青草掲示板ログ
2002.7
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草掲示板

[205] Re:神奈備[3191] 疋野神社と波比岐神2 吉備の逆・疋は肥国と紀国か  神奈備 2002/07/27(Sat) 21:22 [Reply]
肥国の国造さん
『肥前国風土記』藤津の郡 能美の郷(藤津郡は有明海の西側)
(景行天皇)が行幸された時、その里に土蜘蛛が三人(兄は大白、次は中白、弟は少白)いた。堡(砦)を作って隠れていて、降伏しなかった。その時、紀直の祖穉日子を派遣した。云々とあります。
穉日子については、大名草彦命の児若彦命を藤津国造に定めたと『国造本紀』にあります。若日古は熊本県で22社の祭神となっており、後は福岡件で一社のみの祭神です。
なぜ、肥国に紀直の祖を派遣し、国造として祀られたのでしょうか。肥前国に基肄郡があり、紀氏の東遷以前の九州での拠点だったのかも。

石棺の石材
紀の国の代表的な古墳に大谷古墳があります。ここに使われている石棺は阿蘇山の石で菊池川下流域で加工されたことが判っているようです。紀の国以外でも、河内、讃岐、吉備、山城などで出土しており、いずれも紀氏の水運の拠点とされる所です。
石棺は何故阿蘇山石材が使われたのかですが、加工しやすくビジネスとして成り立っていたのか、生まれ故郷の石材の石棺が望まれたのか、どちらにしても紀氏の水運の術力があってのことでしょう。

五十猛の子孫
宇佐神宮にかかわる「辛嶋勝姓系図」によりますと、五十猛命の子孫は南九州に展開してます。

肥君猪手
大宝二年(702年)筑前国嶋郡大領に肥君猪手の名が見えます。『青銅の紙の足跡』で谷川健一氏はその名前は五十迹手を思わせると指摘されており、
、五十迹手はまた伊達や五十猛命へと連想が進みます。肥君が筑前へ、これは南九州の勢力が北九州に進出した残像ではないかなとも思えます。
狗奴国の邪馬台国征服かも。

仲哀天皇の軍は熊襲軍に敗れています。神功皇后はそのまま半島へ行ってから畿内へ攻め込んでいますが、熊襲の勢力は黙っていたはずがありません。神功皇后は傀儡として、東征した勢力の主力は熊襲のはず、武内宿禰一統の主勢力は紀氏も含めてルーツは熊襲の地、かっての狗奴国だったとみることができそうですね。

[204]   へびを整理する      焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2002/07/25(Thu) 11:20 [Reply]
 √♪ 小林で われと八重ごと せしひとの ………返歌(へんか?)

★ JAE はネパール語に「バンザイ」となって残っています。
  サンカの伝統的解釈ではヤエガキとは憲法です。いい垣根?
  山本多助エカシから聞いたおぼろな記憶ですが、アイヌ語に「yae=良
  い」があったような‥‥。ヘブライ語にあることはタシカ。
  ヤエはエデン語といえる。

 ミナシャンちょとゴブシャタちたネ。斯くも「へび」だらけじゃ、ひとこと
申しあげずんばと、這いだしてちたヨ。

 へびがさかんになり始めたとき『ユー・アイ掲示板 2 言語篇 』
 http://www.you-i.org/treebbs/0/index.html 78、80話でも少し
書きましたのでご参考にしていただければ幸甚です。

★ 三輪‥‥MI(へび)WA(窪・一帯)
★ ミハ‥‥形容詞後置形でHA(XAM)MI(神)
★ 大物……MOR(タジク語;へび)NO(ひと・神)
★ カモ……XAM(へび) O(神)

☆ コトシロ;バスク語に KONZ(事)があるので、“事”はメチャ古い。
シロは「シロシメス(統御)」からだが、その「シロシメス」も*SIR
  (頭)*ZIRI(長老、叡智) + AU(なる) + SU(する)の合成語。

[203] ミハツカモ  神奈備 2002/07/25(Thu) 09:09 [Reply]
> 「八重事代主」は、しばしば「カモツミハ八重事代主」にも作られます。
> 頭に付く「カモツミハ」の「ミハ」は、やはり「三輪」(美和)でしょう。

「カモツミハ大物主」ではなく、「カモツミハ八重事代主」と来ていますから、事代主と大物主とは違うと意識されていた神様と素直に考えておきます。

大和平野でも金剛葛城二上山矢田丘陵などの西側からですと、三輪山の存在感は希薄ですが、二上山から葛城山系はその形から大和平野東側からでもクッキリと見えます。二上山や葛城の神々の方が磯城の神々より先に大和国中へ広がった神々ではなかろうか、とすら思ってしまいます。それがミハツカモではなくカモツミハとなったとか。

 事代主神と言う名前も固有名詞とは思えませんが、後に王権によって斎祀られた大物主神の覡(男の巫女)と位置つけられたのでしょうが、元々事代主神はどちらかと言うと葛城・鴨寄りの西側に拠点を置く神のようです。式内社所在地も高市御縣坐鴨事代主神社(橿原市雲梯町),鴨都波八重事代主命神社(御所市)です。

 【初代の皇后の父親は?】
 謡歌一首  小林に 我を引入て せし人の 面も知らず 家も知らず

[202] Re[198]: 初代の皇后の父親は?  ZOU 2002/07/25(Thu) 01:49 [Reply]
> #(ちなみにΖOUさんは、初代の皇后の父親はだれだとお考えですか?)

記紀に登場しない人物かもしれないので、正直な所はあまり重くは考えていないんですが(;^_^A
もちろん饒速日が父親候補の一人であって良いと思いますが、寝返ったともいうべき同様な立場では、弟ウカシや弟シキも父親候補に上がって良いんじゃないでしょうか。
土豪の姫を娶るという意味では外来の饒速日よりも土着歴は長そうですし、「タタラ姫」なのですから、タタラ製鉄をやってそうなオジサンから選ぶのも一案かと・・・青草ですねえ(^_^;)

[201] 「事代」と「琴平」  hvhy 2002/07/24(Wed) 11:06 [Reply]
>事代主と大物主は、オオナムチの系統で、特徴的な「主」の文字のために、
>混同されることは、ありえそうですが。(青草として)

これぞ青草?という話をさせて頂きますと、
東京方面では「ヒ」と「シ」が引っくり返る。
「事代主」〜「コトヒロ」〜「琴平」(金比羅)
てなことを念頭に置いて、いわゆる明治の段階で、
讃岐の「金比羅神社」の祭神を「大物主神」にした?

#こういうのは「青草」でしょうけど、
#「初代皇后の父親」を問題にするのは、
#それほど「青草」でもないと思いますよ。

[200] 「なんとかかんとか八重事代主」  hvhy 2002/07/24(Wed) 10:51 [Reply]
ちょっと神話のストーリーのほうからも追いかけてみますね。(※古事記に準拠)
いわゆる国譲りまでの流れを見ると、最初に「大国主」がいて、
そこへ「少名毘古那」が来る。この二柱が並んで国を作り堅める。
「少名毘古那」は「常世国」に渡ってしまう。まるで代役のように、
「海を光して依り来る神」があった。これは「御諸山の上に坐す神」。
書紀(の一書)は「大三輪の神」と記す。要するに「大物主」ですよね。

こうなってますから、どこの国かは知りませんが、以降この国は、
「大国主」と「大物主」が並んで統治する状態になったと思われる。
ところが一方、国譲りの段階で、この国を統治する立場にあったのは、
「大国主」の他には「八重事代主」と「建御名方」。そんな雰囲気です。

あれれ、「大三輪の神」(美和の大物主)は、どこへ行ったんですか。
「八重事代主」は、しばしば「カモツミハ八重事代主」にも作られます。
頭に付く「カモツミハ」の「ミハ」は、やはり「三輪」(美和)でしょう。
「甘茂君」(鴨君)と「大三輪君」(神君)は同族。このことも踏まえれば、
「カモツミハ八重事代主」にも作られることは無視できません。どうですかね?

#もちろん「八重事代主」も「建御名方」も「我が子」と書かれており、
#ここで言う「我が」は「大国主」だから、「海を光して依り来る神」が、
#実は「大国主」の子供だった!なんてことは、まったく理屈に合いません。
#理屈に合いませんが、理屈に合わない展開そのものは、神話の常態でしょう。

[199] Re[198]: 初代の皇后の父親は?  玄松子 2002/07/24(Wed) 10:42 [Reply]
#書紀と古事記では、主張が違うのだ。そう捉えることもできます。
> #が、本当にそうなんでしょうか。考える余地は十二分にあるのでは?

結局、「事代主」=「大物主」と言っているのでしょうか。
でなければ、「大物主」=「饒速日」への説明の長い道程の一歩を踏み出せない。

事代主と大物主は、オオナムチの系統で、特徴的な「主」の文字のために、混同されることは、ありえそうですが。(青草として)

ちなみに、出雲神話は、
タケミカヅチ VS タケミナカタ、
フツ主 VS コトシロ主
という、2つの抗争劇の集約と見ると小説が書けそうです。


たとえ青草であっても、「選択的仮定」と「意図的選択」を繰り返し、
ひねり出した結果を「断定」するという方法は、
そろそろ修正されるべきではないでしょうか。

[198] 初代の皇后の父親は?  hvhy 2002/07/24(Wed) 10:04 [Reply]
>記紀神統譜や出雲国造神賀詞で別神とされている「事代主」と「大物主」を、
>わざわざ同一神と考えるのは無理があるのではないでしょうか。

残っている各種の資料を総合的に見れば、「事代主」と「大物主」が同体などという話は、
なかなか認められるものではありませんよね。その点に関して私も同じ感想を持っています。
ただ特定の記事に注目した時に、どうしてそのような記事があるのか?という問題が残ります。

例えば古事記の「熊野久須毘」に対し、書紀には異伝がたくさん載っていて、
そのなかに「熊野大角」という名前が出てきます。この異伝があることにより、
「熊野久須毘」が中国で「大角」と書かれる星を言っているという点が判明する。
これは単にひとつの例ですけど、わざわざ書紀が異伝を載せる意図はあるはずです。

>(前略)此、大三輪の神なり。此の神の子は、即ち甘茂君等、大三輪君等、又姫踏鞴五十鈴姫命なり。
>又曰はく、事代主神、八尋熊鰐に化為りて、三嶋の溝杙姫、或は云はく、玉櫛姫といふ、に通ひたまふ。
>而して兒姫踏鞴五十鈴姫命を生みたまふ。是を神日本磐余彦火火出見天皇の后とす。

他の諸々のことを忘れて、この部分だけ読んでみれば、
やはり「大三輪の神」と「事代主」の異同が問題になる。
「問題にならない」などという話はさすがにないはずです。
この問題を重く見るか軽く見るか、は論者によると思います。
周知のことですが、書紀は正伝でも次のように記しております。

>時に、人有りて奏して曰はく、「事代主神、三嶋溝厥耳神の女、玉櫛媛に共して
>生める兒を、號けて媛踏鞴五十鈴媛命と曰す。是、国色秀れたる者なり」とまうす。

繰り返しになりますが、この日本書紀の正伝に対して、古事記の場合には、
「美和の大物主」が「三嶋湟昨の女」であるところの「勢夜陀多羅比売」を
娶って「比売多多良伊須気余理比売」(書紀の「姫踏鞴五十鈴姫」)を設ける。
「初代の皇后のお父さんがだれであるのか?」という極めて重要な箇所において、
まったく食い違うことを書紀と古事記が書いている。これはどういうことでしょう。

#書紀と古事記では、主張が違うのだ。そう捉えることもできます。
#が、本当にそうなんでしょうか。考える余地は十二分にあるのでは?
#(ちなみにΖOUさんは、初代の皇后の父親はだれだとお考えですか?)

[197] Re[194]: 「櫛玉」の夫妻  ZOU 2002/07/24(Wed) 01:05 [Reply]
>つまり「大物主」と「玉櫛姫」は夫妻ということになる

記紀神統譜や出雲国造神賀詞で別神とされている「事代主」と「大物主」を、、わざわざ同一神と考えるのは無理があるのではないでしょうか。「大物主」と「玉櫛姫」は夫妻ということにならないでしょう。

>夫にも「櫛」「玉」が含まれ、妻にも「櫛」「玉」が含まれるようなカップル。

事代主が「天事代虚事代玉籤入彦厳之事代神」とすれば、「タマクシイリ彦/タマクシ姫」の夫妻ということならば理解できます。でもこれは「櫛玉彦/櫛玉姫」の夫妻とは関係ありませんよねえ。「事代主」が物部の祖神というのは、もひとつ納得しづらいです(^_^;)

ということで、「櫛玉」と「櫛甕玉」はあまり近くないかも・・・

[196] Re[195]: 「櫛玉」の夫妻  玄松子 2002/07/23(Tue) 21:10 [Reply]
> 書紀は「三嶋溝杙姫」に関し「或云、玉櫛姫」と加えています。
この記述は、
> 書紀は「事代主」と「三嶋溝杙姫」の間の子を「五十鈴姫」とする。
の部分にあります。すると、事代主=玉櫛彦と考えられ、
結果的に、「事代主」=「饒速日」となってしまいますが、
それは、導き出したい解ではないので・・・
ということでしょうかねぇ。

[195] Re[194]: 「櫛玉」の夫妻  神奈備 2002/07/23(Tue) 12:51 [Reply]
奇魂に玉串を捧げる。

>「三嶋溝杙姫」に関し「或云、玉櫛姫」
>「櫛玉彦/櫛玉姫」は、やはりこの「櫛甕玉/玉櫛姫」
面白いご意見です。

長髄彦の父親が三嶋湟咋と言うことになりますね。蛇神崇拝銅鐸祭祀と言う共通点はありそうです。
長髄彦の本拠地は『天孫本紀』中洲豪雄長髄彦の中洲は奈良市大倭町で大倭教があり、直系が居るとのことを聞いたことがあります。青草的眉唾かも。
これが摂津の三島にどうつながるのか、鴨と銅鐸の線で追ってみる要ありです。

大和では「櫛玉」と来れば、饒速日尊を考えるべき、とは物部系神職数人の意見ですが、あくまでも大和の話、
他国のことはわかりません。河内では饒速日尊を祀る神社は住吉神社へ変わったりしています。

和泉国日置(へき)部 天櫛玉命の男、天櫛耳命の後。別に和泉国神別に長公(ナガノキミ)があり、近い存在だったかも。


[194] 「櫛玉」の夫妻  hvhy 2002/07/22(Mon) 22:33 [Reply]
たしか四国の愛媛だったと思いますが、
「櫛玉彦」と「櫛玉姫」が夫妻のように
祀られてるところがあったと記憶してます。

>(前略)大三輪の神なり。此の神の子は、即ち
>甘茂君等、大三輪君等、又姫踏鞴五十鈴姫命なり。

この書紀の記事は「姫踏鞴五十鈴姫」を「神の子」としているが、
古事記も「比売多多良伊須岐余理比売」を「神の御子」としている。
ここで言う「神」は「大三輪の神」即ち「美和の大物主」のことです。

古事記は「大物主」と「勢夜陀多良比売」の間の子を「伊須岐余理比売」とし、
書紀は「事代主」と「三嶋溝杙姫」の間の子を「五十鈴姫」とする。当然ながら、
「事代主」と「大物主」の異同が問題になりますが、とりあえず母系に注目すると、
「勢夜陀多良比売」は「三嶋湟咋の女」と書かれていますので、まあ大雑把に言えば、
書紀の「三嶋溝杙姫」と古事記の「勢夜陀多良比売」は、重ねて考えてもいいでしょう。

ところが書紀は「三嶋溝杙姫」に関し「或云、玉櫛姫」と加えています。
つまり「大物主」と「玉櫛姫」は夫妻ということになる。然るにしばしば、
「大物主」は「大物主櫛甕玉」にも作られます。まず夫妻であって、しかも
夫にも「櫛」「玉」が含まれ、妻にも「櫛」「玉」が含まれるようなカップル。
それが他に見当たらないことを考えるなら、最初に述べた「櫛玉彦/櫛玉姫」は、
やはりこの「櫛甕玉/玉櫛姫」の異名ではないでしょうか。本当にそうであるなら、
「大物主」は「櫛玉彦」だから、「大物主=櫛玉饒速日」という線に少し近づきます。

#漢字が出ないため、他の漢字で代用した箇所は、
#「姫踏鞴五十鈴姫」の「鞴」、「溝杙」の「杙」、
#「櫛甕玉」の「甕」。この点をお断りしておきます。

[193] Re[191][190][189][188] : かこ  香具 2002/07/22(Mon) 22:16 [Reply]
> 播磨国風土記では雲潤(うるみ)の里になるのでしょうか。

播磨國風土記でいう起勢の里、穂積の里あたりを通ったのですが、広く賀毛の郡の範囲として、雲潤の里へもつながるのでしょうね。
起勢の里、カンフーマスターが喜びそうな名称ですが、起勢(こせ)の里ですね。巨勢部の土地、現在の地名は古瀬と残っているようです。穂積(ほづみ)の里は、穂積臣一族から。

加古川の加古の原意を知りませんが、また『水夫』の読み(カコ)も、どうしてこう読むのか判りません。つながる可能性はあるのでしょうか?

[192] Re[190][189][188] : かこ  香具 2002/07/22(Mon) 20:22 [Reply]
橋元正彦氏のサイト「兵庫の山々 山頂の岩石」に
『闘龍灘』のご解説がありました。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~HASSHI/toryunada.htm
ワタクシ的には、けっこうワァオゥ!なサイトなんです。
(意味不明)

[191] Re[190][189][188] : かこ  神奈備 2002/07/22(Mon) 15:50 [Reply]
> 社町を通過して行きます。それぞれの市町の途中の地肌も赤い土がよく目だっていました
播磨国風土記では雲潤(うるみ)の里になるのでしょうか。
丹津日子の神が「法太川の下流の流れを雲潤の里の方に越えさせたいと思う」と言った時に、その村におられる太水の神は「私は獣の血を持って田を耕作している」
云々とのやりとりが記載されています。
☆ 丹津日子の神 丹生都比売神の名に似ています。「赤い土がよく目だって」と言うのはさもありなんですね。「獣の血を持って」と言うのも赤土かも。
☆ 闘龍灘の名は風土記には見えませんが、太水の神と熊野水神? 
川の傍に神社が鎮座している場合、荒れ狂う川の神を鎮める祈りがささげられたのでしょう。

> 多可郡八千代町『大屋』鹿子神社
鹿子神社(かのこじんじゃ)少名彦命が祭神となっています。夏向きのニットの編み方に鹿子と言うのがあります。

> 水の難所が灘
小生は甘い酒の産地かと。

[190] Re[189][188] : かこ  習志野のてつ [Mail] 2002/07/22(Mon) 10:21 [Reply]
 更に 横から失礼します。
> JR滝野駅の近くの加古川に闘龍灘というところがあって、
> 熊野水神という神社があり…
 『闘龍灘』ってすごい地名ですね。「難」は難儀です。
 人のむつかしいのが儺(両面宿儺)、水の難所が灘
 龍が闘う灘:これはよほどの難所だと思えますね。
 地図で見ますと中国自動車道の傍。海岸からは遠いようです。
 @龍をトーテムとする二つの部族が争った
 A龍の如くのたうち流れる二つの川の合流地
 B鉄砲水が良くあり、人や物が流される地
 程度考えられるかと思いますが、どんな地でしょう。
 雌岡山の反対側に雄岡山があって、夫婦喧嘩してたり?
 ?と妄想します。  青草過ぎですね 失礼

[189] Re[188] : かこ  香具 2002/07/21(Sun) 22:57 [Reply]
横から失礼します。(久々で〜)
 先日、兵庫県加東郡滝野町の播磨中央公園というところに用事で行ってきました。神戸からは例の雌岡山の横を北上し、三木市、小野市、社町を通過して行きます。それぞれの市町の途中の地肌も赤い土がよく目だっていましたが、播磨中央公園のある五峰山の山系に入ると、かなり真っ赤な土がありました。素人眼なりにでも朱を意識できる、雌岡山に見られるのと同様な土でした。

 さて、JR滝野駅の近くの加古川に闘龍灘というところがあって、熊野水神という神社がありましたが、仕事中なので通過しただけです。(T_T)
この加古川を遡ると西脇市に石上神社があるそうで意識してます。

 さらに加古川の支流のひとつ野間川を遡ると上流に多可郡八千代町『大屋』という地があり、『鹿子神社』という社が地図に載っています。笠形山の東麓にあたります。バス路線はあるようですが、どんな所かな?と妄想してます。

[188] Re[173]: 鹿・鹿来・かこ re鹿と作用鹿  神奈備 2002/07/20(Sat) 14:14 [Reply]
平凡社ライブラリー『風土記』の索引から、地名に現れる「鹿」の字

常陸国 遇鹿
播磨国 粟鹿川内、粟鹿山、鹿庭山、鹿丘、端鹿川、端鹿の里
出雲国 荒鹿の坂
豊後国 ー
肥前国 逢鹿の坂


『和名抄』に現れる郡名郷名の「鹿」の字
常陸国 當鹿郷、逢鹿郷、鹿島郡、鹿嶋郷、鹿嶋郷
播磨国 ー
出雲国 秋鹿郡
豊後国 ー
肥前国 ー

全体の地名には差があるのですが、出典によって、常陸国や播磨国には多いと言えるようですね。
やはり神の遣いとして尊び喜ばれた字なんでしょうかね。

[187]   新規掲示板・資料篇 開設のお報せ      焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2002/07/20(Sat) 09:26 [Reply]
 ミナシャ〜〜ン アマカネ
 謹慎ちゅう、アタマ丸ぼうずの紋チャンばい。

 あっしゃ10日まえからTHREAD(織り糸)式掲示板を「言語篇」と銘うっ
ち出発させちいやすが、あまりにも“言語”に片よりすぎちいやす。

 凡そ思考というものは、A と B のちがいとか、因果関係に想いをめぐらす所
作だろうと思います。
 因果とは「空なる複数始原(?)」が因となって“果”を産み、ふたたびこ
れが因となった‥‥をくり返します。現代の混迷は現代の視線からは見えない
‥‥これ当然です。視野はできるかぎり始原に遡らねばなりません。

 ですから、従来の思い込みをぶち破らざるをえないような極点に追い込む判
断資料こそ第一級として欣求されるのであります。
 
 先日、習ヨッちゃんが山東半島つけねの遺跡のことを報せてくれました。
 そこの2500年前の人体は日本の早期弥生人そっくりで、そのまた500年
前の人体は西洋人だった‥‥というのです。
 もちろん、斯様な資料は第一級のものとして歓迎します。

 しかし、きのふの新聞によれば、始祖鳥の一種のタラソドロメウスには巨大
なトサカがあって、その内側の骨にはラジエーター式の筋が走っていて、冷却
装置がトサカの起源だったことを匂わせているそうです。
 こんな情報は、一見われわれの意識や存在にはなにも関係ないみたいです。
しかし、この事実にミナシャン固有の見方を添えればスバラシイ判断材料へと
早がわりするのではないでしょうか。(体内温度をあげて、目周辺の温度をさ
げるとか)

 このごろ読んだ本(新説・見解)の紹介とか、ただの空想など、なんでもア
マカネ。
 “古代資料”‥‥は、思ったよりも深く、広範囲です。

 そういう視角の『ユー・アイ掲示板 1』 
http://www.you-i.org/treebbs/1/1_all.html
をおっ始めやしたので、ゴソッと御来駕アマカネね。

 尚、この掲示板は玄象師師ドンがイタズラしているうちに出てきたそうで
す。おらはもうひとつ欲しかったが、新規製作には手も足も出ませんでした。
 たまたま、出たので、もったいないので、これを『古代資料篇』と銘うちま
した。標題のていさい……文字の拡大、色づけなどは後回しです。
 まずは開設のお報せです。

[186] Re[神奈備3171]: 神社に行って「アーメン」  玄松子 2002/07/19(Fri) 13:00 [Reply]
神社だけの話題じゃないので遷座

> ドサクサに紛れて勝手発言
> 神社に行って「アーメン」はありえると思います。

これは、神社で「アーメン」と唱える人もいる、ということですよね。

籠神社や、神宮のダビデ紋を主張する人たちは、「ユダヤの聖地」として、神宮などへお参りに行きそうですね。実態は知りませんが。

神社で、お経をあげている人や、御詠歌を歌っている方は、たまに見ますね。

[185] Re[184]: 感覚的発言  玄松子 2002/07/17(Wed) 20:31 [Reply]
> あと、この「Why?」には、スサノヲの第五子説を肯定する意味合いは含まれていますか?

特にありません。しいていえば、
青草であれ、真説であれ、「・・・と思う」というのは面白いしすばらしいことだと思いますが、
理由を示さず「確認」されたり「眉唾」とする行為には、引っかかりを感じてしまうので、理由をお聞きしました。

これ以後は、青草話。
アメノホヒは、アマテラスの子(系統)ですが、先にやってきて、土着と交わって戻りませんでしたね。
その後継が居たとすると、彼らは天孫と同系(戸籍上は叔父?)ですが、土地神(どこの地かは問わない)の血も含まれており、土地神の子孫でもあるわけですよね。

[184] Re[180][175]: 感覚的発言  ZOU 2002/07/17(Wed) 12:36 [Reply]
>この長たらしい名前は、(実在するとしての仮定ですが)当人や周囲が用いていた名前ではなく、贈名のようなものですよね。

おっしゃる通り確かにそうですね。長たらしい名前で呼ばれれば不便でしょうね。じゅげむみたいで舌噛みそう(^^;;) んで、考え直してみました。

この2つの長たらしい名前に実名部分が含まれていると考えればどうでしょうか。両者に共通する音を含む「ホノニニギ」と「ニギハヤヒ」という部分に注目してみたいです。この2つの名は、2人にとっての固有な名前だといえるのじゃないでしょうか。ほかに「ニギ」を持つのはだれっしょ??

これまたよく指摘されることですが、魏志倭人条の官職名として書かれる名と共通する部分を持った神が記紀で登場します。弥弥(ミミ)とか爾支(ニキ)とか。
古代ではオシホミミさんみたく、官職名をくってけて、古代的な政治の中心部で活動する時の実名的な名として使っていたのかもしれません。同じように「ホノニニギ」や「ニギハヤヒ」も実名的な名前との見方ができるんじゃないでしょうか。可能性としてですけど。

となりますと、

>兄弟を前提につけた名前を根拠に、兄弟だと判断しているような。

と同様の率で、実名と考えられそうな『名前を根拠に、兄弟だと判断』する考えも成り立つんじゃないでしょうか。んで、これにプラスする形で旧事紀みたく「2人は兄弟!」のような系譜を持ってきますと、

>(兄弟だったという説を否定しているわけではありませんよ)

という発言は、実は嬉しいところです(^^)
兄弟だから同じような構造の贈り名が追加されたということで。

>> スサノヲの第五子とかいうのは眉唾っす。
>Why?

上記を踏まえて、ニギハヤヒはアマテラスからオシホミミの系譜に入れたほうが良いと思いますのでスサノヲの子にはならないと言いたかったわけです。
あと、この「Why?」には、スサノヲの第五子説を肯定する意味合いは含まれていますか?

[183] Re[179][175]: 感覚的発言  ZOU 2002/07/17(Wed) 12:33 [Reply]
神奈備さん、お調べ下さったんですね。ありがとうございます。

>大物主奇魂命 埼玉県熊谷市 東別府神社

この名前がありましたか。クシミカタマとの関係はどう考えれば良いんでしょうか気になるところです。

>奇妙なニセ本(誰かの説を丸写しにした本)の冒頭に、クシミカタマニギハヤヒなる神名で登場してきて、

手持ちの本にも書かれています。苦笑するしかないですね。

>ニギハヤヒが祭神となっていなくても、ひょっとしたら、ニギハヤヒだったりするのかも。

祭神がキライだとしても、失礼な態度はとらないようにしているつもりなんですけど・・・(^_^;)
あと、例えば生駒聖天でいくら二礼二拍一礼をしようとも、その対象は仏教系の歓喜天になるわけです。祭神の変更があったとしても私のような素人にはわかりませんので、変更を断定できる場合以外は、よく言えば現祭神を尊重する、悪く言えば都合のいい様に解釈するしかないんです。

[182] 無視されたのかな。  玄松子 2002/07/16(Tue) 17:06 [Reply]
質問の意味がわからないということでしょうかねぇ。
じゃ、質問変えますね。

>「物部」を「大物主」の名代または子代と見る観点は、
> ごく自然なものであるということだけ確認しておきます。

「確認」されちゃってますが、これって、自然なんですか。
みんなは、自然だと思うのでしょうか。

青草だから、何でもありなのかな。

[181] いろいろな神?  hvhy 2002/07/16(Tue) 15:45 [Reply]
>神の名代とは普通の使い方なんでしょうか。

そのご質問でしたら、意味は分かります。
普通の使い方じゃないです。しかしながら、
「大物主」は抽象絶対神とか自然神ではなく、
もちろん「蛇」の姿をとって現れたりしますが、
キャラを持った「いわゆる人格神」の範疇ですし、
おまけに子供までいるので、名代とか子代の概念を
援用したとして、さほど違和感はないように思います。

#これは他の神様の類と比較してみれば、
#一目瞭然か。例えば「久久能智」に対し、
#御名代として「久久部」を定めたとかだと、
#「ぬぬぬ?」となりますよね。例えばですが。

[180] Re[175]: 感覚的発言  玄松子 2002/07/16(Tue) 10:51 [Reply]
ちょっとした疑問です。

> ニギハヤヒを考える人って、たいていの場合「アマテル・クニテルヒコ・アメノホアカリ・クシタマ・ニギハヤヒ」というフルネームを使いますよね。ところでニギハヤヒの弟とされるニニギについて記紀から拾い出してみますと、「アメニギシ・クニニギシ・アマツヒタカヒコ・ホノニニギ」という名前が出てきます(あっ、私ヒコヒコとは読みたくないんです)。この2つの名前はたいへん似かよった構造なんじゃないですか。
>
> 古代の人名は、親子兄弟の間では似たような名前になることがあるようです。というわけでこの2人はカチハヤヒオシホミミさんの子供で兄弟だったとするのがしっくりくるような気がします。スサノヲの第五子とかいうのは眉唾っす。


この長たらしい名前は、(実在するとしての仮定ですが)当人や周囲が用いていた名前ではなく、贈名のようなものですよね。

この名前の構造の類似からは、名を贈った人が兄弟と考えていたという点しかわからないのではないでしょうか。

兄弟を前提につけた名前を根拠に、兄弟だと判断しているような。
(兄弟だったという説を否定しているわけではありませんよ)

> スサノヲの第五子とかいうのは眉唾っす。

Why?

[179] Re[175]: 感覚的発言  神奈備 2002/07/16(Tue) 09:58 [Reply]
> クシミカタマニギハヤヒノ命だとか、オオモノヌシクシタマノ命という神名でまつっている神社
大物主奇魂命 埼玉県熊谷市 東別府神社

クシミカタマニギハヤヒ
 奇妙なニセ本(誰かの説を丸写しにした本)の冒頭に、クシミカタマニギハヤヒなる神名で登場してきて、びっくりして調べたことがありますが、『平成祭礼データ』では出てきませんでした。この部分は「丸写し」ではなかったようで、珍しくオリジナルだったような。

> 私じつはニギハヤヒって大キライなんですよ。
私は神々は大スキです。で、大キライなニギハヤヒが御祭神の神社への参拝の御気分はいかがでしょうか。ニギハヤヒが祭神となっていなくても、ひょっとしたら、ニギハヤヒだったりするのかも。

[178] Re[174]: 名代いろいろ  神奈備 2002/07/16(Tue) 09:57 [Reply]
> 「物部」を「大物主」の名代

このあたりのことは全く勉強不足ですので、ひとつ教えてやってください。
 皇子などの名代はあるのですが、大物主は神、神の名代とは神戸の管理者と言う意味になるのでしょうか。神の名代とは普通の使い方なんでしょうか。
 たとえそうだとしても、結局、「物」と言う字がポイントと言うことですね。なお「物」には宇気物之神、大物忌神、など。

[177] Re[175]: 感覚的発言  玄松子 2002/07/16(Tue) 07:50 [Reply]
> >・なぜ、その外来神を、先乗りと記述しているのでしょう。
>
> ヤマトへは孫のホアカリニギハヤヒを派遣した、

「ヤマト」は、大和朝廷ではなく、
「ヤマトの地」つまり奈良地方という意味で使用されているのですね。
誤解していました。

[176] Re[174]: 名代いろいろ  玄松子 2002/07/16(Tue) 07:20 [Reply]
> こういう仮説がどうして出てくるかと言うと、どこかの文献に、
> 「市辺之忍歯王の御名代として三枝部を定めたまひき」云々とか、
> 書いてあるから。なわけがありません。というわけで以下は説明略。

どの書に「書いてある」か、ではなく、
どの書を読めば、「自然にそういう観点ができるのか」、とお聞きしていますよね。

どなたか、教えてください。

[175] 感覚的発言  ZOU 2002/07/16(Tue) 01:53 [Reply]
少ーしまずった表現がありました。申し訳ありません。
>「御諸山の神」以降の
これについては『「御諸山の神」とは関係のない』としたほうが意味が通じやすかったかも知れません。失礼しましたm(__)m


>・「御諸山の神」以降とは、おおよそ、いつの時点以降なのでしょう。

ニギハヤヒには神武帝に先行してヤマト入りした伝承があり、また神武との交流が伝えられているわけですから、単純に考えて、ニギハヤヒがヤマトで活動し始めたのは神武の時期に重なるのではないかと思います。

対して、御諸山の神は大国主と交流があったとされています。神武と大国主との間には何世代かの隔たりがあるでしょうから、御諸山の神はニギハヤヒよりも何世代分か古いのではないでしょうか。
ここで、御諸山の神=オオモノヌシとして良いはずですが、う〜みゅ、この部分突っ込まれると弱かったりします(;^_^A  ともあれニギハヤヒがヤマト入りした時点で、御諸山の神オオモノヌシは祭祀されていたのではないかと。
この場合の時間的な前後関係については、私個人としては安本美典氏流の考え方を支持しています。まあ安本説の支持者は多くないとは思いますが・・・(^^;;;;


>・ヤマトにとっての外来神とは、たとえばどのような神なのでしょう。

今回の場合はニギハヤヒのことのみを考えるのが良いと思います。
河内の国の陶器製造集団が、御諸山のタタリ神祭祀に成功し、自らの祖神を持ちこむ形で御諸山の神に重ね合わせて大物主神が成立したという説もあります(大物主神伝承論)。この本ではオオモノヌシという神名そのものも、記紀成立の時点からそれほど遡れるものではないとされていまして、オオモノヌシすら外来神となりますが、さて、σ(^^;;もう一つ消化しきれずわけわかめになってますです。


> どこから来たのでしょう。
> 天孫と同族ではないということでしょうか。

ニギハヤヒを考える人って、たいていの場合「アマテル・クニテルヒコ・アメノホアカリ・クシタマ・ニギハヤヒ」というフルネームを使いますよね。ところでニギハヤヒの弟とされるニニギについて記紀から拾い出してみますと、「アメニギシ・クニニギシ・アマツヒタカヒコ・ホノニニギ」という名前が出てきます(あっ、私ヒコヒコとは読みたくないんです)。この2つの名前はたいへん似かよった構造なんじゃないですか。

古代の人名は、親子兄弟の間では似たような名前になることがあるようです。というわけでこの2人はカチハヤヒオシホミミさんの子供で兄弟だったとするのがしっくりくるような気がします。スサノヲの第五子とかいうのは眉唾っす。

んで、高天原=九州説を支持するところなので、ニギハヤヒは九州出身と推定できるのではないかと思います。超古代文明的飛行船なんて存在しないでしょうから、船に乗って瀬戸内海を航海してきたとするのが妥当でしょう。


>・なぜ、その外来神を、先乗りと記述しているのでしょう。

なぜなんでしょうねえ(^^;)?
(これも安本氏流に)高天原側からいえば、まずイズモへはアマテラスの子供のホヒを派遣して、ヤマトへは孫のホアカリニギハヤヒを派遣した、ということで先遣部隊の長ですね。懐柔・征服や成功・失敗はともかく、アマテラスの近親者を派遣したということでは、皇族将軍のはしりみたいな気がしますね。


>(感覚的な発言に質問は不粋かもしれませんね)

う〜ん、掲示板でこれ言っていいのかどうかわかりませんが、私じつはニギハヤヒって大キライなんですよ。感覚的っていう言葉を使った裏にはそういうものもあるんです。まあたとえば「清盛がキライ!」や「頼義がキライ!」だとか「曹操がキライ!」etc、いろいろなキライがありますから、この部分は笑い飛ばしてやってください(^^;)


ふう〜〜、長くなってしまいました。
お読みになられたみなさん、お目汚し失礼しました。
最後に、余談的おとぼけた問い合わせで無知をさらけて申し訳ありませんが、どなたかご存知ないでしょうか? 当該2神について、クシミカタマニギハヤヒノ命だとか、オオモノヌシクシタマノ命という神名でまつっている神社ってあるんでしょうか?

[174] 名代いろいろ  hvhy 2002/07/16(Tue) 01:26 [Reply]
例えば「三枝部」をだれかの名代と見る説のうちの一つに、
「市辺之忍歯王」の名代と見る説があります。ご存じですか?

#今ここで説の信憑性の度合いは問うていません。
#学者が説として提出する程度の説という意味です。
#「イリ」という名辞から「イリ王朝」を導く程度と、
#さしあたり思っていただいて構いません。比喩ですが。

こういう仮説がどうして出てくるかと言うと、どこかの文献に、
「市辺之忍歯王の御名代として三枝部を定めたまひき」云々とか、
書いてあるから。なわけがありません。というわけで以下は説明略。

#「三枝部」を「市辺之忍歯王」の名代(とか子代)と見る説を、
#提出する程度の重みで、「物部」を「大物主」の名代と見る説を、
#同じように提出しているだけですから、その程度と思ってください。
#(※その程度のものを重視するか軽視するかは、いろいろでしょうね)

----------------------------------------

名代の関連で、だれも解いていない話がありますので、
ついでと言っては何ですが、その部分を引用してみます。

>九月の甲辰の朔丙午に、櫻井田部連、縣犬養連、難波吉士等に詔して、
>屯倉の税を主掌らしむ。丙辰に、別に大連に勅して云ふ、「牛を難破の
>大隅島と媛島松原とに放て。ねがはくは名を後に垂れむ。(安閑天皇二年)

この話は一般的に言う名代とは異なる。なにしろ「牛」ですから。
しかし「名を後に垂れむ」という意図は名代や子代の考えに通じる。
それはいいのですが、何故に「牛」が「勾大兄皇子」(安閑天皇)の
名を後に垂れる(残す)ことになるのか。これは全く謎かけのような話。

#他に古事記で言うと、「田井中比売の御名代として河部を定めためひき」。
#これなども、どうして「河部」が「田井中比売」の名代なのかやはり謎です。
#こんな「謎かけ」のような名代に比べると、「大物主」〜「物部」の線は自然?

[173] 鹿・鹿来・かこ  豆石 煌 2002/07/15(Mon) 23:24 [Reply]
 先の、明石の鹿[159]の続きです。  古来、播磨は、鹿だらけ!?

 西から順に申しあげます。今も、吉備の国の日生(ひなせ)の鹿久居島。日生の浦を、加子の浦、と言います。

(播磨)新宮町−−播磨国風土記・揖保郡の香山(かぐやま)・元の名は鹿来墓(かぐはか)−−吉島古墳??
家島群島の男鹿島(たんが)
古来の姫路は飾磨県(しかま・飾磨・色麻・鹿間)
姫路市の飾磨(しかま)
姫路市の妻鹿(めが)
加古の島(万葉集)
加古川の(かこ・水主・加古の湊)・鹿児の里。
加古川市の日岡山(景行天皇のお妃)と香具山との関係?
淡路島の西の浅瀬。−−「鹿の瀬」−−漁場−−蛭子−−戎 ??
そして、明石の いわれ。

  古来、播磨は鹿だらけ!?これ、動物の鹿、かいナア?
 私、豆石は、いまだ、鹿が海を泳いでいるところを、見た事がありません。
みなさん、見ましたか〜??

 このあたり、神功皇后のメッカ。姫路・灘のけんか祭り。わっしょい、わっしょい。
「ワッシムニダ」−−「来た来た。」−−何が??

 室津あたりから、家島諸島をボケ−と見ると、大きな船団のようにも ???

神功皇后は、船の舳先に、ほこを立てて・・・そうな。
家島の西島の西端に−−−−−「コウナイの石」。

[172] Re[171]: 「邇藝速日」の関連  玄松子 2002/07/15(Mon) 20:46 [Reply]
> これは非常に問題だと思っています。当然ながら、
> 別途の検証が必要なことですが、少なくともここで、
> 「物部」を「大物主」の名代または子代と見る観点は、
> ごく自然なものであるということだけ確認しておきます。

どの書の、どの記述をみれば、自然にそういう観点ができるのかわからないのですが、どなたか、この「自然なもの」の説明をしていただけないでしょうか。
(まじでわかりません)

[171] 「邇藝速日」の関連  hvhy 2002/07/15(Mon) 14:40 [Reply]
|> 「大物主」=(邇藝速日)
| hvhyさん、これは青草話に近いのでは。

とりあえずこれに関して。特に原田常治氏の本などが、
一定の影響力を持っていることもあり、何の検証もなく、
「大物主」と「邇藝速日」を同体と見なす説が流布してる。

これは非常に問題だと思っています。当然ながら、
別途の検証が必要なことですが、少なくともここで、
「物部」を「大物主」の名代または子代と見る観点は、
ごく自然なものであるということだけ確認しておきます。

#その他の観点については、
#稿を改めることと致します。

[170] Re[168][166]: 神奈備 Re[3125] 「物部」と「忌部」の遷座  玄松子 2002/07/15(Mon) 09:54 [Reply]
もう少し、具体的に知りたいので、質問です。(感覚的な発言に質問は不粋かもしれませんね)

> 私の方も感覚的にしか言えませんが、ニギハヤヒにはどうしても蛇のイメージは持てず、「御諸山の神」以降の外来神(ヤマトのとっての)としか見えないのですが・・

・「御諸山の神」以降とは、おおよそ、いつの時点以降なのでしょう。
・ヤマトにとっての外来神とは、たとえばどのような神なのでしょう。
 どこから来たのでしょう。
 天孫と同族ではないということでしょうか。
・なぜ、その外来神を、先乗りと記述しているのでしょう。

[169] Re[168][166]: 神奈備 Re[3125] 「物部」と「忌部」の遷座  神奈備 2002/07/15(Mon) 09:28 [Reply]
ZOUさん いらはいましぇ>ニギハヤヒにはどうしても蛇のイメージは持てず

象さんのお鼻は長いように、蛇も長いし、剣も長いですね。
ニギハヤヒはフツノミタマで剣ですから、蛇に通じ、雷神に通じ、大物主神と共通要素が多いのが話をややこしくしているのでは。

[168] Re[166]: 神奈備 Re[3125] 「物部」と「忌部」の遷座  ZOU 2002/07/15(Mon) 01:28 [Reply]
>櫛玉と櫛甕玉の似ている所、「物」の字などが論拠だったように記憶しております。
>あまり決め手とは言えないような・・・。

この点がまったくの同感でして、オオモノヌシ=ニギハヤヒという説がどうしても理解できないところです。
私の方も感覚的にしか言えませんが、ニギハヤヒにはどうしても蛇のイメージは持てず、「御諸山の神」以降の外来神(ヤマトのとっての)としか見えないのですが・・

[167] Re[166]: 神奈備 Re[3125] 「物部」と「忌部」の遷座  玄松子 2002/07/14(Sun) 23:27 [Reply]
> > 「大物主」=(邇藝速日)

前回は、
> 「宗像」「鳥見」の両者は「多祁御奈刀弥神社」の線から理解できます。
という書き方でしたね。
すると、建御名方=邇藝速日=太玉と主張しているようにも思えます。

> 詳細に踏み込むと嫌われる面もあるので、ちょっと大雑把に書きます。
問題は、「詳細」という点ではないのではないでしょうか。

[166] 神奈備 Re[3125] 「物部」と「忌部」の遷座  神奈備 2002/07/14(Sun) 21:39 [Reply]
> 「大物主」=(邇藝速日)
 hvhyさん、これは青草話に近いのでは。
邇藝速日命が三輪の大神として祀られた、とは多くの(どっちかと言うとニセッポイ)人々の説に見えるのですが、櫛玉と櫛甕玉の似ている所、「物」の字などが論拠だったように記憶しております。

あまり決め手とは言えないような・・・。

 神々の重層から言えば、なくはない話でしょうが、全くの非論理の気分で言いますと、三輪の大神にはもっと原初な、縄文的なイメージを抱いております。

[165] Re[161]: 神奈備[3123] から  玄松子 2002/07/14(Sun) 21:31 [Reply]
> 勝手に転移(ガンではありません)

僕も追従。

> 「麻賀多」神社は、麻が多かった、「麻がよくできた」ための名前
> さすがに神奈備掲示板に書き込めないので。勝手にこちらに。

「麻賀多神社」は「ふさがのおおのかみのやしろ」とも読むそうで、麻(ふさ)=下総、上総の総(ふさ)という説も。ということは、社名の本体は多神社。多氏の関連の神社。多氏と房総の関連は面白そうな題材かもしれない。

都の縮図が、クリアに残っているようで、千葉って面白いかも。

麻賀は、麻の産地にあるという意味も。祭神は稚産靈命なので、穀物・植物神。
「多」が多いという意味かどうかは、要検討。

[164] Re[163]: 決め手にかける祀ること    玄松子 2002/07/14(Sun) 11:33 [Reply]
> 峠や坂に坐す荒神とか暴神は「祀る側の要望で」坐すのではなさそうで、「坐すと”ヤバイ”ので祀っておく」と言うことかな。

「要望」じゃないでしょうか。
峠を利用する人々が、その無事を祈って祀るものですよね。

平坦な道に転がっている石につまずいて怪我をした場合、その石に注連縄をして祀ることは、「注意」の標にもなります。普通はしないでしょうが。

鶏と卵。
神の存在と、祀る行為のどちらが先、どちらが重要というのは難しいのですが。
神の存在しない場所でも、祀る行為は可能です。某教団にような信仰集団もありえます。
逆に、祀られない神は、存在するのでしょうか。

という意味で、巫女や神職が重要な役割を演じているのではないでしょうか。

[163] Re[160][158]: 決め手にかける祀ること    神奈備 2002/07/14(Sun) 10:14 [Reply]
> 神は、その対象にあるのではなく、祀る側にあるのではないだろうか。

峠や坂に坐す荒神とか暴神は「祀る側の要望で」坐すのではなさそうで、「坐すと”ヤバイ”ので祀っておく」と言うことかな。

[162] Re[159]: 明石・赤石の いわれ  神奈備 2002/07/14(Sun) 10:12 [Reply]
『住吉大社神代記』から
神功皇后が丹生川上に天手力男意気続々流住吉大神を木の国の藤代嶺に鎮めたのですが、この神は「大屋に向かう如、針間国に渡り住はむ」として、大藤を切って海に浮かべ、明石に遷ったとあります。
また『播磨国風土記』逸文ではこの神は爾保都比売命となっています。

どちらの伝承にしても、「丹生」が登場します。明石の上流に神出神社が鎮座、付近は丹沙の産出地かと思われます。丹沙は赤い石から採取されます。

鹿は神の遣いなのか、志賀島を本拠とする安曇海人の支配地を住吉海人が簒奪したとか、これは馬が合流するほんに青草。

ところで、「大屋に向かう如」、この方が気に掛かる文です。押部谷か?

[161] 神奈備[3123] から  習志野のてつ [Mail] 2002/07/14(Sun) 01:14 [Reply]
勝手に転移(ガンではありません)
「麻賀多」神社は、麻が多かった、「麻がよくできた」ための名前
さすがに神奈備掲示板に書き込めないので。勝手にこちらに。
徳島の麻植(オエ)郡や「大麻彦神社」からの連想です。
メモが無いのですが、一度行った時に、そう感じました。
またすぐ近くの坂を下ると川がありますが、そこは江戸時代も、
川の港として栄えていました。
川沿いに一族の一部が遡って勢力を築いたと思います。

[160] Re[158]: 決め手にかける祀ること    玄松子 2002/07/13(Sat) 21:52 [Reply]
>  一方、磐座、滝、巨木、山、泉などを御神体とする神社は遷座はしていないようです。古社に多いのかも。これは聖地に神社が鎮座したと言えます。

ここもまた難しいところ。本当に鶏と卵の話になってしまいそうですが。
これらの御神体は「動かせないもの」ですね。

はたして、神の祀られていない山や湖はあるのでしょうか。
(今はなくなってる場合はあります)
滝は、発見されればすべてその側に祠が立つ。
そんな印象ですがどうでしょう。

> 神は、その対象にあるのではなく、祀る側にあるのではないだろうか。

[159] 明石・赤石の いわれ  豆石 煌 2002/07/13(Sat) 21:36 [Reply]
 またしても、神奈備に ふさわしからぬ話。

 先日、明石海峡大橋の淡路島側で、大事故が起こりました。亡くなられた方々の
御冥福をお祈り致します。

 さて、今の明石市の住民は自を、まずは播磨人ではなく阪神地区人とお思いでしょう。
   (−−−JRの各駅停車の電車は西明石が終点。)

 しかし、古来、明石は勿論のこと、神戸市垂水区(五色塚古墳)も播磨国なのです。
残念ながら「播磨国風土記」は明石郡の部分が遺失し、見られません(逸文は、ありますが)。

 「明石」の語源の一説に、(「播磨鑑」によると)
 逸文攝津国「夢野」の鹿などを引用して、海中に射殺された鹿の血が石に化成した。と
云う、説を取り上げ、
「赤石、海中にあり。面はおよそ四尺に五尺ばかり、両松江村の間、
 浜端より八間ほど沖に有る。」としています。
この説は、確証は無いとされますが、現在、明石市・林崎に、説明板は見られます。

 古来、明石は海人の拠点であり、林崎のとなりの藤江浦の住吉大明神には、
「海に藤の枝を浮かべて流れ着いたところを自領にする」、という説話が有ります。

  白たえの 藤江の浦に漁する 海人とや見らむ 旅行く我を。  (万葉)

さて、鹿、鹿・・・・・・   鹿とは??


[158] 決め手にかける祀ること    神奈備 2002/07/13(Sat) 21:26 [Reply]
 民衆のウップンをはらす為には祭りが要ったそうで、古社からの勧請社が町に出来ていったそうです。余談ですが、神奈備はこのような神社も大好きです。その場合には御神体はお札のようなもので、移動が出来たのでしょう。神霊とはディジタル情報のようなもので、幾度コピィしてもすり減ることはないようです。この場合には、神社の鎮座地が聖地になったと言えますね。このような場合でも、運んでいた牛が動かなかったとか御神体が重たくなって動けなかったとか、比礼が止まったとかの伝承がついてきたりして、その場所が約束されていた聖地であったと言うことが強調されている場合があります。

> 必要十分ではないのではないでしょうか。
神社の立地としては悪い場所ーたたりの多い場所ーもあります。スキー神社が大鰐スキー場に鎮座、曲がり角のようでスキーヤーがよく事故を起こすので、須佐之男命、五十猛命、大山祇命を勧請して神社としたそうです。神社建立による聖地化の一種。夜刀の神との境界もそうかも。たたり神をして守り神に変えてしまう人間の知恵ですね。

 一方、磐座、滝、巨木、山、泉などを御神体とする神社は遷座はしていないようです。古社に多いのかも。これは聖地に神社が鎮座したと言えます。

> 決め手にかけますが
天野の丹生都比売神社は沢に祀られたとか。環境が変化していると言うことですね。

[157] 決め手にかけますが  なにがし 2002/07/13(Sat) 19:21 [Reply]
setoh様
>丹生都姫と木の神? 丹生都比売神社と磐座? ここらはどうでしょうか?
決め手にかけますが木の神について、三谷の酒殿神社うらには、丹生津姫が榊をもって降臨したことから名前がついた榊山があります。また、長谷宮にも榊山があり、神事の時は人々は外に出てはいけなかったそうです。2月に厳秘の木祭りなるものもあったようです。
岩座というほどのものはなかったような気がしますが、丹生津姫降臨の石口である七尋の瀧は紀伊名所図絵に「奇岩削立し、飛泉斜めに落つ」とありますし、丹生酒殿神社の横に宮の瀧がありますが、神社側岩壁になっており、神社の下も岩盤なんだろうと想像させられます。いずれの瀧も丹生氏の神事の大切な場所です。

[156] Re[155]: 祀ること  玄松子 2002/07/13(Sat) 18:25 [Reply]
> 聖地は動かないとの法則はわかるような気がします。

このあたりが難しいところ。
寺の場合、その本体は本尊であり、経典ですからね。人が担いで動かしても可。
神社の場合も、ご神体が大事で、火事などの災害や戦争などでは、ご神体を守るのではないかと思うのです。

良い場所であることは望ましい条件ですが、必要十分ではないのではないでしょうか。

たとえ砂漠であっても、樹木を植え、池を造って、そこを祀れば、聖地になるのではないでしょうか。

[155] Re[152][151]: 祀ること  神奈備 2002/07/13(Sat) 16:47 [Reply]
集英社新書『聖地の想像力』植島啓司著から
聖地の条件が幾つかあげられています。
01 聖地はわずか1cmたりとも移動しない。
02 聖地はきわめてシンプルな石組をメルクマールとする。
など。

以下、青草話を一席。
鶏と卵でしょうが、神社立地=聖地、です。
神々が重層するだけではなく、寺院もかっては神祭りの聖地だった所が多いのでは。地質学的境界で放射線が出てマイナスイオンが多いとか、人をして「異界」に導くのかも。また何らかの禁忌の場所として伝承されてくるとか、聖地は動かないとの法則はわかるような気がします。

>> 水神・山神・狩猟神・金属神・木の神。すべてが真実。一つの山の側面にすぎない。
> この言葉は丹生都姫にピッタリ!

全ての神社に磐座があるかどうかは別ですが、特殊な岩が本殿の下に埋められているケースもあるようです。
山は多くは岩で構成され、水は岩の間からしみ出てくる、この水で動物が育つ、岩がなければ滝は成り立たない、蛇は岩の間から黄泉の国とを行き来する、金属は岩から取り出される、先祖を埋葬して目印に岩を置く(墓石)、黒い岩はよく燃える(岩木山)、など岩こそ命だったのでしょう(岩長姫)。

丹生都姫と木の神? 丹生都比売神社と磐座? ここらはどうでしょうか?

[154] Re[153][151]: 祀ること  玄松子 2002/07/13(Sat) 12:41 [Reply]
> 少なからぬ神社が、縄文遺跡の上に建つ。これは何故だろうと考えていました。
> 以前は人類に共通して神聖と感じられるところ=たとえば神奈備山=を祀った
> と思っていました。

神社の数は、現在10万といわれています。明治以前はその数倍・数十倍だったかも。
「少なからぬ神社が、縄文遺跡の上」なのでしょうか。

神社には、自然発生的・自然崇拝的なものと、人為的・支配ツール的なものがあるでしょう。さらに自然発生の上に支配ツールを被せたものも。

仮に、縄文遺跡の上に成立するとした場合、それが人為的なのかどうか判断は難しいのではないでしょうか。
ブルのような重機のない時代、人の生活圏は限られているので、遺跡のある文明の上に、次世代の文明が成立する可能性も高い。「重層」ってのは起り易い事なのかもしれません。(憶測の青草)。

[153] Re[151]: 祀ること  習志野のてつ [Mail] 2002/07/13(Sat) 06:53 [Reply]
> 、今回は戯言として青草。
仮定としての青草
> 一つの立派な山がある。…
> ある日、朝廷の偉い人が来て、その地区に名前を付け管理下に置いた。…
> 同じ対象であっても、呼び名や祀り方、祀る気持ちが変われば、別の神じゃ
 ないだろうか。

少なからぬ神社が、縄文遺跡の上に建つ。これは何故だろうと考えていました。
以前は人類に共通して神聖と感じられるところ=たとえば神奈備山=を祀った
と思っていました。私は木更津方面から見る東京湾の上に佇む夕焼け富士山が
好きです。今のところ次のように考えています。
  『新たな文化を担った人々が、従来のものを破棄、更新し、自分たちの文
化の優位性を示した』たとえ話をすると、日本に来た宣教師たちが成功したら、
比叡山の山頂に、延暦寺を壊した後、大キリスト教寺院を建てたのではないで
しょうか。この地を支配するのは今までと違う神であることを、人々に納得さ
せるために。
「柊(ひいらぎ)の八尋鉾」は、権威の象徴では有っても、実戦の役にはたたない。
島根県松江市東生馬町235 生馬(いくま)神社の祭神は「八尋鉾長依日子命」。
(この八尋鉾に長く帰依せよ)との考えの実体化したものではないでしょうか。

[152] Re[151]: 祀ること  なにがし 2002/07/12(Fri) 21:49 [Reply]
> 水神・山神・狩猟神・金属神・木の神。すべてが真実。一つの山の側面にすぎない。
この言葉は丹生都姫にピッタリ!

[151] 祀ること  玄松子 2002/07/12(Fri) 10:44 [Reply]
最近、神奈備と青草の違いが良く見えないのですが、今回は戯言として青草。

一つの立派な山がある。
朝夕、この山に祈る人は、山の神として祀る。
山から流れる大河によって潤う農村では、水神、水分神として祀る。
その山で狩猟を生業とするものは、狩の神として。
その山の鉱物資源にたよっている人々は、金属の神として。
その山で暮らす樵は、木の神として。

ある日、朝廷の偉い人が来て、その地区に名前を付け管理下に置いた。
そして、その「神」について尋ねる。地区の代表者達は相談し、その時点で有力者であった鉱物グループが「金属の神」と答える。祭祀は鉱物グループが担当。
その後、鉱物資源は枯渇し、農業が栄え、祭祀の中心は「水神」グループに移って数百年。
明治になって、突然の復古主義のもと祭神も見直され「金属神」の時代に戻された。

さて、この神の本来の姿はなんだろう。本当の名前はなんだろうか。
水神・山神・狩猟神・金属神・木の神。すべてが真実。一つの山の側面にすぎない。
本来・本質というものがあるのならば(ないと思うが)、すべてが本質。でも、どれも不十分。

神は、その対象にあるのではなく、祀る側にあるのではないだろうか。
同じ対象であっても、呼び名や祀り方、祀る気持ちが変われば、別の神じゃないだろうか。

[150] Re[148][139][138][137][115]: コウナイの石  神奈備 2002/07/11(Thu) 15:02 [Reply]
> 家島の民話を一発!
豆石煌(訓は)さん、おもしろいお話ありがとうございます。
椎根津彦の物語に浦島太郎のイメージをかぶせたようなお話ですね。
東遷・東征したした勢力は 物部、神武、崇神、天日槍、神功皇后、吉備船団、天智天皇、白村江後の大陸半島の勢力と亡命者、中世以降では足利尊氏など枚挙にいとまがありません。ほとんどが「まつろわぬ者たちを討つ」ためと称していたのでしょう。
吉備船団は遅かりしですぐに戻ってきました。数年かけての準備は神武伝承と見ていいのでしょうね。
家島のことについての掲示板があるのですね。
http://www.town.ieshima.hyogo.jp/scripts/boad/default.asp?GroupID=1

[149]   『ユー・アイ掲示板』復活しやした       焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2002/07/11(Thu) 09:49 [Reply]
 ミナシャン、アマカネ
 あっしゃ、セトホドンの逆さウロコにさわっち、叱られち、ちょと
謹慎ちゅうにござんす。
 失くしたドメイン取りもどして、きのふから『ユー・アイ掲示板』
《 言語編 》 http://www.you-i.org 復活ばい。
 ただし、この板はあっしが勝手にやっているだけで、こんどからは
神奈備のヒモはまったくついていません。

 いままで通りに『かむなび・ NOW』をやろうかな、と思いましたが
『かむなび・NOW』の文字が長すぎるので「 KB 」と略号使いうや
すハンデ、其のようおこころえ方アマカネ。

 青草板への本格参入はもう少し先。Icc-yo けんめい慎むばい。

[148] Re[139][138][137][115]: コウナイの石  豆石煌 2002/07/11(Thu) 00:50 [Reply]
 豆石です。こんばんわ。
神奈備に、ふさわしいか、どうか。
家島の民話を一発!

 「どんがめっさん」(家島本島・真浦)−−−「郷土の民話」より。
 それはそれは遠い大昔のことでした。
この家島の翁が(中略)その日も、いつものように、亀の背に乗って、沖で釣りをしていました。すると、はるか吉備水道を抜け出してくる大集団の船が、播磨灘に向かって、東進してくるのが見えました。小豆島を乗り越えて、家島海域に迫ってきます。
 その姿を見つけた翁は、ただ事ではないと、驚きながら、しばらく様子を見ておりました。
やがて、大船団が近づくと、先導を行く船から、チンカンドンドンと、賑やかな鳴り物で
はやしたてる船人たちの声が聞こえます。

 その騒ぎに聞き入っていますと、船の中から、
「おい、釣りをしている翁よ。お前はこの海の案内を詳しく知っているか。」と、問い合わせの声がしました。
 「はい、この海のことなら、どんな事でも心得ております。」と翁が答えました。
「そうか、それは嬉しい事だ。われわれは東国のまつろわぬ者たちを討つためにやって来た。
 ここから摂津までの水先案内がほしいのだ。しばらく、この里で船を休め、部下の訓練や
 食料の補充をしたい。」と、船の指導者が頼みました。
翁は、船団をその夜のうちに港に案内し、それから数年が夢のように経ちました。

 きょうは、船団をいよいよ摂津へ案内する日です。翁は、いつものように、亀に乗って
船団の先頭を取り、東へ東へと、船を進めて行き、着いた所が、難波が崎でした。
 翁は、これによって、大手柄を立てました。亀さんもおおよろこびでした。
でも、翁の手柄の陰に亀さんの力があったことは、だれ一人、考えてくれません。

 いそがしい主人を後に、難波からひとまず一人ぼっちで、引き上げてきた亀さんでした。
主人の帰りを、今か今かと毎日、沖をにらみながら、待ち焦がれ、何時までも渚から
離れませんでした。
 ながい間の年月を経て、そのうちに、凝り固まって、亀さんはとうとう石になってしまいました。

 いま、家島本島の真浦の桟橋の、目の前にある「水天宮」として祀られ、
島の人々から、「どんがめっさん」と親しみ呼ばれております。

−−−−神武記、参照。
    コウナイの石の有る「西島」の旧名は「高島」です。
    播磨国風土記には、赤穂郡の記載がありません。
    考古学的に、古代吉備国の東端は、加古川までのことが有ったようです。
    家島神社は、式内社。大社。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 コウナイの石を、南西面から見ると、怒り顔にも、泣き顔にも、見えるようでも、あります。
 播磨国風土記の揖保郡の伊刀嶋の条に、よく似た記載があります。

「大きな牡鹿が海を泳いで嶋に就(イタ)った。だから伊刀嶋(イトシマ)とよぶ。」
これですね。
 皆さん、コウナイの石の写真は神奈備別荘(写真掲示板)にありますので,ご覧下さい。

>
> 「家島の、こうないの石」の伝説。(「伝説の兵庫県」西谷勝也・著より。昭和36年)
>
>  家島の西方しもらには、人は住んでいない。地蔵が十体と石碑があり、その上手には
> 畳三畳ほどの岩がある。この岩がまたその近くの松島の石と同様に、美しい石であった。
> 昔、一人の石工が石を切り出していると、突然、石から血が流れ出てきて、
> 「わしは、このままお前に切られて死んでいくが、しもらの上手のこうないの伯母さんの石
> だけは切ってくれるな」という声が、聞こえてくるのである。
>   この石工はそのまま寝込んで死んでしまった。
>  また、ここの石を積んだ船は、風も何も吹かないのに沈んで、
> 船頭もみんな死んでしまった。(坊勢の石工談。)
>
>  −−−この話の記載の本、の復刻版「伝説の兵庫県」が、神戸新聞総合出版センターより、
>     また、シリーズ冊子・家島の昔話が、家島町より、出ています。 −−−
>

[147] Re[145]: 五十  香具 2002/07/11(Thu) 00:17 [Reply]
遠野シリーズ、続石〜神遣神社〜石上神社〜六神石神社!
ワクワクして拝見しています。山の写真もあって陶然と感動。
公開ありがとうございます、お疲れ様でした。
さて「五十」の件、ローマ字表記にすると判りやすいものですね。

> 「五十」を英語表記した場合、iso なのか itho なのか。
> itho なら ito になりやすいし、そのままでもイトと読める。

『イソ←→イト』の変化は十分起こり得る可能性がありそうですね。
・・・と思っていたら、石園坐多久虫玉神社の関連で、
  『石園はイソノ、現・磯野の地。射園神から来ている。
   イは忌・斎で神聖を意味し、ソノ神は園神であり・・・』
という文を『大和の神祭祀』(田中昭三)の中に見かけました。
園神・韓神の園神?! 襲の国とか、曽於の地とか、蘇とか、葛木曾都比古の曾とかを、妄想していたのですが展開が宮内省の二神まで出てきました。
混乱する前に今ひとつ、『神名の五十はイソがイだけになったものか?』をもう少し検討してみます。

[146] Re[144]: 暑中お見舞い申し上げます  香具 2002/07/10(Wed) 23:35 [Reply]
> 伊和志津神社が宝塚市伊孑志に鎮座。
> 伊孑志[イソシ]のお宮と呼ばれています。物柔らかな女性宮司さんです。

宝塚、近いです。『物柔らかな女性宮司さん』ぜひ行きますッ!
以前、Mさんから『宝塚って(言う電波を受けて)何がありますのん?』と聞かれたことがあります。リストアップしかできませんでしたが。伊和志津神社、神奈備収録神社名鑑で拝見しました。女性の宮司さんなのですね。淡路の岩屋神社も優しい女性宮司さんでした。

 五十迹手さんの『イソからイトへ変化して国名となった』の件。
五十迹手(いとて)→「いそいそさ」をほめて「伊蘇志」→伊覩(いと)の国名、
つまり、イトテ→イソシ→イト、と読んではいけないのでしょうね。
はじめの五十迹手さんの名は、後に伊覩の国名が固まってからイトテと名付けられたと。
イソシイ奴→イトテ、イトテの管轄する地→イトの県、だからイソ→イトだと。
とすると、当初の県主の名も、県(国)の名もここには出てきません。神功皇后と仲哀天皇がリニューアルして命名したんだ、と主張していることになるでしょうか。
 アウッ(T-T) 地名説話の罠のような気が〜。
伊都国の名はもっと古いものでしたっけ???
しかし『日本書紀』の編集者は、『イソとイトは関係あるヨ』というヒントを提示しているわけですね!

[145] 五十  玄松子 2002/07/10(Wed) 22:26 [Reply]
「五十」を英語表記した場合、iso なのか itho なのか。
itho なら ito になりやすいし、そのままでもイトと読める。

[144] Re[143]: 暑中お見舞い申し上げます  神奈備 2002/07/10(Wed) 19:27 [Reply]
香具さん>『イソ←→イトが変化した』は、とても興味があります。
伊和志津神社が宝塚市伊孑志に鎮座。
伊孑志[イソシ]のお宮と呼ばれています。物柔らかな女性宮司さんです。
『新撰氏姓録』に「伊蘇志」と言う名前の氏族が載っており、当地を拠点としていたようです。
で、イソシと言う言葉ですが、『日本書紀』仲哀天皇紀に下記のようにあります。
熊襲の叛乱の知らせを受けた神功皇后は仲哀天皇と穴門の豊浦宮に入り、それから九州へ入った天皇皇后は筑紫の伊覩(伊都)県主の五十迹手(いとて)の服属儀礼をともなった出迎えを受ける。五十迹手の「いそいそさ」をほめて「伊蘇志」と言われ、イソからイトへ変化して国名となった。

[143] 暑中お見舞い申し上げます  香具 2002/07/10(Wed) 13:55 [Reply]
『イソ』と『イト』、どっちが元だろうと悩んでしまいました。別々だったかもしれませんが・・・。
十河(ソゴウ)や五十六(イソロク)というように、『十』(トオ)を『ソ』と読む例は知っていましたが、

 五十猛神(イタケルノカミ)
 五十瓊敷入彦命(イニシキイリヒコのみこと)又は、
 五十瓊敷命(イニシキのみこと)
 彦五十狭芹彦命(ヒコイサセリヒコのみこと)
 五十功彦命(イトコヒコのみこと)
 五十真手命(?)
 五十橿八桑枝(イカシヤグハエ)・・・等々、

『五十』を(イ)と読んで、(イソ)ではありません。
(1)『五十』はイソであるが、ソが落ちてイと読むようになった?
  → ならば上記の神名はイソと読んで差し支えない?
  → 50という数字に何かの意味が?
(2)『五十』は始めからイと読んでいた?
   漢字で表記するときに『五』だけだと数字の5の意味に
   捉えかねないので『五十』と表記した。
   例えば、 五十橿 → 五橿
        五十猛神 → 五猛神
   五つの橿、五つの猛神、みたいな感じになります。
  → なぜイと読める他の漢字を使用しなかったのか?
・・・・・・・・・・
(2)は説得力が少ないように思うので、(1)のほうがより確からしいでしょうか。

上の例にある、五十功彦命は『五十』で『イト』と読ませてますね。稀少な例?
『十』トオ(ト)をソと読むこと、トとソが入れ替わるのは一般的なのでしょうか?
「ヒフミヨイムナヤコト」のトは古い読みがそのまま残っているのか、または新しいのか。トで発音しにくい場合はソに変化したのか、その逆かなどと。いろいろな場合によって、地域や集団の違いによって、トのままだったり、ソに替わったりしたのかもしれませんが・・・。それともやはり『五十』に意味があるのか?

『イソ←→イトが変化した』は、とても興味があります。石上(イソノカミ)が、伊都の神にならんかな?などと。(^^;しかし、変化の背景が判りません。論証できるものはないでしょうか。

[142] Re[140]: 「糸」と「島」  玄松子 2002/07/07(Sun) 09:32 [Reply]
> 神奈備の方々におきましては、
> #「越」(コシ)が「越」(オチ)であることは常識だと思いますが、

この「常識」が無い人は、「神奈備の方々」ではないんですかねぇ?

[141] Re[140]: 「糸」と「島」  神奈備 2002/07/06(Sat) 11:21 [Reply]
hvhyさん、こんにちは。
神奈備にもわかるような所での解説ありがとうございます。
> まず「遠智娘」の「遠智」は、「高志」と「遠呂智」の両方に通底する。のみならず、「許勢臣」

の「許勢」も「高志」(越)に通底しますから。
越(こし)と巨勢(こせ)のが似ているということですね。
最近、越(こし)と葛(クズ)とは同じ音だったのではと思い出しており、大和の巨勢であった地域に

近鉄の葛駅があり、傍証の一つかなと・・・

> 「越」(コシ)が「越」(オチ)である
漢字と神話的ということでしょうか。これが正解なら、オチの国から吉備の国への人の流れは多くあっ

たようで、さらに吉備から若狭、越へと大きい流れが想定できそうです。

[140] 「糸」と「島」  hvhy [Mail] 2002/07/05(Fri) 23:50 [Reply]
日本書紀を見れば、「イソシ」が「イトシ」に訛った。
という話が出てきますね。ところが今に言う伊勢神宮は、
そもそも「磯(イソ)宮」です。である以上、「イト」は、
実のところ「伊勢」に繋がる言葉です。これを踏まえるなら、

>「大きな牡鹿が海を泳いで嶋に就(イタ)った。
>だから伊刀嶋(イトシマ)とよぶ。」

件の説話は、古事記・日本書紀が言う「伊勢大鹿首」に、
かなり直接的に繋がるものです。この氏族名は極めて重要。
特に古事記においては「母系」を見落とすわけにはいかない。

「小熊子郎女−−宝王−−坐岡本宮治天下之天皇」

つまり(そういう人物が本当にいたかどうかは別として)
言うところの舒明天皇の祖母が「小熊子郎女」なんですね。(※書紀は「菟名子夫人」に作る)
そしてこの「小熊子郎女」は「伊勢大鹿首之女」と記される。

木簡などで確認できる実在人物は、天智・天武の直後の世代です。
実在を確認できる人物の祖父に当たるのが舒明天皇というわけです。
その意味で、実質的な皇祖というのは、このあたりと言えるでしょう。
ならば、この「伊勢大鹿首」が何であるのか?という問題は実のところ、
「物部」や「蘇我」が何であるのか?とまったく同じくらい重要でしょう。

#さらに加えるなら、「嶋垂根−−糸井比売」という古事記の系譜。
#これも「伊刀嶋」に繋がります。「嶋垂根」は「櫻井田部連」の祖。
#「櫻井田部連」に縁が深いのは安閑天皇。この安閑天皇の時代に実は、
#「香香理媛」に対して「櫻井屯倉」と「茅渟山屯倉」が設定されている。
#この「櫻井」も「茅渟山」も地名ですが、「蘇我倉山田石川麻呂」の娘に、
#「遠智娘/姪娘」なる姉妹がいて、各々の別名を「茅渟娘/櫻井娘」と言う。
#ところが「香香理媛」は「許勢臣」の系統です。神奈備の方々におきましては、
#「越」(コシ)が「越」(オチ)であることは常識だと思いますが、そうすると、
#ここで「高志」(コシ)の「八俣遠呂智」の話がクローズアップされてくるのです。
#まず「遠智娘」の「遠智」は、「高志」と「遠呂智」の両方に通底する。のみならず、
#「許勢臣」の「許勢」も「高志」(越)に通底しますから。「伊刀嶋」の話ですこれは。
#(そういう人物がいたかどうかは別として)「蘇我馬子」は「嶋大臣」とも呼ばれていた。
#そして「蘇我倉山田石川麻呂」と「蘇我馬子」は言わば親戚関係。何か糸が見えるはずです。」

[139] Re[138][137][115]: コウナイの石  豆石煌 2002/07/03(Wed) 21:12 [Reply]
> > > はじめまして、姫路城の忍者・ドロンパです。
> こんばんは ようこそ。
> > >   この石を、南西面から見ると、怒り顔にも、泣き顔にも、見えるようでも、あります。
> >  播磨国風土記の揖保郡の伊刀嶋の条に、よく似た記載があります。
>
> 「大きな牡鹿が海を泳いで嶋に就(イタ)った。だから伊刀嶋(イトシマ)とよぶ。」
> これですね。
>  皆さん、コウナイの石の写真は神奈備別荘(写真掲示板)にありますので,ご覧下さい。


「家島の、こうないの石」の伝説。(「伝説の兵庫県」西谷勝也・著より。昭和36年)

 家島の西方しもらには、人は住んでいない。地蔵が十体と石碑があり、その上手には
畳三畳ほどの岩がある。この岩がまたその近くの松島の石と同様に、美しい石であった。
昔、一人の石工が石を切り出していると、突然、石から血が流れ出てきて、
「わしは、このままお前に切られて死んでいくが、しもらの上手のこうないの伯母さんの石
だけは切ってくれるな」という声が、聞こえてくるのである。
  この石工はそのまま寝込んで死んでしまった。
 また、ここの石を積んだ船は、風も何も吹かないのに沈んで、
船頭もみんな死んでしまった。(坊勢の石工談。)

 −−−この話の記載の本、の復刻版「伝説の兵庫県」が、神戸新聞総合出版センターより、
    また、シリーズ冊子・家島の昔話が、家島町より、出ています。 −−−

[138] Re[137][115]: コウナイの石  神奈備 2002/07/02(Tue) 22:15 [Reply]
> > はじめまして、姫路城の忍者・ドロンパです。
こんばんは ようこそ。
> >   この石を、南西面から見ると、怒り顔にも、泣き顔にも、見えるようでも、あります。
>  播磨国風土記の揖保郡の伊刀嶋の条に、よく似た記載があります。

「大きな牡鹿が海を泳いで嶋に就(イタ)った。だから伊刀嶋(イトシマ)とよぶ。」
これですね。
 皆さん、コウナイの石の写真は神奈備別荘(写真掲示板)にありますので,ご覧下さい。

[137] Re[115]: コウナイの石  無責忍者・ドロンパ 2002/07/02(Tue) 21:07 [Reply]
> はじめまして、姫路城の忍者・ドロンパです。
> コウナイの石について書いてあったのでちょっと紹介させていただきます。
> 家島は、国生みの島オノゴロ島の伝承地としてはるか昔から伝えられている島です。
> 家島の西島にあるコウナイの石は、昔から、天の御柱とされ、瀬戸内海の航海の守り神
  とされていました。
> 山の頂上にある高さ8メートルの巨石は、一見の価値ありです。

  この石を、南西面から見ると、怒り顔にも、泣き顔にも、見えるようでも、あります。
 播磨国風土記の揖保郡の伊刀嶋の条に、よく似た記載があります。

[136] Re[135][134]: 「とみ」について  神奈備 2002/07/01(Mon) 20:57 [Reply]
> 先週、千葉に行ったので、ちょっとはまってます。

天富命
対馬,紀州,安房、上総に見えます。阿波には見えませんね。

千葉のアップ,楽しみにしております。長髄彦逃亡伝承などありましたか。

[135] Re[134]: 「とみ」について  玄松子 2002/07/01(Mon) 20:06 [Reply]
> 阿波忌部を率いて東国へ行ったのは御祭神の天冨命ですね。

そうですね。
太玉命の孫で、房総開拓の神だそうです。
先週、千葉に行ったので、ちょっとはまってます。

[134] Re[133][130]: 「とみ」について  神奈備 2002/07/01(Mon) 19:53 [Reply]
> > 天冨命は?
勝浦は阿波の国にもありましたね。
阿波忌部を率いて東国へ行ったのは御祭神の天冨命ですね。

[133] Re[130]: 「とみ」について  玄松子 2002/07/01(Mon) 18:32 [Reply]
> 『トミ』=遠見=鳥見では?なかったのか。

天冨命は?

[132] Re[130]: 「とみ」について  Setoh 2002/07/01(Mon) 12:56 [Reply]
> 『トミ』=遠見=鳥見では?なかったのか。

八咫烏の案内で忌部系の紀の国の海民が流れていって,漂着した岬の神社?

鳥見神社が印旛郡に点在していますが,これとは関係ないのでしょうか。遠い?

[131] Re[130]: 部分訂正  習志野のてつ [Mail] 2002/07/01(Mon) 11:37 [Reply]
一部訂正
> そのまま戻ってきたら、まだ陸は見えない。あの「ノア」も舟から鳩を放
> って、戻って来ないことから陸地の存在を知リました。 ←間違いです

ノアの箱舟は、山の上に着いたから、陸地の存在は判ってましたね。
陸地が十分乾いて、住める状態になっているか確認する為、鳩を飛ばした。
最初空しく戻ってきて、二回目がタバコの「ピース」ののデザイン、オリーブ
の枝を咥えて戻り、三度目に放ったら戻ってこなかった…でした。 

[130] 「とみ」について  習志野のてつ [Mail] 2002/07/01(Mon) 11:07 [Reply]
先日梅雨の晴れ間に、千葉県勝浦市、遠見岬(トミサキ)神社へ行って
きました。町の中心部のすぐ外れ、勝浦港が一望でき、街中も浜も沖も
見渡せる絶好の眺望でした。
泊瀬女さんと違い、私は生まれて初めて、この神社で蛇を見かけました。
最も割り箸を少しだけ長くした程度の、今年生まれたばかりと思われる
かわいい蛇でした。鳥に見つかれば食べられてしまいそう?
蛇が健やかに育って欲しいと思いました。そこで思い付き。
『トミ』=遠見=鳥見では?なかったのか。

高い所からは遠くが見えます。船乗りは、比較的大型の鳥を舟に乗せます
(たとえばピーターパンの海賊船長は、大型インコを肩に乗せています)
陸が見えない、帰るべき方向が判らない時、鳥を放つ。鳥も高みに駆け上
れば遠くが見える。舟から飛び立つ鳥が、飛んでゆく方向に陸がある。
その方向に舟を進めるのです。
そのまま戻ってきたら、まだ陸は見えない。あの「ノア」も舟から鳩を放
って、戻って来ないことから陸地の存在を知リました。

古代人の舟に、よく鳥の格好をしたり、頭に羽を付けている像を見かけます。
これらは「無事に戻れるように」との祈りを込めたもの、だと思いました。

[129] 吉備,日矛,アホクサイその五  Setoh 2002/07/01(Mon) 09:19 [Reply]
キビとヒボ kibi hibo これが同じである例示。

塞神を久那斗神とか船戸神と云い、kuとhuとは交換可能。
クとフ → キとヒ へと拡張できるのでは。清き心,清い心,清ひ心。

ヒコとホコ,男ですな。ビとボ,悪い(強い)男か。

キビツとヒボコ,概ね同じものを指していると言えます。




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