青草談話室ログ平十五年 九月 2003.1 |
[254] Re[253]: モモ・カモ 箸墓と大坂と百襲姫 13 神奈備 | 2003/09/29(Mon) 15:51 [Reply] |
> 百襲姫の話との共通点があるように感じます。モモってカモかも。 玄松子さん、示唆的なお話、ありがとうございます。このストーリーの発端は、鴨族がこの国を支配していたその形とは? という問いにありました。それへの答えは出ていませんが、最終回に少しカモつながりのお話をいたします。 余談ですが、梅と桃、梅は母、母母で兆、兆は命の永遠を意味するそうで、その辺りから桃は魔よけとなったのかも。 境 大坂と大市 古墳の石室に生まれ故郷の石を使う慣習はあったようです。阿蘇山系の石が讃岐、播磨、紀伊、山城などで使われていることは良く知られています。 また、紀の川沿いでとれる緑泥偏岩が摂津に古墳に使用されているようです。多分本貫の地の石でしょうから、紀氏の古墳だったのかも。 まさか全員と云うことではなく、新天地に侵攻してそこを支配下に置いて地域の王とか巫女王になった特段の人がそのようにされたのでしょう。 台与の墓、箸墓(大市墓)の造営に大坂山の石が運ばれました。葺き石は近くの河原の石。頂上の石は大和国中の東側では採取できないサヌカイトです。 台与には美しい音のでるサヌカイトが神と交流する楽器だったのでは。 九州地方でのサヌカイトの産出は、佐賀県多久市の鬼鼻山、長崎県牟田、大分県姫島が著名。台与は東遷途中に讃岐に滞在しており、更に二上山のある大和へ向かっています。 台与の埋葬場所にはサヌカイトが要るのです。それにしては故郷はあまりにも遠い。 百襲姫は大坂峠から箸中へやってきた。大坂峠へは讃岐からやってきた。讃岐へは九州からやって来た。誕生の地と云われる黒田慮戸とは九州の黒田だったのか。姫島のサヌカイトを神器に使ったのか。 いずれにしても、遥か遠い異界を大坂峠で代表させたのです。ここはサヌカイトの産地でもあり、大和と西の異界との境界でもあったのです。これほどのピッタリの地はまたとあろうか。 百襲の百は百済のクとすれば、百襲姫はクソヒメとなるとのヒントを頂いております。クソ、丹塗矢伝説を想起します。ホトに箸も同ジャンルです。 クソはコソに変わるようです。百襲姫=コソヒメ、即ち神姫、姫神、ヒメコソ。ヒメコソ神も九州から東遷しています。 天日矛に追われた阿迦留比売も、小郡市の媛社神社に祀られている饒速日尊も東遷しています。 百襲姫は女神のようで、どうやら阿迦留比売に近い存在、鴨族の下照比売の別の名であったのでしょう。 天日矛神から一時は逃れたものの、穴師に兵主神として天日矛が降臨、比売の心は揺れ動き、それを三輪大神に咎められたということでしょう。 |
[253] モモ・カモ 玄松子 | 2003/09/28(Sun) 21:10 [Reply] |
能登の神社を調べていたら、こんなのがありました。 百沼比古神たち兄妹が、桃の木の舟に乗って漂着した地を百浦(ももうら)という。 この桃の木舟は、うつぼ舟による貴種流離譚に繋がるものと考えられています。 のちに兄妹は、百沼比古神社、奈豆美ひめ神社、加茂神社に祀られます。百沼比古神社、奈豆美ひめ神社ともに、昔は鴨大明神と呼ばれ、鎮座地一帯は上賀茂神社の 社領だったそうです。 百襲姫の話との共通点があるように感じます。モモってカモかも。 |
[252] Re[251][249]: 箸墓と大坂と百襲姫 12 神奈備 | 2003/09/24(Wed) 19:59 [Reply] |
> 前方後円墳の向きはどっちが正面なんでしょう。神社マニアとしては円が本殿、方が拝殿のイメージなんですが。 箸墓古墳では方の台形の底にお詣りするように祭壇が設けられています。これは後の世のことでしょうが、実際には被葬者がどのような向きで寝かされているのかも問題としてはあるんでしょうね。 『実在した神話』原田大六著では、平原弥生古墳の被葬者の又が日向峠からの日の出に感精するようだと述べておられます。 > 箸墓が穴師向きとすると崇神天皇陵は巻向向き?景行天皇陵は龍王向き? 崇神天皇は三輪山の神の上に立ちたかったのでしょうね。 生前には腹にすえかねる所多し? |
[251] Re[249]: 箸墓と大坂と百襲姫 12 玄松子 | 2003/09/24(Wed) 12:21 [Reply] |
漢字だけではなく考古学に関してもド素人の玄松子です。 > 気にかかるのは、箸墓の方向が兵主神社の方を向いている事、 前方後円墳の向きはどっちが正面なんでしょう。神社マニアとしては円が本殿、方が拝殿のイメージなんですが。 箸墓が穴師向きとすると崇神天皇陵は巻向向き?景行天皇陵は龍王向き? |
[250] 箸墓と大坂と百襲姫 13 神奈備 | 2003/09/24(Wed) 10:20 [Reply] |
崇神王朝の三輪神への裏切りは、祭り上げてしまった三輪の神への祭りをおろそかにしたこと。 即ちヌナキイリヒメに託して自前の倭大国魂神を祀らせたが、姫の毛髪が抜け落ちたと云います。三輪の神の祟り。それではと云うことで、物部連の祖伊香色雄を祭神之物を作らせ、市磯長尾市を神主にして倭大国魂神を祭ったのです。場所は穴磯邑とされます。現在、この地に祭られているのは穴師坐兵主神社であり、神体を矛としており、天日矛を祭神と考えることができます。 台与の後見人として大和入りした伊都国王は、『筑前国風土記』逸文の怡土郡の条に、怡土県主の祖五十跡手の末裔と自己紹介とし「高麗の国の意呂山に、天より降り来し日桙の苗裔、五十跡手是なり。」と云っています。その血の流れをにあるのでしょう。 穴師に祀られた国魂神とは兵主神即ち天日矛神のことであった。市磯長尾市、彼は伊都国王の後裔であったようだ。但馬の出石神社の神主家は長尾市の末裔と云う。単に神宝を取りに行って神主家になるはずがない。 百襲姫の古墳の方向が穴師兵主神社の方向を向いているのは有名な話。これは百襲姫が本心で祀っていた神は兵主神であったと云うことを示しているのでしょう。 三輪の神の妻が内心兵主神を祀る、前代未聞の醜聞である。 王権にとってもまずいのである。巫女王として信じる処が逢ってのことだろうが、神罰を蒙らざるをえない。 兵主神は巻向山頂に降臨、三輪山頂より100mも高い山。背後からの牽制となったのかも。 頂上を結ぶと神武陵に突き刺さる。 新しい時代が始まり、邪馬台国の栄光を引っ張った台与は既に過去の人になっていたのでしょう。寂寥感もあり、故郷を懐かしむ気持ちの高じていたのかも。 |
[249] 箸墓と大坂と百襲姫 12 神奈備 | 2003/09/22(Mon) 20:29 [Reply] |
百襲姫の死 百襲姫の死に方、墓の造営が大市でなされた意味ですが、高天原の織屋の稚日女のように、他の神の乱暴で死んだのではなく、タブーを犯した、それも神との約束を破ったと云う大罪での死であり、処刑と言えるのかも知れません。それでも三輪の神の妻として、と言うよりは栄光の邪馬台国の女王として君臨した台与と言う名だたる姫だから、箸墓の地に葬られたのでしょう。 死に方の記述、この姫には三輪の神への重大な裏切りがあったのです それは一体何でしょうか? 気にかかるのは、箸墓の方向が兵主神社の方を向いている事、ただ兵主神社は社伝では垂仁天皇二年創建と社伝にあり、百襲姫死亡時にはこの神は鎮座していなかったことになるんですが。 邪馬台国が大和へ入るにあたって、三輪山の神(在住の大和の住人と物部氏の神)の許しをえたはずです。 長随彦についていた大和の国魂神が彼を離れたゆえ、滅んでしまったと折口信夫は語っています。女王台与に国魂神が付着していたのでしょう。 邪馬台国が東遷して来た段階で、三輪の神は単に大和国の国魂神と云うだけではなく、より広い王権の支配地の国魂神となったのです。 |
[248] 箸墓と大坂と百襲姫 11 神奈備 | 2003/09/21(Sun) 18:15 [Reply] |
境には市が出来るようだ。 市の機能を『周縁の古代史』小林茂文著から引用しよう。 【交換】 物資の交換。 【歌垣】 海柘榴市で武烈天皇が太子であった頃、平群鮪が物部影媛を争う。共同体を異にする男女が集う。そのような意味で、市は山と里の境目、峠や橋などの境に立つ。 【邪霊祓除】推古天皇の時、随からの使いを海柘榴市に上陸させ、障神を祭った。 【処刑】 崇仏論争で蘇我氏が敗れた時、海柘榴市で善信尼などの衣を剥いで鞭打ちを行っている。公開処刑と云うこと。 【死者との交霊】 柿本人麻呂が軽市でなき隠妻の名を呼び、袖を振る。 【祈雨】 虹が出る市が立つと云う。 写真掲示板にZOUさんが投稿してくれた三輪山にかかる虹 http://kamnavi.hp.infoseek.co.jp/h1402.htm 2/15(金) を見ていますと、大市にも市がたったのかも。 |
[247] Re[245][242]: 神奈備「目妙ヒメ」 神奈備 | 2003/09/20(Sat) 20:27 [Reply] |
> > モモソヒメに関する伝承や賀茂との類似も頷ける。のではないか。と、ふと思いました。 > > 朱塗矢伝承の変形と見るのですね。正鵠を得ているようです。 某氏のヒントから 百済から百はクと訓める。 百襲はクソも考えられ、古事記の勢夜陀多良比売(の件で、その美人の大便(クソ)まる時、丹塗矢に化りて、その大便(クソ)まる溝より流れ下りて 、その美人(ヲトメ)のほとを突きき。 のクソにあたる。 クソがコソまで変わると、ヒメコソが出来るとか。 |
[246] 箸墓と大坂と百襲姫 10 神奈備 | 2003/09/19(Fri) 20:22 [Reply] |
大坂峠の続き 『常陸国風土記』香島の郡 土地の人はいう。「美万貴天皇のみ世に、大坂山の頂上に純白の御着物を着ておいでの、白い桙の御杖をお持ちになった{おん方さま}がおさとし(託宣)なされるお言葉は、「わが前(私さま)を丁寧にお祭りするならば、お前の統治する領土を大国小国いずれにもあれ言依さし(統治できるようにし)給おう」とおさとしになった。云々。 この教えは香島の国においでになる天津大神の教えであると、大中臣の神聞勝命が云っている。 この神は武甕槌神でしょう。大和の二上山頂の二上神社の祭神は大國魂神と豐布都魂神、豐布都魂神は武甕槌神とされます。 大國魂神は大和国の国魂神で、官製では大和神社の神、民間信仰では三輪明神のことかも。 大坂峠の石 金属時代になってからはサヌカイトへの需要は減少したのでしょうが、境としての大坂峠の重要性は変わることはなかった。後世にも、王権の内部争いや壬申の乱でも登場してくる峠。 坂、魑魅魍魎が跋扈する境界である。 大坂峠は古代大和の人々にとっては、大和・河内を隔てる境界以上に、生・死、現世・他界を隔てる峠であった。従って大坂山の石が特に選ばれたのでしょう。 |
[245] Re[242]: 神奈備「目妙ヒメ」 神奈備 | 2003/09/18(Thu) 16:12 [Reply] |
> モモソヒメに関する伝承や賀茂との類似も頷ける。のではないか。と、ふと思いました。 朱塗矢伝承の変形と見るのですね。正鵠を得ているようです。 三輪山を斎祀る氏族の後裔に大神氏や鴨氏がいます。 青草一発 目妙ヒメを見そめる神の御名は妙見様。 |
[244] なぜ、「卑弥呼と思われるのか」か 角丸山 | 2003/09/18(Thu) 14:15 [Reply] |
>玄松子さん 屋上屋を架しますが、これまでの論考にお付き合い下され有難うございました。私も自分なりに本件一定の絞込みを付けることができました。ではまた。 |
[243] 箸墓と大坂と百襲姫 9 神奈備 | 2003/09/18(Thu) 07:58 [Reply] |
大坂峠のお話。 【讃岐】引田白鳥と阿波の鳴門との境を大坂峠と云う。 【大和】穴虫峠は大坂峠とも呼ばれており、東の兵主神社の鎮座する穴師とセットの地名かも。 ここは二上山の北側で、現在は近鉄が広軌と狭軌の2本、西名阪、165号など、交通の要衝。 箸墓造営に大坂山の石を運んだ。何故、大坂の石を箸墓まで運んだのだろうか。 先ず、古典にある(河内−大和の境の)大坂峠 『古事記』応神天皇記 かれ、この須々許理大御酒を醸みて献りき。ここに天皇、この献りし大御酒にうらげて、御歌 に曰りたまはく、 須々許理が 醸みし御酒に われ酔ひにけり ことな酒ゑ酒に われ酔ひにけり《50》 かく歌ひて幸行しし時、御杖以ちて大坂の道中の大石を打ちたまひしかば、その石走り避りき。かれ、諺に「堅石も酔人を避く」といふ。 大坂の道は大坂峠のこと。境の石を取り除く、即ち応神天皇が河内国と大和国を支配下に置いたと云うことかも。 『日本書紀』応神天皇紀 九年春三月 天皇の夢に神人有して、誨へて曰はく、「赤盾八枚、赤矛八竿を以て、墨坂神を祀れ、赤黒盾八枚、黒矛八竿を以て、大坂神を祀れ」とのたまう。 大和からは東西の境に当たる坂。大坂神とは大坂山口神社なのか葛木二上神社なのか、加守神社も鎮座している。加守神社は蟹守神を祀る。この神は箒を持つ神で、境は箒で掃き清められる所であったのに符合。 東から来た人は墨坂から、また西から来た人は大坂から、はじめて三輪山を見ることが出来る。坂の神を祀っただけではなく、そこから三輪山の神を拝したのでしょう。 |
[242] 神奈備「目妙ヒメ」 玄松子 | 2003/09/18(Thu) 07:50 [Reply] |
大三元さん> 原点:ホソ → 細 → 妙 (日本書紀が採用) 大三元さん> → 百襲 → 母母曽 大三元さん> ↓ ↓ 大三元さん> (書紀採用) (古事記採用) 「モモソヒメ」というのは特定な固有の名ではなく、賀茂の玉依姫のような抽象的な名称、「神に愛でられるほど見目麗しい女性」という意味であれば。モモソヒメに関する伝承や賀茂との類似も頷ける。のではないか。と、ふと思いました。 |
[241] Re[240]: なぜ、「卑弥呼と思われるのか」か 玄松子 | 2003/09/18(Thu) 07:39 [Reply] |
> ウツボ船は一般的に死体を水葬する具として使用されています。大和方面から讃岐東岸への旅程においてウツボ船を生きたモモソヒメを載せて運ぶということは異常です。 うつぼ舟は、空舟。木をくりぬいただけの簡素な舟ですが、全国のうつぼ舟伝承では神や高貴な人物が漂着する小道具ですね。その意味において「追われた」人物の乗り物にふさわしいと言えるでしょう。 > 讃岐が石製棺の生産地であること、(以下略) 讃岐が石棺産地であるから、讃岐へ来るのは石棺目的と限定すれば、 > 最短距離を通るのが理にかなうと考えると石棺輸送の可能性以上に適切な説明を見出せにくい。 目的を石棺に限定すればの話ですが、限定しなければ、「石棺輸送の可能性」などという話も出てこないのではないでしょうか。 > >卑弥呼が「奈良を追われる」という話が、よく理解できませんが。 > > 私は奈良を追われということはいかにも不自然ですので、 =卑弥呼と考えると不自然ですが、そうでなければよくある伝承の一形態と解釈できます。不自然であるから「作者が加えたもので意味がないことと見ました」とするのはご都合主義にほかなりません。 「倭迹々日百襲姫命=卑弥呼」という考えを否定しているわけではありませんが、倭迹々日百襲姫命=卑弥呼と仮定して、幾つかの仮説を重ね、それらの仮説を総合すると、倭迹々日百襲姫命=卑弥呼という結論が出た、と書かれているようにしか見えません。僕の理解力の不足が原因なのかもしれませんが。 |
[240] なぜ、「卑弥呼と思われるのか」か 角丸山 | 2003/09/18(Thu) 06:08 [Reply] |
>>ウツボ舟が弥生後期後半の木製舟形棺を意味する可能性があること。 >可能性とは何でしょう。 全国にウツボ船に関する伝承が残っていますが、それはすべて木製舟形棺なのでしょうか。 ウツボ船は一般的に死体を水葬する具として使用されています。大和方面から讃岐東岸への旅程においてウツボ船を生きたモモソヒメを載せて運ぶということは異常です。これは何のためかと考えると、この文脈においてのみ可能なことですが、讃岐が石製棺の生産地であること、更に上陸地点安戸の浦、大内町東岸が「太陽の道」でもあるが、同時に大和から石材産地方面に向かう最短距離であること、これは石棺の如き重量物を陸送する場合、古代では逆ワイ字型のそりを利用したと思われますが、最短距離を通るのが理にかなうと考えると石棺輸送の可能性以上に適切な説明を見出せにくい。しかし、仮説であり断定はできないので可能性の域を出ない。こういうことであり、可能性の話ですから、この逆を取って全国のウツボ舟を一切舟形棺とすることができるかといえば、それは歴史的に由来として舟が棺になったことはありえるでしょうが、それは早期に舟形棺がウツボ舟から発展した地方と場所が存在したという仮定において、その状況下においてはいえるでしょうが、普遍的に言えることではないと思います。 >また、仮に弥生後期に存在した7・8歳の童女であったとして、=卑弥呼とする理由にはならないのではないでしょうか。 これも話として卑弥呼の時代でありえるということで断定的なことではありません。 >卑弥呼が「奈良を追われる」という話が、よく理解できませんが。 私は奈良を追われということはいかにも不自然ですので、これは御詠歌という物悲しいメロディーの音楽的効果や童女があえて無理な旅行強いられることの不自然さを補うために御詠歌を作った作者が加えたもので意味がないことと見ました。 |
[239] Re[238]: なぜ、「卑弥呼と思われるのか」から 玄松子 | 2003/09/17(Wed) 22:28 [Reply] |
> ここに出てくる倭迹々日百襲姫命の年齢が7-8才であること。 これは記載されている通りですが、 > ウツボ舟が弥生後期後半の木製舟形棺を意味する可能性があること。 この可能性とは何でしょう。 全国にウツボ船に関する伝承が残っていますが、それはすべて木製舟形棺なのでしょうか。 また、仮に弥生後期に存在した7・8歳の童女であったとして、=卑弥呼とする理由にはならないのではないでしょうか。 卑弥呼が「奈良を追われる」という話が、よく理解できませんが。 |
[238] なぜ、「卑弥呼と思われるのか」から 角丸山 | 2003/09/17(Wed) 21:47 [Reply] |
>なぜ、「卑弥呼と思われるのか」 先ず、一番大事なのは、 >[224] 箸墓と大坂と百襲姫 3 >社さんの水主神社 >倭迹々日百襲姫命は七才の年に大和の国黒田の盧戸より出て八才の時東讃引 >田の安戸の浦に着く。御殿、水主に定め造営せられたとあります。 ここに出てくる倭迹々日百襲姫命の年齢が7-8才であること。 次には参考HPにある「百襲姫が7歳にして奈良を「追われ」、8歳で大内町東岸にウツボ舟で流れ着き」のウツボ舟が弥生後期後半の木製舟形棺を意味する可能性があること。 したがって倭迹々日百襲姫命は倭人伝にある没年のAD248年に「年已に長大にして」という卑弥呼と時代が合う。だから倭迹々日百襲姫命=卑弥呼。 こうして解決される謎とは童女が渡海をするという奇怪な話は石製舟形棺製作に際し、宗教上の理由で巫女王卑弥呼の臨席が不可欠であったからであるということ。 卑弥呼か?という問いが前提というか、そうした結論の根拠とするものは上記の年代と黙示的に想定される巫女王の儀式執行です。 ご指摘の通り、玄松子さんに対するこの説明が抜けておりました。お詫びします。 |
[237] Re[236]: 倭迹々日百襲姫命は卑弥呼か 玄松子 | 2003/09/17(Wed) 19:17 [Reply] |
> 記紀の文脈では倭迹々日百襲姫命は皇女ですが、これは倭人伝の卑弥呼を神功 皇后で「消化」したために説話が消滅した可能性があります。 「卑弥呼か?」という問いの前提が「卑弥呼と置いてみた」ということでしょうか。 卑弥呼と置く根拠はなんでしょうか。卑弥呼と置くことで解決されるなぞはなんでしょうか。 なぜ、「卑弥呼と思われるのか」、から始めていただかないと、僕には話が見えませんが。 |
[236] 倭迹々日百襲姫命は卑弥呼か 角丸山 | 2003/09/17(Wed) 16:32 [Reply] |
玄松子さんにご回答申し上げます。 >倭迹々日百襲姫命が皇女じゃなくて「「女王」というのは一般的な解釈でしょうか。 記紀の文脈では倭迹々日百襲姫命は皇女ですが、これは倭人伝の卑弥呼を神功 皇后で「消化」したために説話が消滅した可能性があります。そこで倭迹々日百襲姫命=卑弥呼と置いてみました。 >「木棺が使用されていた時代」というのはいつの頃でしょうか。 寺沢編年で弥生後期後半というとAD200年のやや前辺りのようです。 一例ですが当時は弥生墳丘墓といったらしいです。下記をご参照ください。 http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/2%EF%BD%A53-01-01-01-01.htm >倭迹々日百襲姫命が、その時代の「人物」だというのはどこから出たのでしょうか。 卑弥呼=倭迹々日百襲姫命について言えば、倭人伝にある「年已に長大にして」という表現については「年増」程度であるといった見方もありますが、額面どおりとれば相当の年配と思います。仮にAD200年で6-7才として没年のAD248年では54-55才程度になります。その時代とは「弥生後期後半からAD248年まで」のことと解釈します。 |
[235] 箸墓と大坂と百襲姫 8 神奈備 | 2003/09/17(Wed) 15:55 [Reply] |
大内と大市と 【讃岐】『和名抄』大内郡は於布知(オフチ)で、引田、白鳥と云う郷があります。讃岐の於布知(オフチ)は大きい内裏のように伝えられていますが、多分付会でしょう。 現在は寒川郡とあわせて大川郡。 【大和】百襲姫の墓を大市墓と称するように、百襲姫は別名を大市姫と称したのかも知れません。箸墓は大和国城上郡於保以知郷にありとあります。 神大市姫と言う神がいます。素盞嗚尊との間に宇賀之魂神と大歳神と言う両穀神を生んでいます。国母(玖邇阿礼比売)の娘とするにはふさわしい扱い。 なお『平成祭データ』には、百襲姫を祀る神社の鎮座する香川県、奈良県には神大市姫を祭神とする神社は登録されていません。だからと云って神大市姫を百襲姫と云う訳ではないんですが、チト面白い。 ただ、逢坂の大坂山口神社の社頭由緒書きには神大市姫を祭神としていると記しているようです。 箸墓近辺で著名な市は海柘榴市ですが、ここは上市とも呼ばれていました。箸中はそれに対しての大市と言うことでしょうか。マーケットとしての箸中と言うのはあまり聞きません。 古代都市巻向の衰退と共に早々に市が衰退したのかも知れません。 なお、箸墓の地は、巻向都市の周縁部であり、境界と言えないことはなさそうですが・・・。 参照 http://www2.begin.or.jp/sakura/maki01.htm |
[234] Re[233]: 倭迹々日百襲姫命は卑弥呼か 玄松子 | 2003/09/17(Wed) 13:29 [Reply] |
倭迹々日百襲姫命が皇女じゃなくて「「女王」というのは一般的な解釈でしょうか。 「木棺が使用されていた時代」というのはいつの頃でしょうか。 倭迹々日百襲姫命が、その時代の「人物」だというのはどこから出たのでしょうか。 |
[233] 倭迹々日百襲姫命は卑弥呼か 角丸山 | 2003/09/17(Wed) 12:13 [Reply] |
同じく長江系文明の流れを引くのではないかと思われるチベットのダライラマ選出は男児でありますが全国でキリスト探しのように新生児を探しておりますが、神武記ではタカサジノ(茅原神社近辺かな)で多分全国から7人の乙女を絞り込んだものから1名を皇后イスケヨリヒメに選んでいます。 このコンテスト方式は丹後地方にもそれを髣髴させる伝承がありますので、丹後の方が古いのかなという感じがします。 倭迹々日百襲姫命の場合7-8才で既に他国への出張の大役を与えられるということは既に選出儀式をパスし、女王の座を得ていたことを意味するのでしょう。 13才で女王になったトヨとは別人であり、未だ木棺が使用されていた時代から女王の座にいたということは2世紀末の頃であり、これは卑弥呼だということになるのではと思います。 |
[232] 石棺、鳥飛等 角丸山 | 2003/09/17(Wed) 11:11 [Reply] |
神奈備さんのレスに恐悦致しております。 (1)やはり石棺が絡んでいるのでは: 下記の神奈備さんの過去レス参照いたします。 [224] 箸墓と大坂と百襲姫 3 >社さんの水主神社 >倭迹々日百襲姫命は七才の年に大和の国黒田の盧戸より出て八才の時東讃引 >田の安戸の浦に着く。御殿、水主に定め造営せられたとあります。 土地の人は、 >ここを「大内」と呼び昔日の大内郡の郡名大内町の町名はここに起源となると言 >われております。 これに関連すると見られますが下記の情報があります。 http://www.setouchi.ac.jp/~dnagoh/%91%E5%90%85%8E%E5%91%E5%96%BE%90_%98a%8E%5D.html ここにいううつぼ舟ですがこれは舟形石棺をさすといわれます。 大和地方からの木製の舟形棺の讃岐方面への海上輸送とモモソヒメの関連を考ええるとこれは木製舟形棺が石製に変化する際の原型提供についての伝承ではないかという気がします。 更に、下記の神奈備さんの過去レス参照いたします。 [231] Re[230]: 石棺 > 香川県の綾上/綾歌産 『播磨国風土記』の印南の郡大国の里。 大国とよぶわけは、百姓(おおみたから)の家が多くここにたむろしていた。だから大国という。 この里に山があり、その名を伊保山という。帯中日子天皇(仲哀天皇)を〔崩御されたので〕 神と仰ぎ奉り、〔陵墓造営のために〕息長帯日女命(神功皇后)は石作連大来を連れて讃伎の国の羽若の地の石をお求めになられた。・・・ 記紀編集者は息長帯日女命(神功皇后)に卑弥呼を仮託していたと広く言われております。 この考えに立つとここにいわれる息長帯日女命(神功皇后)も、若年という概念が入っていないものの、モモソヒメと同じ事をいっているのかなとも思えます。 瀬戸内海を隔てた播磨で讃岐と同様の伝承が残ることは讃岐の石棺を大和に導入するに当たり付帯する神事にモモソヒメが参画したという事実を語るのでないでしょうか。 (2)やはり鳥飛モモソヒメでは: 下記の神奈備さんの過去レス参照いたします。 [225] 箸墓と大坂と百襲姫 4 ・・・香川県大川郡大内町水主の水主神社の由緒の「迹々日百襲姫命は東讃引田の安戸の浦に着き、御殿を造営せられたとあります。土地の人は、ここを「大内」と呼びました。」には物部の匂いがしています。 1.引田 饒速日尊の降臨(東遷)にお供をした二十五の部族の中に引田物部と云う一族があります。 讃岐の大内郡に白鳥郷とならび引田郷の名が『和名抄』にも出ています。古い地名です。邪馬台国東遷を率いた物部の部族だったのでしょう。 2. 大内と云うのは越智でもあり、物部姓以前の姓(鳥越説)、また箸墓のことを大市墓とも云いますが、この訛かも。 3.白鳥、と云えば日本武尊ですが、物部の意識の底には白鳥を祖としたとか。(谷川健一著『白鳥伝説』) ・・・ 上記の内「物部の意識の底には白鳥を祖とした」という部分が「鳥飛モモソヒメ」を補強すると思え、まー、今後の積極的展開によって何か別のものが飛び出すこともありえましょうが、現時点ではこの解釈が最も正解に近いのかなとの強い印象を受け、卑弥呼に迫ってきたという気がしました。 |
[231] Re[230]: 石棺 神奈備 | 2003/09/16(Tue) 13:25 [Reply] |
丸山さん こんにちは。 徐市のお話、興味津々、詳しくわかりやすく、一石ならず一席を。 > 阿蘇の石材 摂津、山城まで来ているようです。貴殿のお好きな久米一族の墓かも。生まれ故郷の石で葬られる、権力者の贅沢だけではない祈りがあったのかも。 > 香川県の綾上/綾歌産 『播磨国風土記』の印南の郡大国の里。 大国とよぶわけは、百姓(おおみたから)の家が多くここにたむろしていた。だから大国という。 この里に山があり、その名を伊保山という。帯中日子天皇(仲哀天皇)を〔崩御されたので〕 神と仰ぎ奉り、〔陵墓造営のために〕息長帯日女命(神功皇后)は石作連大来を連れて讃伎の国の羽若の地の石をお求めになられた。 綾歌郡国分寺町が石材産出の地のようですね。 この場合、仲哀天皇が讃岐出身とは限らないようですね。 > 二上山のを使った方が安上がりでしょう 大和から見た二上山、何も西方浄土の考えが持ち込まれていなくとも、古代人はこの世とあの世との境を感じていたのかも。 |
[230] 石棺 角丸山 | 2003/09/16(Tue) 09:57 [Reply] |
>神奈備さん 前後のレスを拝読させていただき、九州から大和にいたる東遷の仮説を読ませていただいているうちに、ふと、舟形石棺について読んだ本、これ忘れましたが、を思い出しました。 確か、初めは阿蘇の石材が愛媛県辺りまで来るんですが、その後は香川県の綾上/綾歌産のものが大和地方に出回るって言うんです。 ホケノ山の石棺は二上山のもののようですので、それより後のことになるのでしょうか。 神奈備さんのご指摘の太陽のルートを地図で見てみると石材を大和に輸送する場合の最短距離でもあるんです。 東遷と同時に石材も西国のものを使用すべし(二上山のを使った方が安上がりでしょうに)ってことになったんでしょうか。 |
[228] 箸墓と大坂と百襲姫 7 神奈備 | 2003/09/15(Mon) 19:50 [Reply] |
引田物部が讃岐を重視したのは、讃岐石(サヌカイト)の産地として重要であったことなどによるのでしょう。邪馬台国の女王台与は象頭山に鎮まる神(金比羅神)に大いに感じ入り、讃岐の東に離れた大内の地に暫く逗留。この記憶が大内に倭迹迹日百襲姫命を祀る神社を残したのでしょう。特に水主神社ですが、象頭山の神も水神であった如く、水神を祀っていたことを思わせる社名。 現在も象頭山(ぞうずざん)には金比羅神宮が鎮座。大物主神を祀る。 大和では象頭山と似ている三輪山に神を祀る。三輪山には大和先住の土蜘蛛の祀る蛇神と物部氏が持ち込んだ饒速日尊を習合させた大和の国魂神が祀られていたのだが、台与はこの神と象頭山の神とを習合せしめ、大物主神として祀り込めたのであろう。 縄文時代から二上山でのサヌカイトの産出は行われていた。同時に当地は大和と河内とを結ぶ交通の要衝。先に当地を押さえたのは、当麻物部であり、この枝族は交野物部などと共に先に東遷した物部の枝族でしょう。 当麻物部は二上山の神を祀った。豊布都霊神と大国魂神、即ち物部氏の祖神と国魂神。石上神宮と三輪山・大和神社の神々。 引田物部は二上山の東に拠点を置いた。日置らしく、二上山と三輪山を結ぶライン上であった。また、讃岐神社を祀った。 |
[227] 箸墓と大坂と百襲姫 6 神奈備 | 2003/09/14(Sun) 18:17 [Reply] |
物部氏は東遷した。邪馬台国も東遷した。これが記紀では饒速日尊の降臨と神武東征の物語として語られると言う。 邪馬台国の東遷とは、誰が誰を戴いて東遷したのでしょうか。 邪馬台国の巫女王を奉戴して、大伴氏などがいたのでしょうが、そのグループに物部氏が混ざっていても不思議ではない。また伊都国王の裔で天日矛を奉ずる氏族も巫女王の後見人として重きをなしていたのではないでしょうか。 邪馬台国と共にやってきた物部とは引田物部でしょう。 『卑弥呼と邪馬台国』安本美典著に、筑後川と大和川周辺の地名の分布が距離と方向で良く似ているものがあると指摘があります。 筑後川 三輪町・朝倉町・鷹取山・星野・浮羽町・杷木町・鳥屋山・山田布・田川市・笠置山,御笠・御井町・池田・夜須町。 大和川 大三輸町・朝倉・高取山・吉野山・音羽山・榛原町・鳥見山・山田・田原・三笠山・三井・池田・大和 これらの地名が全部古いとは言えないでしょうが、話半分としても、意図した引っ越しと思われます。また、大和で言いますと、地名の場所にはあまり物部がいないようで、物部の引っ越しに引田物部は同行していないと言えるのでは。 |
[226] 箸墓と大坂と百襲姫 5 神奈備 | 2003/09/13(Sat) 16:25 [Reply] |
邪馬台国が巫女女王を奉じて東遷の途中、この讃岐に立ち寄った名残が讃岐に残る百襲姫を祭神とする神社の存在なのでしょう。引田郷に鎮座しているのは、まさに引田物部がこの移動に大いに絡んでいたことを示しているのでしょう。 大和での引田物部の拠点候補地は以下の通り。 乘田神社「大己貴命」桜井市白河 三輪山の東 調田坐一事尼古神社 新庄町疋田 琴平神社 広陵町疋相 日置部は日祀部でもあり、太陽祭祀だけではなく、方位、氏族の配置などにも主導的な役割を果たした氏族だったのでしょう。そのような職能を持つ物部の一族が引田物部であったのかも知れません。 引田物部の大和での拠点は、日祀部の祀った他田坐天照御魂神社も含めてまさに太陽の道にそっているのが一つの証でしょう。これらの地図を神奈備写真館にいれておきましたので、ご覧下さい。 北葛城郡広陵町三吉は疋相のやや北側ですが、何と讃岐神社が鎮座、大國魂命、若宇加能賣命、大物主命を祀っています。 |
[225] 箸墓と大坂と百襲姫 4 神奈備 | 2003/09/12(Fri) 15:59 [Reply] |
香川県大川郡大内町水主の水主神社の由緒の「迹々日百襲姫命は東讃引田の安戸の浦に着き、御殿を造営せられたとあります。土地の人は、ここを「大内」と呼びました。」には物部の匂いがしています。 1.引田 饒速日尊の降臨(東遷)にお供をした二十五の部族の中に引田物部と云う一族があります。 讃岐の大内郡に白鳥郷とならび引田郷の名が『和名抄』にも出ています。古い地名です。邪馬台国東遷を率いた物部の部族だったのでしょう。 2. 大内と云うのは越智でもあり、物部姓以前の姓(鳥越説)、また箸墓のことを大市墓とも云いますが、この訛かも。 3.白鳥、と云えば日本武尊ですが、物部の意識の底には白鳥を祖としたとか。(谷川健一著『白鳥伝説』) 4.讃岐国大川郡引田郷に鎮座する物部系と思われる神社 石神神社「布都御魂神」大川郡引田町川股 石上神社「布都御魂神」大川郡引田町中山 この社名と云い、字の名と云い、いかにも物部的。 |
[224] 箸墓と大坂と百襲姫 3 神奈備 | 2003/09/12(Fri) 05:30 [Reply] |
習志野のてつさん 賛意表明ありがとうございます。おっしゃるように銅矛が重要なポイントになりそうですね。 百襲姫の伝承の地 この姫を卑弥呼や台与に想定する話を除けば、讃岐の国に百襲姫のお話が残っています。少し紹介します。 一宮さんの田村神社 倭迹迹日百襲姫は吉備津彦命と西海鎮定の命を奉じ讃岐路に下り給ひよく鎮撫の偉功を立て当国農業殖産の開祖神となられた。 船山神社 倭迹々日百襲姫命、上古讃岐の東部に来り給い、更に移りて当地船山に登り給う。比の地讃岐の中央にして好き所なりと賞でし給いしにより祠を之を奉ず地名百相(倭名鈔百相毛毛奈美)は命の御名によって起れり。 社さんの水主神社 倭迹々日百襲姫命は七才の年に大和の国黒田の盧戸より出て八才の時東讃引田の安戸の浦に着く。御殿、水主に定め造営せられたとあります。 土地の人は、ここを「大内」と呼び昔日の大内郡の郡名大内町の町名はここに起源となると言われております。 百襲姫の伝承が何故に讃岐に残っているのでしょうか。 その昔、大和から貴い比売が流れてきた記憶の残照なのでしょうか。 はたまた、讃岐には大物主を祭る金比羅神宮(象頭山)が鎮座、神妻が讃岐に居てもおかしくはないとか。 |
[223] Re[219][218]: はじめまして タゴリ | 2003/09/11(Thu) 16:24 [Reply] |
> 大和の葛城に高鴨神社が鎮座、本殿の南側奥に西神社が鎮座、この神社の祭神は多紀理毘賣命で、別の表記では田心姫、田凝姫、田霧姫などと記します。 > 何故、大和の葛城の高鴨神社に鎮座しておられるのか、高鴨神社の祭神の味治須岐高彦根命の母神だからです。父神は大国主命です。 > > 田心姫は宗像三女神の一で、宇佐神宮などにも関連しており、これらの神社には多くのわからない所があり、調べて行かれたら色々と発見して行く楽しみがあるでしょうね。 > タゴリさん、神様と一緒に楽しんで下さい。 タゴリ姫はアマテラスオオミカミとスサノオノ命が誓約をした時に剣から生まれた。また、胸方氏という豪族が、宗像の三女神の祭祀をやっていた。古事記を読んでここまでわかりました。また、佐賀県呼子町の加部島にある田島神社も宗像の三女神を祭っていることをHP(http://www2.saganet.ne.jp/kohei/index.htm)で知りました。 このヒメには謎がいっぱいということでしょうか?ますます、興味をそそられます。 ところで、僕は神様を実在した人物と同じ感覚で捉えていて、タゴリヒメの性格とか顔立ちなんかを想像したりしています(我ながら、妖しい興味の持ち方と思うのです)。タゴリヒメという一個神を調べることがどの程度可能なのでしょう。今のところ、前述したほどのことしかわかっていません。 これから、タゴリヒメを焦点に手探りでじっくりゆっくり調べていこうと思います。ご教示有難うございました。丁寧な文章は書きなれないもので、こんどから畏まってない文で投稿させていただきます。 |
[222] 二上山・他 習志野のてつ [Mail] | 2003/09/11(Thu) 13:18 [Reply] |
讃岐で、石切片を並べ、木琴ならぬ石琴を見た事がありました。名前がサヌカイトなの で、讃岐から近畿地方全体に供給していたのかと思っていました。今度の二上山の遺跡 には、ビックリしました。二上山は、縄文時代からの聖なる山だったようですね。 「邪馬台国は東遷した」について――賛意表明と青草論 私は、銅矛文化圏が、銅鐸文化圏を征服or吸収or併合したと思っています。 なぜなら後世の伝承がそうだからです。ヤマトタケルは、杉の広鉾を持って 東征に赴いています。また平安時代でも、はやり病=ほぼ天然痘があると、 鉾を作って、各地に配り、病の調伏を図っています。 一方銅鐸は、風土記のなかでも、既に忘れられた存在になっています。 |
[221] 箸墓と大坂と百襲姫 2 神奈備 | 2003/09/11(Thu) 08:53 [Reply] |
今日の(平15.9.11)の新聞に奈良県香芝市で発見されたサヌカイトの採掘現場のことが記事になっている。旧石器から縄文弥生と連綿と続いた二上山の遺跡。サヌカイトは讃岐で採取でき、ネーミングも讃岐。 香芝市田尻は大阪の柏原市に近いところ。 http://www.mapion.co.jp/c/f?el=135/39/30.497&scl=70000&pnf=1&uc=1&grp=all&nl=34/32/34.392&size=500,500 崇神天皇が祀った大坂神は二上山の神かも知れない。時まさに我が阪神の優勝目前。 吉備はつけたしで、主に讃岐と大和に祀られている倭迹迹日百襲姫命を葬る箸墓からサヌカイトが出ているとか。 この姫について若干。 『古事記』孝霊天皇記 大倭根子日子賦斗邇の命、..、意富夜麻登玖邇阿礼比売の命に娶ひて、生みませる御子、夜麻登登母母曾毘売の命・・。 同世代に吉備津彦など。 それよりも、意富夜麻登玖邇阿礼比売と言う名は一体全体なんだろう。 大倭国を出現せしめた女神、このネーミングは卑弥呼を想像させるもの。娘の百襲姫は台与か。 キャッチフレーズ! 『日本書紀』は語る。「邪馬台国は東遷した。」と。 ひとつの仮説、のって見るか。 |
[220] 箸墓と大坂と百襲姫 1 神奈備 | 2003/09/10(Wed) 20:50 [Reply] |
この前、等弥神社へ参詣後、大坂山口神社へ参詣した。 大坂の坂とは何か?と云うことが話題となり、境の坂であろうか、と穴虫峠の大坂山口神社に行ってみることになった。 後日、同行させてもらった方から電話があり、墨坂神で感激したこと、この社と大坂神とがペアで祀られていること、また大坂山の石が箸墓の造営に使用されたことが話題となった。 そこで倭迹迹日百襲姫命、この中の「迹日」が等弥神社の「等弥」と同じように読めること(大三元さん http://www.dai3gen.net/yamatoto.htm )にあったこと、何よりも箸墓の主、大坂山とつながって来たので、ぼちぼちと調べております。 その一端を投稿して、ご批判を仰ぎたいと思います。 1.箸墓の造営譚 1−1.三輪山の麓 、桜井市箸中に所在する全長272mの巨大な前方後円墳。 『日本書紀』に、この箸墓についての伝説が記されています。 被葬者は大物主神と婚姻した倭迹迹日百襲姫命。大物主神の姿が小蛇であったことを知って驚き、箸で陰をついて亡くなったため「箸墓」と名付けられた。 この墓は昼は人が造り、夜は神が造った、という。墓を築造するのに多くの人が大坂山から箸墓まで並んで手送り式にして石を運んだという。 1−2.箸墓の石 箸墓の葺石は近くを流れる初瀬川から採集された川原石であるが、墳丘に残っている石にはサヌカイト(讃岐石)など大坂山(信貴山・二上山系)の石が見られると云う。 大坂山と箸墓の距離は約20km、20,000m、1mに一人立つとして2万人を幾日か動員したのであろう。 1−3.古墳の造営作業を描写しているもう一つの資料 『播磨国風土記』揖保の郡立野の条 土師弩美宿禰が大和と出雲を行き来して、出雲の国へ通うとき 日下部の野に宿って、そこで病気にかかって死んだ。その時出雲の国の人がやってきて、大勢の人を立ち並ばせて手から手へ運び伝え、揖保河の礫を上げて墓の山を作った。 石などを運ぶのにこの様なやり方があったのは史実だろう。 この物語がたまたま土師氏の件だからと言って、箸墓のハシを土師の訛とすることにはならないのでしょう。 |
[219] Re[218]: はじめまして 神奈備 | 2003/09/08(Mon) 08:31 [Reply] |
大和の葛城に高鴨神社が鎮座、本殿の南側奥に西神社が鎮座、この神社の祭神は多紀理毘賣命で、別の表記では田心姫、田凝姫、田霧姫などと記します。 何故、大和の葛城の高鴨神社に鎮座しておられるのか、高鴨神社の祭神の味治須岐高彦根命の母神だからです。父神は大国主命です。 田心姫は宗像三女神の一で、宇佐神宮などにも関連しており、これらの神社には多くのわからない所があり、調べて行かれたら色々と発見して行く楽しみがあるでしょうね。 タゴリさん、神様と一緒に楽しんで下さい。 |
[218] はじめまして タゴリ | 2003/09/08(Mon) 05:09 [Reply] |
はじめまして。昨日、宗像大社の沖ノ島大宝物展(福岡県宗像市)にいきました。少しずつ日本の神々に興味を持ち始めています。ところで、どうして神話に興味をもち始めてしまうのでしょうか。神々に関する知識よりもなにより、こうやって神話に興味をもち始めている自身がとっても可笑しく思える今日この頃です。 さて今回、少しばかり沖ノ島について知りたいと思い、投稿させてもらいました。とりわけ、田心姫について知りたいと思っているのですが、関連する資料やお話、縁のある神社・地域・人物について教えていただきたく思います。私は『古事記』という本を手にしたばかりの初心者です。その点を考慮して頂き、管理人の方をはじめこのBBSを閲覧している方のご教示を承りたく存じます。 前もって自分で調べもせずに質問するのは少しばかり勝手が良すぎると思いましたが、思い切って投稿しました。宜しくお願いします。 |
[217] Re[216]: 大峯山登ってきました。 神奈備 | 2003/09/07(Sun) 18:13 [Reply] |
> ところで先週大峯山に登ってきました。 > しっかり表行場、裏行場体験してきました。 > ただ残念なのはゴミがたくさんあったことですね。今の日本の縮図ですかね。 とのさん こんにちは。 修験の山は、人が背負う罪と穢れを浄めたもののみが入ることができるとされていましたが、躾けられていない物見遊山が多いと言うことでしょうね。 山岳で修行するのは奈良時代にはなされていたそうですが、山の霊力を修行で経験し示す、修験者と言う存在は、人間が身に付いていた能力を喪失した故に行われ始めた行で、もっと昔には「生きぬく」と言う行為そのものが修行のようなことの積み重ねで、みんなに山の霊力がついていたのかも知れませんね。 携帯電話などを使っているようでは勘が鈍る一方かも。 |
[216] 大峯山登ってきました。 との [Mail] | 2003/09/07(Sun) 16:50 [Reply] |
神南備さま こんにちわ。 なんとか添付ファイル読めるようになりました。 システムの更新をした時に設定が変わっていたようです。 ところで先週大峯山に登ってきました。 しっかり表行場、裏行場体験してきました。 ただ残念なのはゴミがたくさんあったことですね。今の日本の縮図ですかね。 |
[215] Re[214]: はじめてお便りいたします。 神奈備 | 2003/09/02(Tue) 15:19 [Reply] |
> 時々拝見いたしております。 ありがとうございます。 御蓋山の秀麗な姿、磐座、水源地と来れば、古代の人ならずとも、この山に降臨する神々を感じて来たことでしょう。 > 神護景雲以前に、和仁氏、阿倍氏らの祭場となっていたようなことが書いてあった。 http://tokyo.cool.ne.jp/nara_hakken/bunkazaijisya/990823kasugataisya.htm によりますと、『東大寺要録』という古い記録には、御蓋山には、安部氏社があったと記載があるそうです。 安倍仲麿が異国で望郷の思いを歌ったとされる あまのはら ふりさけみれば かすがなる みかさのやまに いでしつきかも はあまりにも有名ですが、安部氏のルーツも御蓋山だったのでしょう。 和仁氏春日氏小野氏などは同族で、やはり当地に先住していた氏族のようです。神武紀に和珥の坂本の居勢祝と云う土蜘蛛が出てきますが、この居勢祝の神格化と言えそうな巨勢姫明神がやはり春日大社の地に先に鎮座していた榎本神社であろうと思われます。 山頂近くの水谷神社も古い祭祀の名残でしょう。 広大な春日野には多くの神々がうごめいていたのでしょう。それを藤原氏が氏神を設けるべく、席巻してしまったのでしょうね。 |
[214] はじめてお便りいたします。 少々 | 2003/09/02(Tue) 12:24 [Reply] |
時々拝見いたしております。 昨年の「歴史読本」11月号だったでしょうか。 奈良春日社の藤氏以前の祭祀について関心を持ちました。 神護景雲以前に、和仁氏、阿倍氏らの祭場となっていたようなことが書いてあったと思います。神奈備様は如何思われますか? |
[213] garasuno 神奈備 | 2003/09/01(Mon) 18:07 [Reply] |
某女史からの質問です。 神奈備別荘の写真に神代文字を掲示しております。 この方面にお強い方、解説をお願いいたします。 http://www.page.sannet.ne.jp/tsuzuki/sinmoji.htm のHPによりますと、文字を上中下として、中はホツマの「な」? 上下のクルクルは唯足文字の草体と思われますが、発音と意味は不明。 |