神奈備掲示板の案内とログ

皆様から神社や古代のお考えのご紹介やご意見などを頂きたく思います。
大いにコラボレーションいたしましょう。

神奈備掲示板  青草談話室ログ

掲示板のログ、お名前の敬称は省略しています。


[10632] Re[10630][10627][10626]: 社(ソ)  琉球松 2011/02/28(Mon) 10:38 [Reply]
 「五十猛」の「十」は、「ト(杜)」とも読めますね。

 「ト」と「ソ」は、ほとんど同音でしょうし、簡単に脱落しそうですが、「シャ(社)」は「サ・ソ」でもかまわないでしょうか。

 そうすると「五十猛」は、伊都国の猛々しい者かも?

[10631] Re[10630][10627][10626]: 社(ソ)    生田淳一郎 2011/02/28(Mon) 09:31 [Reply]
> >「社」は「そ」、「そう」と読めそうです。

Ponta さんもあり難うございます。

● 神社の “社” はシナの社禝(自分らの土地 と 産物が基本概念か)の社を「やしろ」と読んだのが起源かと……。
  朝鮮語の so は、このシャの朝鮮語読みかもしれませんね。
  小生は「園(その)」がついた名前の人に初めて会ったとき、「あんた、鹿児島県の人ですか?」と訊くことにしています。すると、だいたい当たっています。

● 生苧は何と発音するのでしょう。小生はけたたましい漢字オンチなんです。
  藤堂明保著『漢和大辞典』と相談してみましたところ、どうも「キジョ、キヂョ」らしい。
  「生(キ)」は灘のキ一本といったときには「酒」なんですけど……。あ、キ娘のキですね。
  すると、このキは、いちおうシナ語と関連をもたねばならないことになってくるかと思いますが。
  和歌山もつくば山々麓も「キのくに」でした。「ki(大地)」はバビロニア方面が中心だったでしたか。
  木曽は第三の「ki のくに」であってもおかしくはないようです。また、 ki , gi には “神” もあります。
  火事とケンカは江戸の花。大量の木材を供給したのは木曽でした。この時代に「木曽」よばわりが生じたか。

[10630] Re[10627][10626]: 社(ソ)  PONTA [Url] 2011/02/28(Mon) 02:31 [Reply]
>「社」は「そ」、「そう」と読めそうです。

「社」って「荘」や「壮」に似てますね。
字義が似てるからかな?

[10629]  和歌山 2011/02/27(Sun) 19:33 [Reply]
そは熊襲、蝦夷とも通じるようですが、信州の木曽は麻の生苧が語源だという説があります。そ、杜いずれにしても樹木と関係がありそうですね!山の民でしょうか?

[10628] Re[10627][10626]: 社(ソ)    生田淳一郎 2011/02/27(Sun) 11:32 [Reply]
和歌山さん、貴重な情報をあり難うございます。

小生はここ 20年間、ネパール語を見つめています。まだヒンズ−語は見ていませんが、安本美典著『日本語の誕生』巻末基礎 200語対比一覧表によれば、ネパール語とヒンズー語は同一だと思うに至っています。
そのネパール語は対日本語で 1300ペアの、対アイヌ語で 500ペアの類似語彙を見せているのです(大野晋教授が摘出された類似語彙は日本語とのあいだで 350ペアしかありませんでした)。

BC 1500年期に地球規模で猛烈な寒波が襲ってきました。
2万年前、めっぽう温かい犬の毛皮を着て、トナカイやマンモスなどを追って北方に入ったコーカソイド白人は、死ぬ思いをしてヒンズークシ( クシは “殺す” という意味)やカイバル峠を越えて南下しました。

秦始皇帝の兵馬俑を造るとき働いたと見込める労働者の中には、どうみても白人としか思えない遺体があったり、山東半島つけねから白人の骨が出土したりしています。小生はこれらは国を失った白人だと思っています。

そのネパール語に所有を表わす助詞に ka 、ko (……の)があります。日本語のミコト、ミカドのように ka のほうが丁寧な言い方です。
このデン(これもネパール語)で考えれば、村杜耕平さんの杜(こそ)は「……の、ソ」に還元できるかと思います。

熊襲は「クマル神(少年神)を信奉する人びとの so(蝟集する国)」かと……。
> 二文字も消費して「い」・・・・・  などは裏番組の『青草掲示板』で

[10627] Re[10626]: 社(ソ)  神奈備 2011/02/26(Sat) 20:47 [Reply]
> マラソン選手で村杜耕平さんを思出だしました。読みはムラコソコウヘイさんです。

> 『牛の来た道』の著者は、初期の新潟県では「十二社(読みはジュウニシャとも、ジュウニソウとも)」がずら〜っと並び、

 平成祭CDによりますと、静岡県牧之原市大沢の十二社神社が「じゅうにそうじんじゃ」とのルビがあります。
 他の「じゅうにそうじんじゃ」は神奈川県鎌倉市十二所(ジュウニソ)の十二所神社、岐阜県海津郡南濃町の十二相神社があります。

 これから見ますと、「社」は「そ」、「そう」と読めそうです。ほかに「こそ」が有名です。

 伊太祁曽の名前の要素に祭神の五十猛があるのだろうと思います。
 出雲では、五十猛はイソタケと読まれていたようで、磯竹と言う地名に五十猛神社が出来たりしています。「五十」を「い」とするか「いそ」とするか、二文字も消費して「い」だけでは効率が悪い、「いそ」とやはり二文字で読むほうが自然ですが、これにも地域差があり、五十猛も「いたけ」、「いたける」、「いそたけ」と読まれていたようです。
 伊太祁曽も「いたけそ」が本来かも。それが「いたこそ」となれば、「社」に通じます。

 「伊達」「射楯」で表示される場合もあり、「いだて」も候補に入って来るようです。
 「曽」については熊襲の「そ」も同じように解読できたらと思っています。


[10626] 社(ソ)  和歌山 2011/02/26(Sat) 19:13 [Reply]
マラソン選手で村杜耕平さんを思出だしました。読みはムラコソコウヘイさんです。

[10625] イタキソ様    生田淳一郎 2011/02/26(Sat) 11:17 [Reply]
神奈備ドン、
裏番組で、十二社がジュウニシャともジュウニソウとも読むことに注ぎ目してくれたやろか。
「社」を「ソ」と読ませてた事例を発見したことがあったが、あれは、もう 4年ぐらい前のことになったか。
もちろんイタキソ様の語源掘りだしにかかわる。
社は、呉音は「ジャ」漢音は「シャ」。

so は朝鮮語では「人や物が集まっているところ」という意味がある。この限りではアイヌ語の so(床)とつながる。

今の段階で イタキソ様を分析すると tak(神)に √ i がかかって、itak は「神ごとする」。これに is(神)がつき、末尾にふたたび --o(神)がついたということになる。

[10624] Re[10622]: 風神=天神  琉球松 2011/02/25(Fri) 15:48 [Reply]
 凡夫さん、参考までに。。。

 沖縄島中南部方言で「風」は「カジェ」に近く、「鍛冶」は「カヂ」で、「火事」は「クァヂ」に近いですね。これらは明確に区別されています。

[10623] Re[10621][10620][10619]: 象鼻山  生田淳一郎 2011/02/25(Fri) 10:44 [Reply]
ネパールという発音によく似た「ネワール」という一族がいます。彼らはネパールの主都カトマンズの先住民族です。
「ぞう(象)」という語の輸入先はわかりませんが、このネワール族がメス像だったかを「キサ」と言っていることを、もう十年ぐらい前になるのかナァ、ここで桜左近氏が紹介しています。
秋田県象潟のキサでしょう。
出羽三山周辺にはいろんな山伏〜行者がいたらしい。
鍛冶屋のカジというのもネワール族がしゃべってることも、桜左近氏が報告しています。

[10622] 風神=天神  凡夫 [Url] 2011/02/24(Thu) 08:52 [Reply]
拙ホームページ 古代之風 http://kaze.world.coocan.jp
ご笑覧下されば幸甚に存じます

お門違いの投稿であれば削除をお願いいたします

[10621] Re[10620][10619]: 象鼻山  琉球松 2011/02/23(Wed) 11:44 [Reply]
 「象」の形とされるのは、けっこう後じゃないでしょうか。熊野権現にすれは「金毘羅・琴平」でしょうから「鰐(鮫)」だと思いますね。

 その語源が鮫神でいいとすれば、海の神とされているのも納得がいきます。ただサンスクリット語の「クンピーラ」は淡水のガンジス川の神ですから、和歌山県の紀の川などに鮫が上る話にも繋がりそうですよ。銅鐸の水の神の部分?

 これらの山は、後世にはいろいろな名称が与えられているようですけど、「神奈備」が最も古いように思えますがどうでしょうか。これは円錐形など立体的である必要はなく、山頂付近の形は、ありし日の銅鐸を伝えてはいないでしょうか。穏やかな時代の銅鐸神?

[10620] Re[10619]: 象鼻山  とみた 2011/02/23(Wed) 08:18 [Reply]
>  岐阜県の養老の象鼻山に古墳群があります。2世紀から5世紀にかけて約70基の古墳があり、新しい古墳は古い古墳を壊さずに造営されているそうです。聖地との見方があるようです。
南宮山の140mぐらいのところに前方後方墳としてありますね。3世紀末のものでしょうか。墳形及び埋葬方法が東海様式を採用。埋葬物は畿内様式です。琴柱形石製品が入っています。近くの東近江の雪野山古墳も琴柱形石製品が入っています。

>  所功先生で、「たかじんのそこまで言って委員会」と言う番組などで天皇論などをやる時にこられる謹厳実直な印象の方です。その先生の講演

京都産業大の先生ですね。

ノーベル物理学賞の益川さんもここの先生。


[10619] 象鼻山  神奈備 2011/02/21(Mon) 16:38 [Reply]
 岐阜県の養老の象鼻山に古墳群があります。2世紀から5世紀にかけて約70基の古墳があり、新しい古墳は古い古墳を壊さずに造営されているそうです。聖地との見方があるようです。讃岐の象頭山と云い、象鼻山の名前は一体いつ頃の命名なのでしょうか。江戸時代には実物がやって来ているのでしょうが、もっと昔は象と云う動物をどう想像していたのでしょうか。中国将棋に象棋があり、その箱にでもお鼻の長い絵が描かれていたのかも。

 象鼻山の古墳群の話をされたのは、所功先生で、「たかじんのそこまで言って委員会」と言う番組などで天皇論などをやる時にこられる謹厳実直な印象の方です。その先生の講演が昨日の日曜日にあり、「大和朝廷の発展過程 ー王宮、后妃、御陵の謎解きー」とのタイトルでした。

 后妃についてのレジメ
 后・・口(祭器)で祈る人の意。cf君・・尹(神杖)で祈る聖職者
 「后は継体の君・・号を発するものは君后なり」(『説文』)、もとは母后をいう。(白川静)
 妃・・巳(祀)を掌る女の意→「天子の妃を后をいふ」(『礼記』)。姫・・http://kamnavi.jp/log/030069.gif(乳房)の成女
* キサキ・・「君幸」(きみさき)(『和訓栞』)、「御妻(みめ)」(貴婦たち)と別格の正室=大后

 よくわかりませんが、以下面白いことを二つ。

 神武建国を否定する根拠はない。
 考古学は『古事記』『日本書記』を裏切らない。

[10618] Re[10611][10610][10608]: 神奈備山  琉球松 2011/02/17(Thu) 22:02 [Reply]
 "円錐形に見えるところに住む"。。。これはナイスじゃないでしょうか。

 この形に見える人々にとっては「神奈備山」でしょうが、そう見えない人にとってはただの山かもしれませんよ。
 「像頭山・金比羅山」もその親戚でしょうけど、このトンガリは銅鐸の頭?を連想できないでしょうか?

 禁足地にしても、足下に何かが居るみたいな。。。石上神宮のそれは勾玉のようですが。

[10617] 神奈備と周辺の山  和歌山 2011/02/17(Thu) 21:24 [Reply]
春日奥山原始林は平安時代に狩猟・伐採が禁止され今日にいたっています。当時環境や自然保護といった考えは無かったと思いますから、山や樹木には神がいるという考えがあったから禁止になったんではないでしょうか?今でも樹木が大量に枯れだすと神が天に帰る前兆だといわれています。そして神仏習合思想の中から地下には地獄があると信じられ、庶民の遺体の遺棄場があったとも言われています。北側の若草山山頂には4世紀末の前方後円墳もあります。神だけでなく仏や死後の世界まであったようです。
 

[10616] Re[10615]: 神奈備と周辺の山  神奈備 2011/02/17(Thu) 11:33 [Reply]
 三輪山の背後に標高が100m高い巻向山があります。足の弱い人は車で巻向山に登り、そこから尾根伝いに三輪山に行ったそうです。その方にとって巻向山は方便だったのかも知れません。

 また巻向山にはダンノダイラと云う出雲族の居住地と云われた場所があり、三輪山の神とのゆかりを感じます。一方、巻向山を弓月岳とし、大兵主神を祀っていたともされています。

 それぞれの山にはそれぞれの神が宿っていると思われていたのでしょう。

 また話は違いますが、天香山のように複数の神々が鎮座する端山もあります。特に畝尾坐健土安神社など畝傍を冠にした式内社が麓に鎮座しており、往古は畝傍山と呼ばれていたと思わせます。

[10615] 神奈備と周辺の山  和歌山 2011/02/16(Wed) 18:37 [Reply]
平野の中にポツンと神奈備山があるのではなく、三輪山や御蓋山のように背後の山並みがある場合は全体が神が宿ると考えたのでしょうか?

[10614] Re[10613]: 神奈備山・川  神奈備 2011/02/16(Wed) 11:39 [Reply]
> そして原始林各地に春日大社の末社が点在しています。原始信仰の名残でしょうか?

 山中の水源地に高山(こうせん)神社が鎮座しており、ここでは水が湧いているそうです。泉を禁足地にするために神域としたとよくいわれますが、雷や水源を祭ることは原始信仰と言えるのでしょう。鳴神神社も鎮座していますね。

 春日大社の摂社に水谷神社、上水谷神社があります。これらは伊勢の赤桶の水屋神社と深い由縁があるようです。やはり水神が水谷川からこれらの摂社を休場として登頂していった名残かも知れません。

[10613] 神奈備山・川  和歌山 2011/02/15(Tue) 21:22 [Reply]
春日奥山原始林から流れる川は平城京の水源となっていました。そこに御蓋山があります。そして原始林各地に春日大社の末社が点在しています。原始信仰の名残でしょうか?

[10612] Re[10611]: 神奈備山  神奈備 2011/02/15(Tue) 15:33 [Reply]
 吉野では山頂から下を流れている川(の神)を祈るようなことはあったそうです。

 神は川からやって来て山にとどまるといわれます。旧住所で三重県上野市下郡に鎮座する猪田神社には木津川から神霊がやって来た足跡が残っています。山から川を見るのは、神の故郷を見ることになるのでしょう。原始に帰り、再現するのが神道の祭りですから、山から川を祈ることは自然なことだったのでしょう。

 また、吉野の山の中には頂上から三輪山や金剛・葛城山がよく見える場所があり、祈りを捧げることもあったのかも知れません。そういう意味では神奈備山崇拝は平地とは限らないのかも知れません。

[10611] Re[10610][10608]: 神奈備山  和歌山 2011/02/14(Mon) 20:53 [Reply]
> これは平野部に住んでる人の発想かな?
> 山に住んでいる人も神奈備山をあがめてますよ。
> 「神奈備山と平野はセット」ではなく、「神と人がセット」なんですよ。

確かに平野に住んでいる人の発想ですね。私は山に住んだことが無いもので!富士山なんかは平野・山問わず見えますね!ただ神奈備でも見る方向により円錐形に見えたり見えなかったりするんじゃないでしょうか?そうすると円錐形に見えるところに住むのか、礼拝する時に移動するのでしょうか?

[10610] Re[10608]: 神奈備山  PONTA [Url] 2011/02/14(Mon) 05:58 [Reply]
>山がよく見えるということは麓は平野が多いと思います。平野であれば人々が生活できますから神奈備山と平野はセットと考えたほうが自然だと思います。

これは平野部に住んでる人の発想かな?
山に住んでいる人も神奈備山をあがめてますよ。
「神奈備山と平野はセット」ではなく、「神と人がセット」なんですよ。

[10609] Re[10608]: 神奈備山  PONTA [Url] 2011/02/14(Mon) 05:13 [Reply]
>神奈備山と平野はセットと考えたほうが自然だと思います。
というか、神は人が存在するから存在するのであって、
「神奈備山と平野はセット」というより、「神と人はセット」なんですよ。

[10608] 神奈備山  和歌山 2011/02/13(Sun) 13:22 [Reply]
禁足地とはいえ山であれば誰も登りたいと思うでしょう。三輪山でも原則登拝できますし、御蓋山も年数回一般の人でも神事として登拝できます。
 神奈備はそこに神が降り立つと考えれば岩でなくても樹木でも神が憑依するものがあればよいのでしょう!山がよく見えるということは麓は平野が多いと思います。平野であれば人々が生活できますから神奈備山と平野はセットと考えたほうが自然だと思います。

[10607] Re[10606]: 御蓋山  PONTA [Url] 2011/02/12(Sat) 23:50 [Reply]
愛知県と静岡県の県境にあるのが湖西連峰で、山々のあちこちに巨石がごろごろ。
でも、古代から信仰されてきた霊山である霊屋之峰の山頂には、なぜか巨石がないとか。
御蓋山にしても、岩が無くても神奈備山にはなれるみたいですね。

>禁足地といいながら登山道からつながる道があります
神神社の岩境も、年に3回、ご神職が祭礼を行いますので、禁足地ではありますが、道はあります。

[10606] 御蓋山  和歌山 2011/02/12(Sat) 22:20 [Reply]
奈良市の御蓋山も禁足地ですが何時からかは、神職さんからは聞いた事がありません、樹木伐採禁止は何時からかは分かっているんですが!禁足地といいながら登山道からつながる道がありますし、頂上からは経塚が見つかっています。神事で上りましたが磐座等は見あたりませんでした。この山は春日神が降り立つ前から遣唐使が遥拝していましたし、飛火野からは祭祀遺跡も見つかっています、麓の春日大社境内には磐座がたくさんありあす。

[10605] 信仰の変化  PONTA [Url] 2011/02/12(Sat) 03:01 [Reply]
>三輪山の信仰は、蛇神なのか、山中の磐座なのか、山そのものなのか、実際の所は渾然としているようです。

時代によって、人の入れ替えによって、信仰の対象は変わるのでしょうね。縄文時代の信仰の対象は蛇(蝮)なのに、古墳時代には鳥に変わったようですし。

「日本にピラミッドがあった」という青草があって、ピラミッドと認定する条件の1つに山頂の巨石があるのですが、山頂に巨石があったから神奈備山にされたのか、山容がとぐろを巻いた蛇のように美しいから山頂に巨石を運んで神奈備山にしたのか?

[10604] 神神社  PONTA [Url] 2011/02/12(Sat) 02:53 [Reply]
静岡県藤枝市に式内・神神社があります。
拝殿の裏に三輪鳥居があり、その奥(丘)は禁則地なのでどうなっているのか分かりませんが、案内板には「岩境」があるとのことです。
神体山は焼津アルプス最高峰の高草山だそうです。
2/8に農の事始行事「山宮祭り」が開かれました。山の中腹にある磐座(神神社の社地だそうです)から里に向けてご神職が弓を射ました。その弓矢によって、山の神が里に下りて田の神になるそうです。田んぼの横の桜にでも宿るのでしょうね。

[10603] 三輪山の神  神奈備 2011/02/11(Fri) 17:52 [Reply]
 神体山信仰で有名な山が三輪山ですが、三輪山を神体山としてのは、寛文六年(1666)の寺社奉行裁定書だそうです。(五来重著『石の宗教』)

 むくろが谷と呼ばれる葬地が三輪山にあるので禁足地になったのであって、神体山だから禁足地になったのではないとのこと。

 三輪山の信仰は、蛇神なのか、山中の磐座なのか、山そのものなのか、実際の所は渾然としているようです。近くから眺めたら綺麗な形に見えますが、吉野の金峯山・銀峯山は相当遠くからですと山容は見えるのですが、三輪山のように近くから親しみを以て秀麗な姿を眺めるという山ではなさそうです。

 神体山信仰でなくとも、往古は山頂で神を祭ったのではないでしょうか。それが里宮に勧請され、更に田に勧請されてきたといわれます。古い形を残したままの神社だと云うことでしょう。山頂に祖神が降臨するということが、山頂で神を祀ったのでしょう。

[10602] Re[10601][10600][10599]: 天津羽羽命と吉野国栖  加賀 [Url] 2011/02/10(Thu) 01:12 [Reply]
神奈備様、回答ありがとうございます。

波宝神社も波比売神社も現在は丹生氏の一族が神主をしておられますが、
丹生氏が来る前までは、吉野川の南岸は大伴氏が支配していたという
丹生総神主家の伝承があります。

大伴氏の祖である天押日命の親神に系図には、以下のような箇所があり、
天雷命─天石門別安国玉主命─天押日命─天押人命

大伴氏という観点から行くと、天石門別安国玉主神の子天津羽羽命という繋がり
が文献から見えてきます。

丹生総神主家と大伴氏は血縁関係を結び、良好な関係にあったそうですが、
時代と共に大伴氏側の伝承が薄れていったのかもしれません。

山頂にある神社は御神体山信仰があった名残だと考えております。御神体山の神様は蛇であることが多いです。丹生氏の側からではなく、大伴氏よりに考えると興味深い
と思います。

天石門別安国玉主命は注目すべき名前だと思います。安国とは大和の国のことですね。
中臣祓訓解や大和葛城宝山記などに記載があります。
安国玉主=大和国魂 と連想出来ます。

吉野から葛城にかけて、天安川(安国の川)神社が数カ所あり、
祭神は、天尾羽張命です。読みはあめのおはばりのみことで、ここにも
「はは」が出てきます。





[10602] Re[10601][10600][10599]: 天津羽羽命と吉野国栖  加賀 [Url] 2011/02/10(Thu) 01:12 [Reply]
神奈備様、回答ありがとうございます。

波宝神社も波比売神社も現在は丹生氏の一族が神主をしておられますが、
丹生氏が来る前までは、吉野川の南岸は大伴氏が支配していたという
丹生総神主家の伝承があります。

大伴氏の祖である天押日命の親神に系図には、以下のような箇所があり、
天雷命─天石門別安国玉主命─天押日命─天押人命

大伴氏という観点から行くと、天石門別安国玉主神の子天津羽羽命という繋がり
が文献から見えてきます。

丹生総神主家と大伴氏は血縁関係を結び、良好な関係にあったそうですが、
時代と共に大伴氏側の伝承が薄れていったのかもしれません。

山頂にある神社は御神体山信仰があった名残だと考えております。御神体山の神様は蛇であることが多いです。丹生氏の側からではなく、大伴氏よりに考えると興味深い
と思います。

天石門別安国玉主命は注目すべき名前だと思います。安国とは大和の国のことですね。
中臣祓訓解や大和葛城宝山記などに記載があります。
安国玉主=大和国魂 と連想出来ます。

吉野から葛城にかけて、天安川(安国の川)神社が数カ所あり、
祭神は、天尾羽張命です。読みはあめのおはばりのみことで、ここにも
「はは」が出てきます。





[10601] Re[10600][10599]: 天津羽羽命と吉野国栖  神奈備 2011/02/09(Wed) 20:39 [Reply]
 天津羽羽命と「アサクラ」地名とはつながりがありそうですね。

> 奈良県五條市西吉野町の波宝神社の「波宝」の音に通じ、波宝神社は吉野国栖の祖神を祀るといわれ、これは天津羽羽命であろうと記述があります。


 波宝神社の鎮座する山は銀峯山と呼ばれています。よく似た名前の波比売神社の鎮座山は金峯山です。これらはペアの神社だと思っていました。

 波宝神社の鎮座地が「夜中」ということで、口碑によると、神功皇后が三韓征伐の帰途、この山に休んでいると、白昼がにわかに暗闇になったので、ここの神に祈ったところ、再び日が照り、明るくなった。 地名の「夜中」はこの口碑に由来するといいます。

 波宝神社を論ずるには波比売神社と一緒に考える必要があると思っています。また両神社とも山の頂上に祭られてから遷座もしているようではなく、天津羽羽命から思われる「蛇」に関係しない明るさを感じています。

[10600] Re[10599]: 天津羽羽命と吉野国栖  神奈備 2011/02/06(Sun) 08:13 [Reply]
> はじめまして神奈備様
> よく利用させて頂いておりまして、感謝致しております。

加賀さん。興味深い投稿ありがとうございます。
これから留守をしますので、2〜3日応答できませんのでご容赦ください。


[10599] 天津羽羽命と吉野国栖  加賀 [Url] 2011/02/06(Sun) 03:54 [Reply]
はじめまして神奈備様
よく利用させて頂いておりまして、感謝致しております。

気吹雷響雷吉野大国栖御魂神社について、以前記事がありましたので、
関連する情報かと考えまして、投稿させて頂きます。

土佐国式社考の朝倉神社の項に興味深い記載があります。

(釋日本紀 卷第十四)
土左の國の風土記に曰はく、土左の郡。朝倉の郷あり。郷の中に社あり。~のみ名は
天津羽羽(あまつはは)の~なり。天石帆別(あまのいはほわけ)の~、天石門別(あま
のいはとわけ)の~のみ子なり。これは、土佐の天石門別安國玉主天神の子であるとしています。

度会氏の伝によると朝倉神社の祭神である天津羽羽の「はは」は奈良県五條市西吉野町の波宝神社の「波宝」の音に通じ、波宝神社は吉野国栖の祖神を祀るといわれ、これは天津羽羽命であろうと記述があります。

(姓氏録大和神別に、吉野国栖の祖神とは、神武天皇の東征途上,菟田(うだ)(奈良県宇陀(うだ)郡)から吉野へすすんだとき,岩をおしわけてでてきた神で、尾があったといい、石穂押別之子とあります。)

(宝の音については・・・
 乗鞍岳には、異名があり「愛寶山」と言います。読みは「あはさん」といい、
三代実録・貞観十五年(873年)の記載に、
二十八日癸亥飛騨の国司言大野郡愛寶山貞観十三年十一月十八日、十四年十一月
十二日、今月十五日三度紫雲見

とあり、これは乗鞍岳こと愛寶山で紫雲を見たと記載しています。
和名抄によると、飛騨国大野郡阿排(あは)郷の愛寶(あは)山ということになります。)

また、安房忌部氏の系図によると、天石門別神を天手力男命のことだとしています。
すなわち、吉野国栖の祖神とは天手力男命の子、天津羽羽命であり波宝神社の祭神ではないかと言えます。

奈良県高市郡には天津石門別神社と気吹雷響雷吉野大国栖御魂神社があり、

土佐と同じく親子を祀っているとしています。

和州五郡神社神名帳大略注解によると、気吹雷響雷吉野大国栖御魂神とは
気吹戸主あるいは磐穂押別神之子でもあるとしていますが、元々気吹雷響雷吉野大国栖御魂神社には
2座神様が鎮座している筈で、この2神が天津羽羽命ともう一柱どの神様なのか調査をしております。
天手力男命でしょうか・・

奈良県高市郡には、天津羽羽命の夫神である事代主尊が祀られている神社が多く、
天津羽羽命が祀られていることは、違和感がありません。

この神様を祀った神社に、和歌山県和歌山市鷺の森明神丁22の朝椋神社があります。(この祭神は紀伊続風土記附録による記載です。)

さらに静岡県掛川市初馬にある阿波波神社、神津島の阿波命神社、静岡県沼津市長浜神社などがあり、
神津島の言い伝えでは、天津羽羽命は三島大神(事代主命)の本后とそています。
天津羽羽命と事代主命は阿波と出雲の結びつきを表しているようで興味深いです。

[10598] Re[10597][10596][10595][10594]: 播磨国風土記  神奈備 2011/02/03(Thu) 20:54 [Reply]
> 宇佐国造家の伝承では、神功皇后は武内宿禰と関係しており、子の応神天皇の父は武内宿禰であるという、生々しい伝承が残っているそうです。もちろん実証はできませんが、物語として面白いです。

 『住吉大社神代記』には、「神功皇后と住吉大神との間に夫婦の密事があった。」と記載されています。

 住吉大神は塩筒老爺のこととの説もあります。また鵜茅不合尊ともされているようです。武内宿禰〜鵜茅不合尊まで応神天皇のパパの候補者が多いようです。

 所謂河内王朝(倭の五王が含まれる?)の始祖を誉津別命とする説もあり、応神天皇は本当に実在していたのか、神として記紀に持ち込まれたのか、これまた興味ある問題です。

[10597] Re[10596][10595][10594]: 播磨国風土記  なかひらまい [Url] 2011/02/03(Thu) 15:26 [Reply]

>  それにしても、宇佐八幡の祭祀氏族の辛嶋氏の祖神は五十猛神とされており、その神が日前宮の場所に祭られていたとされており、八幡神社を遠ざける理由はないのですが、大宝二年(702年)に五十猛三兄妹神が分遷さされており、八幡神社の創祀はそれ以降となるのかも知れません。

宇佐の辛島氏と五十猛神、紀氏、日前宮、神功皇后、武内宿禰などは渾然としていて難しいです。ナグサトベの話からテーマがずれていくので、触れませんでしたが、紀氏の活動圏がいかに広範囲に及んでいたかわかります。

宇佐国造家の伝承では、神功皇后は武内宿禰と関係しており、子の応神天皇の父は武内宿禰であるという、生々しい伝承が残っているそうです。もちろん実証はできませんが、物語として面白いです。

[10596] Re[10595][10594]: 播磨国風土記  神奈備 2011/02/03(Thu) 09:40 [Reply]
>  和歌山にも朝来という地名があり海南市にも且来(あっそ)があり神功皇后伝説が残ります。この付近には河川沿いに八幡神社が多いです。

 アッソ地名は、宮城(登米郡 朝来)、大分(西国東郡 朝来)、熊本(益城町 朝来山)、京都(舞鶴市 朝来中)、和歌山(日高郡 朝来、海南市 且来)とあるようです。

  和歌山県海南市且来には、八幡神社が鎮座、神功皇后に当地に永住されるように懇願し、皇后は感動し、「あ そう。」ではなく、「且(あ)す来よう。」と言われたとの地名説話が残っています。


 和歌山市海南市の多くの八幡神社は欽明朝の頃に創建されたとの伝承があるのですが、その頃には宇佐でも八幡神社が確立していないので、もっと後世の勧請のように思われます。

 和歌山市には日前国懸神宮が勢力を持っており、五十猛三兄妹神達も日前宮から約5kmほど離れた場所にしか鎮座していません。同じように八幡神社も日前宮から少し離れた場所に鎮座しているようです。

 それにしても、宇佐八幡の祭祀氏族の辛嶋氏の祖神は五十猛神とされており、その神が日前宮の場所に祭られていたとされており、八幡神社を遠ざける理由はないのですが、大宝二年(702年)に五十猛三兄妹神が分遷さされており、八幡神社の創祀はそれ以降となるのかも知れません。

 なお、不思議なことに日前宮は江戸時代には八幡造だったようです。元々母子信仰の神社で、八幡神社と近い内容だったのかも知れません。

[10595] Re[10594]: 播磨国風土記  和歌山 2011/02/02(Wed) 19:47 [Reply]
>  >
>  飾磨郡の安相の里(姫路市の西の土山・今宿付近)に、「品太天皇が但馬から巡っておいでになった。」とあります。安相はアサコと訓み、但馬の朝来からの移住者が住んだ地だそうです。

 和歌山にも朝来という地名があり海南市にも且来(あっそ)があり神功皇后伝説が残ります。この付近には河川沿いに八幡神社が多いです。

[10594] 播磨国風土記  神奈備 2011/02/02(Wed) 10:52 [Reply]
 『播磨国風土記』には、品太天皇が各地を巡幸している記事が多く出ています。地元の伊和大神よりも多く登場しているようです。

 飾磨郡の安相の里(姫路市の西の土山・今宿付近)に、「品太天皇が但馬から巡っておいでになった。」とあります。安相はアサコと訓み、但馬の朝来からの移住者が住んだ地だそうです。

 品太天皇が巡った地は、飾磨、揖保、神前、託賀、賀毛郡にあります。播磨の中央部に当たります。
 巡っている記事がない地は、賀古、印南、讃容、穴禾郡で、播磨の西側と東側です。

 但馬には葦原志挙乎命と争った天日槍命が但馬の伊都志(出石)に行きましたが、彼が品太天皇と形を変えて再登場というイメージでしょうか。

[10593] Re[10587][10586]: 名草戸畔本 電子書籍最新バージョン  なかひら まい [Url] 2011/01/29(Sat) 15:03 [Reply]
神奈備さま

素敵なメールをありがとうございます。
初詣に名草戸畔にまつわる神社を全部参拝されたとは、うらやましいです!
玉津島神社の丘(小山?)からは名草山を遙拝したことはあります。
たしかに、片男波からの方がいい感じかもしれません。
ぜひ観てみたいです。

> 従姉妹からのメール一部を紹介します。
>
> 初詣も いつもと違って 名草神社 内原神社 中言神社からはじまって 宇賀部神社 杉尾神社 千種神社とまわりました。
>
>
> 和歌浦の片男波近辺より名草山をながめ 一句
>
>       古代史にこころあそばせ初山河     のぶ子
>
> この本には 名草山の神奈備の姿が マリーナからがいいって書いてましたけど 私は対岸の 和歌浦 片男波ちかくからの名草山の姿が 特に早朝の日が昇るころ は一番だと思ってます。
>
> まい  さんにぜひ見ていただきたいくらい荘厳です。
>
>

[10592] Re[10591][10590]: お燈まつり  琉球松 2011/01/29(Sat) 10:12 [Reply]
 訂正

 "「花の窟屋」からも粉々の銅鐸が出土" 。。。これは誤りでした。
 "近くから出土"ということであれば、コトビキ岩の側をさすのでしょう。

 いつもご迷惑をかけます。しかし、花の窟からも銅鐸が出る可能性は大きいと考えます。出雲の比婆山も神奈備山と見なすことができそうですし、銅鐸とイザナミの関係は強いと思いますがどうでしょうか。

[10591] Re[10590]: お燈まつり  琉球松 2011/01/28(Fri) 22:50 [Reply]
 知人のダイバーによれば「多くの鮫は雌雄ペアで行動する」との事。
 高知県の雌雄の現役銅鐸と重ねて考えると、花窟神社と神倉神社の関係は面白そうです。

[10590] お燈まつり  神奈備 2011/01/28(Fri) 15:37 [Reply]
 銅鐸で頼りにしているサイト
http://homepage1.nifty.com/moritaya/syutudo2.html
によりますと、近くでは神倉神社のコトビキ岩の側から銅鐸の破片がでています。

花窟神社と神倉神社とは男女ペアの磐座と言えるようです。
余談ですが、2月6日の夜にお燈まつりが行われます。見学に行く予定です。

[10589] Re[10588][10585][10584][10583]: 八幡大菩薩  琉球松 2011/01/28(Fri) 14:49 [Reply]
"神は死なないからなのか?" 。。。

 イザナミというお方は亡くなることで神になられた。っていうのはどうでしょうか?
 記紀はそれぞれ「命・尊」と使い分けているのも気になりますよね。
「神は人なり」は別の意味かもしれませんが、神々の原型は尊い方々、あるいは尊いモノだったと考えていいと思います。

 有馬村の「花の窟屋」からも粉々の銅鐸が出土しています。ウジが集り朽ち果てたイザナミは土中に葬られた銅鐸と解釈することも可能ではないでしょうか。

[10588] Re[10585][10584][10583]: 八幡大菩薩  神奈備 2011/01/28(Fri) 09:44 [Reply]
> 神は死なないからなのか?

 『紀』には、「イザナミ尊はお亡くなりになった。」と書かれていますが、住む世界を黄泉の国に移ったという感じです。ただし、一書(第五)に、「紀伊国の熊野の有馬村に葬った。」とあり、いささかあいまいな所です。神社もあります。
 阿波国美馬郡の式内社
 伊射奈美神社

 イザナギ尊はあの世に赴こうとしておられた。そこで幽宮を淡路の知に造って、静かに永く隠れられた。大国主も同様で、これが神の基本スタンスなのでしょう。
 淡路国津名郡の式内大社
 淡路伊佐奈伎神社

 稚日女尊も死んでいます。
 摂津国八部郡の式内社
 生田神社 『神功紀』稚日女尊が教えていわれるのに、「自分は活田長峡国に居りたい。」と。

 天稚彦も矢が胸にあたって、たちどころに死んでいます。
 出雲国出雲郡の式内社
 阿須伎神社[あすき]同社天若日子神社

 神も「死ぬ 亡くなる」と表現されることがあるようですが、やはり古社に祀られているようです。

[10587] Re[10586]: 名草戸畔本 電子書籍最新バージョン  神奈備 2011/01/28(Fri) 08:38 [Reply]
従姉妹からのメール一部を紹介します。

初詣も いつもと違って 名草神社 内原神社 中言神社からはじまって 宇賀部神社 杉尾神社 千種神社とまわりました。


和歌浦の片男波近辺より名草山をながめ 一句

      古代史にこころあそばせ初山河     のぶ子

この本には 名草山の神奈備の姿が マリーナからがいいって書いてましたけど 私は対岸の 和歌浦 片男波ちかくからの名草山の姿が 特に早朝の日が昇るころ は一番だと思ってます。

まい  さんにぜひ見ていただきたいくらい荘厳です。


[10586] 名草戸畔本 電子書籍最新バージョン  なかひらまい [Url] 2011/01/27(Thu) 11:54 [Reply]
神奈備さん、みなさま、こんにちは。
『名草戸畔 古代紀国の女王伝説』電子書籍の最新バージョン(1.1)が発売されました。

http://bit.ly/fCVFLV

新たに写真を8枚追加。目次のリンクが分かりやすくなりました。既にご購入の方は、自動的にアップデートされます。

ぜひ、ご覧になって下さい。


[10585] Re[10584][10583]: 八幡大菩薩  佐々木 2011/01/26(Wed) 21:00 [Reply]
 いつも新鮮な話題、楽しいです。
>応神陵をこのような形で記述しているから、崩御の際に陵の記述を省略したとは考えにくいと思っています。

 応神紀41年春2月15日から、崩御場所には2説あることが理解できます。当時から「なぞ」があったのでしょう。
 なお宇治谷氏の「日本書紀(上)」講談社学術文庫では譽田陵(応神天皇陵)としています。
※ここで素朴な疑問:どこで崩御されたか明確にわからない?のに、陵をつくる慣わしがあったのでしょうか。神は死なないからなのか?

[10584] Re[10583]: 八幡大菩薩  神奈備 2011/01/26(Wed) 09:42 [Reply]
 どんたくさん こんにちは。
>
> > 応神天皇の陵が記載がないのはどうしてでしょうか。
>
> 雄略紀9年7月条に“蓬[クサカンムリ/累]丘の譽田陵”とあるのが応神陵のことだろうと思われます。


『日本書紀』巻十四雄略天皇九年(乙巳四六五)七月壬辰朔◆秋七月壬辰朔。河内國言。飛鳥戸郡人田邊史伯孫女者。古市郡人書首加龍之妻也。伯孫聞女産兒。往賀聟家。而月夜還。於蓬蔂丘譽田陵下。

 この文のこと。

 「譽田陵」は、実際には「譽田天皇の陵」なのでしょうが、ここでは「譽田」と呼ばれる地域にある陵としての記載ではないでしょうか。

 応神陵をこのような形で記述しているから、崩御の際に陵の記述を省略したとは考えにくいと思っています。


[10583] Re: 八幡大菩薩  どんたく 2011/01/25(Tue) 23:44 [Reply]
神奈備さん、こんにちは。 どんたく です。

No.10582 by 神奈備さん:

> 応神天皇の陵が記載がないのはどうしてでしょうか。

雄略紀9年7月条に“蓬[クサカンムリ/累]丘の譽田陵”とあるのが応神陵のことだろうと思われます。


[10582] 八幡大菩薩  神奈備 2011/01/25(Tue) 15:49 [Reply]
 『日本書記』には天照大神、天忍穂耳尊に陵の記載がありません。神だから陵は記載されていないと思われます。
 御陵の記載は『日本書紀』巻二神代下第九段本文に、瓊々杵尊の筑紫日向可愛之山陵が最初です。
 次の彦火火出見尊は日向の高屋山上陵。不合尊は日向の吾平山上陵。ともに本文に記載があります。
 こうして順番に歴代の天皇の陵が紹介されてくるのですが、不思議なことに応神天皇の陵については記載が抜けています。

 なお、応神天皇については、『古事記』では、陵は川内の恵賀の裳伏の岡と書かれています。

 陵の記載のない皇孫は神ですから、延喜式内社にまつられています。神社の祭神を神社名として見てみますと、豊前の香春神社三座の一座、忍骨命神社に天忍穂耳尊、天照大神は神社名にはなっていませんが、伊勢の太神宮ということでしょう。

 応神天皇の陵が記載がないのはどうしてでしょうか。
 1.記載漏れ。
 2.実は仁徳天皇と同一人物だから。
 3.八幡大菩薩宇佐宮に神として祭られているから。
 4.その他。

 可能性としては八幡大菩薩のことと見なすのが常識的です。

 天平勝宝元年(749)、八幡大神が入京して大仏を拝みました。その際に八幡大神に一品、比売神に二品の神階が授与されました。一品二品は皇族に与えられるものですから、八幡の神々は皇族、皇祖とされていたのかも知れません。宇佐八幡と香春神社の関係から、天忍穂耳尊とされていたのかも知れません。

 所が天平勝宝七年(755)、八幡神は与えられていた封戸や位田を朝廷に返上しました。八幡神は四国宇和嶺へ配流と成るのです。皇祖神を配流するでしょうか。配流先は、伊予の国です。愛媛県八幡浜市または瀬戸町の三机の八幡神社と見なされています。9年後に宇佐へ復帰しています。
 
 配流されたということは、この頃は、八幡神は皇祖神とは見なされていなかったということでしょう。宇佐地方の神で、香春岳の銅を支配していたことから大仏造営に日本の神々の先頭にたった神という認識だったのでしょう。
 
9世紀初頭には八幡神を太上天皇御霊と見なされるようになっていたそうです。聖武天皇霊とされていたのでしょう。
 承和十一年(844)『承和縁起』には、「大御神者、是品太天皇御霊也。」と在ります。応神天皇と見なされていたことが明記されるのです。

 元慶三年(879)に出来たともいわれる『住吉大社神代記』には、「八幡(耶波多)御子と曰す。誉田天皇と号す。」とあります。

 八幡神を応神天皇霊とするのは9世紀以降の話です。『日本書紀』が出来た720年にはそのような段階にはなかったのです。
 
 『日本書記』に、応神天皇の御陵の記載がないのは、何故なのでしょうか? 書き写す際に、八幡大神の事だから、御陵の場所を書いてあるのはおかしいと思った誰かが、書き写さなかったのが、今日まで伝わっているというようなことなのでしょうか?

[10581] Re[10579][10578]: 兎を祭神とする神社  神奈備 2011/01/22(Sat) 17:53 [Reply]
> 担当宮司さんの話『もしかしたら、この地区に疱瘡が流行って、白兎が祀られたかも』

 稲葉の素兎の神話は大国主が素兎に治療法を教えたことが要点であり、これが白兎神社が疱瘡、麻疹、外傷に霊験があるとされてきたぉうです。
http://www.lifence-inc.co.jp/daikoku/sinwa1.html

 大阪の土佐堀2丁目には出雲の松江候の屋敷で疱瘡神として名高い笠稲荷と鷺大明神が祀られていた。
http://taisha.jp/index.php?ID=1463

 この鷺(さぎ)と、兎(うさぎ)とは一字違い、ともに疱瘡神であったようです。

 なお、種痘をつくるのに兎を利用することがあったようですが、多分疱瘡神とは関係ないのでしょう。

[10580] 兎の年にちなんで宇佐八幡のお話  和歌山 2011/01/21(Fri) 21:48 [Reply]
 八幡神が託宣してすぐ金が出てくるのは、おっしゃるように既に出ていて蓄えていたのかもしれませんね。
>
>  >  更に良弁さんも宇佐八幡の大神氏も修験者として交流があったのかもしれません。
>
 八幡神が託宣してすぐ金が出てくるのは、おっしゃるように既に出ていて蓄えていたのかもしれませんね。
>  更に良弁さんも宇佐八幡の大神氏も修験者として交流があったのかもしれません。
>  金の出土状況は刻々良弁僧主に知らされ、その情報が宇佐の大神氏に先に伝わったと見ていいのでしょう。
>
 聖武天皇も怪しいですよ。大仏建立の計画段階から金等が不足するというのは分かっているはず。自分の目的を達成するために仕組んだ可能性もあります。金が入手できたことにより大仏が完成し権力を誇示できたわけですし民衆に人気のあった行基も見方に引き寄せ鑑真を招聘しました。行基や良弁を通じて宇佐や東北と交渉賞したかも?

[10579] Re[10578]: 兎を祭神とする神社  多美 2011/01/21(Fri) 18:02 [Reply]
 
>  拝殿の形がよく似ているように感じました。

瓦屋根の棟の井桁が透けて見える作りになっているようです。

担当宮司さんの話『もしかしたら、この地区に疱瘡が流行って、白兎が祀られたかも』

残りの3社も、近く参詣してみます。

[10578] 兎を祭神とする神社  神奈備 2011/01/21(Fri) 08:39 [Reply]
 玄松子さんが兎を祭神とする神社をブログにリストアップしてくれています。

 群馬県高崎市に多く鎮座しています。

 写真掲示板でTAMIさんが参詣記録をアップしてくれています。ありがとうございます。
 
 拝殿の形がよく似ているように感じました。

[10577] Re[10575][10574][10572]: 兎の年にちなんで宇佐八幡のお話  佐々木 2011/01/19(Wed) 22:32 [Reply]
 貼り付け漏れに今頃気づきました。
 豪雪のためか、インターネット環境が断続的です。日下部氏痕跡と金冠出土古墳の相関を記述した研究がありました。小妻裕子氏「日下部吉士の研究」同志社国文学13号 http://jairo.nii.ac.jp/0027/00015934
 お騒がせ致しました。

[10576] Re[10575][10574][10572]: 兎の年にちなんで宇佐八幡のお話  神奈備 2011/01/19(Wed) 20:47 [Reply]
 和歌山さん、佐々木さん、おつきあいありがとうございます。

 八幡神が託宣してすぐ金が出てくるのは、おっしゃるように既に出ていて蓄えていたのかもしれませんね。

 その2年前に良弁さんが大和国吉野の金峯山の蔵王権現に金を与えるように依頼しましたが、近江国志賀郡の石山の地で祈れば得られるだろうと教えられました。
 良弁さんは近江の百済志の出身で、陸奥の百済王とはつながりがあったと見ていいのでしょう。
 更に良弁さんも宇佐八幡の大神氏も修験者として交流があったのかもしれません。

 大仏を造るのに銅499.0トン、すず8.5トン、金0.4トン、水銀2.5トンを必要としたそうですが、陸奥での最初の発見は12kgですから、雀の涙です。大半は輸入したのか、それとも以降も発見が相次いだのでしょう。
 それにしても、この僅かな金の一部を宇佐八幡に奉納しています。ここいらにヒト芝居があったように感じます。

 金の出土状況は刻々良弁僧主に知らされ、その情報が宇佐の大神氏に先に伝わったと見ていいのでしょう。

[10575] Re[10574][10572]: 兎の年にちなんで宇佐八幡のお話  佐々木 2011/01/19(Wed) 09:50 [Reply]
和歌山さん はじめまして
いつも巧妙なコメント、楽しませて頂いております。
>裏で繋がっていたんでしょうか?金が出たのではなく、金を蓄えていたのかも! タイミングよく金が大量に出るのも出来すぎ!
 当時は自然な河川が残存していて、砂状になった金鉱石が河原のある部分に比重分鉱して大量に濃集していたのでしょう。
 もしかすると百済王さんは単なるピエロで、実際は大神一派と昇叙度合が一番低い人物、日下部深淵、つまり日下部氏が関わっているのかもしれませんね。

[10574] Re[10572]: 兎の年にちなんで宇佐八幡のお話  和歌山 2011/01/18(Tue) 23:24 [Reply]
>  それはともかく何故大神杜女は金が出ると予言出来たのでしょうか。陸奥ではその前から若干の金が採れていました。だからと言って予言にまでつなげるのは危険です。実際は「金が出た」ことをあらかじめ知っていたからとしか言いようがありません。
>
>  大神氏と百済王、どのような繋がりがあったのでしょうかね。
>
 裏で繋がっていたんでしょうか?金が出たのではなく、金を蓄えていたのかも! タイミングよく金が大量に出るのも出来すぎ!
>

[10573] オオゲツヒメ  神奈備 2011/01/16(Sun) 14:34 [Reply]
 国生み神話で伊予の二名島のうち、粟国は大宜都比賣と謂うとあります。また、素盞嗚尊が高天原かを追われた後、食物を乞うた神が大気津比賣神です。鼻口また尻より食物を取りだして素盞嗚尊に供えたので、素尊は穢汚していると思い、比売を殺します。

 同じ様な話が『紀』では、保食神を月読神が殺したとして述べられています。身体の各所から穀物が生じます。それが身体の部分名と生じた物の名が韓国語で対応していることはよく知られた話です。
頭(ソシマラ、ソシマル、ソシマリ)から牛(ソ)・馬(マル)
額(チヤ)の上に粟(チヨ)
眉(マンヨル)の上に蚕(マンヨル)
眼(ヌン)の中に稗(ヌイ)
腹(ペ)の中に稲(ピヨ)
陰部(ボデ。コンパト)に麦(ボリ)・大豆(コン)・小豆(パト)
だそうです。
http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/kokugo03.htm

 石見国(島根県西部)によく似た話が伝わっているようです。(谷川健一著『古代史ノート』から)

 ソシモリ(朝鮮)の国にオオゲツヒメという五穀の神がいた。ある日のこと、荒ぶる神がやってきた。オオゲツヒメは荒ぶる神をもてなすために、目や鼻や尻からさまざまな穀物を出した。が、荒ぶる神のために切り殺されてしまった。オオゲツヒメはかけつけた乙子(末の子)の狭姫を枕元に呼んで「おまえは私の形見の品を持って、遠い東のうつくしい国に逃げていき、安らかに暮らしてくれ」というと息絶えた。

 オオゲツヒメの頭からは馬、目からは蚕、鼻からは大豆、原からは稲、陰部からは麦、尻からは小豆が生まれていた。仲良しの赤雁がやってきたので、狭姫はそれらの形見を持って赤雁の背に乗り、東の国に向かった。そうして海原をわたって、石見の益田市の近くの丘に降りた。そこを天道山といい、赤雁の地名もそばに残っている。狭姫と赤雁はさらに奧のサヒメ山に行き、辛みの稲、麦、豆の種をまいた。そこに乙子と種の地名が今も残っているといわれている。

 赤雁 島根県益田市にこの地名があります。


 阿波の国魂神は朝鮮半島の神であったと言う伝承が石見に残っていたということです。阿波と言えば忌部氏が浮かびますが、石見と忌部との関連については承知していません。

[10572] 兎の年にちなんで宇佐八幡のお話  神奈備 2011/01/15(Sat) 20:37 [Reply]
 大仏を造る材料の銅は豊前の香春岳と長門国の長登銅山が供給元だったようです。香春の銅については宇佐神宮が支配をしていたようで、時の神主の大神氏が牛耳っていたようです。それ以外に中国の銅銭や銅製の仏像(例えば河内知識寺)などが溶かされました。

 所が大仏の表面の金メッキのための黄金が不足しており、唐の国から輸入しようと考えていたようです。まさに遣唐使が派遣されることになっていました。

 そこに天平二十年(748)四月、「黄金は国内から出る。」と宇佐八幡神(大神杜女ら)が託宣をしました。実際に翌年百済王敬福が陸奥で採取した黄金九百両(約12kg)を献上したのです。その量で間に合ったかどうかは定かではありませんが、この託宣は宇佐八幡の名声を大いにあげたのです。

4097 大伴家持 すめろきの御代栄えむと東(あづま)なる陸奥山に金(くがね)花咲く

 金メッキは金を水銀に溶かしてアマルガムを造り、これを大仏の表面に塗ってから表面を温めて水銀を蒸発させるとメッキになるようです。おかげで水銀のガスを吸い込んだ作業員は中毒になり、たくさん亡くなったようです。

 それはともかく何故大神杜女は金が出ると予言出来たのでしょうか。陸奥ではその前から若干の金が採れていました。だからと言って予言にまでつなげるのは危険です。実際は「金が出た」ことをあらかじめ知っていたからとしか言いようがありません。

 大神氏と百済王、どのような繋がりがあったのでしょうかね。


[10571] Re[10570][10568][10567][10566]: 談山神社について  PONTA [Url] 2011/01/08(Sat) 21:15 [Reply]
>三重県四日市に穂積神社が鎮座、これも談合の宮と呼ばれていりようですね。
愛知県豊橋市談合町の談合神社は、河内国からやってきた人が建てた神社で、?(不明)→神明宮→談合宮→談合神社と社名が変わったようです。

[10570] Re[10568][10567][10566]: 談山神社について  神奈備 2011/01/08(Sat) 08:35 [Reply]
談合と言う言葉は現在では業者簡での悪巧みの相談のイメージですが、昔は相談のことだったようですね。
出雲に美談神社が鎮座、国譲りの談判を言ったのかも。
三重県四日市に穂積神社が鎮座、これも談合の宮と呼ばれていりようですね。

[10569] Re[10566]: 談山神社について  PONTA [Url] 2011/01/08(Sat) 07:29 [Reply]
> 多武峯縁起を調べています。
「多武峯縁起絵巻」は有名ですね。
特に蘇我入鹿暗殺の場面は、日本史の教科書とか資料集に載っています。
http://mahoroba.lib.nara-wu.ac.jp/y06/tounomine/

[10568] Re[10567][10566]: 談山神社について  PONTA [Url] 2011/01/08(Sat) 07:14 [Reply]
「談山」の名の由来は、公式サイトでは、通説通り「西暦645年の5月、二人は多武峰(とうのみね)の山中に登って、「大化改新」の談合を行いました。後にこの山を「談い山」「談所ヶ森」と呼び、談山神社の社号の起こりとなりました。」としていますね。山頂には「大化の改新の談合の碑」が建っています。
http://www.tanzan.or.jp/

愛知県豊橋市に「談合神社」があり、関係あるのかと思って調べてみたら、無関係でした。

[10567] Re[10566]: 談山神社について  神奈備 2011/01/07(Fri) 16:54 [Reply]
多武峰寺は御破裂梁南にあった寺で、明治維新後に談山神社になりました。

談山の名は鎌足神像を祀った惣社に談峰権現の賜号を受けたことに由来するのでしょう。
「談」は種々の色糸で組んだ紐のようなものを言うようで、大織冠のイメージなのかも。



[10566] 談山神社について  渡辺真 [Url] 2011/01/07(Fri) 11:56 [Reply]
多武峯縁起を調べています。
神名帳の何処に記載されているのでしょうか。目次を見ても分かりません。
ご教授下さい。

[10565] 豊中歴史同好会 1月8日  神奈備 2011/01/06(Thu) 17:21 [Reply]
テーマ 長屋王の変と光明皇后
講師 堺女子短期大学准教授 水谷千秋先生
場所 4Fルシオーレホール
14時ー16時
http://homepage2.nifty.com/toyonakarekishi/

[10564] サイの神  神奈備 2011/01/06(Thu) 09:35 [Reply]
 佐比の神の場合は佐比持神としますと、神武兄の稲飯命の名となってきて、刀剣や和邇魚とされます。

 所謂サイの神は賽神や歳神の字があてられ、道祖神のことをいうようです。村の入口に立てておいて、病魔などの侵入をくい止める役割があったようです。「遮る」神ということ。

 現代では検疫、交通信号、宮古島で見た交差点に建てられていた警察官の人形、などを思い浮かべます。

table border=1 width=100% cellpadding=5> [10563] Re[10562][10561][10560]: 半分の人が死ぬ  琉球松 2011/01/05(Wed) 12:54 [Reply]  神奈備さん、あいさつが遅れました。
 明けましておめでとうございます。今年もどうぞ色々ご教示下さい。

 「佐比」は「サイの神」でしょうか?「御蔭石」もそうでしょうけど、 石はようするに銅製品の鋳型になりうるわけですから金属と同等の意味があるんでしょうね。

 ところで、サイの神はこちらではピンとこないんですけど、どんな感じの神なんでしょうか。国境警備隊のようなものでしょうか?
[10562] Re[10561][10560]: 半分の人が死ぬ  神奈備 2011/01/05(Wed) 10:15 [Reply]
>  名護博教授は。。。"各地の風土記などに「十人来れば、五人は生かし、五人は殺す」と表現された「荒ぶる神」は、出雲大神「天津鰐の大神」また時には「目一つの鬼」などと呼ばれた" と書いています。


通行人を半分殺すアラブル神の記事が風土記などに取り上げられています。一般には通路の要所、険しい所、河川の横のようないかにも危なそうな所ですが、宇佐のように金属精錬の場所も半死半生の場所に選ばれています。
次の例はどうやら金属に関係する場所ではないかと思わせます。

播磨風土記揖保郡意此川条
播磨風土記揖保郡佐比岡条
上記には神尾山が共通でそこに出雲之大神・出雲御蔭大神の名が出てきます。御蔭大神は一般には天之御影命で近江の三上山の神で、製鉄・鍛冶の神とされています。


播磨國風土記神前郡生野条
古くからの鉱山として知られています。重金属を含む岩石があるようです。


筑後国基肄郡姫社郷条
姫社の神は天日矛の妻であった神です。まさに金属の神。


筑後風土記逸文
昔この堺の上に、麁猛神があった、往来の人は半数は助かり、半数は死んだ。その数は極めて多く、「人の命尽くしの神」といった。
場所としては現在の筑紫野市の築紫神社の辺りと思われます。築紫神社の祭神は五十猛命の可能性があり、辛嶋氏が祖神を宇佐まで持ち込んで、鍛冶の神として現れたとすれば、宇佐の件と同じとなります。

[10561] Re[10560]: 半分の人が死ぬ  琉球松 2011/01/04(Tue) 23:22 [Reply]
 名護博教授は。。。"各地の風土記などに「十人来れば、五人は生かし、五人は殺す」と表現された「荒ぶる神」は、出雲大神「天津鰐の大神」また時には「目一つの鬼」などと呼ばれた" と書いています。
 「目一つの鬼」は、鍛冶屋に対する恐怖の部分の表現でしょうから、金属製武器でしょうか。

 『宇佐託宣集』の "半分の人が死ぬ" 。。。敵とみなせば殺傷するが味方は大事にするって感じがするんですがどうでしょうか。敵味方いりみだれた時代の名残りじゃないでしょうかね。

 イザナミが「(砒素で?)千人を殺す」と言うと、イザナギはその半分を上乗せ?して「千五百の産屋を造る」と宣言しますね。かつての夫婦はもはや敵対関係。刀自に殺されないよう注意しなくては(笑)。

[10560] 半分の人が死ぬ  神奈備 2011/01/03(Mon) 16:51 [Reply]
宇佐八幡宮の託宣を纏めた『宇佐託宣集』は鎌倉後期に編集されたもので、重要な文献ですが、どこまで古代のことが正確に記録されているかどうか、疑問があります。

 その中に、八幡神の出現の話として鍛冶翁のことがあります。これによりますと、菱形池の付近に、八つの頭が一つの身体についている鍛冶の翁がいて、近づく者は半数ほど死んだとの話が載っています。

 大仏鋳造に力を貸した八幡神で、その銅は50km離れた香春岳から採取していたと考えられていますが、国東半島の根元の真玉銅山は15kmの距離で、硫砒銅鉱が産出した鉱山があったそうです。ここの鉱石を製錬しますと、そのピロセスで大量の砒素が排出されます。これらの作業で多くの人々が亡くなったことを、近づくと半分の人が死ぬと言われたのではと考えられます。
 頭が八つとは、炉が八つか、煙突が八本なのか、八咫大蛇を思わせる姿です。

[10559] 神鹿が・・・  奈良 2011/01/02(Sun) 18:50 [Reply]
 昨年、奈良春日大社で鹿を蹴っている人がいました。鹿は神の使い、神鹿として奈良では大事にされてきました。蹴った人は春日大社の社務所の職員通用口へ入って行きました。近くに居た人と共に愕然としました。鹿は餌を求めて寄っていったようです。まさか春日大社の関係者が・・・

[10558] Re[10557]: 神奈備さま、皆様  和歌山 2011/01/02(Sun) 15:29 [Reply]
みなさま。新年あけましておめでとうございます。初詣奈良公園付近は人で一杯です、

> 名草山周辺に銅鐸がないか、とのお話、
> 大変興味深いですね。
> 名草山の南側、亀ノ川下流は銅鐸はありませんが、銅鐸型土製品、鳥形木製品など
祭祀関係と見られるものが出土していますし、前方後円墳もありました。なぜ、銅鐸
が無く銅鐸型土製品が出土しているのか、また銅鐸型土製品と鳥型木製品は県下でも出土例は少なく、この地域の特殊性である。紀ノ川や有田川、日高川流域から銅鐸は出土しているのに亀ノ川だけ出土していない。

[10557] 神奈備さま、皆様  なかひら まい [Url] 2011/01/02(Sun) 14:24 [Reply]
明けましておめでとうございます。
旧年中は大変お世話になりました。
本年もどうぞよろしくお願いします。

名草山周辺に銅鐸がないか、とのお話、
大変興味深いですね。

[10556] 旧年はお世話になりました。  神奈備 2011/01/02(Sun) 10:13 [Reply]
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

> それと、名草山が神奈備山であるとすれば、島根県荒神谷遺跡のように銅鐸の出土例はないでしょうか?「備」を「ヒ(樋)」と解釈し、筒状の銅鐸と関連ずける説もあります。

 仏経山頂上と荒神谷との距離は3km程度です。名草山と3km以内での出土例は、

和歌山市太田黒田50 外縁紐4区画袈裟襷文 30.9cm(29.9)
和歌山市有本地先紀ノ川河川敷 扁平鈕流水文 44.6cm
旧海草郡西山東村大字吉禮凪村 扁平鈕6区画袈裟襷文 59.7cm

が該当するようです。

 名草郡の式内社に静火神社が鎮座。名草平野に水をひくための「沈んだ樋」を神格化したものとの説があります。

 思いつきですが、徳島市の眉山も名草山と同じように古代は海の中だったようで、神奈備山だったのが、省略されて眉山になったのかも知れません。この山の周辺からも銅鐸が数個出ているようです。

[10555] Re[10554]: 年末年始  琉球松 2010/12/31(Fri) 23:37 [Reply]
 こちらでは、長渕剛のコンサートで年が明けます。
 「♪俺たち島人は琉球の国で・・・」って、鹿児島人が歌うのも若干違和感ありますが、島へのエールとして歓迎しますね。

 島内の琉球八神社(ほとんど熊野権現)も大勢の参拝者で賑わってますよ〜。

 今年もいろいろありがとうございました。来年もお騒がせすると思いますがよろしくお願いします。

[10554] 年末年始  和歌山 2010/12/31(Fri) 21:38 [Reply]
 奈良へ来て初めての歳越しです。
 今日、春日大社で大祓詞を唱える会と大祓式、除夜祭に参加してきました。
 正月三が日も春日大社へ行きます。東大寺や興福寺なども周ります。
 元旦朝7時20分から春日大社の特番が再放送されます、是非見てください。
 今年1年間有難うございました。来年もよろしくお願いいたします

[10553] Re[10549][10548][10547]: 名草戸畔 古代紀国の女王伝説  琉球松 2010/12/31(Fri) 01:22 [Reply]
 「刀自」は、現在の琉球方言でも妻「トゥジ(奄美沖縄)・トゥズ(宮古八重山)」を意味しますが、古くは神酒を醸す資格もあったようで、本土側の「杜氏」とに分化したのかもしれません。
 「戸畔≒刀自」だとすれば、ほとんど普通名詞ということになりそうですね。

 それと、名草山が神奈備山であるとすれば、島根県荒神谷遺跡のように銅鐸の出土例はないでしょうか?「備」を「ヒ(樋)」と解釈し、筒状の銅鐸と関連ずける説もあります。

 "神武軍はアメとムチ"。。。これは、『三国志』の曹操の戦略を連想しますね。神武東征はたぶん同時代でしょうか。

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