青草談話室ログ平十六年 一月 2004.1 |
[532] ああ、土蜘蛛 マルヤ | 2004/01/31(Sat) 15:00 [Reply] |
「土蜘蛛」の語感に憐憫と哀愁を覚えます。 これは自分の中に潜む血のなせる業(わざ)でしょうか。 古代も現代も、征服者と被征服者の関係はあまり変わっていないようです。 一族の存続を計るため、同族を裏切り、征服者に味方して血族を殺す者達。 直接関係のない戦にも、無条件に強い侵略者に媚び従い、より繁栄を謀ろうとする部族もいる。 殺す側に立つもの、殺される側も共に哀れなるかな、むしろ散る側に「花」ありか。 古くは葛木鴨、頭八咫烏、征服者の侵略の手引きをしたか。 新しくはアラブの国々、覇権主義帝国の侵略に立ち向かい、気高い民族の誇りを貫こうとする者がいる。 一方には帝国に従属し、存続を謀ろうとする多くの国もある。 また一方には、無条件に覇権主義帝国に隷属し、遠征してまでその片棒を担ごうとする小国もある。 ああ、民は魂を抜かれ、国は51番目の州にされよう。 土蜘蛛よ、現代によみがえれ。 もののふよ、立て。 席亭様:この掲示板にふさわしくない内容を含むと思召しあれば、削除ください。 |
[531] 葛木土神 神奈備 | 2004/01/30(Fri) 20:41 [Reply] |
子供の頃、南洋の人間を土人と表現していたとの記憶があります。土人は『紀伊続風土記』では地元の人々を称して土人と称しています。またフセインに侵攻されたクエートの支配者を土候と言い、日本の古代では地域の豪族を土豪と呼んでいました。「土」をつけて呼ぶのは若干の蔑視が混ざる場合もあったのでしょう。 穴居生活者を土に隠れる者としての土雲もありかな。 神武天皇と同世代に葛木土神、剣根と言う者がいました。この頃には土雲(土蜘蛛)と称される先住民がいたようで、他国からの侵略軍から見れば、みすぼらしい格好をしていたのでしょう。現在でも旅行者として田舎へ行くとそう言う感じの服装の人を見かけたりしますが、本当は、彼らの住居を見れば、都会人は真っ青。 近江の日雲(ひのくも)は日前(ひのくま)で日神だとか。そうすると土雲は土神となります。この葛木土雲は『新撰姓氏録』で大和の神別の葛木忌寸は高御霊命五世孫の剣根命の裔とある剣根ことですから、まんざら蔑視されていたようではありません。荒田直の祖でもあるようです。 劔根命を祀る神社 栃木県下都賀郡大平町 根渡神社 埼玉県東松山市早俣 小剣神社 新潟、三重にも鎮座。 大阪府堺市 陶荒田神社 奈良県北葛城郡新庄町 葛木御縣神社 高知県須崎市 剱尾神社 この分布はなんだろう。 |
[530] Re[529]: 質問 玄松子 | 2004/01/26(Mon) 21:34 [Reply] |
ありがとうございます。 > 御蓋山を始め徐々に登山の会などで登拝する集いがなされていると聞きました。 「集い」は、ちょっと・・・ 現地に行って、社務所で拝見できる末社を聞いて見ます。 |
[529] Re[522][521][520]: 質問 神奈備 | 2004/01/26(Mon) 21:25 [Reply] |
春日大社の葉室宮司さんの方針で、御蓋山を始め徐々に登山の会などで登拝する集いがなされていると聞きました。 一度社務所に問い合わされてはいかがでしょうか。 |
[528] Re[525]:Re[526]: 豊鋤入姫と倭姫 と皇 神奈備 | 2004/01/20(Tue) 20:20 [Reply] |
通行人さん こんばんは。 『倭姫命世記』での豊鍬入姫命の巡幸地は、紀の国の荒河戸畔の孫娘にもなりますので、常世とつながる海辺として「木乃国奈久佐浜宮」も選ばれたのでしょう。すなわち、紀の国の蜜柑は国産で、同じく橘も多い土地柄で、常世とのつながりの強い土地だったのでしょう。 それはともかく、高千穂に猿田彦のガイドで天孫が降臨します。 猿田彦は伊勢の狭長田(さなだ)の五十鈴の川上に行きます。これは神宮の場所。 天孫の瓊々杵尊は事勝国勝長狭の国へ行きます。ナガサの国。 また妃となった神吾田鹿葦姫は神餞田を狭名田(さなた)と名付けています。 どうやらサナダは常世の重浪の寄せる所、常世との接点のようです。神宮が鎮座した五十鈴の川上と二見神社との間に橘神社が鎮座、これも常世との接点。 恋川亭さん 色々お勉強ですね。 シュメール、スメラ、皇、スメラミコトのルーツとか、興味津々の地域ですね。 |
[527] Re[526]: 追伸 恋川亭 [Mail] | 2004/01/20(Tue) 19:36 [Reply] |
> もちろんノーチャージですから。(^^)/ 『タダ』『無料』『進呈』ということです。確認まで m(__)m |
[526] 里親募集中! 恋川亭 [Mail] | 2004/01/20(Tue) 17:43 [Reply] |
今、書棚の整理をしています。シュメール文明に関して調べていた頃の本がでてきました。古本屋に出しても二束三文で買い叩かれるので、興味を持つ方へ譲るほうが良いナァ〜と考えています。 下記の書籍(8冊一式)を、送料のみご負担頂く形(宅配便着払い)で、受取られる希望者を探したく思うのですが・・・。セコハンなのでノークレーム・ノーリターンでお願いします。もちろんノーチャージですから。(^^)/ ご希望の方がいらっしゃいましたら、お手数ですが私までメール下さい。先着1名さま限定ということでアシカラズ。m(__)m −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 『古代メソポタミアの神々』(世界最古の「王と神の饗宴」) 三笠宮崇仁殿下:監修、岡田明子・小林登志子:共著、集英社:刊 2000年、255p、2500円。 『四大文明 メソポタミア』 (NHKスペシャル「四大文明」プロジェクト) 松本健:編著、NHK出版:刊、 2000年、256p、1900円。 『アッカド語』(楔形文字と文法) 飯島紀:著、国際語学社:刊、 2000年、252p、4000円。 『西アジア・インド史』(新修・京大東洋史X) 中原・羽田・田村・佐藤:共著、創元社:刊、 S.48年、253p、1300円。 『シュメール』(人類最古の文明の源流を辿る) H・ウーリッヒ:著、戸叶勝也:訳、三修社、 1998年、303p、2200円。 『歴史学の現在 古代オリエント』 前田・川崎・山田・小野・山田・鵜木:共著、山川出版:刊 1998年、210p、1800円。 『鉄を生みだした帝国』(ヒッタイト発掘) 大村幸弘:著、NHKブックス、 1997年、218p、825円。 『世界最古の物語』(バビロニア・ハッティ・カナアン) H・ガスター:著、矢島文夫:訳、現代教養文庫 1991年、319p、640円。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 以上、8冊。一般向け解説書です、トンデモ本ではありません。(^^;) |
[525] Re[523]: 豊鋤入姫と倭姫 通行人 | 2004/01/20(Tue) 11:37 [Reply] |
神奈備様 時々、拝見致しております。年末にはお伊勢さまよりの御札を頂戴し、神宮を崇敬致しております一人の通行人ですが、御巡幸のことが書かれておりましたので、御巡幸について、常日頃より考えておりましたことを申し述べたいと存じます。 倭姫命の巡幸経路ですが、『日本書紀』ですと、「大和の笠縫から宇陀の篠幡を経て近江国に入り、美濃国を廻って伊勢国に到着すると常世の重浪の打ち寄せる、傍国の可怜国に天照大神をお祀り申し上げる祠を五十鈴の川のほとりにお建てになり、これを磯宮の宮という。」ということでしょうか。御鎮座の背景には大和の東方、常世の重浪の打ち寄せる、理想の鎮座地が求められての事でしょう。 また『古事記』は伊勢神宮の起源譚を天孫降臨の際に求め、「天照大神は佐久久斯侶伊須受宮に、また登由宇気神は外宮の渡相に拝き祭られている。」として、『日本書紀』垂仁天皇の御代の御代を遙かに遡る神話時代のことと伝えております。これは伊勢の神宮が伊勢にお祀りされるようになったのは、偶然ではなく、深い神代からの“ことわり”によるものであるという理念にに由来するものだと思われます。 平安時代、延暦二十三年に時の神祇官に提出した『皇太神宮儀式帳』には、これらを含めて更に多くの巡幸地を伝えております。「美和の御諸原」から始まって大和国(宇太乃阿貴宮)・伊賀国(穴穂宮、阿閇柘殖宮)・近江国(坂田宮)・美濃国(伊久良賀宮)・伊勢国(桑名野代宮、河曲、鈴鹿小山宮、壱志藤方片樋宮、飯野高宮、佐々牟江宮、玉岐波流磯宮、宇治家田々上宮)そして五十鈴宮に鎮座して巡幸は終わるというかたちです。これは「儀式帳」編修時の巡幸地の神社とそれに伴う神宮の神田や神戸の起源を述べておりますが、解文という『儀式帳』の性格上神田、神戸を監督官庁に開陳し、由緒を述べたものと想定されます。 更には、内宮と外宮、それに包摂される別宮等の諸社の鎮座と祭祀の有様を、様々な神宮に伝わる古伝承を織り交ぜ、編纂は鎌倉時代の初期成立と想定される『倭姫命世記』では、豊鍬入姫命の時代のこととして、丹波国、木乃国、吉備国の巡幸を付け加え、さらに『儀式帳』の巡幸地をより細かく廻り、倭姫命のお言葉を中心にした物語が記されておりますが、その巡幸譚は、その国やその土地が如何に神宮鎮祭とかかわったかという信仰と栄光の伝承を語り伝える『縁起』としての観点から、御覧頂けたら如何でございましょうか。失礼しました。 ご教示頂けましたら幸いに存じます。(不慣れな為操作を誤りました) |
[523] 豊鋤入姫と倭姫 神奈備 | 2004/01/19(Mon) 20:07 [Reply] |
最近某掲示板で倭姫の巡幸の道筋についていささか話題となっていました。いささかの思いつき。 『倭姫命世記』では 豊鋤入姫 但波の吉佐宮 倭国伊豆加志本宮 木乃国奈久佐浜宮 吉備国名方浜宮 豊鋤入姫から倭姫へ 倭弥和乃御室嶺上宮 大和国宇多秋宮 . . 伊勢 海が見えるのは伊勢に行ってからで、日雲坂田は琵琶湖です。海が見えてほしいのは常世国からの重浪がうち寄せる場所が望ましいからです。 そう云う意味では豊鋤入姫は海辺近辺を巡幸しており、常世を意識していた巡幸でしたが、倭姫はうろうろと遠回り。 |
[522] Re[521][520]: 質問 玄松子 | 2004/01/14(Wed) 08:38 [Reply] |
> 花山は学術目的等であれば登れるようですね。 > http://www.eonet.ne.jp/~fujiken/repo9.htm このサイトにある「龍王明神」が、式内・鳴雷神社ですね。これに行きたいんですが、「学術目的」の許可は取れないでしょうね。 行ってみて交番で聞いてみるのが早いかもしれませんね。 |
[521] Re[520]: 質問 神奈備 | 2004/01/14(Wed) 08:13 [Reply] |
> 奈良の御蓋山や春日山は、登拝禁止なんですか? 花山は学術目的等であれば登れるようですね。 http://www.eonet.ne.jp/~fujiken/repo9.htm 御蓋山は神官はともかくかも。 |
[520] 質問 玄松子 | 2004/01/13(Tue) 23:07 [Reply] |
奈良の御蓋山や春日山は、登拝禁止なんですか? |
[519] Re[515][514][513][511][510]: 椿の周辺2 チャンチンチャ 神奈備 | 2004/01/12(Mon) 20:49 [Reply] |
> 縄文〜弥生人は酒の先進地の住人だった可能性大ですね。 日本人の体質として酒アルコールの分解が苦手とされていますが、それは弥生時代以降の人なのかも。 縄文人は葡萄酒や真椿擬き酒を楽しんでいた訳で、それは渡来系の支配層が苦労して酒を造っていた時代にも、田舎の縄文系は結構楽しんでいたのかも知れませんね。沖縄は明るい内からでも飲むようですね。 三輪の大神は酒の神でもあり、やはり縄文系の祭祀で、山葡萄のお酒だったのかも。 |
[515] Re[514][513][511][510]: 椿の周辺2 チャンチンチャ かたばみ [Mail] [Url] | 2004/01/10(Sat) 23:24 [Reply] |
わざわざ問い合わせまでしていただいてありがとうございます。 インターネットの古本屋にあったので注文、本日入手(^^) 長崎県大村湾の南にある縄文早期の伊木力熊野神社遺跡でした(舟津遺跡)。 森浩一氏から受けている影響がもっとも大と自分では思ってます。 三内丸山のニワトコの実といい、酒器にしかみえない縄文の注口土器といい http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/g01.files/07/joumon01.jpg 縄文〜弥生人は酒の先進地の住人だった可能性大ですね。 (すなわち酒の好きな八岐大蛇とはスサノオに対抗する縄文系先住民を表したものでは・・) 日本の酒は中国の酒とは違う酵母だったようで、酒に関しては列島から中国や半島への流れがあるようで面白い。 灰を利用する技術は日本特有とあります。 こういう生活と密着した古代が大好きです。 ≫小泉武夫東京農大醸造工学教授(よくテレビに出ている人です 「灰に謎あり、酒・食・灰の怪しい関係」¥876(新品)も注文中。 |
[514] Re[513][511][510]: 椿の周辺2 チャンチンチャ 神奈備 | 2004/01/08(Thu) 08:06 [Reply] |
>
≫長崎の縄文後期の遺跡から、「チャンチンモドキ」の実が発見されていてこれは自然発酵で7度以上の酒がつくれると > > それは初耳です、出典がわかりましたら教えてください。 『浪速の古代史研究会』と言っても、殆どの方はご存じのない勉強会の発言と議事録。 発言者に問い合わせた所、次のような返事を頂きました。 森浩一対談集「古代は語る−古代日本人の技術」 河合出版社 1990初版 1800円 P.323 灰とカビ 小泉武夫東京農大醸造工学教授(よくテレビに出ている人です) との対談内で |
[513] Re[511][510]: 椿の周辺2 チャンチンチャ かたばみ [Mail] [Url] | 2004/01/06(Tue) 21:07 [Reply] |
失礼してちょい続き。 漢和辞典によっては「椿は中国ではセンダンの一種」とするものもあるけれど、白川静氏の辞書ではセンダンとはしてない。 なお、唾の木とする解釈は白川氏の字訓にすでにありました・・残念、でもツバナはないぞ(^^; 中国では「楝」レンがセンダン(オウチ)の木、椿がセンダンであることを示すものはみえない。 チャンチン=センダンとするのは日本の植物学の先生が古代の香椿と近世の俗称を混ぜてしまったためじゃないか。 本当の香椿チャンチンは消えてしまい、京都方言としてのみ残ったのではないかなあ。 ついでのときに中国の本草図鑑でも探してみます。 もし・・「椿」がセンダンであるなら、万葉集の原文で椿の文字を使ってる歌はツバキではない可能性がでてくるわけで、これもまた面白いけど。 香椿は若芽を食用にして香りがよいらしき話があって、匂いのあるツバキもある。 http://www.melma.com/mag/70/m00072370/a00000042.html 椿の新芽は長寿の効用とあるけど、雲南チベット系の薬草かな。茶もそのひとつか。 ≫川俣神社の椿は神木で、この葉を蒸して飲めば熱病に特効ありと これにもつながりそうですね。 香椿茶、チャンチンチャ・・いい名前だぞ、商標登録しとこうかな(^^; ≫長崎の縄文後期の遺跡から、「チャンチンモドキ」の実が発見されていてこれは自然発酵で7度以上の酒がつくれると それは初耳です、出典がわかりましたら教えてください。 「日本の樹木/山渓」によれば確かにチャンチンモドキはセンダンによく似ていますね。 あららっ、果物のマンゴーと兄弟なのか。 ふーむ、八岐大蛇が飲んだ酒はチャンチンモドキ酒かもしれないなあ。 |
[512] Re[510]: 椿の周辺 椿井 神奈備 | 2004/01/06(Tue) 17:31 [Reply] |
奈良県の平群町に椿井春日神社が鎮座、由緒に「壬申の乱起こるや鈴鹿に進軍出陣に先立ち神前の井戸に椿の木を挿し戦勝を祈願す。」とあり、井戸の側の椿のイメージがあります。 椿井春日神社は平群坐紀氏神社の元の鎮座地の跡の神社とされ、紀氏神社はまた俗に辻の宮、椿の宮と称したと由緒にあります。椿の宮の名はその井戸の椿から来たのかも知れません。 で、ツバキがツジと間違わたり、変化することはなさそうですから、椿から椿大神社、猿田彦、道別の大神、辻の神・宮の連想があったのかも。椿が「市」の守り神の木であったのは、道別の神、境の神であった猿田彦が一枚かんでいるのかも。 池田末則著『地名風土記』によりますと、「井戸の側に常緑樹の椿を植えておくと直射日光を防ぐ上で好都合、さらに椿の木で炭を作り、井戸の底にしくと、濾過されて良い水が湧くと言われていた。」と紹介されています。何も椿でなくともよさそうですが、椿と井戸(水)、繋がりがあったのでしょう。大神神社の大鳥居は一の鳥居ではないのですが、ここは小字椿井で、古代の海柘榴市の場所。 |
[511] Re[510]: 椿の周辺2 チャンチキオサケ 神奈備 | 2004/01/04(Sun) 22:01 [Reply] |
かたばみさん あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。 > すなわち京都での方言、チャンチンが本来の「香椿」で、食用ツバキだった。 チャンチンなのか違うのか、擬きについてちょっと聞きかじりを。 大阪府交野市「大阪市大付属植物園」にチャンチンモドキ(香椿擬き)があるそうです。 http://www.botanic.jp/plants-ta/chanti.htm 長崎の縄文後期の遺跡から、「チャンチンモドキ」の実が発見されていて、これは自然発酵で7度以上の酒がつくれると聞きました。従って、古代世界で知られている中でもっとも強いお酒だとか。倭人は酒造にも通じていたのです。輸出していたのかも。 チャンチンモドキ(香椿疑き)はウルシ科の落葉高木 九州の山地に自生していたが現在絶滅危惧種指定。大木になりその実は銀杏や櫨の実に似た黄色い果実でたくさんなるとか。万博公園や京都市内にも奇木としてあるらしい。 |
[510] 椿の周辺2 かたばみ [Mail] [Url] | 2004/01/04(Sun) 21:04 [Reply] |
ならば、後漢書の「椿」はツバキであってOK。 編纂完了が432年、南朝の宋ならツバキを知っていておかしくない。 だが、雲南、四川省などでは独自の呼称「山茶」をもってツバキとして現代に到っている・・ 唐時代あたりの海石榴は、「一般では無名に近かった椿」とは別に登場した俗称。 それが、遣唐使によって日本に輸入され、いっとき一般化して万葉では「椿」と混用されたが、後に「椿」に統一されて現代に到る。 (すなわち当時に椿の文字を用いた人物は超一流の学識の持ち主) 樹木名方言集によれば、サザンカ(山茶花)の方言(別名)は九州にしかないんですね。 サザンカは日本特産のようで分布は四国、沖縄、九州。 葉がツバキより小さく若干の香りがあって、花はポトリとは落ちず花弁がばらばらになって散る。 文献に登場するのは江戸時代のようで、サザンカとは「山茶花」をひとひねりした名だろうな。 武士はツバキを嫌う、ポトリと首が落ちるから(^^; 武士の時代に首の落ちないサザンカが最初からサザンカの名で九州から広まったために、九州以外では方言がないんじゃないかな。 樹木名方言集によれば、ヤブツバキ(ツバキ、ヤマツバキ)の古語がツバだそうです(出典不明)。 茅チガヤの別名がツバナです(植物和名語源新考/深津正)。 チガヤの花穂のことで万葉にも登場。 1449:茅花抜 淺茅之原乃 都保須美礼 今盛有 吾戀苦波 茅花抜く浅茅が原のつほすみれ今盛りなり我が恋ふらくは 1460:戯奴 [變云 和氣] 之為 吾手母須麻尓 春野尓 抜流茅花曽 御食而肥座 戯奴 [變云 わけ] がため我が手もすまに春の野に抜ける茅花ぞ食して肥えませ (意訳は大伴家持が痩せているのでツバナでもたべて太りなさい、のようです) 江戸時代ではツバナ売りの商売があり、ツバナに滋養効果があるとされるようです。 6月の神事の茅輪くぐりや蘇民将来説話での茅もこれと関係あるものとみえます(こちらは薬効かな)。 すなわち・・霊力≒唾。 霊力のある木、ツバ・キ 霊力のある草、ツバ・ナ 朝鮮語の冬・柏(ton-baik)はツ・バキで単なる当て字だが、和名のほうには意味がありそう。 ちなみに 艶葉木:新井白石説 強葉木:堀秀成説 厚葉木:貝原益軒説 どれも語呂合わせの当て字だと思います。 |
[509] 椿の周辺1 かたばみ [Mail] [Url] | 2004/01/04(Sun) 21:03 [Reply] |
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。 昨年の若干のつづきで、少し細部にわたって。 後漢書の「椿」(馬融列伝50)の生えてる場所、どうやら鄭州のようです。(語学力のなさが・・(^^;) そこに生えてる木は「椿、梧、木+舌、柏、木+巨、柳、楓、楊」 (梧=桐の一種アヲギリ、木+舌=ビャクシン、木+巨=ケヤキ) (柳は枝の垂れるシダレヤナギなど、楊は枝の垂れないタチヤナギなど) アオギリやビャクシンはどちらかというと温暖系ですが、鄭州は黄河流域で西安と山東半島の真ん中あたりで、前漢、後漢などの中枢地域。 後漢書の編者は南朝の宋で432年の完成。南朝であれば「山茶」のツバキを知っていておかしくない。 ちなみに中国王朝で飲茶がはじまるのは南朝の梁の時代(500年頃)のようです(洛陽伽藍記)。 ツバキと茶が雲南付近での自生種とするなら、宋時代ならツバキも茶も知られてはいた可能性大。 (日本での茶の登場は1191に中国から輸入) 先にご紹介した樹木名方言表によると、京都ではツバキをチャンチンというんですね。 チャンチンは「香椿」のようで漢音そのままの発音。 ところがチャンチンは京都以外ではセンダンであって、カミナリノキ、新潟長野ではカミナリヨケ、鹿児島でテンツクノキになってる(^^) 雷が落ちるような高木ということでツバキとは無関係なのは間違いない。 センダンは高木落葉樹のセンダン科で中国の中部〜北部に自生する普通の木。ツバキとはまったく別種。 以下には香椿チャンチンはセンダンであって云々とあります。 http://www.asahi-net.or.jp/~db3t-kjmt/kigi/cyanchin.htm しかし、ちょっとまてよ・・ 香椿に関するHPはいろいろあって、内容もいろいろですが(^^; 日本の椿とは違う椿でこれの若芽を食べるという話もある。 http://www.tabichina.com/hutong/hutong_7.htm 茶に近い植物なら香りがよくて当然でもある。 台湾先住民関連の以下に食用の「野香椿」チャンチンがでてきます。 http://www.sinorama.com.tw/jp/1998/199807/707098j2.html これらの「香椿」はセンダンではないでしょう。食用椿とでもいうべき品種のようにみえます。 http://www.ne.jp/asahi/ryu/aruba-garden/camellia/c_jyurika.htm これなら納得できる、普通は匂いのないツバキだがこれは特別、だから「香椿」の名がついた。 そして、食用にもなった・・たぶん。 漢名でのセンダンは楝(レン)という名がちゃんとあります。 日本名はオウチ(アフチ)で万葉に登場します。 0798:伊毛何美斯 阿布知乃波那波 知利奴倍斯 和何那久那美多 伊摩陀飛那久尓 妹が見し楝の花は散りぬべし我が泣く涙いまだ干なくに 初夏に淡い紫の花をつけ、実は黄金色で落葉しても無数に枝に残って平安時代に愛でられていた木。 (淡い藤、アワフジが語源の説あり) http://www.hana300.com/sendan1.html オウチをセンダンと呼ぶようになるのは近世で、三井寺の千団子法要(栴檀講、鬼子母神の千人の子)と、オウチの実のみごとな様子が合体したもの、とする論があります。 それではチャンチンがセンダンになってしまったのは、どこでどうこんがらかっているのか(^^; 唐の「新修本草」にオウチ(センダン)には「5月5日にこの葉を身につけると悪を避けられる」とあるそうです。 日本でも端午の節句に同様の風習があったそうです(植物和名の語源/深津正)。 栴檀センダンと書く場合は香木の白檀ビャクダンのこと(なんとも複雑)。 三井寺の栴檀講とオウチの木の実が千の団子のようにみえること、これが複合されてオウチがいつのまにかセンダンとよばれ、これに香木のビャクダンである栴檀の香りがいっしょくたになり、ツバキの霊力が合体して「香椿」はセンダンという誤りが生じた。 のではなかろうか。 チャンチンは「香椿」だがセンダンとは無関係、食用となるツバキの一種だった、が正しかったのではないか。 すなわち京都での方言、チャンチンが本来の「香椿」で、食用ツバキだった。 京都が秦氏など渡来系による開発なら、そこに中国系のツバキの若芽を食べる慣習があって自然です。 それが後の三井寺の栴檀講のひろまりで香椿チャンチン=センダンという誤りが広まり、ついには学名にもなってしまった(^^; やっかいなことに、センダンの実と木の皮には薬効もあるし。 |
[508] 謹賀新年 神奈備 | 2004/01/03(Sat) 21:56 [Reply] |
『古事記』によれば、山幸彦、不合尊は海神の娘妃としています。 人皇二代綏靖、三代安寧、四代懿徳と師木県主の祖の系統の女を妃としています。 他にも海人系の尾張、物部や丹後から妃を迎えているのが散見される。 要するに、彼らには常世願望があったと云うこと。 これは瓊瓊杵尊は石長姫を帰してしまったウカツさが元。 即ち石長姫を娶っていれば「天つ神の御子(ミコ)の命(イノチ)は、雪(ユキ)零(フ)り風吹くとも、恒(ツネ)に石(イハ)の如く、常盤(トキハ)に堅盤(カキハ)に動かず坐(イマ)さむ。」だったのだ。 |