」103 −−−−− 2 即位と政治 天皇(スメラミコト)、初め天津日継(アマツヒツギ)知らしめさむとせし時、天皇 辞(イナ)びて詔(ノ)りたまはく、「我(アレ)は長き病(ヤマヒ)あり。日継知 らしめすこと得じ」とのりたまひき。然れども大后(オホキサキ)を始めて諸(モロ モロ)の卿(マヘツギミ)等(タチ)、堅く奏(マヲ)すによりて、すなはち天(ア メ)の下治(シ)らしめしき。この時、新良(シラギ)の国主(コニキシ)、御調 (ミツキ)八十一艘(ヤソアマリヒトフネ)を貢進(タテマツ)りき。ここに御調 (ミツキ)の大使(オホキツカヒ)、名を金波鎮漢紀武(コンハチンカンキム)とい ふ、この人深く薬方(クスリノミチ)を知れり。かれ、帝皇(スメラミコト)の御病 (ミヤマヒ)を治差(ヲサ)めまつりき。 ここに天皇、天(アメ)の下の氏氏(ウヂウヂ)名名(ナナ)の人等(ドモ)の氏姓 (ウヂカバネ)の忤(タガ)ひ過(アヤマ)てるを愁(ウレ)へたまひて、味白梼 (アマカシ)の言(コト)八十禍津日(ヤソマガツヒ)の前(サキ)に、くか瓮 (ヘ)を据(ス)ゑて、天の下の八十友緒(ヤソトモノヲ)の氏姓(ウヂカバネ)を 定めたまひき。また木梨之軽(キナシノカルノ)太子(ヒツギノミコ)の御名代(ミ ナシロ)として、軽部(カルベ)を定め、大后(オホキサキ)の御名代として刑部 (オサカベ)を定め、大后(オホキサキ)の弟(イロド)田井中比売(タヰノナカツ ヒメ)の御名代として河部(カハベ)を定めたまひき。天皇の御年(ミトシ)、漆拾 捌歳(ナナソヂアマリヤトセ)。甲午(キノエノウマ)の年の正月(ムツキ)十五日 (トヲアマリイツカ)に崩(カムアガ)りましき。御陵(ミハカ)は河内(カフチ) の恵賀(ヱガ)の長枝(ナガエ)にあり。 −−−−− 石王版「古事記」104 −−−−− 3 軽太子(カルノミコ)と軽大郎女(カルノオホイラツメ) 天皇(スメラミコト)崩(カムアガ)りましし後(ノチ)、木梨之軽(キナシノカル ノ)太子(ヒツギノミコ)、日継(ヒツギ)知らしめすに定まれるを、未だ位に即 (ツ)きたまはざりし間(アヒダ)に、そのいろ妹(モ)軽大郎女(カルノオホイラ ツメ)に○<「奸」の「女」の下に「女」>(タハ)けて歌ひて曰はく、 あしひきの 山田(ヤマダ)を作り 山高(ダカ)み 下樋(シタヒ)をわしせ 下 (シタ)どひに 我(ワ)がとふ妹(イモ)を 下(シタ)泣(ナ)きに 我(ワ) が泣く妻を こぞこそは 安く肌触れ《79》 こは志良宜歌(シラゲウタ)なり。また歌ひて曰はく、 笹葉(ササハ)に 打つや霰(アラレ)の たしだしに 率(ヰ)寝(ネ)てむ後 (ノチ)は 人は離(カ)ゆとも 愛(ウルハ)しと さ寝(ネ)しさ寝てば 刈薦 (カリコモ)の 乱(ミダ)れば乱れ さ寝しさ寝てば《80》 こは夷振(ヒナブリ)の上歌(アゲウタ)なり。 ここをもちて百官(モモノツカサ)また天下(アメノシタ)の人ども、軽(カルノ) 太子(ヒツギノミコ)に背(ソム)きて、穴穂御子(アナホノミコ)に帰(ヨ)り き。ここに軽太子畏(カシコ)みて、大前(オホマヘ)小前(ヲマヘノ)宿禰(スク ネ)の大臣(オホオミ)の家に逃げ入りて、兵器(ツハモノ)を備へ作りたまひき。 その時に作りし矢は、その箭(ヤ)の内を銅(アカガネ)にせり。かれ、その矢を号 (ナヅ)けて軽箭(カルヤ)と謂(イ)ふ。穴穂王子もまた兵器(ツハモノ)を作り たまひき。この王子の作りし矢は、すなはち今時(イマ)の矢なり。こを穴穂箭(ア ナホヤ)と謂(イ)ふ。ここに穴穂御子、軍(イクサ)を興して大前(オホマヘ)小 前(ヲマヘノ)宿禰(スクネ)の家を圍(カク)みたまひき。ここにその門に到りま しし時、大氷雨(オホヒサメ)零(フ)りき。かれ、歌ひて曰はく、 大前(オホマヘ) 小前(ヲマヘ)宿禰(スクネ)が 金門(カナト)蔭(カゲ)  かく寄り来(コ)ね 雨立ち止(ヤ)めむ《81》 ここにその大前(オホマヘ)小前(ヲマヘノ)宿禰(スクネ)、手を挙(ア)げ膝 (ヒザ)を打ち、○<にんべんに「舞」>(マ)ひかなで歌ひ参(マヰ)来(ク)。 その歌に曰(イ)はく、 宮人(ミヤヒト)の 脚結(アユヒ)の小鈴(コスズ) 落ちにきと 宮人とよむ  里人(サトビト)もゆめ《82》 この歌は宮人振(ミヤビトブリ)なり。 かく歌ひ参(マヰ)帰(キ)て白(マヲ)さく、「我が天皇(オホキミ)の御子、同 母兄(イロエ)の王(ミコ)に兵(イクサ)をな及(ヤ)りたまひそ。もし兵(イク サ)を及(ヤ)りたまはば、必ず人咲(ワラ)はむ。僕(アレ)捕へて貢進(タテマ ツ)らむ」とまをしき。ここに兵(イクサ)を解きて退(ソ)き坐(イマ)しき。か れ、大前小前宿禰、その軽太子を捕ヘて、率(ヰ)て参(マヰ)出(デ)て貢進(タ テマツ)りき。 その太子(ヒツギノミコ)、捕へらえて歌ひて曰はく、 あまだむ 軽(カル)の嬢子(ヲトメ) いた泣かば 人知りぬべし 波佐(ハサ) の山の 鳩(ハト)の 下泣きに泣く《83》 また歌ひて曰はく、 あまだむ 軽(カル)嬢子(ヲトメ) したたにも 寄り寝てとほれ 軽(カル)嬢 子(ヲトメ)ども《84》 かれ、その軽太子は伊余(イヨ)の湯に流しまつりき。また、流さえたまはむとせし 時歌ひて曰はく、 天(アマ)飛ぶ 鳥も使(ツカヒ)そ 鶴(タヅ)が音(ネ)の 聞(キコ)えむ時 は 我(ワ)が名問はさね《85》 この三歌は天田振(アマタブリ)なり。また歌ひて日はく、 王(オホキミ)を 島に放(ハブ)らば 船(フナ)余(アマ)り い帰(カヘ)り 来(コ)むぞ わが畳(タタミ)ゆめ 言(コト)をこそ 畳と言はめ 我が妻はゆ め《86》 この歌は夷振(ヒナブリ)の片下(カタオロ)しなり。その衣通王(ソトホリノミ コ)、歌を献(タテマツ)りき。その歌に曰はく、 夏草(ナツクサ)の あひねの浜の 蠣(カキ)貝(カヒ)に 足踏ますな あかし て通れ《87》 かれ、後(ノチ)にまた恋ひ慕(シノ)ひ堪(ア)へずて追ひ往く時、歌ひて曰は く、 君が往(ユ)き 日(ケ)長くなりぬ 山たづの 迎へを行かむ 待つには待たじ  ここに山たづと云ふは、これ今の造木(ミヤツコギ)なり《88》 かれ、追ひ到りし時、待ち懐(オモ)ひて歌ひて曰はく、 隠(コモ)りくの 泊瀬(ハツセ)の山の 大峰(オホヲ)には 幡(ハタ)張 (ハ)り立(タ)て さ小峰(ヲヲ)には 幡張り立て 大峰(オホヲ)よし 仲定 める 思ひ妻あはれ 槻弓(ツクユミ)の 臥(コ)やる臥(コ)やりも 梓弓(ア ヅサユミ) 起(タ)てり起(タ)てりも 後(ノチ)も取り見る 思ひ妻あはれ 《89》 また歌ひて曰はく、 隠(コモ)りくの 泊瀬(ハツセ)の河の 上(カミ)つ瀬に 斎杙(イクヒ)を打 ち 下(シモ)つ瀬に 真杙(マクヒ)を打ち 斎杙には 鏡を懸(カ)け 真杙に は 真玉(マタマ)を懸け 真玉如(ナ)す 吾(ア)が思(モ)ふ妹(イモ) 鏡 如(ナ)す 吾が思ふ妻 ありと言はばこそよ 家(イヘ)にも行かめ 国をも偲 (シノ)はめ《90》 かく歌ひて、すなはち共に自ら死にたまひき。かれ、この二歌(フタウタ)は読歌 (ヨミウタ)なり。 −−−−− 石王版「古事記」105 −−−−− 安康(アンカウ)天皇 1 大日下王(オホクサカノミコ)と根臣(ネノオミ) 御子(ミコ)穴穂御子(アナホノミコ)、石上(イソノカミ)の穴穂宮(アナホノミ ヤ)に坐(イマ)して、天の下治(シ)らしめしき。天皇、いろ弟(ド)大長谷王子 (オホハツセノミコ)の為に、坂本臣(サカモトノオミ)等の祖(オヤ)、根臣(ネ ノオミ)を、大日下王(オホクサカノミコ)の許(モト)に遣はして、詔(ノ)らし めたまはく、「汝(イマシ)命(ミコト)の妹(イロモ)、若日下王(ワカクサカノ ミコ)を、大長谷王子に婚(ア)はせむと欲(オモ)ふ。かれ貢(タテマツ)るべ し」とのらしめたまひき。 ここに大日下王、四たび拝(ヲロガ)みて白(マヲ)さく、「若(モ)しかかる大命 (オホミコト)もあらむかと疑(オモ)ひき。かれ外(ト)に出(イ)ださずて置き つ。これ恐(カシシ)し。大命の随(マニマ)に奉進(タテマツ)らむ」とまをし き。 然れども言(コト)を以(モ)ちて白(マヲ)す事、それ礼(ヰヤ)無(ナ)しと思 ひて、すなはちその妹の礼物(ヰヤジロ)として、押木(オシキ)の玉縵(タマカヅ ラ)を持たしめて献(タテマツ)りき。根臣(ネノオミ)、すなはちその礼物(ヰヤ ジロ)の玉縵(タマカヅラ)を盗み取りて、大日下王(オホクサカノミコ)を讒(ヨ コ)して曰はく、「大日下王は勅命(オホミコト)を受けずて『己が妹や、等(ヒ ト)し族(ウカラ)の下席(シタムシロ)にならむ』と曰(イ)ひて、横刀(タチ) の手上(タカミ)を取りて怒りましき」といひき。 かれ、天皇大(イタ)く怨みまして、大日下王を殺して、その王の嫡妻(ムカヒ メ)、長田大郎女(ナガタノオホイラツメ)を取り持ち来て、皇后(オホキサキ)と したまひき −−−−− 石王版「古事記」106 −−−−− 2 目弱王(マヨワノミコ) これより以後(ノチ)、天皇神牀(カムトコ)に坐(イマ)して昼寝(ヒルイ)した まひき。ここにその后に語りて曰(ノ)りたまはく、「汝(イマシ)思ほす所あり や」とのりたまへば、答へて曰(マヲ)したまはく、「天皇の敦(アツ)き沢(メグ ミ)を被(カガフ)りて何か思ふ所あらむ」と曰(マヲ)したまふ。 ここにその大后の先の子、目弱王(マヨワノミコ)、これ年七歳(ナナトセ)なり き。この王(ミコ)、その時に当りて、その殿の下に遊べり。ここに天皇、その少 (ワカ)き王の殿の下に遊べるを知らさずて、大后に詔(ノ)りて言ひたまはく、 「吾(ア)は恒(ツネ)に思ふ所あり。何ぞといへば、汝(イマシ)の子日弱王、人 と成りたらむ時、吾がその父王を殺せしを知らば、還りて邪(キタナ)き心あらむと するか」とのりたまひき。 ここにその殿の下に遊べる目弱王、この言(コト)を聞き取りて、すなはち天皇の御 (ミ)寝(ネ)しませるを窃(ヒソ)かに伺ひて、その傍(カタヘ)の大刀(タチ) を取りて、すなはちその天皇の頸(クビ)を打ち斬りて都夫良意富美(ツブラオホ ミ)の家に逃げ入りき。天皇の御年、伍拾陸歳(イソヂアマリムトセ)。御陵(ミハ カ)は菅原(スガハラ)の伏見岡(フシミノヲカ)にあり。 ここに大長谷王子(オホハツセノミコ)、当時(ソノカミ)童男(ヲグナ)にましけ るが、すなはちこの事を聞きたまひて、慷愾(イキドホ)り忿怒(イカ)りて、すな はちその兄(イロエ)黒日子王(クロヒコノミコ)の許(モト)に到りて曰(マヲ) したまはく「人天皇を取りつ。那何(イカ)にか為(セ)まし」と曰したまひき。然 るにその黒日子王驚かずて怠緩(オホロカ)なる心あり。ここに大長谷王その兄を詈 (ノ)りて言はく、「一つには天皇にまし、一つには兄弟にますを、何(ナ)ぞ恃 (タノ)む心も無くて、その兄を殺せしことを聞きて驚かずて、怠(オホロカ)な る」といひて、すなはち衿(コロモノクビ)を握(ト)りて控(ヒ)き出(イ)で て、刀(タチ)を抜き打ち殺したまひき、 また、その兄(イロエ)白日子王(シロヒコノミコ)に到りて状(アリサマ)を告ぐ ること前(サキ)の如くなりしに、緩(オホロカ)なることもまた黒日子王の如くな りき。すなはち、その衿を握(ト)りて引き率(ヰ)て来て、小治田(ヲハリダ)に 到りて、穴を掘りて立ち随(ナガラ)に埋みしかば、腰を埋む時に至りて両(フタ) つの目走り抜けて死にき。 また軍(イクサ)を興(オコ)して都夫良意美(ツブラオミ)の家を囲(カク)みた まひき。ここに軍を興して待ち戦ひて、射出づる矢芦(アシ)の如く来たり散りき。 ここに大長谷王矛(ホコ)を以(モチ)て杖(ツヱ)となし、その内(ウチ)を臨 (ノゾ)みて詔(ノ)りたまはく、「我(ワ)が相(アヒ)言(イ)へる嬢子(ヲト メ)はもしこの家にありや」と詔りたまひき。ここに都夫良意美、この詔命(オホミ コト)を聞きて自(ミヅカ)ら参(マヰ)出(デ)て、佩(ハ)ける兵(ツハモノ) を解きて、八度拝(ヲロガ)みて白(マヲ)さく、「先の日問ひたまひし女子(ムス メ)、訶良比売(カラヒメ)は侍(サモラ)はむ。また五処(イツトコロ)の屯宅 (ミヤケ)を副(ソ)へて献(タテマツ)らむ。いはゆる五村(イツムラ)の屯宅 (ミヤケ)は今の葛城の五村の苑人(ソノビト)なり 然るにその正身(タダミ)参(マヰ)向(ムカ)はざる所以(ユヱ)は、往古(イニ シヘ)より今時(イマ)に至るまで、臣(オミ)連(ムラジ)の王(ミコ)の宮に隠 ることは聞けど、未だ王子(ミコ)の臣(オミ)の家に隠りまししことは聞かず。是 を以ちて思ふに、賎(イヤ)しき奴(ヤツコ)意富美(オホミ)は力を竭(ツク)し て戦ふとも更に勝つべきこと無けむ。然れども、己を恃(タノ)みて陋(イヤ)しき 家に入り坐(イマ)しし王子(ミコ)は、死ぬとも棄てまつらじ」とまをす。 かく白(マヲ)して、またその兵(ツハモノ)を取りて還り入りて戦ひき。ここに力 窮(キハ)まり矢尽きぬればその王子に白さく、「僕(ア)は手悉(コトゴト)に傷 (オ)ひ、矢もまた尽きぬ。今は得(エ)戦はじ。如何(イカ)にせむ」とまをし き。その王子(ミコ)答へて詔(ノ)りたまはく、「然らば更に為(セ)むすべな し。今は吾(ア)を殺(シ)せよ」とのりたまひき。かれ、刀を以ちてその王子を刺 し殺し、すなはち己が頸(クビ)を切りて死にき。 −−−−− 石王版「古事記」107 −−−−− 3 市辺之忍歯王(イチノベノオシハノミコ) これより以後(ノチ)、淡海(アフミ)の佐々紀(ササキ)の山君(ヤマノキミ)の 祖(オヤ)、名は韓○<「代」の下に「巾」>(カラブクロ)白(マヲ)さく、「淡 海の久多綿(クタワタ)の蚊屋野(カヤノ)は多(サハ)に猪鹿(シシ)あり。その 立てる足は荻原の如く、指挙(ササ)げたる角(ツノ)は枯松の如し」とまをしき。 この時、市辺之忍歯王(イチノベノオシハノミコ)を相(アヒ)率(ヰ)て、淡海 (アフミ)に幸行(イデマ)して、その野に到(イタ)れば各(オノモオノモ)異 (コト)に仮宮を作りて宿りましき。 ここに明くる旦(アシタ)、未だ日出(イ)でざりし時、忍歯王(オシハノミコ)平 (ツネ)の心もちて、御馬に乗りし随(マニマ)に大長谷王の仮宮の傍に到り立たし て、その大長谷王子の御伴人に詔(ノ)りたまはく、「未だ寤(サ)めまさざるか。 早く白(マヲ)すべし。夜は既に曙(ア)けぬ。○<けものへんに「葛」>庭(カリ ニハ)に幸(イデマ)すべし」とのりたまひて、すなはち馬を進めて出で行きたまひ き。 ここにその大長谷王の御所(ミモト)に侍(サモラ)ふ人等白さく、「うたて物言ふ 王子(ミコ)なり。かれ慎しみたまふべし。また御身を堅めたまふべし」とまをし き。すなはち衣(ミソ)の中に甲(ヨロヒ)を服(ケ)し、弓矢を取り佩(ハ)き て、馬に乗りて出で行きたまひ、○<「倏」の「犬」の代わりに「火」>忽(タチマ チ)の間に馬より往き雙(ナラ)びて、矢を抜きてその忍歯王を射落して、すなはち またその身を切りて馬○<木へんに「宿」>(ウマブネ)に入れて土と等しく埋みた まひき。 ここに市辺王(イチノベノミコ)の王子(ミコ)等(タチ)、意祁王(オケノミコ) ・袁祁王(ヲケノミコ)二柱、この乱れを聞きて逃げ去りたまひき。かれ、山代の苅 羽井(カリバヰ)に到りて御粮(ミカレヒ)食(ヲ)す時、面黥(メサ)ける老人来 てその粮(カレヒ)を奪ひき。ここにその二はしらの王(ミコ)言(ノ)りたまは く、「粮(カレヒ)は惜しまず。然れども汝(ナ)は誰人(タレ)ぞ」とのりたまへ ば、答へて曰はく、「我は山代の猪甘(ヰカヒ)ぞ」といひき。かれ、玖須婆(クス バ)の河を逃げ渡りて針間国(ハリマノクニ)に到り、その国人、名は志自牟(シジ ム)の家に入りて身を隠して馬甘(ウマカヒ)・牛甘(ウシカヒ)に○<にんべんに 「殳」>(ツカ)はえたまひき。 −−−−− 石王版「古事記」108 −−−−− 雄略(ユウリャク)天皇 1 后妃と御子 大長谷若建命(オホハツセワカタケノミコト)、長谷(ハツセ)の朝倉宮(アサクラ ノミヤ)に坐(イマ)して天(アメ)の下(シタ)治(シ)らしめしき。天皇(スメ ラミコト)、大日下王(オホクサカノミコ)の妹(イロモ)、若日下部王(ワカクサ カベノミコ)を娶(メト)したまひき。子無し。また都夫良意富美(ツブラオホミ) の女(ムスメ)、韓比売(カラヒメ)を娶(メト)して生みましし御子、白髪命(シ ラカノミコト)、次に妹(イモ)若帯比売命(ワカタラシヒメノミコト)。二柱。か れ、白髪(シラカノ)太子(ヒツギノミコ)の御名代(ミナシロ)として白髪部(シ ラカベ)を定め、また長谷部(ハツセベ)の舎人(トネリ)を定め、また河瀬の舎人 (トネリ)を定めたまひき。この時、呉人(クレヒト)参(マヰ)渡(ワタ)り来 ぬ。その呉人を呉原(クレハラ)に安置(オ)きたまひき。かれ、その地(トコロ) を号(ナヅ)けて呉原(クレハラ)と謂(イ)ふ。 −−−−− 石王版「古事記」109 −−−−− 2 若日下部王(ワカクサカベノミコ) 初め大后日下(クサカ)に坐(イマ)しし時、日下の直越(タダゴエ)の道より河内 (カフチ)に幸行(イデマ)しき。ここに山の上に登りて国内(クヌチ)を望(ミ サ)けたまへば、堅魚(カツヲ)を上げて舎家(ヤ)を作れる家ありき。天皇その家 を問はしめて云(ノ)りたまはく、「その堅魚を上げて舎(ヤ)を作れるは誰(タ) が家ぞ」とのりたまへば答へて白(マヲ)さく、「志幾(シキ)の大県主(オホアガ タヌシ)の家なり」とまをしき。 ここに天皇詔(ノ)りたまはく、「奴(ヤツコ)や、己が家を天皇の御舎(ミアラ カ)に似せて造れり」とのりたまひて、すなはち人を遣はして其の家を焼かしめたま ふ時、その大県主(オホアガタヌシ)懼(オ)ぢ畏(カシコ)みて稽首(ノミ)白 (マヲ)さく、「奴にあれば奴ながらに覚(サト)らずて過(アヤマ)ち作りしは甚 (イト)畏(カシコ)し。かれ、稽首(ノミ)の御幣(ミマヒ)の物を献らむ」とま をして、布を白き犬に○<「執」の下に「糸」>(カ)け、鈴を着けて、己が族(ウ ガラ)名は腰佩(コシハキ)と謂(イ)ふ人に犬の縄を取らしめて献上(タテマツ) りき。かれその火を着くることを止(ヤ)めしめたまひき すなはちその若日下部王(ワカクサカベノミコ)の許(モト)に幸行(イデマ)し て、その犬を賜ひ入れて詔(ノ)らしめたまはく、「この物は今日道に得つる奇(メ ヅラ)しき物ぞ。かれつまどひの物」と云ひて賜ひ入れたまひき。 ここに若日下部王、天皇に奏(マヲ)さしめたまはく、「日に背(ソム)きて幸行 (イデマ)しし事甚(イト)恐(カシコ)し。かれ己(オノレ)ただに参(マヰ)上 (ノボ)りて仕へ奉らむ」とまをさしめたまひき ここをもちて宮に還(カヘ)り上ります時、その山の上の坂に行き立たして歌曰(ウ タ)ひたまはく 日下部(クサカベ)の 此方(コチ)の山と 畳(タタミ)薦(コモ) 平群(ヘグ リ)の山の 此方(コチ)此方(コチ)の 山の峡(カヒ)に 立ち栄(サカ)ゆる  葉広(ハビロ)熊白梼(クマカシ) 本(モト)には いくみ竹(ダケ)生ひ 末 方(スヱヘ)には たしみ竹(ダケ)生ひ いくみ竹 いくみは寝(ネ)ず たしみ 竹 たしには率(ヰ)寝(ネ)ず 後(ノチ)もくみ寝(ネ)む その思(オモ)ひ 妻(ヅマ) あはれ《91》 と歌ひたまひき。すなはちこの歌を持たしめて使を返したまひき。 −−−−− 石王版「古事記」110 −−−−− 3 赤猪子(アカヰコ) また一時(アルトキ)天皇遊び行(イデマ)して美和河(ミワガハ)に到りましし 時、河の辺に衣洗ふ童女(ヲトメ)ありき。その容姿(カタチ)甚(イト)麗(ウル ハ)しくありき。天皇その童女に問ひたまはく、「汝(イマシ)は誰(タ)が子ぞ」 と問ひたまへば、答へて白(マヲ)さく、「己が名は引田部(ヒケタベ)の赤猪子 (アカヰコ)と謂(マヲ)す」とまをしきここに詔(ノ)らしめたまはく、「汝(イ マシ)は夫(ヲ)に嫁(ア)はざれ。今喚(メ)さむ」とのらしめたまひて宮に還 (カヘ)りましき かれ、その赤猪子、天皇の命(ミコト)を仰ぎ待ちて既に八十歳(ヤソトセ)を経 (ヘ)たり。ここに赤猪子以為(オモ)へらく「命(ミコト)を望(アフ)ぎし間 に、已(スデ)に多(アマタ)の年を経て、姿体(スガタ)痩(ヤ)せ萎(シボ)み て更に恃(タノ)む所無し。然れども待ちつる情(ココロ)を顕(アラハ)さずては 悒(イブセ)きに忍びず」とおもひて、百取(モモトリ)の机代(ツクヱシロ)の物 を持たしめて参(マヰ)出(デ)て貢献(タテマツ)りき。 然るに天皇、既(スデ)に先(サキ)に命(ノ)らしし事を忘らして、その赤猪子 (アカヰコ)に問ひて曰(ノ)りたまはく「汝(イマシ)は誰(タ)が老女(オミ ナ)ぞ。何のゆゑに参(マヰ)来(キ)つる」とのりたまひき。ここに赤猪子(アカ ヰコ)答へて白(マヲ)さく、「その年のその月、天皇の命を被(カガフ)りて、大 命(オホミコト)を仰(アフ)ぎ待ちて今日に至るまで八十歳(ヤソトセ)を経 (ヘ)ぬ。今は容姿(カタチ)既に耆(オ)いて更に恃(タノ)む所無し。然れども 己が志を顕(アラハ)し白(マヲ)さむとして参(マヰ)出(デ)つるのみ」とまを しき。 ここに天皇大(イタ)く驚きて、「吾は既に先の事を忘れたり。然るに汝は志を守り 命(ミコト)を待ちて、徒(イタヅラ)に盛りの年を過しつること、これ甚(イト) 愛悲(カナ)し」とのりたまひて、心の裏(ウチ)に婚(メ)さむと欲(オモ)ほせ ど、その極めて老いて婚(マグハ)ひを得(エ)成(ナ)したまはぬを悼(イタ)み て、御歌を賜ひき。 その歌に曰(イ)はく、 御諸(ミモロ)の 厳(イツ)白梼(カシ)がもと 白梼(カシ)がもと ゆゆしき かも 白梼原(カシハラ)童女(ヲトメ)《92》 とうたひたまひき。また歌曰(ウタ)ひたまはく、 引田(ヒケタ)の 若栗栖原(ワカクルスバラ) 若くへに 率(ヰ)寝(ネ)てま しもの 老いにけるかも《93》 とうたひたまひき。ここに赤猪子の泣く涙、悉(コトゴト)にその服(ケ)せる丹 (ニ)摺(ズ)りの袖(ソデ)を湿(ヌ)らしつ。その大御歌(オホミウタ)に答へ て歌ひていはく、 御諸(ミモロ)に つくや玉垣(タマカキ) つき余(アマ)し 誰(タ)にかも依 (ヨ)らむ 神の宮人(ミヤヒト)《94》 とうたひき。また歌ひていはく、 日下江(クサカエ)の 入江の蓮(ハチス) 花蓮(ハナバチス) 身の盛(サカ) り人(ビト) 羨(トモ)しきろかも《95》 とうたひき。ここにその老女(オナミ)に多(アマタ)の禄(モノ)を給ひて返し遣 りたまひき。かれ、この四歌は志都歌(シツウタ)なり。 −−−−− 石王版「古事記」111 −−−−− 4 吉野の童女(ヲトメ) 天皇(スメラミコト)、吉野(ヨシノ)の宮に幸行(イデマ)しし時、吉野の川の浜 (ホトリ)に童女(ヲトメ)ありき。その形姿(カタチ)美麗(ウルハ)しくあり き。かれ、この童女に婚(マグハ)ひして宮に還(カヘ)りいましき。 後、更にまた吉野に幸行(イデマ)しし時、その童女(ヲトメ)の遇(ア)ひし所に 留(トド)まりまして、其処に大御呉床(オホミアグラ)を立てて、その御呉床(ミ アグラ)に座(イマ)して御琴(ミコト)を弾きて、その嬢子(ヲトメ)に○<にん べんに「舞」>(マヒ)せしめたまひき。ここにその嬢子の好(ヨ)く○<にんべん に「舞」>(マ)へるによりて御歌を作(ヨ)みたまひき。その歌に曰(イ)はく、 呉床居(アグラヰ)の 神の御手(ミテ)もち 弾(ヒ)く琴(コト)に ○<にん べんに「舞」>(マヒ)する女(ヲミナ) 常世(トコヨ)にもがも《96》 すなはち阿岐豆野(アキヅノ)に幸(イデマ)して、御○<けものへんに「葛」> (ミカリ)したまひし時、天皇御呉床(ミアグラ)に坐(イマ)しき。ここに○<虫 へんに「囗」の中に「ヌ」>(アム)御腕(ミタダムキ)を咋(ク)ふ、即ち蜻蛉 (アキヅ)来てその○<虫へんに「囗」の中に「ヌ」>(アム)を咋ひて飛びき。こ こに御歌を作(ヨ)みたまひき。その歌に曰(イ)はく、 み吉野(エシノ)の をむろが嶽(タケ)に 猪鹿(シシ)伏(フ)すと 誰(タ) れそ 大前(オホマヘ)に 奏(マヲ)す やすみしし 我(ワ)が大君(オホキ ミ)の 猪鹿(シシ)待つと 呉床(アグラ)に坐(イマ)し 白○<木へんに 「孝」の「子」の代わりに「丁」>(シロタヘ)の 衣手(ソテ)着(キ)そなふ  手腓(タコムラ)に ○<虫へんに「囗」の中に「ヌ」>(アム)かきつき その○ <虫へんに「囗」の中に「ヌ」>(アム)を 蜻蛉(アキヅ)はや咋(グ)ひ かく の如(ゴト) 名は負(オ)はむと そらみつ 倭(ヤマト)の国を 蜻蛉島(アキ ヅシマ)とふ《97》 かれ、その時よりその野を号(ナヅ)けて阿岐豆野(アキヅノ)と謂(イ)ふ。 −−−−− 石王版「古事記」112 −−−−− 5 葛城(カヅラキ)の一言主大神(ヒトコトヌシノオホカミ) また一時(アルトキ)、天皇(スメラミコト)葛城の山の上に登り幸(イデマ)し き。ここに大猪(オホヰ)出(イ)でき。すなはち天皇鳴鏑(ナリカブラ)をもち て、その猪を射たまひし時、その猪(ヰ)怒りてうたき依り来つ。かれ、天皇そのう たきを畏(カシコ)みて、榛(ハリノキ)の上に登りましき。ここに歌ひて曰はく、 やすみしし わが大君(オホキミ)の 遊(アソ)ばしし 猪(シシ)の 病(ヤ ミ)猪(シシ)の うたき 畏(カシコ)み わが逃(ニ)げ登(ノボ)りし あり をの 榛(ハリノキ)の枝《98》 とうたひたまひき。 また一時(アルトキ)、天皇葛城山(カヅラキヤマ)に登り幸(イデマ)しし時、百 官(モモノツカサ)の人等、悉(コトゴト)く紅(アカ)き紐(ヒモ)着けし青摺 (アヲズリ)の衣を給はりて服(キ)たり。 その時、その向へる山の尾より山の上に登る人ありき。既に天皇(スメラミコト)の 鹵簿(ミユキ)に等しく、またその装束(ヨソヒ)の状(サマ)、また人衆(ヒトド モ)、相似て傾(カタヨ)らざりき。ここに天皇望(ミサ)けまして曰(ノ)りたま はく、「この倭国(ヤマトノクニ)に吾を除(オ)きて王(キミ)は無きを、今誰人 (タガヒト)そかくて行く」とのりたまへば、すなはち答へて曰(マヲ)す状(サ マ)もまた天皇(スメラミコト)の命(ミコト)の如し。ここに天皇大(イタ)く忿 (イカ)りて、矢刺したまひ、百官(モモノツカサ)の人等悉(コトゴト)矢刺し き。ここにその人等もまた皆矢刺しき。 かれ、天皇また問ひて曰(ノ)りたまはく、「然らばその名を告(ノ)れ。すなはち 各(オノモオノモ)名(ナ)を告りて矢を弾(ハナ)たむ」とのりたまひき。ここに 答へて曰(マヲ)さく、「吾(アレ)先に問はえき。かれ、吾先に名告(ノ)りせ む。吾は悪事(マガゴト)も一言(ヒトコト)、善事(ヨゴト)も一言、言ひ離(ハ ナ)つ神、葛城(カヅラキ)の一言主(ヒトコトヌシ)の大神なり」とまをしき。天 皇ここに惶(オソ)れ畏(カシコ)みて白(マヲ)したまはく、「恐(カシコ)し。 我が大神。うつしおみならむとは覚(サト)らざりき」と白して、大御刀(オホミタ チ)また弓矢を始めて、百官(モモノツカサ)の人等の服(ケ)せる衣服を脱がしめ て、拝(ヲロガ)み献(タテマツ)りたまひき。 ここにその一言主大神(ヒトコトヌシノオホカミ)、手打ちてそのたてまつり物を受 けたまひき。かれ天皇還(カヘ)り幸(イデマ)す時、その大神山の末に満ちて長谷 (ハツセ)の山の口に送り奉(マツ)りき。かれ、この一言主の大神はその時に顕 (アラ)はれたまひしなり。 −−−−− 石王版「古事記」113 −−−−− 6 天語歌(アマガタリウタ) また天皇、丸邇(ワニ)の佐都紀臣(サツキノオミノ)の女(ムスメ)、袁杼比売 (ヲドヒメ)を婚(ヨバ)ひに、春日(カスガ)に幸行(イデマ)しし時、媛女(ヲ トメ)道に逢ひき。すなはち幸行(イデマシ)を見て、岡辺(ヲカノヘ)に逃げ隠 (カク)りき。かれ、御歌を作(ヨ)みたまひき。その歌に曰(イ)はく、 媛女(ヲトメ)の い隠(カク)る岡(ヲカ)を 金○<金へんに「且>(カナス キ)も 五百箇(イホチ)もがも ○<金へんに「且>(ス)きはぬるもの《99》 とうたひたまひき。かれ、その岡を号(ナヅ)けて金○<金へんに「且>岡(カナス キノヲカ)と謂(イ)ふ。 また天皇、長谷(ハツセ)の百枝(モモエ)槻(ツキ)の下に坐(イマ)して、豊楽 (トヨノアカリ)したまひし時、伊勢国(イセノクニ)の三重(ミヘ)の○<女へん に「采>(ウネメ)、大御盞(オホミサカヅキ)を指挙(ササ)げて献(タテマツ) りき。ここにその百枝(モモエ)槻(ツキ)の葉落ちて、大御盞(オホミサカヅキ) に浮きき その○<女へんに「采」>(ウネメ)、落葉の盞(サカヅキ)に浮かべるを知らず て、なほ大御酒(オホミキ)を献(タテマツ)りき。天皇、その盞に浮かべる葉を看 行(ミソナ)はして、その○<女へんに「采」>(ウネメ)を打ち伏せ、刀(タチ) をもちてその頸(クビ)にさしあてて、斬(キ)らむとしたまひし時、その○<女へ んに「采」>(ウネメ)天皇に白(マヲ)して曰(イ)はく、「吾が身をな殺(コ ロ)したまひそ。白(マヲ)すべき事あり」とまをして、すなはち歌ひて曰はく、 纒向(マキムク)の 日代(ヒシロ)の宮は 朝日(アサヒ)の 日照(ヒデ)る宮  夕日(ユフヒ)の 日がける宮 竹(タケ)の根の 根垂(ネダル)宮 木(コ) の根の 根ばふ宮 八百土(ヤホニ)よし い築(キヅ)きの宮 真木(マキ)さく 桧(ヒ)の御門(ミカド)新嘗屋(ニヒナヘヤ)に 生(オ)ひ 立(ダ)てる 百足(モモダ)る 槻(ツキ)が枝(エ)は 上(ホ)つ枝(エ)は  天(アメ)を覆(オ)へり 中(ナカ)つ枝(エ)は 東(アヅマ)を覆(オ)へ り 下枝(シヅエ)は 鄙(ヒナ)を覆(オ)へり 上(ホ)つ枝(エ)の 枝 (エ)の末葉(ウラバ)は 中(ナカ)つ枝(エ)に 落(オ)ち触(フ)らばへ  中(ナカ)つ枝(エ)の 枝(エ)の末葉(ウラバ)は 下(シモ)つ枝(エ)に  落(オ)ち触(フ)らばへ 下枝(シヅエ)の 枝(エ)の末葉(ウラバ)は あり 衣(キヌ)の 三重(ミヘ)の子が 指挙(ササ)がせる 瑞玉盞(ミヅタマウキ) に 浮きし脂(アブラ) 落(オ)ちなづさひ 水(ミナ)こをろこをろに こしも  あやにかしこし 高(タカ)光(ヒカ)る 日(ヒ)の御子(ミコ)事(コト)の  語(カタ)り言(ゴト)も 是(コ)をば《100》 と歌ひき。かれ、この歌を献(タテマツ)りしかばその罪を赦(ユル)したまひき。 ここに大后(オホキサキ)歌ひたまひき。その歌に曰(イ)はく、 倭(ヤマト)の この高市(タケチ)に 小高(コダカ)る 市(イチ)のつかさ  新嘗屋(ニヒナヘヤ)に 生(オ)ひ立(ダ)てる 葉広(ハビロ) ゆつ真椿(マ ツバキ) そが葉の 広(ヒロ)りいまし その花の 照りいます 高光る 日の御 子(ミコ)に 豊御酒(トヨミキ) 献(タテマツ)らせ 事(コト)の 語(カ タ)り言(ゴト)も 是(コ)をば《101》 とうたひたまひき。すなはち天皇歌ひたまひて曰はく、 ももしきの 大宮人(オホミヤヒト)は 鶉鳥(ウヅラトリ) 領巾(ヒレ)とりか けて 鶺鴒(マナバシラ) 尾(ヲ)行き合(ア)へ 庭雀(ニハスズメ) うずす まり居て 今日(ケフ)もかも 酒(サカ)みづくらし 高光る 日の宮人(ミヤヒ ト) 事の 語り言(ゴト)も 是(コ)をば《102》 とうたひたまひき。この三歌は天語歌(アマガタリウタ)なり。かれ、この豊楽(ト ヨノアカリ)にその三重(ミヘノ)○<女へんに「采」>(ウネメ)を誉(ホ)めて 多(アマタ)の禄(モノ)給ひき。この豊楽(トヨノアカリ)の日、また春日(カス ガ)の袁杼比売(ヲドヒメ)、大御酒(オホミキ)を献(タテマツ)りし時、天皇歌 ひたまひて曰(イ)はく、 みなそそく 臣(オミ)の嬢子(ヲトメ) 秀吹iホダリ)取(ト)らすも 秀 (ホダリ)とり 堅(カタ)く取(ト)らせ 下(シタ)堅(ガタ)く 弥(ヤ)堅 (ガタ)く 取らせ秀吹iホダリ)とらす子《103》 とうたひたまひき。こは宇岐歌(ウキウタ)なり。ここに袁杼比売(ヲドヒメ)、歌 を献(タテマツ)りき。その歌に曰(イ)はく、 やすみしし わが大王(オホキミ)の 朝(アサ)とには い倚(ヨ)り立(ダ)た し 夕(ユフ)とには い倚(ヨ)り立(ダ)たす 脇机(ワキヅキ)が下の 板に もが あせを《104》 といひき。こは志都歌(シツウタ)なり。 天皇の御年、一百二十四歳(モモチアマリハタチアマリヨトセ)。己巳年(ツチノト ノミノトシ)、八月九日に崩(カムアガ)りましき。御陵(ミハカ)は河内(カヒ チ)の多治比(タヂヒ)の高○<「亶」の右に「鳥」(タカワシ)にあり。 −−−−− 石王版「古事記」114 −−−−− 清寧(セイネイ)天皇 1 二皇子発見 御子(ミコ)白髪大倭根子命(シラカノオホヤマトネコノミコト)、伊波礼(イハ レ)の甕栗宮(ミカクリノミヤ)に坐(イマ)して天(アメ)の下治(シ)らしめし き。この天皇(スメラミコト)、皇后(オホキサキ)無く、亦(マタ)御子も無かり き。かれ、御名代(ミナシロ)に白髪部(シラカベ)を定めたまひき。かれ、天皇崩 (カムアガ)りましし後、天の下治らしめすべき王(ミコ)無かりき。 是(ココ)に日継(ヒツギ)知らす王(ミコ)を問ふに、市辺忍歯別王(イチノベノ オシハワケノミコ)の妹(イロモ)、忍海郎女(オシヌミノイラツメ)、亦の名は飯 豊王(イヒトヨノミコ)、葛城(カヅラキ) にの忍海(オシヌミ)の高木(タカキ)の角刺宮(ツノサシノミヤ)に坐(イマ)し き。 ここに山部連(ヤマベノムラジ)小楯(ヲダテ)、針間国(ハリマノクニ)の宰(ミ コトモチ)に任(マ)けし時、その国の人民(オホミタカラ)、名は志自牟(シジ ム)の新室(ニヒムロ)に到りて楽(ウタゲ)しき。是(ココ)に盛(サカ)りに楽 (ウタゲ)して酒(サケ)酣(タケナハ)にして、次第(ツギテ)をもちて皆○<に んべんに「舞」>(マ)ひき かれ、火(ヒ)焼(タ)きの少子(ワラハ)二口(フタリ)竈(カマ)の傍(カタハ ラ)に居たり。その少子(ワラハ)等に○<にんべんに「舞」>(マ)はしめき。こ こにその一(ヒトリ)の少子(ワラハ)曰(イ)はく、「汝兄(ナセ)先(マ)づ○ <にんべんに「舞」>(マ)へ」といへば、その兄(セ)も曰はく「汝弟(ナオト) 先づ○<にんべんに「舞」>(マ)へ」といひき。かく相譲る時、その会(ツド)へ る人等、その相譲る状(サマ)を咲(ワラ)ひき。ここに遂に兄(セ)○<にんべん に「舞」>(マ)ひ訖(ヲ)へて、次に弟(オト)○<にんべんに「舞」>(マ)は むとする時、詠(ウタ)ひて曰はく、 物部(モノノフ)の わが夫子(セコ)が 取り佩(ハ)ける 大刀(タチ)の手上 (タカミ)に 丹(ニ)画(カ)き着(ツ)け その緒(ヲ)は 赤幡(アカハタ) を載(ノ)せ 赤幡を 立てて見れば い隠る 山の三尾(ミヲ)の 竹をかき苅 (カ)り 末(スヱ)押しなびかすなす 八絃(ヤツヲ)の琴を 調べたるごと 天 (アメ)の下治(ヲサ)めたまひし 伊耶本和気(イザホワケ)の 天皇(スメラミ コト)の御子(ミコ) 市辺(イチノベ)の 押歯王(オシハノミコ)の 奴末(ヤ ツコズヱ) といひき。ここに、即ち小楯連(ヲダテノムラジ)聞き驚きて、床(トコ)より堕 (オ)ちまろびて、その室(ムロ)の人等を追ひ出(イダ)して、その二柱の王子 (ミコ)を左(ヒダリ)右(ミギ)の膝(ヒザ)の上に坐(イマ)せまつり、泣き悲 しびて、人民(オホミタカラ)を集(ツド)へて仮宮(カリミヤ)を作り、その仮宮 に坐せまつり置きて、駅(ハユマ)使(ヅカヒ)を貢上(タテマツ)りき。その姨 (ヲバ)飯豊王(イヒトヨノミコ)、聞き歓(ヨロコ)びたまひて宮に上(ノボ)ら しめたまひき。 石王版「古事記」115 −−−−− 2 袁祁命(ヲケノミコト)と志毘臣(シビノオミ) かれ、天の下治らしめさむとせし間(アヒダ)に、平群臣(ヘグリノオミ)の祖(オ ヤ)、名は志毘臣(シビノオミ)、歌垣(ウタガキ)に立ちて、その袁祁命(ヲケノ ミコト)の婚(ヨバ)はむとしたまふ美人(ヲトメ)の手を取りき。その娘子(ヲト メ)は菟田首(ウダノオビト)等(ラ)の女(ムスメ)、名は大魚(オフヲ)なり。 ここに袁祁命(ヲケノミコト)も歌垣に立ちたまひき。ここに志毘臣(シビノオミ) 歌ひて曰く、 大宮(オホミヤ)の をとつ端手(ハタデ) 隅(スミ)傾(カタブ)けり《10 5》 と歌ひき。かく歌ひて、その歌の末(スヱ)を乞(コ)ひし時、袁祁命(ヲケノミコ ト)歌ひたまひて曰く、 大匠(オホタクミ) をぢなみこそ 隅(スミ)傾(カタブ)けれ《106》 とうたひたまひき。ここに志毘臣(シビノオミ)また歌ひて曰く、 王(オホキミ)の 心をゆらみ 臣(オミ)の子(コ)の 八重(ヤヘ)の柴垣(シ バカキ) 入(イ)り立(タ)たずあり《107》 と歌ひき。ここに王子(ミコ)また歌ひたまひて曰く、 潮瀬(シホセ)の 波(ナ)折(ヲ)りを見れば 遊(アソ)び来(ク)る 鮪(シ ビ)が端手(ハタテ)に 妻(ツマ)立(タ)てり見ゆ《108》 と歌ひたまひき。ここに志毘臣いよよ怒りて歌ひて曰く、 王(オホキミ)の 御子(ミコ)の柴垣(シバカキ) 八節(ヤフ)結(ジマ)り  結(シマ)りもとほし 切(キ)れむ柴垣 焼けむ柴垣《109》 と歌ひき。ここに王子また歌ひたまひて曰く、 大魚(オフヲ)よし 鮪(シビ)突(ツ)く海人(アマ)よ しがあれば 心(ウ ラ)恋(ゴホ)しけむ 鮪(シビ)突(ツ)く鮪(シビ)《110》 かく歌ひて、闘(カガ)ひ明して各(オノモオノモ)退(ソ)きぬ。 明くる旦(アシタ)の時、意祁命(オケノミコト)、袁祁命(ヲケノミコト)の二 柱、議(ハカ)りて云(ノ)りたまはく、「凡(オホヨ)そ朝庭(ミカド)の人等 は、旦(アシタ)は朝庭(ミカド)に参(マヰ)赴(オモム)き、昼(ヒル)は志毘 (シビ)の門に集(ツド)へり。また今は、志毘必ず寝(イ)ねたらむ。またその門 に人無(ナ)けむ。かれ、今にあらずは謀(ハカ)るべきこと難(カタ)けむ」との りたまひて、即ち軍(イクサ)を興(オコ)して志毘臣の家を囲(カク)みて、すな はち殺したまひき。 ここに二柱の王子(ミコ)等(タチ)、各(オノモオノモ)天(アメ)の下を相譲り たまひき。意祁命(オケノミコト)、その弟(イロド)袁祁命(ヲケノミコト)に譲 りて曰(ノ)りたまはく、「針間の志自牟(シジム)が家に住みし時、汝(イマシ) 命(ミコト)名を顕(アラハ)したまはずありせば、更に天(アメ)の下に臨(ノ ゾ)む君にあらずあらまし。これ既(スデ)に汝(イマシ)命(ミコト)の功(イサ ヲ)なり。かれ、吾(ア)は兄(アニ)にあれども、なほ汝(イマシ)命(ミコト) 先づ天(アメ)の下治らしめせ」とのりたまひて、堅く譲りたまひき。かれ、辞(イ ナ)び得ずて袁祁命(ヲケノミコト)先づ天の下治らしめしき。 −−−−− 石王版「古事記」116 −−−−− 顕宗(ケンゾウ)天皇 1 置目(オキメ)の老媼(オミナ) 伊弉本別王(イザホワケノミコ)の御子、市辺忍歯王(イチノベノオシハノミコ)の 御子、袁祁(ヲケ)の石巣別命(イハスワケノミコト)、近(チカ)つ飛鳥宮(アス カノミヤ)に坐(イマ)して天(アメ)の下治(シ)らしめすこと捌歳(ヤトセ)な り。天皇、石木王(イハキノミコ)の女、難波王(ナニハノミコ)を娶(メト)し て、子无(ナ)かりき。 この天皇(スメラミコト)、その父王市辺王(イチノベノミコ)の御骨(ミカバネ) を求めたまふ時、淡海国(アフミノクニ)にある賎(イヤ)しき老媼(オミナ)参 (マヰ)出(デ)て白(マヲ)さく、「王子(ミコ)の御骨を埋みし所は専(モハ) ら吾(アレ)能(ヨ)く知れり。また、その御歯を以(モ)ちて知るべし。御歯は三 枝(サキクサ)の如き押歯(オシハ)に坐(イマ)しき」とまをしき。ここに民を起 して土を掘り、その御骨を求めたまひき。すなはちその御骨を獲(エ)て、その蚊屋 野(カヤノ)の東の山に御陵(ミハカ)を作りて葬(ハブ)りまつりたまひ、韓○ <「代」の下に「山」>(カラブクロ)が子等(ドモ)を以(モ)ちてその御陵を守 らしめたまひき。然る後にその御骨を持ち上りたまひき。 かれ、還(カヘ)り上り坐(イマ)してその老媼(オミナ)を召し、その見失はず貞 (タダ)しくその地(トコロ)を知りしを誉(ホ)めて、名を賜ひて置目老媼(オキ メノオミナ)と号(ナヅ)けたまひき。すなはち宮の内に召し入れて、敦(アツ)く 広く慈(メグ)み賜ひき。かれその老媼(オミナ)の住める屋は宮の辺(ヘ)に近く 作りて、日毎(ゴト)に召したまひき。かれ、鐸(ヌリテ)を大殿の戸に懸けて、そ の老媼を召さむと欲(オモ)ほす時は必ずその鐸(ヌリテ)を引き鳴らしたまひき。 ここに御歌を作りたまひき。その歌に曰(ノ)りたまはく、 浅茅原(アサヂハラ) 小谷(ヲダニ)を過ぎて 百(モモ)伝(ヅタ)ふ 鐸(ヌ テ)響(ユラ)くも 置目(オキメ)来(ク)らしも《111》 とのりたまひき。ここに置目老媼白(マヲ)さく、「僕(ア)れ甚(イト)老いた り。本(モト)つ国に退(マカ)らむと欲(オモ)ふ」とまをしき。かれ、白(マ ヲ)せる随(マニマ)に退(マカ)る時、天皇見送りて歌ひたまひて曰(イ)はく、 置目(オキメ)もや 淡海(アフミ)の置目 明日(アス)よりは み山隠(ガク) りて 見えずかもあらむ《112》 と歌ひたまひき。 初め天皇難(ワザハヒ)に逢ひて逃げたまひし時、その御粮(ミカレヒ)を奪ひし猪 甘(ヰカヒ)の老人(オキナ)を求めたまひき。是れ求め得て喚上(メサ)げて、飛 鳥河(アスカガハ)の河原に斬(キ)りて、皆その族(ウガラ)の膝(ヒザ)の筋を 断(タ)ちたまひき。是をもちて、今に至るまでその子孫(ウミノコ)、倭(ヤマ ト)に上る日は必ず跛(アシナヘ)くなり。かれ、能(ヨ)くその老(オキナ)の在 (ア)り所(カ)を見しめき。かれその地を志米須(シメス)と謂(イ)ふ。 −−−−− 石王版「古事記」117 −−−−− 2 御陵(ミハカ)の土 天皇(スメラミコト)、その父王を殺したまひし大長谷天皇(オホハツセノスメラミ コト)を深く怨(ウラ)みたまひて、その霊(ミタマ)に報いむと欲(オモ)ほし き。かれ、その大長谷天皇の御陵(ミハカ)を毀(コボ)たむと欲(オモ)ほして、 人を遣(ツカ)はす時、そのいろ兄(セ)意祁命(オケノミコト)奏言(マヲ)した まはく、「この御陵を破(ヤ)り壊(コボ)つは他人(アダシヒト)を遣はすべから ず。専(モハ)ら僕(ア)れ自(ミヅカ)ら行きて、天皇の御心の如く、破り壊ちて 参(マヰ)出(デ)む」とまをしたまひき。 ここに天皇詔(ノ)りたまはく、「然(シカ)らば命(ミコト)の随(マニマ)に幸 行(イデマ)すべし」とのりたまふ。是(ココ)を以ちて意祁命、自(ミヅカ)ら下 り幸(イデマ)して、その御陵の傍(カタヘ)を少し掘りて、還(カヘ)り上りて復 (カヘリゴト)奏言(マヲ)したまはく、「既に掘り壊(コボ)ちつ」とまをしたま ふ。ここに天皇、その早く還り上らししことを異(アヤ)しびて詔(ノ)りたまは く、「如何(イカ)にか破(ヤ)り壊(コボ)ちたまひし」とのりたまふ。答(コ タ)へて白(マヲ)したまはく、「その陵(ハカ)の傍(カタヘ)の土を少し掘り つ」とまをしたまふ。 天皇詔りたまはく、「父王の仇(アタ)を報いむと欲(オモ)へば必ず悉(コトゴ ト)その陵を破り壊たむに、何とかも少し掘りつる」とのりたまふ。答へて白(マ ヲ)したまはく「然(シカ)為(セ)し所以(ユヱ)は、父王の怨をその霊(ミタ マ)に報いむと欲(オモ)ほすは是(コ)れ誠に理(コトワリ)なり。然あれども、 その大長谷天皇(オホハツセノスメラミコト)は父の怨(ウラミ)なれども、還(カ ヘ)りてはわが従父(ヲヂ)なり。また天(アメ)の下治(シ)らしめしし天皇な り。ここに今単(ヒトヘ)に父の仇(アタ)といふ志をとりて悉(コトゴト)天(ア メ)の下治(シ)らしめしし天皇の陵(ハカ)を破りなば、後の人必ず誹謗(ソシ) らむ。唯(タダ)父王の仇は報いずあるべくあらず。かれ、その陵の辺(ヘ)を少し 掘りつ。既にこの恥(ハヅカシメ)を(モ)以ちて後の世に示すに足らむ」とまをし たまひき。 かく奏(マヲ)したまへば、天皇(スメラミコト)答へて詔(ノ)りたまはく「是 (コ)も大(イタ)く理(コトワリ)なり。命(ミコト)の如くにて可(ヨ)し」と のりたまひき。 かれ、天皇崩(カムアガ)りまして、即ち、意祁命(オケノミコト)天津日続(アマ ツヒツギ)知らしめしき。天皇の御年、参拾捌歳(ミソヂアマリヤトセ)。天の下治 らしめすこと八歳(ヤトセ)なり。御陵は片崗(カタヲカ)の石坏崗(イハツキノヲ カ)の上(ヘ)に在(ア)り。 −−−−− 石王版「古事記」118 −−−−− 仁賢(ニンケン)天皇 袁祁王(ヲケノミコ)の兄(イロエ)、意祁王(オケノミコ)、石上(イソノカミ) の広高宮(ヒロタカノミヤ)に坐(イマ)して、天(アメ)の下治(シ)らしめし き。 天皇(スメラミコト)、大長谷若建天皇(オホハツセワカタケノスメラミコト)の御 子、春日大郎女(カスガノオホイラツメ)を娶(メト)して生みましし御子、高木郎 女(タカギノイラツメ)、次に財郎女(タカラノイラツメ)、次に久須毘郎女(クス ビノイラツメ)、次に手白髪郎女(タシラカノイラツメ)、次に小長谷若雀命(ヲハ ツセノワカサザキノミコト)、次に真若王(マワカノミコ)。また丸邇(ワニ)の日 爪臣下(ヒツマノオミ)の女(ムスメ)、糠若子郎女(ヌカノワクゴノイラツメ)を 娶(メト)して生みましし御子、春日山田郎女(カスガノヤマダノイラツメ)。この 天皇(スメラミコト)の御子、并(アハ)せて七柱。 この中に小長谷若雀命(ヲハツセノワカサザキノミコト)は、天(アメ)の下治 (シ)らしめしき。 −−−−− 石王版「古事記」119 −−−−− 武烈(ブレツ)天皇 小長谷若雀命(ヲハツセノワカサザキノミコト)、長谷(ハツセ)の列木宮(ナミキ ノミヤ)に坐(イマ)して、天(アメ)の下治(シ)らしめすこと捌歳(ヤトセ)な りき。この天皇(スメラミコト)、太子(ヒツギノミコ)无(ナ)かりき。かれ、御 子代(ミコシロ)として小長谷部(ヲハツセベ)を定めたまひき。御陵(ミハカ)は 片崗(カタオカ)の石坏崗(イハツキノヲカ)にあり。 天皇既(スデ)に崩(カムアガ)りまして、日続(ヒツギ)知らすべき王(ミコ)無 かりき。かれ、品太(ホムダノ)天皇の五世(イツツギ)の孫(ヒコ)、袁本杼命 (ヲホドノミコト)を近淡海国(チカツアフミノクニ)より上り坐(イマ)さしめ て、手白髪命(タシラカノミコト)に合(アハ)せて、天(アメ)の下を授け奉(マ ツ)りき。 −−−−− 石王版「古事記」120 −−−−− 継体(ケイタイ)天皇 品太王(ホムダノミコ)の五世(イツツギ)の孫(ヒコ)、袁本杼命(ヲホドノミコ ト)、伊波礼(イハレ)の玉穂宮(タマホノミヤ)に坐(イマ)して、天(アメ)の 下治(シ)らしめしき。 天皇(スメラミコト)、三尾君(ミヲノキミ)等(ラ)の祖(オヤ)、名は若比売 (ワカヒメ)を娶(メト)して生みましし御子(ミコ)、大郎子(オホイラツコ)、 次に出雲郎女(イヅモノイラツメ)。二柱。また尾張連(ヲハリノムラジ)等(ラ) の祖(オヤ)凡連(オホシノムラジ)の妹(イモ)、目子郎女(メノコノイラツメ) を娶(メト)して生みましし御子、広国押建金日命(ヒロクニオシタケカナヒノミコ ト)、次に建小広国押楯命(タケヲヒロクニオシタテノミコト)。二柱。また意祁 (オケノ)天皇の御子、手白髪命(タシラカノミコト)。こは大后なり。を娶(メ ト)して生みましし御子、天国押波流岐広庭命(アメクニオシハルキヒロニハノミコ ト)。一柱。また息長真手王(オキナガマテノミコ)の女(ムスメ)、麻組郎女(ヲ クミノイラツメ)を娶(メト)して生みましし御子、佐佐宜郎女(ササゲノイラツ メ)。一柱。 また坂田大俣王(サカタノオホマタノミコ)の女(ムスメ)、黒比売(クロヒメ)を 娶(メト)して生みましし御子、神前郎女(カムサキノイラツメ)、次に田郎女(タ ノイラツメ)、次に白坂活日子郎女(シラサカノイクヒコノイラツメ)、次に野郎女 (ノノイラツメ)、亦(マタ)の名は長目比売(ナガメヒメ)。四柱。また三尾君 (ミヲノキミ)加多夫(カタブ)の妹(イモ)、倭比売(ヤマトヒメ)を娶(メト) して生みましし御子、大郎女(オホイラツメ)、次に丸高王(マロコノミコ)、次に 耳王(ミミノミコ)、次に赤比売郎女(アカヒメノイラツメ)。四柱。また安倍之波 延比売(アヘノハエヒメ)を娶(メト)して生みましし御子、若屋郎女(ワカヤノイ ラツメ)、次に都夫良郎女(ツブラノイラツメ)、次に阿豆王(アツノミコ)。三 柱。この天皇の御子(ミコ)等(タチ)、并(アハ)せて十九王(トヲアマリココノ ハシラ)なり。男(ヒコ)七(ナナハシラ)、女(ヒメ)十二(トヲアマリフタハシ ラ)。 この中に、天国押波流岐広庭命(アメクニオシハルキヒロニハノミコト)は、天(ア メ)の下治(シ)らしめしき。つぎに広国押建金日命(ヒロクニオシタケカナヒノミ コト)、天(アメ)の下治(シ)らしめしき。つぎに建小広国押楯命(タケヲヒロク ニオシタテノミコト)、天(アメ)の下治(シ)らしめしき。つぎに佐々宜王(ササ ゲノミコ)は、伊勢神宮(イセノカムミヤ)を拝(イツ)きたまひき。 この御世(ミヨ)に、筑紫君(ツクシノキミ)石井(イハヰ)、天皇の命(ミコト) に従はずて、礼(ヰヤ)無(ナ)きこと多かりき。かれ、物部(モノノベノ)荒甲之 大連(アラカヒノオホムラジ)・大伴金村連(オホトモノカナムラノムラジ)二人を 遣(ツカ)はして、石井(イハヰ)を殺したまひき。 天皇の御年(ミトシ)、肆拾参歳(ヨソヂアマリミトセ)。丁未(ヒノトノヒツジ) の年の四月(ウヅキ)九日に崩(カムアガ)りましき。御陵(ミハカ)は三島(ミシ マ)の藍陵(アヰノミササギ)なり。 −−−−− 石王版「古事記」121 −−−−− 安閑(アンカン)天皇 御子(ミコ)、広国押建金日王(ヒロクニオシタケカナヒノミコ)、勾(マガリ)の 金箸宮(カナハシノミヤ)に坐(イマ)して、天(アメ)の下治(シ)らしめしき。 この天皇(スメラミコト)、御子無かりき。乙卯(キノトノウ)の年の三月(ヤヨ ヒ)十三日(トヲアマリミカ)に崩(カムアガ)りましき。御陵(ミハカ)は河内 (カフチ)の古市(フルイチ)の高屋村(タカヤノムラ)にあり。 −−−−− 石王版「古事記」122 −−−−− 宣化(センクワ)天皇 弟(イロド)、建小広国押楯命(タケヲヒロクニオシタテノミコト)、檜○<つちへ んに「冂」の中に「口」>(ヒノクマ)の廬入野宮(イホリノノミヤ)に坐(イマ) して、天(アメ)の下治(シ)らしめしき。 天皇(スメラミコト)、意祁天皇(オケノスメラミコト)の御子、橘之中比売命(タ チバナノナカツヒメノミコト)を娶(メト)して生みましし御子、石比売命(イシヒ メノミコト)、次に小石比売命(ヲイシヒメノミコト)、次に倉之若江王(クラノワ カエノミコ)。また川内之若子比売(カフチノワクゴヒメ)を娶(メト)して生みま しし御子、火穂王(ホノホノミコ)、次に恵波王(ヱハノミコ)。この天皇の御子 (ミコ)等(タチ)、并(アハ)せて五王(イツハシラ)なり。男(ヒコ)三(ミハ シラ)、女(ヒメ)二(フタハシラ)。かれ、火穂王(ホノホノミコ)は、志比陀君 (シヒダノキミ)の祖(オヤ)なり。恵波王(ヱハノミコ)は、韋那君(ヰナノキ ミ)・多治比君(タヂヒノキミ)の祖(オヤ)なり。 −−−−− 石王版「古事記」123 −−−−− 欽明(キンメイ)天皇 弟(オト)、天国押波流岐広庭天皇(アメクニオシハルキヒロニハノスメラミコ ト)、師木島(シキシマ)の大宮(オホミヤ)に坐(イマ)して、天(アメ)の下治 (シ)らしめしき。 天皇、桧○<「炯」の火へんの代わりに土へん>(ヒノクマノ)天皇の御子、石比売 命(イシヒメノミコト)を娶(メト)して生みましし御子、八田王(ヤタノミコ)、 次に沼名倉太玉敷命(ヌナクラフトタマシキノミコト)、次に笠縫王(カサヌヒノミ コ)。三柱。またその弟(イロド)小石比売命(ヲイシヒメノミコト)を娶(メト) して生みましし御子、上王(カミノミコ)。一柱。また春日(カスガ)の日爪臣(ヒ ツマノオミ)の女(ムスメ)、糠子郎女(ヌカゴノイラツメ)を娶(メト)して生み ましし御子、春日山田郎女(カスガノヤマダノイラツメ)、次に麻呂古王(マロコノ ミコ)、次に宗賀之倉王(ソガノクラノミコ)。三柱。 また宗賀(ソガ)の稲目宿禰大臣(イナメノスクネノオホオミ)の女(ムスメ)、岐 多斯比売(キタシヒメ)を娶(メト)して生みましし御子、橘之豊日命(タチバナノ トヨヒノミコト)、次に妹(イモ)石○<「炯」の火へんの代わりに土へん>王(イ ハクマノミコ)、次に足取王(アトリノミコ)、次に豊御気炊屋比売命(トヨミケカ シキヤヒメノミコト)、次にまた麻呂古王(マロコノミコ)、次に大宅王(オホヤケ ノミコ)、次に伊美賀古王(イミガコノミコ)、次に山代王(ヤマシロノミコ)、次 に妹(イモ)大伴王(オホトモノミコ)、次に桜井之玄王(サクラヰノユミハリノミ コ)、次に麻怒王(マノノミコ)、次に橘本之若子王(タチバナノモトノワクゴノミ コ)、次に泥杼王(ネドノミコ)。十三柱。 また岐多志毘売命(キタシビメノミコト)の姨(ヲバ)、小兄比売(ヲエヒメ)を娶 (メト)して生みましし御子、馬木王(ウマキノミコ)、次に葛城王(カヅラキノミ コ)、次に間人穴太部王(ハシヒトノアナホベノミコ)、次に三枝部穴太部王(サキ クサベノアナホベノミコ)、またの名は須売伊呂杼(スメイロド)、次に長谷部若雀 命(ハツセベノワカサザキノミコト)。五柱。凡(オホヨ)そこの天皇の御子等(タ チ)、并(アハ)せて廿五王(ハタチアマリイツハシラ)なり。 この中に、沼名倉太玉敷命(ヌナクラフトタマシキノミコト)は、天(アメ)の下治 (シ)らしめしき。次に橘之豊日命(タチバナノトヨヒノミコト)、天(アメ)の下 治(シ)らしめしき。次に豊御気炊屋比売命(トヨミケカシキヤヒメノミコト)、天 (アメ)の下治(シ)らしめしき。次に長谷部之若雀命(ハツセベノワカサザキノミ コト)、天(アメ)の下治(シ)らしめしき。并(アハ)せて四柱(ヨハシラ)、天 (アメ)の下治(シ)らしめしき。 −−−−− 石王版「古事記」124 −−−−− 敏達(ビダツ)天皇 御子(ミコ)、沼名倉太玉敷命(ヌナクラフトタマシキノミコト)、他田宮(ヲサダ ノミヤ)に坐(イマ)して、天(アメ)の下治(シ)らしめすこと十四歳(トヲアマ リヨトセ)なりき。 この天皇(スメラミコト)、庶妹(ママイモ)豊御食炊屋比売命(トヨミケカシキヤ ヒメノミコト)を娶(メト)して生みましし御子、静貝王(シヅカヒノミコ)、また の名は貝鮹王(カヒタコノミコ)、次に竹田王(タケダノミコ)、またの名は小貝王 (ヲカヒノミコ)、次に小治田王(ヲハリダノミコ)、次に葛城王(カヅラキノミ コ)、次に宇毛理王(ウモリノミコ)、次に小張王(ヲハリノミコ)、次に多米王 (タメノミコ)、次に桜井玄王(サクラヰノユミハリノミコ)。八柱。また伊勢大鹿 首(イセノオホカノオビト)の女(ムスメ)、小熊子郎女(ヲグマコノイラツメ)を 娶(メト)して生みましし御子、布斗比売命地(フトヒメノミコト)、次に宝王(タ カラノミコ)、またの名は糠代比売王(ヌカデヒメノミコ)。二柱。また息長真手王 (オキナガマテノミコ)の女(ムスメ)、比呂比売命(ヒロヒメノミコト)を娶(メ ト)して生みましし御子、忍坂日子人太子(オシサカヒコヒトノヒツギノミコ)、ま たの名は麻呂古王(マロコノミコ)、次に坂騰王(サカノボリノミコ)、次に宇遅王 (ウヂノミコ)。三柱。 春日(カスガ)の中若子(ナカツワクゴ)の女(ムスメ)、老女子郎女(オミナコノ イラツメ)を娶(メト)して生みましし御子、難波王(ナニハノミコ)、次に桑田王 (クハタノミコ)、次に春日王(カスガノミコ)、次に大俣王(オホマタノミコ)。 四柱。この天皇の御子等(タチ)、并(アハ)せて十七王(トヲアマリナナハシラ) の中に、日子人太子(ヒコヒトノヒツギノミコ)、庶妹(ママイモ)田村王(タムラ ノミコ)、またの名は糠代比売命(ヌカデヒメノミコト)を娶(メト)して生みまし し御子、崗本宮(ヲカモトノミヤ)に坐(イマ)して、天(アメ)の下治(シ)らし めしし天皇(スメラミコト)、次に中津王(ナカツノミコ)、次に多良王(タラノミ コ)。三柱。 また漢王(アヤノミコ)の妹(イモ)、大俣王(オホマタノミコ)を娶(メト)して 生みましし御子、知奴王(チヌノミコ)、次に妹(イモ)桑田王(クハタノミコ)。 二柱。また庶妹(ママイモ)玄王(ユミハリノミコ)を娶(メト)して生みましし御 子、山代王(ヤマシロノミコ)、次に笠縫王(カサヌヒノミコ)。二柱。并(アハ) せて七王(ナナハシラ)なり。甲辰(キノエタツ)の年の四月(ウヅキ)六日(ムユ カ)に崩(カムアガ)りましき。御陵(ミハカ)は川内(カフチ)の科長(シナガ) にあり。 −−−−− 石王版「古事記」125 −−−−− 用明(ヨウメイ)天皇 弟(オト)、橘豊日王(タチバナノトヨヒノミコ)、池辺宮(イケノヘノミヤ)に坐 (イマ)して、天(アメ)の下治(シ)らしめすこと参歳(ミトセ)なりき。 この天皇(スメラミコト)、稲目(イナメノ)大臣(オホオミ)の女(ムスメ)、意 富芸多志比売(オホギタシヒメ)を娶(メト)して生みましし御子(ミコ)、多米王 (タメノミコ)。一柱。また庶妹(ママイモ)間人穴太部王(ハシヒトノアナホベノ ミコ)を娶(メト)して生みましし御子、上宮之厩戸豊聡耳命(ウヘノミヤノウマヤ トノトヨトミミノミコト)、次に久米王(クメノミコ)、次に植栗王(ヱクリノミ コ)、次に茨田王(マムタノミコ)。四柱。また当麻之倉首比呂(タギマノクラノオ ビトヒロ)の女(ムスメ)、飯女之子(イヒメノコ)を娶(メト)して生みましし御 子、当麻王(タギマノミコ)、次に妹(イモ)須加志呂古郎女(スカシロコノイラツ メ)。 この天皇(スメラミコト)、丁未(ヒノトノヒツジ)の年の四月(ウヅキ)十五日 (トヲアマリイツカ)に崩(カムアガ)りましき。御陵(ミハカ)は石寸(イハレ) の掖上(ワキガミ)にありしを、後に科長中陵(シナガノナカノミササギ)に遷(ウ ツ)しまつりき。 −−−−− 石王版「古事記」126 −−−−− 崇峻(スシュン)天皇 弟(オト)、長谷部若雀天皇(ハツセベノワカサザキノスメラミコト)、倉椅(クラ ハシ)の柴垣宮(シバカキノミヤ)に坐(イマ)して、天(アメ)の下治(シ)らし めすこと四歳(ヨトセ)なりき。壬子(ミヅノエネ)の年の十一月(シモツキ)十三 日(トヲアマリミカ)に崩(カムアガ)りましき。御陵(ミハカ)は倉椅崗(クラハ シノヲカ)の上(ヘ)にあり。 −−−−− 石王版「古事記」127 −−−−− 推古(スイコ)天皇 妹(イモ)、豊御食炊屋比売命(トヨミケカシキヤヒメノミコト)、小治田宮(ヲハ リダノミヤ)に坐(イマ)して、天(アメ)の下治(シ)らしめすこと卅七歳(ミソ ヂアマリナナトセ)なりき。戊子(ツチノエネ)の年の三月(ヤヨヒ)十五日(トヲ アマリイツカ)、癸丑(ミヅノトノウシ)の日に崩(カムアガ)りましき。 御陵(ミハカ)は大野崗(オホノノヲカ)の上(ヘ)にありしを、後に科長(シナ ガ)の大陵(オホミサギ)に遷(ウツ)しまつりき。 ***** 古事記(下) 完 ***** −−−−− 以上で古事記全巻(上巻・中巻・下巻)を終ります。 では。 ********** 石王 尚治 ********** Takaharu Ishioh URL http://www.biwa.ne.jp/~ishioh E-mail ishioh@mx.biwa.ne.jp *******************************