八 劍 宮 編
@ 「八剣宮という神社」 h13.9.4 今日から新学期!! 夏休みの自由研究の提出があります。僕の課題は「神社による古代史」。 熱田神宮の一の鳥居 熱田神宮 「別宮八劍宮
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A 「八剣宮奇聞より」 H13.9.8 熱田神宮別宮八剣宮 9月4日の『神社による古代史@』の続きです。
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B 「神剣の二重化など」 H13.9.13 理不尽な事件は衝撃的でした。我が国の経済に与える悪影響等、不安要因を数えだしたらきりがないでしょうが、今のところは、発表される犠牲者の数ができるだけ増えないことを祈ります。
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C 「石上振神宮略抄より」 H13.9.17 9月13日の『神社による古代史B』の続きです。 石上神宮境内の出雲建雄神社 香具さん 大国見山頂の八っの霊石 乙木町の夜都伎神社
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D 『道場法師と二つの元興寺』 H13.9.27 9月17日の『神社による古代史C』の続きです。
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E 『飛鳥の鬼門鎮護の神』 H13.10.16 9月27日の『神社による古代史D』の続きです。
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F 『イメージとしての出雲』 2001/12/29(Sat) 大分間があきましたが、10月16日の『神社による古代史E』の続きです。
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番外編 『インテルメッチョ♪ 国栖の歌』 H13/11/14 熱田神宮境内の佐久間灯籠のある場所からやや南に、徹社トオスノヤシロという奇妙な名の社が鎮座しています。現在では木立の中にあまりにもひっそりとたたずみ、「あつたさん」の参拝客は足も止めずに前を通り過ぎるだけですが、場所から言って神宮の末社と紛らわしいこの社は、実は八剣宮の末社なのです。と・お・す・の・や・し・ろ=Aしかしそれは、刀子のやしろ≠ナはなかったでしょうか。そして、とすればこの社は、『石上振神宮略抄』に「夜都留伎の神は八伎大蛇の変身にて神躰は八の比禮小刀子なり」とある八の比禮小刀子≠ニ何か関係があるように思われてなりません。
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石上神宮とクズ H13.4.8 以前、香具さんの調査で石上神宮の東部、布留川上流域に九頭神社が3社鎮座しているというご指摘がありました。それに対し僕は、クズ(国津クニツの転訛でしょうか?)は石フェチだった等の珍説をここにカキコした次第です。けれども、クズと石上神宮の祭祀がどう関係するかは結局、分からずじまい。その後、setohさんから静岡県小笠郡大須賀町にフルとクスの合体神社、古楠神社「布留楠天王」があると親切なメールをもらったこともあり、ずっと気にかかっていたところです。そこでもう一度、これを考えてみます。
『古事記 上』応神天皇の条で、吉野の国栖(クズ)たちが、オホサザキノ命(即位前の仁徳天皇)の腰につけている大刀を見て次のような歌を歌います。
まずふゆ≠フ前にふる≠ゥら。
続いて、「たまふり≠フ際に用いる道具<中略>には数多くのものが用いられていたものと思う。その中で我々の忘れてならないものは剣である」『同』P233とした上で、この国栖の歌を引き、
もう一つ付け加えると、石上神宮のある天理市に八剣神社という神社があります(田井庄町西浦)。この神社のご祭神である八剣神について、『石上振神宮略抄』という本に興味深い記事があります。「夜都留伎(ヤツルギ=八剣)の神はヤマタノオロチの変身であり、そのご神体は八っの比礼(ヒレ)がある小刀子である。そのため八剣の神という。神代の昔、出雲のヤマタノオロチは胴体が一つで頭は八つあった。スサノオが剣を抜いて八段に切断したところ、八っの身に八つの頭が取り付き、小蛇となり天に昇って水雷神となり、聚雲の神剣となって、布留川上流の日の谷に降臨して鎮まったのが当社の八剣神だと伝える」というものです。
以上のうち僕が強調したいのは、@吉野の国栖が、七枝剣のように刀身が股になった剣を用いてたまふり≠行っていたこと、A布留川上流域には九頭神社が3社も鎮座しており(天理市下仁興町垣内、同市苣原町山内、同市長滝町長滝)、上代にクズ民族のコロニーがあったと推定されること、B八剣神の降臨した日の谷も布留川の上流域であり、しかもそのご神体は八つの比礼のある小刀子≠ナ、刀身が股になったフォルムをしていたらしいこと。したがって吉野の国栖が奉斎していたような形をした剣であること、C八剣神は水雷神であり、祈雨神である九頭神社と類縁性を感じること、D刀身が股になった剣として七枝剣が実際に石上神宮に伝世していること、等です。
ここからどういう結論を導くかはまだ整理が必要でしょうけど、僕は奈良県東南部の山地に多いクズ神社(九頭神社、九頭竜神社、国樔神社等)を奉斎していたのは、大和王権からクズと呼ばれていた人々であり、クズは何も吉野の国栖の専売特許ではなく、もっと勢力に広がりがあってクズ神社はその痕跡と考えています。したがって以上の@〜Dから少なくとも刀身が股になった剣によるたまふり≠介して石上神宮の祭祀にクズ民族の人たちが関与していた可能性が高いと思うのです。
ところで、石上神宮の第二相殿のご祭神である布留御魂(フルノミタマ)は現在、大阪の神社にあって、石上神宮が返還を請求しているという話をこのホームページのどこかで読んだ気がするのですが、setohさんご存じでしたら神社の名前等を教えて下さい。
Setoh >kokoroさん 布留御魂(フルノミタマ)は現在、大阪の神社
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[227] Re[216]: クズの語源 参考にならんカネ kokoro [Mail] | 2001/07/28(Sat) 02:36 [Reply] |
紋次郎さん、アマカネ!
暑中お見舞い申し上げます。旅行・出張ですっかり遅くなってしまいましたが、7月16日の『クズの語源 参考にならんカネ』へのレスポンスです。 > クズ(どんな字だったか忘れました)は宮廷の楽士を勤めていたという記録があるのでしょうか?いや、風説でもいいのですがネパール語 KUSLE は楽士です。末尾の LE には馴染みがありません。LI(人)の変化態とみていいでしょう。 『国栖の翁』という伝承をご紹介します。 「昔、大海皇子が吉野山におられると、ミルメ・カクハナなどが、不意に山を襲うた。皇子は敏くそれを察し、夜中に山を落ちて、国樔の川辺をさまよっておられた。敵はたちまちその後を追って、皇子に迫った。 川には橋も舟もなかった。皇子は進退きわまった。ちょうどその時、ひとりの漁翁が川舟に乗って現れた。皇子は急に言葉をかけて、漁翁に頼まれた。漁翁はうなずいて、とっさにその舟を河原に伏せて、皇子をおおい、船底にはぬれ着物を引っ張っておいた。 やがて敵がかけつけて、翁に皇子のゆくえをなじった。そこへまた付近の犬が一匹出てきて、鼻をクンクンといわせながら、しきりに舟のまわりをかぎ始めた。これではならぬと思って、翁は相手の大将ミルメ・カクハナのすきをねらって、一撃にこれを打ち倒した。 手下どもは、この勢いに恐れて散り散りバラバラに逃げうせた。 こうして、翁は皇子の危難を救い、付近の和田の岩屋に案内して、粟飯にウグイの魚をそえてさしあげた。すると、皇子はウグイの片側だけを召し上がり、残りの片側を水中に投じて、いくさの勝敗を占われた。魚は勢いよく活きて水中をはねまわり、皇子の戦勝を予示した。 皇子は大いに喜び、一首の歌をよまれた。 世にいでば腹赤ハラカの魚の片割れも くずの翁がふちにすむ月 腹赤の魚とはウグイのことである。この魚は、産卵期になると、腹が赤くなるからということである。 皇子は、他日帝位についたら、これをシルシに持って参上せよと仰られて、錦旗と鼓胴とを翁に賜わった。それで翁は、その後大和浄見が原の宮に参上し、勅によって歌曲を奏し、桐竹鳳凰の装束と御製とを賜った。 その御製に、 鈴の音に白木の笛の音するは 国栖の翁がまいるものかは その後、恒例として代々参内しては歌曲を奏していたが、いつとはなしにそのことが絶えた。翁の子孫はこの典礼の湮滅することを憂えて、寿永四年(※ただし、寿永は1182〜84年まで)正月、新たに地を占って社を営み、天武天皇を祭り、毎年正月十四日、古曲を奏して現今におよんでいるという(高田十郎氏他編『大和の伝説』)」 これをみるとクズの人たちが歌曲をよくしたことが伝わってきます。また、新たに地を占って社を営み、天武天皇を祭≠チたというのは、おそらく吉野町南国栖にある浄見原神社のことと思われます。当社の由緒も紹介します。 「南国栖、吉野川の右岸断崖上に鎮座する旧村社で、天淳中原瀛真人天皇(天武天皇)を祀る。毎年旧正月十四日伝国栖翁の末裔の人々によって国栖奏が奉納される。国栖奏とは石押分の末孫の翁筋の人々が朝廷の大儀に御贄を献じ、歌笛を宮中の儀鸞門外で奏した故事に則ったもので、舞翁二人、笛翁四人、鼓翁一人、謡翁五人の計一二人で奏上する。当日の神セン(←センは食<wンに巽≠ニいう漢字ですが、出ません)は腹赤の魚(うぐい)、醴酒(一夜酒)、土毛(土地の特産物としての根芹、山菓(木の実)・栗・かしの実)、毛瀰(かえる)である。 岸壁に建つ神殿は、神明造一間社。石灯籠のうち享保五年(一七二〇)の刻銘のものが古い。国栖奏の第四歌に かしのふに、よくすをつくり、よくすにかめる、おほきみ、うまらに、きこしもちをせ、まろがち と歌う(『奈良県史5神社』P626より)」 また、関連がみとめられる、吉野町窪垣内の御霊神社の由緒も紹介します。 「窪垣内集落の東端の高地に鎮座する旧無格社で、国栖翁の祖、権正政国を祀る(『吉野郡史料』)という。明治の明細帳には祭神不詳とある。この地方では国栖奏発祥の古跡と伝えている(『奈良県史5神社』P625より)」 ところで、この伝承は、吉野の国栖について非常に示唆的であると思われます。ミルメ・カクハナが登場する前段は、いうまでもなく、壬申の乱前夜の政治状況を背景にしているとみてよいでしょう。そしてその場合、その内容を真に受けたとすれば、挙兵までの一時期、吉野宮で生活していた大海人皇子が、吉野の国栖の援助と保護を受けていたことを示唆すると思われます。あるいは、そもそもが大海人皇子が吉野宮に入られたのも、彼らを頼ってのことだったかも知れません。 『日本書紀』天智天皇十年十二月三日の天皇崩御の記事の中で、殯モガリに際して流行した童謡ワザウタが3っ紹介され、その1つは次のようなものです。 赤駒アカゴマノ、行憚イユキハバカル、真葛原マクズハラ、何伝言ナニノツテコト、直吉タダニシエケム 【訳】赤駒が行きなやむ葛の原、そのようにまだるこい伝言などなされずに、直接におっしゃればよいのに。 以上の訓み下しと現代語訳は宇治谷孟氏訳の『日本書紀(下)』P241によりますが、同書は訳注で、この歌について「近江方と吉野方の直接の交渉をすすめるものか」としています。とすればあるいは赤駒が行きなやむ葛の原≠フ葛≠ヘ、大海人皇子周辺にいた吉野の国栖勢力のことを揶揄する懸け言葉になっているのかもしれません。 また、『古事記』の応神条で吉野の国栖が、大雀オホサザキノ命(即位前の仁徳天皇)に、紋次郎さんが懸け言葉が多いとして注目された先がササけた剣を褒める♂フを奏上していますが、折口信夫はこの奏上について、大嘗祭における、吉野の国栖の服属儀礼だったとする興味深い説を述べています(『原始信仰』等)。この説はなかなかに説得的な感じがするのですが、とすれば恒例として代々参内しては歌曲を奏していた≠ニいうのは、単なる宮廷儀礼に際してだけではなく、代々天皇の大嘗祭においても行われた可能性があります。そしてその場合、『国栖の翁』の伝承によれば、この慣例は天武天皇の御代から始まったことになります。 さて、記紀では、この応神条の国栖の歌と東征の途次、神武天皇が吉野の国栖の祖、石押分之子に出会う話が吉野の国栖の記事の全てだと思いますが、これらを真に受けると、天皇家と吉野の国栖の交流は、弥生時代終末期に開始され、古墳時代中期も盛んであったことになります。しかしむしろ『国栖の翁』の伝承の方がより真実を伝えていて、吉野の国栖と天皇家との交流は、大海人皇子が吉野宮に居たときに始まる、と考えた方が自然ではないでしょうか。 『古事記』応神条にある国栖の歌の記事は、前後の文脈と関連があまりなくて、何か唐突な感じがします。また、神武天皇が石押分之子に出会う記事も、『古事記』の場合はともかく、『日本書紀』の場合は東征のさなかに、わざわざルートから外れた吉野に天皇が物見遊山で出かけて行ったように書かれていて、やはり違和感があります。『日本書紀』のこの説話は、どうも吉野の国栖や井光のことを話に出したいために、強引に東征の話に挿入されたと考えると実に納得できます。こうしたことから、記紀の神武条や応神条にある吉野の国栖の記事は、逆境で雌伏していた時期の大海人皇子を支えた吉野の国栖を、記紀編纂の際、天皇家がその功績を認め、彼らの由緒を深めるために作られたのではなかったでしょうか。 また、逆の見方をすると、吉野や宇陀地方に入ってからの神武東征の記事には、壬申の乱における大海人皇子の行程の記憶がかなり混入しているのかもしれません。もっとも、これは先人の誰かがすでに言い出していることかもしれませんが。 |