インドネシア文化を語彙で拾い読みしました
                                  
               
〒336ー0015 さいたま市太田窪 4ー4ー3
                 生田淳一郎編
                    電話(ファクス)048(882)4901

 辞書にはじつにいろいろなことが書いてあるもんです。わざわざ外国にでかけなくっても、辞書一冊を買ってきて精読すれば、行った以上にの国のことを知ることができます。
 以下はそういう意味で、めぼしい語彙を拾いだして想いのほどを書きつらねました。

 《サガル と セガル》
 日本列島じゅうで魚がいちばんおいしい地帯に相模と駿河が並んでいます。surga(天国)には富士山があります。
 surga に似た天国をいう語形はインドネシア語には 四つもあって、いづれも語頭は sur ですがネパール語の天国は sorga になっています。
 ネパール語の sorga は ソラ(空)やオーソリミオの sor に影響されたものと見受けられます。ですから、駿河はインドネシア語系だとは決めかねます。

 いっぽう、現代ネパール語の空には母音がちがう sagar があって、一つは「空」をいい。も一つは「海・太洋」です。
 ネパール語の二つの母音は面倒くさいので小生は a 一本に絞っていますが、a と o の中間音の母音があるのです。
 記号がないので、それをここでは @ と置きますと、s@gar が空で sagar が「海・大洋」です。
★ この二つの母音と kha、khi 、 khu ……の kh が、いわゆる日本語の「甲類・乙類」という現象をつくっています。
★ ほとんど同一発音の s@gar と sagar が「「海と大洋」を表わすのは「アマ」現象と同一なことに注目させられます。
★ ここでアイヌ語その他を援用するこよは危険を伴いますが、 sa とは「広がる・前に」で、 gar とはシュメール語、ドイツ語で「大きい」です。「広がって・大きい」が sagar だとおもわれます。

 ところがインドネシア語の 大洋は sagar ではなく、SE gar なんです。インドネシア語には surga には三つもの別語があるのに、 segar の一つの語形 しかありません。これは瀬戸内などの セ に変させられたのかのだろうとしか考えられず、ちょっとしたナゾです。

 では、駿河と相模が並んでいるのは、ネパール語でしょうか? それともインドネシア語でしょうか?
 小生は二つの言語をしゃべる一つの軍団によって命名されたものと思います。
 この混成二軍が日本列島に来たあと、アマ系の軍団がやって来たのでしょう。
 アーリア系のネパール語集団と、インドネシアの土着民のあいだには多くのハーフが生まれたことでしょう。
 そのハーフ(?)の特徴は色が白くて、女性は美人であることです。その成り立ちは今の日本人と同じです。
 いまなら、新潟県十日町市に 十名内外の、その系統の美人集団がいます。紹介しまっせ。


 《 ソホリ、ホアカリ、勾玉》・・・・・神奈備青草談話室  6173 で記述

 《神アリ月》
 日本語には「神がイマス(坐)」という表現が定着しているのに、《神アリ月》と、アリを遣っています。この表現に違和感をおぼえた人もいるのではないでいでしょう。
 全国に散っていた神々が戻ってくるのですから「神アリ」では、出雲にいた神さまだけが、そのまな居つづけることになって、すこしヘンテコリンです。
 インドネシア語 alih(移る、転ずる、移動する、場所を変える)があります。
 なお、イマスはネパール語 bas-(住む、泊まる、座る)が起源です。ネパール語は神様ごとをしゃべるに適した高級言語として受け取られていたのでしょう。

 《マンゴー》
 マンゴーがエッチなことを連想させることは、ピリピノ語でもみました。
 インドネシア語ではマンゴーを mangga といいますが、mempelam ともいいます。
 mempelai は花嫁、新婦です。インドネシア語では mem が立つ語彙は僅少です。
 アイヌ語 mem は泉池です。
 ネパール語 のマンゴーは a:p で、べつにナンということはありません。

 《 amat (大変、非常に)》
 amat みたいな語彙が民族間を出入りするとき、末尾の t は落ちて、これは「アマ」になるのではないでしょうか。
 アマ(天・海)に似た語彙はネパール語にもアジア周辺にもみつかっていません。
 あるとすれば、いちばん近いのは「アーメン」でしょう。または存在の神 an 神から連想される英語の am です。
 amat の at 部分は アイヌ語の ramat(魂)や nipekiat(照らす)の at を想い出させます。
 奄美の解釈に際しては忘れられない一語です。


 《 サガミ の 語源 》
 インドネシア語で SE-- gar だったのが、ネパール語系の人びとによって サガル と修正された……とも考えられます。
 小生がネパール語が「指導言語だった」というのも、そのことです。
 プソとかパソとかいろいろ云ってたヘソを、ネパール語が「語源つきで」 pos--o(栄養を運ぶ緒)として、バシッと決定させた成り行きは、先にみたところです。

 では、サガミの「ミ」は何でしょうか。
 まず考えられるは、古代語の mi(浦)があります。「大洋に向かって広がっている浦」は、いちおうスンナリです。
 この「ミ = 浦」の語源は、小生は知りません。先祖たちが経験で拾った語ではないでしょうか。

 インドネシア語にナニかないかと探してみましたが、適当な mi は見当たりません。
 そこでネパール語を探してみたところ、bhumika(表面)がありました。 -ka は上です、
 bhu だけでも「陸地」の意味がありますがが、想いだすのは信州上田駅の所在地の「フミイレ」や、北海道旭川市のチカブミです。チカブミというのは「鷹がいっぱいいる」のでつけられたアイヌ語地名です。
 bhumi という語に mi だ出たり入ったりしても意味は変わらない……。

 またギリヤーク語には mif(陸地)があります。

 大洋に面した陸地・・・、それが「サガミ」だったことだろうと想われます。

 mi には、もちろん,神という意味もあります。しかし、神概念はブラックホールのように、なんでもかんでも吸い寄せます。できるだけ神概念は避けたいです。

 《 花 と 武士 と 源氏 》
 インドネシア語の花といえば bunga だとおぼえている方が多いでしょうが、花をいう語形にはあと二つばかりあります。そのひとつが puspa です。
 このハナという日本語に武士とか弓矢が、いや〜に絡みついている。
 まず、弓矢は  pan--ah の語形でピリピノ語、台湾、日本に北上しています。
 pan  が開音化された語形の pana は日本語のハナ(花)となって、これが先ず採用されたと思えるのが新羅軍団のホワラン’(花郎)です。この pana が極東に導入された時点では、まだ「国」というワクどりは無かったとおもうと、理解が容易です。
 このホワランは新羅の第四代の奪回王のときに組みあげられたと見込めるのですが、ホワランは その後改名して源花となります。
 源花にも「花」がついていることにご注意ください。
 その「源」というのもクセモノで、これを受けて日本に源氏が出現します。
 そしてインドネシア語 gensi には「氏、素性、うまれ、育ち、家柄、面目、対面、威信、威厳、品位、威光、名声」と、古武士の誇りが内容となっています。「ヤ〜ヤ〜、われこそは……」のそれです。
 いや、源氏平家の武士にインドネシア語がいう限定(内容)がなかったら、古武士たちは「ヤ〜ヤ〜、われこそは……」などとは喚かなかったのではないでしょうか。
 インドネシア語の語彙の内容には多くの限定がついていますが、なにしろ解氷海進以来の時間経過があったのですから、時代とともに多くの概念が付着したものでしょう。

 ところで、花を意味するインドネシア語の puspa には「ブシ(武士」」が入っていないでしょうか。
 ブシは太古のむかしでは ムサ といっていたことはたしかです。武蔵のくにはムサ・サシ(砦)だと思えます。
 神武はジンブではなくて ジンム で「武 = ム」です。新潟県にはムサさんがいます。
 また、武士は正月にはねずみ(musa)を忌みことばにしていました。
 ところがヤブサメ(流鏑馬)はシナ人の影響からか「 bus 」になっています。鳥取県には花房さんがいます。

 武士階級が力を得てきた頃から、家紋が重宝されてきますが、家紋のほとんどは花のデザインです。

 《 太陽を射落とす 》
 つくば山麓に語り継がれた民話集を読んだことがあります。
 印象に残っているものの一つは……、
 むかし、空に九つの太陽が照っていたので、熱くってたまらない。そこで、弓矢で射落としてみたら、ヤタガラスだった
というものです。
 九?の紋はシナ人の紋章です。「射落としてみたらヤタガラスだった」……ということは、ヤタガラスとはシナの偏執であることを物語っているのではないかと思われて、津々興味です。

 なぜ、こんなことをここで取り上げるかというと、ここには言葉が絡んでいると思えるからです。
 インドネシア語の 弓、矢 はさきに述べた panah 。panas は熱、熱気で、形容詞に「激しい、怒った、不穏な、緊張した」があります。
 日本の岩戸びらきに出てくるいろいろな神さまの名前をみると、これもいちいち演技者の特徴を謂う古語でした。

 《 スセリ姫 》
 「スセリとはネパール語で『口笛を吹く』とあるんだがなぁ」と神奈備ドンに報せたことがあります。
 その返事は「さもありなん、口笛を吹くとはヤキモチを焼くことで、スセリ姫は大のヤキモチ焼きだった」でした。
 ところがインドネシア語 seri には「(喜びなどで)顔が輝いている、輝き、光輝、美、精華」の意味があります。
 スセリの「ス」は、駆け出し者の拙者には分ろうはずもありませんが、インドネシア語 suit は笛ですし、ピリピノ語をも含めて su には「火」がいえそうです。
 スセリ姫とは、単純に「口笛」だと決めることなく、火と輝く美貌などを中心とした意味も考えたい紋です。

 《 タカマガハラ 》
 タカは高い、または「神の」。マガは mag(大きい、or 霊の)。ハラはインドネシア語の palak(変化形として falak)……意味は空、天です。ハラと聞いたら単純に「原」を想いだしてはイケないのであります。
 「神のいます霊界の空天」がタカマガハラだと断じていいのではないでしょうか。

 《 オケサ節 》
 インドネシア語 kesah(……の情が起こる、嘆く、歎息する)。
 こまかいことは省略しますが、佐渡オケサは夫や恋人が和人との戦争で死んだり、行方不明になったので、アイヌメノコが和人の宴の席にはべって、浮いた浮いたの酒をついだ唄です。
 オケサについて、これまで小生はアイヌ語の si-ok(とても悲しい)の ok の唄……すなわちエレジーだと分析してきました。サはアイヌ語のメロディーです(例 ; サノヨイヨイ)。
 しかし、これでは OKESA の E が少し浮いています。
 これが、上述の kesah なら、E の不自然さは解消します。
 ではオケサの オ とは何でしょうか? まだハッキリしたことは云えませんが、オコサ、オモロなど唄につける接頭辞(称愛をこめて)だと思われます。

 《 kuasa(権力)→ 笠 》
 gi には神の意味があることは先にみました。笠置とは権力の神と解してよさそうです。
 しかし、この kuasa は、どうも形容詞前置形でどこからかの借用語ではないかと思われます。
 いずれにせよ、この語の中には asa(希望)が入っており、朝比奈などを考えるときに重要な asa も入っています。
 また、インドネシア語には ang kasa’(天、空)もあって、事態は複雑です。
 いっぽう、タジク語に kas(人)があって、人のことを kas といってら「人は人でも貴人のことを謂う」・・・みたいな習慣があったのではないかと、解せられます。kasa は kas の開音した語形です。
 正確なことは忘れましたが、古文圏にアヤカスさんや、アマカスさんがでてきます。
 さいきん、群馬県出身のアマカサ(天笠)さんを知りました。気力が充実した立派なオトコです。

 《 raksa mala(香木の一種)》
 アイヌは酒のことをトノトともいいますが、べつに「サクサ・アシコロ」と云ってました。アシコロは「起ち上がるもの」ですが、小生は長いあいだ、このサクサがわかりませんでした。mala は世界語の「物」です。
 アイヌは、語頭の  r はニガテではありませんが、この raksa は語頭の r をニガテにする日本人経由で仕入れたらしく、 r を s として受け容れています。
 その例は僅少ですが、インドネシア語 rawa(沢)が、日本語の「沢」になっているとしか考えられません。
 地名用語の沢が九州にはひとつも無いフシギな現象は、別にみた通りですが、そういった怪奇現象もぼつぼつ解消できる段階に入ったようです。

 《 スサノオ 》
 この語が興ったのは社禝の “ 社 ” (その所々)が大いに関わったと思います。
  古代人は人体になぞらえて自然の形状に名前をつけました.。
 ネパール語 sthan(場所)は tan(身体)から出ています。
 ここに国家形成作用がさかんになってきたとき、語頭に強調接頭辞の S- をつけた stan が国となりました。アフガニスタン、パキスタンなどの stan がそれです。
 命名の初期では、スサノオの ス は強調接頭辞の S- だったのかもしれません。
 「その場所、その場所の土地神」としてのスサノオが、国家形成熱にほだされてゆくうちに、内意が変化して「国神」としての「同族の、広域の神」としての概念・機能が付加されて行ったものと観察されます。

 ところが、国という集団形成は、それまでの情念を中心とした自然法の領域とは、まるでちがっていて、つらいことばかりが押し付けられます。この意識のギャップに「スサノオ尊は、本当の神様なんだろうか」との疑いの目が生じます。

 たしか、アイヌ語に「シュシャンノ(粗末な)」という語彙があったと思って、再確認しようとしたのですが、どこでどうドマグレたか、掴めません。ネパール語に tha?gno(ボロの)があります。
 そして、インドネシア語 susah があります。意味は「困難な、面倒な、やっかいな、容易でない、落ち着かない、困窮した、困った、心配な」とあって、スサノオの悪行そのものです。
 神への疑いの目は、マグナカルタの King can do no wrong. に始まり、地動説となり、実存宗教へ発展します。

 《 kura(亀)》
 ネパール語の亀は thotari といい、英語のトータス系ですが、インドネシア語には チャンと kura(亀)があって神の坐を底支えしています。
 手塚長虫さんの『ブッダ』をよまれた方は、この図式をご藍になったはずですが、インド人の宇宙の考え方には、この世を支える巨大な象がいるのですが、その象は亀のせなかにつったっているのです。
 この kura が「神の坐」のクラになっていることは云うまでもありません。
 ネパール語の takura も峠のことですが、日本語も峠をクラともいいます。
 ここには、山のテッペンから「向こうとこっち」に水(水・・・神)を配る(神の)配慮を意識してのことでしょう。

 《 大黒柱 》
  インドネシア語に saka guru (大黒柱)という語形を見てギクッとなりました。
 saka だけでも柱という意味があります。
 インドネシア語の辞書に書いてある限りでは guru は「先生」です。族際感覚での guru には導師の意味があります。
 もっとつづけてこの語の成り立ちを知る必要がありそうです。

 小生がギグッとなったのは、一本柱の文化は奄美大島以南には見られなく、黒(い)木、沖縄のクバ、ビンロウジュ、アジマサなどの聖木が目立っていることを知っていたからです。
 すこし寄り道になりますが……、これらの木に共通な概念は、途中に葉や枝をつけずに幹だけが高くなる木で、樹皮の表面にウロコ状のヘビ肌を想わせるギザギザがあります。
 これは「あじまさ」という呼び名がピッタシです。「アジ」とは 沖縄の按司(支配者)であり、ネパール語 adhin(支配)が基本です。「マサ」はエジプトのファラオの旗……川崎真治さんの説……だと思えます。
 太い一本棒で王のシンボルである木は高木とも呼ばれました。タカとは神です。
 この高木文化が最高に花咲いたのは佐賀 〜 長崎の多良岳を中心にした地帯でした。島原半島には高来郡があります。
 多良岳はひじょうに篤い信仰が寄せられていたらしく、土地の人間は、旅人が多良岳の “東 ” 側を通過することさえ許さず、旅人は峻険な「黒木峠」を肥えて南下(北上)していたそうです。
 佐賀には多田という姓が目立ちます。この姓の人びとは「おおし(多氏)の末裔かもしれませんが、tad とはネパール語で棕櫚の木です。この ead は da:d , da:di, dandi(幹、柱)など多くの同根語を持っています。

 オオクニヌシと大黒様の “ 黒 ” は、直接には関係ないそうです。本来関係のないオオクニヌシに “ 黒 ” をあて嵌めるのは、仏教その他のインド系偏執だと思えるのですが、このへんには上(↑)のような絡みもあるのではないでしょうか。

 南をめざした大黒柱文化の流れが奄美で中断されていた・・・・・なのに、インドネシアで復活した?
 沖縄〜奄美〜フイリピンは台風の影響で一本柱が忌避されたのでしょうか。
 しかし、すぐにこれはネパールの首都 「カトマンズ」の影響だと気がつきました。カトマンズとは「一本の木で造られた寺」という古代インドの偏執だったのです。
 今は分派が生じているが、元は一つだという考えです。


 《 狛犬 と ライオン 》
 コマイヌのコマを高麗と関係あるかのように考えるのでヤヤこしくなっているのではないでしょうか。
 神域を護る獣の風習はエジプト、インドにもあるそうです。
 そもそもコマというのは、クマルのことではないかと思われます(クマルはパーリ語では komar です)。

 戦時中の国民学校は、わたしらァが学校にあがる年から始まって、わたしらァが六年生で卒業するまでつづきました。
 その一年生の教科書に「コマイヌサン ア コマイヌサン ウン」とありました。
 成人して、はるか後になって、これは「阿吽(アウン)の呼吸」のことだろうと気がつきました。
 「阿吽・・・…、いちおうシナ語かな? 」で済ませてきましたが、答えはインドネシア語の辞書に載っていました。
 「アウム・aum」とはライオンの鳴き声だそうです。
 もしかしたら、オウム真理教のオウムあたりと関係があるのかも。

 《 マタハリ (太陽)》
 インドネシア語には suria 、surya という太陽を意味する語形があるのに、これとは別に matahari があります。
 suria 、surya は、ネパール語の surye(太陽)と同じ系統ですので、ネパールからの借用だと踏めます。
 しかし、マタハリも同じインド語のサンスクリット語と共通です。
 マタハリの マタ は、世界語の mat(女)ではなく、アジア〜オセアニアに広く分布している mata(目)だとしかなりません。ここで、いちおう「天の目」が太陽のことだとして、概念規定が落ち着きます。
 日本の金属精練士の神「アマヌマ・ヒトツの尊(天目一箇神)」も同じ考えで造語されています。

 であるならば、マタハリの ハリ も 天とか空を意味していなければなりません。
 ところが、インドネシア語の hari は◯月◯日の「日」であって、天や空 ではありません。
 サンスクリット語は人造語です。紀元前にパーニニという人物がでっちあげた、民衆の支持を欠いた言語です。
 パーニニさんが、どこから「ハリ」を引っぱってきたかは知りませんが、後世になって分析したときの今、このマタハリはインドネシア語から引っぱってきたのではないと明言できます。
 人造語・・・・・、一つの言語体系をヒトが造るなど、やってはいけないことですが、いまやサンスクリット語は「強い言語」として、周辺に多大の影響力で以て浸透して行っています。


 《 pua(崇拝)、puji(賞賛、賛美)》
 ピリピノ語で hindi はタブー(禁制)を謂います。
 インドネシア、ピリピノ地帯に広く、ネパール語が高文化として浸透してゆきました。

 インドネシア語の puja とはヒンズーの神を奉ることです。で、この puja はネパール語の puja(参拝、礼拝)の借用語だということになりますが、このインドネシア語辞書には「インド語起源」などという解説はありません。
 この puja の変化態として puji(賞賛、賛美)がインドネシア語辞書に掲出されています。そして小生の手許のネパール語には puji の語はありません。
● puji が富士山の語源であることは容易に推察できます。
● puja が中臣鎌足に贈られた藤原姓であることも容易に推察できます。
 3 〜6行上のインドネシア語 / ネパール語の関係が次項の「ムラゲ」がネパール語起源なのかインドネシア語起源なのかの割り出しに大きく響いてきます。

 《 ムラゲ……炉の長 》
 ムラゲは金属精練士たちの長のことで、鎌倉期などでも 500名内外いた金属精練士ですが、その人びとを束ね、 生殺与奪の治外法権を持っているのが一人のムラゲと呼ばれるトップでした。今でも島根県では生きいきている言葉です。
 司馬遼太郎さんはムラゲなどという日本語ばなれした語彙をみて、大いに驚いたようです。「こんなのが判ったときとは、日本語の分析方法に革新が起こったときだ」と書き遺しています。
 インドネシア語 mula には、元、始め、起源、初期の意味が出ています。が、ネパール語辞書には mul(水源、泉、家長、戸主)とあります。
 mul が開音された語形が mula であることは明瞭です。
 で、この意味が「炉の長」と云っているのですから、「長」に着目するがぎりは、「長」を持っているネパール語のほうに起源がある……ということになります。
 しかし、ここで重要なことは「 age(炉)の mula」ではなく、あくまでも mul- age と主張している点です。
 すなわち、形容詞後置形なので、このムラゲはネパール語から直接に日本へ流入したものではなく、いちど形容詞後置形を持つ言語に入って、そこから日本へ入って来たものと考えざるをえません。
 では、インドネシア語の mul になぜ「長」の意味が消えたのでしょうか?
 日本でのムラには村上天皇とか村上水軍、大村藩など「長」を意味する固有名詞にはこと欠きません。
 やっぱ、シナの江南とか、第三の地帯を経由して日本に流入してきたのでしょうか……。

 《 生田原 》
 生田は小生の姓であり、無関心ではいられません。この語源については、これまでいろいろと追求してみたのですが、結論は「わかりません」というほかありません。
 「わかりません」と投げ出した最大の理由は、イクと読ませる漢字が 200種以上もあるので、これでは凡そ限定できるものではない。それどころか、どこでどうなって(例えば朝鮮経由とかで)シナの考え方が日本に流入したか、計りしれない「理由の層」が張りめぐらされている……とのかく、わかったもんじゃない……と訴えてくるからです。

 でも、近年になっておもうことは、「どうも、生田,は戦闘にかかわるものではなかったか……」でした。
 神戸の生田の杜は泉の湧出口(イクシマ?)と、その水が潤した土地に自生した森林(タルシマ?)から成り、この森林地帯を利用したか、古くから戦場として選ばれてきました。
 小生が所属する豊後生田姓と神戸生田とのあいだに関係があるかどうかはわかりませんが、豊後生田が多分に戦争に関係があると想えるのです。
 小生の父は豊後森町の切り株山の生まれです。切り株山は、別にシロヤマ(城山)ともいいます。
  1586年、秀吉の九州征伐が始まったキッカケは、薩摩がその勢力を九州全土に席巻しようとしていたからです。そのとき陥落させてなかった地域といえば、「佐賀を除く全域」といっても良いぐらいでしたが、佐賀のほかで占領されていない地点は柳川と切り株山ぐらいのものだったらしいです。
 すなわち、生田とはケンカ野郎くさい。
 古代語 ik には「大」があります。小生は小さい方ですが、従兄弟はバツグンの巨体でした。

 そういうとき、インドネシア語に bala(軍隊)を見たのでした。
 生田原 は釧路市の北にあっります。現地の発音はイクタハラではなく、イクタワラです。
 いにしへの遠軽アイヌがインカルシ(いつも監視することが常である岩)岩から監視したのは、ここの生田原の軍隊のうごきだったと考えられます。

 《香椎・柏原・橿原宮》
 インドネシア語 lasih(愛、恩恵、慈愛)。ウソかホントかはしりませんが日本建国のとき、オトコたちが集まった場所は橿原宮だとされています。当時の神社祭りの様子や精神文化の在り方は未だ一般には知られていないと思いますが、建国初期の勢力とは、この一語によってインドネシア系であることが、かなり言えるのではないかと思います。
 インドネシア語では kekasih は愛人、恋人です。「 ke = 人」が浮上しました。


 《 SWA(自分 ) と ISWAL( 神)》
 ネパール語を読んでいたとき、*SWA が「自分」を謂っていることは察知できていました。
 手許のインドネシア語辞書には ISWAL(神)の語は出ていませんが、そこに SWA daya(自力)があることに気づき、やはりインドネシア語にも SWA(自分)があることを見出しました。
 ただ惜しむらくは daya の語形がサンスクリット語の匂いがプンプンしていることです。このことは、初期ネパール語勢力が影響を与えたのではなく、時代が降って BC 300年以降にサンスクリット語勢力がインドネシアに影響したことを匂わせます。
 元に戻っての寄り道ですが、小生は、文字を持たなかったネパール語勢力がインドネシア地帯にやってきた時点は、アーリア民族がヒンズークシ峠、カイバル峠を越えて南下してすぐの、BC 1000年期に置きたい気分です。
 2011年 10月 24日の今日知ったばかりですが、インドにはチリひとつにも大宇宙の真理が貫かれているという考え方の「大日」という思想が 6世紀ごろまでに完成しているそうです( < 司馬遼太郎 ; 『空海の風景』)。
 末尾辞の -ye についての意味はわかりませんが、ヨーロッパ語の *ur は「超」をあらわします。これに強調接頭辞の Sーがつくとゼロを意味し、これに -ye がつくと太陽です。
 SUR に家の ghar がつくと SURGA(天国 → 駿河)となって、これはインドネシア語にもネパール語にもあります。

 小生が精神文明の統一をおもい立っての直後……50年もまえのある日です。用があって新橋に行ったとき、そのころ流行りのモルモン経(ケイ)のお兄ちゃんにひっかかりました。カナダでフシギな文字を刻んだ石が出土し、そこに「救世主は日本に現れる」と書いてあったたので、カナダのお兄ちゃんたちがハッスルしていたんです。
 話しかけられて間もなく、小生は God is in me と言っていました。
 青年は目を丸くして Are you God? と叫びましたが、小生に言わせれば「こんな不思議きわまる自分という現象は、どこかで神に直結しているはずだ」との思いはイツワリではありませんでした。

 SWA(自我) と ISWAL(神) は同根だと思います。* IS は神でしょうが……。
 アーリア人たちは、当時のインドネシア語の野蛮人たちへ「神を写した自我」という高級概念で、ヒト食いの蠻行の禁止をはじめ、社会秩序や勤勉などを教え、指導したとおもます。

 諏訪は長野・新潟では戦争の神ですが、長崎方面の諏訪様は航海とか方角の神(?)。
 ネパール語 SWAMI は僧への尊称です。
 考古学ではシナの諏訪は有名。山口県のスオウ(周防)もなにごとかを訴えているみたい。
                                           

 ーーー 完 ーーー

《 以上 》