更新 2000/11/29
銅鐸の記憶が記紀に現れてこないことは色んなことを考えさせます。
銅鐸は口にするのもはばかられる程の神聖なものだった。これによる祭祀を司ったのが、ごく一握の人々であって、彼らにより占有・埋匿されたものだったので、民人によって語り継がれるようなものではなかった。
すなわち祭政を司った人々は一掃されてしまったと言うことでしょうか。
いずれにしろ弥生時代の権力者や祭祀を司った人々と全く異なった銅鐸と無関係な人々が登場して、王権を創設し、記紀を著したとしか思えません。
名草郡では太田黒田の住居遺跡から銅鐸が出土しています。名草郡ではそのころ何が起こっていたのでしょうか。紀元3世紀の後半にこの住居遺跡の住人の姿がぷっつり途絶えているのです。 しかしながら名草全体の住人数は徐々に増えているそうです。洪水の跡もないようです。 この時期は邪馬台国では台与の消息が途絶えた頃ですし、朝鮮半島からの移住者は「牛のよだれのごとく」と形容される大変動のあった時期にあたります。 また大和では箸墓古墳が築かれます。記紀では所謂三輪王朝と言われる崇神天皇の頃に当たります。後ほどの課題です。
紀の国での銅鐸出土は、北部からは初期の小型銅鐸、南紀の御坊や南部川村からは後期の大型銅鐸が出ています。 くっきりと鮮やかな差があるそうです。見てきたように弥生時代を語ると言われる水野正好奈良大学学長に言わせれば、 北部は初期に大和王権に服属して、水運などで大いに協力し、初期の小型銅鐸を貰った。南部は遅れて服属して、その後重要視され、大型銅鐸が配られたと解説をされています。(古代豪族紀氏)
もしそうだとすると、銅鐸を配った崇神の三輪王朝と記紀を編集した権力とは異質だったと言えます。やはり王朝交代が幾度か行われたと考えるのが自然ですね。
箸墓のある巻向遺跡からは東海地方など各地の土器が出土していますが、現在の出土分では紀の国の土器は極微量のようです。紀の国は三輪の王権との関係は薄かったかも知れません。
名草の人々は箸墓の造営には参加していないのではないでしょうか。疎遠だったのかも知れません。銅鐸は大和王権からの授かり物説には疑問を持たざるをえません。
同じ鋳型から作られた銅鐸が各地から出ているからと言って、一つの王権が配っていたとするのはどうでしょうか。
それよりは、いくつかの銅鐸製造センターがあって、祭りの道具の商人が各地の豪族に売り歩いていたと考えるほうがましだと思っています。古代の流通経済をもっと考える必要があるように思います。
銅鐸と関連があると思われる記事が播磨国風土記にあります。
これには、4世紀初めに呉勝(くれのすぐり)が名草の太田に居住し、その後摂津の三嶋、播磨の揖保に移住したと記されているのです。
●名草の太田 日前國懸神宮の鎮座地付近です。銅鐸が出ています。
●摂津の三嶋 大阪府茨木市です。太田と言う地名と太田神社があります。その南側の東奈良と言う所から銅鐸や鋳型が出土しています。製造販売のセンターだったのかも知れません。浪速の商人ですね。「もうかりまっか」「ぼちぼちでんな」てな会話が飛び交っていたのでしょう。紀の川沿いの緑泥偏岩を運んで作った古墳があります。
紀の国をふるさととする金持ちがいたのでしょう。
●播磨の揖保 姫路、竜野付近です。両市の間の太子町に太田と言う地名が残っています。物部系の矢田部連の居住地です。山奥の山崎町は銅鐸の道と言われる地域で、摂津の銅鐸と同じ鋳型から作られたものが出土しています。
○(讃岐の山田) 高松市です。太田の地名は残っています。播磨と関係の深い地域で、ここからも上記と同じ形の銅鐸が出ています。
谷川健一さんの名著「青銅の神の足跡」によりますと、銅鐸と言えば物部氏や伊福部氏が主に作ったとされています。 摂津、播磨には物部氏の祖神を祀る神社が鎮座しています。紀の国名草では栗栖紀氏神社や高橋神社が大日山の東北側にありますが創建年代は不明です。 紀の国でも銅鐸が作られていたのかも知れません。これに従事していた人々が摂津や播磨に移動していったことが播磨風土記に記載されているのかも知れません。 但し、銅鐸を思わせる記述を播磨風土記のなかにはまだ見つけることは出来ていません。
摂津と播磨とは神社でも強い共通点があります。摂津には新屋坐天照御魂神社「火明命」が三座と疣水神社「磯良大神」、播磨には粒坐天照神社「火明命」が鎮座しています。 摂津の疣水神社の名は粒坐天照神社の「いぼ」とは何か関係があるのではと思います。 紀の国には先ほどの物部系の神社と旧事本紀に饒速日命降臨に供をした三二人衆の中に紀の国の国造の祖とは書かれていませんが、天道根命の名が出てきます。
素朴な感じの話の多い播磨風土記に紀の国の名草の太田からの話が出ていることは信用してもいいのかもしれません。
前記寛永記は豊臣秀吉が紀州の社寺を焼いていった後に作られた物で、この須佐神社のことはどこまで正しいのか不明です。
と言うのは、続風土記に須佐神社への冒涜の話が以下のように出ています。
天正七年(1579年)豊臣秀吉公信長公の命を受けて此地を畧せる時湯淺の地頭白樫左衛門尉實房内應をなし里民を強暴し神祠を毀壊す。
社家大江氏重正といふ者神器靈寶及縁起記録等を唐櫃二具に蔵め今の神祠の後光谷といふ谷の林中に隠す。
實房これを捜り出し或は火に投じ或は海水に没し亂虐殊に甚し。
これに因りて當社の傳記文書の類一も傳はる者なく古の事蹟詳にするによしなし。
白樫左衛門尉實房の言う人の悪名はこれで永久に語り継がれます。神罰と言うべきか。
なお、千田の須佐神社は元々名草郡に鎮座していたのではと小川琢治さんが指摘をされています。
とすれば、いったい名草郡のどこに鎮座していたのでしょうか。
候補一 口須佐の須佐神社 山東荘口須佐村
候補二 日前國懸神宮現社地 ここは名草万代宮とも言います。
候補三 伊太祁曽神社現社地 山東荘伊太祈曽村西ノ谷
それぞれそれなりに説明がつきそうな候補地です。これにつきましては、後の伊太祁曽神社、五十猛命の所で再度触れることになると思います。
三貴子の話に戻ります。
月読命は目立った活躍は記載されていません。古事記では阿波の穀物の神を殺すのは須佐之命ですが、日本書記では月読命の仕業となっています。
この神を祭る式内社は紀の国には見当たりません。京都の松尾大社の南に月読神社が鎮座し、尊のハンサムな像があるそうです。
イザナギノ命は三貴子の誕生を大いに喜びました。御頸珠の玉の緒を取りゆり鳴らせて、天照大神に与えて申しました。
「汝は高天の原を治めなさい」と。この御頸珠の名を「御倉板挙の神」と言うとあります。
日本の民俗学の祖でもある柳田国男翁は「御倉は神几にて祭壇の義なるべし。 この板挙之神は古註に多那と訓めあれど義通ぜず。
おそらくはイタケの神にして、姫神が父神を拝祀したもうに、この遺愛の物を用いたまいしことを意味するならん。」と明治末期に述べています。
このイタケの神とは伊太祁曽神社の祭神の五十猛命を指しています。翁は齋神として五十猛命を理解しているのです。
この件は後述する事にして、三貴子の話に戻ります。
イザナギノ命は月読命に「汝は食国を治めなさい」と言いました。夜の神としたのでしょう。「月食」の現象を死と再生に結びつける見方もできます。
須佐之命には「海原を治めなさい」と言いました。これに対して命は泣き叫き、「母の国の根の堅州国に行きたい。」と譲らなかったので、遂に、追放されました。
須佐之命の第一回目の追放です。それにしても、古事記ではイザナギノ命は一柱となって神を生成しており、母神のイザナミ命は誕生にはかかわっていないのに、どうして母の国に行きたいと思ったのでしょうか。
不思議な話です。これが神話の神話たる由縁でしょうか。
日本書紀では、イザナギノ命、イザナミノ命の国生みに続いて三貴子が誕生しています。伝承に混乱があると言う事で、記紀が宮廷の編集局で創作されたのもではない証拠かもしれませんね。
天照大神に別れを告げるべく、いよいよ須佐之男命は高天ヶ原に乗り込みます。
全くの創作ではないとしたら、どのような歴史上の出来事を反映しているのでしょうか。
新しい権力の登場とそれへの抵抗が、数多くなされて来たのでしょうから、これらの事が須佐之男命の高天ヶ原での行動に反映しているのかもしれません。
また大国主命の国譲りや建御名方命の話、さらには神武天皇東征譚などにも、新旧の勢力の葛藤がうかがわれます。
さて、記紀を作成した王権側には銅鐸については、その記憶の痕跡が見当たらないようです。
銅鐸はこの国の弥生時代を象徴するおそらくは祭祀の道具であったはずです。その記憶が見事に消えているのです。
これは不思議なことです。何故でしょうか。
イザナギノ命が左の目を洗うと天照大神、右の目を洗うと月読命、鼻を洗うと建速須佐之命が生成されます。
いよいよ、三貴子の登場です。太陽と月とくれば普通の感覚では星ですね。
熊野本宮大社には日月星を遙拝する三光遙拝所がありました。
星神としては、古事記の最初に天地の初発の時、「天之御中主神がなります。」と言うことで、とっくに出ているのです。ここでは三貴子のひとつ、スター神の須佐之男命が出たことにしています。
須佐之男命を台風の神と考えると、こじつければ天空の丸いもの、すなわち台風の目を丸いものとしたと言えるでしょう。
左右の目から太陽と月が生まれると言う神話は広く東南アジアに分布しているそうです。
鼻から神が生じるのは、記紀のオリジナルかも知れません。鼻息、やはり台風をイメージさせますね。
縄文の神の代表、あらぶる国津神の雄である須佐之男命を天照大神の弟として、王権神話の中に組み込んで国家の統合を図ったのでしょうか。
さて、皇祖神とされる天照大神ですが、日前国懸神宮では、日前神・国懸神を共に天照大神のことと説明されています。
紀伊半島を横切る中央構造線、このラインは金属資源が豊富ですが、この西端に日前宮、東端に伊勢神宮が鎮座しているのは偶然ではないと思います。
大和王権が金属資源を直轄しようとする意志の現れと見ることができないでしょうか。武力により王権を獲得した天武天皇の意志を感じます。日本書記に「天武天皇2年大来皇女を天照大神宮に遺侍さむとして、伯瀬斎宮に居らしむ。」とあり、この時より皇女が差し向けられました。
王権が天照大神を皇祖神として祭り上げたのです。
東西の神宮を王権の意志の現れと理解すれば、日前國懸神宮の神を天照大神として祭るとしていても不思議ではありません。この頃、紀氏は天照大神を受け入れ、祀ることになったのでしょう。国懸神の創祀と思われます。国懸とは「国見をする」「国を脅かす」などと解釈されるようです。
余談になりますが、三重県のある宮司さんから教えて頂いたのですが、中央構造線を調査している東大地震研究所及び成蹊大のサークルが、丹生姫神を祀る神社や幾つかの式内社がまさに構造線の真上に鎮座していることを見出したとのことです。 構造線からのエネルギィを感じてとか、そのエネルギィを鎮めるために神社を設けたとも理解できます。
さて、皇太神宮につきましては、OkuPapaさんです。よろしくお願いいたします。皇太神宮の事だけではなく、瀬藤の記紀理解や神々については我流でやっていますので、誤解をしている所が目立つと思います。ご指摘頂ければ幸甚です。
建速須佐之命を祀る最も社格の高い式内社は有田千田の須佐神社です。須佐之男命のルーツと見られている出雲ではありません。
千田の須佐神社については、えかわさんが推測されているように、ここに祀られたのは紀氏の力が働いているものと思われます。
社伝では和銅六(713)年、紀ノ川上流の大和国吉野郡の西川峯から遷座したと伝わっています。
続風土記には「寛永記(1624−)に名草郡山東荘伊太祈曾明神 神宮郷より亥の森へ遷坐し給へる年月も是と同しきは故のある事なるへし」
と出ています。おそらくこれは伊太祁曽神社が亥の森から現社地への遷座の事をさしているものと思われますが、和銅年間には多くの神社について創建、勧請の伝えが残っており、朝廷の新しい神祇政策が打ち出されたのでしょうか。