青草談話室ログ平十六年 三月
2004.2
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草談話室

[634] 鴨と市、最古の王権 14 東夷のクニ 3 吉野ヶ里  神奈備 2004/03/30(Tue) 16:30 [Reply]
 紀元前の東夷のクニの発掘例として有名なのが吉野ヶ里遺跡。
 『卑弥呼が都した所』福嶋正日子氏によれば、「漢の祖の国」との説明を魏志倭人伝では華奴蘇奴国と表記したものと推測されています。後に、神埼となって郡の名に残ったのかも知れないと言うこと。

 吉野ヶ里の発展の歴史は、以下のサイトにあります。以下、概要を。
 http://www2.begin.or.jp/sakura/yosinogari.htm

 ◎弥生時代前期(紀元前3〜前2世紀)
 吉野ケ里の丘陵一帯に分散的に「ムラ」が誕生、やがて南側の一画には環壕をもった集落が出現し、「ムラ」から「クニ」へと発展する兆しが見えてきます。

 ◎弥生時代中期(紀元前2〜紀元1世紀)
 丘陵を一周する大きな外環壕が掘られ、首長を葬る「墳丘墓」やたくさんの「かめ棺墓地」も見られます。
 集落の発展とともに、その防御も厳重になってきていることから「争い」が激しくなってきたことがうかがえます。

 ◎弥生時代後期(紀元1〜3世紀)
 国内最大級の環壕集落へと発展し、大規模な∨字形の外環壕によって囲まれ、さらに特別な空間である2つの内郭(北内郭・南内郭)をもつようになります。特に北内郭では大型の建物が登場し、吉野ケ里の最盛期にあたります。

 誠に簡潔にまとまっています。
 で、さて、先ず「ムラ」が出来たのでしょうが、「ムラ」とは何でしょう。広くない地域にさほどの数でない家族が住み着いたものは、未だムラとは言えないでしょうね。皆んな親戚の部落程度ですね。共通の水源地を持っていたとか、水神を祀ったとか、シャーマンがいて、病気を治していたとか。
 血が濃くなるのは望ましくないことは猿の時代からわかっていたので、娘は親戚ではないお隣さんの部落に嫁に出したのでしょう。で、お隣さんとも親戚になってきて、やがて、共通の祖先を戴くようになって来ます。広域の集まり、ムラの誕生と言えるのでしょう。

 ムラが集まってクニになります。クニとは、大林太良氏の言う宇宙樹(大きな楠の木の影などの話が風土記に見えます)があることが、クニと言えるようです。

 吉野ヶ里はクニの首都が置かれたムラであった可能性があります。このクニとは「楽浪海中、倭人有り。分かれて百余国をなす。」の一つのクニであり、うまく遺跡が残ったものです。『邪馬台国と吉野ヶ里』の中で森浩一氏は「吉野ヶ里が最後の頃に大和の巻向遺跡が入れ替わるように姿を現す。」と意味深なことを言われていますが、全員が大和へ東遷していったのでしょうか。それとも疫病か戦争で死に絶えたのでしょうか。

[633] 鴨と市、最古の王権 13 東夷のクニ 2  神奈備 2004/03/27(Sat) 21:20 [Reply]
安曇と金印

 「漢委奴国王」の金印を貰った委奴国王の朝貢は57年。
 また107年には倭国王帥升等の朝貢の記事が『後漢書倭伝』に記載されています。文献による初めての倭国王の表示のお目見え。
 金印「漢委奴国王」が出土した志賀島は安曇族の祖神を祀る志賀海神社が鎮座。委奴国とは安曇族の建てた国だったのでしょう。

 「漢委奴国王」をどう読むかについては諸説があるようです。教科書で習ったのは、漢(カン)ノワ(委)ノナ(奴)ノクニ(国)ノオウ(王)でした。大陸の漢の属国である倭の中の奴国の王の意味ととれます。
 独特なのは『悲劇の金印』(原田大六著)で、日本的には「ワダツミ(漢=海神国)ノイツ(委=筑紫)ノナ(奴)ノクニノキミ」とよむようです。 意訳でしょうね。

 さて『海神宮訪問神話の研究』(宮島正人著)に、興味深い見解があります。
 『万葉集 巻七 一二三〇』
 ちはやぶる 金の岬を 過ぎぬとも 吾は忘れじ 志賀の皇神
 この金の岬の場所として、宗像郡鐘ノ岬を比定する説が多い中で、志賀島に「金之三埼」が存在していることから、志賀島説を主張されるのです。金印発見の口上書に「叶の岬で・・石の間に光る物云々」と記されていることを根拠にされています。他に、宗像郡鐘ノ岬では特段に志賀の皇神を拝む場所でもないこともあるようです。
http://www.mapion.co.jp/c/f?grp=all&uc=1&scl=500000&el=130%2F24%2F30.475&pnf=1&size=500%2C500&nl=33%2F46%2F47.167
 この地図で、従来説の北東隅と志賀島は南西隅に辛うじて現れます。30kmは離れているようです。この30kmの間に宗像大社の辺津宮が鎮座、迦毛の大御神である阿遅須伎高比古根神の母神(多紀理毘賣命)が祀られています。宗像神は半島への航路の神、志賀神は内陸内海の航路の神と住み分けがあり、友好関係があったのは、『万葉集』巻十六の三八六〇からの歌で示されています。友好関係1000年以上、根は同族でしょう。鴨に安曇の血が混ざっていると云うこと。

 なお、志賀島の叶の埼は金印発光碑の西300mの南の浦崎で、叶の浜の南端。
 志賀海神社の磐座に金印が奉納されていたとの伝承があったのではとの推定があります。摂社に印鑰神社があり、船玉社と呼ばれていることは前述。

 さて、宮島氏の圧巻は次の論で盛り上がるのです。
 『古事記』安曇連等は、其の綿津見の神の子、宇都志日金折命の子孫なり。とあります。この宇都志日を「現し霊」、金折を「金埼」の転ととられ、金之三埼に祀られた金印が神霊となって示現した神との解釈を示されたとするのです。
 綿津見−宇都志日金折命−穂高見命 この並び、確かに真ん中がおかしい感じ。

[632] 鴨と市、最古の王権 12 東夷のクニ 1  神奈備 2004/03/23(Tue) 20:30 [Reply]
 大陸の古文献
  1.楽浪海中、倭人有り。分かれて百余国をなす。歳時を以て来たりて、献見すると云う。『漢書地理志』
 楽浪郡は前108年以降。前漢は7年に滅亡。弥生中期中〜後半のこと。

 2.東夷の王、大海を度りて、国珍を奉ず。『漢書王莽伝』
 王莽は紀元5年に摂政。
 東夷倭奴国王の言葉は後の4.あり、東夷の王が倭国の王とすれば、史書に記録された最初の王です。。

 3.建武中元二年(57)、倭の奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす。『後漢書東夷伝』

 4.東夷の倭の奴の国王、遣使奉献す。『後漢書光武帝紀』

 5.安帝の永初元年(107)、倭の国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願う。『後漢書東夷伝』
 『後漢書』は『魏志』を底本としており、資料の価値は『魏志』より低い評価が一般的。『卑弥呼が都した所』(福嶋正日子さん著)は、同じ原資料を使ったはずで、低く評価をすべきではないとされるのも見識。建武中元二年(57年)の年号や印綬については疑う必要はないのでしょう。
 『倭人伝』では「奴国」が二つ出てくるのですが、原資料で既に■奴国の■が漏れたのかも。従って同じ奴国と見たんでは。
 ■奴国、南端なら■=熊、焼き蛤なら■=桑。

 2.の「東夷の王」は、その50年後に金印をもらった倭奴王、また100年後の帥升、代々王がいたとされる伊都国辺りの前身と見ていいのでしょう。列島の中では大陸、半島に近く、往来も盛んであった九州−北九州−の国の王が東夷の王だったのでしょう。
 志賀島から金印が発見され、それが今日まで伝わっています。志賀島には安曇族の祖神を祀る志賀海神社が鎮座、摂社には船玉社でもある印鑰神社が鎮座、印鑰神社は普通国府の近くに置かれ、印とは国司の印、鑰とは府庫の鍵との説が『小さき社の列島史』(牛山佳幸著)には出ていますが、金印と関係があったのではないでしょうか。

[631] 鴨と市、最古の王権 11 伊福部氏と鴨氏 4  神奈備 2004/03/22(Mon) 13:40 [Reply]
 銅鐸は祭祀に使われたようですが、どうやら叩いてもあまり良い音はしないようで、見せるものだったとされています。『稲・金属・戦争』(佐原真編)によりますと、加茂岩倉遺跡出土の銅鐸39個のうち、17個は製作地が判っていないとのことですが、それでも山城産の可能性を指摘しています。そうしますと、加茂岩倉の加茂の命名は後世であっても、そうなった由縁として古くから山城の賀茂との交流があったればこそと思われます。

 どんたくさん曰わく「京都の上賀茂神社のそばには出雲路橋や出雲郷があり、古くからこの神社は出雲国と朝廷との間をとりもつ存在であったようです。そのようなことから、上賀茂神社は出雲に対して特別な影響力を持ち、この土地に色々な権益を確保していたのかもしれません。」と。
 どんたくさん、ありがとうございます。出雲路橋は鞍馬山への道筋でもあるんですね。ここも金星が匂う。
 山城の地名に出雲が残っていたことは、両者の相当古いつながりを示しているのかも知れません。

 ●青銅器のネットワークは弥生初期から大陸、半島、北九州とできており、さらに出雲や瀬戸内海沿岸に及んでいたようです。これらのネットワークは「朝献」によって成り立っていた訳ではなく、生口をも貨幣の替わりとした商業によって成り立っていたのでしょう。

 ●流通していた物、ヒスイがそうです。弥生前期終わり頃、北九州で流行、ここからは産出地にもないような美しくて大きいヒスイが出土しているそうです。このネットワークは日本海側を新潟までつながっていた。
 吉武遺跡 http://museum.city.fukuoka.jp/jg/html/49/49_05.htm

 ●南方の貝であるゴホウラやイモガイで作った腕輪も流行したようで、これは西南諸島とのつながりです。
 吉野ケ里遺跡 http://www.sagatokimeki.ne.jp/yosino/kouza/chishiki/syasin/syutudo_chu.html

 このように様々な地域と物品と、人と情報ががつながっており、弥生初期にはそのセンターは北九州のようです。

[630] Re[629][627][625][624][622]: 鴨と市、最古の王権 10 伊福部氏と鴨氏 3  大三元 2004/03/20(Sat) 16:37 [Reply]
> > 「大歳」というのは、12年で太陽の回りを1周する木星のこととされます。

はい。例えば『日本書紀』には
「(綏靖紀)元年春正月壬申朔己卯、神渟名川耳尊、即天皇位。都葛城。是謂高丘宮。尊皇后曰皇太后。是年也、太歳庚辰。」などと即位年の表示に出てきています。

> とのことで、猿田彦−さいの神−庚申さんが大歳神につながっているんですね。

私論では「大年神」は五穀豊穣とともに、流行病阻止の役目もあったのではないか、としています。『初期天皇后妃の謎』P212〜 (最近の、トリインフルエンザ流行を見ると、昔の人の感覚(鳥が流行病を運んでくる)には驚かされます)


[629] Re[627][625][624][622]: 鴨と市、最古の王権 10 伊福部氏と鴨氏 3  神奈備 2004/03/20(Sat) 15:48 [Reply]
> 「路」は「ぢ」。「幸」は古くなら「さき」「さち」と読んだ

ださい駄洒落にありがとうございます。
出雲路幸神社はさいの神に通じて猿田彦が祭神になっているのかも知れませんね。

> 「さいの神」は私論によれば「歳神」

「大歳」というのは、12年で太陽の回りを1周する木星のこととされます。
http://astro.ysc.go.jp/izumo/nihon2.html
によれば、木星の場所で、年の干支を記述する方法は、日本でも各地の庚申塔に見られます。
とのことで、猿田彦−さいの神−庚申さんが大歳神につながっているんですね。

[628] Re[626][625]: (割込)西の文化とは何か  大三元 2004/03/20(Sat) 00:48 [Reply]
「おゑ」

> > これは、語って笑わせる人と、聞いて笑う人がいた空間かもしれませんネ。

口語訳『古事記』で有名になった三浦佑之さんも口承文学が字に置かれたものを研究して居られ『古代叙事伝承の研究』の中で「国引き詞章の表現」の章を立てて、語った人と聞いた人が居た、と考えて居られます。

今は国を引きおへつ、、、おゑ、、、 
笑ったでしょうね。落語の落ちみたいです。

[627] Re[625][624][622]: 鴨と市、最古の王権 10 伊福部氏と鴨氏 3  大三元 2004/03/20(Sat) 00:39 [Reply]
> じさい、持衰、航海安全をもっぱら祈る、路幸、猿田彦命の原型かも。

「じさい」を日本語と考える場合の問題:
1.濁音始まりはない
2.二重母音はない

蓑を持つ(人)あたりで考えられないか。「衰」は誤りで「蓑」であろう、という誤字を主張せねばならないのが弱いが。。。 スサノヲや、マユンガナシの蓑をイメージしている。

「路」は「ぢ」。「幸」は古くなら「さき」「さち」と読んだ、「さい」と読むのは新しい。むしろ「さいの神」との関連を見るのが良くないか。

「さいの神」は私論によれば「歳神」(古くは、とし(の)かみ、と読んだであろう)を気を利かして(?)「さいのかみ」と前半を音読みしたのではないか。

こう考えて行くと、実は、マユンガナシが家内安全、五穀豊穣などに御利益あることと「歳神」やスサノヲの神格が近寄ってくるのが・・・なやましい・・・

[626] Re[625]: (割込)西の文化とは何か  恋川亭 2004/03/20(Sat) 00:37 [Reply]
> 意恵は「おゑ」で、引いて来た国を見てうまくいったのかゾッとしたのか、まぎわらしい一声ですね。

こんな箇所にしか呼応できないレベルですが・・・、しばらく思い出し笑いが、ぶり返しブリカエシ・・・堪りません。これは、語って笑わせる人と、聞いて笑う人がいた空間かもしれませんネ。この心で読む古文献の一部などは、豊穣な世界であると思います。ある意味、ダイレクトに現代とつながることが感じられる部分かも。(笑)

[625] Re[624][622]: 鴨と市、最古の王権 10 伊福部氏と鴨氏 3  神奈備 2004/03/19(Fri) 21:44 [Reply]
> 意宇郡に 賀茂神戸 というのはありますね。安来市大塚付近に擬している、そうです。

ありがとうございます。大和葛城の阿遅須枳高日子の神戸のようです。
意宇郡と言えば、国引きを終えた八束水臣津野命の「意恵」と言ったと言うのが地名説話です。
意恵は「おゑ」で、引いて来た国を見てうまくいったのかゾッとしたのか、まぎわらしい一声ですね。

全然話は変わりますが、出雲の意宇郡の安来市の式内社を見ていましたら、
佐爲神社[サヰ]
出雲路幸神社[いずもじさい]「猿田彦命、天鈿女命」島根県安来市西松井町88
がありました。
じさい、持衰、航海安全をもっぱら祈る、路幸、猿田彦命の原型かも。

[624] Re[622]: 鴨と市、最古の王権 10 伊福部氏と鴨氏 3  大三元 2004/03/19(Fri) 16:41 [Reply]
> >  当地をなぜ加茂と言うのか、『出雲国風土記』や『和名抄』には、加茂の地名はないようです。

意宇郡に 賀茂神戸 というのはありますね。安来市大塚付近に擬している、そうです。

[623] Re[622]: 加茂地名について  ペギラ [Mail] 2004/03/19(Fri) 15:16 [Reply]
加茂地名について。
大日本地名辞書の吉田東伍さんの見解では、
加茂・賀茂・鴨・かも=神・かむ・かみ
という推測をされております。

ですから、出雲国大原郡の神原が、加茂になるということもそのあたりかもしれない。

すべての「神」地名地がそうなるということではありません。
これには、やはり「平野が山際に深く入り込んだ土地」というのが
鍵になっているようです。

その土地に住む氏族が「鴨」という話にならないか?と暗中模索。

[622] 鴨と市、最古の王権 10 伊福部氏と鴨氏 3  神奈備 2004/03/19(Fri) 09:09 [Reply]
 加茂岩倉遺跡の銅鐸には「X」が刻印されており、これは荒神谷遺跡の銅剣にも刻まれており、物部の印し説もあるようですが、根拠がよく判らない所。それでも両遺跡には関連がある証ではあろう。
 『出雲国風土記』大原郡の条の「古老の伝えていへらく、天の下造らしし大神の御財を積み置き給ひし処なり。則ち、神財の郷と謂ふべきを、今の人、猶誤りて神原の郷といへるのみ」の御財とは、神原神社古墳から出土した景初三年銘の三角縁神獣鏡等と見る説がありましたが、神社から遠くない加茂岩倉遺跡から大量の銅鐸が出土したことで、「積み置」いた御財とはこの銅鐸のことかも知れないとされるようになりました。

 当地をなぜ加茂と言うのか、『出雲国風土記』や『和名抄』には、加茂の地名はないようです。ペギラさんによれば、カモとは「平野が山際に深く入り込んだ土地」との説があるとかで、特定の氏族につながらないのかも。それでは青草物語にはならないんですね。

 神原神社の東側に加茂神社が鎮座、風土記記載の屋代社の後裔社とか。事代主を祀る。摂社に上賀茂神社があり、味耜高彦根神を祭神としています。これらはどうも後から持ち込まれた気がしてなりません。同町には貴船神も山城から勧請されています。
 神原神社の神原は神宝の訛のような説明ですが、カモのタカラからの変化かも知れません。この神社が星と関係がありそうな磐裂・根裂神の子の磐筒男、磐筒女を祭神としているのは、埋められた神宝への祭祀を思わせる所。

 この遺跡の北側に、磐座を神体とする矢櫃神社が鎮座しており、地名の岩倉の元となったようです。南側には赤秦神社が鎮座、神体は石で、徐々に大きくなると言われ、あたかも常陸の甕星神社に居た天津甕星を彷彿とさせます。 

 矢櫃神社の鎮座地の地形、壱岐の物部布都神社の矢櫃山、全国に矢櫃と言う地名が散見されます。長方形の箱状のものをイメージできる雰囲気でしょうか。

[621] Re[584]: 鴨と市、最古の王権  1  神奈備 2004/03/18(Thu) 08:08 [Reply]
>  『論衡』巻十九 成王の時、越裳、雉を献じ、倭人鬯草を貢す。と記載されています。

『日本文化の形成(上)』宮本常一著
、『論衡』に倭人が貢じた「鬯艸」ですが、この本では鬱金(うこん)のこととしています。カレーの黄色です。薬にもなるとか。越は南方、倭も南方のイメージか。

[620] 鴨と市、最古の王権 9 伊福部氏と鴨氏 2  神奈備 2004/03/16(Tue) 10:06 [Reply]
 さて、『青銅の神の足跡』谷川健一著では、銅鐸の製造者として伊福部氏に注目しています。銅鐸造りには相当な技術が要るようで、全ての氏族が造れたわけではなさそうで、それらしい氏族に焦点を当てれば、伊福部氏は有力な一角を占めると言うことでしょう。

 銅鐸は誰によって造られたか、これも面白いテーマです。
 また、どのように分配されたのか、どのような祭祀に利用されたのか、かつ何故埋められた状態で発見されているのか、神代に近い古代の面白い所です。面白いとは正解不明の想像をたくましくできる領域と言うこと。しかし、簡単に仮説がたてられるお話でもありません。

 出雲の加茂岩倉遺跡から銅鐸39個(20組みで元は40個かも)と荒神谷遺跡からの銅剣358本、銅矛16本、銅鐸6個の出土があります。これらについても諸説紛々。

 まず、加茂岩倉遺跡の銅鐸の39個ですが、同じ鋳型で作られた組み合わせの銅鐸は、当地、鳥取、岡山、兵庫、徳島、大阪、奈良、和歌山、福井、岐阜などで出土しているそうです。一つの信仰圏をなしていると見るべきでしょう。出雲神族系の王国とか銅鐸信仰の王国を彷彿させるし、その考えを駄目とする理由はない。物流としては、王の中の王が配ったと言うよりは、安曇かもしれない商人が売り込んだのかも。

 加茂岩倉遺跡出土と他の出土地 近い神社

鳥取 出土(岩美町新井上屋敷) 美取神社(岩美町大字太田)、宇倍神社(国府町宮下) 
岡山 出土(勝央町植月念仏塚) 中山神社(津山市一宮)
兵庫 神戸市灘区桜ヶ丘町神岡 河内國魂神社(神戸市灘区国玉通) 近くに荒神山がある。
徳島 出土(麻植郡川島町神後) 伊加加志神社(川島町大字桑村) 
大阪 出土(茨木市福井)、新屋坐天照御魂神社(茨木市福井)
奈良 出土(北葛城郡上牧町) 石園坐多虫玉神社(大和高田市片塩町)
和歌山 出土(和歌山市太田)  日前國懸神宮(和歌山市秋月)、伊太祁曽神社  
福井 出土(坂井郡春江町井向) 紀倍神社「別雷尊」(春江町木部)
岐阜 不明

[619] 鴨と市、最古の王権 8 伊福部と鴨  神奈備 2004/03/14(Sun) 09:11 [Reply]
ZOUさん おはようございます。

> 樹木医さん
東成区大今里の八剱神社跡の大楠の状態がよくないとのメッセージがあるHPに記載されたとたんに、多くの樹木医さんから申し入れがあったようです。切ると祟りますが、直すと良いことがあるのでしょうね。

石切神社には教えが伝わっているそうで、それが故に「伝法」と言われたのか、現在、出来物になったとか。(『石切さん』木積一仁宮司著)


伊福部と鴨 

 出雲国の出雲郡と神門郡に伊福部氏が居住していました。『青銅の神の足跡』(谷川健一著)によりますと、この伊福部氏は出雲の斐伊川流域で製鉄の仕事に従事していました。伊福部氏が斎き祀る意布伎神社は阿須伎神社の西4kmと言う近くに鎮座しているように、鴨氏との近い関係が認められます。
 伊福部氏は『古代の製鉄と神々』(真弓常忠著)では、その系図は、遠祖を大己貴命とし、途中に天御鉾命などを経由して、櫛玉饒速日命に至ります。また尾張氏と同祖とし、天火明命の裔を名乗ります。各地で金属精錬に従事した関係上、それらに関連する神々をおしなべて奉戴したようだ。
 
 丹後の宮津の海部氏系図で有名な籠神社に伝わる由緒では、主神の彦火明命はまたの名を天火明命、天照御魂神、天照国照彦火明命、饒速日命、また極秘伝によれば山城の賀茂別雷神とも異名同神としています。賀茂別雷神の御祖の大神も併せ祀られているとも伝えられるそうです。山城の賀茂神は本来なら迦毛の大御神である味耜高彦根神のはずであり、伊福部氏や尾張氏は底流では鴨氏の系統と言えるのかも知れません。

 因幡の一宮の宇部神社の宇部は伊福部からの転であり、美濃不破(伊富岐神社)、大和葛城と同日同時にあらわれたとの古典があると『青銅の神の足跡』は記しています。大和葛城とは御所市五百家(山に金糞があるとか)の東の大穴持神社付近なのか、新庄町の笛吹神社付近なのか、でしょうが、鴨と伊福部の深い関わりが認められる。伊福部の斎祀る神社で葉栗郡木曽川町に伊富利部神社が鎮座、イフリベであり、イブリ、オハリとなり尾張と伊福とは同じにゃーもんね。

[618] 小夫天神社の・・・  ZOU [Mail] 2004/03/14(Sun) 00:36 [Reply]
桜井市小夫にある、倭笠邑の伝承を持つ天神社にて。
http://www.kamnavi.net/as/yamanobe/obutenjin.htm
境内のケヤキにまで注意されているのは、さすが神奈備さんですね。

今朝の新聞によりますと、朽ちかけていたケヤキの神木に対し、
予定治療費210万円の所それを上回る220万円の寄付が集まったので、
樹木医さんによる治療が始まるとのことです。

ちょっと良い話ですよね(^-^)

[617] 鴨と市、最古の王権 7 天甕星神3  神奈備 2004/03/12(Fri) 12:20 [Reply]
尾張大国霊神社は天甕星神の後裔が祭った。序

 『尾張国風土記』吾縵の郷 もう一つ。
 尾張国丹羽郡に阿豆良神社が鎮座、天甕津媛命を祭神としています。
 由緒書き
 尾張大国霊神社と同時代(垂仁朝)の創建。建岡の君は美濃国花鹿山(揖斐郡花長神社現存)に登って山中の榊の枝で縵(古代頭髪に押すもので「カンザシ」に当る)を作つて、天神に祈って「此の縵の落ちた所が神を祭る所である。」と申されて縵を遠く投げられました。縵は遠く南方に飛んで此の地に落ちました。
 素盞嗚尊かも知れない、味耜高彦根神かも知れない本牟智和気の御子。
 本牟智和気の御子(品津別の皇子)は尾張の木で造った船で遊んだり、鵠(たづ)を見て「あぎ」と言ったので、人に鵠を追わし、鵠は三野から尾張へと飛んで来ています。この「あぎ」と言う言葉は何でしょうか。「あぢすき」と言ったのを聞き違えたのでは。

 この皇子は、出雲では「檳榔(あぢまさ)の長穂宮」にいたとあり、ビンロウ樹の南洋を思わす宮殿名で、この皇子、火の中から誕生し、物を言わず、蛇と交わり、神話的始祖王の雰囲気を持っていますね。
 この始祖王的皇子にまつわりつく「あぢ」、これは味耜高彦根神に通じているはずで、鴨族がこの国の始祖王の役割を果たした伝承が『古事記』には混ざっていると思えます。

[616] 鴨と市、最古の王権 6 天甕星神2  神奈備 2004/03/10(Wed) 16:50 [Reply]
 『尾張国風土記』吾縵(あづら)の郷
 垂仁天皇の時、品津別の皇子が物を言わず、どうしていいかと悩んでいました。その時、皇后の夢に神があらわれ「私は多具の国の神、名を阿麻乃弥加都比女(あまのみかつひめ)です。私を祭る人を宛てがって祭ってくれるならば、皇子はよく物を言い、寿命も長くなるだろう。」と言いました。
 多久神社については『出雲国風土記』楯縫郡神名樋山の条。
 阿遅須枳高日子命の后の天御梶日女が、多久の村までおいでになり、多伎都比古命を産み給うた。
 出雲の多久神社 http://www.genbu.net/data/izumo/taku_title.htm

 ここでは天御梶日女の表記。
 
この女神は美濃の国の花鹿の山の花長上神社の祭神として鎮座しています。
 美濃の花長上神社 http://cscns.csc.gifu.gifu.jp/pushcorn-kit/tanigumi/paged/0300214020002307.html

 美濃や尾張にこの神々が出現しているのは、出雲から葛城(高尾張邑)経由の尾張族が絡んでいるのかも知れません。(後に)

 品津別の皇子は『古事記』では自ら出雲の大神を拝礼して物を言うようになります。この物語には三種の鳥が登場、鳥取部や鳥甘が定められます。

 さて、阿麻乃弥加都比女は出雲国秋鹿郡鎮座の伊努神社の祭神の天甕津姫命のことです。同じ郷鎮座の芦高神社には赤衾伊野意保須美比古佐和氣能命を主祭神として天甕津姫命が配されています。

伊努神社 http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/izumokamiakahusuma.html
伊努神社 http://www.genbu.net/data/izumo/inu_title.htm

 また、大きくなるまで物を言うことができなかったとの説話は品津別の皇子、味耜高彦根神、素盞嗚尊などがありまあす。金属精錬の廃液の影響との説があるようです。

 『出雲国風土記』秋鹿郡伊農郷
 出雲の国の伊農の郷においでになる赤衾伊農意保須美比古命の后、天ミカ津日女命が国を巡ってお歩きになられた時、云々。

 楯縫郡、秋鹿郡の二例から、離婚再婚をしていないものと仮定しますと、阿遅須枳高日子命と赤衾伊農意保須美比古命とは后を同じくしている、則ち同一神と見られていた伝承があったことになります。しかし、今関心があるのはそう言うお話ではなく、阿遅須枳高日子命の后が天御梶日女であると言うこと。天御梶日女は天甕津姫命であり、天津甕星神の配偶神と見なしうると言うことです。
 即ち、迦毛の大御神である味耜高彦根神は悪神の天津甕星と見なされていたことを示唆しているようです。(..;)

 阿遅須枳高日子命と目される赤衾伊農意保須美比古命は国引きの神である八束水臣津野神の御子神とされています。この八束水臣津野神こそは出雲の大祖神であり、所造天下の大穴持神以前の神であることが重要。
 則ち、阿遅須枳高日子命は出雲出自の神であり、大穴持神、事代主神とは出自が違うのだ。

[615] Re[612][589][588][585]: 神奈備>Re:[4913] 鴨と市、最古の王権  2  かたばみ [Mail] [Url] 2004/03/09(Tue) 10:20 [Reply]
追伸
播磨国風土記をめくってみましたが・・
「播磨国風土記では神代であるような書き方」というのは天日矛が出雲の神様であるアシハラノシコヲと争う部分のことか。

それなら、私の解釈はまるっきり逆です。
出雲神族のほうが崇神垂仁時代に瀬戸内に存在していたことを示す記述だ、です。


[614] カントリ  大三元 2004/03/09(Tue) 08:56 [Reply]
語構成としては
カント: 天
リ  : 高い
ですので、むしろ高天原 かも。


[613] Re[611][609][608]: 地方の神?  恋川亭 2004/03/09(Tue) 00:51 [Reply]
> > ・アイヌ「天界の長たるカントリー神が・・・」

へ?田舎の神・・・いやいや、クニの神。<(__)> あ、座蒲団が〜。

[612] Re[589][588][585]: 神奈備>Re:[4913] 鴨と市、最古の王権  2  かたばみ [Mail] [Url] 2004/03/08(Mon) 21:13 [Reply]
だいぶ前の玄松子さんへのコメントです。

≫天日矛も、「天空の日神」という解釈が可能なのでは。
≫日本書紀では垂仁朝ですが、古事記では応神より昔、播磨国風土記では神代であるような書き方をされていますしね。

垂仁朝の渡来者を神と見なすことはありえないだろうなあ。
所持品を提出させてもいるし、書紀編纂者の感覚は亡命者だと思います。

ただし、500年が経過してその子孫だと考える人々にとっては神に等しい扱いにもなると思います。
(そのほとんどは祖先の美化だと思う)
その意識からなら天空の日神といったイメージが生まれるかもしれない。

それらの(地域的な)伝承を取り込んでいるのが播磨国風土記じゃないでしょうか。
また、書紀が取り込んだものが小刀消滅の部分だろうと思っています。


[611] Re[609][608]: 鴨と市、最古の王権 5 天甕星神  神奈備 2004/03/08(Mon) 21:06 [Reply]
> ・アイヌ「天界の長たるカントリ神が・・・」(知里真志保2巻P328)

天界の長たるカントリ神とはアマミンチュウだった、てなこと。
猿田彦が待ち受けていたのも星居の天かも知れません。金精神だから。
鞍馬寺のサナート・クマラですが、マラとか天狗とか、猿田彦関連ですね。

[610] Re[607][603][597][590]: あまみ*  大三元 2004/03/08(Mon) 10:39 [Reply]
恋川亭さん

> > モチロンッ!(^^)/ いつもサイト・掲示板ともに拝見しています。御著書も2冊とも購入の上、拝読致しました。発売開始日に!そして、だからこその
> > 本州の伝統的神事にも「庭」というのは関係があったような???
> というセリフです。

ははっ、有り難うございます。

> 他に審庭や、石上の布留の高庭とか白庭も意識してます。

そうですね。これらの「庭」を「みや」と読む、としてみてもどうも発展がなかったので放ってあります。

>  私は、「オシテル」の「オス」についても・・・。伊波普猷先生の、『浦添の「うらおそい」をが“浦襲い”つまり“浦々を支配する(治める)地”という意味』説と、仲松弥秀先生の『真床襲衾にあるように“襲う”は膝元や懐の幼児に着物をかけてやることから派生した愛護する意味』説のの両方に共感して、オシテルの「オス」にも繋がるかもしれないと思っています。つまり神々が治め・愛護し照らしている・・・というような。

一応「お」と「を」の区別を尊重しようとしておりますので、食す(をす)と襲ふ・圧ふ(おそふ)とは別語と考えております。和語の「をす」と琉球の「おそふ」が何か共通の源に遡るのか、、、未研究です。

> >  イケテます、イケテます!

力強いお言葉・・・青草ジュース100杯頂いたような、ん?

>  さらに「照る」は、アマにも劣らない重要なタームだと考えています。関西に居ると出会う機会が少ないのですが、鹿児島県や沖縄県では地名などにもよく出くわす語なのです。

はい。照る、照らす、と、垂らす、たらし が近そうですが、説得力が今一つ補強しきれないんです。。。耳垂 なんかが原形なのか、とか。

退去勧告にかかわらず・・・すこしは青草サイドへ改善できたか?

[609] Re[608]: 鴨と市、最古の王権 5 天甕星神  大三元 2004/03/08(Mon) 10:29 [Reply]
> あまみ*についてはここの青草話では申しわけない。本殿でどうぞ。

おお、退去勧告・・・(^o^)

天甕星神関連事項:

・アイヌ「天界の長たるカントリ神が・・・」(知里真志保2巻P328)
・高天原と葦原中国の間に もう一つの天 がある(ニニギが生まれた所、天孫降臨の段第二の一書)
・アイヌの世界観は多層構造(5〜6層)その一つに「星の天」もある
・天甕星神が居たのもこのような高天原と中国の間の世界かも?
・こちらの兄の妹が敵に通じ、敵の妹がこちらにつうずる、というのはユーカラの典型的なモチーフ。神武東征などあちこちに散見される兄弟の離反との共通に目を惹かれる。

[608] 鴨と市、最古の王権 5 天甕星神  神奈備 2004/03/08(Mon) 08:26 [Reply]
あまみ*についてはここの青草話では申しわけない。本殿でどうぞ。
ここはまた「鴨と市、最古の王権」の青草を、酒の入った甕を干しながら・・。

天甕星神

 『日本書紀』巻二神代下第九段一書第二
 一書曰。天神遣經津主神。武甕槌神使平定葦原中國。時二神曰。天有惡神。名曰天津甕星。亦名天香香背男。請先誅此神。然後下撥葦原中國。是時齋主神號齋之大人。此神今在乎東國楫取之地也。

だいたいの意味
 蘆原中国を平定しました二神が「まだ天に悪い神がいます。名前は天津甕星、または天香香背男です。この神を取り除いてから天降りますように。」と言いました。甕星を征する斎主(いわい)を斎の大人(いわいのうし)と言い、東国の香取においでになります。

 天津甕星は天に居る神であり、葦原中国に居た訳ではなさそう。と言うことは天津神であり、しかし高木神と天照大神の連合には反対の立場を象徴していそうです。天神ながら地祇に変神。よく似た立場に素盞嗚尊が当てはまる。また天若日子の生まれ変わりと形容されもする味耜高彦根もそう言えるのかも知れません。

 『日本書紀』では、味耜高彦根神が登場したシーンの次に出雲の国譲りとなります。一書では天津甕星退治があって国譲りとなるのです。味耜高彦根神の一瞬の登場と天津甕星の登場と滅亡、微妙な位置づけが気にかかる所。
 また逆らう味耜高彦根神と従う事代主神、兄弟が二手に分かれる神武東征譚の関連が読みとれそうです。

[607] Re[603][597][590]: あまみ*  恋川亭 2004/03/07(Sun) 23:50 [Reply]
> おしてる難波、でここらのことも考えておりますが、御覧頂いてましたか?

モチロンッ!(^^)/ いつもサイト・掲示板ともに拝見しています。御著書も2冊とも購入の上、拝読致しました。発売開始日に!そして、だからこその
> 本州の伝統的神事にも「庭」というのは関係があったような???
というセリフです。他に審庭や、石上の布留の高庭とか白庭も意識してます。
 私は、「オシテル」の「オス」についても・・・。伊波普猷先生の、『浦添の「うらおそい」をが“浦襲い”つまり“浦々を支配する(治める)地”という意味』説と、仲松弥秀先生の『真床襲衾にあるように“襲う”は膝元や懐の幼児に着物をかけてやることから派生した愛護する意味』説のの両方に共感して、オシテルの「オス」にも繋がるかもしれないと思っています。つまり神々が治め・愛護し照らしている・・・というような。

> 結構、イケル ぱらだいむ じゃぁなかろか、と思ってます。

 イケテます、イケテます!今まで「アマミ」などを避け過ぎてきたような印象をもつくらいですから。意図的・恣意的に抹消したい方々は多いのでしょうネ、ライトにもレフトにも。
 さらに「照る」は、アマにも劣らない重要なタームだと考えています。関西に居ると出会う機会が少ないのですが、鹿児島県や沖縄県では地名などにもよく出くわす語なのです。
 ノロ(沖縄王国時代、神祭について王国全土を管掌していた祭祀官僚)の特定の神名に「照日テルヒ」とか「照雲テルクモ」などがあります。天照、国照、下照、高照・・・などを研究する際、参照してみるべき神名かもしれません。(サンテルじゃなくて・笑)
 天照大御神(アマテラスオオミカミ)の御神名の中に、すでに「アマ・ミ」も「テル」もちゃんと含まれているのですものね〜。伊波普猷先生の「あまみや考」、読んでコピーしていたのですが、今は埋没中。素人の横好きです〜 (^^ゞ

 某島で、アマミとかアマミキヨについて古老に尋ねたときは、「それはねー、大昔の神様の名前でねー。沖縄の島々に初めて入って島立て世立てをした、という神話らしいの。」ということでした。理屈よりも拝むことが肝要・・・みたい、当然ですね。アマミヤ拝所やアマミヤの腰掛石とか観てきましたが、今のアマミヤ(つまり神役)はどなたかとは聞きませんでした。私は調査に来た学者でもないし、それに何より皆さんが高齢になられて後継者が少ない現状では、よほどの厚顔無知でなければ聞きづらいことでした。毎月の祭祀はできる範囲内で極力続けているそうです。少なくとも島外者は邪魔をしない配慮が一番大切ですね。

[606] Re[604]: ♪ローアンドロー  恋川亭 2004/03/07(Sun) 21:07 [Reply]
> ところが今度は、この「櫂座(かいざ)の傾き」が何なのか?

ローロックのことですよね?
櫂座(かいざ)・・・たしか「とうざ」とも言っていたような。カッター程度は漕いだことがあります、高校の研修で。普通校だけど港町の伝統校でしたから(何の役に立つねん?笑)。
櫂、ローを舷側に突っ込んである孔のところのことではなかったのかな〜??

古代の製鉄の件について、ペギラさんの掲示板にいつか投稿としようと思いながら、青草過ぎることなので躊躇していたのですが・・・、ま、機会ですから今こちらに。m(__)m
青銅や鉄の需要のことですが、私はこの櫂座にあったのではないか・・・と、とても勝手に想像しています。しかし、錆びやすいですよねー!ちょっと問題。しかし、木材のままでは、櫂も舷側(櫂座)の長持ちしませんでしょうね。
古代における鉄の需要を、剣や鏃・鎧と想定している方々が多いのですが、それは違うのではないでしょうか!!!←(ホントは大文字ボールドで書きたい)
武器・武具に鉄を使用したでしょうが、より多かった使いみちは、建築用の大工工具とか、船の櫂座のような激しい磨耗箇所だったのではないかな〜???
それはですね、鉄の発祥地、古代トルコのヒッタイトでの状況から、そのように妄想したのです。ヒッタイトでは鉄の製法は500年にわたって門外秘出を貫いて、製品化された物のみを中東各国からの受注生産していたそうです。その圧倒的トップの製品とは武具ではなく、車軸受けだったそうです(戦車の部品といえば武具になるのでしょうが)。
楔形文字の解読から判明したそうです。あの発掘された粘土板って、ほとんど貿易上の伝票だったそうですねー(笑)。

[605] Re[604]: 船尾と船首  神奈備 2004/03/07(Sun) 19:33 [Reply]
ペギラさん、ありがとうございます。
ご紹介のHP、画像が見あたりませんね。画像点睛を欠く。
千田稔さん『海の古代史』角川選書にも、櫂座のことまでは出ていませんでした。

[604] 船尾と船首  ペギラ [Mail] 2004/03/07(Sun) 15:54 [Reply]
[568] で神奈備さんに質問された答えが見つかった。

古〜いネタを掘り起こしてすいません。(^o^;

http://www.minamishinshu.co.jp/news2002/11.2002/1115n2.htm

この中から引用
>櫂座(かいざ)の傾きなどから舟の前後を判断していた方法が、
>正しかったことを証明した。

ところが今度は、この「櫂座(かいざ)の傾き」が何なのか?
わからないことばかり。(;;)

[603] Re[597][590]: あまみ*  大三元 2004/03/07(Sun) 09:31 [Reply]
恋川亭さん

>  実際、祭祀場所の状況は、宮(ミヤ)というより御家・御屋(ミヤ)的で、もっというと庭(ミャー)的かな(笑)。神事は御嶽や御殿の前にある「庭」で行われたりします。本州の伝統的神事にも「庭」というのは関係があったような???

おしてる難波、でここらのことも考えておりますが、御覧頂いてましたか?
http://www.dai3gen.net/ositeru.htm

[601] Re[597][590]: あまみ*  大三元 2004/03/07(Sun) 09:08 [Reply]
恋川亭さん
> >  『琉球語と和語』、言語の学問的にはそんなに違うものとされているのですか?

服部四郎著『日本語の系統』では言語年代学の手法によって、現代の東京方言と宮古方言の分岐は最近から1740年昔、と算出されています。この手法の精度、手法自体の良否には議論があるようですが、一つの目安として、弥生時代の後半あたりから分岐したものか、というイメージを持つことは許されると思いたい。

同様の手法で内地の各方言の分岐年代、分岐系統、を調べたものがありませんかねぇ。


[599] Re[598][597][590]: あまみ*  大三元 2004/03/07(Sun) 09:02 [Reply]
神奈備さん、恋川亭さん、玄松子さん
アマミ を考えるスレに発達してきましたね。
有り難うございます。

大きな捉え方としては、仮称弥生語から和語と沖縄語が発生(派生)した、という観点の提案なんですよね。(これに対して、アイヌ語は仮称縄文語(もし複数あるならその一つ)の後裔言語、と捉える。)

結構、イケル ぱらだいむ じゃぁなかろか、と思ってます。

> > 僕も「雨宮」というのが気になっています。
> 最近参拝した神社でも、山頂に雨宮として祀られているものが幾つか。
> 単純に「雨」「天」とは思えないものがあります。

恋川亭さんの御指摘にもあるように、多分、アマミヤはアマミ・ヤと理解すべきで、アマミ・ヨ(世)と同語・同義なのだろう、と思ってます。(『沖縄古語大辞典』では両方が見出し語になっていて、それでいて、同義を与えている。それで、同語の発音の揺れなのだろう、と思うわけ。)

甘美世、とでも書いてくれれば語源としても奄美世かな、と思う人も多いのでしょうが雨宮、天宮と書かれると、奄美世を語源と考えるのが、本当かいな、と眉唾っぽくなってしまう。ここは、雨宮、天宮が語源を無視した(語源が不明になった故)宛字なんだ、という捉え方なんですね。

伊波普猷全集に「あまみや考」というのが収録されているらしい。手配中なので、面白いことが見つかったらお知らせしましょう。

[598] Re[597][590]: あまみ*  玄松子 2004/03/07(Sun) 03:44 [Reply]
> 大三元さん、アマミは面白いですね。

僕も「雨宮」というのが気になっています。
最近参拝した神社でも、山頂に雨宮として祀られているものが幾つか。
単純に「雨」「天」とは思えないものがあります。

ということで、僕も、
> また何か判明しましたら、ご発表して下さいね。よろしくお願いします。

[597] Re[590]: あまみ*  恋川亭 2004/03/07(Sun) 03:01 [Reply]
大三元さん、アマミは面白いですね。
 私は門外漢の横好きで言語の知識は持っていませんが、なんか、いろいろ触れていると、アマミクもアマミコも、アマミキュ、アマミチュ、アマミヤーなどなどと、細かい範囲の方言のバリエーションのように感じていまして、アマミヤも神名段階で止まっていて、宮まで今一歩っていう印象なんですが・・・?(アマミヤ・シネリヤとかセットですもんねぇ)。
 実際、祭祀場所の状況は、宮(ミヤ)というより御家・御屋(ミヤ)的で、もっというと庭(ミャー)的かな(笑)。神事は御嶽や御殿の前にある「庭」で行われたりします。本州の伝統的神事にも「庭」というのは関係があったような???

 でも、アマミヤのポイントは、アマ・ミヤではなくて、「アマミ」だと思っています。
「アマミ」あるいは「アマ」、重要な言葉だと思います。諸外国から安易に引き寄せて歯が立つような言葉ではないでしょう。もっとこのクニの中での醸成過程を追っかけたいと考えています。島言葉、島唄をはじめ、島ナントカ・・・ここで言う島とは沖縄本島のことではなく、『奄美大島』を指しています。沖縄諸島の文化的ルーツは奄美大島にあるようです。そしてなによりも奄美大島にはアマミク降臨の聖山が・・・。
 弥生の一時期、九州南方に居たアマミクの一団は奄美大島から沖縄諸島へ展開。そして日向に居た彦火火出見の一団は(羽振りが良さそうと噂されていた?)饒速日のいるというヤマトを目指して船出。どちらも戻ることのできない決死の覚悟だったような出帆でしょうか。当時の九州に何があったのか・・・
これは容易に嵐を呼びそうなので取り上げないことにしましょう。(^^;

> 琉球語と和語がもっと近かった頃(琉球語と和語が仮称弥生語から派生して、例えば数百年程度経った頃)、両者の共通性が今よりも高かった頃(弥生末期、古墳時代、奈良朝前)にアマミク信仰みたいなものが本土と琉球に共通していた、という作業仮設はどうだろう。
> 天御中主は和語側に残る残照の一つか。

 『琉球語と和語』、言語の学問的にはそんなに違うものとされているのですか?もっとも沖縄語といのはオモロなどの資料についてのことでしょうけども。方言程度の違いにしか思えなかったので意外でした。ちょうど『東北方言と標準語』のような距離感です。否、私にとっては東北方言の方が距離感があったりして。

 また『アマミク信仰』は、呼び名や細かいディテールは変化していても骨格は共通していないものでしょうか。夫婦神が天御中主から国土を造るように言われて舟に乗って降臨するのですからね。(この舟に乗って、というところを取り出してスグ渡来人に結びつける風潮に、ボクはウマシカだと思っているのですが、口には出しません。ハイ)
 怪人奇人の王が始祖だったり、熊が人間になったり、卵から生まれたり、などなどの神話とは全く異なるように思うのです。

 感傷的に過ぎるかもしれませんが、沖縄に行ってみて驚いたのは、本州・九州以上に濃厚なニホン的・ヤマト的な印象でした。こう書くと、ヤマト側にもオキナワ側にも嫌う人は出てくるでしょうがネー。あくまでも私の個人的で限定的な印象です。
 しかし本州には、沖縄を中国文化的な範疇に捉える人がいたりして、これまた独断的すぎるナ〜と驚きましたが、実際には全く違います、『じぇんじぇん』です。
 また『沖縄の人はあまり「琉球」とは言わない、あれは中国からの呼び名だから。やはり地元の沖縄はオキナワですヨ。』という話しもよく聞きました。
 食事も典型的な日本の田舎料理、一般には薄味ですが『昆布の出汁』がよく利いていて、とても美味しい。(送った三輪素麺山本の「白龍」が喜ばれること!沖縄の口に合うようです。)
 ソーキやラフテーでさえ脂っこくなく、あっさり風味です。本土のとんこつラーメンなんて1回食べたら3年くらい遠慮するのですが、沖縄そばは今でも週に1度くらい食べたくなります。あ・・・食べ物の話しに落ちてしまった。m(__)m

 いずれにせよ、『アマミ』という日本語をずっと注目していますので、また何か判明しましたら、ご発表して下さいね。よろしくお願いします。

[596] Re[595][594]: 鴨と市、最古の王権  4金星降臨の伝承  神奈備 2004/03/06(Sat) 23:32 [Reply]
> 宝亀元年
どうやら770年、奈良時代後期。

>  鞍馬弘教初代管長:故・信楽香雲師 著作
>  「鞍馬山歳時記」(鞍馬山双書1970年)あたりかな〜???(未見です)

ありがとうございます。
鴨に関係している筈、甕星へ突進中です。

[595] Re[594]: 金星降臨の伝承  恋川亭 2004/03/06(Sat) 22:44 [Reply]
さすが、青草らしくなってきましたネ。結構、好きだったりしてます。
> 魔王尊「サナト・クラマ」
ボクも出典・原典が気になっていたことのひとつです。シャンバラの香りが漂っているように思うのですが・・・宝亀元年、鑑鵜上人が鞍馬山にて、毘沙門天の姿をとって降臨されたサナート・クマラに導かれたとかいう伝説ですね。

 鞍馬弘教初代管長:故・信楽香雲師 著作
 「鞍馬山歳時記」(鞍馬山双書1970年)あたりかな〜???(未見です)

『RIRC 宗教教団情報データベース 鞍馬寺』より
http://www.rirc.or.jp/data/output.cgi?id=99031802

 マダム・ブラバッツキーとかニコライ・レーリッヒなんかの神智学系オカルトの匂いがするのですが。。。シャンバラやアガルタなど、中央アジアの地底王国伝説につながるのでしょう。プレスター・ジョンの伝説なんてのもありましたネ。古代ヨーロッパ人が抱いた東方への憬れの残骸かも。ゴダイゴの名曲「ガンダーラ」をリクエスト!

 先日の新聞に、恐竜絶滅は巨大隕石衝突からだいぶ経た後だったことが検証された、という記事がありました。少なくとも6500万年前ですので、もうヒト桁プリーズでまんねん。

[594] 鴨と市、最古の王権  四 金星降臨の伝承  神奈備 2004/03/06(Sat) 21:35 [Reply]
 とんでも伝説が山城国愛宕郡加茂郷の鞍馬寺に伝わっています。
 650万年前に魔王尊「サナト・クラマ」が人類の進化を図るために降臨した所がこの鞍馬寺と言うのです。一体この650万年とは何だろう。弥勒菩薩はもっと先の話。
 「人類の進化を図るために」鞍馬へクマラさんがやって来たのですが、ちょうど現在有力な学説では、人類と現生の類人猿が共通の祖先からわかれたのは、およそ650万年から550万年ほど前のことのようで、ドンピシャリの伝承。誰が伝承したん。
 琵琶湖の誕生は約400万年前であり、650万年前には日本列島は存在していたのかも知れません。
 また、恐竜は650万年前に絶滅していますが、隕石衝突か大火山の爆発による寒冷化が原因かも知れないと言われています。

 650万年前の伝承そのものは何時から語られたのでしょうか。まさか650万年前! それとも霊能坊主が天啓を聞いたとかでしょうが、それが平安時代なのか江戸時代なのか、現地へ行かないとどうも判りません。『神社寺院大事典山城』の鞍馬寺には一切記載がありません。鞍馬の青草のようですね。

[593] Re[592]: 世の中は不思議  神奈備 2004/03/06(Sat) 20:36 [Reply]

> 神奈備掲示板や伊太祁曽神社掲示板に投稿している林 幸三さん。
和歌山の「語り部」の一人だと思います。宣伝が過ぎるようです。
よそへの投稿と同じ物の投稿は禁止とメールしました。

> 最近、神奈備掲示板に来ている児島さんは、
> ひょっとすると、漢文に強い国の方なのではないだろうか。
面白い所もあるようですが、何ともはや・・・
伊太祁曽神社の前の宮司さんは、鳥居をくぐってくる人間全ては善人なのだと言ってましたが、善人の中にも変人も心根の悪いのもいると言うことか。

[592] 世の中は不思議  玄松子 2004/03/06(Sat) 18:57 [Reply]
そろそろ暖かくなってきました。

神奈備掲示板や伊太祁曽神社掲示板に投稿している林 幸三さん。
GooGle で検索すると、ムチャクチャ多くの掲示板に
同じような文面で投稿している投稿マニアのようですが。
中には、中学校の掲示板に連続投稿しているのもあるようで、
意味がわからん。

最近、神奈備掲示板に来ている児島さんは、
ひょっとすると、漢文に強い国の方なのではないだろうか。
日本語の文章には慣れていないのではないかとも
思われますが、どうでしょう。

[591] 鴨と市、最古の王権  3  神奈備 2004/03/05(Fri) 20:42 [Reply]
大三元さん ありがとうございます。
国土の創造神でしたか。以下全く別の話。

 平安時代の『日本書紀私記』に日本書紀の講義のなかで、「この国が姫氏とよばれるのはどうしてか?」と言う問いに対して、講師が「始祖の天照大神が女神、神功皇后が女帝だったから」との問答が記録されているそうです。『日本の古代』
 周や呉の姓は「姫」氏です。呉の太伯はこの家の出であり姫氏と思われていたのです。「倭人」を太伯の裔とする説は、『魏志倭人伝』より早く成立し魏志の母体とされる『魏略』の逸文や『梁書』に見られるとか。
 例えば、『後漢書倭伝』(五世紀成立)には、「建武中元二年、倭の奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す」。また『梁書諸夷伝』(七世紀成立)には、「倭者は自ら太伯の後と云う。俗、皆文身す。」とあります。後の時代の成立の書は詳しいのですが、勝手な想像が入ったりしており、やはり近い時代、できれば同時代の資料が一番。

 所で、角川古語辞典によれば、「太白星」とは金星のことです。先の『史記』の物語は、太陽王が世継ぎとなって、明けの明星などは世継ぎにならないとの説話ともとれます。それゆえの太伯のネーミングかも。
 「『天文要録』に「太白昴星を犯せば四夷起こると言へり」」と『平家物語』にあるそうだ。太伯は乱を呼ぶ星。昴星はスバルで金星との遭遇の可能性はあるようですよ。
 で、このように金星にまつわる占いや諺には、権力者にとって面白くないものが多い。

 倭人が太伯の後裔と名乗ったのは、入れ墨などの風習は卑しいのもではないとの顕示であったのでしょうが、同時にお隣の傲慢なる国への対抗心などが金星を崇拝する方向へ導いたのかも知れません。

[590] あまみ*  大三元 2004/03/05(Fri) 08:59 [Reply]
> アマミとつく神社名に雨宮神社とか天御酒神社。桜は早いとか、ぼちぼち花見酒の季節ですね。

これら(雨宮神社とか天御酒神社)も、他の多くの事例も、もとからあった音に漢字を宛てたもの。さて、その際、どんな漢字を宛てるか。
漢字を宛てた人の語源解釈(俗解と言われようとも)が影響していることもあるだろうし、単に宛字しただけの場合もあるだろう。
特に「単に宛字した」ものの場合、後世の我々が漢字の「意味」に引っ張られるのはよろしくない。
どうやったら「単なる宛字」なのか「往時の語源解釈」なのか判定できるか。個々のケース毎に一つの論文になるような考察が要るような気がする。

いずれにしても、漢字の字義に惑わされず、音に戻る必要はないか。 
意味の可能性が広がる分恣意性も高くなりそうだなぁ。。。

雨宮は アマミヤ(アマミク神の居る遠い所)、天御酒は アマミキ、アマミチュ(創造神のアマミク神)あたりへの宛字と理解すること「も」できる。

琉球語と和語がもっと近かった頃(琉球語と和語が仮称弥生語から派生して、例えば数百年程度経った頃)、両者の共通性が今よりも高かった頃(弥生末期、古墳時代、奈良朝前)にアマミク信仰みたいなものが本土と琉球に共通していた、という作業仮設はどうだろう。
天御中主は和語側に残る残照の一つか。

[589] Re[588][585]: 神奈備>Re:[4913] 鴨と市、最古の王権  2  玄松子 2004/03/05(Fri) 07:21 [Reply]
> 神代と人の時代では別に考えておくのがよさそうです。
> 天神、天界、空(海)、星といった意味の天の用法は神代での神々の呼称。
> 神々と人々をどう分けたか、記紀編纂者の考え方の問題になってむずかしそうですけど。

天日矛も、「天空の日神」という解釈が可能なのでは。
日本書紀では垂仁朝ですが、古事記では応神より昔、播磨国風土記では神代であるような書き方をされていますしね。

[588] Re[585]: 神奈備>Re:[4913] 鴨と市、最古の王権  2  かたばみ [Mail] [Url] 2004/03/04(Thu) 19:28 [Reply]
≫悪神とされた天津甕星−金星らしい−も、天孫族?

神代と人の時代では別に考えておくのがよさそうです。
天神、天界、空(海)、星といった意味の天の用法は神代での神々の呼称。
神々と人々をどう分けたか、記紀編纂者の考え方の問題になってむずかしそうですけど。

出雲にも天神は少なからず、その多くは神魂尊です。
記紀では神代で出雲が国譲りして人の世では存在していないとする。
ところが実際には天孫をしのぐ勢力で存在しており、それを消そうとしているのが記紀の記述。
神々の扱いだけでも矛盾がでてきそうです。

人の時代でそれを分けようとしているのが人名での天だと思います。
出雲と天孫という2大勢力にわけた場合の天孫系に天を用いるわけです。
現実には狭い日本みな兄弟(^^; なんだけど。

記紀編纂時代の意識として勝者は天孫、その流れを意識しての天の用法です。
皇孫には天はほとんどない、当たり前だからでしょう(ほんとうにそうか??(^^;)。
天とか倭根子の尊称が天武持統以降で登場するのが面白い。
なんらかの理由でそれを強調したい意識があったからだろうと思っています。


天火明は阿蘇の火か、漁り火のイメージじゃないかと思ってます。
天津甕星の天は空の意だろうな。こちらは神々の世界。
甕ミカ(瓶)を境界線の呪器とすることがあったらしい(字訓/白川静)。
すると天津甕星は天空の境界線のシンボルかもしれない。

天津甕星とおなじかどうかはわからないけれど、天背男命は旧事本紀では天神のひとりで、尾張中嶋海部の祖。
航海では星が命。もとは大海原を航海した人々であったことの名残だと思います。
目印、方位から天空の境界線という意味も生じそうです。


[587] Re[586][585]: 神奈備>Re:[4913] 鴨と市、最古の王権  2  神奈備 2004/03/04(Thu) 08:27 [Reply]
> 「あま」に関しては琉球の創造神「あまみんちゅ」との関連に注目しています。

ありがとうございます。
奄美大島は水には不自由していないのかな。

アマミのミを耳と思うと、雨の王(雨の神)とか海人の王(海の神)のような意味があるのかもしれませんね。
アマミとつく神社名に雨宮神社とか天御酒神社。桜は早いとか、ぼちぼち花見酒の季節ですね。

[586] Re[585]: 神奈備>Re:[4913] 鴨と市、最古の王権  2  大三元 [Url] 2004/03/03(Wed) 16:56 [Reply]
「あま」に関しては琉球の創造神「あまみんちゅ」との関連に注目しています。

http://www.dai3gen.net/amami.htm
http://www.dai3gen.net/amami2.htm
に関連情報を上げております。

[585] 神奈備>Re:[4913] 鴨と市、最古の王権  2  神奈備 2004/03/02(Tue) 20:52 [Reply]
> 書紀編纂者がつけた呼称でしょうけれど天を冠するのは天孫と血縁関係が明確な場合とみています。

青草の与太話です。
 悪神とされた天津甕星−金星らしい−も、天孫族?
 また、天火明命とは星明かりの命。
 
 この天津甕星は常陸の国で退治されました。
 そうです。明けの明星は太陽が登ると(日が立つと)消えてしまうのです。

[584] 鴨と市、最古の王権  1  神奈備 2004/03/01(Mon) 21:48 [Reply]
 後漢の退職役人の王充は1世紀の人で、『論衡』と言う史書を残しています。
 『論衡』巻八  周の時、天下太平、越裳白雉を献じ、倭人鬯艸を貢す。
 『論衡』巻十九 成王の時、越裳、雉を献じ、倭人鬯草を貢す。と記載されています。
 周の成王は紀元前1002年に没しています。だからこれは千年後に記述された倭人の話であり、さて列島の住民だったのか、大陸の江南辺りの土人だったのか、定かではありません。この献上品の「鬯草」とは何かcですが、「HP:暢(鬯)草とは昆布である」で十川昌久氏が昆布との指摘をされておられます。
http://members.jcom.home.ne.jp/4313532601/page006.html
 昆布ならば、倭人とは、列島の人間をさす可能性がより高い。しかし、この時代、この倭人が国を作っていたのかどうか、いたのなら大陸の史書にその片鱗があっても不思議ではないが、どうなんだろう。出ていないようだ。

 呉の太伯の有名な物語がある。
 『史記 卷三十一 呉太伯世家 第一』
 呉の太伯と弟の仲雍は周の大王の王子で、王の季歴の兄。大王は季歴を立てて次の王にしたい気持ちを持っていました。従って、太伯と仲雍の兄二人は荊蠻に行き、文身斷髮を行い、二度と戻ることのないことを明らかにしたのです。季歴が立ち、文王となる。太伯は荊蠻に行き、自ら句呉と名乗ったと言う。荊蠻はこれを義とし、従属する家は千餘家。立てて呉の太伯となった。紀元前11世紀。
 仁徳前期のお話はこれをヒントにしたのかも。


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