あさもよし紀の国 MLログ 平十二年十一月 発信者のお名前は省略させて頂きます。
 

更新 2000/11/29

ログ


142  名草郡12 H12.11.29

  武内宿禰が祀ったと伝わる紀伊三所神はすなわち紀氏が齋祀った神々です。
 大和岩雄氏は『息長足姫命(神功皇后)は日神であり、大八嶋の天の下に日神を船出させた船を紀ノ国で祀ったのが武内宿彌である。その神々とは紀ノ国の志摩社、静火社、伊達社の三船玉神、紀州三所神である。と住吉大社神代紀に記すと』とされています。
 伝承では紀伊三所神は元々日前國懸神宮を概ね北、西、南に2km程離れて囲む位置に鎮座していました。東2kmは香都知神社に当たります。
 また、伊達神社の祭神は五十猛命であり、従って志摩神社、静火神社も五十猛命の妹神とされる大屋都姫命、抓都姫命を祀ったともされています。 播磨国風土記には神功皇后の軍船の先頭には御船前韓国伊太氏神(氏は_が付いている字:低の旁)が祭られたと記載されています。 また住吉神社の由緒書きの説明では、「三韓を征し給ひし時に当たり特に神教を垂れ給ひ其荒魂は先鋒となりて舟師を尊き」と出ています。 皇后の軍船の先頭に祀られたのが、住吉大神の荒魂であり、伊太氏神であるということから、伊達神社は住吉三神のひとつとされたとすれば、三所神にそれぞれ割り当てられることは自然です。
 なお、この時に赤土を船体に塗ったか、敵にぶつけたとかあり、これが丹生都姫神を筒川に祀る由縁との話になっており、天野大社すなわち丹生都姫神社の由緒譚になっています。

 静火神社について、山火事などを起こさないとか山火事を鎮火せしめるとの願いの神であるとの解説もあります。 一方、続風土記によれば、静火神社の近くの朝日と言う地名とあわせて、深く沈んでいる樋、浅いままの樋と解釈しています。 用水路の姿を神社名にしているとの見解です。静火神社は本来は田の中にあった神社で、農業にかかわる神であるとの伝えもあります。 そのような意味で静火神社を続風土記が言うように理解することが出来ます。 ただ、普通の田の神とすれば、(田の神を軽視するつもりはありませんが)延喜式で大社とされたのは不思議な気がします。 静火神社は日前國懸神宮の南2kmの位置です。
 志摩神社は新在家の十五社神社の場所に鎮座していたようで、宮井川の初期の取水口の近辺に当たります。やくざのなわばりに残っている言葉の「しま」は地域を表します。 この地からは豪族紀氏の許可なくして立ち入り禁止の地域であるよ、と神社名を考える事が出来ます。日前國懸神宮の北2kmに当たります。
 現在の志摩神社の所には伊達神社が鎮座していました。西(西北西)2kmと地点に当たります。 紀ノ川の曲がり角の要所です。この辺りから南の方に広大な砂丘が広がっていたそうです。平地に所々崩れやすい砂山があり、弱山と言われ、和歌山の語源となったそうです。結果としてえかわさんご指摘の万葉風県名を得ることができました。
 海からの侵入者を見張る場所だったのでしょう。名草の出城のような位置になるのでしょうか、名草の武、すなわち五十猛命が鎮座するにふさわしい場所です。
 この様にして、伊達神社が五十猛命である事からも紀伊三所神は自ずから五十猛命三兄妹神に比定されたのでしょう。


0141  名草郡11 H12.11.22

  日本書紀の一書(第十)にイザナギノ命は黄泉の国へ行き、イザナミノ命との別れの際にはいた唾から速玉之男が生じ、掃きはらって(関係を断って)生まれた神を泉津事解之男と名付けましたとあります。  熊野の神々の名が登場してきました。イザナギノ命の発した言葉と共に誕生した神ですから、生命力の神と離縁の神とされています。事解之男は言葉を離つ神、よく似た神では、一言主大神が雄略天皇と出会った時、我は言離(ことさか)の神、葛城の一言主の大神なるぞと言っています。 古代の離婚はどのようなものだったか知りませんが、現在ほど複雑ではなかったのでしょう。「出ていけ」とか妻問い婚では「もうこんわ」で済んだのでしょうか。三行半より短かった? 最後の一言ですね。しかし縁結びの神も登場していないのに、早々に離縁の神の登場と言うのもどうかと思いますね。記紀を作っていた連中は何に悩んでいたのでしょうか。

 イザナギノ命は禊ぎ祓いをします。筑紫の日向とありますが、神話の誕生の経緯からすると、恐らくは淡路島の近辺かもしれません。阿波の鳴門を候補地とする見方があります。 大和で記述されたとしたら、遠方ほど古代の雰囲気がでます。そう言う事で筑紫を持ってきたのかも知れませんね。
 禊ぎで様々な神々が誕生いたします。黄泉の国の穢れによって、災禍の神々が生成されます。 八十禍津日、大禍津日の神です。次に禍を払ってもとに戻す神である神直毘、大直毘の神が生成されます。
 大禍津日の神は大綾津日神とも言い、奈良県の五条市にあった大屋比古神社の祭神を大綾津日神であるとしています。 大屋比古神を大綾津日神とするなら、素盞嗚尊が八十禍津日の神で、二柱を猛烈な台風神などとする説がありますが、ピッタリです。国津神である大屋比古神の悲しさ、このような役回りも押しつけられたのでしょうか。
 尤も甘樫坐神社の神の前で、盟神探湯が行われましたが、ここの祭神は八十禍津日神や大禍津日神で、 うらないの神でもあったのです。災いをもたらすでけではなかったのです。託宣の神です。アイヌ語の「イタキ」とは、「かくのごとく言えり」の意味があります。伊太祁曽神をどう解釈するかの一つの材料です。

 イザナギノ命の禊ぎ祓いで、更に安曇系の神々、住吉系の神々が生成されます。海人族の齋祀った神々です。 安曇族は各地にその名を残しています。琵琶湖にそそぐ安曇川、祖神の安曇穂高見命の日本アルプスの穂高など海人が川沿いに山奥にまで入り込んでいます。 祖神に安曇磯良とか安曇磯武良命がいます。磯良はイソラとかシラと読めます。新羅との関連が出てきます。 また磯武良はイソタケラ、何となく伊太祁曽神社の祭神の五十猛命を連想します。

 住吉大社の摂社に船玉神社があります。住吉三神の荒魂を祀るとも言われます。えかわさんに教えて頂きましたが、この船玉神が熊野本宮の奥に祀られているそうです。発心門王子の西です。 また、この船玉神が、紀伊三所神、伊達、志摩、静火の元宮とも言われています。紀伊三所神は武内宿禰が祀ったとも伝わっています。


0140  高野・熊野が世界遺産になるかも H12.11.19

 文化財保護審議会はこのほど「紀伊山地の霊場と参詣道」を 世界遺産推薦国内暫定リストに載せた模様です。いわゆる熊 野三山と古道、高野山と町石道、そして吉野山と奥がけ道、 熊野古道伊勢街道ですね。今後はこのテリトリーの中に伊勢 神宮を含むか否か(含まないと三重県の熊野古道をわざわざ 入れる意味がない)が焦点になってくるでしょう。
てゆーか「霊場」だなんてネーミングはやめてほしい。高野 山は修行の「道場」だし、神社は「霊場」ではないと思いま す。

0139さん>
以下、過去ログのくりかえしになりますがご参考までに…。
天野大社の格上げ運動は、仁和寺法親王がみずから行ったも ので、高野山とは直接的には関係ありません。というか、そ の時代、高野山は伽藍が荒廃して無住に近い状態だったから です。ゆえに僧の大半は夏季のみ高野山に在住していました。 法親王も、天野大社を御所として高野山に参詣したのです。
ゆえにその場所にふさわしい格式の高さが天野大社にはどう しても必要だったのです。そのための格上げ運動であったと ご理解ください。それから五来氏の説は間違い&勘違い&孫 引きが多いので信用なさらないほうがよいですよ。

あと、行人について。高野山の行人は、一般でいう山伏では ありません。現在の金剛峯寺の組織でいうなら工務や祭事を 担当する人々です。真言宗系の修験者の元締めは京都・醍醐 寺であり、高野山直系の修験者は天野大社を拠点とした長床 衆と呼ばれる集団です。今も境内の裏手に梵字を刻んだ巨大 な石碑が打ち捨てられています。弘法大師のすごさを全国に 唱導したのは高野聖とよばれる半僧半俗の人々で、彼らの多 くは念仏を唱えていました。その代表が一遍上人であり、西 行法師です。高野聖と山伏とは本来何の関係もありません。

弘法大師は青少年のころ、吉野から高野にいたり、そのあた りで修行の日々を送ったことを嵯峨天皇への上奏文にて述べ ています。ただ採鉱したとはひとことも書いていませんが。
弘法大師は少年期は貴族を目指した人。身分制の厳しい時代 に、採鉱のような重労働をみずからに課したとはとても思え ませんね。高野山にも九度山にも精錬所もないですし。

丹生神社がなぜ、真言宗とともに各地に伝播したのか。それ は宗祖の眠る高野の地主神を、衆徒は真言宗の護法神として 崇拝したからです。高野山の宿坊寺院にそれぞれ四社明神社 が建立されているのもそのためです。

弘法大師は、理想国家繁栄の礎となるべく高野山に伽藍を建 立し、大日如来に祈りをささげた人です。もうちょっとそち らの方に目を向けていただいたほうが本来の弘法大師像に迫 れると思いますよ。


0139  なぜ高野山は丹生神社を広げたのか? H12.11.17

 高野山が丹生神社を広めた理由についてふと思いついたので 独り言を聞いてください。

空海が高野山を開いたころ、近くの山人・山伏は行人とし て高野山で僧侶達のお世話をしていた。900年代 行人たちは実力を持ち始め、彼等によって超人空海伝説が作 られていったようです。学僧と違い、学問はないものの修験 苦行をした彼等は、山人としてもともと鉱山にかんする知識 は持っていたと思います。彼等が高野聖として全国に超人空 海伝説を広めると共に、水銀をもとめ歩き、採鉱したのでし ょう。行人になる人達はもともと山人ですから、水銀を見つ けた土地には水銀の神丹生都姫を祭っていたのではと思いま す。だから、行人たはもともと山人であった時の風習として 丹生神社を祭っていったのではないかと思うのです。自分達 が昔から祭っていた神を祭ったのでしょう。
それと繋がって行人たちが山人の風習として高野山に持ち込 んだのが巡寺八幡講だったのでしょう。鎌八幡ですね。
この行人たちつまり山人達を、空海が高野山にくる前にまと めていたのが、地元豪族の長、丹生家信であり丹治家信であ ったのだと思います。だからこそ、空海は地元の人々の協力 と行人達の協力を得るため、家信を死後狩場明神として祭っ たのでしょう。狩場明神の俗体を葬った百合野社(宮本)、 丹生狩場神社近くには、行人達が高野山で使う花をとってい た花園(昔は地名であったようです)があり、また巡寺八幡 講で回る鎌八幡さんも近くにある事は、行人と狩場明神との つながりを感じさせられます。

丹生神社が高野山の進出にともなって広がっていったのは、 このような行人達の活躍があったのではないかと、五来重氏 の「空海の足跡」(角川選書)を読んで思いました。

ちなみに、丹生都姫神社の式格が上げられたのが、これら行 人達の力であったのかどうかは定かではありません。五来氏 は、そのころ朝廷に対しての奏上等について、高野山側は直 接できず、東寺を通していたと書いておられましたので、 行人が東寺側を通して丹生都姫神社の格上げをできるほど力 を持っていたのか、という疑問ありますので、なんとも言え ないところです。

ふと思いましたのでながながと書きましたが、調べたりない 部分も多く、あくまでも推量です。

山人たちがこれほど空海を後押ししたのは、もしかしたら、 空海が少年時代修行したのは高野山の近辺であったからかも 知れませんね。そういう説があるのもうなずけます。
昔、いっしょに修行し採鉱した仲間が天皇に後押しされ地位を 得て高野に帰って来たのですから。
少し空想を膨らましすぎました。すいません。


0138  高野山巡寺八幡講 H12.11.15

 早速ですが、どなたか高野山の行人たちが行った巡寺八幡講で、回った30箇所のお寺の名前・場所をご存知の方、おられましたら教えて下さい。
2箇所は分かるのですが、そのほかの寺が分かりません。分かっているのは丹生酒殿神社の社のすぐ後ろの鎌八幡さん、もう一つは丹生狩場神社の下宮的存在の鎌八幡さん。他の場所も丹生都姫あるいは狩場明神と関係あるところであれば、行人、山人、修験者、丹生氏あるいは丹治氏、空海との繋がりが見えてくるのではと考えています。狩場明神の行動範囲や空海の少年時代の修行の場所や狩場明神と空海の関係の手がかりになればと。よろしくお願い致します。


0137  名草郡10 H12.11.15

  イザナギ・イザナミノ命に話を戻します。イザナミノ命は死にのぞみ、鉱山の神、埴土の神、水神、生産力の神を生みます。
 湿地帯の開発、水耕栽培の普及を思わす神々の登場です。
 紀の国には式内社でこれらを祀る神社は見当たりません。名草郡に埴生と言う所はあったそうですがわえしらん。
 紀伊水道をはさんだ対岸の阿波の国には、埴土の神の波尓移麻比め神社、水の神の弥都波能賣神社が鎮座しています。 「粟」の名前の通り阿波の国のほうが穀物との関わりが強く、従って水耕栽培も早く始まったのかも知れません。

 イザナミノ命は黄泉の国にまいります。イザナギノ命は悲しんで涙を流しました。泣沢女の神が成りました。

 大和三山の一つの香具山の麓に泣沢女神を祀る式内社があります。万葉集に 高市皇子を悼んで檜隈女王が

 『哭沢の神社[もり]に神酒[みわ]すゑ祈れどもわご王[おおきみ]は高日知らしぬ』(万葉巻二 二〇二)

 と詠んだ句が掲載されています。 大和の哭沢の神社周辺は、湿地帯で水荵[なぎ]が生えていたので、その名がついたと言う説もあります。

 吉備町の藤並神社の境内にある三基の古墳の一つが泣沢女古墳と呼ばれています。この謂われは一体何でしょうか。 古墳が出来る所は普通湿地帯ではないですね。朝鮮半島の風習に残る泣女は、喪主に代わって泣き悲しむ女ですが、この風習が伝わっていたのかも知れません。 現に649年に阿倍倉橋麻呂薨去し、孝徳天皇朱雀門に幸し挙哀、また皇極上皇、中大兄など哀哭との記事が残っており、哀哭の風習があったようです。

 さて、藤並神社の古墳由来書には、斉明女帝(宝皇女)の御孫建皇子が八歳にして薨去、天皇は皇子の事が忘れられず、健康をそこなう有様なので、有馬皇子の勧めで白浜の湯へ湯治におもむいたとあります。658年。 この吉備の地は大和の建王子を葬った地と似ていたので、皇子の遺骨を納めたとの説明です。斉明女帝の名代に泣沢女がいたのかもしれませんね。なお有馬皇子はこの年に扼殺されています。ひょっとしたら!!

 有馬皇子を偲んで
 家にあれば笥[け]に盛る飯[いひ]を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る (万葉巻二 一四二) 

 イザナギノ命は火の神の迦具土の神の頸を切りました。岩石、剣の威力、水の神霊、渓谷、剣のつか、さまざまな山の神が生まれました。 刀鍛冶の作業を思わせますし、さまざまな山の神の誕生は火山噴火をも思わせます。

 檜隈女王の檜隈はヒノクマと読みます。日前神宮と同じ発音です。前にも書きましたが、大和の明日香村に檜前と言う所があります。 於美阿志神社と言う渡来人の東漢の祖を祀ったとされる神社が鎮座しています。一説には、この神社は磐橋神社と呼ばれ、別の所にあったとも言われています。 檜隈、岩橋と言う名、更にここから巨勢へ出て、紀の川に抜ける道筋があることを考えると、紀の川河口との関連が想像され、名草の紀氏の大和への拠点の一つだった可能性があるように思われます。


0136  ひしとしひ H12.11.13
質屋をどう発音しますか?ヒチヤですかシチヤですか。ローマ字でも shi の音のように紛らわしいのですね。

 所で、枕詞「あさもよし」論がML上で行われています。小生は古文も漢文も苦手で技術屋になったような人間です。到底口を挟む柄ではありませんが、通りがかりに落書きをひとつ。
 万葉集での「あさもよし」は
高市皇子の尊の、城上(きのへ)の殯宮の時、柿本朝臣人麿がよめる歌一首、また短歌に

かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏き ・中略・ 白布(しろたへ)の 麻衣(あさころも)着て 埴安(はにやす)の 御門の原に ・中略・ 神葬(かむはふり) 葬り行いまして あさもよし 城上の宮を 常宮(とこみや)と 定め奉まつりて 神ながら 鎮まり座ましぬ ・後略(巻二 一九九)

 これが初期の出方だろうと思います。高市皇子の崩御は696年のことです。
 「あさもよし」は「きのへ」へかかっています。城上の宮とは奈良県広陵町です。

 また、高市皇子の崩御から4年目のこと、明日香皇女の城上(きのへ)の殯宮の時、柿本朝臣人麿がよめる歌一首、また短歌として

 飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 石橋(いはばし)渡し ・中略・ 君と時々 出でまして 遊びたまひし 御食(みけ)向ふ 城上の宮を 常宮(とこみや)と 定めたまひて ・後略・ 巻二 一九六

 とあります。ここの城上の宮にかかる言葉は「御食向ふ」で、紀伊風土記の「アサモヨヒとは 人ノ食フ飯炊(カシ)グヲ云也」の無粋そうな解釈がありますが「御食(みけ)向ふ」とか「あさもよし」が城上へかかっている所を見れば、「あさもよひ=朝催ひ」も説明がつくのかも知れません。 

 701年の御幸のときの歌に、麻裳(あさも)よし紀人(きひと)羨(ともし)も真土山行き来くと見らむ紀人羨しも 巻一 五五 が登場します。それ以前の歌に、紀の国や紀道と言う言葉が出ていませんが、701年の紀伊御幸を契機に「あさもよし」が城上から紀へ移ったのでしょう。

 ところがご承知のように奈良の都への枕詞は、青丹よし(あおによし)、讃岐への枕詞は「玉藻よし」です。 構造としては「○○○よし」、「○○○よし」となっています。類推すると「あさも+よし」と理解するのが自然な気がします。「催し」とするのは大和や讃岐の場合とは違うケースです。
 ここに熊野の高倉下の「朝目吉く」を合わせ考えると、やはり「朝+x」と言うことにならないでしょうか。麻や麻裳が紀の国の名産だったとは他の記録にはないようですし。

 紀の国の大半は山から日が出て海に日が沈みますが、串本以東は海からも日が昇ります。奈良の都人も紀北紀中の人々も海からの日の出には感嘆したのでしょう。 柿本人麻呂の歌に「み熊野の浦の浜木綿百重なす心は思もへど直ただに逢はぬかも 巻四四九六)があり、南紀を体験しているようです。

 x=萌。燃え上がるような朝、萌える朝、如何でしょうか。
 人麻呂に並べて厚かましいのですが、小生も早朝のゴトビキ岩の印象は脳裏に焼き付いています。


0135  >「あさもよひ」の解釈について その2 H12.11.12

 >  私はそんなに古文に詳しいわけではないのですが
>  俊頼髄脳『歌論集』というのは、(私もはじめて聞く名なのですが)
> 歌の解釈本で、下記の三首についての解釈を述べたものだそうです。
>  この『俊頼髄脳』は天永二年(1111)から永久二年(1114)の成立となっていま
> す。

私も初めて耳にした書物です。手元の資料を見てみましたが、よく分かりませんでした(苦笑)

>  この第二首については 万葉集十九−四二五七とでていますので
> 他の歌も万葉集から取られたのではと思います。

 三番目の歌は、万葉集ではありませんでした。
万葉集の中では「あさもよひ」という用例はないのですよね。
ですから、転訛したかと考えたのですが・・・

『俊頼髄脳』の成立が1114年なら、それ以前の歌を調べれば出典が分かりますね。
なんだかとても出典が気になってきてしまいました。
それにしても・・・やはり「あさもよひ」を「紀」に掛けるのには納得がいきませんね。


0134  丹生津比女命の着物 H12.11.11
面白い民話をみつけました。話題の丹生の神様です。

 丹生津比女命が出雲へ旅立つ朝、寝すごしてしまい、あわてふためいて着物を木にひっかけて破り、土産を持って行くのを忘れたので、村人たちは大笑いしたという。
これが日本三大笑い集りの一つといわれる「江川の笑い祭」のはじまりといわれている。

なお、出雲に神集いする神は国津神だそうです。


0133  朝目吉く H12.11.9
古事記の神武天皇の熊野の所に高倉下が出てきます。

かれ朝目吉く汝取り持ちて・・

とあります。「あさめよく」ですね。お前は朝目がさめたら、(この太刀を)取って・・と出ています。
「さもよし」から離れましたかね。


0132  「あさもよひ」の解釈について その2 H12.11.9
私はそんなに古文に詳しいわけではないのですが
 俊頼髄脳『歌論集』というのは、(私もはじめて聞く名なのですが)歌の解釈本で、下記の三首についての解釈を述べたものだそうです。
 この『俊頼髄脳』は天永二年(1111)から永久二年(1114)の成立となっています。

あさもよひき(紀)の関守がたづか弓ゆるすときなくまづゑめる君

 たづか弓手にとりもちて朝狩に君はたちきぬたなくらの野に

 あさもよひき(紀)の河ゆすりいく水のいづさやむさやくるさやむさや

 この歌の元となったエピソードについては『今昔物語』でも取り上げられていて、「人妻、化成弓後成鳥飛失語第十四」というタイトルででています。(たしか「紀伊国名所図絵」にもでていたような気がします。)
 今昔物語では、「此ノ歌近来ノ和歌ニハ不似ズカシ、アサモヨヒ、トハ朝メテ物食フ時ヲ云フ也」と でています。

 この第二首については 万葉集十九−四二五七とでていますので他の歌も万葉集から取られたのではと思います。
 また紀伊風土記(逸文)より
アサモヨヒとは 人ノ食フ飯炊(カシ)グヲ云也、見聞土記、(万葉集抄秘府本)よりと、でています。

 私は「今鏡」は未読なのですが「和歌山県史」には『今鏡』10参照とでていますので、『今鏡』にもこの不思議な話(美女が弓に化け、弓が鳥に化け、紀伊国でまた美女に戻り、男と再会する。)が、取り上げられてるのだと思います。

 > 「あさもよひ=朝催ひ」より> 「あさもよし=麻裳良し」の方が優雅でよいな、とは思いますが「あさもよひ」と「あさもよし」は別物という考え方も出来ますね。


0131  Re:「あさもよひ」の解釈について H12.11.9
> あさもよひき(紀)の関守がたづか弓ゆるすときなくまづゑめる君
> という歌の解釈の中で、あさもよひとは、つとめて(早朝)物くふ折をいふなり
> とでておりました。人ノ食フ飯炊く…という解釈よりはまし、という気はしますが
> これがどうして紀の枕詞になるのかさっぱりわかりません。
>  ご参考までに。

上記の歌は『今鏡』のものだと記憶しているのですが・・・「あさもよひ」は「あさもよし」から誤解されて転じた、という説があります。
「あさもよひ=朝催ひ」で、確かに食事の支度、という意味です。
「あさもよし=麻裳良し」で紀伊の国から良い麻が産出されたので「紀」に掛かる、というのが一般的な説だと思います。
万葉集に歌われた「あさもよし 紀人羨しも 真土山行き来と見らむ 紀人羨しも」(巻1−55)が701年に作られたとされていますから、それから今鏡成立(1170年頃)までの470年間に、「ひ」と「し」が混乱した、というのは、わりあいに納得できる説ではないでしょうか。


0130  「あさもよひ」の解釈について H12.11.8
こんばんは 何時の間にか立冬も過ぎてしまいました。
 昨日、きのくに志学館で「和歌山県史」(古代史料一)という本を借りて参りましたら、あさもよひき(紀)の関守がたづか弓ゆるすときなくまづゑめる君という歌の解釈の中で、あさもよひとは、つとめて(早朝)物くふ折をいふなりとでておりました。人ノ食フ飯炊く…という解釈よりはまし、という気はしますがこれがどうして紀の枕詞になるのかさっぱりわかりません。
 ご参考までに。俊頼髄脳 『歌論集』より

0129  和歌山の金属に関して H12.11.8
松江藩九鉄師筆頭の田部家が室町時代に熊野から島根県飯石郡に移住し、吉田村でタタラ製鉄を始めたとのことです。その為にこの地域の山を持ったのでしょう。司馬遼さんによると一家族が殆どの中国地方の山林の地主だそうです。
田部家が移住したということは、熊野での製鉄原料が少なくなったと云うことですね。

0128  名草郡9 H12.11.7
 紀氏の系図に名草戸畔の名があり、それも祖神とされ、高天原から天孫降臨にお供をしてきたと伝わる天道根命より先代に記されていると言います。 (名草杜夫氏講演録)。
 名草の女王・名草戸畔が紀氏とどのような関係があったのか、なかったのか、この系図を鵜呑みには出来ませんが、 紀氏はもともと「和歌山の人ちゃうやろ」でしょう。その紀氏がこの地の豪族として統治して行くためには、名草戸畔の子孫であると称するのは、方便だったと思われます。
 この名草戸畔がのグループが宮井川を作っていたとすれば、相当な力を持っていただろうし、そのままこの地の豪族として紀氏に発展したことになります。 そうすると、紀清人が編纂に参加している日本書紀にわざわざ、「(紀氏の祖先の)名草戸畔を誅す。」とは記されなかったでしょう。紀氏と名草戸畔とは無関係と言えます。

 紀氏とはどのような氏族だったのでしょうか?
 紀氏のルーツはどこだったのでしょうか?
 紀氏が祀っていたのはどのような神様だったのでしょうか?日前國懸の神々とは?

 イザナギ・イザナミノ命に話を戻します。水門の神から鳴神社の話にいっておりました。
 この鳴神社は式内の名神大社です。この辺りの地名に祭神の名に似た「秋月」があります。 本州の事を大倭豊秋津島といいます。「アキツノトナメ」で「トンボの交配」との解釈もありますが、「秋月」の名もこの当たりから来たのかも知れません。
 なお、アキツは大和の地名とされ、第六代の孝安天皇の宮室を秋津嶋宮と称し、奈良県御所市室に当たります。神武天皇の国見の丘から南西3kmの所です。

 火の神を軻遇突智命と言います。鳴神社の摂社逆松社に香都知神社「軻遇突智命」が祀られています。 香都知神社も式内小社です。もともとは独立した相当な神社だったのでしょう。一般的に秋葉神社とか愛宕神社の名を持つ神社はこの神を祭神としています。

 さて、ここでは香都知神社が軻遇突智命を祀るとされます。
 面白いのは、香都知神の四世の孫に天道根命の名が見えます。先に触れましたようにこの神は言わずと知れた紀氏の祖神です。 香都知神社は紀氏の遠祖を祀っていた神社だったのかも知れません。 しかしそれならば、衰退させてしまい、なおかつ鳴神社の摂社になってしまっている事は不思議な気がします。
 また別に、香都知神の六世の孫に刺田比古神の名があります。刺田比古神社は市内の片岡町に鎮座する式内社で大伴氏の祖神を祀るとされています。 香都知神は大伴氏の遠祖にも当たります。衰退するなら刺田比古神社へ合わせても不思議ではありません。
 系図がおかしいのか、紀氏や大伴氏が遠祖と認識していなかったのか、これは想像ですが、武門でならした紀氏や大伴氏はその神の剣の威力や刀鍛冶の機能を遠祖に取り込んだのかも知れません。
 先の名草戸畔の場合とは少し違いますが、系図の使い方として、家の伝承の技術を大切にするように子孫に伝える役割もあったのでしょう。
 もう一つは、豪族としてのし上がるのは実力主義で、功なった後に馬の骨ではと言うことで、祖神を並べて家系を飾ると言うことがあったのでしょう。


0126  丹生明神の謎 H12.11.3
ご無沙汰しております。
先日、「知ってるつもり」で空海をやってました。改めてすごい人物だと思いました。
さて、本日は高野山に祭られている丹生明神に関して私が今感じている疑問を書いてみようと思います。勝手なことを書いておりますが少しおつきあいを。

1)高野山の丹生明神・狩場明神の勧請は誰がしたのか?
空海が勧請したとも言われているが、この両神が高野山文書に出てくるのが(偽書ではないとされているもの)900年代の造営の時で、当時勢力をもっていた坂上氏であるとも言われています。
坂上氏であれば、何故坂上氏が丹生明神を勧請したのか、その動機が思いつきません。また、狩場明神(丹生(丹治)家信)も坂上氏が勧請したのか?全く動機がみつからない。
空海であるのであれば、ある程度筋は通るが、文書にはそれを裏付けるものは残っていない。
空海死後の高野山僧侶が地元の人々の協力を得るべく勧請したのかも知れない。
しかし、それならば丹生明神だけでもよかったのではないか?

2)武蔵武士丹党(丹治氏)が祭る丹生明神はなぜ丹生津姫ではないのか?
丹治氏がまつる丹生神社の祭神は丹治家影を丹生明神としている。丹生津姫ではない。丹生祝氏に養子に入った丹治家信は家影の孫である。その子武信が武蔵国に配流され、そこから丹党が生まれる。
丹治家信が天野に丹生明神を持ちこんだのであれば、天野大社の丹生明神は男神(なぜなら丹治家影だから)でなければならない。逆に、もともと天野で祭っていた丹生明神を武蔵で祭るのであれば、武蔵の丹生明神は丹生津姫でなければおかしい。

恐らくは、丹生明神(丹生津姫)はもともと空海が来る以前から天野で祭られていたのだろう。丹生(丹治)家信が空海を高野山に導き、密教を守護する約束をしたことから家信は死後空海によって狩場明神と呼ばれるようになった。空海が丹生明神と狩場明神を勧請したこと、高野山開山の伝説で丹生明神が山王であることから、後世家信の子武信が何かの理由で狩場明神が家信であることから、その上の山王こと丹生明神を家信の祖父家影にしたのだろうと推測する。徳川家康を大権現として祭るのと同じようなものなのかも知れない。
私の推測も丹治武信がなぜ丹生明神を家影にしたのかという動機がみつからないので勝手な推測に過ぎない。つまり、推測で言うのも難しいくらいの謎と言うことであろうか。
もしかしたら、空海が天野に丹生明神をもちこんだのかも?まさか・・・ほんとだったりして。

0125 金屋の由来2 00/11.1
こんにちは。
「柳田國男 南方熊楠往復書簡集」(平凡社)から興味深い文を見つけたので、ちょっと長いけどここに書き出します。(敬称略です。)

柳田國男から南方熊楠へ    明治45年3月31日
(前略)金堀塚または鉄糞塚と申す塚あり。後者は実際鉄滓の出ずるあり。
長者伝説と関連し山中にも有之候。Tinkerのごときもの日本にもありしと思い候が、御所見如何にや。

南方熊楠から柳田國男へ    明治45年4月2日夜十時
(前略)鉄糞塚は当国にもあり。これは所の者が鍋釜などを鋳直しせし塚なり。
むかしは鋤犂までかかる塚にて鋳直しせしことと存じ候。(後略)

柳田國男から南方熊楠へ    明治45年4月7日夕
拝復 金糞塚より鉄滓を出すことおよび鍋釜を鋳掛けし場所なりということ、御地方にも有之候よし、できるならばその所在地およびいつごろまでその場所をその用に供せしか、御聞き合わせ下されたく候。(中略)カナイ神は家内神とも叶神とも書き、今日は必ずしも鋳物師のみの保護神にはあらざるも、会津若松の西なる鍛冶屋敷という村に、鍛冶等が家に伝えたりとて金屋神と称する梵字にて書ける巻物ありと申す。または諸処の金屋、金谷などという地にこの神をまつるを見れば、おそらくは彼らの奉祀せし神なるべく候。(後略)

南方熊楠から柳田國男へ    明治45年4月10日午前二時前
(前略)金糞塚。小生前便申し上げしは、東牟婁郡那智村大字稲成(いなり)にも隕石と覚しき金糞、土中より雨にて露出せしことあり、検するに金糞なり。(中略)井関のはたしかに近年まで(近年とは四、五十年前)鉄やきし、と小生親族のものの手代申し候。その辺の老人も申し候。いずれも現存ならん。
今より十年ばかり前のことなり。小生の父、鍋釜売り身代作り上げし人にてそのころ(四十年ばかり前まで)和歌山に金屋町というあり、主として鍋釜を鋳る。その職人は一種特別のもののごとくなりし。いろいろの祭りもありし。(後略)

◆この和歌山市の金屋町というのは「和歌山県の地名」(平凡社)という本によると在の北新金屋町ではないかと… また「紀伊名所図会」(歴史図書社)の「御伊勢橋」の項に「鈴丸町より金や町に架
と出ていますので、北新金屋町に相応するかな、と考えたりしています。(念のために南方翁は和歌山市のご出身。)

0124 名草郡8 00/11.1
 日前宮には農耕や水にかかわる祭りが多いとの事です。伝教大師(最澄)は日前國懸神宮を名草上下溝口神と呼んだと伝わっています。 これを受けて、上宮を日前宮、下宮を國懸宮とする見方があります。日前國懸神宮は平地に同じように鎮座しており、 山頂と里のような地理的な上下関係は見られません。かっての豊の国に上毛、下毛と言う所がありました。毛は紀の九州弁と考えると、紀氏が二つのグループをなして住んでいたそれぞれの神様かもしれません。 これは単なる思いつきで、<(_ _)>追々調べようと思っています。 
 もうひとつは、ヒノクマに祀られている國懸神(一座?二座?)をして日前國懸神と称したとの説があります。日前坐國懸神ですね。 天武天皇が病に倒れた時、紀伊国の国懸神、飛鳥の四社、住吉大神に奉幣したとの記事があります。日前神は坐なかった?。 とにかくその由緒、祭神、全てに謎を秘めた日前國懸神宮です。実際には、謎を秘めたとは全ての古い神社に言える事かも知れません。
 またまた簡単に判るようじゃ、神様とは言えないのだ、と言う声が聞こえてきそうです。

 日前宮のヒノクマと言う地名は明日香村にもあります。檜前、檜隈と書くようです。
 このヒノクマの意味を日前宮の漢字表記から日神(伊勢)の先にできた鏡を祭る云々との解釈もありますが、日前もかっては檜隈と書かれていました。
 「ヒ」は樋の意味で、水を誘導するものと思います。
 「クマ」は角「コーナー」や崎「サキ」の意で「前」と言う漢字が当てはめられるのも自然です。 小さい場所でしょう。まさに名草用水の宮井川の先端を指しています。水分けの場所でしょう。

 宮井川は日前國懸神宮と密接にかかわっていると言うべきでしょう。問題は、誰が、日前國懸神宮を祀っていたかです。この一族が宮井川を作ったのでしょう。 とすれば、先ずいつ頃できあがったのか、と言うことから考えねばなりません。古墳の土木技術の応用として、古墳時代(4−6世紀)であろうとは先に言いました。
 発掘調査では明確に建造の時期がわかっていないようです。文献的にも平安時代にはあるようで、奈良時代以前と言う程度しか判っていないようです。 (小生の勉強不足で他にあるかも知れません。これはこのシリーズ全体に言える事ですが。)
 薗田香融さんと言う方が、弥生時代には簡単な灌漑で農耕を行っていた。古墳ができるベースには飛躍的な農業生産力の上昇があって、相当な灌漑が行われていたと言っておられます。 やはり古墳と宮井川は連動しています。紀の川河口付近には4世紀の前期古墳は少なく、5世紀に入って古墳数は、大和も真っ青な程爆発的に増加するのです。 西暦400年頃、一体何が起こったのでしょう。記紀では神功皇后、応神天皇、武内宿禰の物語がこの頃です。 河内王朝の誕生、紀氏の武人の朝鮮半島への侵攻などが始まるころです。
 イザナギ・イザナミノ命の話からだいぶ先に飛びましたが、宮井川は紀氏が作ったと見るのが妥当でしょう。

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