神 社 に よ る 古 代 史

八  劍  宮  編

投稿 KOKOROさん


 

  @ 「八剣宮という神社」  h13.9.4

  今日から新学期!! 夏休みの自由研究の提出があります。僕の課題は「神社による古代史」。

 神社の由緒を調べていると、正史になかったり、あるいはそれとやや異なる伝承にぶつかることがあります。こうした伝承は宗教的な色付けがされていたりして、全てを真に受けることはできないものですが、しかし、いくばくかの歴史的事実がそこに含まれている可能性も否定できないのではないでしょうか。そうして、それらを正史の記述に対する神社の側からの異議申し立てとして積極的にとりあげてゆけば、「神社による古代史」という新しい事態が発生するものと思われます。しかし一体、「神社による古代史」は可能なのか。以下、八剣宮という神社を取り上げてその方法を試してみます。

熱田神宮の一の鳥居
  

 熱田神宮の一の鳥居を入ってすぐ左に八剣宮ハッケングウという神社があります。当社は、尾張国愛智郡の式内社、八劍ヤツルキ神社の遺存の社で、平安末期には正一位に進んで本宮と並ぶ崇敬を受けていました。現在でも別宮と称され、熱田神宮の多数ある摂末社において別格の扱いを受けています。祭神は、異説もありますが、古来から熱田神宮と同じ祭神であるとされてきました。ちなみに熱田神宮の祭神は正殿に鎮座している熱田大神で、これはヨリシロとしての草薙剣に憑依した天照大神のことです。また、相殿には天照大神、素戔嗚尊、日本武尊、宮簀媛ミヤズヒメ命、建稻種タケイナダネ命の五座を祀ります。いずれもこの名高い剣にゆかりのある祭神ばかりです。
 『式内社調査報告 第八巻 東海道3』P598にある当社の社伝を引用します。

「元明天皇の和銅元年(708年)九月に朝廷より熱田神宮に勅使が差遣され、西夷降伏の祈願がなされた。その際、新造の宝剣が奉納せられ、この時に八剣宮が奉斎されたという」

実を言うとこの社伝、最初はよく分からなかったのです。というのは、まず西夷≠ナす。西夷とは西にいる朝敵≠フ意であるとして、当時の西日本に、そのような勢力があったことは知られていません。また、仮にそのような存在があったとして、どうして名古屋の神社に西夷降伏の祈願をするのでしょう?
 元禄十二年(1699年)に熱田神宮が尾張藩へ提出した概説書、『熱田神宮旧記』に次の一節があります。

熱田神宮

「別宮八劍宮
 天智七年、本宮神劍、依外賊之難、出邊境、竟奉移帝都、至天武朱鳥元年還座、造−建別殿、比草薙劍徳、祝八洲安國、稱八劍宮祭之、或曰、縁日本武尊東征、神劍留於尾張國、亦嘗撃熊襲國、東西太平所向無前、崇、其神威、拝−祭八劍宮」

 その内容は、「天智天皇7年に熱田神宮の草薙剣が賊による盗難を受けたが、天武天皇の朱鳥元年に返還された。その際、草薙剣に比すべき徳をもつ剣を別殿に祀り八劒宮と称した。八劒宮とは八洲(日本)安国にちなむ名前ともいう。(或曰≠ニして)日本武尊は東征の際、東の鎮のために草薙剣を尾張国に留めておいた。しかし、日本武尊は西の熊襲も討っており、その事跡にちなみ、西の鎮として八劒宮を祀ったと推定する。」というものです。
 さて、どうも社伝の西夷降伏の祈願≠ヘ、当該或曰≠ノよるのではないでしょうか。僕の調べた範囲のことですが、ここ以外の箇所で、八剣宮に関して西夷降伏の祈願≠示唆していそうな文献は見あたりません。もちろん、僕の知らない文献が存在する可能性もありますから、決めつける訳にはいきませんが…。とにかく或曰≠ェ西夷降伏の祈願≠フ根拠だとすれば、これは『熱田神宮旧記』の筆者が仮説のひとつとして紹介したものにすぎないのですから、絶対的にこだわる必要はなさそうです。とりあえず、西夷≠ノついてはそういうことにして先に進みます。
 社伝に戻ります。「元明天皇の和銅元年(708年)九月に朝廷より熱田神宮に勅使が差遣され<中略>その際、新造の宝剣が奉納せられ、この時に八剣宮が奉斎されたという」のもとになったのは、『尾張志』にある次の記事でしょう。

「大宮の南に坐す延喜神名式に愛智ノ郡八劒ノ神本國帳貞治元亀二本ともに正一位八剣名神とあるこれ也元明天皇の御代和銅元年九月九日勅命によりてあらたに寶劒を齋蔵奉りて多治比眞人池守安部ノ朝臣宿奈麻呂等勅使として参向てことさらにかく八劒神とたこへり祭り給へり」

 さて、この記事では、差遣された勅使の名前まで出ていますが、それは多治比眞人池守タジヒノマヒトイケモリと安部ノ朝臣宿奈麻呂アベノアソンスクナマロ等であったとあります。そして、これは極めて重要な記述なのです。というのも、同じこの二人は和銅元年の9月30日に造平城京司長官に任じられているのであります(『続日本紀』)。つまりこの人事が決定したのは、二人が八剣宮へ宝剣を奉ったわずか2〜3週間後なのです。これはチョット偶然で済みそうにありません。つまり、『尾張志』の記事を真に受けたとすれば、宝剣を奉ったことと、二人が平城京造営の最高責任者のポストに任じられたことが、何らかの理由によって繋がっていると思われるのです。
 この和銅元年9月頃というのは平城京造営の直前夜です。『続日本紀』のページをめくると、この頃にこのことと関連のある記事として以下の3っがあります。
@9月20日 元明天皇が平城ナラに巡幸してその地形を視察
A10月2日 宮内卿・正四位下の犬上王を伊勢神宮に遣わして幣帛を奉り、平城京造営の報告をした。
B12月5日 平城京の地鎮祭を行った。
 こうしてみるとこの時期、AやBにような平城京造営に関わる宗教的な儀礼が集中していたことが分かります。とすれば、八剣宮の創祀もそうした儀礼の一環だった可能性があるでしょう。こうした八剣宮と平城京造営の関連性≠ニいう問題は、かなり後になるかもしれませんが、また検討することになると思います。とまぁ、そういうことで、今後、連載というかたちで、この八剣宮の創祀について取り組んでいきたい思います。




 

 A 「八剣宮奇聞より」  H13.9.8

 熱田神宮別宮八剣宮

9月4日の『神社による古代史@』の続きです。
 八剣宮については、いささか荒唐無稽なものも含め、伝承や附会の類が少なくありません。今回はそれらについて、辻村全弘氏の浩瀚な『八剣宮奇聞』(平成12年11月『あつた』第188号所載)を引用して紹介します。まず、八剣宮には盗難防止のため、草薙剣のダミーが祀られているという説話があるのですが、それから。

 「伊勢の外宮禰宜・度会行忠が著した『伊勢二所太神宮神名秘書』(一二八五)には、伊勢神宮と関わりの深い熱田の記述も見られるが、その中に、

 其草薙劒今在尾張國熱田社也。沙門道行盗−取之。赴異國。逢風雨不達先路。有霊威被送熱田社。自爾以降。造−加於劒七柄天 為八劒宮也。(『度会神道大成』前編による)

とある。盗難事件(kokoro※天武天皇7年にあった新羅の僧、道行による草薙剣の盗難事件のこと)があった後、草薙剣還座のおりに新しく七口の剣を造り加えたのが八剣宮だとする。これだけでは何のことだか分かり難いのだが、吉田兼右の注釈書『日本書紀聞書』(一五六七)では、

 ……其後チ劒ヲ七ツ打テ、熱田宮ニ籠メ玉フ。本ノ劒ニ可紛謀リコト也。已上本體ノ劒ト八ツ有ル也。故ニ其ノ宮ヲ八劒宮ト申也。(「神道大系」古典注釈編『日本書紀注釈 下』による)

と理由を説く。草薙剣に添えて剣を七つも置けば盗賊の目を欺けるというのである。古代エジプトのピラミッドで、墓泥棒に備え偽の棺や宝物を一緒に納めた事例なども連想してしまう。面白い話ではあるが、勿論、史実としての実証はできない。また、この説でも、草薙剣は他の七剣と同所、つまり八剣宮に奉安されていることになってしまう(P9)。」

 こうした目くらましの剣という説話は、かつてかなり世間に流布したらしく、江戸期の儒者、長久保玄珠(赤水)の旅日記『長崎行役日記』(一七六七)には宿で耳にした風聞として同様の話が載っています。また、内容は微妙に違いますが、『熱田草』(一六八六)や『熱田社伝』(成立年不詳)にも、それぞれ目くらましの剣の話がみられます。引用は控えますが、興味のある方は『八剣宮奇聞』をご覧下さい。
 それにしても、真偽のほどはともかく、こうした八剣宮に草薙剣のダミーが祀られているという説話の根強さは、僕に衝撃を与えます。それはこうした伝承を生んだ背景として、道行による盗難事件の記憶がオブゼッションとなり、長く尾を引いていたことを感じさせるからです。だがしかし、この盗まれることのオブゼッションは、実は盗まれたものを取り返すことへのオブゼッションと一対ではないでしょうか。というのも、八剣宮に別の剣が祀られている理由の説明として、正史にはない、道行による盗難の後日談を説くものがあるからです。

「『平家物語』の屋台本や百二十句本に収録されている「剣巻」(鎌倉時代成立カ)には草薙剣の伝来を記すが、盗難事件にも触れて、

天智天皇七年に、新羅の帝より沙門道行を渡して、「この剣を盗まん」とせしを、住吉の明神蹴殺し給ふ。なほ望みをかけしゆゑ、生不動という聖に七つの剣を持たせ、日本に渡さる。尾張の國へ着きしかば、熱田の明神蹴殺し給ふ。七つの剣、御剣にくわえて宝殿に斎はれけり。今の「八剣の大明神」これなり。(百二十句本・新潮日本古典文学集成による)

とある。正史のとおり、道行の窃盗は失敗に終わるが、「住吉の明神」に蹴り殺されたと記す。新羅へ向かう途中、暴風雨に妨げられたのを航海の神であり、神宮皇后の三韓征伐にも関わる住吉の神の神慮と捉え、説話的な制作がなされたのであろう。
 「剣巻」には、後日談として別の窃盗未遂事件があったことも載せる。道行を日本へ遣わしたのは新羅の帝であったのだが、あきらめきれない。再度、生不動という僧に七口の剣を持たせ尾張に盗みに遣わすが、熱田明神に蹴り殺されたされたと云う。七剣は取り上げられ、草薙剣と一緒に奉安された。それが八剣宮だとするのである。この説話では草薙剣も八剣宮に祀られていることになり、事実と反するのだが、盗難事件と八剣宮創祀の関係が巧く説明されてはいる。また俗説にある「八口の剣」の由緒も納得できるようになっている(P7〜8)。」

 この後日談の変奏で、ものすごく荒唐無稽な説話が『御伽草紙』の「熱田の神秘」です。

「しんらのみかと、つるきをはとりへすして、たうきようをはころしたまへぬ、はらをたゝせ給ひて、てんちくより、しようしんの七ふとうを、いのりくたして、日ほんこく、をしよせ、あつたみやうしんを、うちまいらせんとし給ふとき、みやうしん、このよしを、てんせう大しんへ、申させ給ふ、ちからをあはすへしとて、九万八千のいくさかみをもつて、御たゝかいありしかは、大みやうしんよろこひ給ひて、さて、七ふとうをうはひとり、七ふとうけんともとのけんにあひそへ、八けんのみやうしんと、ゆわゝれ給ふ、(「神道大系」神社編『熱田』による)」

 ここでは、生不動は人名ではなく、「しやうしん(生身)の七ふとう」で、道行の失敗にも諦めきれない新羅の帝が、祈祷によって呼び出した七体の不動明王とされ、この七ふとうが日本に押し寄せ、熱田明神を討ち負かそうとします。明神はこの危機を天照大神に伝え、大神は共に力を合わせようとて、九万八千の戦神をもって戦い、その結果、七ふとうを奪い取り、七ふとうの剣と草薙剣を合わせて八剣明神といったそうです。つまり七口の剣は、石仏等でおなじみの、不動明王が右手に持っている例のあの剣という訳です。
 なお、こうした不動明神のモチーフについて『八剣宮奇聞』は、「曾て神仏習合で、八剣宮の本地は不動明王とされた(『熱田宮秘釋見聞』・『熱田大神宮秘密百録』)。『平家物語』剣巻や『熱田の神秘』で「生不動(七不動)」が登場するのは、その影響からであろう(P11)。」と注釈しています。
 『八剣宮奇聞』によれば、八剣宮とそこに祀られている剣については、この他に、道行が自ら鍛え奉納した八口の剣(『雲州樋河上天淵記』)、日本武尊自ら鍛え奉納した八口の剣(『熱田大宮鎮座記』)、素戔嗚尊が大蛇を斬った十拳剣(『熱田大神宮秘密百録』)、十種神宝の八拳剣(『尾州神宮秘伝』)などの説があります。しかし、こうした説話のほとんどは史実として認めがたいでしょう。
 次回は、こうした中で八剣宮の伝承類からいえることを、僕なりに分析してみます。




 

 B 「神剣の二重化など」  H13.9.13

 理不尽な事件は衝撃的でした。我が国の経済に与える悪影響等、不安要因を数えだしたらきりがないでしょうが、今のところは、発表される犠牲者の数ができるだけ増えないことを祈ります。

 9月8日の『神社による古代史A』の続きです。
 八剣宮に祀られている剣については、前回、「目くらましの剣」や「生不動」等の説話を紹介しました。しかし、そのほとんどは史実として受け取るには無理があります。

「天野信景は、熱田神宮の概略を問答体で説明した『熱田神宮問答雑録』(一七〇四)の中で、八剣宮の御神体について、
 問、大宮固ヨリ寶劒ヲ安ス、何ニ依テ重テ新劒ヲ別處ニ奉ズルヤ、
との質問に、
 答、叡旨難知、例ヲ以テ云者大和國石上神社ハ、神宮御抄ニ依レバ、素戔嗚尊所持ノ霊劒ヲ安スル由シナリ、然ルニ日本紀ニ、垂仁天皇ノ時五十瓊敷命一千口ノ劒ヲ石上ノ宮ニ納メラレシ事有リ、八劒宮モ亦如此ノ例歟、(「神道大系」神社編『熱田』による)
と回答する。石上神宮で本来の御神体とは別に新しい剣が奉納された例は在るとはいうのだが、本当のところは「叡旨知リ難シ」、即ち全く分からない、としている(『八剣宮奇聞』P7)。」

 嗚呼、叡旨知リ難シカナ…。確かに、前回紹介した伝承等から八剣宮の創祀について、確実な答えを得るのは難しいでしょう。とはいえ、そこで言われていることからは、次の@〜Bが言えると思うのです。

石上神宮


@神剣の二重化
 八剣宮の祭祀に関する最大の謎は、「大宮固ヨリ寶劒ヲ安ス、何ニ依テ重テ新劒ヲ別處ニ奉ズルヤ」、すなわち、本宮に草薙剣が祀ってあるのに、なぜ重複して八剣宮で別の剣を祀っているかです。ところで上記の『熱田神宮問答雑録』は、本来の御神体とは別に新しい剣が奉納された例として、石上神宮の場合をあげています。しかしこれは例証として不適切ではないでしょうか。確かに、現在でも石上神宮では、第一相殿にフツノミタマ、第三相殿にフツシミタマ、と別の剣を祀っています。しかし、前者は国譲りや神武東征で活躍した剣、後者は素戔嗚尊が八俣大蛇を退治した剣で、同じ場所で祀られているということ以外、特に関係はありません。これに対し、八剣宮にある剣には、目くらましの剣の伝承に端的に現れているように、草薙剣のコピーであるという観念が抜き難くあるのです。つまりこの剣は、単に別の剣ということではなく、草薙剣の表象であり、八剣宮の祭祀は本宮における草薙剣の祭祀を二重化したものらしいのです。古くから八剣宮の祭神が本宮と同一であるとされてきたことも、こうした二重化の現れと思われます。

A天智7年の草薙剣の盗難事件と、天武朱鳥元年におけるその返還との関係
 八剣宮の伝承等には、天智7年の草薙剣盗難事件と、天武朱鳥元年におけるその返還のことがよく出てきます。前回のカキコで指摘した、盗まれることと盗まれたものを取り返すことへのオブゼッションです。明らかに、これらの事件と八剣宮の創祀とには、何らかの関係があると思われます。ただし、その一方、この関係は理解に苦しむものです。朱鳥元年における草薙剣の返還は、熱田神宮に還座したのであって、八剣宮に還座したものではありません。したがって、そのままでは@の神剣の二重化という事態は必ず生じないはずなのです。おそらくこのことは、八剣宮の祭祀について考える際、昔から人を悩ませてきたものと思われます。「生不動(七ふとう)」の説話で、道行による盗難の後日談が登場するのは、@の二重化を説明しようとして、史実にない物語を追加したのでしょう。
 ところでこれは余談ですが、草薙剣における盗まれることと、それを取り返すことへの偏執は、別の説話からも確認できます。そもそもこの剣は八伎大蛇を退治した時、素戔嗚尊が大蛇の尾から取り出したものです。ある意味でこれは大蛇からの宝剣の窃盗です。これに対し、井沢蟠竜の『公益俗説弁』に次のような奇怪な俗説が載っています。すなわち、安徳天皇は壇ノ浦で合戦に敗れ、祖母の平時子に抱かれて8才で入水した悲劇の天皇ですが、彼は八俣大蛇の化身で、入水したのは草薙剣を取り戻すためだったというものです。

B八剣宮の八≠ノついて
 八剣宮ハッケングウは式内八劒神社の遺存の社で、本来、その読みはヤツルキ神社でした。ヤが美称であることは広く知られています。したがって、八劒神社のヤ≠焉A美称の弥≠ナあると考えるのが無難です。しかしながら、これまで紹介した八剣宮に関する伝承等は、八剣の「八」は数詞で、八口の剣が祀られているとしたケースが多いのです。こうした俗説は、真に受け過ぎると危険ですが、何かこだわりのようなものを感じさせます。したがって、@やAほど重要な問題ではないかもしれませんが、八剣のヤ≠ヘ要注意です。
 なお、たいへん参考になる『愛知のやしろ』第19号(平成7年8月)所載の、大原和生氏作成が作成された「八劒神社(社)分布表」によれば、福岡県には実際に弥剣神社という神社が5社あります(『八剣宮奇聞』もこの事実を指摘します)。これらの弥剣神社が古社であれば、八剣のヤが弥であった痕跡と見なせるかもしれません。しかし、玄松子さんに調査をお願いしたところ、「福岡の「弥剣神社」は、柳川・大牟田など、福岡西部にあります。が、ほとんどが無格社で、由緒不詳です。唯一、柳川に村社がありましたが、その由緒も不詳となっています。創立は寛永17年とありますから江戸初期ですね。ただ、無格社の弥剣神社も含めて、祭神は素盞嗚尊です。周囲には八剣神社も存在しますが、祭神は素盞嗚尊ですね。北九州市周辺(福岡東部)に散在する八剣神社は日本武尊ですが、これらは熊襲征伐の古事によるものでしょう」と、行き届いた返事を戴きました。どうやら、福岡県の弥剣神社は式内社に匹敵するほど古くはないようです。

 次回はこうしたことを足がかりに、大和の式内社、出雲建雄神社と夜都伎神社の伝承からヤツルキについて考えていきます。
☆八剣宮に関する文献については、7月に訪れた熱田神宮宝物館内にある熱田文庫の職員の方々に相談にのってもらいました。ありがとうございました。


 

 C 「石上振神宮略抄より」  H13.9.17

 9月13日の『神社による古代史B』の続きです。
 まず、『石上振神宮略抄(享保5年写)』から、大和国山辺郡の式内社、出雲建雄神社の縁起であるAと、同じく夜都伎神社の縁起であるBを、それぞれ引用します。

石上神宮境内の出雲建雄神社



●A「石上振若宮は出雲建雄神也、此神は日本武尊帯オビる八握剣の神気御名也、旧名天叢雲剣アメノムラクモノツルギ申、熱田祝部尾張連等掌ます神是也、天智天皇御世、新羅の僧道行ドウギョウ、件ノ宝剣を盗逃げしが、境を出る事不能、難波浦にすて帰りしが、国人宝剣を取り大津宮に献上する、天武天皇都を浄見原に遷さる時、大殿内に留座すか、朱鳥元年(686年)六月宝剣の祟に天皇病給い、熱田神宮え送り遣さる、其の夜、石上神宮神主布留宿邑智フルスクネオフチが夢に東の高山の末に八雲がのぼり其の中に神剣光を放ち国を照す、其剣の本に八ッの竜座す、明旦彼地に到て見れば霊石八箇出現す、小童に託して曰く我は尾張連女が祭れる神なり、今是地に天降りて帝都を保ち諸の氏人を守らしむ、宜ヨロシク敬ひ祭れよ、仍て神託の随に神殿を造りて神を斎い奉る。出雲建雄神と申奉る」

●B「夜都留伎の神は八伎大蛇の変身にて神躰は八の比禮小刀子なり。仍て八剣の神と申す。神代の昔出雲の簸谷の八伎大蛇は一身にて八伎あり尊(素戔男尊)剣を抜きて八段に切断し給しか八つ身に八つ頭か取付八つの子蛇となりて天へ昇りて水雷神と化為て聚雲の神剣に扈従して当国布留河上の日の谷(属都祁郷)に臨幸ありて鎮座す(八龍王八箇石是也)。」

香具さん 大国見山頂の八っの霊石



 出雲建雄神社は現在、石上神宮の楼門向かいにある石段を上ったところにあります。『式内社調査報告』では、都祁村大字白石にある雄神神社等も論社としてあげていますが、いずれにせよ、祭祀面で神宮との繋がりを感じさせる神社です。夜都伎神社は、天理市乙木町宮山にありますが、もともとは、現夜都伎神社の東南、約500mのところにある十二神社が本来の当社であったようです(詳しくは、『式内社調査報告』等参照)。

乙木町の夜都伎神社


 さて、Bの冒頭をごらん下さい。夜都伎ではなく夜都留伎=Aヤ・ツ・ル・キになっています。このことについて、『日本の神々4大和』は次のように述べています。
「現夜都伎神社の東方には『石上振神宮略抄』に「夜都留伎は水雷神で日ノ谷に鎮座する」とある「夜都留伎」神に比定される長滝町日ノ谷(火の谷)の龍王社があり、ごく最近まで乙木の人々は、旱魃のとき雨乞のために竹之内峠を越え、そこに詣でていたという。この龍王社を現夜都伎神社の上社的存在と考えるなら、「夜都伎」は本来「夜都留伎」であった可能性もある(「夜都伎神社」の項、P320)」
ヤツキがヤツルキである例としては、十市郡の式内小社、屋就ヤツキ神命神社を、『大和志』が八劒神と称した例があります。これは附会の説と思われますが、いずれにせよ、ヤツキ神はヤツルキ神であるという観念があったことが伺えます。そして、もしも夜都伎神社が夜都留伎神社であるとすれば、八剣宮と夜都伎神社の両式内社は、ともにヤツルキ神社であったことになります。両社には何らかの関係があるのでしょうか。
 前回のカキコで僕は、八剣宮の伝承等から、次の@〜Bを抽出しました。
 @八剣宮にある剣は草薙剣の表象で、八剣宮の祭祀は熱田神宮のそれを二重化したといえる。
 A天智7年の草薙剣の盗難事件と天武朱鳥元年におけるその返還に関係があるらしい。
 B八剣宮の八≠ヘ数詞であることを説明しようとするこだわりが感じられる。
@についてですが、まずAとBを比較します。ごらんのとおり、それぞれ7世紀後半の出来事と神代の出来事とされ、内容も当事者も違うために全く関係がない感じです。しかし、注意してみると両者には共通項も少なくありません。まず、祭神が剣に関係していることがあげられます。また、出雲が関係していること(Aの「出雲建雄神」、Bの「出雲の簸谷の八伎大蛇」)、神聖な八個の岩石がでてくること(Aの「霊石八個」、Bの「八個石」)もそうです。さらに、Bには祭神が降臨した場所が、布留川上流の日の谷≠セったとあり、そこには八個石≠ェあるとされます。Aには日の谷のことは出てきませんが、祭神の降誕した場所には霊石八個≠ェ出現したとあります。もしも、霊石八個≠ニ八個石≠ェ同じとすれば、出雲建雄神が降誕した東の高山の末≠焉A日の谷だったことになるでしょう。実際、『吉田神祗管領裁許状』(享保7年)という古文書に、「布留川上日谷山武尾大神」とあり、ここでいう武尾大神≠ヘ出雲建雄神社のことと思われるため、当社も日の谷と関係があるのは確かです。したがって、日の谷もAとBの共通項です。
 しかし、こうしてみると、出雲建雄神社と夜都伎神社は、同じ日の谷に降臨した祭神(神剣)を重複して祭祀していることになります。となると、@の、八剣宮による熱田神宮の祭祀の二重化と同じ事態が、ここにもみられることになります。しかも、夜都伎神社は夜都留伎神社と表記されている訳ですから、これは八剣宮に該当します。このアナロジーでいくと、出雲建雄神社の方が熱田神宮に当たる訳ですが、しかし、Aで降臨した出雲建雄神は、自分は「尾張連女が祭れる神だ」と名乗っています。つまり、熱田神宮の祭神と同体だと明言している訳で、ツジツマが合うのです。
 ★ 八剣宮 / 熱田神宮 = 夜都伎(夜都留伎)神社 / 出雲建雄神社
 Aについては、天智7年の草薙剣の盗難事件と天武朱鳥元年におけるその返還がAの中で出てきます。したがって、出雲建雄神社と夜都伎神社の祭祀にもまた、この事件が関係していると思われ、Aもまた両社に附合するのです。
 Bについては、Bの最初の方で夜都留伎神の御神体は、八の比禮小刀子(ヒレが8っある小刀子)≠ニされています。Bには八つ身に八つ頭か取付八つの子蛇となり≠ネどという文章もありますが、ヤツルギのヤ≠数詞の8とするB的なこだわりにおいて、八剣宮の伝承類と共通するものを感じさせます。とまぁ、長々と書いてしまいましたが、尾張と大和にあるこれら二組の神社に、非常に強い繋がりがあることは間違いないと思います。以後のカキコでは、これを前提にして考察を続けることになるでしょう。
 なお、僕は今出てきたこの「八の比禮小刀子」が実在すると考えています。しばらく先のことですが、八剣宮に祀られている宝剣とはこの小刀子のことで、もとは夜都伎神社にあったものを和銅元年に八剣宮に遷座したのではないか、という話を予定しています。
 次回は、祭祀氏族の面から八剣宮と出雲建雄神社及び夜都伎神社の繋がりについて考えてみるとともに、平城京造営と八剣宮の関係についても考えたいと思います。そこでは、Aで降臨した出雲建雄神が「小童」であったこと、「帝都を保ち」と言っていること、Bで退治された八伎大蛇が「八つの子蛇」になったこと、それが「水雷神」と化したことが、重要な手がかりとして大きく取り上げられる予定です。
☆日の谷という、この神秘的な場所については、この春に香具さんが探求されていました。日の谷について、Bでは、出雲で八伎大蛇がいた場所が簸谷だったことになっています(もちろん、記紀では簸の河上となっていて、簸谷は出てこないです)。したがって地名転移として捉えられているのが面白いです。


 

 D 『道場法師と二つの元興寺』 H13.9.27

 9月17日の『神社による古代史C』の続きです。
 9月3日にカキコした『神社による古代史@』で僕は、『尾張志』にある記事を紹介して、八剣宮の創祀は平城京造営と関わりがあるのではないかといいました。そこで、今回からこの問題に取りかかろうと思います。
『日本霊異記』第1巻の第三〜第五に大略、次のような説話があります。
「【第三】敏達天皇の時代(572〜585年)、尾張国愛智郡片ワの里でのこと。農夫が田に水を引いていると雷が鳴り出し、子供の格好をした雷が落ちてきた。鋤で殴り殺そうとしたところ雷は、助けてくれれば子供を授けると言ったので、請われるままに、楠の舟に水を入れ、竹の葉を浮かべて与えると、水を得て空へ昇っていった。やがて生まれた子は、首に蛇が二重に巻き付いて頭と尾を後の方にたれていた。
【第四】この子はやがて大力の持ち主となり、10歳位になって皇居のそばに住んだ。その頃、皇居の東北隅の別邸に、ずば抜けて力の強い王がいた。別邸の東北隅にあった八尺立法もある大石を、家から出て中に投げ入れたところ、門を塞いでしまった。子供は、これを反対の方に投げ飛ばす力比べをしてこの王に勝った。彼が石を投げた場所には、子供の小さな足跡が、深さ三寸余りも地面にめり込んで残っていた。
【第五】やがて元興寺の童子となったが、その頃、この寺の鐘楼に鬼が出没、夜ごとに死人が出たので、鬼退治を申し出た。童子は鐘楼で鬼と格闘、髪をつかんで放さなかった。ついに鬼の方が負け、すっかり髪を抜かれて逃げ去った。血のあとをたどると、元興寺の悪い奴ヤッコを埋めた街の辻にたどり着いた。これにより、この奴の霊鬼が鬼の正体であったことが判明した。その後、成長した童子は、寺田に水を引くのを邪魔した諸王達を大力でこらしめ、その功績により僧となり、道場法師と名乗るようになった。」
 この一連の説話の中でも、特に【第五】の元興寺での鬼退治は、かって(あるいは今も?)非常によく知られていました。元興寺が訛ったガゴウジ≠ニいう言葉は、広辞苑に「@元興寺、A(元興寺の鐘楼に鬼がいたという伝説から)鬼の異称、B鬼のまねをして小児をおどすこと。がごじ。がごぜ。」とあるほどです。この『日本霊異記』にある元興寺は、飛鳥寺の名で知られている方興寺のことですが、しかし現在、この鬼退治の伝承は、奈良市中院町にある元興寺に伝承されています。屋根瓦や巻斗マキトと呼ばれる建築部材に飛鳥寺のものが使用されているなど、当該元興寺は飛鳥寺を平城遷都の際に移築したものなので、こうした混乱が生じたと思われます。
 さて、【第四】には道場法師と力比べをした力の強い王が、皇居の東北にある別邸に住んでいたとあり、しかも二人が力比べに用いたのは、この別邸のさらに東北隅にあった八尺立法の大石だったとあります。ここでは東北という方位が二重に出てきますが、東北は艮ウシトラにあたり、陰陽道や易学でいうところの鬼門です。『日本霊異記』の説話には登場しませんが、奈良市には、鬼退治で夜が明けて逃げ出した鬼を道場法師が追いかけると、鐘楼の東北の辺りにあった辻子でその姿を見失い、このため、その辻子を不審ヶ辻子と呼ぶようになった、という地名伝説があります。それからまた、追跡を逃れた鬼は不審ヶ辻子の東北にある鬼園山キオンサン(鬼隠山)へ逃げ込んだという伝承もあるようです(鬼園山は現在の奈良ホテル辺り)。ここには東北方向への偏執が感じられますが、これは道場法師に鬼門を鎮護する聖人という観念があったことのあらわれではないでしょうか。そうして同様に、彼がいた元興寺には平城京の鬼門鎮護という役割があったのでは。あたかも、平安京の鬼門鎮護のために延暦寺が、江戸城のそれのために寛永寺が造営されたという説があるように。ちなみに、僕が元興寺で買った絵馬には、道場法師と鬼とがそれぞれ表と裏に描いてあり、一緒にもらった紙に「厄除招福の御守護として出来ますれば丑寅(東北)の方向におかけ下さい」とありました。
 道場法師と元興寺には平城京の鬼門鎮護と関わりがあったとして話を進めます。実は、僕は元興寺と八剣宮の祭祀には、繋がりがあると考えているのです。元興寺という寺院は、奈良市だけでなく飛鳥時代の名古屋にもありました。この寺院の跡は、現在の中区正木町にあり、近年の発掘調査の結果、7世紀半ばの瓦等が出土して尾張でも最初期の仏教寺院と判明しております。現在では昭和50年に再建された寺がひっそりと建っているだけらしいですが、江戸期の『尾張名所図絵』には、広大な敷地に囲まれたかっての姿が残っているそうです。ところで『日本霊異記』には、道場法師が生まれたのは尾張国愛智郡片ワ里カタワノサトだったとありますが、この片ワ里(ワ≠ヘくさかんむり≠ノ糸≠ニ色=jは現在の同区古渡町付近だったといわれており、古渡町と元興寺跡のある正木町は隣りどうしで、ほとんど同じ場所です。尾張の元興寺については、沿革等、まだ不明な点が多いようですが、こうしたことから、道場法師の説話を介して、奈良と名古屋の元興寺には何らかの関係が推測できると思われます(これは別に僕が言い出した訳ではなく、谷川健一氏や森浩一先生の書物にもみられる考えです)。
 さて、名古屋の元興寺跡及び片ワ里は、八剣宮(熱田神宮)から北に向かって2〜3qの距離にあります。結構、近くなのです。とはいえ、「近いから、カンケーあんじゃん」ではだれも納得しないでしょうから、もう少し分析を続けると、実は道場法師の説話は、古代豪族、小子部連チイサコベノムラジと関連が深いとされているのです。雄略紀7年7月3日の条に、次のような話があります。
 「(雄略)天皇は少子部連スガルに詔りして、「私は三輪山の神の姿を見たいと思う。お前は腕力が人に勝れている。自ら行って捕まえてこい」といわれた。スガルは、「ためしにやってみましょう」とお答えした。三輪山に登って大きな蛇を捕らえてきて天皇にお見せした。天皇は斎戒されなかった。大蛇は雷のような音をたて、目はきらきらと輝かせた。天皇は恐れ入って、目をおおってご覧にならないで、殿中におかくれになった。そして大蛇を岳オカに放たせられた。あらためてその岳に名を賜い雷イカズチとした(※宇治谷孟氏の現代語訳『日本書紀』講談社学術文庫)。」
 この物語は、小子部連の始祖説話として知られるものですが、大和岩雄氏は『日本の神々4大和』「小部神社」の項でこの話と道場法師の物語に触れて、次のように述べています。
 「道場法師の話には、小子部連の始祖説話と同じく小子、雷、蛇が登場するから、柳田国男は同一氏族の伝える小子説話とみたのであろう。道場法師は雷神の子として尾張の国に生まれた小子である。この小子は頭に蛇を二まきにして、蛇の頭と尾を後ろに垂らしいた。<中略>雷神の子の道場法師が小子であることと、雷という名をもつ人物の姓が小子部連であることからして、小子と雷は一体である。」(P224〜225)
 文中、柳田国男の名前が出てきていますが、これは『雷神信仰の変遷』の内容のことで、ここで柳田は、「道場法師とその娘たち(※これも『日本霊異記』にある話で、片ワ里出身の道場法師の孫娘の力もちで体が小さかった力女のこと、勧善懲悪、中巻にあります)も、同じ小子部の一門であるが、<中略>これを記録に留めた日本霊異記の著者沙門景戒も、事によるとこの系統に属する人かも知れぬ」としています。ついでに言うと、『日本の神々4大和』「子部神社」の項は小子部連に関する実に優れた論考です。
 小子・蛇・雷が小子部連に関連の深いのは以上の通りですが、このことは、この氏族が手掌した呪術的な祭儀の雰囲気を伝えているような感じがします。それはともかく、前回のカキコの最後の方で、『石上振神宮略抄』の出雲建雄神社の由緒では、降臨した出雲建雄神が「小童」であったこと、「帝都を保ち」と言っていること、同じく夜都伎神社の由緒では、退治された八伎大蛇が「八つの子蛇」になったこと、それが「水雷神」と化したこと、について注意を求めておきました。つまり、小子・蛇・雷が全部登場している訳です。しかも、あまつさえ出雲建雄神は「帝都を保ち」と言っているので、宮城鎮護の祭儀も感じさせるのです。というわけで、僕は出雲建雄神社と夜都伎神社の祭祀には小子部連が関わっていたと思います。そうして、とするならば、この二つの神社と八剣宮には密接な関わりがあることは前回、説明したとおりなので、このことと小子部連を介して、奈良と名古屋の元興寺も八剣宮と関係があるといえそうです。さらにその場合、奈良の元興寺や道場法師に平城京の鬼門鎮護との関係があったとすれば、冒頭で言った、八剣宮には平城京造営と関係があるという話とも関係していそうです。
 3っだけ補足します。まず、『日本書紀』に、壬申の乱の際、不破の関で尾張国司小子部連サイチ(サイチは「金<wンに且≠ニいう漢字」と「鉤」)が二万の兵を率いて大海皇子に帰属したという記事があり、戦略的に大海皇子の有利を決定づけた重要な出来事だったらしいですが、これにより7世紀の尾張に小子部連が居住していたことが確実に分かります。おそらくそれは、片ワ里の辺りだった可能性が高いでしょう。また、出雲建雄神社と夜都伎神社の上社である日の谷は、『石上振神宮略抄』では都祁郷に属しているとあります。小子部連は神八井耳命カムヤイミミノミコトを始祖としていますが(『新撰姓氏禄』)、都祁を支配していた都祁氏も神八井耳命系で、両者は同族です。それから前回のカキコで僕は、大和国十市郡の式内小社、屋就神命神社を、『大和志』が八劒神と称した例について附会の説と思われる≠ニ書いてしまいました。しかし、当社は小子部連が祭祀していた式内大社、子部神社と多氏の祀った多神社の間にあり、前者とは約1q、後者とは約500mしか離れていません(ちなみに多氏も神八井耳命系)。こうしてみると、いちがいに附会の説と決めつけることはできない気もします。
 次回は八剣宮のことからはやや離れ、間奏曲としてクズ族のことを扱います。布留川上流域の3っの九頭神社や、吉野町南国栖にある浄見原神社等を扱う予定です。その過程で7世紀の陰陽道に基づいた呪術的作為について、触れていきたいです。
☆ 今回のカキコでは、名古屋の古渡にある元興寺等について、ヒンさんのホームページにある「歴史・神道関係」コーナーを参照させてもらいました。古代の尾張に興味を持った人がいれば、オススメです。
http://village.infoweb.ne.jp/~fwif4861/rekireki.htm




 

  E 『飛鳥の鬼門鎮護の神』  H13.10.16

 9月27日の『神社による古代史D』の続きです。
 前回、小子部連系らしい道場法師には平城京の鬼門鎮護の聖人という観念がある、と指摘しました。ではなぜ、そのような観念が生じたのでしょう。
 この『神社による古代史』が扱っているのは、天武天皇の晩年から平城京造営の頃まで、西暦にして7世紀後半から8世紀初頭くらいまでの時代です。ところで、この頃の日本では、道教がかなり盛んで、特に天武天皇の治世ははじめて占星台が置かれるなど、この隆盛がピークに達したといわれます。鬼門(東北)も道教起源の考え方で、陰陽五行(木火土金水)が陰気である水気(北)から陽気である木気(東)へ相生する際、陰陽の切替わりが起こるため「気」が乱れやすく、邪気が溜まるとされます。
 中国の『山海経』という奇談集に、こんな説話があります。中国の東方数千里に「度朔山」という山があり、その山の上に枝が三千里にもおよぶ大きな桃の木がありました。そして東北に伸びたその巨大な枝の方に門があり、そこから鬼達がこの山に出入りしていたそうです。天帝は神荼と鬱塁というニ神に命じて、この門の見張りをさせましたが、二神が休息している時には鬼が侵入してくるともいいます。この話には、門から出入りしたのは鬼達ではなく死者の霊魂であったというバリエーションもありますが、いずれにせよこの話が鬼門という言葉の語源なのだそうです。元興寺に伝わる道場法師の伝承は、この『山海経』の説話がモデルになっているのが感じられでしょう。
 さて、家相学では今でも、家の鬼門に植物を置くことを奨励します。植物は木気を象するもので、鬼門にそれを置けば陽気発動へテコ入れできるのです。ゴチャゴチャした説明は避けますが、とにかく風邪にパ○ロン≠ニ同じく鬼門に木気≠ニ覚えて下さい。ところで易学で木気にあたるのは「雷天大壮」の卦で、これは強大な天の上に雷鳴がとどろき、陽気が盛んに発動している状態≠ナす。このため、雷も木気の代表的な象意ですが、小子部連は前回説明したように雷と縁が深く、このような氏族を鬼門鎮護に当たらせるのは、やはり鬼門に木気≠フ呪術たりえます。小子部連系で雷神の子とされる道場法師に、鬼門鎮護の聖人≠ニいう観念があるのはこうしたことと深い関係があると思われます。
 ここで、神社の話に戻りましょう。前回のカキコで出雲建雄神社と夜都伎神社の祭祀氏族は、道場法師の出身氏族と同じく小子部連だったのではないかと示唆しました。とすれば平城京と道場法師の関係から類推して、2っの神社も宮都の鬼門鎮護に関わっていた可能性があります。両社の上社は日の谷という場所ですが、『日本の神々4大和』に、「現夜都伎神社の東方には <中略> 「夜都留伎」神に比定される長滝町日ノ谷の竜王社があり…(P320)」とあり、この記事から日の谷は、天理市長滝町の集落からやや北方とみてよさそうです。地図を開けばその近辺は、藤原京や浄御原宮など飛鳥地方にあった宮都の東北、すなわち鬼門に位置しています。そこで今後、2っの神社は飛鳥地方に営まれた宮都の鬼門鎮護と関わりがあったとして話を進めます。実際に『石上振神宮略抄』によると、出雲建雄神が朱鳥元年に日の谷に降臨したとき、「是地に天降りて帝都を保ち諸の氏人を守らしむ」と言っております。これは「宮都の鬼門にあたる日の谷を鎮護し、帝都と人心を平静に保つ」の意ではないでしょうか。
 ところで、飛鳥地方の宮都の鬼門鎮護に関係があった≠ニいうのが重要なのです。すなわち、飛鳥にある藤原京から奈良の平城京へ遷都した際、平城京はこの二つの神社より北に遷ったので、これらの神社はもはや宮都の鬼門鎮護の役割がはたせなくなります。その結果、両社の祭祀の意義も当然に変質を被ったはずです。『石上振神宮略抄』によれば、夜都伎神社の御神体は比礼が八つある小刀子≠ナした。おそらくこの小刀子こそ八剣宮に祀られている宝剣ヤツルギ≠セと僕は思うのですが、遷都による祭祀の変質に伴い、この剣を夜都伎神社で奉斎する意義がなくなったのです。そしてそのために、この小刀子を八剣宮に移すことになり、それが、「多治比眞人池守と安部ノ朝臣宿奈麻呂等が和銅元年9月9日、勅命により神剣を奉献し八剣宮を創祀した」、という『尾張志』の記事に繋がるのではないでしょうか。
 もちろん、それだけでは説明できていない事柄がまだまだたくさん残っています。例えば当該小刀子を夜都伎神社で祀る意義がなくなったにしても、とうしてまたそれを尾張に移したのか。また、草薙剣とヤツルギの関係、とりわけ後者の前者に対する二重性の問題。それから、草薙剣は出雲建雄神社及び夜都伎神社の祭祀にどう絡んでくるのか。さらに『石上振神宮略抄』にある夜都伎神社の由緒には出雲のことが出てきますが、この出雲の問題等々。こういったことについては、また考えていこうと思っています。
 次回は前回予告してできなかった、クズ族を扱う番外編を予定しています。布留川上流域の3っの九頭神社や、吉野町南国栖にある浄見原神社等の話です。この連載も長くなりましたが、番外編を入れてあと3回で終了させるつもりです。

☆ 引っ越しました。




 

   F 『イメージとしての出雲』 2001/12/29(Sat)

 大分間があきましたが、10月16日の『神社による古代史E』の続きです。
 布留川上流域の神社郡についてはこれまで何度も触れてきましたが、その度に必ず、出雲という地名に送り届けられてきました。だが、なぜ出雲なのでしょうか。
 2回目になりますが『石上振神宮略抄』から、出雲とこの地域との繋がりを特に意識させる夜都(留)伎神社の縁起を引用します。

「夜都留伎の神は八伎大蛇の変身にて神躰は八の比禮小刀子なり。仍て八剣の神と申す。神代の昔出雲の簸谷の八伎大蛇は一身にて八伎あり尊(素戔男尊)剣を抜きて八段に切断し給しか八つ身に八つ頭か取付八つの子蛇となりて天へ昇りて水雷神と化為て聚雲の神剣に扈従して当国布留河上の日の谷(属都祁郷)に臨幸ありて鎮座す(八龍王八箇石是也)。」

この伝承を読んで僕が最初に感じるのは、出雲と布留川上流域の間にある膨大な距離があっさりと無視されていることです。例えば、大和に入るのに熊野を迂回した神武東征や播磨から出石神社へ行くまでに近江や若狭を経巡った天日槍など、古代における移動には、遠回りと寄り道がたいへん多くみられます。これに対し夜都伎神社の伝承では、退治された八股大蛇が、出雲から布留川上流域までほとんど無媒介的な早さで到達するのです。この距離の廃棄とでもいった事態には、何らかの呪術的な雰囲気が感じられないでしょうか。
 出雲のイメージのひとつに、「根の堅洲の国」のような冥界としてのそれがあります。出雲があるのは大和から見て西の果てですが、このために西=陰、東=陽とする道教的観念からいうと、出雲は強い陰極の象意をもちます。ここでいわれる出雲は、現在の行政区分でおおむね島根県に該当する地域といった実際の土地を指すのではなく、大和の西方にある場所といういたって観念的な存在です。出雲における冥界のイメージが、こうした道教的観念に根ざすものであることはよく指摘を受けますが、その背景には東西軸を陰陽軸とする世界観があるのです。
 さて、これまで述べてきたように、僕は夜都伎神社と出雲建雄神社の祭祀が宮都の守護と関わりがあったと考えています。そこで、布留川上流域に濃密に分布するあれらの出雲の伝承について、この線に沿って考えてみます。易学には、北極星を心霊化した太極とよばれる存在があります。太極は宇宙の中心なので、古代の造都計画では、日本全体の中で宮都が太極、さらにその宮都の中では天皇が政を行う場所が太極、と観念されました。藤原京等で天皇が政を行う建物を太(大)極殿というのは、そこからきているわけです。易学では、この太極は必ず陰と陽の二元を生じるとされます。両者は全く相反する本質をもちながら、完全に互角な存在です。
 太極であり宇宙の中心である大和の宮都、及びその主催者である天皇にとって、世界は陰陽の均衡がとれている状態が理想です。この均衡が崩れると治世が乱れるとされたからです。しかし、ここに深刻な問題が生じます。陰極の象意である金気と陽極の象意である木気は、五行の相剋原理「金剋木」により、金気が一方的に木気に勝るのです。つまり、東西軸を陰陽軸とする世界観では、東に対して金気である西が圧倒的優勢に立ってしまうのです。このため、「金剋木」を覆し、陰陽の均衡を確保するために、呪術を導入する必要が生じます。
 さて、夜都(留)伎神社の縁起には、この「金剋木」を覆す呪術のことが隠されていなかったでしょうか。この縁起で、退治された八伎大蛇が出雲から日の谷に到達するまで、以下の4っの過程を経ます。

  @八伎大蛇  −(切断)→ 八つの小蛇
  A八つの小蛇 −(変容)→ 水雷神
  B水雷神   −(扈従)→ 聚雲の神剣
  C聚雲の神剣 −(降臨)→ 八竜王八箇石

 @〜Cを個別に分析していくと、@で八伎大蛇は素戔嗚尊による分断によって、八つの小蛇となります。この件には、「八段に切断し給しか八つ身に八つ頭か取付八つの子蛇となり」などという文章があり、『神社による古代史』のテーマの1つ、八に対する偏執≠ェ極端な形で現れています。これは僕の勝手な推測ですが、結局、この八≠ニいうのは美称の八=弥≠ナはなく、何か易学の八卦と強く関わっている感じがします。易学における「八」という数詞には、何かしら凡≠ニいうか一なる全て≠ニいうか、一種世界的な感情が感じられます。「金剋木」という事象の理(ことわり)を覆す強力な呪術を行うに当たり、そうした強い感情を呼び起こす必要があったのではないでしょうか。
 Aでは、この八つの小蛇が天に昇ってから水雷神に変容します。雷は八卦の「震」に該当し木気の象意であります。このことは次のBCで強い意味を持つことになります。
 Bでこの水雷神は聚雲の神剣に扈従します。強調したいのは、Aでは八つの小蛇が水雷神に変容≠オたのに対し、水雷神から聚雲の神剣へは扈従≠ニなっていることです。これは金気である剣が、木気である水雷神を「金剋木」の原理によって従えたという意味だと思われます。この伝承全体で、道教の原理がもっとも現れている部分ではなかったでしょうか。なお、ここでは、扈従が起きたのが出雲上空なのか、それとも日の谷上空なのか明記されていませんが、やはり前者であったと思われます。出雲は八千矛の国と呼ばれ、また実際に大量の銅剣が出土している地域です。こうした文脈から見ても、金気である剣は西にある出雲を象徴する存在であると思われます。
 Cがもっとも重要です。そこではこの水雷神を扈従させた神剣が日の谷に降臨し、八竜王八箇石が登場します。縁起では八竜王八箇石とこの神剣の関係を今ひとつはっきりさせていませんが、それらが等価なものとして扱われているのは間違いないでしょう。龍とは木気の代表的な象意です。また、この神剣には水雷神の神格もあるわけですが、これもまたそうです。してみると、この神剣、すなわち日の谷に降臨して八の比礼小刀子となった剣は、金気である剣でありながら、同時に龍や水雷神の神格も備えた木気の存在であるという観念があるように思われます。こうした金気と木気の両立というのは、道教の原理では不可能事であり、それを可能にするには呪術的な作為が必要です。そして、その呪術の本体とは一体どういうものだったかを説明するのが最初に指摘した、出雲から日の谷への無媒介的なこの剣の移動ではなかったでしょうか。つまり、出雲(西)と大和の日の谷(東)の間にある距離を廃棄することにより、金気(西)と木気(東)を両立させる…大略、そんな内容の操作が呪術により行われ、夜都伎神社の伝承はそれを伝えているのではないかと推測します。
 呪術の力で「金剋木」を脱却し、金気(陰)と木気(陽)を両立させる。陰陽の均衡を図り、世界の中心とされる天皇の首都を安定的に支える。これが夜都伎神社における宮都鎮護の祭祀ではなかったでしょうか。また、『神社による古代史E』で書きましたが、僕はこの夜都伎神社の本の宮とみられる日の谷が、宮都の鬼門と見なされていたと考えています。鬼門は東北の方位で、五行でいうと水気から木気に相生する移り目です。そしてそこは、陰陽の切替え地点なので、相生や相剋の運動から解放される一種ニュートラルな場所とも考えられます。したがって、鬼門というのは単に縁起の悪い方角というだけでなく、五行の原理を脱却するような強力な呪術を行うに適する方角だとも考えられます。宝治元年(1247年)5月、執権北条時頼に恨みを抱いていた鎌倉幕府の御家人、三浦光村は、鎌倉の鬼門の方角に五大明王堂を建て、祈祷師や陰陽師に時頼調伏の法会をさせたそうです(『吾妻鏡』第18)。ここで登場する鬼門は今言った文脈で考えた方が理解しやすいと思われます。
 また、この縁起の時代背景も考えさせるものがあります。八伎大蛇が登場するので舞台は神代ですが、夜都伎神社の祭祀と際だった連続性を感じさせる出雲建雄神社の縁起によれば、出雲建雄神が日の谷に降誕したのは天武天皇の最晩年、自分の病が草薙剣の祟りであると占いに出た天皇が、この剣を熱田神宮に返却した翌日です。したがって、この神社の祭祀もまた天皇が闘病生活を送っていたこの時期に関わりがあるかもしれません。『日本書紀』には天皇の重い病が印象的に描いてあります。そうして、古代最大の呪術王として彼が、起死回生の呪術を試みたことは容易に想像されます。この縁起の趣旨が、金気を押さえ込んで木気を生かすというものとすれば、あるいは天武天皇の生命の再生を意図する呪術だったとも考えられます。
 少し補足します。金気(西)と木気(東)の両立とすれば、すなわち土気(中央)であると解釈することも可能です。その場合、かって草薙剣が熱田神宮で土用殿と呼ばれる建物の中に祀られていたこと、土用殿のそばには龍神を祀る竜王社があること、等が示唆的です。

☆ 吉野裕子先生の『陰陽五行と日本の天皇』を参考にしました。
☆ 次回は最終回。最大の謎である熱田神宮と八剣宮の祭祀の二重性について考えてみます。setohさん、皆さん、今年はお世話になりました。よいお年をお迎えください。


 

   G


 

   番外編 『インテルメッチョ♪ 国栖の歌』  H13/11/14 

 熱田神宮境内の佐久間灯籠のある場所からやや南に、徹社トオスノヤシロという奇妙な名の社が鎮座しています。現在では木立の中にあまりにもひっそりとたたずみ、「あつたさん」の参拝客は足も止めずに前を通り過ぎるだけですが、場所から言って神宮の末社と紛らわしいこの社は、実は八剣宮の末社なのです。と・お・す・の・や・し・ろ=Aしかしそれは、刀子のやしろ≠ナはなかったでしょうか。そして、とすればこの社は、『石上振神宮略抄』に「夜都留伎の神は八伎大蛇の変身にて神躰は八の比禮小刀子なり」とある八の比禮小刀子≠ニ何か関係があるように思われてなりません。

 大正4年の『名古屋市史 社寺編』には徹社について次の記事を載せます。
「境内末社に徹神社あり、水内ミズチ大神とも称す。天照皇大神の和魂を祀る(『祭神記』『鎮座次第』)。『熱田宮略記』『名所図会』等には祭神を建御名方神となす、恐らくは誤れるか(P155)」
ここでは祭神について「天照皇大神の和魂を祀る」とする一方で、「建御名方神となす」との異説も紹介されており、この異説については「恐らくは誤れるか」と曖昧にコメントされているわけです。しかし、むしろこれは逆ではないでしょうか。持統天皇紀5年8月23日の条に、「使者を遣わして、竜田風神、信濃の諏訪、水内社などの神を祭らせた」とあります。この記事の水内社≠ノついては、一般に信濃国水内郡の式内明神大社「建御名方富命彦神別タケミナカタトムノミコトヒコカミワケノ神社」を比定するのが定説です。当社の祭神は建御名方神であり、そして徹社は「水内大神とも称す」とあることから、おそらくこの社の祭神もまた建御名方神であると思われます。これに対し、「天照皇大神の和魂を祀る」の方は、単なるもっともらしい祭神の附会ではなかったでしょうか。
 このことを布留川上流域との繋がりで考えてみると、香具さんが発見したとおり、当該地域に鎮座している3っの九頭神社は祭神として建御名方神を祀ることが、直ちに想起されます。ちなみに、奈良県というのは諏訪神社を祀る数が全国で最も少ない地域です。県別の諏訪神社勧請数を表わした『日本の神々9信濃等』P148の表によれば、全く勧請社のない沖縄県を除くと、奈良県は全国で1番諏訪神社の少ない県となります(2社だけ)。したがって奈良県下でこの祭神を祀る神社というのはかなり特殊であり、それにもかかわらず、布留川上流域にはそれが3社も鎮座しているのは、この地域が祭祀的に極めて特色ある地域であることを示すと思われます(僕が『奈良県史5神社編』で調べた範囲では、建御名方神を祀る奈良県の神社は、他に宇陀郡の九頭神社2社と布留川上流域の九頭神社3社があるだけでした)。では、この3っの九頭神社と八の比禮小刀子≠ノは何か関係があるでしょうか。
 以前もこの掲示板で紹介したことがありますが(『石上神宮とクズ』H13.04.08、併せて参照していただけたら幸いです。http://www.kamnavi.net/log/yumv0104.htm)、応神天皇記で吉野の国栖が、オホサザキノ命(即位前の仁徳天皇)の腰につけている大刀を見て次のように歌います。
 「品陀ホムタの 日の御子 大雀オオサザキ 大雀 佩ハかせる大刀 本剣 末ふゆ ふゆ木の すからが下樹の さやさや」
 この歌は超難解で有名ですが、折口信夫による興味深い解釈があります。
「この歌はまず、大雀(オオサザキノ)尊に刀身の幾枝にも岐れたまじっく≠フ剣を捧げ、それに託して国栖族の守霊を附着せしめて奉ると言った意味のものであるらしい。
 剣には石上神社神宝の七枝剣のごとき変形の剣があるが、これは刀身が分かれて七っになっており、それに鞘をはめるようになっている。
 かように大雀尊を祝福せる剣は、七さや≠ナあるか九さや≠ナあるか分からないが、ともかくその歌詞によって、股のあった剣で股になった鞘を有していたに相違ない。そしてこの剣をもって大雀尊を祝福し、大雀尊に剣を佩かせる言義を附けながら鎮魂をおこなったのである。」(中公文庫『折口信夫全集 第二十巻 神道宗教篇』所収の『剣と玉と』P233〜234)
 折口によると、吉野の国栖がこの歌を天皇に奏上するのは、一族の守霊を大王に付ける服属儀礼なのですが、それについてはここで深入りしません。いずれにしても、その解釈に従えば7世紀後半以前に、吉野の国栖が七支刀のような股のある剣を用いて、呪術的な祭儀を行なったことになります。古代には、こうした変わった形の剣がたくさんあったとも思えないですが、その中で確実に存在するのは石上神宮の七支刀です。このため吉野祐子先生は『仁徳天皇と石上神宮七支刀』(『陰陽五行と日本の天皇』所収)でさらに一歩推し進めて、この歌の剣が七支刀であると断定しています。が、しかし、むしろそれは八の比禮小刀子≠ナはなかったでしょうか。「八の比禮小刀子」が「ヒレが8っある小刀子」だとすれば、形態的にこの小刀子もまた股のあった剣≠ノ該当しそうです。また、七支刀は神功皇后摂政前紀にある百済からの献上品とされていますが、そのような剣がどうしてクズ族に結びつくのかは、上掲の吉野先生の著書を読んでも今ひとつハッキリしません。これに対し、八の比禮小刀子の伝承がある布留川上流域には、当該3っの九頭神社が鎮座しており、この地域を介して両者は結びつくわけです。しかも、この3社中、長滝町にある九頭神社は、夜都(留)伎神社の上社とされる「長滝町日の谷の龍王社」が鎮座する「飛び火山」の麓に鎮座しており、山上の社を祀る里の宮だったと思えなくもありません(クズ族には龍神の観念がまとわりついているため、両者は異質な信仰ではないのです)。したがって僕は、この国栖の歌が八の比禮小刀子≠フ祭祀と何か繋がりが在ると思うのです。
 ただし、記紀を真に受けるとクズ族による歌の奏上があったのは、応神天皇の時代ですから5世紀代となり、これに対し夜都伎神社で八の比禮小刀子が祀られていたのは7世紀後半と思われますから時期が合いません。けれど僕は、クズ族と天皇家の付き合いは、記紀にあるとおり神武天皇や応神天皇の頃に開始されたのではなく、実際には天武天皇が彼らを宗教面で重視した7世紀後半がその端緒だったと思うのです。これについては、吉野町南国栖に鎮座している浄見原神社の伝承『国栖の翁』にもとずいて、以前『ほにゃらか掲示板』で論考したことがあります(『 Reクズの語源 参考にならんカネ』H13.07.28、http://www.you-i.org/setoh/log/yak107.htm)。この伝承の内容は記紀に全く見られないものですが、まさに神社の側からの正史に対する異議申し立てであり、実は『神社による古代史』というアイデアもここから思い付いたものです。
 少し補足します。クズ族が布留川上流域で八の比禮小刀子の祭祀を行った理由ですが、『神社による古代史E』等でカキコした鬼門に木気≠ナいうと、彼らには龍の観念がまとわりついており、龍が「木気」の象意であることと関係があると思います。さらに、後述するとおり夜都伎神社には龍神の観念があるのもこうしたことと関係するのではないでしょうか。
 また徹社の祭神について論考した際に、信濃国水内郡の「建御名方富命彦神別神社=水内社」のことを話に出しました。この神社が水内社と呼ばれたのは水内郡の地名によるものでしょうが、しかしまた「蛟ミズチ」と掛詞になっており、このため当社が祈雨神であるとする説もあります。これについては『日本の神々9信濃等』所収の大和岩雄氏『諏訪の神と古代ヤマト王権』P175部分をご参照下さい。蛟は子供の龍や子蛇としてイメージされ、水の霊(チ)とも解される水神です。『名古屋市史』によれば、徹社もまた「水内ミズチ大神とも称」していたとあるため、この社もやはり蛟と関係があるのかもしれません。しかしそうだとすればこのことは夜都伎神社の上社が「長滝町日の谷の龍王社」に比定されることや、『石上振神宮略抄』の夜都伎神社縁起で八つの子蛇≠ェ出てくることを連想させます。また水神といえば、もともと夜都伎神社には水神の神格があったと思われます。本来の式内夜都伎神社は、天理市乙木町にある現夜都伎神社ではなく、竹之内町の十二神社でした。それが江戸期に乙木村が夜都伎神社の社地を竹之内村の溜池と交換した際、十二神社と改称されたのです(なお、現夜都伎神社は交換後、乙木村にもとからあった春日神社を「夜都伎神社」に改称したといわれます)。社地を交換とは驚きですが、交換したものが溜池であったのは、この神社に水神の観念があったことを示唆すると思われます。
 なお、信濃繋がりで押すと諏訪湖畔では、湖を介して諏訪大社と八剣神社と葛井神社が結びついています。各地にある八剣神社という神社は由緒を調べると大体そんなに古くはなくて、ほとんどは戦国期以降に八剣宮を勧請したものですが、諏訪湖畔(ただし、今は遷座して湖畔にはないですが)の八剣神社は例外的に古そうです。他にもいくつか思い付いたことがありますが長くなるのでこの辺で止めます。

☆ ということで、今ひとつ確証が足りないものの、どうも僕は徹社は、八剣宮と夜都伎神社に繋がりがあることの痕跡だという気がしてならないのです。この目立たない境外末社は、遠い昔にはるばる布留川上流域から、夜都伎神社や九頭神社を勧請したものではないかしらん?
 




 

  石上神宮とクズ H13.4.8

 以前、香具さんの調査で石上神宮の東部、布留川上流域に九頭神社が3社鎮座しているというご指摘がありました。それに対し僕は、クズ(国津クニツの転訛でしょうか?)は石フェチだった等の珍説をここにカキコした次第です。けれども、クズと石上神宮の祭祀がどう関係するかは結局、分からずじまい。その後、setohさんから静岡県小笠郡大須賀町にフルとクスの合体神社、古楠神社「布留楠天王」があると親切なメールをもらったこともあり、ずっと気にかかっていたところです。そこでもう一度、これを考えてみます。

 『古事記 上』応神天皇の条で、吉野の国栖(クズ)たちが、オホサザキノ命(即位前の仁徳天皇)の腰につけている大刀を見て次のような歌を歌います。
 「品陀(ホムタ)の 日の御子 大雀(オオサザキ) 大雀 佩(ハ)かせる大刀 本剣 末ふゆ ふゆ木の すからが下樹の さやさや」
 講談社学術文庫版の同書P222の次田真幸先生による現代語訳は次の通りです。
 「ホムタノ(応神天皇)日の御子であるオホサザキノ命の帯びておられる大刀は、本の方は鋭い剣で、末の方には霊威がゆれ動いている。冬の枯木の下に生えた木のように、さやさやと揺れていることよ」
 はっきり言って、これでは意味が分かりません。それは訳者自身も意識しているらしく、注のなかでふゆ≠ェ呪的な観念の濃厚な難解語であるとし、訳出が難しい原因がこの語にあることをそれとなく示唆しています。そこで、ふゆ≠ニこの歌について、もっと説得的な折口信夫の解釈を紹介します(ここで引用した折口論文は全て中公文庫『折口信夫全集 第二十巻 神道宗教篇』に収録されてます。以下、ページ数は同書のそれです。≠ナ表記したのは原著では傍線あるいは傍点となってます)。

 まずふゆ≠フ前にふる≠ゥら。
「昔から鎮魂に二通りの意義がある。遊離したたましい≠しずめる≠ニ言う内存的なるものと、外来魂が来触して密着せるものを身体に固く着けて置くことがそれである。これ(※後者)を古くはたまふり*狽ヘみたまふり≠ニ言った<後略>」『劒と玉と』P232〜233。
「それぞれの威霊をつけることを、古語ではふる≠ニ言った。その魂を身に鎮定せしめる方法をたまふり≠ニ言う。鎮魂の第一義である。」『日本古代の國民思想』P166
 そうして、ふる≠ヘふゆ≠ノ転訛するとしながら以下のように説きます。
「ふる≠ネる語もら″sからや″sへ発音が転じてふゆ≠ニなると共に、意義にも分化を起こして増殖の意味を持つようになった。すなわち、内在魂の分割を意味するようになってきたのである。」『剣と玉と』P231

 続いて、「たまふり≠フ際に用いる道具<中略>には数多くのものが用いられていたものと思う。その中で我々の忘れてならないものは剣である」『同』P233とした上で、この国栖の歌を引き、
「この歌はまず、大雀(オオサザキノ)尊に刀身の幾枝にも岐れたまじっく≠フ剣を捧げ、それに託して国栖族の守霊を附着せしめて奉ると言った意味のものであるらしい。
 剣には石上神社神宝の七枝剣のごとき変形の剣があるが、これは刀身が分かれて七っになっており、それに鞘をはめるようになっている。
 かように大雀尊を祝福せる剣は、七さや≠ナあるか九さや≠ナあるか分からないが、ともかくその歌詞によって、股のあった剣で股になった鞘を有していたに相違ない。そしてこの剣をもって大雀尊を祝福し、大雀尊に剣を佩かせる言義を附けながら鎮魂をおこなったのである。」『同』233〜234としています。
 吉野の国栖がこの歌を天皇に奏上するのは、大和王権に対する服属儀礼なのですが、それについてはここで深入りしません(興味のある方は講談社学術文庫『古事記 中』P223〜224の解説、折口『原始信仰』P208をご参照下さい)。いずれにしても、遅くとも7世紀の後半以前に、吉野の国栖が「七枝剣」のような股になった剣を用いてたまふり≠行ったらしいことがここから伺えます。

 もう一つ付け加えると、石上神宮のある天理市に八剣神社という神社があります(田井庄町西浦)。この神社のご祭神である八剣神について、『石上振神宮略抄』という本に興味深い記事があります。「夜都留伎(ヤツルギ=八剣)の神はヤマタノオロチの変身であり、そのご神体は八っの比礼(ヒレ)がある小刀子である。そのため八剣の神という。神代の昔、出雲のヤマタノオロチは胴体が一つで頭は八つあった。スサノオが剣を抜いて八段に切断したところ、八っの身に八つの頭が取り付き、小蛇となり天に昇って水雷神となり、聚雲の神剣となって、布留川上流の日の谷に降臨して鎮まったのが当社の八剣神だと伝える」というものです。

 以上のうち僕が強調したいのは、@吉野の国栖が、七枝剣のように刀身が股になった剣を用いてたまふり≠行っていたこと、A布留川上流域には九頭神社が3社も鎮座しており(天理市下仁興町垣内、同市苣原町山内、同市長滝町長滝)、上代にクズ民族のコロニーがあったと推定されること、B八剣神の降臨した日の谷も布留川の上流域であり、しかもそのご神体は八つの比礼のある小刀子≠ナ、刀身が股になったフォルムをしていたらしいこと。したがって吉野の国栖が奉斎していたような形をした剣であること、C八剣神は水雷神であり、祈雨神である九頭神社と類縁性を感じること、D刀身が股になった剣として七枝剣が実際に石上神宮に伝世していること、等です。
 さらに補足すれば、石上神宮では古来、布留川上流域を聖域として観念していました。古代の布留郷の範囲も考えあわせると、3っの九頭神社のある布留川上流の全域が、古代において石上神宮の神域だったのではないでしょうか。この地域に鎮座している神社のうち、古いものは、石上神宮と祭祀面で連続性を感じさせることが多いからです。

 ここからどういう結論を導くかはまだ整理が必要でしょうけど、僕は奈良県東南部の山地に多いクズ神社(九頭神社、九頭竜神社、国樔神社等)を奉斎していたのは、大和王権からクズと呼ばれていた人々であり、クズは何も吉野の国栖の専売特許ではなく、もっと勢力に広がりがあってクズ神社はその痕跡と考えています。したがって以上の@〜Dから少なくとも刀身が股になった剣によるたまふり≠介して石上神宮の祭祀にクズ民族の人たちが関与していた可能性が高いと思うのです。

 ところで、石上神宮の第二相殿のご祭神である布留御魂(フルノミタマ)は現在、大阪の神社にあって、石上神宮が返還を請求しているという話をこのホームページのどこかで読んだ気がするのですが、setohさんご存じでしたら神社の名前等を教えて下さい。

Setoh  >kokoroさん 布留御魂(フルノミタマ)は現在、大阪の神社
 十種神宝ですね。楯原神社です。


[227] Re[216]:   クズの語源 参考にならんカネ     kokoro [Mail] 2001/07/28(Sat) 02:36 [Reply]
 紋次郎さん、アマカネ! 暑中お見舞い申し上げます。旅行・出張ですっかり遅くなってしまいましたが、7月16日の『クズの語源 参考にならんカネ』へのレスポンスです。

> クズ(どんな字だったか忘れました)は宮廷の楽士を勤めていたという記録があるのでしょうか?いや、風説でもいいのですがネパール語 KUSLE は楽士です。末尾の LE には馴染みがありません。LI(人)の変化態とみていいでしょう。

 『国栖の翁』という伝承をご紹介します。
「昔、大海皇子が吉野山におられると、ミルメ・カクハナなどが、不意に山を襲うた。皇子は敏くそれを察し、夜中に山を落ちて、国樔の川辺をさまよっておられた。敵はたちまちその後を追って、皇子に迫った。
 川には橋も舟もなかった。皇子は進退きわまった。ちょうどその時、ひとりの漁翁が川舟に乗って現れた。皇子は急に言葉をかけて、漁翁に頼まれた。漁翁はうなずいて、とっさにその舟を河原に伏せて、皇子をおおい、船底にはぬれ着物を引っ張っておいた。
 やがて敵がかけつけて、翁に皇子のゆくえをなじった。そこへまた付近の犬が一匹出てきて、鼻をクンクンといわせながら、しきりに舟のまわりをかぎ始めた。これではならぬと思って、翁は相手の大将ミルメ・カクハナのすきをねらって、一撃にこれを打ち倒した。
 手下どもは、この勢いに恐れて散り散りバラバラに逃げうせた。
 こうして、翁は皇子の危難を救い、付近の和田の岩屋に案内して、粟飯にウグイの魚をそえてさしあげた。すると、皇子はウグイの片側だけを召し上がり、残りの片側を水中に投じて、いくさの勝敗を占われた。魚は勢いよく活きて水中をはねまわり、皇子の戦勝を予示した。
 皇子は大いに喜び、一首の歌をよまれた。
    世にいでば腹赤ハラカの魚の片割れも
      くずの翁がふちにすむ月
 腹赤の魚とはウグイのことである。この魚は、産卵期になると、腹が赤くなるからということである。
 皇子は、他日帝位についたら、これをシルシに持って参上せよと仰られて、錦旗と鼓胴とを翁に賜わった。それで翁は、その後大和浄見が原の宮に参上し、勅によって歌曲を奏し、桐竹鳳凰の装束と御製とを賜った。
 その御製に、
    鈴の音に白木の笛の音するは
      国栖の翁がまいるものかは
 その後、恒例として代々参内しては歌曲を奏していたが、いつとはなしにそのことが絶えた。翁の子孫はこの典礼の湮滅することを憂えて、寿永四年(※ただし、寿永は1182〜84年まで)正月、新たに地を占って社を営み、天武天皇を祭り、毎年正月十四日、古曲を奏して現今におよんでいるという(高田十郎氏他編『大和の伝説』)」

 これをみるとクズの人たちが歌曲をよくしたことが伝わってきます。また、新たに地を占って社を営み、天武天皇を祭≠チたというのは、おそらく吉野町南国栖にある浄見原神社のことと思われます。当社の由緒も紹介します。
「南国栖、吉野川の右岸断崖上に鎮座する旧村社で、天淳中原瀛真人天皇(天武天皇)を祀る。毎年旧正月十四日伝国栖翁の末裔の人々によって国栖奏が奉納される。国栖奏とは石押分の末孫の翁筋の人々が朝廷の大儀に御贄を献じ、歌笛を宮中の儀鸞門外で奏した故事に則ったもので、舞翁二人、笛翁四人、鼓翁一人、謡翁五人の計一二人で奏上する。当日の神セン(←センは食<wンに巽≠ニいう漢字ですが、出ません)は腹赤の魚(うぐい)、醴酒(一夜酒)、土毛(土地の特産物としての根芹、山菓(木の実)・栗・かしの実)、毛瀰(かえる)である。
 岸壁に建つ神殿は、神明造一間社。石灯籠のうち享保五年(一七二〇)の刻銘のものが古い。国栖奏の第四歌に
かしのふに、よくすをつくり、よくすにかめる、おほきみ、うまらに、きこしもちをせ、まろがち
と歌う(『奈良県史5神社』P626より)」

 また、関連がみとめられる、吉野町窪垣内の御霊神社の由緒も紹介します。
「窪垣内集落の東端の高地に鎮座する旧無格社で、国栖翁の祖、権正政国を祀る(『吉野郡史料』)という。明治の明細帳には祭神不詳とある。この地方では国栖奏発祥の古跡と伝えている(『奈良県史5神社』P625より)」

 ところで、この伝承は、吉野の国栖について非常に示唆的であると思われます。ミルメ・カクハナが登場する前段は、いうまでもなく、壬申の乱前夜の政治状況を背景にしているとみてよいでしょう。そしてその場合、その内容を真に受けたとすれば、挙兵までの一時期、吉野宮で生活していた大海人皇子が、吉野の国栖の援助と保護を受けていたことを示唆すると思われます。あるいは、そもそもが大海人皇子が吉野宮に入られたのも、彼らを頼ってのことだったかも知れません。
 『日本書紀』天智天皇十年十二月三日の天皇崩御の記事の中で、殯モガリに際して流行した童謡ワザウタが3っ紹介され、その1つは次のようなものです。

  赤駒アカゴマノ、行憚イユキハバカル、真葛原マクズハラ、何伝言ナニノツテコト、直吉タダニシエケム
【訳】赤駒が行きなやむ葛の原、そのようにまだるこい伝言などなされずに、直接におっしゃればよいのに。

 以上の訓み下しと現代語訳は宇治谷孟氏訳の『日本書紀(下)』P241によりますが、同書は訳注で、この歌について「近江方と吉野方の直接の交渉をすすめるものか」としています。とすればあるいは赤駒が行きなやむ葛の原≠フ葛≠ヘ、大海人皇子周辺にいた吉野の国栖勢力のことを揶揄する懸け言葉になっているのかもしれません。
 また、『古事記』の応神条で吉野の国栖が、大雀オホサザキノ命(即位前の仁徳天皇)に、紋次郎さんが懸け言葉が多いとして注目された先がササけた剣を褒める♂フを奏上していますが、折口信夫はこの奏上について、大嘗祭における、吉野の国栖の服属儀礼だったとする興味深い説を述べています(『原始信仰』等)。この説はなかなかに説得的な感じがするのですが、とすれば恒例として代々参内しては歌曲を奏していた≠ニいうのは、単なる宮廷儀礼に際してだけではなく、代々天皇の大嘗祭においても行われた可能性があります。そしてその場合、『国栖の翁』の伝承によれば、この慣例は天武天皇の御代から始まったことになります。
 さて、記紀では、この応神条の国栖の歌と東征の途次、神武天皇が吉野の国栖の祖、石押分之子に出会う話が吉野の国栖の記事の全てだと思いますが、これらを真に受けると、天皇家と吉野の国栖の交流は、弥生時代終末期に開始され、古墳時代中期も盛んであったことになります。しかしむしろ『国栖の翁』の伝承の方がより真実を伝えていて、吉野の国栖と天皇家との交流は、大海人皇子が吉野宮に居たときに始まる、と考えた方が自然ではないでしょうか。
 『古事記』応神条にある国栖の歌の記事は、前後の文脈と関連があまりなくて、何か唐突な感じがします。また、神武天皇が石押分之子に出会う記事も、『古事記』の場合はともかく、『日本書紀』の場合は東征のさなかに、わざわざルートから外れた吉野に天皇が物見遊山で出かけて行ったように書かれていて、やはり違和感があります。『日本書紀』のこの説話は、どうも吉野の国栖や井光のことを話に出したいために、強引に東征の話に挿入されたと考えると実に納得できます。こうしたことから、記紀の神武条や応神条にある吉野の国栖の記事は、逆境で雌伏していた時期の大海人皇子を支えた吉野の国栖を、記紀編纂の際、天皇家がその功績を認め、彼らの由緒を深めるために作られたのではなかったでしょうか。
 また、逆の見方をすると、吉野や宇陀地方に入ってからの神武東征の記事には、壬申の乱における大海人皇子の行程の記憶がかなり混入しているのかもしれません。もっとも、これは先人の誰かがすでに言い出していることかもしれませんが。






神奈備にようこそ