珍彦物語

[2705] 珍彦物語 その1  神奈備 2007/01/23(Tue) 21:50 [Reply]
【丹後の国 籠神社に伝わる海部氏本紀の系図】から。
 始祖天火明命−天香語山命−天村雲命亦名天五十楯(妃−伊加利姫)−倭宿禰
 始祖天火明命−天香語山命−天村雲命(妃−大屋津比売)−熊野高倉下

【丹後の国 籠神社に伝わる海部氏勘注系図】

 始祖彦火明命−彦火火出見命−建位起命(たけくらき、たけいたつ)−宇豆彦命

 倭宿禰とは神武東征時、水先案内となった珍彦こと椎根津彦のことです。この人は後に倭国造となりました。別の名として槁根津彦、神知津彦とも呼ばれていました。
 母神である伊加利姫は井光(ゐかり)姫とも書かれます。井光姫は大和の吉野の国神ですから伊加利姫は丹後の国神と思われます。

 丹後と吉野を結ぶものは何があるのでしょうか。『旧事本紀』では、天村雲命の子の天忍人命は葛木出石姫を娶り、また天忍男命は葛木奈良知姫を娶っています。丹後と葛木とは天村雲命の子の段階で葛木の姫達と婚姻関係で結ばれていたようです。
 また葛城市に長尾神社が鎮座しています。祭神は水光姫命とその父神である白雲別命となっています。これは吉野首の祖神と遠祖を祀っているのです。
 と言うことで、丹後と吉野は葛城を介してつながっているのです。

[2706] 珍彦物語 その2  神奈備 2007/01/24(Wed) 20:34 [Reply]
 この井光、白雲については丹後と吉野によく似た話があるのです。

 【丹後国風土記残欠】に下記の記事があります。
 真名井、白雲山の北郊にあって、清いこと麗しい鏡の如し。 けだし、これは豊宇気大神が降臨した時に当たり、■■湧き出た霊泉。その味は甘露のようで、万病を癒す力がある。傍に、祠が二つある。東は、伊加里姫命、或いは豊水富神と 称す。海部直たちの斎きまつる祖神。西は笠水神。

 【新選姓氏録 大和国神別】には次の記事があります。
 神武天皇 行幸吉野、到神瀬、遣人汲水、使者還曰、有光井女。天皇召問之、汝誰人、答曰、妾是自天降来白雲別神之女也、名曰、豊御富、天皇即名水光姫、吉野連所祭水光神是也。

 『日本書紀』に、「神武天皇が吉野巡幸した時に井戸の中から出てきて体が光っており尻尾があった人がいました。手前は国神で名は井光。」と名乗った記事があります。『姓氏録』は、それに加えて、父神は白雲別神、井光の別名は豊御富、天皇は水光姫と名付けたとあるのです。
 丹後と吉野とのお話は白雲、イカリ姫、豊ミ富と共通であり、出所は同じ伝承なのでしょう。

 上記のような事を踏まえて、これから珍彦こと椎根津彦についていささか語っていきましょう。

[2707] Re[2706]: 珍彦物語 その2  神奈備 2007/01/25(Thu) 08:43 [Reply]
>  【丹後国風土記残欠】
>  【新選姓氏録 大和国神別】
ここは大三元さんの
http://www.dai3gen.net/tango_yosi.htm
「丹後と吉野につながり発見?」
を多いに参考にさせて頂きました。

[2708] 珍彦物語 その3  神奈備 2007/01/25(Thu) 18:03 [Reply]
【『日本書紀』等に見る椎根津彦の物語】とそれから推測されること。

 1.珍彦は、豊予海峡とされる速水乃門で東征中の神武天皇を迎えます。「臣是国神。名曰珍彦。」と名乗り、水先案内をすることになりました。ここで椎根津彦の名を得ました。『古事記』では、神武天皇が吉備の国を出てからの速水乃門で珍彦に出会います。明石海峡付近かも知れません。なぜなら、後の明石の国造に、椎根津彦の子孫が指名されているからです。ここに拠点があったかも知れません。

東征ルートに鎮座する椎根津彦を祀る神社抄

豊後国海部郡(大分県佐賀関町)椎根津彦神社 東征後、神武天皇は椎根津彦命を倭国造に任ぜられた。これを伝え聞いた里人らが、小祠を建てて命を祀ったものがその創祀と伝えられる。

備前国邑久郡(岡山市) 神前神社亀石神社など

摂津国菟原郡(神戸市東灘区)保久良神社 椎根津彦命の子孫たる倉人水守等が祖先を祭祀し奉る。立地は高地性集落、磐座。

紀伊国海部郡(和歌山市宇須)宇須井原神社


[2709] 珍彦物語 その4  神奈備 2007/01/26(Fri) 10:36 [Reply]
 2.先に述べたように、神武天皇が吉野を行幸した時に、井戸の中から「臣是国神。名為井光。」と名乗る者が出てきました。天皇は水光姫(ヰカリ姫)と名付けました。吉野首の祖です。氏族の祖神としましては、天照大神と天鈿女命のぞけば唯一の女神です。

 椎根津彦と井光とは、共に国神と名乗っています。
 神武天皇は吉野で国神らしい3人に出会っています。まず井光、つぎに岩押分の子、その次が苞苴担の子です。国神と名乗ったのは井光のみです。
 前述したように、椎根津彦は「臣是国神。名曰珍彦。」と名乗っています。井光とよく似た名乗り方です。

 さて『籠神社に伝わる系図』から見て、椎根津彦は本当に国神なのでしょうか。天火明命は天神です。天神の子はやはり天神なのです。天村雲命も天がついていますので天神です。従ってその子である倭宿禰も天神のはずと言えます。それが自ら国神を名乗るのです。これは解明すべき謎です。

 井光姫は天照大神と天鈿女命を除けば女神として唯一の祖神となっているので、吉野首はこの時期には母系制と言うか、父神の素性より母神の素性が尊重されたと言うことでしょうか。丹後の伊加利姫が懐妊した後か幼い珍彦をつれて吉野にやって来たのかも知れません。

 天照大神と井光姫、天皇家と椎根津彦、ともども祖神は女神と言う共通点があるようです。

 もしくは天村雲命の子と言うのが事実でないのかも知れません。椎根津彦は日本海側で有力な海人族である青海首の祖ともされており、丹後の海部氏としては青海首を自己の系列に取り込んだのかも知れません。

関連する神社
丹後国加佐郡(舞鶴市公文名)加里姫神社 笠水神社に合祀

大和国吉野郡 (奈良県吉野町)井光神社八幡宮「井光神」飯貝の近く

大和国吉野郡 (吉野郡河上村)井光神社「井光神」

大和国葛下郡 (葛城市当麻) 長尾神社「水光姫命、白雲別命」水光姫命が、応神天皇の御代に当麻町竹内の三角岩に降臨され、子孫の加彌比加尼に命じて長尾に祀らされたものでお姿は白蛇であた。父神が天より降臨された天白雲別命であるというのは、白雲が雨をもたらし、雷にもなるところから、水の根源を現したものであります。

若狭国大飯郡 (福井県高浜町)青海神社「椎根津彦命」 

越後国蒲原郡 (新潟県加茂市)青海神社「椎根津彦命」

[2710] 珍彦物語 その5  神奈備 2007/01/27(Sat) 08:47 [Reply]
 3.神武天皇の夢に、天香具山の赤土をとって平瓦をつくり天神地祇を祀れば敵を打ち払い安いとのお告げがあり、椎根津彦を現地の老人に、弟猾を老婆に化けさせて、香具山の赤土を取りに行かせ、赤土で平瓦や厳瓷などを作りました。
 椎根津彦は地元の老人に化けています。化けるのであれば、地元の言葉をしゃべる者でなければならないわけで、椎根津彦が大和の出であることが判ります。丹後や豊後で育ったのではなく、大和は吉野で育ったことがここで判ります。
 吉野の井光姫の子であったと断定していいのでしょう。

大和国宇陀郡(大和国宇陀市)丹生神社通称朝原宮 天香具山の赤土をとって平瓦をつくり天神地祇を祀った場所の近くと言う。

大和国吉野郡(奈良県東吉野村)丹生川上神社(蟻通しさん)神武天皇が天神の教示で天神地祇を祀った、厳甓を川に沈めて戦勝を占った聖地という。

[2711] 珍彦物語 その6  神奈備 2007/01/27(Sat) 08:58 [Reply]
 4.椎根津彦の別名の神知津彦の「知る」とは統治するの意味です。統治の為の瓷を赤土で作りました。瓷は酒や水を入れるもの。天つ水は八井の水とされています。これは神八井耳尊のことで、多氏の祖神の名です。椎根津彦の採取した赤土は水を入れる瓶でこれは神八井耳尊と関連があるのかも知れません。

 大和国十市郡(現在の田原本町多)に鎮座する多坐弥志理都比古神社は周辺の神社と合わせて多氏の祖神を祀っている神社と思われます。現在の祭神は神八井耳尊ほか三座です。
 久安五年(1149)の『多神社注進状』には、珍子と天祖を祭神としています。珍子はウズノミコ、珍彦を思わせますね。天祖とは日神である火明命か天照大神かも。鎮座地は三輪山から登る朝日を祀るに相応しい地ですから。

 もう一つの考え方としましては、多神社二座には母子神が祀られているとの考えです。祀られている女神は神八井耳尊の母神の比売多多良伊須気余理比売。ホトをつかれての誕生は赤留姫の場合とよく似ているようです。

 多坐弥志理都比古神社の「弥」は「ミ」であれば水の事とも言えます。井戸が出てきます。『中臣寿詞』に、天の八井の水を天の水と言うとあります。弥志理都比古は水神でもある椎根津彦であり、かつ神八井耳尊であると言えるのでしょう。椎根津彦が多氏の祖であることを物語っていると思われます。

大和国十市郡(奈良県田原本町)多坐弥志理都比古神社「弥志理都比古神、三輪山から登る日神」「神八井耳命、多多良姫」「珍子、天祖」など

大和国十市郡(奈良県田原本町)姫皇子命神社 「飯富青皇女:『稚狭考』」

[2712] 珍彦物語 その7  神奈備 2007/01/28(Sun) 10:49 [Reply]
 5.東征の戦いの中で、椎根津彦は兄磯城を攻めるべく女軍を出す作戦をたてて梟雄兄磯城を滅ぼしました。見事な作戦を立てているのです。海導者であり、変装も行い、度胸もあり、立案能力にも秀でています。まさに映画ならば主役でしょう。

 東征後6年経過、周辺の地は治まらないが、しかし内州(うちつくに)の地は騒ぐものはなくなった。
 東征成功の論功行賞で椎根津彦は倭国造になりました。剣根を葛城国造とした。国造はこの二人のみ。
 葛城は雄略天皇の頃まで独立王国、神武天皇の支配の範囲は内州から葛城を除いた範囲、すなわち倭国。倭国造とは倭国王のこと、即ち神武天皇は椎根津彦をモデルに構想された人物かもしれません。この二人、祖神が女神である希有な氏族に属していると言う共通点もあります。

大和国山辺郡(天理市新泉町)大和神社「大和大国魂神、他二柱」大和大国魂神とは。
淡路国三原郡(南淡路市三原町)大和大国魂神社 伊香里という地名が近くにある
阿波国美馬郡(徳島県美馬町と脇町)倭大國魂神社
大和国葛下郡(葛城市新庄町)葛木御縣神社「劔根命」 

[2713] 珍彦物語 その8  神奈備 2007/01/29(Mon) 08:48 [Reply]
 6.『籠神社に伝わる系図』では、天村雲の別名は天五十楯、また妃に大屋津比売の名が見えます。天五十楯は五十猛神を指しているように感じます。五十猛神は素盞嗚尊の子で一応高天原出身ですから天神であった時代もあります。
 井光の居た吉野川、その下流が紀の川、ここは名草郡であり、名草の武神はまさに五十猛神。
 素盞嗚尊・五十猛神に縁の深い韓国の言葉を経由させれば、五十猛神の「五十」が「多」に通じるのです。多−押−韓国語O.Ship−五十。
 椎根津彦の父神は五十猛神だったのかも知れません。そうすれば名実共に国神。多氏と同族に伊勢の船木氏がいます。植樹神・浮き宝(舟)の神こそ五十猛神ですから。

紀伊国名草郡(和歌山市伊太祈曽) 伊太祁曽神社「五十猛神、大屋津比売神、都麻都比売神」

 神武天皇の父親は彦渚建鵜葺草不合尊であり、渚に建てた産屋の屋根をふき終わらないうちに誕生した皇子とと言う意味の名だそうです。海岸や川の側に産屋は建てられるそうで、わざわざ渚に建てたなどと言う必要はないのです。従って敢えて彦渚建としたのは、別の意味があって名草をの武神のことを言いたかったのです。彦渚建鵜葺草不合尊とは五十猛神を含んだ神名と言えます。

 『海部氏勘注系図』では武位起(タケイタツ)の子が宇豆彦すなわち椎根津彦。『旧事本紀』ではタケイタツは不合尊と兄弟となっています。神武天皇と椎根津彦、ここでも実に近い関係だと言えるのでしょう。

       ┌−彦渚建鵜葺草不合尊−−神武天皇
山幸彦−−┤
       └−武位起(タケイタツ)−椎根津彦
       
       共に五十猛神に近い雰囲気

越前国丹生郡(福井県朝日町)佐々牟志神社「鵜茅草葺不合神、神倭磐余彦尊、椎根津彦、武位起命」


 椎根津彦は神武天皇のモデルであり、またその子とされている神八井耳尊とも同体のように見えています。

 彦渚建鵜葺草不合尊の父神は所謂山幸彦です。彦火火出見尊と言い、神武天皇も同じ名をもっています。山幸とは何でしょうか? 山の幸、山のシャチ、山のワニ、どうやら猪のようですね。
 日神の子孫に猪がおり、また猪の子孫に日の御子がいるのは何故なのでしょうか。

 『播磨国風土記』賀茂の郡 山田の里 の記事
 猪養野 仁徳天皇の時代、日向の肥人、朝戸の君が天照大神のおられる舟の上に猪を献上し、この地で飼うようになった。だから猪飼野と言う。

 日神と猪、猪(ゐ)は井が連想され、井は水や川(かは)につながり、ここに「か」が日(三日月のか)につながる古語の連鎖があったかも知れないとの多段論法を大三元さんは示唆されています。(神奈備掲示板[8065] )

[2715] 珍彦物語 その9  神奈備 2007/01/30(Tue) 09:33 [Reply]
7.猪と水、日とのつながりが何も日本に限ったお話ではありません。
 猪の背中に乗っている神に摩利支天がいます。西アジアでは摩利支天と猪とは水と光明を通じて結ばれたとも言われています。イラン神話では光明神ミスラを先導しています。

 崇神天皇の時代に椎根津彦が初代だった倭国造の末裔に市磯長尾市と言う者がでます。彼は倭大国魂神を祀ります。倭大国魂神とは椎根津彦のことでしょう。長尾市はまた長尾神社を祀ったかも知れません。さらに長尾市は但馬の出石神社の神宝を取り上げに行きました。その出石神社の神官も長尾氏でした。
 また日矛の後裔かもしれない秦氏の親分は太秦でウズマサです。貴いとの意味もあるようですが、珍彦のウズヒコとは面白い符合です。

 8.椎根津彦神は神八井耳尊の別の名であることが多坐弥志理都比古神社の祭神や社名から明らかになってきました。多氏と言えば、伊勢の船木氏などの祖である大田田神、神田田神は『住吉大社神代記』に登場、大八島に日神を出す神とされています。

 
大和国葛下郡(葛城市當麻町)長尾神社「水光姫命、白雲別命」吉野首の祖神
丹後国竹野郡(京都府宮津市由良宮)奈具神社「豐宇賀能賣命」
伊勢国度会郡(伊勢市吹上)世木神社「天牟羅雲命」外宮禰宜度会神主の遠祖を奉斎した社であった。
伊勢国多気郡(三重県多気町)佐那神社「天手力男命」伊勢船木の祖 
伊勢国朝明郡(四日市市大鐘町)太神社「神八井耳命」多氏の祖を祀る。銅鐸出土。

 大鐘町の名は出土した銅鐸に由来しています。銅鐸はサナキ(ギ)とよばれていたようです。船木氏の祀る佐那神社、また丹後の奈具神社、それぞれ銅鐸の記憶が残っている社名です。佐那+奈具=サナキ。
 椎根津彦や神八井耳命が活躍してから崇神天皇の前の時代までを欠史八代と言います。銅鐸祭祀の時代であったのでしょう。市磯長尾市の時代に大和は卑弥呼か台与の東遷を受け入れたのでしょう。

[2717] 珍彦物語 その10−完−  神奈備 2007/01/31(Wed) 08:36 [Reply]
9.珍彦(宇豆彦)が井光姫の子ですから、祖神は女神。祖神が女神の氏族は勿論天皇家で祖神は天照大神、もう一つの氏族は猿女君で天宇豆女命(天鈿女命)です。
 
 『古事記』に、椎根津彦の登場のシーンがあります。
故(カレ)、その国より上り幸(イ)でましし時、亀の甲(セ)に乗りて、釣りしつつ打ち羽(ハ)ふり来る人、速吸門(ハヤスヒノト)に遇(ア)ひき。(略)名を賜ひて槁根津日子(サヲネツヒコ)と号(ナヅ)けたまひき。

同じく、天宇受売命の所作。
天宇受売命、(略)、天の石屋戸にうけ伏せ、蹈(フ)みとどろこし神懸(カムガカ)りして、胸乳(ムナチ)をかき出で、裳緒(モヒモ)をほとにおし垂れき。

 宇豆女と宇豆彦、名前、女系、道案内にからむことなど、実によく似たペアの神々です。

 それぞれ、登場シーンの呪術的動作はおそらくはよく似ているものと思われます。天宇受売命は乳とホトを出しています。これは神前での巫女の所作の原点の動作です。
 『雄略紀』九年春二月 天皇は凡河内直香賜と釆女を遣わして宗像の神を祀らされた。香賜は、いまにも行事を行おうとする時、その釆女を犯した。(略)香賜は捕らえられて斬られました。
 この記事は釆女の神祭りの姿を暗示しているように思います。

 一方、宇豆彦は亀に乗っています。先端は亀頭です。「打ち羽ふる」のは「蹈みとどろこす」動作と同じで物部のふるえふるえにつながる神懸の所作です。「槁」は男根の隠語です。裸の釣り人をイメージして書いているようです。裸にはモノノケを払う目的があります。

 紀州の怪人南方熊楠は熊野の山中を粘菌採取で歩き回っていましたが、着物の前をはだけて(ふんどしはしていない)一物をだしながらの格好だったと言います。出会った山人はびっくりしたのですが、女神である山神は喜んで熊楠を山にいる蛇、蛭、虫、モノノケから守ったことでしょう。

『古事記』は太安麻呂が撰したとされています。時代は天武天皇・持統天皇の時代になっており、萬世一系の思想が固まりつつありました。このような時期に、多氏に伝わる誇りある伝承であっても、倭国の初代の大王が椎根津彦であり、多氏の祖神であったとは書けなかったのでした。
 しかし記紀をよく読みますと、多氏の言いたいことが良くわかるようになっています。(完)