あさもよし紀の国 MLログ 平十二年八月 発信者のお名前は省略させて頂きます。

平十二年九月 

更新 2000/09/1


0075  00/08/31
4)みなさん教えて頂きたいことが。
丹生氏が大和国志摩庄にいたと書いた本を見つけたのですが(初耳、いや初目?)どなたかこの大和国志摩庄(シマの漢字が違うかも)が現在のどこになるかご存知でしたら教えて下さい。よろしくお願い致します。

5)> ■弘法大師空海が高野山を開いたのは10世紀初頭の弘仁七年(916年)です。
>  所が、丹生都比女神社は堂々と名神大社として延喜式内社になっています。高野山
> が開かれて有名になったからでは間に合わないタイミングです。やはり、紀の国の古
> 社として、日前国懸神宮や伊太祁曽神社と並ぶ存在だったと言えるでしょう。
> 「売り」は何だったか?奈良の大仏等の金メッキにも貢献した水銀の女神だったとす
> れば、納得できますね。

丹生祝本系帳の真偽が分からないので、これを除いて私の知っている限りでは、丹生氏の惣神主職が725年にはありましたので、(その当時から丹生氏を名乗っていたかは別として)丹生都比売神社はそのころから存在していたのではと推測します。
(記紀の「天野祝」が丹生氏なのか、また丹生都姫を祭っていたかどうか不確かなのでこれも省かせていただきました)
ちなみに、弘仁7年は816年ですよ。延喜式は800年ごろの成立でしたでしょうか?

6)>  まさか「酒作り」ではないでしょうね。紀の国の「キ」には、酒の意味がありま
> す。御神酒の「キ」ですから。

インターネットでみつけたのですが、愛知にも丹生に関わる土地があるよう で、その中でこのあたりに、「ささ踊り」というのが残っているらしく、このささが鉄をあらわす「ささ」なのか、笹を表す「ささ」なのか、あるいは酒を表す「ささ」なのか、なんて書いてありました。また、この中で和歌山県伊都郡かつらぎ町三谷に「笹踊り」が残っていると書いていました。三谷は丹生酒殿神社のあるところです。丹生惣神主が天野に上るまで(1200年ごろ?)住んでいたところですね。一体「ささ踊り」のささは何を表すのでしょう?やっぱり紀(キ)の国ですし、お酒かな?酒殿ですしね。

参考に、関東の高萩市丹生神社に「ささら囃子」なるものが残っているようで、踊りもあるとか。インターネットでみつけました。「ささ」と「ささら」近いけど何かつながるものがありそうな。

0074  00/08/31
いよいよ核心にせまってきましたね。まだ全部読んでませんが一点、大きな誤りがあります。
Seto氏:■弘法大師空海が高野山を開いたのは10世紀初頭の弘仁七年(916年)です。
※9世紀初頭の弘仁七年(816年)です。

天野大社こそ、高野山の大きな後押しがあって式内社に編入されたものと思われます。かの地は、中世に高野山が大きくすたれた時期、冬の間に衆徒が下山して修行生活を続けた場所でもあります。

ところで那智山も式内社の選にもれています。この時代すでに何らかのお堂が存在していたのは間違いないでしょうけれど、熊野那智神社としてはまだずっと後、という ことでしょうね。熊野年代記などによれば高野山開創の前年、弘法大師がこのお山に訪れ、修行の聖地として弘法大師が着目しましたそうです。しかしまもなく熊野御幸の登場によって上皇方の先達の役割をおおせつかった天台系の勢力に押され、次第に少数派になっていったものと推察しています。
今も那智の滝正面左手の社務所裏にある「祈願所」(宝形造りの寺院形式の建物)の宝前の両脇には不動明王、役の行者像があり、その手前には弘法大師像、伝教大使像など、仏教ゆかりの木像が鎮座されています。

本宮はあくまで新宮とセット、というのが私の推論です。というのも、文化人類学上、文明とはそのほとんどが大河の河口部より始まり、上流にさかのぼってゆくのが常だからです。したがって、河口部の人々がその川の源流を崇め奉る意味で「本宮」という存在が必要となったわけでしょうね。本宮・音無川の上流には船玉神社という名前の神社の存在していることがその裏付けとなるでしょう。
神倉神社と速玉大社とは、本来まったく関係のないものと思います。

もうひとつ、新宮には飛鳥神社(今は阿須賀神社)というこれまた由緒正しい神社がありますが、これら三社は現在、共同で祭礼を行っているようですが、まったく別の起源と由来をもつものでしょうね。

0071  00/08/31
Ekawa> 紀氏の強力な後押が
Ekawa> 早玉神社の神格を上げた
Ekawa> 熊野本宮の神格を上げた

 平安時代に入ったまもなく、時の法律である延喜式の制定が905年から開始されました。この中に神名帳があり、ここに掲載された神社を式内社と言います。
 この意味は、少なくともその頃にはそこそこの神社と認められていた証と言えます。
 それ以外にも多くの古社があった事は当然です。

■早玉神社の近くには天磐盾に比定されるごとびき岩の神倉神社が鎮座しています。熊野の高倉下は古事記・日本書紀に記載があり、これらの編纂の時期より以前に知られていたはずです。何故か、式内社の選から洩れています。この頃はすっかりお寺になっていたのかもしれません。

■熊野坐神社
 この地の経済価値は何んだったんでしょう。材木、熊野・熊野灘の特産品の大和・吉野との交易、田辺の須佐神社をさしおいて式内社になる、それも名神大社、これは経済ではなさそうです。紀氏の運動だけでもなさそうです。
 当時は既に修験道の行者もいたでしょう。はやはり聖地として崇敬されていた事が大きかったように思います。延喜式制定から100年後白河上皇は熊野詣でを行いました。貴人が真っ先にと言うのは日本的ではないですね。プロである修験の人々(先達となる)、次に物好きの貴族や庶民、それから皇室とすれば、あの時代には100年位要したのかもしれません。

■石清水八幡宮の勧請は859年、宇佐神宮から朝廷の肝いりで勧請されました。八幡の本体が移動してきたのです。この社も式内社ではありません。この社は地方豪族の運動とは関係がない社のはずです。洩れたのは創建間もないからでしょうか。

■弘法大師空海が高野山を開いたのは10世紀初頭の弘仁七年(916年)です。
 所が、丹生都比女神社は堂々と名神大社として延喜式内社になっています。高野山が開かれて有名になったからでは間に合わないタイミングです。やはり、紀の国の古社として、日前国懸神宮や伊太祁曽神社と並ぶ存在だったと言えるでしょう。
「売り」は何だったか?奈良の大仏等の金メッキにも貢献した水銀の女神だったとすれば、納得できますね。
 まさか「酒作り」ではないでしょうね。紀の国の「キ」には、酒の意味がありま す。御神酒の「キ」ですから。

0066  00/08/30
0065の「地元の紀氏(朝臣)」は「地元の紀氏(直)」の間違いです。
紀直(きのあたい)は紀の川の南に拠点を置いた大豪族です。地元です。
紀朝臣(きのあそん)は武内宿禰から出たとされます。中央で活躍した氏族です。

0065  00/08/30
えかわさんが、紀氏や須佐神社について、お考えを披露してくれました。
一挙に、紀の国の成り立ち、歴史の根元に迫る重要な課題ですね。

まず、須佐神社について

Ekawa> 須佐神社紀氏による海上進出の痕跡である
 私もそう思います。紀氏には非公開系図があって、その祖は素盞嗚尊から記述されているとの事です。それでは、非公開ではないではないか?尤もです。非公開系図を見た人(名草杜夫さん)が講演会でしゃべり、その議事録を見ました。情報公開の時代ですね。

 伊太祁曽神社の祭神の五十猛命が全国的に祀られていますが、この多くも紀氏が瀬戸内や玄界灘、朝鮮半島へと往き来していた拠点として祀られていたのではないかと思います。紀氏が紀の国へ来る以前にも素盞嗚尊や五十猛命を祀った神社もあると思います。

 紀氏と言えば日前国懸神宮ですが、紀氏の衰えた後の神と思われ、日前国懸神は殆ど分遷されていません。名草神社の方が多いかも知れません。

Ekawa> 有田市・須佐神社を海上拠点とし、
 有田は千田の須佐神社は、当初西向き(海の方角)に建っていたが往来の船が恭順の意を示さない場合に、転覆させたりする事が多かったので、社殿を南向きに変えた。との伝承があります。豪族は海賊的な徴税をやっていたと言う事でしょう。丁度、中央の紀氏の勢力が衰え、地元の紀氏(朝臣)が紀伊半島の経営に本腰を入れ始めたのかもしれません。西向きであったと言う事は「海に向かっての拠点」としてふさわしいですね。また南向きに変えさされたと言う事は徴税権を奪われたと言う事でしょうか。紀氏の勢力の衰えを示す伝承でしょうか。

Ekawa> また、熊野への陸路となる田辺市・須佐神社を陸路の拠点
 中万呂の須佐神社は当初は岩船山の頂上に東向きに建っていたそうです。東の方 角、まさに中辺路の方です。陸路の拠点にふさわしいですね。

Ekawa>日前宮と熊野街道の中継点にあたる口須佐(これは今
Ekawa>風にいえば口熊野ではないでしょうか)に紀氏は須佐
Ekawa>神社を置き、拠点とした
ここの部分でいささか違う観点から

 現在も江戸時代にも、口須佐に隣接して南側に奥須佐が存在しています。従って、
口須佐の口は狭い領域の須佐、奥須佐への入り口的な意味だったのではないでしょうか。口と奥があるのに須佐はありません。では、須佐はどこだったのでしょうか。
 伊太祁曽神社の鎮座する伊太祈曽だったのではと思っています。(証拠なしです)
ここを須佐とすると、現社地の西ノ谷には千田へ遷座した須佐神社が鎮座していたのではと考える事ができます。と言うのは、両社の遷座の時期が共に和銅六(702)年との説があるからです。
 両社の祭神の親子関係伝承、祭礼時の相互訪問、須佐神社には伊太祁曽神社遙拝所がある事などを考えると、どうも無関係ではありえないように思われます。
 とりあえず、須佐神社のみの感想です。

0063  00/08/30
 野上庄にあった「溝の口遺跡」の高札に 昔、このあたりの人々は麻を栽培して衣服に用いたとの記述を読んだ記憶があります。(うーん、私の記憶違いでなければ)
神曲川の岸辺で麻の栽培をして 布にして着ていたとは古の人々は優雅に自活していたのね、といった感じです。

> 麻裳あさもよし紀人きひと羨ともしも真土山行き来くと見らむ紀人羨しも
広辞苑で引いたら 真土山って「和歌山県橋本市真土、あるいは落合川を隔てた奈良県宇智郡阪合部村(現、五条市)の待乳山(待乳峠)ともいう。」
も一つ、「和歌山の散歩道」を開いたら 万葉の里 真土とでていました。 「万葉の道」の石碑はあるし、結構観光地なんですね。 R24沿いなのに 気が付きませんでした。
も一つ、麻裳あさもよし の 裳の字を漢和辞典で調べると「もとは衣、腰から下を覆う着物」 衣装の名称なのか広辞苑だと紀あるいは城にかかる枕詞なのですね。 いずれにしろ優雅でよろしいのではないでしょうか。

0062  00/08/30
あさ・もよしは紀伊国の枕言葉として万葉の時代から公認されていた。
蜜柑が和歌山の物産になるのは後のことで、麻が紀伊国の名物産であったようです。
このことは万葉集でも歌われているようです。
麻はくわ科の一年草。

「麻衣着ればなつかし紀伊の国の妹背の山に麻蒔く吾妹」万葉集7.1195
この当時倭国は軽い氷河期という説があり、麻の栽培は紀伊の国の気候、風土にあい特産となったものと思われます。
推測ですが、紀伊の国は当時としては人口が多く、相当発達した民意(農耕、魚業、狩猟、山林)があったものと思われます。
とわいっても、夏は暑い、麻の着物は涼しくて艶のある衣であったと思われます。

0061  00/08/30
あさもよしの件、なかなかよい感じではないですか。
和歌山県は全国で唯一(私は最近勝手にそういってます)、万葉集に由来する県名を持つ県ですからね。

万葉集、そして日前宮…。たまたま、仕事でとりかかっているテーマと当MLでの話題が重なって、毎回興味津々でROMしております。

そこで私の大胆な仮説をひとつ。

「紀伊国と熊野は昔も今もひとつ」
・根拠 紀州は昔も今も北部が繁栄し、南部が自力で繁栄した歴史はない。また、熊野には国造に近い支配者がいたとされるが、国府が置かれたという記録がない。
熊野国造に見立てられる伝説の人物、大阿刀尼足(おおあとのたじすくね)は、弘法大師の母方の一族の名・阿刀大足に酷似しており、もし存在したとすれば海上交易を通じて紀氏が田辺以東の支配を委ねたと思われる。もし、実在しないのであれば、その名は中世、熊野の支配を確たるものにせんがために高野聖が流布した弘法大師一族の名が誤って現在まで伝えられたのであろう。

ちなみに田辺市・須佐神社が鎮座する万呂の地は、熊野の古来からの郡名である「牟婁」の語源であるとされ、すなわち、むろ=室とは高貴な人物の領地である。とすれば、紀伊国においてそれは紀氏しか考えられない。よって熊野は国造が廃止される前、大化の改新以前にあっても独立した存在の国ではなく、紀伊国(熊野市以南)であったと考えられる。

・仮定 延喜式に熊野早玉(速玉)と熊野本宮が初めて登場した背景には、その統領たる紀氏の強力な後押しがあったはず

・理由 紀氏は紀伊水道、熊野灘の海上交通を握り、有田市・須佐神社を海上拠点とし、熊野へ往来し、その権威の象徴として早玉神社の神格を上げた
また、熊野への陸路となる田辺市・須佐神社を陸路の拠点とし、そこから奥熊野最初の拠点として熊野本宮の神格を上げた
日前宮と熊野街道の中継点にあたる口須佐(これは今風にいえば口熊野ではないでしょうか)に紀氏は須佐神社を置き、拠点とした
ここにあげたいずれの神社もスサノオノミコトが祭神であり、いずれの神社も古代から交流があったと伝わる。創建年代の古さも甲乙つけがたいであろう。
スサノオノミコトは海上交通の安全を祈願する神であることから紀氏による海上進出の痕跡であると考えるのが理にかなっていると思われる。

0055  00/08/30
天一社の記録(続風土記から抽出)
天目一箇命社  名草郡 国懸宮末社
天一社  名草郡 多田郷 本渡村
廻神社  海部郡 濱中荘 椒濱村 天一神大白神
天一神社 在田郡 石垣荘 釜中村 天一神は一夜巡りの神といふ
以外と少ないですね。

0053  00/08/26
日光神社について

えかわさん >高野龍神スカイライン付近の山中(清水町)にはかつて、日光神社と呼ばれる巨大な神社がありました。
はい、地図上で見つけました。高野龍神スカイラインが龍神村に入る手前2kmの笹の茶屋峠の西にあります。と言う事は、現在も祠はあるのでしょうね。

どなたか通りかかったら見ておいて下さいませんか。写真など流してもらえれば幸甚です・・・。

紀伊続風土記で
在田郡山保田荘 上湯川村 の條
日光神社 境内八十町 本社三社
祭神不詳、日光権現と言う。熊野権現を祀る。・・ 云々とあります。
中世社殿の図として小松氏に蔵む
社殿大小合せて八宇多宝塔薬師堂合せて四宇
鳥居四箇所 宝蔵一箇所 寺院六箇所ありて壮麗なり 是を日光三十八社といふ 社殿の趣熊野に似たり

和歌山県神社誌
有田郡清水町大字清水 八幡神社
明治十年上湯川村日光神社等を合併。指定文化財 日光社懸面三面

立理荒神
荒神社 奈良県野迫川村池津川
池津川の南が北股でここの南谷と言う所に古荒神と言われる所があるそうです。旧地とされます。
祭神は火産霊神で火之迦具土神の別名です。愛宕神社、秋葉神社と言う名で全国的です。火山、焼き畑、火切臼の発火等の神格と諸説があります。

0052  00/08/25
0050> この天一神社は天目一箇神を祀っていたのではないでしょうか。身近に踏鞴の神様が
> おられますね。随所で踏鞴製鉄がなされていたのでしょう。

再度、那賀郡神社明細表をみますと、天一神社の祭神は天麻比斗津神とされております。なるほど 一つ目の神ですか。
他にも 野上荘内において 金毘羅神社(祭神 金山彦命)金刀比羅神(祭神 琴比羅神社)の名を見つけました。
うーん、探せばあるもんだなぁ。((>_<)灯台もと暗し)しかしこの神社、草か山に埋もれているかもしれません。
蛇足ですが 以前から海南市下津野と原野地区にある名もない国道424号沿いの神社が気になっていたのですが(実際鬱蒼とした森の奥まで入ったりしたのですが)野上八幡宮誌を読み進むうち この神社がかつて鳥居の宮とよばれこのあたりに八幡さまの鳥居があったことがわかりました。
もう 憎むべきは明治の合祀令ですね。(いや、合祀令のせいかどうかわからないけども)

> この神については谷川健一さんの名著「青銅の神の足跡」小学館ライブラリーがあ
> ります。わくわくする程面白いと思います。

楽しそうですね、また探してみます。

以前書き込みをした貴志川八幡宮なのですが、この暑さなので奥の宮まではまだ行っていません。この地の先住の神様は宮司の奥様にお聞きしたところ立てり岩こと賽の神さまだったような気がしますが(字がちがっていたらごめんなさい。)。

立てりで思い出したのは 高野山の巽の方角にある荒神さま(奈良県野辺迫村)のことです。
この神は この地を聖地としてお決めになったお大師様がお経を唱えている時、巽の方角に にわかに黒雲あらわれ多数の眷属を引き連れた異形の者飛来し われを祭るなら 高野の守護神として 云々という荒神さまの由来を読んだ記憶があります。
この神は火の神、商売の神として民間信仰の名高い神です。うちの実家も信心していて よくお参りします。 実際何度もお参りしましたが 奉納の鳥居の数がお稲荷さんなみなのです。(住所をみると関西、大阪方面も多く、企業名も多い)

この神さまは いったいどういう神様なのでしょうか?存知の方、いらっしゃったらお教えください。

0050  00/08/25
0035>那賀郡神社明細表によると北野上大字別院には 牛神社、八幡神社、天一神社とありますが高野明神の名はありません。
この天一神社は天目一箇神を祀っていたのではないでしょうか。身近に踏鞴の神様がおられますね。随所で踏鞴製鉄がなされていたのでしょう。
この神については谷川健一さんの名著「青銅の神の足跡」小学館ライブラリーがあります。わくわくする程面白いと思います。

 八幡と丹生との関係ですが、0025で紹介されている播磨風土記にもあるように、協力をして祀られたとのですから、相当な関係がったと見るべきでしょうね。

 宇佐八幡の鎮座する大分県には水銀の鉱床があります。国東半島は木の国と呼ばれており、紀の国とは何らかの形でつながっていたのでしょう。

 大分の「分」をイタと読みます。この「イタ」は分けると言う意味です。紀の国の国魂とされる伊太祁曽神社の神は分遷された神です。イタキソとは分遷された「キ=神」「ソ=祀る所」と解釈ができます。キムラさんは神の坐す村の意ですね。

0047  00/08/24
 神様と神社に興味をもって3ヶ月という身なので皆様の話題内容になかなかついていけませんので県立図書館へ出かけて勉強中です。

「鉄の民俗史」という本には金屋子神についての詳しい記述があって面白かったです。
熊野には一ツ踏鞴という一ツ目の妖怪伝説があることは以前からしっていたのですが これは天目一箇神という製鉄の神様を宗教的に抽象化したものらしい という面白い考察がありました。
大台ケ原方面にもこの妖怪の伝承はあります。修験道(山伏)と鉱山・鉱脈探しの関連、金屋とはやはり製鉄に関連した言葉
民俗方面ではまだまだ和歌山と製鉄に隠された関係がありそうです。

 ところがじっさいの遺跡となると「日本古代の鉄生産」(たたら研究会編)という本を読むと和歌山の遺跡はさっぱり…ということになります。山が深くて木の国だから埋もれてしまうのでしょうか。

  瀬藤さん 水銀の用途について詳しい説明、ありがとうございます。まるほどめっきの触媒なのですね。
 水銀の用途を考えると庶民とはあまり関係なさそうです。交易ルートとか 売買の記録とかあったんだろうか。

 また現在紀氏についても勉強中なのですが過去、野上八幡宮の検知職とされている 葛葉氏と武部氏、この方たちも紀氏の出だそうです。
葛葉氏については武内宿禰を祖とする僧、行教(岩清水八幡宮の創祀者)の三男に紀の今守という人がいて 男山(岩清水八幡宮)に奉仕していたが野上に住む事を条件として検知職に補任されたということです。この人が野上の名家 葛葉氏の起こりだそうです。

0046  00/08/23
 一般論ですが、社寺には鎮守神と地主神があるやに聞きます。
鎮守神とは、お寺を守る、これが丹生都比賣、地主神はその土地の神で高野御子、社寺建立の際、土地の地主神を祀ったとされます。ややこしいですが、二柱の神々で守られる、すなわち、祀る風習があったと思います。

> それにしても水銀ってなんの役に立つのだろう。
> 金銀の精錬のほか、日本絵の具の材料かしら。
大仏様は金メッキをなされていました。金を水銀に溶かしてアマルガムと言う物をつくります。その液体を大仏さんの表面(銅で出来ています)に塗り、炭火で加熱して水銀を蒸発させると、金が銅に食い込んで、メッキができるそうです。
 メッキと言うのでしょうか、青銅器に水銀を塗ると、よく光るそうです。青銅の鏡なんかの表面に塗られたのではないでしょうか。そうでないと鏡として実用的ではなかったのでは。

 石の鏡(でなくとも石の表面が平面なら)に辰砂を塗りつけてこすると、石でもいい鏡になったそうです。石凝姥命と言う神様はその現象を神格化したものとの説があります。日前宮に祀られています。
 大和の田原本の鏡作坐天照御魂神社もこの神を祀っています。日前宮や伊勢神宮の神体に関係する伝説が残っています。硝子会社からの寄進が多い神社です。

 太古は水銀としてではなく、辰砂、丹砂として、そのまま防腐剤として利用していたようです。古墳の中等から大量に出たりします。朱は魔よけの意味があったとか。
豊臣秀吉は資金稼ぎに古墳を掘って辰砂を入手していたようです。秀長を大和郡山の城主にしたりしていますが、古墳の多い所を選んだのかもしれません。

所で、ログを作ってみました。
http://www.kamnavi.net/log/kam1208.htm です。一度のぞいて見て下さい。特に後から参加された方には便利かと思います。なお、メールの範囲での公表にとどめ、ホームページ上には具合が悪いとお考えの方はおっしゃって下さい。削除します。著作権は発信者にありますから遠慮なく申し出て下さい。

0044  00/08/22
>0041
☆ええ〜。そうなんですか。勉強になります。とすると高野明神に関する私の持論は速くも崩れてしまいました。なんとあっけない。まあ早く分かってよかったです。

0043  00/08/22
紀氏、丹生氏、息長氏は親戚筋?考えてみました。

 丹生良広氏の『丹生神社と丹生氏』によれば、丹生氏の第一歩は筑前の伊都の地とされています。 この地は邪馬台国の伊都国に比定されますが、ここには水銀鉱床は出ていません。しかし紀の国の主な水銀産地は伊都郡内にあり、伊都国から人と共に地名が運ばれたとの想定です。 伊都国王の後裔が紀州丹生氏や怡土県主の五十跡手につながり、大分豊後丹生氏になっていったとの見解を開示されておられます。伊都国の氏神の高祖神社の祭神の高磯比めを丹生都姫と見ておられる誠に興味ある説です。

 確かに、筑紫の高祖神社や託杜神社の祭神を丹生都比女命もしくは赤留比売命と見る説があります。いや同一神と見なす考え方も出てくるでしょう。丹生氏と息長氏とは天日槍の後裔と言う事になります。播磨風土記では、息長足姫が新羅征伐に赴く時、集まった神々の中に爾保都比売命がおり、自分を良く祀ってくれるならば赤土を与えようと言い、その赤土を船体などに塗って新羅の攻略に成功したとあります。帰還後、息長足姫は爾保都比売命を紀伊国筒川の藤代の峯に鎮め奉ったとあります。協力関係が見て取れます。

 筑紫に怡土郡、那珂郡が並ぶように、紀の国にも東西が逆ですが那賀郡、伊都郡が並びます。ナカは中で間の意味やナーガで蛇の意味があり、偶然かもしれませんが、丹生氏が筑紫から紀州の伊都郡へ来たとの想定もできます。

 それより国造の紀氏と丹生氏は同族との見方があります。この紀氏が祀っているのが日前国縣神宮で、紀氏の氏神と推定される国縣神の神体は日矛鏡と言われます。物理的には形を想像しにくい日矛鏡ですが、天日矛の依り代なら話はつながります。

これは紀の国誕生の鍵を握る所まで話が延びるかもしれません。とりあえず。

0042  00/08/22
高野御子神についての詳しい説明ありがとうございます。
熊野が修験道の影響が強いのなら、紀北は高野山の影響が強い事がわかりました。
 その当時の政治的背景が神社仏閣の隆盛とかかわっていることもわかりました。

 それにしても水銀ってなんの役に立つのだろう。金銀の精錬のほか、日本絵の具の材料かしら。少し水彩画も描きますが 朱色(バーミリオン)は高価です。わたしはTINT、合成品を使っています。

 それにしても出雲、丹後の国と比較して和歌山ってあんまり製鉄と関係ないみたい。

0041  00/08/22
 高野山の名前についてですが、みなさんすでにご存知かとは思いますがこれは本来、地名ではありません。弘法大師によって名付けられた金剛峯寺の山号です。すなわち、高野山金剛峯寺ということですね。この山号は弘法大師自筆の書状が文献上の初見です。
 なお、金剛峯寺は広義で真言密教の修禅道場たる高野山全体をさしますが、狭義では明治時代初頭、青厳寺(学侶方の本山)と興山寺(行人方の本山)との統合によって生まれた総本山・金剛峯寺を指します。

 地名の「高野」は「たかの」が古来の読み方であり「たか」は「鷹」にもつながり、「狩場」明神とのつながりが注目されるところです。
 高野山開創以前に「こうやさん」に類する地名が存在したことは現在のところ、確認されていません。開創以前の高野には広大な湿地が広がっていたと思われます。現在の壇上伽藍は湿地、金剛峯寺前の千手院橋あたりは有田川の源流が流れていました(なおこの川は現在、道路下の地中を流れています)。

 高野山のやや南側、高野龍神スカイライン付近の山中(清水町)にはかつて、日光神社と呼ばれる巨大な神社がありました。これはもと熊野三所権現を祭祀する神仏習合の神社であったといわれています。地理的には熊野より高野の方が近いので、境内には多宝塔や経蔵も存在したことでしょう。しかし江戸時代、紀州徳川家の入封とともに日光神社に改められ、参詣曼荼羅の書き換えが行われています。 江戸時代初期、権威が落ちていた熊野を名乗るより、徳川の威光を背景にしたほうが神社の維持発展には都合がよかったのでしょう。
 このあたりの地士・小松弥助は平維盛の末孫との言い伝えがあり、江戸時代は諸役御免で小領主の趣がありました。日光神社は、明治の廃仏毀釈で廃絶されましたが、もし今残っていれば、高野、熊野に匹敵する規模の名刹になっていたかもしれません。

0040  00/08/22
>高野御子神もその一種かも知れません

☆狩場明神と高野明神については持論を近々?なにがしかの形でお披露目できれば(恐らくHP)と考えておりますが、調べれば調べるほどつぎつぎ新しい情報と疑問が増え,かつ和歌山にはほど遠いところに住んでいる関係上、調査が全く進まないのもあり、発表できるのがいつになることやらと思う次第であります。
 よって、今は詳しく持論を言えないので申し訳ないのですが(まあ裏づけの足りない部分もあるので)、高野明神について私の推測を言いますと、高野山を活動の拠点としていた豪族(丹生氏?)を、空海が高野の地名をとって神として祭ったのが高野明神だと思います。おそらくは、高野山にて活動していた(支配していたかは分かりませんが)その豪族と仲良く共生していくための空海の戦略?配慮?ではないかと。非常にうすっぺらい推論ですいません。

>  所で、文献名は忘れたのですが、高野山はその昔「高麗山」と呼ばれていたとの記
> 述を読んだ記憶があるのですが、どなたかご存じないでしょうか。丹生都姫のルーツ
> に関わるかも知れませんね。

☆「古老曰く、高野山は、奥の院の小山の姑射山(コヤサン)から来ていると」と言う話は聞いたことがあるのですが、「高麗山」と呼ばれていたことについては分かりません。今後調べるときにはそのあたりにも気をつけて調べてみます。

0039  00/08/22
>川辺町江川は私の祖宗の地です。
由緒−−−−−−−
江川の丹生神社の鎮座する当地は、旧丹生村と称し、丹生都姫命とは特にゆかりの深い土地であり、明治の神社合祀以前には丹生地区には丹生都姫命を祀る小祠が随所に鎮座していた。
例祭(笑い祭)の奇祭も和佐地区に古くより伝わる祭事であり、県指定無形民俗文化財を受けている。−−−−−−−−−
10月10日の秋の例大祭を「笑ひ祭」として山車の一種でしょうか「やたい」もでるそうですね。名物が丹砂から笑いへ、どうしてこうなるのでしょうね、面白い変遷ですね。

御子神にはいくつもの説があって、分霊を祀ったりする時にも熊野王子、若宮などと同じように名付けられる事があるとされます。高野御子神もその一種かも知れませんが、巫女もミコで、神を祀る神とされた場合もあるようです。丹生都姫神を祀る氏族(丹生氏?)が高野の地にやってきて、土地の神をもって、丹生都姫を祀る神に仕立て上げたとは言えないでしょうか。

 そうすると高野山は、高野の地主神、丹生都姫、真言宗と主役が交代していったのかも知れませんね。そうすると狩場明神を高野御子神の化身とすれば、弘法大師に高野山を譲るのは本来の地主としての行為と理解できますね。

 所で、文献名は忘れたのですが、高野山はその昔「高麗山」と呼ばれていたとの記述を読んだ記憶があるのですが、どなたかご存じないでしょうか。丹生都姫のルーツに関わるかも知れませんね。

0038  00/08/22
最近、議論が多岐にわたってきたのでどこで返信しようかと迷ってましたが(^^)
やや落ち着いてきたようなので私見を少し…。
>>高野山と丹生都姫との関係の中にも、土地の借用期限の十年の文字の上に「ノ」
>>を書き込み、「千」としたとの話が伝わっています。考えてみればもう千年は経
>>ていますね。返しますか?

高野の地は、弘法大師空海が嵯峨天皇に上奏文を提出し、勅許により下賜された土地ですので、「ノ」の説、「ねずみ」の説はちょっと?って感じですね。空海自身、入定の際、この世に人類が存在する限り、すべての人民の救済のために生き続けると宣言しています。ということは、弥勒菩薩の出現までの期限ですから、あと56億7千万年ですね。
>いずれにしても、いつの時代からか高野山側と丹生氏?との関係は悪かったの
> は確実ですね。

丹生氏と高野山との関係を示す文書を拝見したことがないのでこのことについては何もコメントできませんが…真言密教は寛容を説く宗教ですから、安易な対立はしなかったと思います。天野から高野への丹生明神の勧請については高野開創直前か、直後かの2説がありますが、いずれにせよ、弘法大師は若い頃からこの地を巡覧し、よく知りぬいた場所であったことは事実のようです。もうひとついえることは、天野における朝廷支配の開始もしくは弘法大師の来山により、消された歴史があったかもしれない、ということです。

私自身、弘法大師と水銀の関係については確たる証拠を拝見したことがないので肯定も否定もできませんが、仏教と辰砂との関係を考えたときに、辰砂から採れる水銀は仏像や仏具の原料となるべき金や銀を精錬するのに不可欠なものであることから、誰かが探し歩いていても不思議ではありません。もしそうであるとすればその人はおそらく修験者か聖かと思います。弘法大師も若い頃は山野を駆ける修験者だったようですが・・・ただしこの場合、丹生神社の周辺に精錬所が実在したのかどうかを考証する必要があります。

丹生明神と狩場明神との関係、解釈にも諸説があり、これらのことはわからないとしかいいようがないですね。ただ、弘法大師が朝廷から下賜された土地に修業道場を新たに建立するにあたり、地主神を高野山に勧請した行為は、地元との融合を願ってのことであることだけは容易に推察できます。その後、高野山においては丹生明神、狩場明神に気比大神、厳島明神という、真言宗ゆかりの神社に祭祀されている神々を勧請し、柵で囲った結界の中に春日造の社殿を配置し合祀しています。このスタイルが定着し、四社明神として祭祀された神社が各地に多数出現しました。その代表が天野大社であり、高野山の壇上伽藍にある四社明神社です。

天野大社本来の地主神は狩場明神といわれていますが、弘法大師は高野山開創にあたり丹生明神を勧請しています。以来、天野大社は神仏習合の式内大社として高野山の発展とともに栄えました。

この地には長床衆とよばれる修験の一団が起居し、葛木山、吉野山、熊野三山とも交流したといわれます。かれらの痕跡を示す大型の石塔は現在、天野大社の境内の外に淋しく打ち捨てられています。天野大社では、明治の廃仏毀釈で多宝塔はじめ境内の堂塔が多く失われましたが、仏像仏具は高野山に引き上げられ、今にいたっています。

瀬藤さんから以前ご説明のあった川辺町江川は私の祖宗の地です。その地にある丹生神社は笑い祭で近年有名になり、川辺町の町のスローガンも「笑みの町」となっております。

0037  00/08/22
☆高野御子神について
> しかし、高野御子神ってどういう神様なんだろう?

☆高野明神は丹生都姫の御子神(丹生都姫神社誌より)。地主神。

 丹生都姫神社誌より
 「高野大明神の神名「高野」は天野に通じ、地名を冠する事からも、土着の地主神であったことが想像され、狩人に化身している事は、この丹生社創建以前には、狩猟民によって天野に神が祭られていたことを知られる。・・・」 空海が高野山の山霊を神格化して誕生させた神であるとの説もあり。 私は後者の方が事実に近いのではと思っています。

> > 野上町西野志賀宮に丹生神社が鎮座していますね。

☆丹生神社のある地名には、志賀宮、真国宮、毛原宮、長谷宮と宮のつく地名が多いのですね。

☆丹生都姫神社の紋は左巴(お玉じゃくしのあたまが右回転してる紋)ですが、他の丹生神社も同じなのでしょうか?八幡さんも同じでしたっけ。これって八幡さんの影響でしょうか?

0036  00/08/22
> 高野山と丹生都姫との関係の中にも、土地の借用期限の十年の文字の上に「ノ」を
> 書き込み、「千」としたとの話が伝わっています。考えてみればもう千年は経ていま
> すね。返しますか?
>  もう一つは、期限の所をネズミがかじってしまって、無期限だとの話があります。
> 現在も返却しないのは、ネズミが根拠でしょうか。

☆この2説は有名ですね。一体どちらが正しいのでしょう。 いずれにしても、いつの時代からか高野山側と丹生氏?との関係は悪かったのは確実ですね。この2説から言える事は高野山側は強かった、と言うことでしょうか。

0035  00/08/19
> 続風土記の野上荘には
> 別院村  高野明神社 
> 冷水村 高野明神社
> が記載されています。

たしかに野上庄、神社表(紀伊続風土記より抜粋)をみると
別院 祓峯竜王社、歩路池水神社に高野明神社。(合祀不詳とあります。)
冷水 高野明神社
の表記があります。地元なのに、よく知らなかったです。お恥ずかしい(>_<)

那賀郡神社明細表によると
南野上村大字冷水 大上垣内に 高野明神社(祭神 高野御子神)とありますが北野上大字別院には 牛神社、八幡神社、天一神社とありますが高野明神の名はありません。

明治末の合祀令により160社内外(紀伊続風土記では、107社となっている。)あった野上地域の神社は、うち157社を野上八幡宮の本殿及び境内神社へ合祀したと その宮誌に記載されています。(でも大正時代には元の場所に戻された神様もあるというし、数なんてその時点のものでしょう)しかし、高野御子神ってどういう神様なんだろう?

以下は「野上八幡宮誌」より読み出したこと。
「高野山文書」によると、野上庄は、たとえ一時的にせよ高野山領となった記録は見当たらない。しかし鎌倉後半時代になると、神野・眞国庄との境界付近の地、即ち小河(※山本注 小川宮のこと?)柴目の地は実質的に高野山の支配が及んでいたらしく…以下略いろいろ領地争いがあったとのこと。
また後醍醐天皇の「元弘の勅裁」により 野上の庄において元弘3年(1333)岩清水八幡宮の荘園統治は終わりを告げたとあります。
南北朝時代、岩清水八幡宮の隅田南庄や鞆渕庄が高野山領としてその治下にあるところからみて 野上庄も高野山領の範疇にあったかもしれないと「野上八幡宮誌」の著者 森本喜代一先生は結んでいます。この辺は日本史の勉強をしなおさないとちょっと私には理解不能です。

> 野上町西野志賀宮に丹生神社が鎮座していますね。
詳しい説明ありがとうございます。
美里町真国宮のあたりは母の実家があってよく遊びに行ったのですが途中の志賀野の丹生神社には気が付かなかったです。
真国川沿いなのですが 少し道から引っ込んだ場所にあるからかな。

> >  (いつから大和政権下に置かれたのか、私は興味あります。)
> そうですね、私も大いに興味があります。

 このことは初心者の私には難しいので ここでは言及しません。誉田皇子が野上の地に寄られたのは、武内宿禰の生まれ故郷に近かったから?住人は身分の高い人がこられたのに驚いたでしょうね。(皇子さまは、まだ御年二才ぐらいだったそうですが)私のご先祖様も住人の中にいたかもしれません。

0034  00/08/19
>野上の庄は貴志川、古名を神曲川(少なくとも野上の庄では)を中心に持ちながら丹生神社は存在しません。
おっしゃる通り、旧高野領で野上荘には含まれていないのかも知れませんが、現在の野上町西野志賀宮に丹生神社が鎮座していますね。
御参考に由緒です。−−−−−−−−−−−−
 当社の由緒と創建については詳細は不明であるが、伝承によると、約四百年余り前の建立だという。当時、寄付金として、銀・銅を集めたという記録がある。 本殿は、現在かなり老巧化しているが、建立当時は多彩に彩色され、周囲の壁面には巧みな絵が描かれていたことがうかがえる。
 また、当地の古老によれば、幼少のころ竹馬を作り、それにまたがって境内を回り、氏子の無病息災を祈願したという。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
さて続風土記の野上荘には
別院村  高野明神社 
冷水村 高野明神社
が記載されています。現在はどの神社にも摂社としても出ていませんが、おそらくは明治末期の神社合祀の時にまとめられたのかもしれませんね。和歌山での神社合祀は激しかったようですから・・。

>  (いつから大和政権下に置かれたのか、私は興味あります。)
そうですね、私も大いに興味があります。紀氏の動向でしょうかね。連立政権を作ってから、協力者になり、そして支配下に入ったイメージでとらえていますが、状況証拠だけですね。紀氏が日前国縣神宮から紀の国の国魂とされる伊太祁曽神を山東へ遷した頃でしょうか。

0033  00/08/19
野上の庄は貴志川、古名を神曲川(少なくとも野上の庄では)を中心に持ちながら丹生神社は存在しません。

 応神天皇ゆかりのこの地に八幡神を創祀せよとの命令がこの地に下ったのが欽明天皇の頃とされていますが縄文晩期の「溝ノ口遺跡」も残る野上谷は 昔から人々にとって住みやすい地だったのでしょう。
 (いつから大和政権下に置かれたのか、私は興味あります。)

 淳和天皇(824〜833)の御世、弘法大師が野上八幡宮に参詣して不動尊を描かれたという記述が[歴代記」にはあります。
 野上の庄に隣接している貴志川町、野上町にも丹生神社はあります。
 丹生神社が高野山とかかわりが深いのなら、八幡神にお大師様はご遠慮されたのかもしれません。

0032  00/08/19
かつらぎ町誌より引用して頂きました。
 『神武天皇の初かた紀和の国境丹生の川上に天降り給いて神勅ありき、天皇託にまかせ神策をめくらし山跡の土蜘蛛をほろほし、国土をひらき皇居を橿原にふと しく建給ふ、此神賽として、東は大和国を限り、西は生石か峰筋、北は日本河、南は海に及ふまての山地を月読の尊に奉れり、よりて天野沢中小嶼平坦の地に鎮座なる、是を丹生津比売与唱る事は直に神体ささす、・・・』

 愚考を述べてみます。
 これが丹生都姫の領域と言う事ですが、西は生石か峰筋とは、現在の生石山で和歌山の人のハイキング等に愛好されている山です。生石神社(創建10世紀)が鎮座しています。

 【なぜ、西方だけが決めの細かい範囲になっているか】が一つの疑問になります。
 阿て川荘の領有をめぐる高野山対寂楽寺・湯浅氏連合との確執があるようで、生石か峰筋までと言う事は阿て川荘は丹生都姫の領域すなわち高野山の領域であるとの神話的裏付けなのでしょう。朝廷には効き目があったのかもれませんが、鎌倉幕府にはあまり効き目がなかったようです。

 高野山と丹生都姫との関係の中にも、土地の借用期限の十年の文字の上に「ノ」を書き込み、「千」としたとの話が伝わっています。考えてみればもう千年は経ていますね。返しますか?

 もう一つは、期限の所をネズミがかじってしまって、無期限だとの話があります。現在も返却しないのは、ネズミが根拠でしょうか。

0030  00/08/18
 ☆は私の書いたところです

> 稚日女尊と丹生都姫を同神とするのは、記紀に出ていない神々をして、何とか尊そう
> な由緒付けをしようとする試みの一つでしょう。

☆私もそうだろうと思います。

> 丹生氏は紀氏から分岐しているのではとの見方があります。この場合は紀豊耳を祖と
> するようです。丹生氏の奉じる丹生都姫は国津神のほうでしょう。

☆紀氏との姻戚関係はありますが、豊耳から本当に分かれているのかどうかについては現在調査中。丹生祝本系帳の家系を論じた部分について私は現状信用しておりません。が、その中に本当の家系を紐解く糸口が隠されているような気がしております。

> 世の中には同神説で飯を食っている人がいます。稚日女尊、丹生都姫、朱、赤い鳥
> 居、お稲荷さん、豊受大神と連想をたくましくして同一神としてしまう論理です。こ
> のようなストーリーは結構面白いのでつい引き込まれてしまいますが、要注意です
> ね。

☆そうですね。そう言えば、お稲荷さんって秦氏の神様で「お鋳成り」だと書かれていた本がありましたよね。

> 丹生氏は丹砂の採取はできたようですが、水銀を作る技術は持ち合わせていなかった
> とされます。秦氏や息長氏等の新しい渡来系氏族が持ち込んだのではないでしょう
> か。従って丹生氏は6世紀位までで主な活躍は終わって丹生とのかかわりは丹生都姫
> を祀る神官と言う事だったんでしょう。

☆水銀を作る技術をもっていなかったかどうかは、今の段階では私にはなんとも言えません。ちょっと引っかかる部分がありまして、調査中です。

☆基本的に900年以前の丹生氏については正確な古文書は残っていないと思います。
(だから、丹生都姫についていろいろ想像できて面白いのですが)ですので、 それを解明していくには、ご近所さんや、親戚筋などを調べないと分からないと思っております。それがわかってくれば丹生都姫などについても見えてくるのではと考えております。

☆そうそう、書店で売られている豪族の家系図を調べ集めた本の中に、丹生氏の家系図が 載っていましたが、間違いだらけですのでご注意を!丹生の家系図については、丹生さんの書かれた「丹生神社と丹生氏の研究」の最後に書かれている家系図をみられる事をお勧めします。ただし、丹生さんは丹生相見氏ですので丹生相見氏の家系図は正しいだろうと思いますが、丹生惣神主丹生一麿氏の家系図については若干の間違いがあるようにも思えます。

☆ちなみに、参考にならないと思いますが(その内容の真偽が疑わしい)、かつらぎ町誌より次の記載がありますので書いてみました。

1)神武天皇の初かた紀和の国境丹生の川上に天降り給いて神勅ありき、天皇託にまかせ神策をめくらし山跡の土蜘蛛をほろほし、国土をひらき皇居を橿原にふとしく建給ふ、此神賽として、東は大和国を限り、西は生石か峰筋、北は日本河、南は海に及ふまての山地を月読の尊に奉れり、よりて天野沢中小嶼平坦の地に鎮座なる、是を丹生津比売与唱る事は直に神体ささす、・・・

2)稚日女尊、丹生津姫尊同体異名也、神武天皇の御宇大和国丹生の川上に化現したまひて、紀伊国伊都郡三谷郷榊山酒殿に降臨したまふ、此所に行宮を造り奉崇敬、崇神天皇の御   宇天野に鎮座成し奉り、・・・・、天野惣神主先祖道臣命神勅をうけ奉り、丹生の川上にて祭祀をいたし、・・・

0029  00/08/18
稚日女尊と丹生都姫を同神とするのは、記紀に出ていない神々をして、何とか尊そうな由緒付けをしようとする試みの一つでしょう。
 丹生氏は紀氏から分岐しているのではとの見方があります。この場合は紀豊耳を祖とするようです。丹生氏の奉じる丹生都姫は国津神のほうでしょう。
 いっぽう、稚日女尊は高天原の物語の中に登場しています。天津神に分類できます。

 世の中には同神説で飯を食っている人がいます。稚日女尊、丹生都姫、朱、赤い鳥居、お稲荷さん、豊受大神と連想をたくましくして同一神としてしまう論理です。このようなストーリーは結構面白いのでつい引き込まれてしまいますが、要注意ですね。

>天野の丹生都比売神社では、丹生都姫を天照大御神の妹神の月読であるとして祭られています
 稚日女尊を天照大御神の妹として月読尊と等号で結んだのでしょうね。

 丹生氏は丹砂の採取はできたようですが、水銀を作る技術は持ち合わせていなかったとされます。秦氏や息長氏等の新しい渡来系氏族が持ち込んだのではないでしょうか。従って丹生氏は6世紀位までで主な活躍は終わって丹生とのかかわりは丹生都姫を祀る神官と言う事だったんでしょう。
 従って丹生都姫は記紀には出してもらえなかったんではと想像しています。

 和歌山の多くの神社は高野山の進出と併せて祀られたのが多いようです。

 日高郡川辺町江川にあった丹生神社は丹砂関連です。丹生大明神告門にある紀伊和佐水銀の本拠でです。佐佐水銀鉱山が開かれていましたようです。江川の丹生神社は川辺町上和佐の丹生神社に合祀されています。

0026  00/08/17
> こんばんは、みのりーさんのHP少し拝見させていただきましたが
楽しそうですね。

☆ありがとうございます。私のHPは丹生に関するHPではなく、さと さんが紀伊半島の里巡りをした紀行文がメインのHPですので、丹生 については、まだ力を入れておらず、非常に御恥ずかしい次第です。 さとさんの名前をご存知な方おられるかもしれませんね。毎日新聞を 購読されていて和歌山にお住まいのかたならピンとくるかも?
紀伊半島の自然の良さなどを紹介していくHPですので、もしかしたら 地元の話題も出てくるかも知れませんよ。ちなみに今は古座川町です。

> 「野上八幡宮誌」に丹生大神のことが少しでていますので
> 書き写します。(ご承知の事かもしれませんが調べるのは楽しいので)
>
>  「稚日女尊は、神代より和歌浦玉津島に奉祀していたが、
> 神功皇后は(三韓遠征より)御帰還の後、その功労に報いられて
> 稚日女尊を伊都郡管川の藤代峯に奏祀した。
> 皇后の御子誉田別命(応神天皇)も深く御崇敬あそばされ、
> 藤代峯から天野の地へ遷座され、広大な新領地を定められた。」

☆室町末期までは丹生社神輿の玉津島遷幸があったそうです。

0025  00/08/17
和歌山の製鉄民の存在について
製鉄についてはやっていた可能性はありますが、裏付けはないようですね。
タタラ等の遺跡があったとの話も聞いたことがありません。ただ、丹生について、その古文書に「大堝」の2字があり、ある人はこれを水銀等金属の精錬に使ったのだろうと推測されておりました。「おおかま」でご飯の炊く釜よりも大きい釜を表していると言うことでしょう。
本当に「大堝」が金属の精錬等に使われていたかは私にはわかりません。 2)丹生神社について
 ご存知の通り丹生は水銀等をあらわしております。ですから、丹生都姫は水銀の神様として見られています。私はこれについては正しいかと思います。ですから、水銀に関連した土地に丹生神社が多く存在しております。これに加え、丹生神社には高野明神や狩場明神がいっしょに祭られています。高野明神と狩場明神が同じ神であるかどうかは諸説あり、私事都合により私見は今回避けさせて頂きます。高野山ではこの2神は同一と見、続紀伊風土記では別であると書かれているとか。私はまだ紀伊風土記を読んでいないので真偽の程は分かりません。

3)狩場明神について
 ある人は、狩場明神が犬をつれていた事、空海をこの犬が高野に導いた事から、犬は人間で鉱山師を表しており、狩場明神は製鉄に関連する神だと書かれておられました。ちなみに今の私にその真偽は分かりません。

4)丹生神社の進出について
 丹生神社には、丹生都姫を単独祭祀しているものと、高野明神などをいっしょに祭祀しているものがあり、単独祭祀の丹生神社は高野開創以前、いっしょに祭っている丹生神社は高野開創後の高野山の僧により進出したものに分かれる様です。また、大和と紀伊で別けられる事もあるようです。和歌山にお住まいの丹生さんが書かれた本には、一族が全国に進出し、全国の丹生神社は和歌山の丹生一族と関わりがあるような事を書かれていました。私はこの件については?です。丹生だから同じ一族とは言えないと言うことです。

5)丹生都姫について
 かつらぎ町天野の丹生都比売神社では、丹生都姫を天照大御神の妹神の月読であるとして祭られていますが、事実は不明。在る時期に中央にアピールするために月読として話を作ったとの意見もあります。ただ、播磨風土記では神功皇后三韓征伐の功績により、紀伊の管川藤代の峯に丹生都姫がまつられたとの話があり、この功績というのが皆様ご存知の赤土を塗るあの話ですので、水銀に深く関連した神様で在る事は疑いないと思います。その後天野にうつされたようです。

ここからは私見です。結論から言いますと丹生都姫については私にはあまりわかりません。700年以降については古文書等も残っており調査ができるのですが、それ以前になりますと、字では何も残っていないからです。700年以前となりますと現地調査などを含めた民俗学の分野になります。瀬藤さんのHPに書かれているのも、現地に行かれており、古文書と民俗学的な部分とがおりこまれており、それから見解が書かれているわけですが、私の場合はこれから現地に行こうかと考えている段階ですので、丹生都姫については見解が出せないのが現状です。

今の私は丹生氏専門で、700年以降の丹生氏を研究しております。もちろん金属文化も含めて調べております。ですから、700年以前の丹生都姫の事を調べるとなるとまだまだ瀬藤さん達には追いつかない、と言うか一生追いつかないかも知れませんね。

で、丹生氏について少し述べさせていただきますと、

1)丹生大明神告門について
 この内容の真偽についてはまだ調べていませんが、恐らくそこそこ信憑性のある古文書であると思っております。最近では、安倍晴明のまんがでこの祝詞がつかわれていたとか。丹生には関係ないかもしれませんが。

2)丹生祝本系帳について
  この内容の真偽についてはかなり疑わしい部分が多く、ただ、この中にいろいろと暗号が隠されているような気がして、そのあたりを調べております。ちなみに、ここに書かれている丹生氏の名前はほとんど信用できないと思っています。

丹生氏についてはいろいろな人が諸説書かれておりますが、今だこれだと言った本等には出会っていないような気がします。つまり、それだけ分からない一族であり、ミステリーな部分が多いと言うことです。ですから、丹生都姫となるとさらに奥が深く、研究するには面白いテーマと言う事になるのでしょうね。
丹生氏については私事都合によりこれぐらいの事しか書けず申し訳ありません。自身見解はほぼ固まっているのですが、その裏づけを取っている最中でして、いづれご報告させていただこうと思っておりす。丹生都姫についてはその次のステップになりますので、それまでにもう少し古事記や日本書記などなど勉強したいと思っております。ですから瀬藤さんのHPは非常に勉強になりますので、毎日拝見させて頂いております。

ながながと書かせて頂きましたが、ご無礼等ございましたらお許し下さい。
ちなみに、以上1時間30分の力作となってしまいました。それでは皆様おやすみなさい。

0024  00/08/17
「野上八幡宮誌」に丹生大神のことが少しでていますので書き写します。(ご承知の事かもしれませんが調べるのは楽しいので)

 「稚日女尊は、神代より和歌浦玉津島に奉祀していたが、神功皇后は(三韓遠征より)御帰還の後、その功労に報いられて稚日女尊を伊都郡管川の藤代峯に奏祀した。
皇后の御子誉田別命(応神天皇)も深く御崇敬あそばされ、藤代峯から天野の地へ遷座され、広大な新領地を定められた。」

 これが現在のかつらぎ町の丹生都比売神社のことらしいのですが紀伊国内の古義真言宗の神宮寺として 紀州で最初に神仏混交の行われた神社ということです。

 るるぶ和歌山のかつらぎ町の図をみるとたしかにその近くに八幡神社が載っています。

 ところで近くの九度山町の丹生川って丹生神社がいくつかありますね。私も何年か前に家族でこの川で泳ぎましたが、水量は少ないもののなかなか美しい川でした。

0022  00/08/17
>このことは社殿の配置、建造様式、建立年代を見れば一目瞭然です。
 建築様式についてはまったく無知な私ですが、有田川北岸の方、田殿橋近くにある金屋町の丹生神社。
(るるぶ和歌山を開いたら金屋口の近くにも白岩丹生神社というお社があるそうなんですが そちらは行ったことはありません。)

 このそばをとおった時は数年前で、この頃神社に興味がなかったのですが名前が面白いなーと思って観察しましたが(神様、ごめんなさい。)kamnaviのサイトの写真のような朱塗りの華やかさはなく、鄙びた古い木でできた小さな静かな神社というのが印象です。貴志川町の丹生神社(たんじょうと読むのがほんとですか?)も同様です。

 伊都郡かつらぎ町の丹生都比売神社はまだお参りしたことはないのですが「ふるさとの散歩道」という本を読むと、この神社の建立の由来は不明なれど昔、弘法大師が高野山を聖地とお決めになったおり、丹生都比売が弘法大師にこの地をお譲りになったという内容がしるされています。
(昭和60年、和歌山県の観光局発行のこのガイドブックをどこまで信用していいのかという問題もありますが…しかしこの本はその地の歴史を調べるのには便利な本です。)

 地図でみたら海草郡野上町にも丹生神社のあることがわかり、全国に約25000社あるという八幡神社より 和歌山紀北部では よく見かけるという印象です。(あくまで私の印象、統計調査したわけではありません。)

しかしここまで書いて神奈備サイトの丹生都姫のコーナーをのぞいたら、とっても詳しいじゃないですか。

 私が読んだ民話の本だと、水銀は金銀鉱石からアマルガム法により金・銀の抽出に必要だった事、そのために水銀が必要だった…という記憶があるのですが。

> これに海南市小野田のおこべさん(頭)をたすとなにやら一人の人物が> 浮かび上がってきますね。
> 名草戸畔を祀ったのではと夢のある推測があります。南方の穀物起源を語る伝承に通 じますね。
 このお話は、以前勤めていた会社の上司が山東あたりの神社の神主さんの息子さんで頭・腹・足で一人前の話を教えてくれたんです。

0021  00/08/16
>のことは社殿の配置、建造様式、建立年代を見れば一目瞭然です。
すみませんが、社殿の配置、建造様式 について、具体的に教えて下さい。例えば建造様式で言いますと、鳥居が朱に塗られているのか否か、本殿が春日造かどうかという所なんでしょうか?

確かに、真言宗の進出に併せて丹生神社が出て行っている場合もあるようですが、丹砂の産地に丹生神社が建立されている場合も見受けられます。中には、丹砂の産地に真言宗が進出してそこへ丹生神社も付いていったと言うややこしいケースもあるやに聞いております。

> これに海南市小野田のおこべさん(頭)をたすとなにやら一人の人物が浮かび上がってきますね。
名草戸畔を祀ったのではと夢のある推測があります。南方の穀物起源を語る伝承に通じますね。

0020  00/08/16
丹生神社が高野山系とははじめて知りました。
我が家の近く、貴志川町の東岸(東貴志)の方にも丹生神社がありまして7月31日にのぞいてみたら茅の輪が飾ってありました。(余談ですが30日の伊太祁曽神社にはお参りできなかったので、くぐろうかと思いましたがちょっと恥ずかしかったので遠慮しました。)
丹生で思い出しましたが、神功皇后の三韓遠征の折、丹生都比売があらわれ軍船を丹色に塗れば、これ勝利することかなわんとご神託が合った由、神功皇后見事勝利を得、その御礼に伊都郡かつらぎ町に丹生都比売神社を建立しこれを祭ったと、何かで読んだ記憶があります。(民話だったかもしれない)

0019  99/08/15
湯浅氏は藤原鎌足を祖とし、平安時代末期に平家の御家人として頭角をあらわしています。俗に「泣く子も黙る地頭」ということわざがありますが、これは荘園領主をさしおいて荘民から年貢を略奪した湯浅氏の行いによるものだといわれています。「ミミヲソキリ、ハナヲソギ」…教科書などで有名な「阿て河荘上村百姓等言上状」でもそうの様子がうかがえます。
ちなみにこの状では、湯浅氏は荘民がいうことを聞かなければ、女性を追い込み、その耳を切り、鼻を削ぎ、髪を切って尼にさせられている、などの窮状を訴えています。

湯浅氏が支配した地域は高野山(清水、南部)、那智尊勝院(湯浅、広川)、石清水社(御坊、芳養、南部川)などの荘園であり、古くから地域を代表するこれらの宗教勢力と湯浅氏の接点のあったことがうかがえます。

平家物語には、熊野詣での途上で印南・切目に投宿した平清盛に平治の乱が勃発したことを知らせ、湯浅氏が都まで数十人の護衛をつけて送り届ける場面や、兵乱から逃れ、山伏姿に身をやつし高野山から熊野に参詣する途上の平維盛が南部・岩代浜で湯浅氏と無言のまますれ違う場面が登場しています。
源平の兵乱の帰趨が見えていたこの時期、湯浅氏はすでに源氏方に寝返っていたのです。これらの経緯については今後、何回かに分けて配信したいと思います。

さて、話は横道にそれましたが、長い歴史の中でその子孫は在地の地名をそれぞれの姓とし、保田氏、糸我氏、石垣氏などに分家していきます。その中で血縁を保って湯浅党と呼ばれる武士団を形成したのですが、室町時代(南北朝時代)以降、小党分立が進みすぎ、かつてのように強力なリーダーシップを発揮する統領があらわれなくなったので、次第に歴史の表舞台から消えていったのでしょう。そのひとつの大きなきっかけが南北朝の乱での敗北であったわけです。

0018  00/08/15

>ところで和歌山の歴史を勉強中の私にご教授お願いしたいのですが、
> 和歌山に製 鉄民が古代存在したのかどうか調べています。

製鉄民のカテゴリーがどのようなものであるのか私にはわかりませんが、金属加工品が各地で出土しているところを見れば、和歌山県は金属類を産出し加工した、かなり進んだ文化圏であったといえるでしょうね。出雲と熊野との近いような遠いような関係もありますし。

> 有田郡金屋町の名は金屋子神に由来す るのでしょうか?
中世、このあたりは石垣氏が治める「石垣荘」であり、高野と瀬戸内海を結ぶ線上にあることから有田地方の中心地でした。近世になり、現在の金屋町の中心街である金屋地区あたりに金物屋が多く並ぶようになったのでこの名前が地名として残っていったようです。

> 丹生神社には有田川沿いに出会ったのですが…

丹生神社は高野山の守護神であると同時に、金剛峯寺の子院(今でいう宿坊)の護法神です。したがって、高野の聖や巡礼者が歩いた地や、高野山の荘園であったところにこの神社が勧請されたのが今日の丹生神社です。このことは社殿の配置、建造様式、建立年代を見れば一目瞭然です。性格は違いますが、熊野街道における熊野九十九王子神社と同じようなものですね。

丹生神社の伝播と水銀との関連をいう民俗学者もいますが、どうでしょうねぇ。

0017  99/08/15
中央構造線沿いに流れる紀の川沿いや高野山を水源とする有田川沿いに人々が暮らしていて、鉄についての伝承にはあまりお目にかかりません。金糞と言うんですか、タタラ製鉄の残滓みたいなものも発見されたと言う話も寡聞もあるんですが、承知していません。皆さんはいかがでしょうか。

 いま、八坂神社の宮司をつとめておられる真弓常忠さんの著書に「古代の鉄と神々」と言うのがあります。この中に褐鉄鉱を取り上げ、これは鈴の形をした水酸化鉄で沼沢の葦や薦の根元で成長するとされています。これは弥生土器を焼く程度の温度で熱し、打ったりたたいたりして鉄製品に出来るとされています。紀ノ川下流域では名草山周辺の「阿備の七原」がそのような沼沢と植物が茂っていたと言われています。

 また、氏は丹生の土壌は水銀を含む辰砂だけではなくその他の金属分を多く含んでいるとも指摘しています。

 律令時代の紀伊国の調庸の物品名の中に「銀」があり、安諦、飯高、牟婁の名が出ています。

 また、那智の滝の後背地の山には銅を掘った穴が縦横無尽にあり、あの熊野詣では皇室が金属を持って帰る為のものとの怪説がありました。(ここは眉唾ですよ!)

 さて、金屋子神ですが、金山彦神とも言われます。この神を祀る神社(配祀、合祀、摂社を含む)は県下で42座見いだせますが、有田郡金屋町には見あたりません。祭神は時代とともに変遷して行きますので、これだけでは何とも言いようがありません。

 余談ですが、調べていて面白かったのは、海南市の杉尾神社(腹)千種神社(足)の摂社にそれぞれ金比羅神社があり、祭神を金山彦神としています。太地町の金比羅神社もそうです。普通、金比羅神社は大物主命とされています。

0016  99/08/15
 ところで和歌山の歴史を勉強中の私にご教授お願いしたいのですが、和歌山に製 鉄民が古代存在したのかどうか調べています。
有田郡金屋町の名は金屋子神に由来す るのでしょうか?
丹生神社には有田川沿いに出会ったのですが…ご存知の方がいらっしゃれば教えてください。

 和歌山は木と水に恵まれ、あとは砂鉄さえ取れれば条件的にはOKなのですが、いままで和歌山に製鉄民がいたという記述に出会った事も伝承に出会ったこともありません。(私の調べ方が甘いのかもしれませんが)

 和歌山は製鉄民の多かったという中国地方とは違って、木に対する信仰が強かったからかしら?でも炭焼きや林業は盛んだったみたいですよね。
木ではなく山に対する畏敬の念が強かったからかもしれません。
 何か情報をお寄せいただけたらありがたいです

0015  99/08/15
> 中世に紀北から田辺の芳養あたりまでを支配した湯浅一族に由来する部分が多々ある
> と思います。
> 湯浅一族は瀬戸内海、四国地方とさかんに交易し、紀州の海運を担っていたそうです

 湯浅一族とは、南北朝時代、大塔宮護良親王が吉野城落城により、大和の国天ノ川より高野山に入り、続いて名草郡大野荘春日山に対座された時、那賀郡野上八幡宮境内に陣を張り紀伊国の湯浅・保田・山東・山本の軍勢が大塔宮のために奮戦したが、甲斐なくついに敗れたという記述が 野上八幡宮誌という本に記載されていますがその湯浅氏のことでしょうか。

ちなみに上記の山本は野上の庄(海草郡野上町の一部及び、海南市の東の方)には多く見られる姓です。野上町の7%は山本姓というデータもあるらしいです。

追記 以前、自己紹介の中で、野上の庄は野上八幡宮の神領と書きましたが野上八幡宮は、岩清水八幡宮の別宮として建立されましたので、野上の庄は岩清水八幡宮の荘園というのが正しいです。

0014  00/08/14
メンバーのお二人がサイトで吉井投手を取り上げておられます。
かの吉井理人投手が足腰を鍛えた石垣尾神社の由緒がある程度分かりましたので御参考に。
石垣尾神社
住所 有田郡金屋町吉原
祭神 猿田彦命
由緒 古来、社殿はなく神石をもって神体として拝殿のみの社であった。
天武天皇の時代の白鳳十三年、諸国に大地震があり、名所旧跡田畑等が崩壊した。当郡も甚だしく人民大いに苦しんだ。丹比の遠智と言う人、此を治め、此に居住していましたが、この人生得敬神深く遂に発起し大願を企て祈請する事三日三夜、そうすると満願の朝、鼻高赤く霊神降臨ありて企救の荘を踏み静め、今より此処は石垣居に等しいとお告があった。地震は止まった。従って石垣尾大神と名付けて、社殿を建立して深く崇敬する所となった。

 さて、芳養ですが、生田淳一郎さんから、以下の様な手電を頂きましたので紹介します。
  神名に遣われている「ハヤ」は大神なれど、民俗の面では ただの「魚」ざんす。南という意味は「はえ(魚)・ふぇーかじ」が作った……と言わねばならん。
 「ふぇ〜」「はえ」が南という意味だと解釈された時点がどれくらい古いのかオラシランが薩摩ハヤトは「魚・人」じゃないかとおれ思う。……と、いうのも、あそこには伊集院という豪族(?)がおる。idhu- は南方系の魚です。川にいる魚いっぱんを「ハヤ」といったのだろうとオレ思う。
 ビルマ、ボド語群・ラールング語を調べたときに、そこに「ハイナ」という魚をいう語彙があったのでビックリしたことを覚えています。
 また、別便で、朝鮮語「は」には太陽もある。ハヤは、ひとつには、太陽神かもしれん。
 との内容でした。地名には歴史がしみ込んでいます。いかにも古そうな地名や奇妙な地名などがございましたらピックアップしてMLに出して頂けましたら、氏のお知恵を拝借したいと思います。

0012  99/08/13
中世に紀北から田辺の芳養あたりまでを支配した湯浅一族に由来する部分が多々あると思います。
 湯浅一族は瀬戸内海、四国地方とさかんに交易し、紀州の海運を担っていたそうですが、南朝方についたために没落、子孫は有田地方から全国に四散し、海の民、山の民として生きていくすべを培っていたのでしょう。

(1)ここに出てくる芳養は「はや」と読みますが、昔は紀の国の南端で、ここらから熊野国だったと言います。この「はや」は「隼人」の「はや」ではないでしょうか。
推理1 「隼人」が上陸してきた地点
推理2 「はや」のは「南、南風」の意味があり、かっての紀の国の南端としての地名紀元前4000ー3000年前、オーストロネシア語族(南方の人々)が台湾・沖縄辺りから日本に入ってきた時に持ち込んだ言葉との説があります。オーストロネシア語で paRi(えい)は南十字星だそうです。

 このメールは私が尊敬している言語手段による古代開発に取り組む孤高の人(衝撃のネパール語の著者)生田淳一郎氏にコピーを送付して上記について意見を求めてみます。

(2)ご指摘の通り、紀州の海岸の人々は船を活用して大いに交易をしたと思います。古代豪族の紀氏も朝鮮半島への渡航・軍事行動をしています。
 紀氏は塩、木材、造船、水銀などの交易をやり、富を蓄えたと思います。紀ノ川沿いの農業だけでは到底あれだけの活動は出来なかったのではと思います。地方交付金などはなかったのでは・・・

0007  99/08/11
箕島高校は低迷の時期にはいっていますが、ことしは県大会ベスト4までいき、強い箕島の復活の手ごたえを感じています。来年の春こそ、と期待しているところです。

 さて、作間稼ぎの件、中世に紀北から田辺の芳養あたりまでを支配した湯浅一族に由来する部分が多々あると思います。
 湯浅一族は瀬戸内海、四国地方とさかんに交易し、紀州の海運を担っていたそうですが、南朝方についたために没落、子孫は有田地方から全国に四散し、海の民、山の民として生きていくすべを培っていたのでしょう。私は、紀伊半島に残る平家落人伝説の多くが「平家」ではなく「平家の御家人」であった湯浅一族にちなむものと推察しています。

 伊万里陶器の「有田」と、箕島の有田、関連性はあると思います。つまり、幕末まで有田は「在田」または「安諦(あて)」と呼ばれ、明治に入って当て字の「有田」が使われたのでしょう。ちなみに現在の有田市は、近世初期までこの地を支配した宮崎氏の在所ゆえ、宮崎と呼ばれていました。この宮崎という地名も、九州の宮崎と関連があると聞いたことがあります。

 江戸時代、江戸・筑紫を雄飛して伊万里焼や南紀男山焼を売り歩いた宮崎商人(箕島商人)は、偶然に彼らが海路を開拓したのではなく、それこそご指摘のように縄文時代から湯浅一族の時代にかけて脈々と受け継がれたものなのでしょうね。いずれにせよ、近世まで紀州の人々は海の交通を使って現代を生きる我々ではなし得ない幅広い地域交流をしていたということがいえるでしょう。
 漁船による四国の金毘羅参り、八十八ヶ所巡礼者の接待などはその名残です。

0006  99/08/11
 高校野球のシーズンですね。
 かっては箕島高校も常連でした。この箕島村では農閑期に船で他地方に行って行商をする「作間稼ぎ」が行われ、海南の黒江産の漆器を九州で販売し、伊万里陶器を仕入れて、江戸でも販売するようになったそうです。

 紀の国の人々も商人精神が旺盛だったようですね。何か外へ出ていかないと食えなかったんでしょうか。

 網野さんは「海民」と言う言葉で中世の商人にスポットを当てておられます。もっと昔では、縄文遺跡の三内丸山には「宝石商人」がいたのでは、と推測する向きもあるようですね。
 伊万里陶器は有田焼ですね。箕島も有田ですね。偶然なんでしょうか?

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