阿波と古事記 講演会資料

1 国生み神話について

 日本書紀には十一個の異なった伝承が載っています。各豪族や神社などに伝わっていた伝承をそのまま並べたようです。そのなかにはオノゴロ島だけのお話を別にした国生みの話は六つ、そうして古事記に一つ。
 日本書記の特徴は大日本豊秋津島の生まれた順序は殆どが淡路島の次ぎです。難波に王権があった頃に成立した神話のようです。
 そうして、越洲(コシノクニ)が登場しています。北陸のことでしょう。越洲がある場合、大日本豊秋津島は本州ではなく、本州の一部と言うことがわかります。所が第七、第九のように越洲を含まない神話もあります。越洲はオオクニヌシの時代から登場してくる古い土地です。翡翠が採れた地域です。越州を生んでいない場合には越州は大日本豊秋津島に含まれていると見るべきでしょう。

 次ぎに伊予の二名島、隠岐の三子島の解読にかかります。

阿波古事記さんの主張
 「徳島県が,古くは阿波といっていた」ということは知っているが,阿波といい始める以前に,イの国と呼ばれる時代があったことは,教えられていないし,思ってもいないのではないだろうか。しかし,古事記や日本書紀等の古い文献を読むと,阿波という前は,「イの国と呼ばれていた」と理解することができるのである。
 古事記や日本書紀などの古い文献をみると,四国は「伊予の二名島」あるいは「伊予の二名洲」等と書かれている。この「伊予の二名島」には,どういう意味があるのだろうか?  テレビの天気予報で,愛媛県を「東予…,中予…,南予…」と言っている。JRも予讃線・予土線と「予」を使い,また,古くから「予」を使っていることは,愛媛県史等の文献からも確認することができる。つまり,四国西部が,予の国と呼ばれていたことがわかってくる。四国西部が「予の国」ならば,四国東部は「イの国では…」と,想像してしまう。


 アイヌ語は縄文時代の言葉ですが、奈良時代にも、山の民や庶民、北や南の国の人々が語っていた言葉と思われます。アイヌ語で古代の日本語を解読しますと、実に明快に理解できる場合があります。大三元さんのHP参照。
 ○アイヌ語で、互いに 見る 結婚する これがアイヌ語のu-nu-kar オノコロ。
 ○ 烏 paskur pas-kur 走る人 ヤタガラス
 ○ 子宮産道 apa 淡路州を胞衣とした。
 ○ 櫛 kiray 喜来地名 神櫛王は讃岐国造の始祖。讃岐にも喜来地名があります。
 ○ 『阿波国風土記』倭建天皇が大御櫛笥を忘れたので、勝間という。粟人は櫛笥を勝間と言う。徳島にも喜来地名が多い。櫛に絡んでいるはず。
 板野郡松茂町中喜来  板野郡北島町新喜来 海部郡牟岐町橘字喜来
 名西郡神山町鬼篭野(オロノ)字喜来 阿波郡市場町大字上喜来 麻植郡鴨島町喜来



 いよいよ国生み神話の意味不明な所を説きます。大三元さんのHP参照。

 ○ 隠岐之三子島 アイヌ語 rep un sir。 repは沖と言う意味と三つと言うの意味があります。沖の島と三子島の洒落言葉。

 ○ 伊予之二名島 tu(二) re(名) sir 二つの名を持つ島。turesには妹や女の意味があります。妹を持つの意味。四国は大宜都比賣(阿波)と飯依比古(讃岐)、それに愛比賣(伊予)と建依別(土佐)と男女ペアの名前。言葉遊びでしょう。

 古事記では伊予之二名島に続いて、伊予国を愛比売と言うとあります。伊予国の場合には全四国を示してはいません。伊予で全四国を代表させているのです。古事記に隣接して書かれている「伊豫」は同じ意味でしょう。

 古事記研究で著名な本居宣長翁は二人が並んでいると解釈しています。男神と女神がペアになっているとの理解で、アイヌ語と同じ結論になっています。

 愛媛が温湯(ゆ)の国だったとして、それが予の国に変わってきたとしますと、さらに伊予になったと考える事が出来ます。その場合、「伊」は所謂発語でしょう。かけ声で「ヨ!」とする場合、「ィヨ!」とやったほうが発声しやすいですから。

 予国、豫国と言う表現で愛媛をあらわしている事例は「予章記」が14世紀末に見いだされますが、古事記、万葉集、日本書紀〜三代実録の六国史には出てきません。古代には予国、豫国の表示はなかったと言えるでしょう。そうしますと、伊の国との表示もなかったのです。

 伊予の二名島とは愛媛である伊予を四国の代表としたネーミングです。ここから伊国を取り出すのは論理的に無理があります。九州を築紫で代表させているのと同じです。

 四国東部を伊の国と言うことは、根拠のない憶測です。神話を論ずるにしても、このような根拠のない思いつきをいれるのは避けたいものです。本居宣長にしてもアイヌ語にしても、男女二名の島、妹を伴っていると正しく理解しています。

阿波古事記さんの説明図 伊の国予の国

 国生みのお話の中に、隠岐と佐渡を双子とし生まれている本文などがあります。「雙生億岐洲与佐度洲」となっています。与の文字は and で、及 なども使われます。伊と予とするなら、伊与予之二名島、伊及与之二名島とあればともかく、 伊予としてるし、次ぎに伊予国として愛比賣をあらわしています。伊予は伊予であって、伊と予とするのは恣意的過ぎる読み方だと思われます。
 強いて言えば、伊洲予洲之二名島とでもなっておれば、伊洲と予洲の二つの洲と言えるのかも知れませんが・・。

阿波古事記さんの説明図 伊の国

 さらに伊の国 だった傍証として 猪鼻など 猪のついた地名をあげていますが、伊は I 猪は WI 国会をコックァイと言った三木武夫さんを輩出した徳島の人が これではなさけない。古代の発音は焼酎と一緒、甲類 乙類があります。「井戸のゐ」も伊とはちがいます。
 伊の国 が ないので 徳島の東側を伊津面として出雲と呼んだこともありません。現に出雲地名は残っていないでしょう。和歌山、奈良、福岡、埼玉、大阪、長崎、大分、新潟、滋賀、山口、三重、京都と島根で13府県に出雲地名がありますが、四国には見あたりません。
 ましてや 伊の国を 飯の国 としていますが、これは い ではなく ひ です。伊の国と飯の国とはイタリアとフランス程の差があります。

 伊の国関係の話を引っ込めておかないと「阿波古事記」は『古事記』をじっくり読んだ人やちょっと古代の言語を勉強した人にとっては、とんでも説以前の説に聞こえます。古代史ファンの大半の人はこのくらいのことは知っています。このままでは大半の読者を失うことでしょう。伊の国のお話はこれくらいにしておきます。

阿波古事記さんの説明図 国生み範囲 黒い部分

 伊予は四国の代表、築紫は九州の代表、秋津島は本州の代表なのです。秋津島とはどこか、何故か、ですが、秋津島の秋とは広島県の安芸のことです。天孫(神武天皇)が最初に上陸した本州が安芸なのです。王権にとっては記念すべき土地です。それを本州の代表として秋津島と言ったのです。

 さて、古事記の国生みですが、越洲は生まれておらず、かつ大倭豊秋津島が国生みの最後に置かれています。各地の島々を書いてから最後に本州を大倭豊秋津島として生んだと思われます。古事記は、大宜都比賣など国の神の名などを載せて独特の伝承を持っています。海人が台所に持ち込んだ神話なども採録されているようです。さらにその上に神話に手を加えたような所もあるようです。
 本州には吉備も出雲も含まれます。天皇の正当な支配が及ぶ地域をリストアップしたのが古事記の国生み物語です。勿論越州も含まれています。

 大倭豊秋津島を岩波文庫は大和を中心とした畿内としていますが、物事がわかっていない注釈です。現に角川文庫や中央公論社の日本の歴史では本州としています。多数決で言っているわけではありません。

阿波古事記さんの主張 高天原
  徳島県の木屋平・神山周辺を高天原と見て,徳島県の海岸部(平野部)を出雲と当てはめて古事記を読めば,すなおに古事記の物語を読むことができる。

 高天原 阿波は国生みで生まれた四国の一部、そこに高天原があるのは説明がつかない矛盾。こんな話が出てくると皆さんは 眉に唾になります。クラインの壷のような話。なんぼ神話でもここまでの矛盾はやらないでしょう。大陸や半島、北海道とか沖縄、奄美大島などから。天御中主神、あまみんちゅう。

阿波古事記さんの主張 オノゴロ島 
  容器の中に入れた水と砂をかき回すと渦のあと容器の中心に砂が集まり島が形成された。  その結果,鳴門海峡に渦はできても渦の後に島ができるような場所はないので,周りが囲まれた地形で渦が巻くような条件にあてはまる場所を探すと徳島県美馬郡穴吹町の舞中島では?となった。  舞中島は,大河吉野川の上流約40kmの阿波町岩津の上流にある。

 オノゴロ島 出来かたは塩が固まった島で、海中か海岸を想定しているはず。塩では島が出来ないが、砂ならできると言うタライでの実験で砂だろうとするのは、神話の読み方としてはおかしいでしょう。
 吉野川の中流で砂がかたまったことにしようでは、あまりにも恣意的。

 
 2 神話の問題


 神話は神々の物語であって、史実を語っているのではなく、現状を神々の所作として説明しているのです。 神は人ではありません。記紀は、天皇家のこの国の統治・藤原氏の補佐などの正当化に大きい目的があったのです。実に政治的物語です。
 国生みと国譲りがポイントです。

出雲神話 出雲国造神賀詞 風土記 記紀 世界神話

 出雲風土記と記紀の出雲神話は同じ出雲の国の話です。記紀は出雲の情報が少ないのか、輸入された神話が並んでいます。風土記は紀に影響されていますが、出雲独自の伝承をきちっと書いていようです。

 布都怒志も登場して国巡りもしています。しかし武甕槌は一切登場していません。記紀には藤原不比等の介入が露骨だったのだろう。

 風土記特有の国引き神話の「もそろもそろに国来国来と引いた」。この表現は昔から語り継がれた伝承のように聞こえます。

 国譲りのお話は古代ローマ、ゲルマンの神話、インドの神話にもあります。
 1 天にいる祭祀と武力の神々と、地にいる生産労働の神々との間に争いが起こった。当初は生産労働の神々が富と性的魅力などによって、天側の神々を懐柔した。
 2.天の神々が地の神々を麻痺させる無敵の武器を投げることで挽回した。
 3.両者は和解。天の神々の統治権を認めるかわりに地の神々も仲間の神とし、互いに協力して世界を支配することになった。

 風土記も記紀も大国主が鎮まる国となります。国譲りの話が出雲神話のポイントです。国土開拓を行ってきた各地の大国主を全部纏めて王権に従わせる、記紀の大きい目的です。
 有名な八咫大蛇退治神話もペルセウス・アンドロメダ型神話としてギリシャア神話にもあるようです。
 稲葉の素兎のお話は、東南アジアに分布する「動物の知恵比べ」神話に属しています。

 また、イザナギの黄泉の国からの逃走の物語は、呪的逃走と言うこれまた世界に多い神話が適用されています。墓からの帰り道のありかたなどにつながります。
 イザナギの逃走については、「阿波古事記」はこの地名を見事に探し出しておられ、古事記の舞台は阿波とする一面があるようです。イザナミが葬られたのが出雲と伯耆の境の比婆山となっているのですが、かたや紀では紀州熊野の有馬とあります。なにも阿波の中で出雲や伯耆を探すのではなく、日本で唯一のイザナミ神社が鎮座しているではありませんか。

 古事記では、イザナギの神が黄泉の国から逃げ帰って橘の阿波岐原でミソギハライをしたとあります。ミゾギとハライを区別していません。イゾギとは水でケガレを落とすこと、ハライは罪を人形などでハラウことです。奈良時代にはミソギとハライを区別がつかなくなるようです。イザナギはミソギをしたのであって、ハライをする必要はなかったのです。新しく作った伝承かも知れません。

 3 辰砂 古代の阿波を語ろうとしますとこの視点が重要だと思います。HgS

辰砂 水銀の年表

 若杉山の辰砂の採掘は西暦100年頃から始まって古墳時代初期には尽きてしまったようです。それ以前にも阿波のどこかで採掘されていたようです。例えば神山町丹生山など。
 阿波の次には大和の宇陀の辰砂が注目されました。阿波の技術者が発見したのかも知れません。朱の防腐効果はよく知られていて、それが不老不死につながったのでしょう。また魔除けとしても重宝されていました。

 大陸の皇帝達は水銀でいろんな薬を調合して服用して長生きしようとしたようですが、実際は水銀で命を落とした王様が多かったようです。それは水銀そのものが悪いと言うことではなく、不純物が混ざっているからとして、日本の水銀が求められたようです。

 『魏志倭人伝』には、「其山有丹」とあります。また貰ったものに「丹五十斤」があります。福岡県前原市の古墳から大陸産と思われる辰砂3g強が出土しています。純度は高いそうです。

 神武、崇神、応神と「神」の名を持つ天皇達は皆大和を目指しました。何故大和なのか。夏は暑く、冬は底冷えのする。国中は湿地帯が多く、河内との国境の亀の瀬で土砂崩れがあれば一挙に湖になりかねない大和へよく来たものです。やはり辰砂が引きつけた魅力なのでしょう。

 余談ですが、朱の女神と言えば、高野山の麓の丹生都比売神ですが。大和では弥都波能売神が多いのです。阿波の水の神が多いのです。中央構造線を東に東に行った阿波の辰砂採掘の技術者が祀った神は弥都波能売神ははだったのです。彼らは大和の中央構造線を流れる川をやはり吉野川と名付けたのでしょう。

 4 神社と神々が語る古代の交流  丹後 摂津 阿波 豊受大神

阿波 丹後 摂津 の 交流

 阿波に和奈佐意富曾神社が鎮座しています。『丹後国風土記』に、この和奈佐の名を持つ老夫婦が丹後にいて、天女達が水浴びをしている所から、一人分の着る物を隠しました。天に戻れない天女は老夫婦の家で過ごすことになり、お酒を造りました。人の口の中にある麹菌で発酵させますので、ご飯にして噛んだものをためて発酵させるのです。3日後位にお酒になります。昔は突然酒を飲みたいと思っても3日待ってもらう必要があったのです。酒になる飯を噛むのは若い娘の仕事でした。

 このお酒が万病に効くと言うことで夫婦は大金持ちになり、挙げ句の果てに天女を追い出してしまいました。この天女が豊受大神になったとの伝承です。
 豊受大神の伝承は丹後の海部が阿波に持ち込んだ可能性があります。海人の和奈佐と言う一族がやってきて氏神として和奈佐意富曾神社を祀ったと理解できます。
 またこの和奈佐夫婦とはイザナギ・イザナミと見なされたの説もあるようです。

 『播磨国風土記』によりますと、仁徳天皇の皇子である履中天皇が天皇になる前に阿波の和名佐に来ています。シジミを食べたようです。
 『出雲風土記』に、阿波枳閇委奈佐比古命の名がでてきます。阿波から来たそうです。

 丹後には天橋立があります。イザナギ・イザナミが天に通うための梯子であって、それが倒れたとの他愛もない話がついています。阿波には天橋立を思わせる天椅立神社が鎮座しています。

 丹後と阿波、天村雲神は丹後一宮の籠神社に伝わっている国宝の『海部氏系図』に、始祖の火明命の孫として天村雲神が出ています。この神を祭る神社がやはり阿波にあります。天村雲神伊自波夜比賣神社と言う神社です。別の名を天五多底命と言います。この名前は素盞嗚尊の御子神で植樹の神である五十猛神を思わせます。素盞嗚尊が八咫大蛇の尻尾から取りだした剣を天叢雲剣と言いますが、この剣を御子神と見てもいいのでしょう。五十猛神は紀の国の国魂です。大宜都比賣が阿波の国魂であるようにです。
 鳴門市土佐泊 新羅神社  徳島市北山・丈六 熊野神社  方上 森神社

 丹後からは浦島伝説がお隣の讃岐に来ているようです。

 豊受大神は元々摂津にいて、丹後に遷って、そこから阿波へ、また伊勢へ行ったのでしょう。浦島伝説も住吉大社に伝わっています。丹後、摂津、阿波、この海人達の交流はめざましいものがあります。

 5 古墳が語る阿波の古代 阿波は前方後円墳のルーツ

阿波 讃岐 吉備 大和 の古墳

 弥生時代も後半になりますと、格差が大きくなって来るようです。埋葬の仕方が違ってきます。弥生終末期になると吉野川流域に築かれた墳丘墓には前方後円墳へと引き継がれる要素がでてきます。代表例が鳴門の萩原墳墓群です。石だけを積み上げる積石塚と呼ばれる形式で、断言は出来ませんが高句麗から伝わってきたかも知れません。  

 国内で積石墓の多い地域をリストアップしてみます。
 長崎県対馬 山口県児島 愛媛県津島町高田 香川県石清尾山塊 徳島県吉野川流域 和歌山県 長野県 山梨県 → ツングース系の渡来人が多い地域。

 徳島県埋蔵文化財調査室  北條芳隆助教授の講義録に明確にかかれています。
 前方後円墳の祖形・原形は鳴門市萩原にあった萩原噴丘墓である。
 中山大塚古墳(奈良県)の発掘により、前方後円墳の円噴の祖形が阿波の積石塚にあることを確信した。古墳の上に敷かれる葺き石は、積み石塚のなごりである。資料の実体を重視する見方の必要性を講義された。「徳島」に身を置かなければ気づかない事実。

 萩原噴丘墓一号墓から出た画文帯神獣鏡はヤマトのホケノ古墳と同范鏡のようで、半島の楽浪・帯方郡域からも出ており、交流の深さが偲ばれます。このホケノ古墳は丁度邪馬台国のの時期と重なるようです。石野先生は阿波から来た人が埋葬されいるのではと。

 弥生時代から古墳時代への移行の頃の以下の古墳は、立地、墳丘、列石、竪穴式石室、鏡の副葬、東西方向の長軸などの基本的要素が共通しています。これらの地域の王の連合を示しているようです。        
 岡山市総社市 宮山墳丘墓    徳島県鳴門市 萩原一号墳
 兵庫県揖保郡 養久山一号墳   奈良市桜井市 纏向石塚

 6 倭迹迹日百襲姫命と辰砂


 歴代の天皇は四国に戦いを仕掛けてはいません。また四国からは妃も出ていないようです。戦いをしかけていないのは天皇家のルーツだったのかもしれません。
 妃を求めていないのは、それほどの力を持った豪族が出なかったのかも。妃を求めなかったのは出雲もそうだったように記憶しています。何か理由があるのでしょう。

 四国・阿波と出雲、畿内から見て西の方角、根の国と見なされていたのかも知れません。出雲が阿波にあったと言いたいお気持ちはよくわかります。イザナミの神を祀る式内社は近江の多賀大社と伊勢神宮はイザナギと一緒で、これを別にしますと、出雲の揖夜神社、阿波のイザナミ神社の二社です。
 阿波国の吉野川流域と讃岐国は阿讃山脈で隔てられていますが、それほど峻険な山並みではなく、多くの人々の交流があったようです。また阿波国板野郡(鳴門市など)とは海岸沿いにつながっています。讃岐と阿波は忌部氏の多い地域だったようです。忌部氏はその職制もあってか、大王家に反抗するような動きは一切なかったようです。
 吉備・播磨と讃岐・阿波は瀬戸内海の島嶼と海とでつながっています。古代文明の発展の基本的な地形です。

 大倭玖迩阿禮比賣媛と言う仰々しい諡名の姫神がいます。日本やヤマトの国を出現せしめた姫神と言うことです。吉備の王だったかも知れない孝霊天皇の妃となり、有名な倭迹迹日百襲姫命を生んでいます。
 大倭玖迩阿禮比賣命は唯一吉備(備中国賀陽郡)の吉備津神社の摂社の本宮社に孝霊天皇とともに祭られています。
 その娘の倭迹迹日百襲姫命を祭る神社は吉備に4社、讃岐に5社、阿波に1社、他に大和など3社に祭られています。讃岐・阿波では水に関係する女神として祭られているようです。
 鳴門市 定水明神社
 東かがわ市 水主神社
 東かがわ市大内町丹生 艪掛神社  大内は比売の御殿 丹生は辰砂
 この神社には百襲比売が大和から到着したとの伝承がありますが、吉備あたりからやって来たのかも知れません。その地の名が丹生(にぶ)であることの意味は大きいと思います。『和名抄』の大内郡に入野郷があります。『平家物語』に、義経一行が屋島攻めの前に、「白鳥、丹生屋をうちすぎうちすぎ 屋島の城へと寄せたまう。」とあり、古い地名のようです。中央構造線の近くと言える距離のようで、辰砂が採れたのかもしれません。

 百襲姫は水神から水銀の神になったのかも。箸墓の発掘ができれば石室から大量の朱がでることでしょう。
 纏向遺跡の宮殿横の穴から大量の桃の種が出土しています。桃も辰砂と同じく不老不死や魔除けの効能がいわれています。吉備津彦の妹の百襲姫、即ち桃太郎の妹の百襲姫、いろんな繋がりが見えてきそうです。

 吉備・播磨・讃岐・阿波等の国々の連合が畿内に移動して大和に王権を確立したのでしょう。古墳の様式などが阿波などから、埴輪は吉備からとか、重要な祭祀様式がこの地から持たされているようです。

 大阪市大田口芳明名誉教授がヤマトタケルの魂が河内から讃岐まで飛んできたということは、その頃までは大王家のルーツが四国だったとの記憶があったのではないかと指摘しています。

 辰砂については大国主がご執心だったのかも知れません。大和宇陀の産地の近くに三輪の大神神社の元社とされる神御子美牟須比命神社が鎮座、また百襲姫と大物主とのただならぬ関係、阿波でも若杉山遺跡は長国の領域だったようで、長国の租神は大国主だったとされています。

 7 阿波古事記を発展させていきましょう。

阿波古事記

 沫蕩(あわなぎ)尊 三好郡 五滝神社 他5社 4、九州 1,福島

 粟と忌部 新嘗祭に米と粟が使われた。これは忌部氏。

 少那彦神 粟殻にはじかれて常世へ飛んでいく 粟国からではないのか。

 伊弉册を祀る式内社 出雲・阿波は畿内の西 根の国と見なされた。黄泉の国の神。皇室では祭らない。
      出雲 揖夜神社
      阿波 いざなみ神社
      近江 多何神社二座
      伊勢 伊佐奈岐宮二座(伊佐奈弥命一座。)

 事代主神社 『播磨国風土記』 播磨の鴨波里(あはは)に阿波の鴨一族の移住したか。

 多祁御奈刀弥神社 諏訪はミナカタが肝心
          南方・南宮は金属

 関西弁のルーツは阿波

 鷲敷町(わじき)和食(わじき) 若杉も「わじき」からかも。

記録

平成22年9月25日 鳴門市 賀川豊彦記念館



神奈備にようこそ